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そこで、この記事の出だしにある神様とイエス様の 会話のシーンになります。実際の会話がどうであった かは分かりません。でも、イエス様は地上におられ た時に、ぶどう園の主人から管理を任された農夫たち のたとえ話(マタイ21章 33 - 43 節を参照)をするこ 築 紫 裕 子 とで、それまで神様が何度も使いを送ったけれど、望 「父さん、わたしが行きます。 」 んでいるような変化がなかったため、今度は神の息子 「わかった。息子よ、よろしく頼む。 」 であるイエス様自身が地上に来ることになったことを 「父さん。あなたの願いはわたしの願いです。わたしたちの愛する 説明しています。イエス様は、人と神との関係を、本 者たちが皆、天とのつながりを取り戻せるよう、地上に行ってきます。 」 来あるべき愛と信頼に満ちたものに戻すことを願って、 仲介者として地上に来られたのです。 神様とイエス様の間で、こんな会話が交わされたかどうかはわか りませんが、聖書にはそれを思わせるような記述が随所にあります。 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至る クリスマスは、イエス・キリストが地上にお生まれになったことを ことを望んでおられる。神は唯一であり、神と人 お祝いする日ですが、世の初めから神様と一緒に天におられたイエ との間の仲保者もただひとりであって、それは人 ス様が、どうして人間の赤ちゃんとなって地上に生まれてきたので なるキリスト・イエスである。 (テモテへの第一の手紙 2 章 4 - 5 節) しょうか。今回は、そのことについて聖書から見ていきましょう。 まずは、神様が人間を造られた場面です。 でも、そんな仲保者(仲介者)となるためには、大 神はまた言われた、 「われわれのかたちに、われわれにかたどっ きな犠牲を要しました。まず神としての天の場を去り、 て人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての この地上で人間として暮らし、最後にはご自分の命を 獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」 。神は自分のか 捧げることで、全人類の救い主となられたのです。 たちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女 (創世記 1 章 26 - 27 節) とに創造された。 キリストは、神のかたちであられたが、神と等し くあることを固守すべき事とは思わず、かえって、 神様は、六日かけて地球やその周りの宇宙、そして地球上の生物 おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の を造られましたが、その中でも人間は特別だったようです。という 姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれ のも、人間は神様にかたどって造られ、その他の生き物を治めるよ を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に うにと定められたからです。 至るまで 従順であられた。それゆえに、神は彼を 神様は人間に、他の生き物にはない独特な能力を与えてください 高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わっ ました。たとえば、ものを作り出す創造力、多彩な方法でものごと た。それは、イエスの御名によって、天上のもの、 を表現する表現力など、神様の特徴ともいえるような能力が与えら 地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざ れています。もちろん、人間にはない能力を有する生物も多々あり をかがめ、また、あらゆる舌が、 「イエス・キリスト ますが、他の生き物を治めるという役割が与えられたのは人間でし は主である」と告白して、栄光を父なる神に帰する た。 (ピリピ人への手紙 2 章 6 -11節) ためである。 「治める」というと、生き物に対して自分勝手なことをするとい うイメージを持つ人もいるかもしれませんが、神様は人間が、賢い このことを通して、イエスを救い主として信じる者は、 管理者として、愛と知恵をもって世話することを望んでこの役割を 「神の家族」になれるのです。それは、神様が人間を創 与えてくださったのです。その任務をしっかり果たすには、すべて 造された時からの願いでした。神様は人間を、自分に を創造された神様と良いつながりをもっていなければなりません。 ひれ伏す家来ではなく、神の友、神の家族になるよう 神様が最初の人間であるアダムとエバをエデンの園に置いた時、 にと造られたのです。 彼らは神様ととても良い関係を持っていました。共に散歩をして、 いろいろなことを語り合える仲だったのです。ところが、エバが悪 すべての人を照すまことの光(イエス)があって、 魔に騙されて、神様の教えを疑い反抗した時から罪が入り込み、神 世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によって 様と人間との間に隔たりができてしまいました。その後は、歴史を できたのであるが、世は彼を知らずにいた。 彼は 見れば分かるように、人の世は悪で汚されていったのです。 自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれ そんな様子を見て神様は心を痛め、天使や預言者などを通して、 なかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、 その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を 悔い改めるようにとのメッセージを何度も送りました。人々がそれ 与えたのである。 を素直に受け止めて生き方を変えた場合もありますが、多くの場合、 (ヨハネによる福音書 1 章 9 -12 節) そのメッセージを無視し、時には伝えた者たちを虐待しました。
ʴ↗ↆ↕ဃ↭↻ᅕ -- 神と共に歩む人生をもたらすために
あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊 あな 奴隷の霊 を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊 を受 を受けたのではなく、子たる身分を授け 授ける霊 を受けたのである。その霊によって、わたし を受 を受けたのである。その霊によって、わ 、わたし たち たちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 る。御霊 たちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊 みずから、わたしたちの霊と共に、わたした ちが神の子であることをあかしして下さる。 もし子であれば、相続人でもある。神の相続 人であって、キリストと栄光を共にするため に苦難をも共にしている以上、キリストと共 同の相続人なのである。 (ローマ人への手紙 8 章15 -17 節) あなたがたは、もはや異国人でも宿り人でも なく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の 家族なのである。 (エペソ人への手紙 2 章 19 節)
こんな壮大 こんな壮大な計画の内に人間が造られたことを想うと、ただただ驚き 壮大な計画の内に人間が造られたことを想うと、ただただ驚き 壮大 です。でも、 も、 「神の家族」としていただいたのに、すっかり神様のことを 忘れている場 る場合もあるのは残念なことです。それはまるで、家族がいる る場 忘れている場合もあるのは残念なことです。それはまるで、家族がいる のにほとんどコミュニケーションもせずに過ごしているようなものです。 のにほとんど んどコミュニケーションもせずに過ごしているようなものです。 んど せっかくイエス様が、神様とのつながりを取り戻させてくださったので すから、もっともっと神様やイエス様と共に歩んでいきたいものです。 神と共に歩む人生には、天からの力と祝福が約束されています。もし、 まだイエス様を心に受け入れたことがないなら、または、受け入れたけ れど神様とのつながりを強めたいなら、次の祈りで神様との絆を回復し てください。 「イエス様、私が神の家族の一員となれるように地上に来てくださっ たことを感謝します。私はあなたを救い主として信じます。どうぞ今、 私の心に入り、これからの人生を導いてください。そして、日々、あ なたや天の父と共に歩むのを助けてください。イエス様の名前で祈り 」 ます。アーメン。
神と共に歩む人生の幸い -- 聖書にある約束の言葉 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいこ とがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこ いのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきか えらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれ る。 (詩篇 23 篇1- 3 節) 神はわれらの避け所また力である。悩める時のい と近き助けである。(詩篇118 篇 6 節) あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。 主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱る ことなく、また疲れることなく、その知恵ははかりが たい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強 さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、 壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望 む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、 のぼることができる。走っても疲れることなく、歩 いても弱ることはない。 (イザヤ書40章 28 - 31節)
主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しい ことが ないからである。若きししは乏しくなって飢 えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠 けることはない。 (詩篇 34 篇 4 -10 節) あなたがたが わたし(イエス)につながっており、 わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、 なんでも望むものを求めるがよい。 そうすれば、与 えられるであろう。(ヨハネによる福音書15章 7 節) すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもと にきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 (マタイによる福音書 11章 28 節) 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から 助け出されるからである。主はその羽をもって、あ なたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を 得るであろう。 (詩篇 91篇3 - 4 節)
あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。 主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨て られないであろう。 (申命記 31章 6 節)
わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、す 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。そ の名はインマヌエルと呼ばれるであろう」 。これは、 「神 べての恐れからわたしを助け出された。主を仰ぎ われらと共にいます」という意味である。(マタイに 見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥 よる福音書 1 章 23 節 イエス・キリスト誕生の預言) じて顔を赤くすることはない。この苦しむ者が呼 ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救 い出された。主の使は主を恐れる者のまわりに陣 見よ、わたし(イエス)は世の終りまで、いつもあな をしいて彼らを助けられる。主の恵みふかきこと たがたと共にいるのである。 を味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。 (マタイによる福音書 28 章 20 節)
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