slow actor

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細長い 2 階建のギャラリー・駒込倉庫で行わ れた、美術家・大岩雄典の個展『スローアクター』 の会場構成。大岩から与えられた要件は、2 階 に設られた展示室が 1 階にすべて落下し美術品 だけが姿を消すこと、つまり、2 階は 1 階の上 にあると同時に、2 階の展示の落下した「事後」 であるということである。この展示を訪れる人 はまず 1 階で、割れたガラス、崩れた木の板、 転がった金具や散らばったタイルなどを目の当 たりにする。廃墟のような部屋を通り過ぎて 2 階に向かうと、はじめに見た廃墟が 2 階の展示 室の落下後の姿であったことを知る。エントラ ンス直上の天窓の下に割れた花瓶、上にまだ花 の活けられている花瓶を置くことで、2 コマ漫 画のような関係にある上下の展示室を接続して いる。展示から帰る際、人は外に出るために再 び 1 階に降りることになり、このときまた時間 は進み展示は落下してしまう。展示空間のなか では、作品の意味や展示の構造を把握していく ために、注意深く空間を見、作品との距離を図 る鑑賞者の身体を利用し、近すぎる、身体の向 きと揃う、揃わない、小さすぎて読めない、見 切れる、などと快適な鑑賞環境からのぶれが随 所に発生し、身体が動き続けるような状態を目 指した。ホワイトキューブのなかで「視覚だけ の身体」になろうとしても、人間には身体の制 約が付き纏ってしまうということを突きつける ような展示である。


大岩雄典個展「スローアクター」 2019.02.09-2019.03.02

美術家 : 大岩雄典 企画 : 砂山太一 会場設計 : 奥泉理佐子

会場 : 駒込倉庫


制作:砂山太一


制作:砂山太一 イラスト : 大岩雄典

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019


砂糖壺 ターポリン

階段板 塩(砂糖代用) 記帳台

シャワーヘッド

ミラー柱

排水溝 +20 ペチュニア 花瓶

+120

プール

ガラステーブル

展示台

+350

+300

+250

+350

+350

絵画

作品 : 階段

砂糖壺 +400

記帳台

絵画

網 ワイヤー

+400

展示台

+200

ディスプレイ +150

+100

倉庫

+50

ターポリン

展示台

ハンドアウト

カーテン、ロープ

タイル

ペチュニア 花瓶

ミラー柱

監視員椅子

ハンドアウト

網 砂糖壺

ターポリン

階段板 塩(砂糖代用) 記帳台

シャワーヘッド

ミラー柱

排水溝 +20 ペチュニア 花瓶

+120

プール

ガラステーブル

記帳台

+400

作品 : 階段

絵画

展示台 砂糖壺

+400

+350

絵画

網 ワイヤー

+350 展示台

+350

+300

+250

+200

ディスプレイ +150

+100

倉庫

+50

展示台

ターポリン ハンドアウト

カーテン、ロープ

2F 平面図・1F 平面図 1:160, 大岩制作による作品ハンドアウト

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019


EVENTUALLY EVEN

SURVIVED BALL FROM NIAGARA (YELLOW)

‘ NEAR ENOUGH ‘

SURVIVED BALL FROM NIAGARA (BLUE)

SURVIVED BALL FROM NIAGARA (WHITE)

‘ OUTSIDE IS VIVID ’

SURVIVED BALLS FROM NIAGARA (GLOSS)

(SITTING PHOTOGRAPH)

(MIRACLE OF NIAGARA)

THE HANDOUT

SMOKING STANDARD

BLUE RACK WITH FOUR EMPTY CUBES

砂糖を水に入れることはできません

蛇口をひねることはできません

作品に触れることはできません

よりかからないでください

階段を昇降することができます 足元にお気をつけください

カーテンを開けて入ることができます 開けたらお閉めください

プールのふちは危険です

DO NOT PUT SUGAR INTO WATER

DO NOT TURN THE FAUCET

DO NOT TOUCH THE WORKS

DO NOT LEAN

YOU CAN USE THE STAIRS, WATCH YOUR STEP

PLEASE CLOSE THE CURTAIN AFTER ENTERING

THE EDGES OF THE POOL ARE DANGEROUS


撮影:野口羊


撮影:野口羊

花の活けられた花瓶、落下した花瓶

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019


撮影:野口羊

2 階の展示室には、水の入ったタイル貼りのプールを設 えた。これは大岩の予定する展示作品のなかに水の入っ た水槽のモチーフが多数登場していたことと、展示が 1 階に落下すること、そのときに経つ時間についての対 話を経て登場したものである。2 階に位置する既存のカ ウンターには砂糖壺と文字が設えられ、こう書かれて いる −

YOU CAN USE A SPOON AND DO NOT PUT A

SUGAR INTO WATER − 水のなかに砂糖を入れること を禁じるようなこのディスクリプションは、鑑賞者に 砂糖壺に入ったスプーンを手に取ることを想像させる。 このとき鑑賞者が指示に従わず作品やプールの水のな かに砂糖を入れたとしても、水に溶けた砂糖が発見さ れることはない。ただ 1 階に落下したプールの水がこ ぼれて乾燥し、そのあとに砂糖の結晶が見られると、 かつてだれかが水のなかに砂糖を入れたのだろうとい うことが想像される。よってプールは、落下したのち どれほどの時間が経っているのかわからない 2 階と 1 階の関係において、水が乾ききるまでの時間を示唆す るためのオブジェクトとなる。


プールの組立図

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019


細長い 2 階建のギャラリー・駒込倉庫は、大きく開い た窓や既存のキッチンカウンター、斜めになった入口 など、ホワイトキューブにしては要素の多い展示空間 である。この場所にプールを設えることと、上下階を 同じ構成要素で作ることを前提としたとき、いかに一 瞬で全体を見て理解しきらないか、ちいさな空間の中 でどのようにシークエンスを作るか、ということが要 件になった。模型での検討では、 人間は展示された作 品を観るとき、つねに適切な距離をはかっている こと を念頭に、極端に大きな絵と身体の距離が近すぎるた め離れる・斜めになっている絵と身体の向きを揃える、 など、展示空間のなかでの距離の調整がうまくはたら ききらない状態、常に再調整が必要とされるような状 態を目指した。そうして居心地のよくなりきらない身 体をずっと動かしていくと、眼に映るものが変化し続 け、徐々に展示全体を一望した状態へと近づいていく。

駒込倉庫 2 階部分模型

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019


1.

2.

5.

6.

3.

4.

発注した金具一覧 1:35

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019

7.


ステンレスの柱に水が映る (1.2.)・斜めに絵をかける (3.)

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019




水槽を支える (4.)

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019



階段の手摺をはる (5.6.)

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019



1m の水槽を支える (7.)

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019


会期中、アーティストである谷口暁彦、ゲーム研究・ 美学を専門とする松永伸司、批評家の福尾匠を迎えて、 会場内で 2 度のトークイベントが行われた。次項から 続くものは、会場構成の話とも関わる「一望できなさ」 を中心に話を進めた「re・だんだん・see 一望できない ものの設計と批評」のアーカイヴである。

また、展示にまつわるテキストとして寄せていただい た、文筆家・河野咲子による「すごくこわくてきもち いい毒がじわじわ効いてくる(大岩雄典個展「スロー アクター」をめぐるおしゃべり)」を掲載する。

これらのテキストは、本展で起きていたことと、この 先も関連して考え得ることの一端を示してくれている ように思う。


re・だんだん・see 一望できないものの設計と批評 2019 年 2 月 11 日 17:00-19:00 駒込倉庫 にて 奥泉理佐子(建築家、本展会場設計) 福尾匠(批評家) 大岩雄典

すところから始めようと思います。 大岩さんがこれまで実験してきたことは、ひと ことで言えば、展示における「鑑賞」において、 「こ れでひととおり見た」と人が決める地点を探っ たり、そもそもそう思えること自体を展示の装 置として組み込んだりしてきたのだと思います。

大岩雄典(以下、EO)本日は、大岩雄典個展「スロー

たとえば本展の二階踊り場で流れている映像

アクター」トークイベント企画「re・だんだん・

《EVENTUALLY EVEN》も 30 分近くの長さがあ

see:一望できないものの設計と批評」にお越し

ります。ふつう展示だと映像作品はループされ

いただきありがとうございます。ゲストは、福

ていて、その冒頭に鉢合わせないと、そもそも

尾匠さん、奥泉理佐子さんです。

見始めることができない。作品の最初から見な

福尾匠さんはジル・ドゥルーズを中心とした哲

いと、「ひととおり」鑑賞したことにはならない

学研究と、映像・美術の批評をなさっています。

ので、途中から観始めることになっても、冒頭

昨年には著書『眼がスクリーンになるとき:ゼ

部分まで待つという、よくわからない時間が発

ロから読むドゥルーズ『シネマ』』 (フィルムアー

生 す る と 思 い ま す。《EVENTUALLY EVEN》も、

ト社)を出版なさったり、また僕が 2017 年に

はじめ僕は「いつ始まるのかな……」と見てい

参加したグループ展「Surfin 」のレビューをは

たのですが、いつのまにか一周していて、どこ

じめ、さまざまな媒体に批評を執筆なさってい

が始まりなのかはっきりとわからないように

ます。奥泉理佐子さんは、本展の会場設計を担

なっていた。振り返れば、安楽椅子のパートが

当しています。東京藝術大学美術研究科建築設

冒頭で、その後に本が順番に出てくるエピソー

計の修士課程在籍で、僕と同期にあたります。

ドが連なっていくのだと、反省的に考えればわ

人が建築や空間をどう見るかということをテー

かるんですけど、鑑賞体験としては別に「どこ

マに制作・設計をなさっています。本展の空間、

から見てもいい」し、言ってみれば「どこでや

主に二階部分のデザインを、一年ほどかけて奥

めてもいい」し、「とりあえず一周したらひとと

泉さんと検討してきました *1。

おり」と思ってもいいし、一つのエピソードを

本日のトーク副題は「一望できないものの設計

見たら「まあこんなものか」と思って済ませて

と批評」ですが、お二人の存在がそれぞれ「批

もまあいいわけですよね。

評/設計」にあたると思います。展示における「一

美術って、どこまで見れば「ひととおり見た」

望できないもの」を、作る/見るという両方向

ことになるのかが難しい問題で、たとえば一枚

から考えていければと思います。

の絵を視野全体に収めることができたら、仮に 一秒しか見ていなくても「ひととおり」見たこ

ひととおり見る

とになるのかどうか。とはいえ、全部を「ちゃ んと」見ようと思ったら、ものすごい時間とも

EO まずは、福尾さんに展示を観ての所感を伺う

のすごい労力がかかる。それらをあらかじめデ

ところから始めたいと思います。

ザインすることは、普通の展示は配慮として行

福尾匠(以下、TF)福尾です。いきなりはじめ

われる程度だと思うんですが、大岩さんはこの

から展示の感想を直接言うよりは、これまで僕

「ひととおり」についての実験を長く取り組んで

が観てきた大岩さんの展示についてざっくり話

いると思います。


「ひととおり」見るということと、「一望できる」

思います。でも、あまりに見るべき要素が大量

ということ。「ひととおり」見ることはある種の

な作品を前にすると、どこまで見るか、何を見

時間的な幅を持っているし、「一望できる」こと

るかといった判断は煩雑になって、だんだんキャ

は空間的にぱっと全部見ることにあたる。その

パシティオーバーしてだらしなくなる。「これで

二つの関係性が今日のテーマになると思います。

展示がわかった気になれば……」という妥協を

EO 今回のようなサイズの会場で個展をするのは

含む、部分的な鑑賞になっていく。

僕ははじめてです。入り口から入って、一階か

ではそもそも、「全部観る」とは何なのか。「見

ら二階に上がって、二階を置くまで見てから、

切りました」と言うことは可能なのか。そのよ

また一階を通って戻らなくてはいけない。この

うな問いは僕のテーマになっています。

くらいの長さのシークエンスは、一部屋サイズ

2017 年に「明るい水槽」で展示した映像作品《い

の個展のもつ鑑賞時間を超えているわけです。

つまでも見知らぬ二人》は、多くのチャプター

多くのグループ展よりも時間がかかるし、映像

を持ちながら、それがランダムに流れてループ

作品もある。

するようになっています。

こうした大規模なものを鑑賞するということは ずっと考えていました。たとえば 2016 年に展 示「囚人は通夜にいきたい」で壁に掲示した小 説作品《時間割》は 4 万字ほどあって、展示空 間で立ったまま読むには相当量が多く、記述も 複雑で、全て本腰入れて読むと数時間はかかっ てしまう。他の作品も鑑賞するとさらにかかる。

《いつまでも見知らぬ二人》

大岩雄典 ,2017

この小説は 31 枚それぞれのページに章が分かれ ています。鑑賞者は、なんとなく身長が届くと

サイコロを振るように、そのたび二つ飛ばしや

ころのページを読むとか、たまたま目に入った

五つ飛ばしで、チャプターが歯抜けに進んでいっ

気になる単語から読むとかして、「ああこういう

てしまう。たとえばあるループでは、流れるチャ

話か」と承知していく。一番うえに掲げられた

プ タ ー は〈1、5、8、9、11、14、18、21、

ページは僕の身長より高いです。高身長の人は

27、33、35、39、40〉だけになります。別の

台に乗らずに、そこから読めるかもしれない。

回ではまた別の組み合わせで流れる。40 個観る

低身長の人は、とりあえず低いところのページ

だけでも、運任せで一苦労です。たとえばチャ

に目を通すかもしれないし、だんだん疲れてし

プター 2 が流れる確率は 1/6 で、下手すると 6

まえば後半の方は目を通さないかもしれない。

周観なければいけない。途中でもなかなか出て

そうした選択は、無意識というか、なし崩しに

こないチャプターがあるかもしれない。そのう

なされていく。

ち、「まあいいか」と思える瞬間が訪れる。全部

鑑賞においては、鑑賞している対象についての

は観れていないが、半分くらいは観れたしいい

判断と同時に、どう鑑賞するかについても判断

か、と言って、鑑賞を終える。

も起きているはずです。ふつう美術展では、並

チャプター構成をランダムにすることで、「どこ

んでいるものを頭から順に観たりするし、とき

まで観たら鑑賞として満足するか」「物語として

には、混んでいる作品や小作品は「もうこれは

理解したことにしてしまうのか」を問いに付し

観ないでいいや」と意識的に省くことがあると

ています。見るということは、単に眼球を対象



に向けるだけの行為ではなく、見続けるとか、

と思うことってよくあります。でも、部屋を全

見るのをやめるとか、適当にだが見るとか、微

部見たらその建築を「全部見た」ことになるの

細な判断を多く含んでいるはずです。絵を観る

かというと、そうも言い切れない。建築には壁

ときにも、目を留める箇所と、流し見する部分

や天井の裏側があるし、美術館ではスタッフルー

がある。モチーフや主題、構成などの作品内要

ムもある。文字通り見えない部分が建築にはた

素や、周囲の作品や状況との関係、鑑賞者のコ

くさんあって、大空間を見渡すのでもないかぎ

ンディションなど、多くの要素がこの微細で複

り、ひとつの空間でさえ、ある場所から一望す

雑な判断にかかわっています。

るという経験が絶対にできない。少し前に自分

いままで映像作品では、福尾さんが指摘したよ

が見たもの、少し後に自分が見るだろうものを

うな、ループするものや、長尺のものをどう観

どんどん合成していくしか、空間の体験はでき

るかという点に注目してきました。なぜ途中か

ない。その意味で、建築とは本当に「見通せない」

ら観て良しとするのか、なぜ途中から観てまた

ものなのだと捉えています。

同じ箇所に戻ってきたら満足するのか、そうし

何もない原っぱでさえ、柱が一本立っただけで、

た構造が、内容とダイレクトに関わります。本

その向こう側がつねに死角になってしまう。経

展は広い空間で展開しているので、長いシーク

験則によって、たしかに物の裏側まで地続きに

エンスのなかで、何を見つけたり、見逃したり、

空間はあるのだということが信じられても、眼

あるいは何を見つけようとしたり、見逃してよ

に映る空間はつねにどこかが死角になって欠損

かったものとみなしたり、という判断が起きて

してしまう。そういうことへの興味があって設

いく。モチーフや主題を通して、そうした鑑賞

計をしています。

の長い時間を扱おうと構成しています。

この展示を見終えたひとは、ざっくり言えば二

これは〈欲望〉の問題だとも思っています。何

階のものが一階に落下している、という構成を

を観たくなるか、何はどうでもいいか、という

うっすら把握していると思います。そこで、じゃ

のは、そもそも美術をなぜ観るか、物をなぜ観

あ何が落ちていて、何が落ちていなくて、何は

るのかという〈展示・鑑賞の欲望〉の問題と地

展示のなかで落ちているもので、何は本当の来

続 き で す。こ の 欲 望 の「望」と、一 望 の「望」

場者の落とし物で……ということへの判断は、

とがペアになるのではないでしょうか。

実はけっこう難しい。照らし合わせていくと、 おおよそ作品以外の什器にあたるものが落ちて

建築を見る、量を見る

いるんですが、でも細かなところまで気にする とやはり判断は曖昧になる。落ちている砂糖の

EO 本展での空間デザインも、どこから何が見え

粒は同じか、そこまでは確認できない。展示全

るか、どこに行くと何が見えると期待できるか、

体の構成はだいたいわかっても、全部を確認す

という身体移動の問題を扱っていて、奥泉さん

ることはできないという点に面白さがあると思

と共有して検討してきたテーマです。

います。

奥泉理佐子(以下、RO)建築を学んでいる人が、

2017 年 に「2074、夢 の 世 界」展 に 出 品 し た

たとえば海外に旅行して限られた時間のなかで

《dégager》という作品では、曲がり角を題材に

なるべくたくさんの場所を観ようとして、閉館

とっています。曲がり角の裏側を一挙に確認す

30 分前の美術館に行って、作品なんか無視して

ることはできない。でも、たとえば角の裏側へ〈消

空間を一部屋ずつ見て、 「全部部屋見たな、ヨシ」

えて〉いく赤い床があったとき、それは〈先へ


続いて〉いるだろうと自動的に思い込んでしま

りやすい。建築が大味ということではなくて、

う。だからわたしたちは、曲がった先にも地面

はじめから想定される〈見ること〉のサイズ感が、

は続いていくものだと信用しきって足を進めて

小さくなるわけです。そのなかで、〈どこまで見

いくことができる。この作品では、実在する複

るか〉〈見たことにするか〉という経験をデザイ

数の曲がり角を任意のアングルで撮った写真を、

ンする作業は、目的的でもあるぶん、より精密

CG 上でそれぞれ同様の角度で立ち上げて重ね、

になります。明確な「展望スポット」を誂える

正面からは写真に映るものしか見えないという

わけではない。複数のグラデーションやアフォー

状態を保ちながら、裏側に空間を設計していく、

ダンスが絡み合った空間のなかで、見るという

という試みをしています。曲がり角を回ってい

経験の機微はより微細になり、弱い欲望・欲求

くと、何か影のようなパーツが出てきて、その

が反映されていく。

影が階段のようなものだとわかっていき、する と床が見えてきて、今度は階段が隠れて見えな

TF 「量」の問題なんですよね。質も大事である

くなって、床の輪郭だけが線のように残って見

いっぽう、「量」の問題は今までにないしかたで

える、というような。

重大なものとして現れてきている。このあいだ 横浜美術館で「イサム・ノグチと長谷川」…… 二郎だか三郎だか忘れたんですが、 「…二、三郎」 展を観て、ものすごい疲れたんです *2。彫刻の もつ情報量は半端じゃないし、展示としても作 品が大量にあった。なんで展示を観るだけでこ んなに疲れなきゃいけないんだという怒りさえ 湧くんですが、ではこれを「観たことにする」 と い う の は ど う い う こ と か。最 近 は 映 画 も

《dégager》 奥泉理佐子 ,2017

Netflix や Amazon Prime で観ればいい、という 層が増えてきていると思います。映画館にわざ

建築において、しばしば部屋ごとに分割される

わざ行って二時間以上閉じ込められて同じ椅子

ような〈見る〉の単位を、このようにもっと小

に座って真正面を見続けるという負荷の大きい

さい分割でとらえることができるんじゃないか。

経験より、とりあえず Netflix で興味ある動画を

本展の会場設計を打診されたきっかけもこの作

観はじめて、20 分くらいで疲れて再生をやめて、

品にあります。

やめたことすら忘れてしまうことがある。途中 でやめたことを半年経ってから思い出したり。

EO 建築の単位は素朴には部屋だけれど、見るこ との単位を考えると、角度 1°や 2°といった詳

雑な言い方ですが、芸術的なものに触れるとき

細にまで及んでくる。

の判断は、近代には、良い悪いとかいう質の問

美術展示というのは、一棟使うことは稀にして

題だったんです。「この作品をちゃんと褒めるこ

も、限られた時空間にひとを閉じ込める形式で

とができる」というのが社会的なステータスに

す。せいぜい何十平米の空間で、せいぜい二時

なり、美術品は高額でやりとりされる。でも、

間の経験をするという点では、何年も住まう建

今は「これは良い/悪い」とは別の領域に移っ

築よりもさらに経験の単位が相対的に小さくな

ている。「どれをどれぐらい見るか」「どの領域



にあるものをどれぐらい見るか」「同じものを何

本展において活用されているといえます。それ

回見るか」という判断が、美学的な判断として

は近代の見方に戻るという図式ではなくて、質

重要になってきていると思います。これは個々

的、量的、複数の見方を相対化しながら、その

の作品についての趣味判断とは全く別の、完全

複雑な絡み合いにおいて、現代の「観る経験」

に量的な判断ですが、それがあたかも趣味判断

を反省できるのではないか。

であるかのようにすり替わってきているのが昨

二階の絵画《OUTSIDE IS VIVID》は 1700mm 四

今 だ と 思 い ま す。趣 味 と い う の は 文 字 通 り

方の大きな絵画ですが、掲示場所の向かいには

「taste」で、何かを「美味しい」と言える能力の

キッチンがあるため、退がって観ることができ

はずですが、それが、 「俺はこれをこれだけ観た」

ません。一般的なオーダーで観るためには、キッ

という領域に、芸術的なものの経験の比重がか

チンの奥まで回り込まないといけない。キッチ

かるようになってきている。大岩さんが鑑賞に

ンには芳名帳とハンドアウトがあるので、それ

おける量の問題に、ある種先駆的に取り組んで

を取りにいく際に、ちょうど《OUTSIDE》は見

きたのは面白いと思います。

やすい距離になるわけです。質的な変化と量的 な変化が重なっている。

EO 小説では「何万字」、時間では「何時間」と 数えられる単位が、空間だと数えられなくなる。 体積は数えられるけれど、そこに「いくつの視覚」 が可能かと問うのは難しい。角度はもちろん、 何にどのように注目するかで、意識される視角 も変わる。「ものを見る」というとき、空間を考 えると、文字数や時間以上に、膨大な話だとい う印象をもちます。展示において、物はつねに

《OUTSIDE IS VIVID》 撮影 : 野口羊

周りの空間のなかで観られることを考えるのは、 やはりインスタレーションというものを考える

絵画が一枚掲げられるだけで空間は変化します。

うえで重要だと思います。映画館での映画の経

何もない部屋に、一枚絵が掲げられるだけで、

験は、とりあえずエンドロールまで黙って座っ

その正面にレッドカーペットを伸ばすように動

ていれば、 「全部観た」というにはまだ容易いが、

線が現れる。ものを置くだけで、空間自体が編

たとえば塩田千春のインスタレーションのよう

集されるということです。ここで「編集」とい

なオーバーオールなものは、はじめのひとめで

うのは、経験の質的・量的な変化の可能性が、

「観れた」ようにも思えるし、しかし近づくにつ

空間により複雑に書き込まれるということです

れ、要素のひとつひとつが顕現してきてしまう。

ね。《OUTSIDE》という絵は、キッチンにまつわ

そ の と き、改 め て「も っ と 観 れ た、こ れ こ そ、

るそうした経験の展開の可能性を編集している

観れている経験だ」と思ったりする。

と 思 い ま す。あ る い は《BLUE RACK WITH FOUR EMPTY CUBES》は青い階段状の棚ですが、

さまざまな対象を前にして、それを「どのように、

たとえば棚に並んでいるものをまじまじと観る

どれだけ」観るか、観るべきかという量的な問

とか、正面に立ってその階段状の形状に直面す

題を、「どうして」という質的な問題に差し戻す

るとか、あるいは反対側から見通すとか、そう

契機として、インスタレーションという形式が

した関係をとることができます。ものを置くだ


《BLUE RACK WITH FOUR EMPTY CUBES》

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019


けで、「それをどうやって見ようか」という期待

展示自体を彫刻しているようなものだと思いま

と充実の構成が、時空間というある端的に量的

す。ここに物がある、ここに物があることにする、

なシステムのなかにインストールされる。

ここには物はなさそうなのでざっと見る……と

高 所 に 掲 げ ら れ た《NEAR ENOUGH》も、展 示

いうストロークが連続する。作品や構成を作家

室に伸びている白い階段の上に立つと見やすい。

が作るのとは別の水準で、見ることの条件自体

でもこの絵は《OUTSIDE》より小さい絵で、ちょ

は、やはり鑑賞者がダイナミックにその場で作

うどいい距離で細部まで観ようとすると、階段

りながら観ているという一面があるのではない

を降りなくてはいけない。結局高さは戻ってし

か。

まう。二階の展示室はこの白い階段が印象的で

展示がそれについて自覚的であるとき、それぞ

すが、これを巡って、〈見る〉経験の可能性はダ

れの個人にたいして、〈どのように観ているか〉

イナミックに編集されていると思います。

を映し返す。あなたはどのように観ているのか、 と問いなおす。質的に分けられる良し悪しの地

つくりかえられる観る身体

盤となりながら、それ自体は量的に蓄積してい るような、時空間における連続的で恣意的な〈見

RO なにか実在する対象を見るとき、その対象が

るという経験〉そのものが、展示の主題となり、

置かれた見られている空間そのものだけではな

鑑賞の主題となります。それが、量的な蓄積と

くて、見る人の身体や心理のほうも鑑賞の条件

ともに更新され、そのたびに質的な判断の根拠

となっていると思います。絵にたいして設定さ

を更新しつづけることで、その双方の側面を浮

れた距離と同時に浮上するのは、絵のなかにあ

き立たせる。

る小さい文字をそもそも見つけられるか?とい

その点では、一階の音声作品や、二階展示室の

う視力の問題だと言える。物理的な位置の制約

インストラクションがリテラルにそうであるよ

と、人間の身体能力の制約です。

うに、鑑賞者に語りかける性質を僕のインスタ

身体能力の制約に加えて、さらに人間には別の

レーションはもつと思います。〈あなたが見る〉

制約も関わってきます。たとえば白い階段には

こと自体が展示の対象であり、展示それ自体の

ワイヤーで手すりが張られている。これをくぐっ

形状に一致する。

て進んではいけないとはどこにも書かれていな いから、揺らさないように触らないようにそっ

TF ある芸術作品が、どういう主観性のありか

とくぐって、壁側の作品に近づくこともできる

た・人間のありかたを想定しているかを考える

けれど、そう思い当たって実行した人は何人い

というアプローチがあるわけですよね。美術史

るだろうか。そもそもワイヤーがある時点で向

家ハル・フォスターの『第一ポップ時代』*3 は、

こう側が自動的に、入ってはいけない場所とし

ポップアートの作家がいかに大量消費社会にお

て切り分けられるかもしれないし、くぐること

ける人間のありかたを想定して作品内に反映さ

が頭をよぎったけれどやらなかった人はたくさ

せたか、さらに鑑賞者自身がまた普段の社会生

んいるかもしれない。そうした心理的・慣習的

活を感じられるような経験をそこで作り上げて

な制約までが加わって、視覚がコントロールさ

いるか、ということについて記した本です。さ

れていると思います。

きほど「量」についての話でも触れたことですが、

EO 比喩をつかう言い方ですが、展示とは、見る

芸術や建築において、それらがどのような主観

人が、自身の見るという行為をつうじて、その

性や人称性、人間、主体を作っているのかとい


う点を、大岩さんも奥泉さんも問題にしている

段の手すりと段差に見える。他の物の描写もな

のだと思います。

く、空間すらないのに、これだけの要素で、正

奥泉さんは、そうしたものが人間を「動かす」、

確に空間を補完して観られる。人間の体の側が

思い切って言えば「作り変える」ことを、具体

世界の情報を補完できてしまう、観る身体には

的にはどうした手立てで行っているのでしょう

そういった能力がある、ということが、設計す

か。

るときのひとつの足がかりになっています。

RO 観る身体は、観られる空間の側から、意外に 信用されている、ということをよく考えます。

EO 人間の主体性を作り変えるというより、そも

昨年、石岡良治・高瀬司・土居伸彰が講師をつ

そもの主体性のもつ堅牢性にあやかることで、

とめた「GEORAMA アニメーションスクール」

それを改めて取り出す感じでしょうか。

に参加しました *4。そのとき、現実には見る対

そこで思うんですが、このアニメーションでは

象になるものが見尽くせないほどたくさんある

線が階段のように「見える」し、「見えることに

のに対して、アニメーションのなかには描かれ

できる」わけですが、しかしこの素直というか、

たものしか現れない、ということを改めて考え

リテラルに見る人は、「おじいさんが箸を踏みな

ていました。アニメキャラクターが歩いている

がら箸を持って歩いている」光景に見えるわけ

ときにその髪が揺れていなくても「この空間は

ですよね。というか、こうして僕が言うことで、

真空で風が起きないんだ」なんて誰も思わない

わたしたちもそう見えてきてしまうように、と

じゃないですか。勝手に経験則と照らし合わせ

もかくそのように見ることもできる。そのうえ

て、空気が動いているだろうことを見る側が補

でもなお、やはり「階段を昇る」様子として見

完して見ている。それを突き詰めれば、線が一

るのがいちばん妥当だろう、とも同時に思って

本引いてあるだけで壁に見えるということも十

いる。「そうとも見えるけれど、やっぱりどう見

分あります。

るかというと、こう見る」という複雑な見え方 の折衝が、わたしたちの「若干の主体性」にお いて起きている。アニメーションだけでなく、 光学的な写真でさえもこうした諒解は起きてい て、その前提の共有のうえでものはデザインさ れうるわけで。 でもこの、見える「ことにする」ときの「そう だろう」という自信を掘っていくときに、そう したぶれ、おじいさんは箸を持って歩いている 《Le Chapeau》

Michèle Cournoyer

のではないかという疑問反問が現れて、それは 見る者にたいして、「本当にそう見るつもりでい

Michèle Cournoyer の《Le Chapeau》と い う ア

たのか」「本当にそう思っていたのか」と問い質

ニメーション作品のなかに、おじいさんが階段

すようでさえある。むしろ主体性を作り変える

を昇る描写があるんですが、そこで描かれてい

というか、主体性を思い返させてようやく当の

るのは、目深に帽子をかぶったおじいさんと、

主体性が自覚をもつようなことでしょう。

その手の先の短い二本の線と、足もとの二本の 線だけなんですよね。でもそれがちゃんと、階


見たことにできる、というフィクション

が、赤道近くにたいして極に近い地方は縮尺が 縦長になってしまう。地球のもつ原理的な一望

TF「見たことのできる」ということがすでに何

できなさにたいして、虚構的な「一望したこと

らかのフィクションである、ということが大事

にできてしまう」性がある。この間のものが重

ですよね。一方で「全部見る」ということは本

要なのではないか。

当は無理だし、他方で「絶対に不可視であるもの」

世界地図には何パターンもあるわけですよね。

を想定するのは古臭い。ひととおり見たつもり でも絶対に見れないものが実はあって、それへ

バックミンスター・フラーによるダイマクショ

の到達こそが重要だ、というのは古臭い崇高論

ン図法や、航空で使われる正距方位図法がある。

のような話になってしまう。全部見ることもで

ある一望できないものにたいして、いくつもの

きないし、絶対に見れないものがあるわけでも

パターンの「一望できてしまう」性みたいなも

ないが、そのあいだで「何となく、見たことに

のを考えられる。

できる」瞬間みたいなものがフィクションとし

大岩さんがここまで仰ってきたような、「全部見

て差し込まれる。少なくとも客観的に、何らか

ることがあまりに難しい展示をわざと組んで、

のフィクションとして、一望性や、「ひととおり

何らかのひととおりを見たと思って帰ってもら

見たことにできる」性が次々立ち現れてくるわ

う」という展示の作り方も、そうした原理的な

けですよね。

一望できなさと虚構的に一望できてしまうこと

ただ、「ひととおり見たことにできる」というこ

との関係にかかわると思います。

とを前提に展示を組むことと、「ひととおり見た

EO《いつまでも見知らぬ二人》を展示した「明

ことにできる」ということ自体を展示の主題に

るい水槽」での共同展示者だった永田康祐さん

することとは距離がある。これぐらいだろう、

の作品《オーディオガイド》も、鑑賞者が「見

という配慮としてデザインするのにたいして、

られるもの」を振り分けるような構造をもって

それ自体を主題とすることは、概念の水準で違

いました。鑑賞が「ひととおりにはならない」

う。この差異がなにか、まだ言語化はできてい

から、それぞれにとって「ひととおり」にしか

ませんが、重要に思います。

ならないという構造が、その展示では僕と永田

その手がかりとして、僕が「一望性」について

さん双方の作品に共通していて、面白いと思い

初めて書いた文章を紹介できると思います。「世

ました。

界同時多発世界地図」という題で、哲学者エリー・

そこで《いつまでも見知らぬ二人》のランダム

デューリングの「プロトタイプ」概念について

性についてもうすこし触れたいのですが、この

2016 年ごろに書いたものです。この冒頭で、世

仕組みが生み出したのは単に「どれを/どのく

界地図の話をしています。球体である地球は、

らい観た」という水平な振れ幅だけではないと

どの方向から見てもその手前側の半球しか視野

思うんです。「作品の多焦点性について」という

には収まらないのですが、世界地図は、半分し

テクストをウェブサイト上に載せているのです

か見えないはずの地球を「ひととおり見たこと

が、この「多焦点性」とは、むしろ垂直方向の

にできる」装置としてあるわけですよね。その

振れ幅です。《いつまでも見知らぬ二人》は、前

なかである種のフィクショナルな操作が加えら

述した仕掛けによって、二周目の視聴では一周

れていて、たとえばメルカトル図法では、円筒

目とは異なるチャプターが流れるわけですが、

上に地球一周を投射して全体像を得るわけです

鑑賞者はそのときに、当のランダム構造に気づ


くわけですよね。

うに見せた写真です。モンタージュによって「跳

つまり、一周目の時点では「単なる物語映像」

んだことにする」わけです。彼は神秘的・即物

としてのみ観ていたものが、二周目になると「構

的に飛翔や虚無を描き出したのではなく、「そう

造を反省しなければいけない映像作品(仮)」に

見えればよい」ためのシステムとして、トリッ

なる。三周目でその批評的仮定は確信に変わる。

ク写真を選んだ。ここで注目すべきは、それが「ス

本作の物語的な内容は男女の会話劇で、ポリア

トレート写真でない」ことというより、 「パフォー

モリーやセクシャリティを題材にとっています。

マンスでない」ことでしょう *5。

ざ っ く り と 言 え ば、テ マ テ ィ ッ ク な 作 品 か、

これに関して、蓮實重彦の「映画と落ちること」

フォーマリスティックな作品か、というのが、二、

というテクストを思い出しました *6。『映画の神

三周目まで見るかどうかによって変わる。ただ、

話学』という論集に収められたテクストですが、

フォームに注目したからといって、物語的な内

これは、映画というメディアが「落ちる」動作

容が無視されるわけではなく、テーマとフォー

をどのように表現してきたか、表現し損なって

ムとの相互作用が検討されるようになる。層が

きたかを語っています。横長の画面では落下の

深くなるわけです。この二つの層のどちらにも

運動をなかなか捉えきれず、角度を工夫しても、

焦点を合わせられるようになることを「多焦点

動きより遠近感のほうが目立ってしまう。そも

性」と呼んだのですが、これが、観る時間とい

そも役者を実際に落下させること自体危険が伴

う量的なパラメータによって現れるということ

う。そこで蓮實が喝破するのは、落下は映画に

に注目していました。複数の相対的なフィクショ

おいてはしばしば隠喩や換喩で描かれていると

ンを享受するために、時空間を活用できるので

いうことです。隠喩とは、落下する瞬間のシー

はないか。

ンと墜落のシーンとをつないで、落ちる運動が

「スローアクター」でも、鑑賞のそのときどき目

あったことを表現するものです。換喩とは、さっ

的によって、何が目に入ってくるか、という多

きまで崖縁にした人物がふといなくなる、とい

焦点性、つまり「フォーカスの多さ」が実装さ

うデクパージュを用いて落下を表現するもので

れていると思います。一望できないからこそ、

す。

一望するためのフィクションが、個人の欲望の コンディション、身体や心理の水準、図法のも

実際は役者は落ちていないのに、喩という認知

つ〈法〉の水準、といった外部をも含みこんだ

システムによって落下が仮構される。本展の入

複雑なシステムによって成立している。

り口には「落ちた花瓶」があり、真上の天窓に

本展が「落下」をテーマにしているのは、会場

は「落ちる前の花瓶」があります。でも実際に

の二階建て構造から、1960 年代に活躍したフラ

はそれは落ちたわけではないし、これから落ち

ンスの作家イヴ・クラインの《虚無への飛翔》と

るわけでもない。同じものを上下に置いただけ

いう写真作品をまず連想したためです。クライ

で、モンタージュが準備される。そのモンター

ンが二階から跳ぶようすを捉えたこの写真作品

ジュの認知は、鑑賞者が昇降することによって

は、合成写真であることが知られています。実

完成します。はじめに入場したときは「割れた

は地上には彼を安全に受け止めるために、友人

花瓶」でしかなかったはずです。二階のバルコ

たちがターポリンを広げて待機していました。

ニーの花瓶を観てから改めて戻ってくることで、

その部分を切り取って、誰もいない風景と差し

それは「落ちた花瓶」に変わる。時間が読み込

替えるだけで、クラインが一人で跳んでいるよ

まれ、焦点が深くなる。


Leap into the Void Yves Klein Harry Shunk, Janos (Jean) Kender ¦ 1992.5112 ¦ Work of Art ¦ Heilbrunn Timeline Art History ¦ The Metropolitan Museum of Art


RO 花瓶が透明な天窓に乗っているのは親切です

的に「わたし」という、僕とは必ずしも一致し

よね。どこまで見尽くすかって、「作者の意図」

ないものを導入して、展示会場のなかを動かし

を見通せたような、しっくりはまったような感

て、その「わたし」に展示を「ひととおり見た

触があると、なるほどと満足して切り上げるタ

ことにできる」性をどうやって回収させるかを

イミングになると思うんですが、この花瓶は展

実験しました。それが先程言ったふたつのテク

示の冒頭の大きなヒント、言ってしまえばあか

ストです。

らさまでさえある手がかりになっていると思い

奥泉さんが柱の例で仰ったように、ものを見る

ます。室内の展示が床によって漫画のコマのよ

とき、見える部分と見えない部分が必ずあるわ

うに分けられているのに比べて、この花瓶だけ

けですよね。普通の経験のレベルでは、この柱

は上下が同時に見える。位置を明快に提示され

の見えている部分は四角いから、裏側もそうだ

ているので、本当にかつてそこにあったように

ろうと当て推量で見る。見えない部分を経験則

見える。これが展示全体のコンセプトを伝えて

で想定しながら歩くと、しばしば裏切られるこ

いるのはポイントになっていると思います。

とがある。ドゥルーズは、どうやったらそのよ

TF 見たことにできる、という虚構のレベルの引

うな奥行き的な視覚が発生するのかということ

き受け先をどう確保するかという話ですね。僕

の根拠を問うわけです *7。今僕が誕生したとし

は「Surfin 」の展評や、ウェブ版美術手帖での

て、人間をぱっと見たとき、その裏側に何か「裏

リー・キット展評から今回のトークまで連続し

側的なもの」があるかどうか知る由もなく、た

て考えているのは、インスタレーションをどう

だ二次元的なビジョンとして僕の目に送られる

批評すればよいのかという問題です。映像や絵

わけです。でも記憶が蓄積すると、その裏側が

画ならば、どこからどこまで見れば「見たこと

想像できるようになる。なぜそんなことが可能

にしてよい」かが、比較的コンセンサスが取り

かという問いへのドゥルーズの答えは、他者概

やすいと思うんですが、でもインスタレーショ

念がその人にインストールされた瞬間に奥行き

ンはどうか。これは批評のスタイルに関わって

が発生する、というものです。僕にはここしか

きます。たとえば一方でフォーマリスティック

見えていないが、ある他者がいて、向こう側の

に作品に内在したり美術史的な文脈を追ったり

他者からは、その柱の向こう側が見えているだ

という、客観的な書き方がある。あるいは他方で、

ろうということが成立する。それによって物事

ある種の紀行文スタイルで、 「私がそこに行って、

の奥行きや裏側が経験にインストールされる。

こういう順番で見て、こういうことを思いまし

統合失調症や自閉症といったある種の病的な状

た」というものがあります。客観的なエビデン

態では、他者概念がインストールされないため、

スに根ざすスタイルと主観的な体験に根ざすス

物事の裏側があるということを信用できなくな

タイル、大きく分けてこの二つがあると思うん

る。見えたものしか存在しない、見えないもの

ですが、インスタレーションでどちらをとるか

は存在しないという世界に放り出される。

はかなり難しく、僕はすごく悩むわけです。

重要なのは、見える部分と見えない部分とが連

これが「どうやったら見たことにできるのか」

携しあって他者概念が成立しているという常識

という問題と強く結びついているわけです。イ

的世界と、見えるものしか存在しないという極

ンスタレーションってそもそも一望ができない

端な世界と、どちらをとってもあまり生産的で

し、とはいえ客観性を確保するためにはエッセ

はない気がするんです。僕が重要だと思うのは、

イ風に書くのは違和感がある。そのとき、虚構

部分的に見えていないものがあることを使って、


花瓶を見上げる

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019


ある種の裏切りによって一望できてしまう瞬間

場その場で立ち現れる単独性、それは、経験に

をいかにして経験にうがっていくか、打ち込ん

基礎づくゼロ度の単独性の上に、キャラクター

でいくかということです。部分的に見える/見

が随時読み込まれたり、〈キャッシュが破棄〉さ

えないことをスイッチするのではなく、絶対的

れることで動的に立ち上がりつづける」と書い

に見えるもの/見えないものを分けてしまうの

ています。これはブラウジングをスムーズにす

でもなく、部分的に見えないものがありながら

るために蓄える情報である「キャッシュ」から

その想定を罠として使って、全部急に見えたこ

とった語ですが、前に入力した情報や見た映像

とになってしまう状況です。『眼がスクリーンに

を残しておく。これで比喩できるようなことは

なるとき』ではこれを「リテラリティ」と呼ん

鑑賞でも起きていて、たとえば本展でも水槽の

でいますが、「文字通りこれがここにあり、それ

水 に つ い て、映 像 作 品 や 絵 画 作 品 の 内 容 を

以上でもそれ以下でもない」という状態が現れ

「キャッシュ」にして、読み込まれるべき情報や

る。それを人間はある種受動的にするわけです

その読み込みの速度が少し変化するわけです。

よね。そうした受動的な契機を鑑賞の経験のな

そうした「見たことにしてしまう」順序の、速

か に 打 ち 込 ん で い く こ と を 僕 は 考 え て い て、

度的な構成が、インスタレーションの時空間の

「Surfin 」展評の段階でも取り上げています。 EO「Surfin 」評のタイトルは「鑑賞の氷点と融点」

なかで作り出せる。氷点と融点のコンポジショ ンですね。

といいますが、この「氷点/融点」という言葉 がそのイメージを象徴していると思います。こ

RO そうやって蓄えられた情報によってより加速

のとき重要なのが、融点におけるリテラルな状

していくものですが、物を見たときに印象が深

態だけではやはり鑑賞は成り立たないというか、

くなるのは、そこに因果関係を発見したときだ

赤子の誕生直後の見える印象以上のものになら

と思います。たとえば二階のプールの縁は、一

ない点だと思います。そこから、赤子は何かを

箇所タイルが除かれている部分があって、そこ

見つけて、記憶と何かの結晶を作ってスパーク

を覗くと、プールに入れられる水位の限界を示

する。この瞬間を特権化してしまったのがジャッ

す「MAX」という線が見えるようになっている。

ク・ラカンですが、そうした「見えないものはやっ

こういう、根拠があるのかないのかわからない

ぱりあったんだ」という氷点は、生のなかで何

小さな操作、小ネタのようなものが山のように

度も繰り返し起こりうるものだし、とくに老い

あると、他にもなにか見つかるかもしれないと

の段階においては顕著だと思います。氷点と融

いう気持ちにどんどんさせられて、いつ出よう

点とはずっと交互に入れ代わり立ち代わり現れ

か、まだ観ようか、だんだんわからなくなると

る。凝固と溶解がつぎつぎ起きるという鑑賞は、

いうのが展示空間の恐ろしさだと思います。本

先程福尾さんが話したような、芸術表現が映し

展でも空間や作品のレベルで小ネタは散りばめ

出す主体性のモデルとして、特にインスタレー

られていて、そのうえに大きな因果関係として

ションが対応できるひとつの形として注目でき

「落下」が据えられている。落ちている什器を観

ると思います。

て「落下なんだ?」と思って、花瓶を見て納得

福尾さんの展評が掲載されている「Surfin 」の

して満足する、という段階的な心理の操作は、 「い

アーカイブサイトには、展示者による座談会「カ

つ見尽くしたかわからない」という恐怖心のよ

ラ オ ケ」も 載 っ て い て、そ こ で「キ ャ ッ シ ュ」

うなものにたいする救いかのように私には思え

という表現を僕がしています。「現象的に、その

ます。それに関してはどうお思いですか?


− MAX

大岩雄典個展「スローアクター」, 2019


EO 2017 年に松永伸司さんと「バグる美術」

込むことでその落下を「落ちなおす」、「全クリ」

というトークイベントを開いたことがあります。

に近づくようなデザインがなされていると思い

そこでゲームにおける「網羅の欲求」について

ます。理解のピークをどこに置くか、という話

話したことがあります。たとえば『ポケットモ

はミステリ小説のモデルでも考えられると思い

ンスター』シリーズでは、数百種類程度のポケ

ます。「後期クイーン問題」というミステリのア

モンしか出現しないので、その程度ならコンプ

ポリアがあって、操り問題とも言われるもので

リートしてずかんを埋めようという気になる。

すが、それは「ある犯人を指すいかなる証拠も、

でもこれが数万、百万匹だとその気になれない

別の真犯人によって拵えられたものかもしれな

と思う。ビデオゲームの要素はそうしたキャラ

い」という話です。その犯人さえ、真犯人に操

クターだけではなくて、たとえばスチルやボイ

られていたかもしれない。そしてその真犯人さ

スを集めるとか、マルチストーリーとか、その

え、さらに上位の真犯人に……という無限後退

ゲームにおいてありえる要素を網羅したいとい

です。探偵の推理もこれに沿って高階化するこ

う欲求が喚起されます。でも、ゲームの世界観

とはしばしばありますね、面白いのが、これを

をとりあえず味わうという規準は、おおよそ「一

論じている諸岡卓真『現代ミステリの研究』では、

周クリアする」のが共有された感覚かなと思い

ではなぜ「推理は終結するのか」にひとつの答

ます。やっぱりそこでは、ストーリーのような

えを提示しています。犯行の確定はたしかに論

存在者が、ある鑑賞の代表的な規準として機能

理的には無限後退してしまう、ではそのときに

している。ただこの「クリア」という語は面白

披露されてついに犯人逮捕に至る探偵の推理と

くて、「全クリ」という俗語がゲーム文化にはあ

いうのは、「説得力」に支えられているのだと。

るわけですよね。それの指すところは標準の一

つまり、ロジックではなくレトリックが、事件

周プレイより少し多くて、隠し要素のコンプリー

に輪郭を与えるわけです *8。そうしないと推理

トとか、ある条件下でのエンディングとか、ゲー

小説というのは「書けない」わけで、何かの理

ムごとに、「やりこみ」の程度が想定されている

解のピークのようなものがデザインされるもの

わけです。『ポケットモンスター』ならば、ポケ

だと思います。それがインスタレーションを輪

モンリーグでの優勝という質的クリアと、ずか

郭づけるというか、極端にいえば、ランダムに

んのコンプリートという量的クリアとの二重の

配置して無数のノードをただ配置するものでは

クリアが想定されているわけですよね。その意

ない、何かまとまった経験をもたらすものとし

味で、「全部見たことにする」ための「救い」と

て成立させる要件だと思います。

いう話はこの「クリア」の置き所ともパラレル なように見えます。たとえば、美術展示の入り 口に着いたらとりあえず「クリア」と言えるよ うな心理もありますよね。「知ること」「わかる こと」を構造に含んでいるこの展示では、そう した「クリア」の置き所が、やはり落下にかん する知をめぐって調整されるかと思います。イ ンスタレーションの構造としての落下を象徴し ているのは花瓶ですが、映像作品や、あるいは クラインなどの美術史的なモチーフなど、読み


註 *1 二人ともプロフィールはトーク当時 *2「イサム・ノグチと長谷川三郎:変わるものと変 わらざるもの」(横浜美術館 , 2019.1.12-3.24)公式 サイト: https://yokohama.art.museum/special/2018/Noguc hiHasegawa/ *3 邦訳:ハル・フォスター編、中野勉訳、2014、『第 一ポップ時代:ハミルトン、リクテンスタイン、ウォー ホール、リヒター、ルシェー、あるいはポップアー トをめぐる五つのイメージ』河出書房新社。 *4 公式サイト: https://nm2141.wixsite.com/gaschool *5 ポール・マッカーシーは、クライン《虚無への飛 翔》の「トリック」について着目し、ウォーホルが 大学で講演するという虚偽をふりました詐欺事件の 記録とともに並べている。「キャンパスでの「ウォー ホル」の出来事とクラインの作品とをこのようにペ アにすることで、マッカーシーはこれらイベントへ の彼自身の反応をとおしてそれを枠付けることで、 個人的な歴史と公的な歴史とを接触させる。彼〔マッ カーシー〕は、それら不正直な(duplicitous)ジェ スチャーが、彼らが鑑賞者̶​̶若き日のマッカーシー を含めて̶​̶のための必要、つまり挑発的で魔術的 な個人としてのヴィジュアル・アーティストのイデ アを信じたいという必要を暴く限りで「うまくいっ ている」ことをこそほのめかすのだ。」Ken Allan に よるレビュー記事より: https://www.x-traonline.org/article/paul-mccarthyslow-life-slow-life-part-1 *6 蓮實重彦、1979、『映画の神話学』、泰流社、の ち 1996 年に文庫版(筑摩書房)。 *7 ジル・ドゥルーズ、小泉義之訳、1969=2007、 「ミ シェル・トゥルニエと他者なき世界」『意味の論理学 (下)』河出書房新社、所収 *8 諸岡卓真、2010、『現代本格ミステリの研究: 「後 期クイーン」をめぐって』北海道大学出版会。また 大岩が記したテクスト「双子のステップ:古畑任三 郎シリーズ『今、甦る死』『ラスト・ダンス』につい て」も参照。 euskeoiwa.com

re・だんだん・see 一望できないものの設計と批評

個展「スローアクター」内企画 , 2019


̶​̶池袋 2019 年 3 月 17 日日曜日 22:13̶​̶

確か 2 月なかばくらいの週末に行ったんだけど  わたしはすこんと Q.E.D. と思ってしまった  うーむ 汲み尽くせなさみたいなものにもっと 真摯であるべきだったかもしれないけど でも ほらわかった気がするときって乱暴に気持ちよ くなってしまうじゃん あ カルピスサワーをもう一杯 お願いします ……

まず 出入り口の床に割れた花瓶が落ちてて  かつて活けられていたらしい黄色い花も一緒に 投げ出されてやや萎んでる そのときはそこで 頭上を見上げようなんて思いもしなかったんだ けど これは後になってさらっと回収される伏 線になってるの

展示室の中に入るととても暗くて その部屋は ぜんぶ瓦礫 ぱっと見は瓦礫に見えるものばか り配置されていて イブ・クラインのことを知っ てる? みたいなことを日本語で話す女の子の 音声がなんどもくりかえし流れて 英語の字幕 が投影されてる イブ・クラインはまあ知って るけどイブ・クラインのことはほぼ知らないなっ て わ た し は 思 っ た 女 の 子 の 声 は ひ と た び 知ってしまったら知る前の自分にもどることは できない みたいなことも言っていて そのと きは来たばかりだからなんとも思わなかったけ ど 帰るときにはこれもあーなるほどって納得 していて なんでかというと うーむ ちゃん と順を追って話さないと…… あ ありがとうございます おでんと赤かぶの 漬けたのも頼んどく?


それでね 駒込倉庫というのがギャラリーの名 前 ちいさな 2 階建てで 全体はこんな感じを している まず はしっこの出入り口から 1 階 の瓦礫の展示室に入る 奥までたどり着いたら 階段を登る 階段を登るとすぐそこに映像作品  EVENTUALLY EVEN が あ る そ れ を 見 た あ とで 2 階のあかるい展示室へ進む それを奥ま で見たら引き返して 同じ階段を降りて 1 階へ  それで瓦礫の展示室を再び見ることになる

写真ちゃんと撮れてないけど 1 階の様子はお およそこんな感じ……

念のため瓦礫を観察したけど そのときはなん のことだか分からなくて 意味をぜんぜんむす ばない 考えても仕方がないかなと思ってとり あえず階段を登ったんだけど でもちゃんとあ とでぜんぶわかるの

階 段 を 上 り き っ た と こ ろ で 映 像 作 品  EVENTUALLY EVEN が あ る 上 映 さ れ て い る  というより ある というかんじだったな  やや長めの作品で 何分くらいかな 体感だと 15 分くらい だからちょっと細かいところまで は覚えていないんだけど できればもう一度見 たいな 大岩さん 他の作品は YouTube にあげ てらしたと思うけど…… でもあの作品 会場 specific って感じもするもんね…… 映像は 壁掛けのスクリーンではなく 床に投 げ出された縦長のディスプレイに映し出される  た ぶ ん だ け ど ス マ ホ を 縦 に し た ま ま そ の デ ィ ス プ レ イ を 写 真 を 撮 っ た と き ち ゃ ん と シーンが入れ子になるようにするためだと思っ たよ つまりは…… あー これすごくおいしいね 低反発枕みたい なはんぺん


うむ それでね 映像はループ再生されていて  わたしが階段を上り終えたときにはちょうど 柔道の話をしていた 英語で話す男性の声で  画面には日本語字幕と なんていうか語り手の 心象のようなものが写っている 最初はなんの ことだかさっぱり分からない でもじっと映像 を見ていると語りのレイヤーがなんとなく見え て く る 語 り 手 は 一 人 な ん だ け ど す ご い ポ リ フォニックで それでも一貫した主題はあるよ うに見える(なんか 記憶って一続きの物語の なかに保たれている感じがするから そこに縮 約しづらいシーンって捨象されてしまうよね  わたしはわりあい勝手に妄想しがちな性質だか ら もしかすると歪めて記憶しているかもしれ ない……) ともあれ映像はおよそこんな感じだった 男の 声が自分の置かれた状況を独白している 階段 を下りながら 海のほうへと下りながら 何冊 かの書物を見つけそれを読む どうやら階段を 降りつつ正しい本を見つけなければ解毒剤を手 に入れることができないみたいなルールである ら し く な ん だ っ た か な つ い に は (Eventually)階段で足を滑らせて落ちてしまう という毒の解毒剤だったっけ? その毒は遅効 性(slow-acting)で 男はまだ落ちていないけ どいずれ落ちてしまう だから解毒剤を手に入 れんがために階段を降り続けている 確か 3 冊くらい本が出てきたと思うんだけど  柔道の本と イブ・クラインの本と シャーロッ ク・ホームズと ナイアガラの滝の本? 記事?


あれ 他にもあったっけ あそっか 柔道の 本はイブ・クラインの本だったね確かに うー む とにかく 語り手の男自身が落ちようとし ているだけでなく 男が読んでいる書物の中の ひとたちも落下している ただ 書物のなかの 人たちは助かってるみたいだった ホームズは ライヘンバッハの滝から落ちたけど結局死なな いし ナイアガラの滝に落ちた少年も結局奇跡 的に助かっている(映像の中では読むごとに死 んでいたり死んでいなかったりするけど 史実 としては) 階段を下って本を見つけないと解毒剤に辿り着 けず落ちてしまう というのはかなり理不尽な ゲームだよね でも 男の話を聞いているわれ われ来場者もこの理不尽なゲームに参与させら れているっぽいみたいなことがじわじわわかっ てくる ぜんぶに言及するとキリがないけど だからこ の映像にはメタフィクション的な仕掛けがそこ らじゅうに張り巡らされていて 語りの中の語 り 録音の中の録音 録画の中の録画 そうい うシーンが語りのレベルを混乱させて それを 見て 聞いて 写真や動画に撮っているあいだ に われわれも混乱した語りの中に紛れ込む用 意ができている(映像の写真は撮りわすれちゃっ たけど……)

そういえばこの時点でイブ・クラインの著作の ことをわれわれはすでに知ってしまっていて  最初の女の子が言った通り もう知らなかった 状態には戻れないのだけど それはまだぜんぜ ん序の口で……

映像を一周だけ見て あまり要領を得ないまま だったけど 続きが気になるので最後の部屋へ 進んでしまう 瓦礫ではないほうの展示室へ  写真を何枚か撮ったよ 全体図ではないけど  こんな感じ…… 白くてあかるくて きれい  うららかな緊張感


この部屋にも細かな仕掛け 来場者をゲームに

わたしの写真には写ってないけど 白い階段

巻き込むためにさまざまな語りのレベルをまぜ

とは別に青色の階段があって そこにイブ・ク

こぜにするための細工はたくさんあるんだけど

ラインの柔道の本が置いてあったから

ざっくり言うと あ 終電何時だっけ? ま

そろそろ帰ろうかなと思ったとき どうしても

だあと少し大丈夫だね…… 最後の赤蕪 食べ

階段を降りて 1 階へ降りなければいけないこと

ちゃうね

に気づき ね ここで渋い顔をせざるを得ない

ええとね 展示室は 白い階段が背骨みたいに

よね? もうじわじわ効いてたんだってわかって

真ん中をつらぬいてて それを上った先の白い カーテンの向こう側に水の張られたプールがあ

ハンドアウト見てみて ボールがいくつか載っ

てるでしょ SURVIVED BALL FROM NIAGARA  というやつ これらも 2 階の展示室にあるん

部屋の出入り口でハンドアウトを手に入れるこ

だけど こいつらは階段を降りずにぷかぷか浮

とができて そこにいくつかのルールが明記さ

き続けていることができるっぽい そういえば

れている ハンドアウトはね あ やった ま

ナイアガラの滝の男の子も 木彫りのホームズ

だポケットに入れっぱなしだ 展示されている

も プールにぷかぷか浮いていたなあ やつら

もののリストと 禁止事項およびインストラク

は駒込倉庫の 2 階から降りる必要がないんだよ

ションのリスト

ね ああ してやられたり

ハンドアウトで許可されている通りに 階段を

わたしはここから帰らねばならず 2 階から降

昇ってプールのほうへ進む カーテンの向こう

りるためには 飛び降りるか 階段を降りるか

側を見ようと背伸びをしたんだけど でもわた

どちらにしたってもう嵌められている ヘリ

しは背丈が低すぎてプールが見えなかった 向

を呼ぶわけにもいかないし

こう側にガラス瓶に活けられた黄色い花がある

仕方がないのでもと来た階段を降りて 1 階を目

のだけ見えて そのとき事態が猛烈にクリアに

指す 残りの段数を数えながら降りる もうオ

なった

チは 文字通り落ちは! わかっていて

ちゃんと順番に話すね 次に これもハンドア

1 階の展示室の瓦礫をもう一度観察すると 2 階

ウトで許可されている通り カーテンを開けて

の展示室からわたしと一緒に落ちてきたもので

中に入ると ナイアガラの滝から落ちて救出さ

あるとわかる どれもこれも 2 階の部屋の物

れた男の子について書いてある新聞の切れ端

の配置とほぼ対応していて 砂糖壺 おもちゃ

それから ホームズの横顔のシルエットがくり

カーテン ハンドアウトまでぐしゃぐしゃに

抜かれた木切れが プールに浮いている つま

なって だけどあのボールたちだけはちゃんと

りこれは とりあえず 2 冊は見つけることがで

助かっていて 1 階には見当たらないでしょ……

きたということかな? いや 新聞と木切れだ

うわあ……

けだから本を見つけたことにはならないのか な? とかそこで考えつつ プールをひととおり見たあと白い階段を降り始 めて 残りの一冊はわりあい簡単に見つかった


女の子の声が ひとたび知ってしまったら知る 前の自分にもどることはできない みたいなこ とを相変わらず言い続けていて 確かに 否応 無しに足を滑らされてしまったのだということ を抜きにしてこの空間を見渡すことはとてもで きなくなってしまっていて slow-acting の毒が そのときやっと効いて だから展示が SLOW ACTOR 遅行的に効く毒それ自体として名付け られているんだって合点がいった あーあ こ のわかりかたはすごく気持ちがいいな(だから こんなにべらべらとしゃべってしまった ごめ んね)すごく気持ちのいい毒だったけど……  でもこの毒が気持ちいいというのはやっぱすご く怖いよね この怖さはあえて暴き出されたと いうことなのかもしれないし あるいはわたし が毒の物語にことさらに没入しているだけなの かもしれないけれど……

帰るときにはちゃんと割れたガラスの花瓶の上 を見上げたんだけど 出入り口付近の天窓から  まだ落ちていない黄色の花と花瓶が透けて見 えてて なぜか 解毒剤は失われてしまったの だ と思った…… あ そろそろ行く? 湘南 新宿線って終電早いよね すみません お会計 を…… あのね これはあとからググって知っ たんだけど ナイアガラの滝に落ちて生き残っ た人ってわりとたくさんいるんだって

̶​̶池袋 2019 年 3 月 17 日日曜日 22:34̶​̶

すごくこわくてきもちいい毒がじわじわ効いてくる

河野咲子 ,(大岩雄典個展「スローアクター」をめぐるおしゃべり), 2019


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