Portfolio 2

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生 成

RI SAKOOKUI ZUMI


奥泉 理佐子 1994. 02. 27 東京都国立市に生まれる 2012. 04 武蔵野美術大学造形学部建築学科入学 現在 同大学菊地宏スタジオ所属


ⅰ. 満ち引くことによる ⅱ. 歴史二部作 傍白 記されなかった時間についての物語 ⅲ. ワークショップ HI SANOHAMACOLLECTI ON ⅳ. Rubbe rSt a mp 猫-椅子 猫-建築 ⅴ. z oe t r ope



満 ち 引 く こ と に よ る


146c m 私の目線の高さである。 この数字は、私がどんな空間にいようと変化することはない。 ある年の真冬と真夏の、遠く離れたウィーンとインドの旅行写真を見比べて 時間や場所が変われども、あまりに一定であるこの距離にかなしみを覚えた。 私はどんなときも重力から離れることができず、建築もまた同じものに縛られている。 地球の上にいる限り、建築と私の距離はいつも同じである。

Mi l l owne r s ʼ As s oc i a t i onBui l di ng/LeCor bus i e r 2014, 08, 08 Ahme da ba d,I ndi a


浮遊することは、いつだって人類の夢である。 そして不可能であるからこそ、その夢は今も夢であり続けている。 重力には敵わないと知りながら、それでも浮遊感を求めてしまう人間は 擬似的な浮遊の錯覚を楽しみ、少しでも重力に抗うべく 空を飛ぶ装置や、高くアクロバティックな建築の構造をも作り出してきた。 それでも、今になっても、建築と人は空を飛ばない。決して飛べない。 だからこそ、浮遊感と密接な建築を考えることに、興味がある。

Hunde r t wa s s e r ha us/ Fr i e de ns r e i c hHunde r t wa s s e r 2014, 02, 26 Vi e nna , Aus t r i a


理論上は

現実の穴

掘ること=浮遊感

上下対称=視覚的浮遊感

掘ること≠浮遊感

上下対称≠浮遊感

地球を中心に向かって掘っていくと、

ただ、実際に穴を掘ってみたところで

Hugos ui s s a s の写真から感じる浮遊感は

穴の底の重力は、地表面よりも軽くなるという。

浮遊にはとても結びつかない。

あくまで視覚上の効果であり、 実際に浮遊しているわけではない。


掘ること+上下対称≒浮遊感?

上下対称の空間

重力と密接なもの

掘ること、と、上下対称。

飛び込み台が高いほど深く掘ることが必要な

浮遊感と重力を考えていく上で、

ふたつを組み合わせてできる空間は、

ダイビングプールというプログラムには、

水と飛込み台は格好の素材である。

より浮遊感に近づくことができるかもしれない。

上下対称の空間を作り出す必然性がある。


横須賀美術館

横須賀からフェリーで 10分程の無人島、猿島は 一度も実戦に用いられることのなかった軍事遺構で有名である。 悲劇なき遺構は楽天的で、古く独特な雰囲気のみを持つ。 そのためレジャーと相性がよく、あたかも観光の為に

猿島

作られた施設であるかのように「ラピュタみたい」と喜ばれ、

横須賀市

レジャースポットとして利用されている。

敷地

遊泳エリア

島内には、バーベキュー場や散策ルートが完備されており、

観音崎

また、数多くの立ち入り禁止区域が設けられている。 無人島とは名ばかりで、この島は人間によって管理されつくされた観光施設だ。 地図上の青で示した部分は、真夏の二ヶ月間のみの、遊泳可能エリアである。 海に囲まれ無人島と謳われながら、自由に泳ぐこともできないこの島のもどかしさと、 決して重力には敵わないと知りながら、浮遊してみたいと望み続ける矛盾を 重ね合わせて考えていこうと思い立った 重ね合わせて考えていこうと思い立った。 そのような理由で、この島の、グレーで示した部分を敷地として選んだ。



ⅰ. 穴を掘ると否応なく水が溜まる

ダイビング・プール

5M10M

子供

0. 4M

ダイビング練習

5M7M

1. 4M

ⅱ. プールの種類の配置方法で、掘る深さが決まる。

ⅲ. プールの為に掘られた空間の天井は、上下対称に掘っていく。


ⅳ. プールの配置や、高さのバリエーションを考えていく。

ⅴ. 最終的に、全体を 1/ 8スロープで整えた。


断面は完全な上下対称形となり、


飛込み台、テラス、窓、更衣室、階段など、部材も上下対称となるよう配置した。



1 0 2

4

M 10

北西立面図 1300



1 0 2

4

M 10

北西断面図 1300


EV

シャワー 女子更衣室

EV 控え室

女子更衣室

男子更衣室

受付

休憩所 男子更衣室

ロッカー シャワー 5M

7M

飛び込みプール

幼児プール

ダイビング練習プール

遊泳プール

水深510M

0. 4M

2. 55M

1. 4M

10M

テラス


遊泳プール 1. 4M

桟橋

1 0 2 船着場

4

M 10

平面図 1300


この建築がプールとして使われるのは、夏の間である。 その時期、空間は水で満たされ、上下対称には誰も気がつかない。


夏が終わると水が抜かれ、空になったプールの空間は、近くの横須賀美術館の企画展示施設として使われる。 水がなくなったときにはじめて、空間が上下対称であることが明らかになる。



夏の日、空間に満ちた水の上に浮遊していた体は 冬の日には、深い底に立つこととなる。 水がなければ高い壁の上に行くことはできないが 深く水に閉ざされていた扉は開く。


水面まで体が持ち上がると 外まで視線が抜けていく。 浮力のおかげで、重力にはあまり縛られずに 高いプール・サイドの上へも、何段も先の階段へも 思いのままに移動ができる。 ただ、水の底の扉は閉ざされたまま動かない。


5mもの壁に囲まれて床に立つ冬には、 隣の空間すらも見えなくなってしまう。 階段は一段ずつ上り、 その先がどうなっているかは夏の記憶だけが頼り。 ただ、水の中から現れた扉は、まだ見ぬ展示室への入り口となる。



水の満ちた空間と、水のない空間では 見える壁の量が大きく変わる。 この建築の壁の高さは 夏が来るたび、たった半分になる。


冬のあいだは、2800の天井高。ひろびろとした展示室であった。


夏にはあたかも高さ1400の天井のような空間となり、屋外にでるときの開放感が増す。


空間の対称軸であるプールの水面は、常に大きく動くことはないが、潮は満ち引きし、外観の対象軸である海面はゆらゆらと移り変わっていく。


この場所に建築があることではじめて、 海面と水面が一致する瞬間を観ることが できる。それは、内観と外観の対称軸が ぴたりと揃う瞬間であり、今まで上から ながめていた海面が、水平線として意識 される瞬間である。


ここで一度立ち止まって、浮遊感について考えてみた。 浮遊感、は浮遊ではない。浮遊「感」、浮遊する感覚、実際に浮いているのかどうかは どうでもいいのかもしれない。 実際に浮く、というのはおそらく重力に抗うことであろう、私たちには決して出来ないことであるが。 この建築で浮遊感を感じる部分の多くは、水によって、一歩日常から離されたところにある。 例えば高いところからの飛び込み、例えば水の底からの上昇。 地面から解放されることを、私たちは重力からの解放と勘違いする。 地面から解放されることを、私たちは重力からの解放と勘違いする 果たしてそれは、自然の摂理から本当に自由になっているのだろうか。


自然の摂理、つまり重力や水の浮力に抗うことが浮遊感の獲得であるならば、 エネルギーを使い、高い高い飛込み台へのぼっていくことや、水の底へ潜っていくことこそが 浮遊感を得る瞬間になるはずだ。 けれど実際は、飛び込み、体すべてを重力に委ねて落下している状態、 そして水の中で浮力に身を任せ、上昇している状態こそが最大の浮遊感を感じている場所であった。 浮遊感は、なにかに抗うことなどではなく、自然の摂理にとことん従順になった状態で初めて得られる。 それでも、自由だ!浮いている!と感じるその感覚は 人間の、想像力が作り出したものなのだろう。



水の抜かれる季節、おそらくプールサイドには、水の跡が残ることだろう。 浮遊感が人間の想像力によるものだとするならば、この痕跡が大きな意味を持つこととなる。


はるか頭上のプールサイドに 残るかすかな水の跡と、 揺れ動く海面が重なるとき 人はきっと、夏にそこに満ちていた 水面を思い出す。


水面と、そこで泳いだ感覚と、 水の上から観た景色が蘇ったとき 今はたどり着けない高い壁の上に 強く想いを馳せるだろう。 高い高い壁に囲まれ、 今はとどかぬはるか頭上の水を 想像するそのとき、 想像するそのとき 人の想像力のなかで 浮遊感への欲求が一気に高まり ただなすすべなく上を向く。 この建築は水のないときにこそ、最も強く浮遊を意識させるのではあるまいか。







傍 白



旧日立航空機立川工場変電所は、1938年から 1993年まで使用されていた変電所である。 1945年 2月 17日 F6Fヘルキャット戦闘機 1945年 4月 19日 P51ムスタング戦闘機 1945年 4月 24日 B29100機の編隊による空襲 など、度重なる被災を経て外部に弾痕を残しつつ、

旧日立航空機立川工場変電所跡

内部の変電施設を更新し使用され続けていた。 内部の変電施設を更新し使用され続けていた 変電所としての役目を終えた今は、 都立東大和南公園の文化財、及び市の史跡として 穏やかな公園の一角にその姿を晒している。 公園は、隣接されたスポーツ施設の利用客などで 常に賑わっていて、とても穏やかな雰囲気の場所であるが、 その風景の中に遺構が唐突に現れるのだ。 その上、この遺構の前には立て札がひとつあるのみで その上、この遺構の前には立て札がひとつあるのみで、 計画敷地

周囲への情報はあまりにも乏しい。 遺構の南東、公園敷地内に計画される建築は、 公園利用客の休憩場所であると同時に、この場所の 情報を伝えていく役割を担うものとする。

0

3

6

12

M 30

敷地図 1: 650


「知ること」は、過ちを繰り返さないようにしたり 人を傷つけたりしないために大切なことだが、どう 理解しようとしても、傍観の立場以上にはなれない ものがある。 過去の戦争、悲しい事件。他者の感情。宗教に祈り を捧げる人々のことなどは、頭では理解できても、 きちんと「知る」ということはとても難しい。 この建築は、公園のなかに遺された戦争遺構を、 どうにか「知ろうと試みる」展示施設である。


初期構想・エスキススケッチ はじめは、空間を「感情を助長するもの」として扱うことで、空間に対する当事者的体験と、戦争展示に対する傍観の意識をないまぜにしていけないだろうかと考えた。

造形や光の特徴的なシーンを断片的に考え、それを一続きの建築内部としてつなぎ合わせる。 空間のつながりは、例えば狭い空間から、不意に壁が遠く楕円形の不安定な床の空間にでる・重く下がる球状の屋根の下で写真展示を見る、など、なるべく展示物とリンクしたものとする。 そして展示全体は常日頃気軽に訪れるものではなく、知ろうと思った日・また過去を振り返ろうと思った日に、通過儀礼のようにひとつながりの場を通り抜けるものにしようと考えた。


建築の内外に関わる立場・di a gr a m

真っ白い空間から地下に 潜り、また真っ白い空間 に帰ってくる

カフェや公園の声だけが 聞こえる展示室

前に通った空間の外形を、 外側から眺める

通過した空間同士の 構成を見る


人々は、空間に与えられる感覚を受けながら展示を観ていく。

空間の当事者

不安定さ、厳かさ、迷っているのかと錯覚する困惑、など、感情を刺激されながら歩いていくことで、 ただ流し見ることのない体感的な展示を目指す。

展示と感情がリンクする最中、時折、客観的な立場に戻る場を作る。

空間の傍観者

一度通った空間の、外形やつながりが把握できる場所を儲けることで、人々を一歩冷静にさせ 結局のところ、終わったことを傍観している立場以上にはなれないことが意識される。

建築の半屋外部分はカフェスペースやベンチなどとし、公園や近隣の運動施設を利用する客が

空間外部

日常的に使う場所とする。この公園は、現在生きている人々のためのものである。 戦争展示の気配は地下に収められ、日常的に意識されるものではない。

日常の傍観者

展示内部には、声だけが届くなど、わずかに日常の場と繋がる空間を設ける。日常聞き慣れている 他人の声を客観的に聴くことで、ある人は地上に戻りたいと思い、ある人は平和に慣れすぎた日常に 危機感を抱くかもしれない。







こ れ に よ

劇 の せ り ふ の 一 種 で ︐ モ ノ ロ グ 独 白

)

て い る ︒

舞 台 上 に 複 数 の 人 数 が い る と き ︐ 内 心 の つ ぶ や き な ど を 観 客 に だ け 知 ら せ る せ り ふ で ︐

(

て 語 り 手 と 観 客 は 状 況 認 識 を 共 有 し ︐ 劇 の 進 行 を 距 離 を お い て 眺 め る こ と が で き る よ う に な る ︒

他 の 人 物 に は 聞 え な い と い う た て ま え に な

の 特 殊 な も の ︒

ぼ う ‐ は く ︹ バ ウ ‐ ︺ ︻ 傍 白 ︼


遺 構 の 声 が 聴 こ え る 瞬 間 は あ る の だ ろ う か ︒

観 客 と 役 者 ︑ と い う ふ た つ の 立 場 が ぴ た り と 揃 た と き 初 め て 聴 こ え る せ り ふ の よ う に

視 点 を す げ か え 歩 い て い く さ き に は ︑

建 築 の 内 部 で ︑ 来 訪 者 の 立 場 ・ 遺 構 と の 距 離 は い く ど も い く ど も 変 わ て い く ︒







文章展示室 公園管理室

売店 エントランス

カフェ

カフェ

映像展示室

搬入EV

物体展示室

一階

地下一階


現 在 へ の 道 の り 展 示

写真展示室2

写真展示室

地下二階

地下三階 1 0 2

4

M 10

平面図 1: 250





記されなかった世界についての物語


1954

1603

1945

1941

1603

1939

1938

1927

1924

1923

1922

1919

1918

1917

1603

1916

1603

1915

1603

1914

1912

1904

1894

1893

1889

1884

1881

1603

1879

1878

1877

1875

1873

1872

1871

1870

1603

1868

1603

1867

1866

1863

1853

1843

1832

1827

大 和 村 が 大 和 町 に な る

太 平 洋 戦 争 が 終 わ る

日 立 航 空 機 立 川 工 場 が ア メ リ カ 軍 に 爆 撃 さ れ る

太 平 洋 戦 争 が は じ ま る

南 街 の 住 宅 地 が ひ ら か れ る

東 京 瓦 斯 電 機

東 京 瓦 斯 電 機 株 式 会 社 立 川 工 場 が で き る

村 山 下 貯 水 池 が で き る

村 山 上 貯 水 池 が で き る

蓮 花 寺 ︑ 三 光 院 が 現 在 地 へ 移 転 す る

慶 性 院 が 現 在 地 へ 移 転 す る

組 合 村 の 六 カ 村 が 合 併 し て 大 和 村 と な る

第 一 次 世 界 大 戦 が 終 わ る

村 山 上 貯 水 池 の 建 設 工 事 が は じ ま る

氷 川 神 社 が 清 水 に 移 転 し 清 水 神 社 と な る

村 山 下 貯 水 池 の 建 設 工 事 が は じ ま る

買 収 反 対 運 動 が お こ る

貯 水 池 敷 地 内 の 住 民 の 移 転 が は じ ま る

第 一 次 世 界 大 戦 は じ ま る

貯 水 池 用 地 の 買 収 は じ ま る

狭 山 丘 陵 に 貯 水 池 を 建 設 す る こ と が 決 定 さ れ る

日 露 戦 争 が は じ ま る

日 清 戦 争 が は じ ま る

北 多 摩 郡 が 東 京 府 へ 編 入 さ れ る

高 木 村 ほ か 五 カ 村 連 合 が つ く ら れ る

各 村 で 戸 長 が 選 ば れ 高 木 村 明 楽 寺 に 連 合 戸 長 役 場 が 置 か れ る

芋 窪 ・ 狭 山 ・ 奈 良 橋 で 政 談 演 説 会 が 開 か れ る

各 村 で 村 会 議 員 選 挙 が 行 わ れ 村 会 が で き る

蔵 神 敷 奈 村 川 の 県 内 多 野 摩 郡 左 が 衛 四 門 つ が に 神 分 奈 け 川 ら 県 れ 会 東 議 大 員 和 に は な 北 る 多 摩 郡 の 所 属 と な る

塩 釜 神 社 が 建 て ら れ る

宅 部 村 と 後

東 大 和 に 五 つ の 小 学 校 が つ く ら れ る

品 川 県 下 の 諸 村 が 神 奈 川 県 に 編 入 さ れ る

廃 藩 置 県 が 行 わ れ ︑ 韮 山 県 下 の 諸 村 が 神 奈 川 県 に 編 入 さ れ る

熊 野 神 社 が で き る

高 木 村 ・ 芋 窪 村 ・ 清 水 村 な ど の 一 部 が 品 川 県 に ︑ そ の 他 の 村 は 韮 山 県 の 所 属 と な る

江 戸 を 東 京 と 改 称 す る

大 政 奉 還 が 行 わ れ る

御 鷹 場 が 廃 止 さ れ る

武 蔵 周 辺 を 中 心 に 大 規 模 な 打 ち こ わ し が お こ る

農 兵 が 組 織 さ れ る

ペ リ

厳 島 神 社 が で き る

清 水 村 で 百 姓 一 揆 が お こ る

組 合 村 が 設 定 さ れ る

( )

(

株 が 日 立 航 空 機 と な る

(

人 口 一 三 ︑ 〇 五 二 人 ・ 二 ︑ 四 八 五 世 帯

)

人 口 五 ︑ 一 九 〇 人 ・ 七 七 〇 世 帯

谷 村 が 合 併 し 狭 山 村 と な る

が 浦 賀 に 来 航 す る

)


1809

1797

1784

1762

1717

1687

1655

1654

1641

1639

1603

1607

1603

1603

1603

1600

1597

1591

1575

1547

1466

1439

1338

1333

1294

1214

1192

1159

1112

833

794

741

710

707

645

593

239

円 乗 院 の 本 堂 が 再 建 さ れ る

清 水 村 の 大 久 保 狭 南 が ﹁ 武 野 八 景 ﹂ を つ く る

高 木 村 の 宮 鍋 庄 兵 衛 家 が 打 ち こ わ し に 襲 わ れ る

高 木 神 社 が 再 建 さ れ る

鷹 狩 り 復 活 ︑ 再 び 御 鷹 場 に な る

生 類 憐 み の 令 に よ り 鷹 狩 り が 禁 止 さ れ る

野 火 止 用 水 が で き る

玉 川 上 水 が で き る

尾 張 徳 川 家 の 御 鷹 場 に 指 定 さ れ る

鎖 国 完 成

狭 山 神 社 が で き る

円 乗 院 が 台 風 で 崩 壊 し ︑ 愛 宕 山 へ 移 る

倉 敷 の 高 礼 場 が つ く ら れ る

青 梅 街 道 が 開 か れ る

江 戸 幕 府 が で き る

蓮 花 寺 が で き る

三 光 院 ・ 氷 川 神 社 ・ 豊 鹿 島 神 社 が 徳 川 家 康 か ら 朱 印 状 を も ら う

八 幡 神 社 が で き る

慶 性 院 が で き る

現 在 の 豊 鹿 島 神 社 の 本 殿 が 建 て ら れ る

雲 性 寺 が で き る

室 町 幕 府 が で き る

分 倍 河 原 の 戦 が 行 わ れ る

都 立 東 大 和 公 園 で 発 見 さ れ た 板 碑 が つ く ら れ る

氷 川 神 社 が で き る

鎌 倉 幕 府 が で き る

円 乗 院 が で き る

三 光 院 が で き る

入 間 ・ 多 摩 郡 境 に ﹁ 悲 田 処 ﹂ が 設 け ら れ る

平 安 京 遷 都

国 分 寺 を 建 て る 命 令 が 出 さ れ る

平 城 京 遷 都

豊 鹿 島 神 社 が で き る

大 化 改 新

聖 徳 太 子 が 摂 政 と な る

邪 馬 台 国 の 卑 弥 呼 が 魏 に 使 者 を 送 る

原 の 戦

奈 良 時 代 の は じ ま り

伝 説

)

平 安 時 代 の は じ ま り

(

-

現 東 村 山 市


清 水 村 で 百 姓 一 揆 が お こ る

1827

4

が 浦 賀 に 来 航 す る

厳 島 神 社 が で き る

1832

ペ リ

10

農 兵 が 組 織 さ れ る

1843

武 蔵 周 辺 を 中 心 に 大 規 模 な 打 ち こ わ し が お こ る

9

御 鷹 場 が 廃 止 さ れ る

1853

大 政 奉 還 が 行 わ れ る

9

江 戸 を 東 京 と 改 称 す る

1863

高 木 村 ・ 芋 窪 村 ・ 清 水 村 な ど の 一 部 が 品 川 県 に ︑ そ の 他 の 村 は 韮 山 県 の 所 属 と な る

2

1866

)

1867

熊 野 神 社 が で き る

1603

廃 藩 置 県 が 行 わ れ ︑ 韮 山 県 下 の 諸 村 が 神 奈 川 県 に 編 入 さ れ る

1868

品 川 県 下 の 諸 村 が 神 奈 川 県 に 編 入 さ れ る

1603

1870

東 大 和 に 五 つ の 小 学 校 が つ く ら れ る

1

1871

谷 村 が 合 併 し 狭 山 村 と な る

1872

宅 部 村 と 後

1873

塩 釜 神 社 が 建 て ら れ る

1

蔵 神 敷 奈 村 川 の 県 内 多 野 摩 郡 左 が 衛 四 門 つ が に 神 分 奈 け 川 ら 県 れ 会 東 議 大 員 和 に は な 北 る 多 摩 郡 の 所 属 と な る

1875

1877

各 村 で 村 会 議 員 選 挙 が 行 わ れ 村 会 が で き る

1

1878

芋 窪 ・ 狭 山 ・ 奈 良 橋 で 政 談 演 説 会 が 開 か れ る

1879

各 村 で 戸 長 が 選 ば れ 高 木 村 明 楽 寺 に 連 合 戸 長 役 場 が 置 か れ る

1603

高 木 村 ほ か 五 カ 村 連 合 が つ く ら れ る

1

北 多 摩 郡 が 東 京 府 へ 編 入 さ れ る

1881

日 清 戦 争 が は じ ま る

2

日 露 戦 争 が は じ ま る

1884

(

)

人 口 五 ︑ 一 九 〇 人 ・ 七 七 〇 世 帯

狭 山 丘 陵 に 貯 水 池 を 建 設 す る こ と が 決 定 さ れ る

4

貯 水 池 用 地 の 買 収 は じ ま る

1889

第 一 次 世 界 大 戦 は じ ま る

3

貯 水 池 敷 地 内 の 住 民 の 移 転 が は じ ま る

1893

1914

買 収 反 対 運 動 が お こ る

1894

1603

村 山 下 貯 水 池 の 建 設 工 事 が は じ ま る

9

1915

氷 川 神 社 が 清 水 に 移 転 し 清 水 神 社 と な る

1904

1603

村 山 上 貯 水 池 の 建 設 工 事 が は じ ま る

7

1916

第 一 次 世 界 大 戦 が 終 わ る

1912

1603

組 合 村 の 六 カ 村 が 合 併 し て 大 和 村 と な る

1

1917

慶 性 院 が 現 在 地 へ 移 転 す る

1918

蓮 花 寺 ︑ 三 光 院 が 現 在 地 へ 移 転 す る

1919

村 山 上 貯 水 池 が で き る

2

1922

が 日 立 航 空 機 と な る

1923

( )

村 山 下 貯 水 池 が で き る

1924

東 京 瓦 斯 電 機 株 式 会 社 立 川 工 場 が で き る

2

東 京 瓦 斯 電 機

1927

1938

南 街 の 住 宅 地 が ひ ら か れ る

10

1939

太 平 洋 戦 争 が は じ ま る

1603

1

日 立 航 空 機 立 川 工 場 が ア メ リ カ 軍 に 爆 撃 さ れ る

1941

太 平 洋 戦 争 が 終 わ る

3

1945

(

人 口 一 三 ︑ 〇 五 二 人 ・ 二 ︑ 四 八 五 世 帯

1603

大 和 村 が 大 和 町 に な る

8

1954

組 合 村 が 設 定 さ れ る


聖 徳 太 子 が 摂 政 と な る

239

353

大 化 改 新

593

51

伝 説

645

豊 鹿 島 神 社 が で き る ( )

奈 良 時 代 の は じ ま り

61

平 城 京 遷 都

707

2

国 分 寺 を 建 て る 命 令 が 出 さ れ る

710

平 安 時 代 の は じ ま り

30

平 安 京 遷 都

741

-

現 東 村 山 市

52

入 間 ・ 多 摩 郡 境 に ﹁ 悲 田 処 ﹂ が 設 け ら れ る

794

38

三 光 院 が で き る

833

278

円 乗 院 が で き る

1112

46

鎌 倉 幕 府 が で き る

1159

32

氷 川 神 社 が で き る

1192

21

都 立 東 大 和 公 園 で 発 見 さ れ た 板 碑 が つ く ら れ る

1214

79

分 倍 河 原 の 戦 が 行 わ れ る

1294

38

室 町 幕 府 が で き る

1333

雲 性 寺 が で き る

4

1338

現 在 の 豊 鹿 島 神 社 の 本 殿 が 建 て ら れ る

1439

26

慶 性 院 が で き る

1466

81

八 幡 神 社 が で き る

1547

27

三 光 院 ・ 氷 川 神 社 ・ 豊 鹿 島 神 社 が 徳 川 家 康 か ら 朱 印 状 を も ら う

1575

15

蓮 花 寺 が で き る

1591

原 の 戦

5

1597

江 戸 幕 府 が で き る

2

青 梅 街 道 が 開 か れ る

1600

1603

倉 敷 の 高 礼 場 が つ く ら れ る

2

1603

円 乗 院 が 台 風 で 崩 壊 し ︑ 愛 宕 山 へ 移 る

1603

狭 山 神 社 が で き る

3

1607

鎖 国 完 成

1603

31

尾 張 徳 川 家 の 御 鷹 場 に 指 定 さ れ る

1639

1

玉 川 上 水 が で き る

1641

野 火 止 用 水 が で き る

12

1654

生 類 憐 み の 令 に よ り 鷹 狩 り が 禁 止 さ れ る

1655

31

鷹 狩 り 復 活 ︑ 再 び 御 鷹 場 に な る

1687

29

高 木 神 社 が 再 建 さ れ る

1717

44

高 木 村 の 宮 鍋 庄 兵 衛 家 が 打 ち こ わ し に 襲 わ れ る

1762

21

清 水 村 の 大 久 保 狭 南 が ﹁ 武 野 八 景 ﹂ を つ く る

1784

12

1797

円 乗 院 の 本 堂 が 再 建 さ れ る

11

1809

17

邪 馬 台 国 の 卑 弥 呼 が 魏 に 使 者 を 送 る



年表や教科書などのまとめられた歴史は、全てを網羅しており把握できるような 錯覚を生むが、実際には、そこで語られていない出来事はあまりに多い。 博物館はその内部だけで、一続きの、あたかも完結したような世界を作りがちである。 本当の歴史は、隙間だらけで、未完成で、どこから通り抜けてもいいものであるし、 自分の足で調べにいかなくてはわからないものもある。 この世界の中で、決して閉じて完結することのない郷土博物館を作ろうと考えた。


旧東大和市郷土資料館

20 5 0 10

M 50

敷地図 1: 1500


敷地は、現在ある東大和市郷土博物館と同じ位置とし、ここに 展示物・保管物等を踏襲した新築の博物館を建てる計画である。 このあたりは広く縄文土器が出土しており、それ以降の歴史的 保管物も多い。また、この地にアトリエを構えていた画家吉岡 堅二の素描や油絵などの保管も担っており、その所蔵数は数百 にものぼる。 周辺を住宅地に囲まれて、北は狭山丘陵に続く丘となっている この敷地には、住宅街から離れ、丘陵地帯へと足を踏み入れる エントランスとなるような博物館が望まれる。また、駅から離 れており、ここまでの道のりはバスに頼る他はないことから、 主に近所に住む人間が、日頃気軽に訪れたり、丘に行く過程で 通りすぎることのできるような博物館が望まれる。

埼玉県所沢市・入間市から、東京都東村山市・東大和市・武蔵村山市・

この博物館の建つ丘を登っていくと、多摩湖にぶつかる。多摩湖

西多摩郡瑞穂町に跨っている丘陵地帯。貯水池である、狭山湖・多摩湖

は、村山貯水池の通称であり、狭山丘陵の渓谷に造られた1927年

の水源保護林があったために、広域の里山の環境が保持されている。

完成の人造湖である。東京の人口増加に対応した水源確保のため、 多摩川の水を取り入れて貯水し、ここから浄水処理を行い、市内

また、石器時代から多くの人々に利用されてきた為遺跡の宝庫であり、

へ給水している。また、工事にあたり、資材運搬と導水管工事の

230以上が確認されている。昭和以降、この地域は東京市による水源開

ために通された羽村山口間の軽便鉄道は、現在廃止となったが、

発、西武グループによるレジャー開発などが行われてきた。しかしその

廃線跡の一部は東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線など

一方で、これまでに高等植物1000種以上・鳥類200種以上が確認されて

のサイクリングロードとして整備されている。

いる、今も自然が豊かな場所である。 村山貯水池は東京都水道局の水源のひとつ。西の村山上貯水池と東 博物館の建つ丘は、住宅地と丘陵地帯の間に位置する。

の村山下貯水池に分かれている。また、東京都内の他県にまたがら ない湖の中では最大である。


外形は、南東の住宅地に面した道路から

周辺は二階建て住宅が主の地域である為

外周と内周、それぞれボリュームの各辺

大きな隙間は階段となり、小さな隙間は

敷地北西の狭山丘陵へ向かってどこから

ボリュームは丘の傾斜に合わせて、常に

に対応させた年表から、記述の無い年を

開口となって、博物館全体は、どこから

でも通って行けるようなものとする。

一層分が見えている状態とする。地下に

プロットし、線で繋ぐ。

でも入ることや通り抜けることが出来る

掘り込み、最大で三層となる。

ものとなる。


1954 1938 1927

1904

1954

1894

1867 1938 1927

1904 1894

1866

1762

1762

1603 16001655 239

239

593

833 1112

ボリュームから抜いた年号の詳細図。

31+29+44年

内周と外周それぞれに、同じ時代の年号を 対応させている為、内と外両方にプロット

31年 1655

81年

278年

1639

1607

353年

1547

1466

1112

1603 1600

した空白の年号を結ぶと、住宅の方へ向か い開いていく隙間が生まれる。 十分に幅の取れる100年単位の隙間は階段 とし、幅の狭い隙間は、二重壁の外に開け た開口で表している。

833

この操作により、完結した展示室ではない

593

239

239

593

「隙間だらけの資料館」が作り出される。 645


内部構成図。 南北方向は歴史の流れを示し、順番に展示 物が並んでいる対応させている。東西方向 時間軸

情報軸

に歩くと、年表展示、小展示室、図書室と 情報の細かさが変化していく。 ある時代の、より詳しい情報を求め西へと 歩いていくと、最終的には丘陵へと出てい くこととなり、ある物事の位置付けをより 全体的に見ようと東へ歩いていくと、最終 的には住宅側へ出てしまう。 この博物館は実用性を兼ねながら、決して 全てを与えてくれるわけではない。


年号によって自動的に抜かれた階段は、そ の幅によって上る長さが決まり、辿り着く 位置が変わっていく。ある階段は図書室に 向かうゆったりとした幅のもの、またある 階段は図書室の屋根まで細長く続くものと なる。


吉岡堅二

東京生まれの日本画家である吉岡堅二は、わず か二十四歳のとき帝展で活躍し、その後も西洋

19061990

と東洋を融合させた新傾向の絵を追求し続けた 日本画家である。この地、東大和市にアトリエ を構え制作していた。既存の郷土博物館には、 こどもの遊び場を転用した仮設の展示場所に、 わずか10点ほどの素描が飾ってあるだけなのだ が、博物館の方に伺ったところ、実際所蔵して いる作品は日本画二十点、素描なども含めたら 三百にも上る数だという。それらの作品の為の 場として、美術館を併設する。


常設美術展示室

近世

企画美術 展示室

広場 美術館の軸

時間の軸 図書資料 情報の軸

南北の時代の流れと、東西の情報の粗密の ふたつの軸に対し、どちらにも属さない美

年表展示 古代

術館のみの動線を付加する。住宅から丘陵 の方へ、絵だけを観て通り抜けることも、 歴史資料の展示空間を通り、そのまま美術 館へ入ることもできる。

道路



外観は丘に沿い、丘陵に向かって広場を抱く形状となる。


図書館内部。 空白の年号の箇所には情報である本は並ばず、階段だけが通る。




二階の屋根上から下を臨む。 大きな空白部分に開いた吹き抜けから、大小の展示室が見渡せる。


一階屋根上。 図書館の前、一階屋根の上は階段が入り組み、人々が思い思いの場所で本を読む。



電気室 機械室

特別収蔵庫

燻蒸室

前室

写真室

修繕作業室

常設美術展示室

機械室

EV

前室 荷解き室

企画美術展示室

備品倉庫

収蔵庫

清掃員休憩室

会議室 シャワー

倉庫

更衣室

休憩室

研究室

搬入路

郷土資料展示室 図書室

事務室 EV

EV 小展示室

デッキ

1階

2階


休憩所

カフェ

テラス

デッキ EV

展示室

3階屋根

3階 1 4 0 2

M 10

平面図 1: 350


0

1

2

4

M 10

南東立面図 1: 200


0

1

2

4

M 10

南東断面図 1: 200


0

1

2

4

M 10

南西立面図 1: 200


0

1

2

4

M 10

南西断面図 1: 200



HI SANOHAMACOLLECTI ON

2013年9月、久之浜大久地区サポートチームの活動の一環として、ワークショップの企画・運営をする機会に恵まれました。 これは、福島県いわき市久之浜町の小学校のこどもたちとの、町を紹介するファッションショーの記録です。


福島県いわき市久之浜町は、3. 11で被災した町です。大地震と津波と火災によって多くの住宅が流されてしまい、海岸沿いに長く高い防災緑地が工事されようとしている、今もなお震災の影響を受け、 変動し行く場所です。3年前、初めてこの場所を訪れることになった私のなかには、神妙さと恐ろしさが半々で、どのような顔をすればいいのかわからないような、当惑した気持ちがありました。しかし、 この町の最初の印象は、なんて生き生きした場所なのだろう、というものでした。3年が過ぎても残っている瓦礫や、住宅の基礎だけが残る光景は勿論衝撃的でしたが、それ以上に、瓦礫の間から力強く咲 く草花、ふと目に留まる美しい道、開けた海、あらゆる光景から伝わる強い生命力が、あまりに強い場所でした。町の人々が口々に話す、神社や海への思い入れや、町特有の花が咲き始めたということ、そ して、なにもかもゼロになった今が以前よりもいい町を作るチャンスだという前向きな言葉と相まって、この場所の風景は人々の愛着を伴って、誇らしげに存在しているように感じたのです。そのときから 町と人が共存する魅力的な状況を、” 被災地” などの言葉で一括りにせずに、なんらかの形で表に出せたらと考えるようになりました。 なんとなく、怖い。東京にいるとそのような言葉を聞く機会が度々あります。確かに、今でも綺麗ごとで済まされない部分や、不確定な危険の可能性、すべて解決するまでにはかなりの時間を有する 問題の沢山残る町です。ただ、遠くに住む人間たちが、目を背けることで作られてしまったネガティヴなイメージに捕われて、具体的なことを何も知らないままだというのは悲しいことだと感じました。 こんなに素敵な景色があって、元気な人々がいる、ということを、優しいやり方で伝える術は無いだろうか、と考えたときに、浮かんだのは小学校で出会った子供達の顔でした。 “ 家の基礎だけが並ぶ海岸線に、防災緑地が作られる。そのときまちにあって欲しいものはなんだろうか” これは2013年の6月、5, 6年生の授業を見学させて頂いたときに、話し合っていたテーマです。色々な人に海を見に来て欲しい!「あまちゃん」みたいにさ、花が沢山咲いていて、欲しいものがあったら 買える緑地だといいなあ、メヒカリのラテアートを出すカフェがいいなあ、ネットカフェがあったら面白いよね、などと、冗談も混じりつつの活発な議論は、都会的なものへの憧れの影に、地元の花・魚 や、町に住む人々の存在が確かに感じられるもので、この子達は自分のまちを本当にきちんとした目で見ているのだなあと感動しました。町の魅力を伝えられるのは、その町を本当に知る人に違いありま せん。こどもたちと風景の話をしながら、町の魅力をさらに引き出してもらい、それを楽しいイベントとして発表出来たらどんなにいいだろうか。まちの美しさとこどもたちの力を、改めて大人の人たち や外部の人たちに観てもらえたらどんなにいいだろうか。 こうして生まれたのが、「久之浜の風景の写真を選び、そのイメージから自由に服を作る。そして人々を呼び、ファッションショーをする」久之浜コレクションというイベントです。



久之浜全体地図


久 之 浜 第 一 小 学 校

防 災 緑 地

ハ マ エ ン ド ウ

震災、そしてその後の津波と火災によ

今回のワークショップの開催地となっ

現在工事が始まっている、海岸沿い一

海岸沿いに咲く植物。小学校の授業で

波で大きく削られている半島状の山。

震災からの歩みや、現在の復興状況を

り、海岸線一帯の建物は倒壊してしま

た小学校。また、ワークショップ以前

帯の防災緑地。このときは、緑地の高

も、何度も名前を聞くほどに、この地

海と並び、この地域のシンボルとなっ

展示するスペース、食堂、土産物屋、

った。そんな中、唯一倒れずに残り、

に、総合学習の授業に参加させて頂い

さを示して説明するために、単菅の簡

域に馴染みの深いものである。今回の

ていて、町の人々の話を聞くと、様々

電気屋、設計事務所などがならんでい

奇跡だと言われているのが秋義神社で

た。授業では5、6年生が合同で、海

易模型が建てられていた。7mほど土

ワークショップでも、この花をモデル

な逸話もあるらしい。

る。この中の駄菓子屋は、常に子供達

ある。防災緑地の工事に伴い、取り壊

岸沿いに新しくできる緑地について考

を盛り、その上を緑地化して、地域の

に服を作った女の子がいた。防災緑地

の溜まり場。また、被災地の見学ツア

しや移転も検討されていたが、住民の

えており、かなり活発に意見を言う子

植物や、風や衝撃に強いマツなどを植

の上にも植えられる予定があり、復興

ーの来訪場所にもなっており、何度か

反対により、1年後の2014年、そのま

供も多く、これから自分たちが住み続

える計画である。

関連の様々なイメージパースにも登場

テレビにも取り上げられているため、

まの場所に残されることが決まった。

ける場所への真剣な取り組み方にとて

浜 風 商 店 街

秋 義 神 社

小学校の隣に建てられた仮設商店街。

買い物ではなく展示に目を通しにくる お客さんも多い。

も驚いた。

している花である。

殿 上 山


・私たちが用意したもの XLサイズの白Tシャツ・下書き用紙・色鉛筆・布、ビーズ、絵の具、スプレーなど・工作道具・説明冊子・久之浜町の写真 こどもたちと一緒にまちあるきをして写真を撮るところから始められたらよかったのですが、学校から離れた場所は、除染の関係で 自由にこどもたちを連れて歩くことはできなかったので、学生たちが町中を歩き、魅力的だと思った風景を写真におさめて印刷しました。

対象年齢は小学校全学年だったため、誰でも自分で

下書き用のTシャツが書かれた紙と、色鉛筆。

つくることができ、自由度が高いように、と

写真を見ながら、何枚でもイメージを書いていきます。

XLの白Tシャツをベースに作ることにしました。

ワークショップのために、たくさんの人が

本当にTシャツからいろいろな服が作れるか?

小さな頃集めていたビーズや着れなくなった

と、まず東京の学生たちで試してみました。

服の端材をくれました。

そこで発見した、変わったTシャツの切り方・着方

絵の具、スプレーなど、色をつけるための

などを、ヒントとして雑誌のようにまとめました。

道具も用意しました。





・会場構成

右上:設営中。幕は完全には固定せず、本番中も 扇風機で風を送り、光を動かした。 右下:青い光を全体に投影した状態。 左下:本番音楽用のDJ 機材設営の様子。

会場は、小学校の体育館。設営に許された日はたったの1日間でした。 いかに組み立てやすい素材で、既存の体育館を使い、非日常の場所を 作り出すことができるか、ということが課題となりました。 そこで注目したのが、梱包材のプチプチです。軽く柔らかく安全で、 綺麗に光を投影できる安価な素材として、ワイヤーとプチプチを用い 会場を覆うことになりました。 体育館の備品である、木の台などをランウェイに応用する際にも、プ チプチを用いて何重にもぐるぐると覆い、安全且つ、歩くとふわふわ していながらプチプチ潰れる、とこどもたちに喜ばれる会場ができあ がりました。


会場設営後、オープニング ロゴを投影している様子。





猫椅子

l a dde rba c kc ha i r / Cha r l e sRe nni eMa c ki nt os h 1902


スポークチェア /豊口克平

バタフライスツール /柳宗理

1963

1954

アームレスチェア /剣持勇 1960

TheEgg/Ar neJ a c obs e n

LoungeCha i r&Ot t oma n

1958

Cha r l e s&Ra yEa me s 1956

Cor onaCha i r/Er i kJ or ge ns e n

SUPERLEGGERA/ GI OPONTI

1962

1957


Re da ndBl ueCha i r Ge r r i tThoma sRi e t ve l d 1918

Si e geTour na nt/Le Cor bus i e r &P. J e a nne r e y&C. Pe r r i a nd

Ba l lCha i r/Ee r oAa r ni o

LCW / Cha r l e s&Ra yEa me s

Ne l s onCoc onutCha i r

1963

1945

Ge or geNe l s on

ミス・ブランチ /倉俣史朗

Pa nt onCha i r/Ve r ne rPa nt on

1989

1959


カトリック関口教会 /丹下健三 1900

Goe t he a num /Rudol fSt e i ne r 1928

Fa r ns wor t hHous e/Mi e sva nde rRohe

Cha pe l l eNot r e Da meduHa ut/LeCor bus i e r

Re t t iCa ndl eShop/Ha nsHol l e i n

1951

1955

1964


Wa l ki ngCi t y/Ar c hi gr a m 1964

国立代々木競技場 /丹下健三 1964

Sa l kI ns t i t ut ef orBi ol ogi c a lSt udi e s/Loui sIKa hn 1965

中銀カプセルタワービル /黒川 紀章 1972

幻庵 /石山修武 1975


Pompi douCe nt r e/Re nz oPi a no・Ri c ha r dRoge r s Mus e oGugge nhe i m Bi l ba o/Fr a nkOGe hr y Por t ugue s ePa vi l i onf orEXPOʼ98/Al va r oSi z a 1977

1997

1998

Funda ç ã oI be r êCa ma r go/Al va r oSi z a

国家体育場 "鳥巣 " /He r z og&deMe ur on

2007

2008


ホキ美術館 /山梨知彦 2010

Ce nt r ePompi douMe t z/坂茂 2010

浅草文化観光センター /隈研吾 2012

Pr i nt ma ki ngSt udi o/ Fr a nsMa s e r e e lCe nt r um /中山英之

新国立競技場 /Za haHa di d



z o e t r o p e



z oe t r ope はこどもの玩具だ。回り続ける隙間から見える一瞬の絵柄の連続を、あたかも動き続けているように眺めることができるもの。 ギリシア語でz oe は生命。t r ope は回転。生命の輪・生きている輪の意味をもつ。


” ヴェネチアでは、誰もがまるで舞台を横切るように街を横切っていく” ” ああ、普段われわれは、自分が人生の主役だと思っているが、いやなに、実は、自分には決して全貌のわからない舞台の一場面を無言のまま横切っていくだけなのだと納得し、 しかしそこからその果敢ない舞台でどう演技するのか、という生のただなかでの演劇の意識に目覚めさせられる”


小林康夫が著書” 建築のポエティクス” のなかで引用したジンメルの一節と、それに続く著者自身の文章である。

人を縛りつける様々な規定に興味があった。年齢・性別・所属・役職. . . それぞれ、どう振る舞えば常識的で、どう振る舞えば幸福か。 誰しもその規定に少なからず振り回され、他人の目を気にしている。それはなぜか? このふたつの言葉が、すべてを代弁してくれていた。 自分が世界の中心だと勘違いする年齢はとうに過ぎてしまって、自分自身はこの世界のはしのひとつのパート、欠けた瞬間はあたふたしても、すぐに代役が解決してくれる端役にすぎぬと気づいている。 ただ、あくまでその端役はフレームの中、舞台の片隅に映る端役である。私が世界を見ている以上は誰かと関わり、誰かが私を認識している以上は、決して舞台をおりたように無関心でいることは出来ないのだ。 たとえどんなにその存在が小さかろうと、世界の大筋に微塵も関わっていなかろうと、舞台の中にいるうちは「なんの気なしに生きる一小市民の演技」を続けなくてはいけない。 誰かに見られているわずかな可能性に、期待に至らぬ意識をもって。 これが、多くの人間を支配している過剰でない過剰な自意識の正体だろう。 見られている意識には、自己イメージがつきまとう。ある人は正しく小市民らしく、つつましく派手でなく穏やかに、またある人は少しばかり白い目で見られようとも、やや背伸びした身なりをして。 母親らしく、兄らしく、恋人らしく、女らしく・・・ほとんどの人間が、離れたくても離れることが出来ない自己イメージから、少しでも身軽に、自由になることはできるのだろうか。



f r a gme nt1 演劇《うさぎとシーラカンス》

この舞台の主人公は、恋人との結婚を控えたごく普通の女性である。

イメージから離れる、ということを考える前に、どのような要因があ

少しだけ年上の恋人と、結ばれれば迷いなく幸せになれるはず、なの

るかを考えてみた。人に付随するイメージは、大きくわけて、三つの

だが、この物語は葛藤とともに進んでいく。女性は、なぜか、親代わ

分類に分けられた。

りとして育ててくれた、血の繋がらない「おじさん」のことが気にな って仕方がないのだ。けれども世間の目を考えると、到底その複雑な

ⅰ. 家族や国籍、性別など、自分の意志以前の記号

想いは、口に出すこともはばかられる。それどころかその想いは、一

ⅱ. 仕事などの所属、住所など、自分の判断による記号

体なんと名前をつけていいのかわからぬものなのである。

ⅲ. 自分の所有物など、自分の意図による記号

恋、か、それとも?と葛藤していくにつれ、女性は恋人のことを愛し ているというよりも、「普通の家族が欲しい」というイメージに縛ら

自分の意志以前の記号を選ぶことは、ほとんど不可能であり、また、

れていたのだと気づいていく。

後からの意志で変えることができるとしても、苦痛や弊害を伴うこと が多い。 ふたつめの、自分の判断によるものは、ただ希望というわけではなく

《うさぎとシーラカンス》 下北沢駅前劇場での小劇場演劇 脚本: 葛木英 演出: 堀越涼

自分の能力や経済力など様々な判断基準が必要なものである。よって 簡単に変更できない場合がある。 そうすると、最後に残った「所有物」を考えていくことには、可能性 がありそうである。


f r a gme nt2 映画《THENa MESa KE》

映画「その名にちなんで」は、アメリカ生まれのインド人青年が主人 公。青年の名前は、ゴーゴリ。ロシア人作家ニコライ・ゴーゴリから 名付けられた。複雑な生まれや特徴的な名前など、様々なイメージの なかで生きていく青年を描く。 この映画の中に、一つ、物が目に焼きつくシーンがある。単身赴任先 で父が亡くなり、荷物を引き取りに行ったゴーゴリは、空になった白 い部屋で遺された父の靴を履く。そして父の存在が焼きついていそう なその靴を無言のまま履き終えたあと、青年は窓の外に目をやる。窓 の外には、広場の無機質な四角いタイル。「ここを出勤前に20周走る 」と、生前の父が言っていたことが思い出される。ここで初めて、青 年の目に涙が浮かぶ。

《THENa MESa KE》 原作: J humpaLa hi r i 監督: Mi r aNa i r


無機質なもの・ウェットなもの

「物」には愛着の湧きにくい無機質なものと、形見にもなり得る ような、想いが宿りやすいもの、という種類があると感じていた。 しかし、この映画は、そんな先入観を見事に崩してくれている。 ごく普通に考えてみれば、恐らく感情を揺さぶるものとして相応 しいのは、父が常に履いていた靴だろう。父が履いていた温度も 残らなくなった靴、というのは、いかにも強い不在を感じるポイ ントになり得る。だが、この映画で鍵となったのは、父の物でも なければ、温かみのある存在でもない無機質なタイルであった。 日常のなか、どんなものに思い入れを持つかは人によって様々 であり、予測ができない。誰かにとってどうでもいいものが、誰 かの心に痛烈に残ることもある。本提案では、物の価値や分類な どはせず、できるだけあらゆる物を等価に扱うことを考えていく。


f r a gme nt3 建物《奥野ビル》

奥野ビルは、銀座の一角に残るアートビルだ。かつては高級アパート メントだったようだが、現在は小さなギャラリーやアトリエなどがひ しめき合う、独特な雰囲気を持った建物である。 ここの一室に、印象的な扉があった。ごく普通の扉の中間部分、腰 のあたりが開いており、後ろでなにやら手振りを交えて話し合う、三 人の男の姿が切り取られていた。ただ、人が話し合っている様を見て もさほど気にはならないものだが、切り取られた手はやけに目を引い た。思わず近づいていくと、近づいてくる私の胴に気がついたのか、 手の動きが少したじろいだ。 覗き込んでみたかったが、向こうからもこちらの姿が見えているこ とを考えると、そう無防備に顔を差し出すこともできず、そのまま立 ち去った。


人はマネキンのように匿名的ではなく、様々なイメージをまとっている。ただ物を使っている人がいる、というだけでは、印象が分散し、物が記憶に残らない。 そこで、建築の開口により、様々な体のトリミングを検討する。全てが見えないことで人々は向こう側を想像し、見えている部分の印象が拡大されていく。


プログラム 《提案する、実験的レンタル・システム》

《近年始まった、買い取ることのできるレンタル・システム》

レンタル可能な物の範囲を、消耗品以外の生活必需品へと広げていく。住む場所と、レンタル倉庫を 壁を隔て隣り合わせることにより、スムーズに物を入れ替えていける状況を作り出す。 レンタル倉庫はただの倉庫ではなく、商業施設を兼ねる。住人以外の多くの客が訪れる都心部の施設

週に3着ほど、レンタルの

を想定する。

服を送ってもらう。

自宅

店 店

自宅

気に入った服は 買い取る。

隣接

着終わったら、送り返す。 サンプル品が 自宅は、ショールームの役割を担う。

常に行き来する

近年、買い物はただ店で判断するのではなく、試してから買う時代に移行していっている。 試して買うことにより、企業側は新しく物を宣伝するチャンスに恵まれる。また、人々は 使ってみて本当にしっくりくるものを選ぶことができる。

買い物客は周囲を巡り、レンタルをしている住人たちを広告として眺める。

しかし、既存のやり方では、レンタルによる物の広がりは、システムを使用する限られた

ここに住む人々は、 企業の貸し出すサンプルとしての物を自由に借り、周辺の賃貸よりも安く住むこ

人の中にとどまっており、周りへの影響は薄い。

とができる。ただ、その条件として、サンプル品を用いた自らの生活を公開し、企業の広告塔となる。


敷地

J R新宿駅

敷地は、新宿駅南口近郊に位置するDI C大塚家具跡地を想定する。 現行の、店で確認し購入する、という大規模家具売り場のシステムが変更され、家具・服・生活用品を 扱うレンタル可能な商業施設と集合住居の複合施設を構想する。

敷地図

1: 3000


f r a gme nt4 本《なにもない空間》

著者ピーター・ブルックは、イギリスの演出家である。この本は、彼 自身が手がけた舞台や既存の舞台の演出方法を参照しながら、演劇を 大きく三つ、退廃演劇・神聖演劇・野生演劇に分けて語り、最終章で 直接演劇と題し、より実践的な自身の演出手法を語るという構成であ る。人々の特定の一部を切り取り見せる、という行為は演劇に近しい のではないかと思い、読み始めた本だ。 この本、また、同じくパフォーマンスの本である「パフォーマンスの 美学/ エリカ・フィッシャー・リヒテ」にも繰り返し書かれていること であるが、演劇の世界では、役者と観客というお互いに影響を及ぼし 合うものの関係、また見る・見られるの立場の転倒がしばしば取り上 げられている。奥野ビルでの、見る側がどちらか、がはっきりしなか った状態のような、どちらが主体かわからない状態は、ただ固定化し た関係性より面白い。


f r a gme nt5 インスタレーション《a t t e mptvol . 4》

藝大先端の修士に在学中の、添田朱音さんのインスタレーション作品。 私自身が、中に立つパフォーマーをさせて頂いたものである。写真の 構造体の上に常にひとりのパフォーマーがいて、自分の意志で止まっ たり歩き回ったりしている。観客は、この上に上り自由に歩いて回る ことが出来る。ただひとつルールがあり、観客もパフォーマーも、こ の上では決して言葉を発してはならない。よって、この狭い空間の中 では、確かにお互いそこにいる人間への意識が生まれるわけだが、見 つめる、近づく、離れるなどのかすかな交流は、すべて無言で行われ る。この作品において、観客とパフォーマーは、与えられた条件が同 じであることから、両者の関係はときに反転し、定まることがない。 あるときはパフォーマーが、あるときは観客が、相手の予期せぬ動き をしてたじろがせるのだ。


なにもない状態の個室空間は、生活に密接な 水回りがコアで隠されたシームレスなものと

《人》

する。躯体と家具、家具より小さな所有物、 そして人の体は、完全に馴染むことはなく、 建築の中身は、常に総入れ替えすることが可 能なものとして存在する。

水回り

《所有物小》

《所有物大》

《躯体》

買い物客が観る


f r a gme nt6 映画《トニー滝谷》

この映画の主人公、トニー滝谷の部屋はとても抽象的である。白い壁 に開く開口には、サッシひとつ見当たらない。画面の中にあるすべて の物は、抽象舞台の小道具として「置かれた」ような趣を持つ。 ポスターの部屋は、クローゼットとして用いられたものである。無機 質な部屋が華やかな服で埋まり、そしてまた空になっていく様相は、 建築の躯体に対し、物や人間が、あまりに軽やかで流動的であること を感じさせる。 その場にある所有物ですら白々しく見えるような、生活の匂いが消し 去られた空間は、ものがなくなった瞬間、積み上げてきた印象の蓄積 がゼロになる。この空間は、人のイメージの入れ替えを考える上で、 最も相応しいのではないかと思う。

《トニー滝谷》 原作: 村上春樹 監督: 市川準



商業施設と住宅部分、それぞれの天井高を、 4500と3500という異なるレベルに設定する。 階数が増すにつれて、フロアレベルの差が大 きくなり、ちょうど1階分ずれるとまた床が 揃い、そこから再び差が広がっていく。 この操作により、商業施設部分を利用する客と 住居部分を利用し、商業施設に向かって開いて いる住居の高さの関係が階数ごとに異なる建築 が出来上がる。建築内部では、目線の高さに来 る物が変わるだけでなく、見る・見られるの関 係も固定された一方的なものではなくなってい く。あるときは住人が見下ろし、あるときは見 下ろされ、あるときは同じ高さでお互いを見る というように、高さ関係により多岐にわたる関 わりが生まれる。


見せるために作られた住居空間のなかで起こり得ること

企業のプロモーション

ごく普通の日常を送る人々

パフォーマンス・演劇・展示など見せるための空間利用

各住戸には公開部分と死角になる部分があるため、住人は他者に

公開された生活空間は、生きたモデルルームのような存在になる。

公開された生活と、入れ替わり可能な家具を利用し、演劇やパフ

開いている生活に順応し、自らの顔となる見せるためのインテリ

おそらく、用意されたキャストと揃えられた家具などによる「完

ォーマンスをする人々が現れることも予想される。不特定多数の

アを作り出していく。ある人は生活をありのままに公開し、ある

璧な生活」を宣伝し始める企業もあることだろう。完全なる広告

人間が集まり、買い物をしては休憩をする商業施設の空間である

人は窓から見える部分のみを考慮して家具などをレイアウトして

としての個室もあれば、注目される、一般人の部屋も生まれてく

から、そこで客の娯楽となり、自分たちのプロモーションとなる

いく。

るに違いない。

見せる作品は、この建築に相応しいものだと言える。


f r a gme nt7 映画《t heTRUMANs how》

この映画は、産まれてから何も知らされぬまま、島ひとつ分の巨大な テレビセットの中、本人以外全員が家族や友人や街の人「役」の俳優 で構成されている世界で生きる青年の話だ。彼の人生は、「トゥルー マンショー」と題され、彼の住む島以外の世界各国で24時間同時放映 されていて、テレビCMを挟まない代わりに、妻「役」親友「役」など の他の人物が、彼の人生にわざとらしく広告を入れていく。 現実の私たちは、そのような設定はフィクションだと笑いながらも、 隣人が演技をしていない「本当の人間だ」ということを証明すること はできない。自分以外の他者が本物だと、突き詰めていけばわからな いのは、この映画でも現実でも同じである。

《t heTRUMANs how》 監督: Andr e w Ni c c ol 脚本: Pe t e rWe i r


住居

住居

ラウンジ

住居 住居 靴売り場

住居

小舞台 婦人服売り場

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靴売り場からの視線の先には、上階の 住人たちの華やかな足元がある。

広場観客席

買い物客は、目を惹かれた住人の靴を 売り場から選び出すこともできる。 住居

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3階商業・4階住居部分平面図 1: 200




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住居 ジュエリーショップ

ダンス教室 住居

住居

ジュエリーショップからは、ダンスス

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住居 住居

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タジオメイク室の首もとが切り取られ る。売られている装飾品が、他者の胸 元でどう振舞うかを眺めやる。 住居

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M 10

住居

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5階商業・4階住居部分平面図 1: 200


住居

住居 住居

住居 台所用品売り場

住居

住居

二階のキッチン用品売り場からは、住 居部分を見下ろすことが出来る。買い 住居

物客は、各キッチンで使われているも

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のや、シンク周りの動線を眺める。

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2階商業・2階住居部分平面図 1: 200




バー

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住居

住居

住居

厨房

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レストラン

レストランの上に広がる、中二階状の

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住居

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食卓は、個人住居のものである。カー テンを開くとき、プライベートな食卓 とレストランの境界は曖昧になる。

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5階商業・6階住居部分平面図 1: 200



住居

住居 劇場 住居

住居 靴売り場 住居

住居

小舞台

住居

婦人服売り場

住居 広場観客席

住居

広場と、そこに面した三階住居の関係 は、舞台と客席の関係に近しい。住人 は、家具などでプライベートを確保し 住まうこともできるが、芸事や表現を 発信していく場として利用することも 出来る。

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3階商業・3階住居部分平面図 1: 200


住居

住居

住居

住居

住居

住居 化粧品売り場

ダンス教室 住居

住居

住居

住居 住居

4階5階は、商業エリアと住居の床が 揃う場所である。この部分の通路から は、ダンススタジオの学生たちの服が

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切り取られ見えてくる。

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住居

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4階商業・5階住居部分平面図 1: 200




この建築の中では、他者をあくまで情報として見ていく。そして、同時に見られている自分自身を認識する。 イメージを自在に脱ぎ着しようと試みた住人たちは、訪れる客たちに生活の断片を見せ、あたかもそれが恒久的に続いていくような錯覚を与えていく。



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