総集編 〈 越境と躍動のフィールドワーク〉 『サステナ』第1号(2006年10月)~第14号(2010年1月)
〈 忘れられた当たり前を探す: 目からウロコのフィールドワーク〉 『サステナ』第15号(2010年7月)~第47号(2019年3月)
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4︶ 。心休まる農村の風景、話者の微
妙な表情、歩いて体感した隣村までの 距離感、ぼくとつと話す長老の声、会 話の間合いの変化。このような雑多な 刺激から、いかにして意味ある情報を 引き出すのか。ちょっとした変化の意 味をいかにして読み取るのか。また、 直接見たり聞いたりすることが困難な ものを、いかにして見聞きすればよい のか。 現場でこのような課題に直面してい ると、おのずと特定の学問分野を越境
問分野を越境し、学問それ自体をも越
こうして、フィールドワークは、学
とが有効な場合もあるのだ。 性に感謝しつつも、それを超える﹁何
という、実にスリリングな知的営みな
境し、そしてスケールを越境する。フ
治体による資源政策︵環境政策︶ と繫ご
するフィールドワークの試行錯誤を、
のである。このような、まさに﹁躍動﹂
か﹂を 成することへの欲求が高まる。
うとしたとたんに、 ﹁現場にいるだけ
をかけて培ってきた人間力が試される
人間と森林や野生動物とのかかわり
ではわからないことがある﹂というこ
ィールドワークは、その人が長い年月
を探るためのフィールドワークをやっ
そして、フィールド研究を、地域発
ていると、研究室にいては知るよしも
若手研究者にリレー執筆してもらおう。
とに気付く。むしろ現場から離れるこ
展の実践活動、あるいは国家や地方自
の﹁知﹂を最大限活用することの有効
せざるを得なくなる。と同時に、既存
図 4 マハカム川上流域のダヤック人の暮らし のひとこま.インドネシア・東カリマンタン州に て.(2004 年 8 月,井上真撮影)
ない様々な刺激に遭遇する︵図3、図
帯の宣伝文句である。
つなぐ﹄︵世界思想社、二〇〇六年︶の
図 3 マハカム川最上流の村へ向かう.インドネシア・東カリマ ンタン州にて.(2004 年 8 月,井上真撮影)
る定期客船と村の船着場(2005 年 8 月,
マラリアやデング熱といった熱帯病、
すから、人生とはわからないものです。
ドワークに取り組むことになったので
んな私が危険と隣り合わせのフィール
横転しそうになる恐怖を経験しました。
はこれまでにチフスに罹ったり、車が
を完全に避けることは至難の業で、私
策をおこなっています。それでも危険
講じておくなど、できる限りの安全対
急時を想定して移動手段や連絡手段を
な対策を怠らず、フィールドに出向く
バランスは悩ましい問題ですが、適切
ければなりません。やりがいと危険の
命は大きく、勇気を持って前に進まな
むフィールドワーカーに与えられた使
将来がかかっている環境研究に取り組
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想定した手順に従うことで発熱の翌日
には信頼できる病院にたどり着けまし
た。また、車が横転しそうになったケ
ースでも、シートベルトの着用という
基本を守っていたおかげで怪我をせず
にすみました。ですから、たとえ危険
に遭遇しても、安全対策を怠っていな
ければ被害を最小限に抑えることは可
能です。マラリアについても防蚊対策
と予防内服を徹底することで、これま
でのところ罹らずに済んでいます。
フィールドワークは危険を伴うこと
からどうしてもその意義が問われます。
私自身、 ﹁続けられるのか?﹂と迷い
事故や事件に巻き込まれる恐怖など心
が生じる時があります。しかし人類の
配はつきません。それゆえ専門医から
心構えが必要だと思っています。
ただし、チフスに罹った際は、事前に
図 4 村の女性たちが設立したクレジット・ユニオンの役員や スタッフの皆さんと(2005 年1月,中央が筆者) .
健康管理のアドバイスを受けたり、緊
図 3 マハカム川を 筆者撮影).
3
どこかでなくなったということであり、
ークを経て、自分にとってそこが遠い
なったことです。それはフィールドワ
げた時、今は必ず人の顔を伴うように
研究前と決定的に違うのは、国名を挙
な感情の結果だろうと思います。そし
ながら接する中で経験していく、様々
はり現地での生活で、お互いに顔を見
な思い入れが湧いてきます。それはや
土地とそこに暮らす人々に対して特別
す。フィールドワークをすると、その
関心を持つことはすべての始まりで
意義があるのだとも言えます。たとえ
と起こるものですし、だからこそ行う
していても予期せぬことが次から次へ
フィールドワークはどんなに準備を
です。
クを続ける上での財産になってくるの
てこの心のつながりがフィールドワー
ば危険が身近に迫っているときの空気
は、旅行者には分からなくても現地の
人には分かる場合が多い。私も何度も
現地の仲間のアイコンタクトに助けら
れ ま し た︵図6︶ 。確 か に、フ ィ ー ル
ドワークと危険は隣り合わせの関係に
あることも否定はできません。ただ、
危険は不可避なものでなく、その危険
から身を守れるかは、現地での心のつ
ながりがとても大切になることも覚え
ていてほしいのです。日本にいても海
外にいても、先進国でも途上国でも、
人の心に触れ、深い人間関係を築くこ
とは、フィールドワークの成功の秘訣
のひとつだとしみじみ思っています。
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気持ちを注げるようになった証拠なの
図 6 街でお土産を売るマサイ族女性と (2003 年 10 月,ガイドによる撮影).
だと思います。
図 5 タンザニアの子供たち(2003 年 10 月,本人撮影).
いるんだ﹂ ﹁所
コウノトリは︵人寄
益があるからコウノトリを受け入れて
話なんて聞いてどうなる﹂ ﹁住民は利
要性を理解しない人からは、 ﹁住民の
一方、住民の方々への聞き取りの必
分自身を振り返ってみるとどうでしょ
民が利益で動くと思うのであれば、自
に組み込むことが必要なはずです。住
住民の話を聞き、その思いを保護活動
学的視点だけではなく、そこに暮らす
け入れられることは必要であり、生物
複する以上、野生生物保護が住民に受
﹁益か害か﹂のどちらかで明確に捉え
関 係 し て い て、住 民 が コ ウ ノ ト リ を
ば農業の衰退や過疎化・高齢化等︶が
歴史的なつながりや地域の実情︵例え
を伺うと、コウノトリとの関係性には、
的な利益だけなのか。住民の方にお話
う。利益のみで動くのか、利益は金銭
ているわけではないことがわかります。
そのような背景を省いて単に﹁利益﹂
というと、コウノトリと住民との多様
な関係性が抜け落ちると感じます。そ
う思うにつけて、これからも真摯に住
っています。
民の方々にお話を伺っていきたいと思
︵注︶コウノトリの野生復帰 コウノ トリは日本では一九七一年に野生下 で絶滅したが、飼育されていたコウ ノトリを自然下に放鳥する野生復帰 が二〇〇五年九月から兵庫県豊岡市 で行われている。二〇〇七年五月現 在、放鳥コウノトリは自然下で一三 羽生息している︵放鳥コウノトリか ら生まれたヒナ一羽を含めず︶ 。
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せ︶パンダだ﹂と言われます。しかし、
図 4 報 告 会 で 報 告 す る 筆 者 (2006 年 12 月 1 日,古 田 大 輔 氏 撮 影).
住民の生活圏と野生生物の生息圏が重 図 3 コ ウ ノ ト リ は翼を広げると 2 m にもなる大きな 鳥 で あ る(2006 年 2 月 8 日,小 谷 繁子氏撮影).
5
する、なんてストーリーはどうだろう。
ボラの数が増えると、焼畑面積が減少
発見に満ちている。例えば、例のパラ
を聞いてまわる。フィールドワークは
関先にパラボラが立てられ、今まで新
レビ、というのは世界共通らしい。玄
ラ整備が進んだ。電気が来たらまずテ
タイ県では電化や道路整備等のインフ
の二倍以上。焼畑農民のような、自給
後。これは現地のサラリーマンの月収
テレビとパラボラのセットで四万円前
にはなったが、問題もある。高いのだ。
ュースが見られるようになった。便利
的で現金収入の少ない人々には手がだ
しにくい。そこへ、ゴムが かるらし
い、という話が村から村へと伝わり、
焼畑をやめてゴムを植える人が現れる。
こうして、パラボラが増えると焼畑が 減る。
もちろん、現在西クタイ県で起きて
いる森林利用の急速な変化の原因はパ
ラボラだけではない。政策、グローバ
ル化、企業の進出など、さまざまな要
因が複雑に絡まり合っている。こうし
とは、フィールドワークの醍醐味であ
たまだ誰も知らない実態を解明するこ
る。今後も、変化の最前線に飛び込み、
地域の人々と同じものを食べ、同じも
のを見ながら、人々の行動の背景を読
み解いていきたい︵図5︶ 。
63
聞もなかった地域で、ジャカルタのニ 図 5 お 世 話 に な っ た家族。たくさんの好 意に支えられている (2005 年 11 月, 右 から 2 人目が筆者) .
二〇〇〇年の地方分権化以降、西ク
図 4 天を仰ぐパラボラアンテナ(2006 年 8 月,筆者撮影).
図 3 高 知 県 い の 町 柳 野 の方たちと筆者.初めて訪 れてから,もう 13 年が過 ぎた.焼畑や植林のことか ら踊りに夜 いまで,本当 にたくさんのことを教わっ た. (2007 年 4 月 渡 辺 寿子さん撮影) .
広い外部社会との関わりが強まり、ま
の人々というつながりではなく、より
人と自然、村人同士、そして周辺地域
村はその変化が激しい。それまでの村
ていないという状況だ。とくに農山漁
新たに核となりうるものが見つけられ
えてきた慣習や価値観までもが崩壊し、
化の激しさに、それまで地域社会を支
そのひとつは、あまりの地域社会の変
んは笑っていた。
怖くてたまらざった、と村のオンちゃ
で、忍び込んだ家のオヤジの咳払いが
ぐ、賑やかな村だった。夜 いも盛ん
から踊り手や相撲取りが来て夜通し騒
場もあり、秋の豊年踊りには周りの村
くところだった、と。柳野は紙漉き工
たいと嫁に来てみたら柳野はもっと焼
焼畑はウンとえろうて、そこから逃れ
いた。あるお婆ちゃんが笑っていった。
戦後、木さえ植えれば貧乏せん、と
た社会内部でのその波及度合いの違い が地域社会に新たな相克を生むのだ。
社会としてある程度のまとまりを維持
とかもしれない。それは、地域社会が
築するための鍵を探しているというこ
その答えのひとつは、地域社会を再構
ネルが抜けても、良い道ができても、
山はイノシシの遊び場になった。トン
者も多かった。スギは収入源にならず、
出るようになった。そのまま村を去る
村人の多くがハタラキ︵雇用労働︶に
の植林が進んだ。山に入らなくなった
の宣伝文句に乗せられて焼畑へのスギ
しながら続いていくこと、そんな地域
自分はなぜ歩き回り続けているのか。
社会の持続性を探ることでもある。 は、ネムノキの花が咲く七月頃、森を
つもの峰を越えてずっと遠くまでポツ
ビルマ・ラカイン山脈の村々。いく
私の大好きな村は廃れ続けている。 焼畑用に伐り開き、アワやヒエ、和紙
リポツリと焼畑が山に張り付いていた
高知県いの町、柳野の人々︵図3︶
の原料となるミツマタなどを栽培して
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のが忘れられない。祖霊の魂が宿ると
︵カミ・血のつながり︶ 、夜 い︵人と
畑︵自然とのつながり︶ 、精霊・祖霊
かな社会を形成していくための﹁当た
に等しい。人が自然を基盤にしつつ豊
な﹂生活の原型図が失われていくこと
ることは、人として到達しうる﹁豊か
80
による強制労働・廃村などに脅かされ
ソロモン諸島ビチェ村。 ﹁気前の良
つつあった。
さ﹂とあいまいさを良しとする﹁寛容
さ﹂に 価 値 を 置 き、資 源 に﹁働 き か
け﹂てみなで利用できるようにし、相
互に助け合うことで形成されてきた社
会が、商業伐採で急速に流入した貨幣
人は﹁利己的﹂になり、資源の利用権
経 済によ り 揺らい でいた ︵図4︶ 。村
の﹁厳格さ﹂を求め、共有資源に勝手
な個人﹁境界﹂を引き始めた。相互扶
助も限定化しつつあった。どの地域社
会も、新たな社会の核となるものを探
し続けていた。
される稲穂を空に放り上げて喜びをみ
のつながり︶ 、相互扶助︵人と人、物
り前﹂を探して、歩き回り続けていき
多様な地域社会とその生活が失われ
なで分かち合う収穫祭。濁酒に挿され
と の つ な が り︶を 核 と し て き た﹁豊
たいと考えている。
か﹂な暮らしは、サルなどの食害、天 候不順による不作、焼畑規制政策、軍
かによって血縁関係がわかり、また異 性と飲めばそれは夜 いの誘いだ。焼
た二本の竹製ストローはどちらで飲む
図 4 小学校の垂木用材の樹皮を削るソロモン諸島ビチェ村の子ど もたち.自分たちの学校なのだから自分たちで建てるのが当たり前だ, という論理がまだ通用する村だ(2005 年 8 月筆者撮影) .
もいるかも⋮⋮﹂と釈明し悪気は無さ
た。青年は﹁ときどき気持ち悪がる人
の伝統にはない﹂と言い切った人もい
その後、村人に聞いてまわったとこ
トカゲだぞっ!﹂ 。 ろ、大半がトカゲは食べないと答えた。
ところがそこに、一人の老人が入っ だ。 ﹁ひええっ! お前たちなんて気
図 4 著者(中央)が博士号を取得したことを村人たちが祝ってくれた (2005 年 9 月,エドウィン・フティ撮影).
そうだったが、少なくとも彼の最初の
てきて、事態は変わった。老人は叫ん
﹁あんなものを食べるのは、われわれ
言葉は正確さを欠いていたようだ。
珍味を味わえたことは悪い体験では
なかった。しかし、自らを省みて浅は
かだったのは、トカゲを伝統的に食す
という説明を疑うことなく信じたこと
だ。これまでに刷り込まれていたステ
レ オ タ イ プ な﹁熱 帯 雨 林 住 民 の 暮 ら
し﹂というイメージを、無意識のうち
に投影していた自分に気がついたのだ。
自らが育った文化的思想から自由にな
ることは難しい。厄介なことに、そこ
から生まれる偏見は、異なる文化・社
えって出てしまうことがあるのだ。こ
会を理解しようと努力するときに、か
れはフィールドでの小さな失敗談にす
ぎないが、自分の内には文化的に偏っ
た考え方があることを自覚することは
誰にとっても必要だろう。
85
持ち悪いものを食べているんだ。それ
図 3 青年が捕まえてきた ト カ ゲ(2003 年 9 月, 古澤拓郎撮影) .
9
地民の歴史的周縁性を背景にして、こ
民社会が僻地に位置していることや山
いるとみられるそうした営為は、山地
サステイナビリティの向上に寄与して
しかしながら、野生動物との関係の
を構築したりもしている。
じめとする狩猟獣の利用に一定の秩序
コントロールを通じて、クスクスをは
な﹁自然保護﹂はサステイナブルなも
改めて指摘するまでもなく、このよう
価値観の否定などの受苦を強いてきた。
地域の人びとに、暮らし向きの悪化や
スとしての﹁自然保護﹂は、しばしば
ローカルな価値に介入してゆくプロセ
物保護﹂といったグローバルな価値が
﹁生物多様性保全﹂や﹁希少野生生
影響を与えているのか。それぞれの地
物と人の関係の持続可能性にいかなる
来知に基づく人びとの営為は、野生動
味や重要性を持っているのか、また在
人びとの暮らしにおいてどのような意
れ、また、そうした野生動物の利用は
地域の人びとにどのように価値づけら
保護の対象となっている野生動物は、
図 4 オ オ バ タ ン ( ).山 地 民 の一部は,ドリアンの樹に罠を仕掛けてオオバタンを生 け捕りし,販売している.クスクスと同様,国内法で 「保護動物」に指定されておりその捕獲・飼育・販売が 禁じられている。また、 「ワシントン条約(CITES)」 の「付属書Ⅰ」記載種 ( 国際取引が原則的に禁止される 種 ) でもある(2005 年,筆者撮影).
方を模索・推進してゆくためには、可
域の実情に即した﹁自然保護﹂のあり
現行の政策のなかで﹁希少﹂とされ
のではないはずだ。
能な限り、人びとの生活世界に入り込
みながら、そうした問いに対する答え
うした作業は、既存の学問の境界を飛
を探ってゆくことが必要であろう。そ
び越えた、躍動感あふれる営みである
はずだ。
今後も、熱帯の僻地農山村を舞台に、
そうした﹁越境と躍動のフィールドワ
ーク﹂を実践することのなかから、地
域の人びとに受苦を強いることのない、
サ ス テ イ ナ ビ リ テ ィ の 高 い﹁自 然 保
護﹂の方策について探ってゆきたい。
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れまでほとんど光が当てられてこなか った。
図 3 ハ イ イ ロ ク ス ク ス ( ).ク スクスは山地民が捕獲・採取している動物性蛋白質の約 5 割を占める.国の法律で「保護動物」に指定され捕 獲は全面的に禁止されている(2004 年,筆者撮影).
リレー連載
越境と躍動のフィールドワーク⑧ サステイナビリティの高い﹁自然保護﹂の方策を探る 財団法人自然環境研究センター研究員︵環境人類学、インドネシア地域研究︶
笹岡正俊
なくとも法規上は、その利用が全面禁
止となっている。また、中央セラムの
山地民はマルク諸島に設定された唯一
の国立公園の周辺に暮らしており、狩
猟獣やオウムを対象とした猟をしばし 筆者が調査をおこなってきたのはセ
然をまもる﹂という目的のために整備
このようにセラム島山地民は、 ﹁自
インドネシア東部マルク諸島セラム
ラム島中部の内陸山地部に位置する一
ば公園内で﹁違法﹂におこなっている。
島。この島の内陸部に点在する農山村
されたフォーマルな自然保護政策に背
物の利用が、地域の人びとの暮らしに
に、 ﹁保護の対象となっている野生動
ここ数年来、筆者はそこをフィールド
ドネシア国内外で需要があり、山地民
希少野生オウムは、ペットとしてイン
いた︵図3︶ 。また、オオバタンなどの
える上で極めて重要な役割を果たして
に生息する樹上棲有袋類 ― をはじめ とする狩猟獣が地域住民の﹁食﹂を支
に特徴づけられるこの地域の﹁在来農
植生への多様な半栽培的はたらきかけ
山地民は高いサゴヤシ依存と土地・
けではない。
るような営為がまったく存在しないわ
テイナビリティを高めることに寄与す
ンなどの野生動物と人との関係のサス
いて生計維持を図っている。とはいえ、
山村である。そこでは、クスクス ― インドネシア東部島嶼部、メラネシア
おいてどのような意味を持っている
のなかにはそれを生け捕りにして販売
少﹂野生動物の利用が地域の暮らしを
では、国によって保護されている﹁希
か﹂ 、また、 ﹁ ﹃在来知﹄に基づくひと
し、現金を得ている村びともいた ︵図
山地民社会には、クスクスやオオバタ
びとの営為は、そうした野生動物と人
ローカルな文脈に埋め込まれた人と野
オバタンをはじめとするオウムも、国
クスクスをはじめとする狩猟獣もオ
と密接に結びついた森へのアクセス・
を り出していたり、また、超自然観
する野生動物と﹁緩やかな共生関係﹂
支える上で重要な役割を果たしている。
の関係の持続可能性にいかなる影響を
4︶ 。
生動物のかかわりあいを詳細に描き出
の法令により﹁保護動物﹂とされ、少
業﹂を通じて、オオバタンをはじめと
与えているか﹂という二つの観点から、
す民族誌的研究を進めてきた。
62
5︶ 。マ サ イ は、さ ま ざ ま な﹁開 発﹂
そんなマサイにとって、国・国際レ
狩猟は保護の名目で禁止され、人間を
を可能にしてきた。それが現在では、
険な動物とも一定の距離を保った共存
恐れなくなった動物が深刻な被害をも
ベルで進められる動物保護は厄介な問
たらすようになっている。マサイは被
題である。例えば、ライオンや象は保 護や観光業において重要な動物だが、
害者の立場から、国や国際機関・NG
れつつも、自分たちが残したいと思う ﹁伝統﹂ ︵牧畜、伝統的儀式など︶は確
マサイにとっては、人や家畜、農作物
Oが主導する動物保護に反対するのだ
︵観光業、キリスト教など︶を受け入
かに残しており、そんな取捨選択を通
に被害をもたらす害獣である。伝統的
が、現実には、そうした声は国際的な
主張の前にかき消されがちであり、日
本でもほとんど知られていない。とは
いえ、最近は、マサイも土地所有者の
立場を利用することで、政府やNGO
保護地域の建設計画に対して、自分た
が推進するコミュニティの土地上への
ちの生活を守る方向への修正︵被害対
策の要求︶を求めるなど、新たな戦略
僕のフィールドでは、政府や観光会
も試みている。
社、NGOの下、行く度に新しい変化
は、そうした外からの働きかけに対し
が起きている。いつも気づかされるの
て住民たちが示すしたたかさである。
91
には、マサイは狩猟で殺すことで、危 図 6 調査先の家族と筆者. 右端の長老(77 歳)からは, いつもマサイの歴史を詳し く 教 え て も ら っ て い る. 2008 年,筆者撮影.
模索しているのだ。
図 5 結婚式用に着飾った マサイ.伝統的な衣服や装 身具を着けているが,会場 までの移動には,後ろに写 る自動車が使われていた. 2007 年,筆者撮影.
じて自らが望む﹁発展﹂をしたたかに
図 4 観光客向けの 集落.集落の女性が 作ったアクセサリー が売られ,伝統的な 歌や踊りが披露され る場所だが,子供の 多くは洋服を着てい る.2006 年,筆者 撮影.
うこともあり、近隣村と比べて貧しく
めの政策のひとつでしかない。
クトでミスリードしてしまったら、 ど
かったが、援助によって新しく道がで
い。村にはこれまで車で入れる道はな
しかし、 それもフィールドにもぐり込
てしまっていたということがよくある。
っていることが、 実は全く勘違いをし
それまで当たり前だと思い込んでしま
自分を見直すためにも、またあの古老
の灌漑設備はどうなっているのだろう。
もうとっくに終わっているはずだ。あ
く経過している。援助プロジェクトも
あの村を訪問してからもう一〇年近
きた。広く整備された道とそれに沿っ
んでいるうちに、 解き明かされ少しず
うなるだろう。
て伸びる水田用の灌漑水路は立派だっ
に会って話を聞いてみたい衝動に駆ら
フィールド調査をおこなっていると、
たが、村の屋敷地の風景とのギャップ
つ実態に近づいていくことができる。
れた。
見えたようで、対象村と選ばれたらし
は、あまりにも似つかわしくないもの
しかし、 それが大きな事業やプロジェ
聞き取りを終える前、念のため古老
であった。
図 4 村人から森林の状況を聞き取る.2005 年撮影.
に今日のことを知っているかどうか聞 い て み た。 ﹁今 日 は 何 の 日 で す か﹂ 、 よ﹂ 。 ﹁でも今日は子供たちも学校が休
﹁今日は普通の日だ、何の日でもない みで、休日じゃないですか﹂ 、 ﹁今日は 彼ら︵ラオス人︶の休日で、我々には 関係がない﹂ 。ハッと気がついた。当 たり前のことだ。役所回りを続けたあ とだったこともあり、今日は休日なの だと頭に刷り込まれていた。多くの民
99
族を抱えるこのラオスにとって、今日 という日はあくまで国をひとつするた
図 3 村落開発プロジェクトが村に導入されることで盛大なセ レモニーがおこなわれた.郡の役人,村長や村人だけではなく 軍人も参加している.その後,このプロジェクトはどうなって いったのであろう.2000 年撮影.
11
直に受け入れることができなかった。 を失ったのか﹂ ﹁ 〝豊かさ〟とは何か﹂
た。私 は フ ィ ー ル ド ワ ー ク を 通 し て
生活の楽しさを知る一方で労働の大変
また、彼らと寝食を共にすることで、
価値観を押し付けることはできない。
さも知った。 ﹁貧しくとも助け合いな
﹁近代化の過程で、何を得、そして何 を考えたかった。しかし、自分の志向
が ら﹂と い う 自 分 の 思 い 描 い て い た
先進国日本に生まれ、近代化の負の側 理的・効率的であることを求められる
と、村人の志向は正に逆の方向に向い
面を目の当たりにすることが多い。合 日本社会では人間関係が殺伐とし、心
絵に描いた であったかを思い知り、
﹁理想﹂がなんと実体のともなわない
恥ずかしくなった。ただ、私の気持ち
としては物質的な豊かさだけを追求し、
人間関係がギクシャクした利己的な社
会に向かってほしくない。地域社会の
まとまりをいかに維持していくか、こ
れは地域社会の持続性を考えることに
他ならない。まとまりを維持していく
ための試行錯誤を地域発展とみなすこ
ともできるのではなかろうか。
多様な〝豊かさ〟を求めて国を越え、
激動する先住民社会に身を置き、地域
の人々と外部者の壁の越境を試みる、
越境と躍動のフィールドワークを通じ
て今後もこの地域の発展の方向性を模
索していきたい。
91
ていたのである。よそ者である自分の
図 4 村人と筆者(中央)
の荒廃や環境破壊が引き起こされてき 図 3 ゴムの収穫作業
残す行為を遂行するのはかなりの試練
べられないことだ。家には鶏やほろほ
一番辛いのは、肉や魚がほとんど食
てきたとしても、家では一人で食べる
心部で売っている。しかし、卵を買っ
に少々入っている︶ 。茹で卵は村の中
には粉末化された乾燥魚がだしがわり
である。なぜなら、基本的に村の食事
ろ鳥、羊や山羊などの家畜がいる。し
ことができない。子供がたくさんいて、
いである。
は質素だからである。家での昼と夜の
かし、それらは貯蓄手段で、現金が必
たまに出されるご馳走を子供のために
食事は、乾期はオクラ、雨期はハイビ
分けないと具合が悪いからだ。
なにいきわたるよう基本的に全部細か
食べる。三〇人家族では、具材がみん
ったことすらない︵もっとも、スープ
が手に入りにくく、今まで食卓に上が
べられる︶ことはない。調査地では魚
もたくさん入っていて美味しいご飯に
好きではないのだ。町ならお肉も野菜
はない。村の食事がローインプットで
断っておくが、現地食が嫌いなので
葬祭時のほかは、家で消費される︵食
要になったときにだけ売られる。冠婚
く刻むかすりつぶすので、流動食みた
ありつけるのに⋮⋮。
数週間もお肉を口にしないと、猛烈
にお肉が恋しくなる。しかも、サバン
ナ地域のお肉はとても美味しい。これ
を食べられないのはホントに苦痛であ
る。美 味 し そ う な 太 っ た 羊 を 見 る と
不謹慎かもしれないが、葬式が待ち
﹁食べたい﹂と思わずにはいられない。
遠しくなる。知り合いの家族に葬式が
久しぶりに葬式宅からお肉が配られ
あれば、家にお肉が配られてくるのだ。
た日のことだ。年配者と外国人である
107
スカスの葉をベースにしたスープをト
図 8 家でつまみ食いをする.
ウモロコシの粉を練ったものにつけて
図 7 家で食事をする.
13
横槍をいれてきた。しぶしぶ食べるの
たり、他人のために残すのは、かなり
私は日本で飽食の時代に生まれ育っ
私のお皿にだけお肉が入れられた。残 ﹁もう十分﹂とにっこり微笑んで、料
た。年配の人から﹁昔はたまにしか食
の我慢がともなう。
べられる量ではない。私に配られたひ
理担当のお母さんに渡した。他人に指
べられない○○がご馳走だった﹂と聞
を 止 め、三 分 の 一 残 っ て い る 皿 を、
とかけらのお肉。もちろん全部食べた
摘されてしまっては仕方ない。でも、
念ながら、三〇人家族ではみんなが食
い。しかし、その日一緒のお皿でご飯
ずに我慢することになるとは思わなか
いて新鮮な驚きを感じる世代である。
った。調査から帰国するたび、日本で
この年になって食べたい物が食べられ
﹁おまえは、俺が来たのに一緒に食
は好きなものを好きなだけ食べられる
私は外国人でまだ特別扱いのはずだか
打ちをかけるように彼は言った。私は
べようと言わなかったな!﹂と、追い
ことを本当にありがたく思う。もっと
ら食べてしまっても良かったのに⋮⋮。
いのはよくないのだ。 ﹁本当は私だけ
むっとして、 ﹁もうご飯を食べてきた
も、数週間で感謝の気持ちを忘れてし
のお肉を半分ちぎってあげた。分けな に配られたお肉なのに!﹂と心の中で
かと思った﹂と答えた。
まうのだが⋮⋮。
をたべることになった同年代の子にそ
叫びながら⋮⋮。
﹁いただきます﹂と日本で言うよう
そこへ、 ﹁おまえ、全部食べるつも
しまえ。
べて少ないなあ。ええい、全部食べて
んは味付けがうまい。量もいつもに比
られてきた。今日の料理担当のお母さ
なも大好物だ。私にペタペタ料理が配
いかもしれなかったのであげたくなか
しぶりで、量も少なく、彼は遠慮しな
はない。しかし、ペタペタは本当に久
る。私はマナーを知らなかったわけで
物心つくと同時にしっかりと教えつけ
のだ。現地ではこのマナーを、子供が
べよう﹂と誘うことも食事のマナーな
ことにしよう。
なことはおこらないだろう⋮⋮と思う
安になった。でも、まさか日本でそん
お肉を恋していた調査中を思い出し不
べられなくなったらどうしよう。急に
やお肉の値段が上がって、思う存分食
飼料の高騰をニュースで耳にした。魚
ヤム芋も、たまにしか食べられない ご馳走だ。 ﹁ペタペタ﹂という、茹で
に、現地では食べる前に、 ﹁一緒に食
りか。子供に残してやれ﹂と、たまた
ったのだ。美味しい食べ物を分け合っ
そうしたなか、漁獲量の減少や家畜
油をかけたメニューがある。私もみん
たイモをつぶし、村では高価なパーム
ま食事時に遊びに来ていた近所の男が
108
が心配になった。朝食だけは自炊して
ても熱を保ちつづけ、暑さで食料保存
私が借りた最上階の三階は、夜になっ に、大家さん一家が手広く商売してい
っ た︵図4︶ 。商 売 の 仕 方 を 習 ううち
扇風機を目当てに店番をするようにな
子どもや親族からの支援だけに頼らず、
ネスを始めることは当たり前なのだ。
貯金や年金がないため、退職後にビジ
起こす。ある日、知人から数枚のビニ
自分たちが働ける限り自らビジネスを
ール袋をもらった大家さん一家は、こ
ることに気づいた。 大家さんは、環境天然資源省で働い
れに飲み水を入れて氷にして売ったら
いたため、食料が腐らないように、大 家さんの家の冷蔵庫を使わせてもらっ
いろいろなビジネスを立ち上げている。
ていたが、定年退職してからは夫婦で
かるぞ! と大盛り上がりだった。
という雑貨店を営んでおり、冷蔵庫は
夫は、時にアイスクリーム屋であり闘
た。大家さんは一階でサリサリストア そこにあった。サリサリストアに出入
結局、私は三週間で引っ越してしま
った。暑さだけでなく、国道沿いの家
は排気ガスや騒音がひどく、睡眠不足
で体調を崩してしまったからだ。フィ
ールドでは予想外のことがよく起こる
が、安全や健康を確保できれば、それ
も一つの学びの場になる。農村での居
候では知りえない、 ﹁フィリピン人﹂
の顔を知る機会となり、逆に人びとの
暮らしへの関心が高まった。住めば都
になる前に私は脱落してしまったが、
大家さん一家は今日もあの家で、新た
なビジネスチャンスに胸躍らせている
のだろう。
79
鶏オーナーでもある。フィリピンでは、
図 5 調査地でのホームステイ.
りするようになってから、夕食後には 図 4 サリサリストアのなか.サリサリとはタガログ語で「何 でも」という意味.写真に写っているようなスナック菓子など の食料品,洗剤,文房具をはじめ,必要なものは何でも置いて ある.私が飲んでいるのは,現地で一般的なフィリピン版のコ カコーラである「コーク」 .
していたとき頻繁に見ていた夕日だ。 ことの解放感もいいものだ。
なる。インターネットから遮断される
スハルト政権崩壊後の地方分権の熱狂
れにアブラヤシ農園も拡大しつつある。
朝発ち、先住民ダヤック人の居住域へ
リマンタンの州都サマリンダ市の港を
がっている。インドネシア共和国東カ
は、集落や果樹園、そして二次林が広
船外機付き小舟が行き交う川の両岸に
ことができなかった⋮⋮。人々が操る
らず、ここ五年間は日本を一歩も出る
マハカム川の中流から上流にかけて広
る。客船の速度も格段に速くなった。
工場が操業されていることを表してい
細くなったことと、製材工場やチップ
違った。これは天然林からの伐採木が
された木材やチップの輸送船ともすれ
増えたのは石炭輸送船だ。上流で製材
けなかった。かわりにすれ違う回数が
ていた。その丸太の筏を一回しか見か
に曳かれて下流の合板工場まで運ばれ
伐採された太い丸太は筏に組まれ、船
付いたことがある。以前は、上流域で
サマリンダを発ってしばらくして気
ァ人に大きな穴を掘らせ、そこに家族
という間に制圧したこと、そしてケニ
の速さで攻め入り、オランダ軍をあっ
から山越えしてきた日本軍が予想以上
いくつか聞いた。南のマハカム川流域
たとき、第二次世界大戦のときの話を
ン地域︶のケニァ人の村に滞在してい
かつてボルネオ中央高地︵アポカヤ
中で暗中模索の状態にみえる。
料ブームや地球環境問題関連の動きの
だ。地方行政や地元企業も、バイオ燃
は、試行錯誤の真っただ中にあるよう
決めることができる可能性を得た人々
と混乱が一段落し、自らの将来を自ら
も、毎年一回は見ていた。にもかかわ
三〇歳代から四〇歳代前半までの間に
向けての川の旅は、いつも心の洗濯に
がる西クタイ県都まで丸二日かかって
めたこと⋮⋮。オランダ人が埋められ
を含むオランダ人のすべてを殺して埋
た場所には戦後になってから人数分の
いたのが、今では丸一日で着く。それ や自動車を使えば八時間ほどで行くこ
日 本 軍﹂ ﹃環 境 と 公 害﹄三 〇 巻 三 号、四
確認した︵井上真﹁ボルネオ中央高地と
墓標が建てられ、その残骸もこの目で 景観を見ると、以前からの焼畑休閑
ともできるようになった。 林や籐園のほか、果樹園やゴム園、そ
89
ばかりか、道路が整備されたためバス
図 5 マハカム川の夕日.
15
現実から乖離して狭いアカデミズムの
性が高まってきていると実感している。
フィールドワークを実施している若手
この五年間、健康上の理由などで海
実習生と村人や行政官との間の通訳
たちが現場のリアリティーのなかで
外に出ることができなかった。 ﹃躍動
壺にはまってしまう傾向をもつなか
﹁躍動﹂し、また専門を﹁越境﹂して、
するフィールドワーク﹄︵井上真編、世
で、ますますフィールドワークの重要
自らの身体性を基盤として自分の世界
を自由に書いてもらった。日本の若者
れられていることを目の当たりにでき
を築いてゆく姿の一端を垣間見ること
界 思 想 社、二 〇 〇 六 年︶や﹃フ ィ ー ル
研究者たちにフィールドで感じたこと
たこともフィールドならではの経験で
ができた。そもそも現実の問題からス
也・井上真編、昭和堂、二〇〇九年︶と
ド ワ ー ク か ら の 国 際 協 力﹄︵荒 木 徹
があった。彼らが村人に温かく受け入
﹃サステナ﹄第1号 ︵二〇〇六年一〇
ある。
タートしたはずの環境研究︵サステイ
︵インドネシア語︶も目を見張るもの
月発行︶で本連載の第一回目を私自身
ナビリティ学を含む︶が、ともすれば
いったフィールドワークを論じた書籍
を出版したのは、もしかすると自分で
フィールドに出られないもどかしさを
埋め合わせるためだったのかも知れな
い。本連載のコーディネーターとして
の役割も、フィールドの疑似体験とし
人的にとても意義あるものであった。
て、またエネルギーの充電として、個
そろそろフィールドワークを論じるの
はいったん終わりにしよう。私自身の
︵連載終り︶
フィールドワーク第二幕の始まりであ る。
91
一三回までは、私の周りで社会科学的
図 8 焼畑で播種作業を手伝う学生たち.
が書いて三年が経った。第二回から第
図 7 定期客船からスピードボートに乗り換えて 上流の村に向かう.
八頁、岩波書店、二〇〇一年︶ 。
何と今回の旅でそのとき日本軍を案 の で あ る︵図6︶ 。そ の 老 人 は、マ ハ
内したバハウ人の老人に偶然出会った カム川上流のLP村が正式に設立され と、およびLP村が設立後一〇三年経
たときにはすでに物心がついていたこ っていることから、年齢一一五歳くら
図 6 日本軍の話をしてくれる老人と筆者.
いと推定される。彼は、その数年前に
イスしてくれた。
いつまでも健康を保てるよ﹂とアドバ
くしなさい。そうすれば、私のように
今回は研究科共通ゼミナールの海外
オランダ軍の道案内もして軍備等の情 雇われたという。七六人の日本兵がL
実習として修士課程の学生を引率した
報に通じていたこともあり、日本軍に P村を出発したのは朝五時半。滑る急
したわけではない。しかし、久しぶり
味にまかせたフィールドワークを実施
のフィールドは研究者としての私自身
︵図7、8︶ 。したがって、私自身の興
オランダ軍が駐留するLN村の対岸の
のセンサーを十二分に刺激してくれた。
斜面では体をひもで縛って上から引き
山中に到着したという。地図で確認し
上げながら猛進し、翌日の朝八時には
たところ直線距離およそ一〇〇キロメ
わくわくするような研究テーマやプロ
ィールドワークを実施している博士課
ートル。しかも険しい山道。信じられ
程の学生二名の成長である。彼らは、
ジェクトのアイデアが湧いてきた。体
アポカヤンで聞いた話を裏付ける証
協定校であるムラワルマン大学の研究
ないスピードだ。オランダ軍が日本軍
言であった。当時のケニァ人、バハウ
室を借用して設置したサマリンダ・フ
りも嬉しかったのは、長期滞在してフ
人、オランダ兵、日本兵、⋮⋮それぞ
が五つくらい欲しい⋮⋮。でも、何よ
れが置かれた厳しい状況と気持ちを慮
ィールドステーションを拠点とし、上
の出発を知ったのは夕方になってから
ると切なくなる。と同時にフィールド
回の学生実習のアレンジを彼らが完璧
流の先住民の村に通い続けている。今
だったらしい。
のにしなければならないという決意を
にやってくれた。そればかりではなく、
研究を通して友好関係をより強固なも 新たにした。彼は私に﹁脚を鍛えて強
90
日本でも、かつてはヨバイが行われ
わる。
喜ぶ宴は、新たな命を育むヨバイで終
もある。先祖の魂が宿る陸稲の収穫を
ことができる。それはヨバイの誘いで
けられることもあったそうだ。普段の
の了解を得なかったばかりに、追いか
の村の若者たちの集まりである若者組
かなかヨバイに行けなかったり、相手
いた。相手の親に気に入られないとな
をつないできた。村の当たり前として
に﹁タテ﹂ 、すなわち魂をつなぎ、命
人々とをつなぎ、労働をつなぎ、さら
中 の 人 と 人 を つ な ぎ、別 の 村 や 島 の
ークがあって、 ﹁ヨコ﹂ 、すなわち村の
い。そこにはルールや組織、ネットワ
ない。フリーセックスでも強姦でもな
の人付き合いの濃厚さ、面倒くささ、
暮らしだけでなく、ヨバイを通した付
そしてそこに暮らす人々の情報を共有
き合いからも、その家や家族のことを 知り、またそんな情報をみんなで共有
することでヨバイは可能になり、また
経験してきたヨバイの話をたくさん聞
しあい、そしてやがて結婚に至ってい
それを外に開くことで新たな人のつな
たとのこと。 ヨバイが廃れた理由については、電
の仲を取り持ったり、ヨバイの手伝い
村のおじいさんは、昔は若者組が男女
で五〇代以上の未婚男性は珍しくない。
があまり村に残っていない。その一方
らなどと言われる。そもそも若者自体
普及で外から雨戸を外せなくなったか
のだろうか。ムラの嫁不足だけではな
に代わる﹁タテとヨコ﹂を生み出せた
方が失われた一方で、私たちはヨバイ
てヨバイを可能にしていた社会のあり
いた﹁タテとヨコ﹂のつながり、そし
い。ただ、ヨバイによって維持されて
ヨバイの復活を叫びたいわけではな
がりが生まれた。
もした、もしも今でも若者組やヨバイ
源が、 ﹁タテとヨコ﹂の欠如にあるよ
い、いろんな社会問題が生じている根
気が通ったからとか、アルミサッシの
かったかもしれない、と話す。
うに思えてならない。
があったら、嫁不足も少子高齢化もな ヨバイは、ただ単なる性的交渉では
67
ていた。私も六〇代以上の村人たちが
図 3 ビチェ村の子供たちと筆者.
し販売していたのは平均一・四回にす
カワケギ︵周年収穫可能︶などを持参
じて散発的に現金獲得活動に携わろう
を図るのでなく、必要な時に必要に応
きるかぎり活用して現金収入の最大化
いるようであった。またここでは紙幅
ぎず、五世帯は一度も麓の村で販売活
の関係で詳述できないが、こうした必
とする、必要充足的な志向性をもって
A村から徒歩で約一日の山を下った
要充足性は、比較的調和的であるとい
動を行っていなかった。
ンが結実する。B村住民の一部は麓の
える人と自然との関係の背景になって
B村では、A村よりも少し早くドリア 移住村にドリアンを運び仲買人に売っ
ることによる遺失利益や、維持される
近年、途上国においても、自然を守
いると考えられた。
イノシシに食べられてしまうことが多
生態系サービスについて、当事者︵土
落下した実の一部は利用されず腐るか
ているが、彼らの販売量は僅かであり、
かった。そのため、B村は、二〇〇七
地所有者や住民︶に、補償や、対価を
︶の議論 for Environmental Services が盛んである。その前提にあるのは、
年、一度の販売で二五〇〇ルピア︵ド
人は経済的利益最大化を志向する存在
払 う 仕 組 み で あ るP E S︵ Payment 採取・販売を公認した。しかし、その
であり、自然を守ることで何らかの経
リアン一個分の販売価格︶を村に収め
年B村に行ってたらふくドリアンを食
ることを条件に、A村住民のドリアン
べてきたという人は大勢いたものの、
としていた現金が得られるレベルにな こうした市場活動にみられる消極性
ると、そこで猟をやめていた。 は、様々な場面で確認できた。例えば、
済的恩恵が得られないと、短期的な利
間像である。筆者の思いすごしかもし
ドリアン販売を行ったのは調査世帯一
一四世帯を対象に行った調査︵二〇〇
筆者の観察の限り、セラム島山地民
れないが、保全に関わる研究者や実務
益のために自然を破壊する、という人
三年︶によると、年五・八回ほど、生
活必需品購入等の目的で麓の村に行っ ていたが、その際、良い値で売れるア
は、このように、利用可能な機会をで
四世帯中三世帯のみだった。
調査中お世話になった村びとと筆者.
70
フィールド 便り
リレー連載
忘れられた当たり前を探す 目からウロコのフィールドワーク②
セラム島山地民の必要充足的市場参加 笹岡正俊 ささおか ま さ と し
産物を売ったりしている。
A村住民は、現金獲得機会を有効に
活用して現金収入を増やそうとする志
向性に乏しい。彼らの主要収入源は、
チョウジ収穫期に南海岸沿岸部に出稼
ぎに行き、摘み取り労働者として働い
て得られる現金だが、不作や価格の暴
落によって、チョウジから十分な収入
をしのぐために、村びとのなかにはペ
が得られない場合、当座の現金困窮期
ット用に取引されている希少野生オウ
ムを捕獲して売る者もいる。
筆 者 の 調 査︵二〇〇三∼〇七年︶に
よると、オウム猟従事者は、猟を散発
的におこない、なおかつ、一度に捕獲
インドネシア東部セラム島。この島
いくつかの山村の一つで、島の中でも
島中央のマヌセラ山脈山麓に点在する
術的に不可能なことではない。しかし、
くのオウムを捕獲したりすることは技
にとって猟を毎年行ったり、一度に多
羽という者がほとんどであった。彼ら
するオウムの数も一羽か、多くても二
の内陸山村でこの一〇年間、希少野生
特にアクセスの悪い地域に位置する。
彼らは何らかの具体的な現金の必要が
国際林業研究センター︵CIFOR︶研究員 ︵専門は環境人類学・インドネシア地域研究︶
動物と山地民との関係を詳細に描く民
村に通じる道路はなく、山地民は山道
存在して初めて猟を行い、ターゲット
を二∼三日かけて沿岸部の村に行き、
筆者が長く滞在したA村︵人口約三
生活に必要な物資を購入したり、農林
族誌的研究を行ってきた。 六〇人、約六〇世帯、二〇〇三年︶は、
69
17
にも、お世話になっているお礼をした
て聞く様子。その中の一人が、そっと
る。大量に残ったケーキを前に、理解
帰り道、向かいの住民が声をかけた
が足りなかったという思いをかみしめ
﹁どこ行っていたの?﹂ 。私が答える前
た。
れ、と っ さ に﹁ノ ー、ノ ー! 私 も呼
に、 ﹁誕生日会でしょ? 私たちは招待
指を立てて私に内緒のしぐさをした。
しかし私の予想は裏切られた。前日
ばれてないよ!﹂と笑って私は話題を
してくれないのよ。でも恥ずかしくて
﹁私たちも呼ばれているの?﹂と聞か
の井戸端会議で私はうっかり﹁明日は
変えた。その場を収めるためのうそも
かったのだ。
Aさんの誕生日だよね﹂とみんなに言
必要になる。なにか事情があるらしい。
活に直結する。人びとはうわさ話で笑
フィリピンの村で飛び交う情報は生
聞けないの﹂といじけて言った。当事
に取り分けていた。静かな誕生日会が
ったり、怒ったり、悔しがり、嫉妬や
翌日Aさんの家に行くと、友人と内
少数で行われた。隣人に悟られないよ
喧嘩も日常的におこる。だからこそ自
者同士は知らないふりをして、余計な
う小声で話し、後から来たお客には食
分の中で感情をコントロールし、他人
争いを避けているようだ。
事を持ち帰ってもらった。家の入口は
とも良い関係を保つすべを住民たちは
ゲティとラティック︵餅菓子︶を容器
閉められ、窓にはブラインドが下ろさ
持っているように感じる。うわさ話は
緒のサインを送ってくれた人が、スパ
れた。そこまでするのかと私は驚いた。
単なる情報網ではなく、うそや知らぬ
ふりも散りばめられた住民生活の舞台
誕生日会があると伝えると家に来た みんなに食事を振舞わないといけない。
体感できるのもフィールドワークの醍
なのだ。複雑に交差する住民の思いを
こんな秘密の誕生日会は始めてだった。
そこで経済的余裕のない友人は、近い
醐味である。
親戚にだけ誕生日会を知らせていた。 一部の人だけ呼ぶと他の住民が嫉妬す
63
った。するとほとんどの人たちは初め
図 1 秘密の誕生日会.右から 3 番目が誕生日を迎えた娘さん, 左端が筆者.娘さんの前にあるのが筆者のケーキ.(2010 年 8 月筆者撮影)
フィールド 便り
リレー連載
忘れられた当たり前を探す 目からウロコのフィールドワーク③
秘密の誕生日会 椙本歩美 すぎもと あ ゆ み
げ込んだ。すぐにみんなの知るところ
となり、ちょっとした誘拐未遂事件に
な っ た。そ れ か ら 数 日 は 会 う 人 に、
﹁どうしたの? 大丈夫?﹂と聞かれ、
何度も説明しなければならなかった。
住民の情報収集能力にも驚く。すれ
違った人同士は、 ﹁どこから来て、何
をして、どこに行くのか﹂を当然のよ
うに聞く。相手が何か持っていると、
すぐ持ち物チェックが入る。ついでに
他の人の情報も聞いていく。携帯の位
置確認機能なしに、誰がどこにいるか
わかってしまう。私も道を歩くと質問
攻めにあうので、目的地に着くのに時
間がかかった。
が私の調査地フィリピンの農村にある。
ンターネットに負けないほどの情報網
情報化社会といわれて久しいが、イ
怖くなって﹁ハポネサ アコ!︵私は
ン人が韓国語で話しかけてきた。私は
ある時見知らぬ車が止まり、フィリピ
まず驚くのは情報が伝わる早さだ。
いたるところでうわさ話に花が咲く。
んだケーキを差し入れすることにした。
る。そこで私は六時間かけて町から運
や知人に食事を振舞う大切な行事であ
誕生日会に呼ばれた。誕生日会は親戚
られる。田植え中、友人の娘Aさんの
一方で住民は情報流出への対策を迫
それが﹁チスミス﹂と呼ばれるうわさ
誕生日会に来るだろうたくさんの住民
東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程 ︵専門は国際森林環境学︶
話だ。農作業中や、夕涼みをする女た
日本人だ!︶ ﹂と叫んで近くの家に逃
ちの井戸端会議、男たちの酒盛りなど
62
んとはいえ、さすがにノートパソコン を預けるのはためらわれたのだ。返答 に窮しながら、なんとか「盗まれたり しないかな?」と聞いてみると、 「大丈 夫よ! 盗まれたりなんてしないわ!」
調査地の子どもたちと筆者.
と自信満々の表情。結局、その自信に 負けてノートパソコンの充電をお願い することになった。 翌日の晴れた朝、保健センターへ向 かった。「これを充電してもらいたいの だけど……」と恐る恐るノートパソコ ンを出すと、おばちゃんは特に驚くこ ともなく預かってくれた。一抹の不安 を感じながら保健センターを後にし、 夕方に聞き取りを終えて帰路を急ぐ。 いつものようにドアをノックすると、 そこにはいつもと変わらぬおばちゃん の顔と充電中のノートパソコン。いつ もと同じように握手をしつつ「ムラコ ゼ!(ありがとう!) 」とお礼を言いな がらも、内心はほっと胸を撫で下ろし た自分がおり、なんだか少しもやもや としたものが残った。 日本なら家から一歩も出ず、誰とも 接することなくできることが、ルワン ダ農村ではできない。携帯やパソコン の充電はもちろんのこと、料理はお隣
さんから火種をもらってやるし、夕方 に水汲みに行けば近所の子どもたちが 集まっているのだ。このように、ルワ ンダ農村では、日々の生活の中で人と 人のつながりが形づくられていく。そ こでは、いいこともあれば悪いことも あり、便利なこともあれば面倒なこと もある。一七年前のジェノサイド(大 量虐殺)ののち、自分の土地に戻った 人びとは、こうした日々の中で少ずつ 人とのつながりを(再)構築し、新し い「日常」をつくりだしてきたのだろ う。 誰によってもたらされているのかわ からない「便利さ」に充ち溢れ、それ が当たり前になっていた日本での生活。 東日本を襲った大震災は、私たちにさ まざまなものを投げかけ、その生活の あり方を問いなおす必要を迫っている ように思える。新しい「日常」に向け て、コンセントの先へと想像力を広げ ていくことも必要ではないだろうか。
65
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク④
ルワンダ農村の「 日常」 いわさき たけゆき
岩崎健幸 東京大学大学院農学生命科学研究科修士課程 (専門はルワンダ地域研究)
筆者の調査地、ルワンダ農村で電気 があるのは、役場と保健センター、中 学校、教会くらいであり、基本的に一
般の家庭にはない。といっても、そこ での生活が不便なわけではない。灯り はろうそくやランタン、情報は人づて
やラジオで十分だし、冷涼なルワンダ では冷暖房の必要もない。近年農村で も所有者が増えて来ている携帯電話も、 保健センターのおばちゃんにお願いし て充電してもらうことができる。 携帯電話の充電には、天気への注意 が必要だ。保健センターが太陽光発電 なため、天気が悪いとなかなか充電す ることができないからだ。また、おば ちゃんとの信頼関係も重要となってく る。筆者も滞在中は保健センターで充 電させてもらっているが、当初は盗ま れやしないか心配だった。 ある日、ホームステイ先の子に、日 本の写真を見せて欲しいとお願いされ た。「写真のデータが入ったノートパソ コンはあるが、充電がないので写真を 見せることはできない」と伝えたとこ ろ、彼女は「保健センターで充電すれ ばいいじゃない」となんのためらいも なく答えた。 これには少々面食らった。 いつも携帯電話を預けていたおばちゃ
64
お知らせだけであっても、マイクを握 るようになるということは、村で責任 のある任務を担うようになったことを 意味する。 一九九〇年代までは、月明かりの下 で子供たちがおじいちゃんを囲んで昔 の話を聞いたそうだ。しかし、近年は 核家族化が進み、年長者と子供は別に 生活をするようになった。世代を超え
て一緒に過ごす時間は減った。そうし た「かかわり」に飢えた村のおじいち ゃんは、マイクを手に取り、昔話を語 り、そして即興歌を口ずさむ。それを 聞いた若造たちは「また聞かせて欲し い」とおじいちゃんに近寄る。こうし て、薄れかけていた「かかわり」が復 活することもある。 村内放送という近代的なモノ。この 村では、ストレス発散や昔ながらの自 然と生きる知恵を伝達する手段とされ、 他の人とうまく生活していくための道 具として、人びとに使いこなされてき た。「誰かとつながりたい」 という欲求、 その反対に「距離をとりたい」という 気持ちに駆られて、人はマイクを手に 取る。 はて、ところで日本の私たちは、欲 求を満たすために何かを使いこなせて きただろうか。それとも……実は、私 たちがモノに扱き使われてきたという ことはないのだろうか。
99
本的にマイクを握るのはある程度の年 齢になった人たちである。 中学生くらいになればスポーツ推進 委員会、子供がいれば母の会などの責 任者を任されるようになり、集会運営 に関わることになる。以前は、底が抜 けたビンをブォーと吹いて集会の始ま りを知らせていたというが、二〇〇六 年頃に村内放送が設置された。集会の 図 1 拡声機で話し中の村人(中央)と順番待ちをしている 村人(左).他の人が話している時は邪魔せずに待つのが 基本的なルールのひとつ.子ども(右)もこうして目で見て, 耳で聞いて,村のルールを日々学んでいく.
図 2 ドス・デ・マジョ村の人たちとシピボの民族衣装 を着せてもらった筆者.
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑤
人がマイクを握るとき 大橋麻里子 おおはし まりこ
東京大学大学院農学生命科学研究科博士課 程二年 (専攻はアマゾン地域研究)
アマゾン川源流の一つペルー・ウカ ヤリ川。その先の三日月湖をいくつか 通り抜けると、ドス・デ・マジョ村に 辿り着く。森に囲まれ、壁のない住居
が並ぶ。主にシピボとよばれる人々が 一〇〇人ほど住む小さな村だ。 夜、蚊帳越しに眺める月は、朝露で 濡れた蜘蛛の巣のようだ。村では朝も 夜も色んな音が響く。雷の轟き、サル が熟れた実を食べながらあげる喜びの 声、太陽の光を待ちかねたニワトリの 羽音。夜明け間近には、村内放送のマ イクを握り、誰かがしゃべり始める。 「おはようございます、えーと、昨日 も言いましたが、ハイメさんのお家に あったバナナが盗まれました。子供た ちは勝手によその台所に入らないよう
に。それから、今日は集会をやるので 午後三時に小学校に集まってくださ い」 。なぜ盗んではいけないのか、集会 で何を話すつもりなのか、と丁寧な説 明も加わる。朝の挨拶は長いと一時間 を越える。何かを話したい人は好きな 時にマイクのスイッチを入れる。 宴会があれば、酔っ払ってマイクを 握る者もいる。 「魚を獲って畑を作る。 それが男だ!…(テーマが次々と変り ながら発話は続く)…それでは、みな さんお待ちかねの音楽をかけます」と 締め括られ、陽気な曲が流れ出す。あ まりにしゃべりすぎると 「マイクの男」 とあだ名が付けられることもあるが、 酔っ払ってマイクを手に話すのは、な かなかに気分がよさそうだ。 日が暮れて、酔いつぶれて帰って来 ないおとうちゃんに呼び出しが掛かる。 おかあちゃんに言われて子供がマイク に叫びに走ったのだ。こうして、大人 が子供に話をさせることもあるが、基
98
「稲は牛糞を食べる、人間は米を食べ る、即ち人間はウンコを食べてるって わけだ!」 。 教科書で習った物質循環よ りも、ずっと説得力がある。 以前は多くの農家が手伝い合って田 植えを行っていたが、近年はもっぱら
父さんと母さんと一緒に苗抜き作業(タイ,コンケン県).
人を雇う。しかし父さんは出費を抑え るために人を雇わない。四人の子ども は出稼ぎに行って帰ってこないので、 たった二人でもくもくと働く。労働力 を分散するために早稲 わ(せ、)中生 な(か て、)晩稲 お(くてと)、田植えの適期が異 なる品種を植える。これも多品種を植 える理由のひとつである。 昼休み、父さんは自家製のどぶろく を飲む。でも少しも酔わない。いや、 酔うけれどばりばり働く。しかも歌い 出す。「これはわしのハートを表す歌な んだ」 。 「良い田んぼって言ったって、 良い女房とは比べられないさ、良い女 房って言ったって、良い夫と同じじゃ ないさ、良い種もみを使えよ、悪い品 種だと大事な田んぼが台無しだ…」 。 勧 められて飲んでしまい、もうろうとし てきた頭で「母さんと種もみを同じく らい愛しているんだな」と納得した。 母さんは対照的に物静かで優しい人 だ。あやしい手つきでのろのろと苗を
植えていると、自分の列はなかなか終 わらない。何も言わずにさり気なく、 幅寄せして植え足したり、後ろの方か ら加勢してくれる。「子共の学費のため にあひるを飼って、卵を売ってたの。 でも苦労して、大学まで行かせた娘は 町へ働きに行ったきり、一度も帰って こないの」 。普段は方言を話すので、タ イ語はややぎこちないが、易しい言葉 を選んでゆっくり話してくれる。二人 とも実の娘のように可愛がってくれた。 労働の後、夕食はもち米と香辛料が 効いたスープ、どぶろく。全て農園で 採れたものだ。特に酒は人を親密にす る。饒舌になった父さんは農業への思 いを語った。早口の方言は聞き取りに くい。酒に強かったら父さんの熱い思 いがもっとわかったのに。しかし言葉 や酒に強くなくても、共に過ごした思 い出は灯りのように暖かく心の中にと もり続けている。そろそろ父さんと母 さんに会いに、 タイに行きたくなった。
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忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑥
呑んで、唄って、牛糞撒いて、田植えして 有田ゆり子 ありた ゆりこ
多くの農家が政府推奨の、高値で売 れる一品種のみを植えている。日本で 言えばコシヒカリのようなものだ。し かし敢えて消滅しつつある在来品種を 植えているという、チャンディ父さん
東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程 (専攻は森林社会・政策学、植物生態学、ラオス・タイ・カンボジア地域研究)
東北タイの主食はもち米である。少 しのおかずで大量の米を食べる。もち 米を作ることは一年分の食物を確保す ることで、滞りなく田植えを行うこと は農家の最優先事項である。
の噂を聞いた。そこで話を聞きに、父 さんの家を泊まりがけで訪ねるように なった。 繁忙期なのだから話を聞くより、ま ず手伝い。二○年ほど前までは田起し と代掻きに水牛を使っていたが、現在 は耕運機を使う。しかし、田植えは全 て手作業。 妻のペーン母さんを手伝い、 苗代から苗を抜いて田に運び、腰をか がめて二人並んで列状に、後ずさりし ながら植えた。 田植えをしている脇で、父さんが牛 舎から集めてきた牛糞を盛大に撒く。 父さんはその地域でも珍しく、有機農 業を行う篤農家で、化学肥料は使わな いと知っていた。しかし、牛糞の洗礼 には面食らった。息を止めて水面に浮 いた牛糞の中に手を突っ込んでの田植 え。「もっと前に撒いてくれたらいいの に」とちらっと見ると、気持ちを見透 かすように父さんがニヤニヤしながら 「我々はウンコを食べているんだよ」
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配してくれる人がいる。お互いの様子 を見ながら、お互いにできることをし あって、支えあって、暮らしている。 やってもらって当然ではなく、同じか それ以上に喜んでもらえることをお返 ししたい、そんな凛とした働き者の精 神に根差した信頼関係だ。 普段から支えあっている人たちが協 力すると、その力はすごい。穴が空い た道路も詰まった水道もみんなで直す。 私は、行政や業者が何とかするのが当 たり前と思っていた自分の貧しさを知 った。甲府などに住む若い世代が帰っ
暮らす人や茂倉へ逃げてこられる子供 や孫たちは、何かあっても生き延びら れるのかもしれない。茂倉の人びとに は、山で食っていく知恵や技能が残っ ているし、いざという時に力を合わせ ることもできるだろうからだ。先祖 代々が耕してきて、戦争の間だって皆 を食わせてくれた、それがこの村の土 地であり、五穀豊穣を祈る数々の祭り も続けられてきた。けれど、住む人の 数が減りゆく中、村がこれからどうな るのか、どうしていくのか、皆が頭を 悩ませているのも事実だ。 茂倉の人たちに触発されて、私は母 の田舎で形ばかりの農作業を始めた。 始めて三年。畑が荒れているのを放っ ておけない気持ちも少しはわかってき た。今住んでいる町を大切に思う気持 ちも大事だけれど、自分のルーツとな った村とのつながりを維持したり、再 構築することから始めてみてもいいの かもしれない。 図 2 帰省したたくさんの子どもたちが参加する相撲大会.
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て来て、道路掃除や祭りを手伝うこと も多い。 「今は畑も少なくなったが、また昔 のように畑が広がる時代が来ると思 う」「何があるかわからない世の中だか ら、この家は残しておきたい」 、そんな 言葉も聞いた。 あの震災で、東京での日々の暮らし を支えるもののもろさを実感し、この 言葉は説得力を増した。確かに茂倉に
図1 御先祖が建てたという七面堂前で敏 文さんと.
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑦
持ちつ持たれつの 信頼関係 おおくぼ みか
大久保実香 滋賀県立琵琶湖博物館学芸員 (専攻は農村社会学)
南アルプスに繋がる山あいにある村、 茂倉(山梨県早川町)を初めて訪れた とき、村のお宮やお堂を案内してくれ たのが敏文さんだった。大工だった御
先祖や御自身のことを伝えてくれるそ の姿からは、茂倉が大好きで誇りに思 っていること、この村をよくしようと 務めてきたことが滲み出ていた。 大学院に進学したばかりの私は、「人 間の暮らしのあり方を見つめ直したい のなら、大きな環境問題を語るより足 元の暮らしを見つめなおすことが大事 だ」と思いつつも、東京郊外で育った ためだろうか、「自分の住むこの町をよ くしよう」という思いを持つことが難 しかった。だからこそ、生まれ育った
村を心から大切にしている敏文さんと の出会いが胸に響いたのかもしれない。 茂倉では、戦後しばらくまで焼畑が 行われていた。昭和三〇年代は林業や 鉱山でにぎわったが、鉱山はやがて閉 山し、近隣の高校も閉校、昭和四〇年 代半ばには、若者たちは高校通学のた めに村を離れることが当たり前になっ ていった。かつての畑の大部分は植林 され、現在村に住む人のほとんどは七 〇歳以上だ。とは言え、家の周りには 手入れされた畑が広がり、キビやアワ なども、毎年種を継いで育てられてい る。風呂焚き用の薪は山からとってく るし、シカが手に入ればみんなで捌い て食べる。 「都会ではお隣の顔もわからない。 そんな生活は嫌だ。茂倉には、持ちつ 持たれつの信頼関係というものがあ る」 。そんな言葉をよく聞いた。入院で 留守になった家の草を刈っておいてく れる人がいる。朝起きてこなければ心
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忌み嫌われ食されない地方もある。地 域性が強い魚だ。 私がお世話になっている高知県興津 漁協では、シイラが漁獲量の八割を占
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑧
冷蔵庫横のオンチャンたち シイラ漬漁の世界
もりやま めい
森山芽衣 東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程 (専門は漁業地理学)
シイラという魚がいる。高知ではト オヤク、福岡ではマンビキ、宮崎では マンタとも呼ばれ、正月や結納などハ レの食事に用いられる地方もあれば、
める。漁法は竹で出来た浮き魚礁に集 まるシイラをまき網で獲る「シイラ漬 漁」だ。戦後に盛んになった興津のシ イラ漬漁は、昭和五〇年代にピークを 迎えた。当時シイラ漬漁船は五〇隻以 上もあったが、現在では一五隻にまで 減少している。シイラ漁師も最年少が 五〇代、最年長は七八歳だ。 漁師を引退したオンチャンたちも家 に引きこもっているわけではない。特 に用事がなくとも市場に来る。船が港 に入れば水揚げを手伝ったりもするが、 基本的には漁協の大きな冷蔵庫の横に 椅子を並べ、世間話をしたりボーっと していたりする。 そこは日当りがよく、 確かに憩うにはぴったりの場所だ。冷 蔵庫横には、席順がある。向かって左 側から年長順に座る。引退したばかり の漁師は右端に座らなければいけない。 誰か年寄りが死ぬと左に一つずつ詰め て座るから定点観測してみろ、と教え てくれたのは漁協の組合長さんだった。
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つかない。大漁の日には鼻息荒く帰っ てきて、少ない日にはしょんぼりして いることから察すると、なかなか一筋 縄ではいかない関係のようだ。オキは 地獄と隣り合わせ、と聞いたこともあ る。生活や命がかかっているシビアな 関係なのだろう。けれど、そればかり じゃあるまい。獲るよろこびもあるだ ろうし、なんと言っても、オキのシイ ラはきれいなのだ。泳ぐシイラは、緑
いから獲っているのだと思っていた。 しかし、それ以外の何かが興津のシイ ラにはあるようだ。「漁師はオカの河童 になったらいかん」と言って、現役は 滅多に冷蔵庫横には座らない。そこに は漁師としてのプライドが見え隠れす る。興津を訪れた当初は、冷蔵庫横は ゾウの墓場のような高齢化社会の物寂 しさを象徴する場所に思えた。でも今 は、冷蔵庫横はシイラや海との戦いを 引退したオンチャン達が座ることがで きる特等席にも見える。 シイラの干物やたたきのおいしさを 自慢し、お裾分けするオバチャン達に は、ネコマタギという評価は獲れたて を知らない人のたわ言のようだ。興津 で過ごした日々が増えるにつれて、シ イラに興津の生活が彩られるようにな った。冷蔵庫横の哀愁やプライド、オ バチャン達の人付き合いをまとったシ イラは、やはり海色をしたキレイな魚 だと思う。
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色と群青色と鈍色とがまざった 「海色」 をしている。冷蔵庫横に漂う哀愁は、 そんなシイラとオンチャン達の複雑な 関係が積み重ねられた日々の表れのよ うに思える。本人達はそんなカッコイ イことは考えていないだろうけれど。 シイラは「魚価が低い雑魚」 「ネコマ タギ」などさんざんな言われようであ る。当初は、そんなシイラは興津の唯 一の生活の糧で、ほかに獲るものがな
図 2 漁協に水揚げされたシイラ.6 月はシイラの水 揚げがピークに達し,市場も賑わっている.
しかし、実際に定点観測をしたことは ない。 オンチャンたちは、水揚げを手伝い
つつ誰がどれくらい獲ったかを把握し、 また誰それの健康状態、 家のゴタゴタ、 ペットの種類など、多岐にわたる情報
図1 筆者と漁協の組合長.毎年 10 月 15 日に行われる宮舟神事にて.
を冷蔵庫横でやり取りする。オンチャ ン達はかなりの情報通なのだ。オンチ ャンたちはサイレンがなると昼食にお 家に帰り、またシイラを丸のまま自転 車の前かごに入れて肌着でウロウロし ていたりもする。 私も天気のいい日には冷蔵庫横の右 端に座り、オンチャン達とおしゃべり をする。ときにはシイラの話も聞く。 山にヤマモモやスモモがならない年は 大漁になる、春一番が吹くとシイラが 水面にあがってくるなどの言い伝えを 聞くと、興津でシイラ漁が営まれた年 月の長さ、シイラとの付き合いの深さ を感じる。冷蔵庫横は、オキでのシイ ラとの付き合いがなくなって寂しい、 オカのオンチャン達が集う場なのだ。 だから、皆で集まって楽しいという雰 囲気よりは、ちょっとした哀愁が漂っ ているように思える。 オキでのオンチャン達とシイラの付 き合いは、漁師ではない私には想像が
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忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑨
的発展のありかたについて考えるフィ ールドワーカーとして国内の農山村を 歩いてきた。それは自分にとって、そ こで暮らす人びとを研究するという行 為であると同時に、彼らから地域や家 族とのつながりの大切さを教えてもら うという過程でもあった。確かに自分 にも父方・母方の郷里がある。 しかし、 どちらとも「結びついている」という 実感は乏しい。それだけに、祖父の死 をどのように受けとめるべきかがずっ と心に引っかかっていた。
祖父の郷里をフィールドワークする おおち しゅんすけ
大地俊介 宮崎大学農学部森林緑地環境科学科助教 (専門は森林経済)
沖縄の離島でフィールドワークをし ていた修士二年の春、母方の祖父が亡 くなった。 郷里の島での一人暮らし中、 脳梗塞で倒れ、家族が駆け付けた時に はすでに意識不明の状態だった。そこ で私は二晩、虚空をみつめたままの祖 父の傍で過ごした。島に生まれ、島で 死ぬことを望んだ祖父。祖父には臨終 の風景がどのようにみえていたのだろ う。 団塊ジュニアとして東京郊外に育っ た私は、主に森林資源に立脚した内発
この個人的な宿題について研究者と して考える機会を得たのは、祖父の死 から一〇年ほど経った二〇一一(平成 二三)年だった。その前年に大学に職 を得た私は、鹿児島県薩摩川内市の地 域貢献事業に応募し、平成生まれの学 生たちとともに祖父の郷里・下甑島で
図1 フィールドワークに参加した学生と.右端が筆者.
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ているため、天然生林を自給的に利用 する慣習が発達しており、その中で椿 油生産等の稼業用の利用が展開してい たこと。漁場保全や航行目標のため、 近世以前から魚付林を意識的に保全し てきたこと、等である。つまり、下甑 島には里を媒介に森と海とが有機的に 図 4 海からみた魚付林.海と森とは一続きのものだと実感できる.
結びついた小世界が形成されており、 今日においてもその残照がしっかりと 捉えられた。 フィールドワークを通じてそのよう な島世界を追体験していく過程はデジ タル・ネイティブと呼ばれる平成生ま れの学生たちにとって新鮮であったよ うだった。彼らも、初めて沖縄でフィ ールドワークをした時の私と同じよう に、 「地域と家族とのつながり」をここ で深く実感したことだろう。そして自 分にとっては、それを直接的に自分の 郷里で確かめることができたという点 で、特別な体験だった。自分の根っこ の一部がこの島に続いていることを誇 らしく感じた。 晩年の祖父は、先祖を敬うことにま すます篤くなっていった。祖母が亡く なった後は息子たちからの同居の誘い を断り、一人でも島に残ることを望ん だ。その頃の仏壇を拝む祖父の姿が印 象に残っている。祖父は先祖に対する
勤めを果たすことで、島の有機的な結 びつきの一部になろうとしていたのか もしれない。しかし、限界集落の現実 は厳しい。今後は村落自体が消滅する こともめずらしくないだろう。祖父も そのことを肌身で知っていた筈である。 自分もこれからずっと先祖と同じよう に祭られ、祖霊として島に帰ってくる ことができるのだろうか。大いに不安 だったにちがいない。臨終の際の祖父 のまなざしは、そのような安堵と不安 が綯い交ぜになったものだったのでは ないか。 島に滞在中、祖父の墓参りをした。 そこからみた島の風景は森も海も里も どこか寂寞としていた。民俗学者の宮 本常一は「自然はさびしい、しかし人 の手が加わるとあたたかい」 といった。 フィールドワーカーとして、また、孫 として、祖父に慎ましくも賑わいのあ った昔の島の風景をみせてあげたい。 そんな魔法をみつけられないだろうか。
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図 2 夏に訪れた祖父の 郷里.生命と物質が循環 する小さな世界のようだ った.
図 3 草むした神社の鳥 居.人が減り,村は自然 に呑み込まれつつある.
フィールドワークを実施することにな った。 下甑島は、九州の西方約四〇キロメ ートルに浮かぶ甑島列島の一つで、南 北に細長く、削げ立った岩礁のような 島である。民俗学的資料の宝庫として 知られ、来訪神トシドンや数々の民話 で彩られた民俗世界が今も息づいてい る。一方、離島を覆う過疎高齢の現実 は厳しく、戦前には一万人を超えてい た人口が二〇一〇年には二七〇〇人に まで減少し、典型的な限界集落の様相 を呈している。 私たちは研究テーマを「森から島の 暮らしを読み解く」 とすることにした。 海の存在感が圧倒的なこの島で、あえ て森に注目してみようという試みであ る。そして、私と学生たちは、次のよ うなことを「再発見」していった。す なわち、狭小な下甑島ではごく最近ま で山林原野、田畑、磯場までが共的に 管理されていたこと。外部と隔絶され
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モダン・ダヤックという焼畑民が暮らしている。 最近、いくつかのアブラヤシ農園企業にぐるっと 村の周りを囲まれてしまい、村の境界を越えてあ ちらこちらで無断の操業がなされているときく。 ぽつぽつと見かけない移住者も見かけるようにな った。そんな中で、自分たちの土地や森林は、自 分たちで使いたいという思いを強めている人たち だ。 村に初めて着いた頃、私は「ここでの生活を学 ばせて下さい」と、聞かれるたびに説明した。そ れが、私が村にいてもよいと思える妥当な説明だ ろうと考えていた。 村に通い始めてしばらくたった頃のこと。冗談 を言えるようになった相手の一人であるヨァッお ばちゃんに、そろそろかしこまったインタビュー を決行することにした。メモ帳を出し、ペンを握 りながら、 「ここの村の人って、遺産は女性に分け られているの?」と尋ねる私。すると、集まりの
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ためにお菓子をこしらえていたおばちゃんは、雰 囲気の違いを察したのか、「なんでそんなこと聞く
図 2 試しにラタン製背負いかごを背負う筆者.
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑩
迷惑をかける勇気 ふじわら えみこ
藤原江美子
私は引っ込み思案な性格だ。なのにあろうこと
ろそろ四年。私と村びととの間には、どのような
を築くことだという。私が対象地の村に通ってそ
東京大学大学院農学生命科学研究科修士課程 (専門はインドネシア地域研究)
か、人と積極的に関わることが前提のフィールド
関係があると言ったらいいだろう。
村は、 インドネシアの東カリマンタン州にある。
ワークというものを始めてしまった。フィールド ワークにとって重要なのは、現地の人と信頼関係
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図1 張り切って写真に 写るヨァッおばちゃん.
取った。説明ではなく、まず率直に気持ちを伝え
れたお菓子をつまんで平静を装いながら、メモを
ゃないかと、最近は思うのである。
をかける勇気を持ち続けることがまず大切なんじ
るのが筋ってもんだよね、と当たり前のことを心 で独りごちながら。 こんなふうに、私と村びととの関係は、ごく小 さな会話の中の小さな緊張の連続で作られてきた ように思う。その間、私がつかの間の得体の知れ ない客人であったとしても、少々厄介をかけられ ても、村びとたちなりのやり方で、村の社会は私 を受け取り続けてくれていたのだと思う。それは 文字通り、私が村のみんなに「育てられていた」 時間であったと言っていい。村の社会のもつ懐の 深さのようなもの。それに気づいた時、引っ込み 思案な私は、ありがたさと同時に、もうこれ以上 迷惑をかけない方がいいのかも、とも考えたのだ った。 そう、考えたはずだった。ところで、前回村を 去るときにヨァッおばちゃんは私にこう言った。
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「少しずつお金を貯めてさ、また来なさいよ。 」 引っ込み思案な私だからこそ、これからも迷惑
図 4 この桟橋の向こうに 人びとの暮らしがある.
の」と、手を動かしたまま質問し返した。お菓子 とまったく関係のないことをいきなり聞かれたの だから当然とも言える。しかし、いつにないおば ちゃんの鋭い視線と目が合ったとき、私はたじろ いだ。例の「村にいてもよいと思える妥当な説明」 も浮かばず、一気にやましさでいっぱいになって しまったのだ。そこには、村びとの生活の一部を 表現する村びとの言葉とその時間を取る自分。そ んな自分をやましいと感じていることをうまく説 明できない自分。取ってばかりで何も返せない自 分……いろいろなやましい自分がいたように思う。 「私はここの村の森林がどういうふうにしたら残 せるのか知りたい。それを論文に書こうと思って いる。まだどんなものが書けるかは分からない… …。でもそのために村のいろんなことが知りた い。 」質問に対し、私はただ自分の気持ちを打ち明 けただけだった。すると、そんな私を見抜いて答 えを諦めたのか、ひと呼吸おいて、 「そんなことな いよ、子供には均等に遺産を分けるよ、でもね、 ……」とおばちゃんは話を続けた。私は差し出さ
図 3 洪水の日,遊び半分で子供の家まで一緒に歩く筆者.
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ることもあって、焼畑用地などに苦労 して植林をしたものの経済的な見返り をまだ得られていない林家が多い。世 界農林業センサスなどの統計データを ひねくり回してみたところ、特にその ような林家が数多く暮らしているのが 四国山地の山村であった。 利便性が低く、開発などが行われて
いないなどいろんな条件を加えて、「不 便なところに暮らしながら、お金にも ならない山を持ち続けている人たちが たくさん暮らしている村」ということ で選ばれたのが柳野であった。そして なんでそんなことをしているのかを探 りに行ったのである。結局、その答え はよくわからなかった。タイミングを 逸しただけだという人もいた。将来へ の期待を語る人もいた。ただ持ってい るだけという人もおり、いろんな意見 があったけれど、目の前に広がる山々 との日常的な繋がりがとても薄れてい ることはわかった。 その頃の柳野では、あちこちでコウ ゾやミツマタなどの和紙原料の栽培が 続けられていた。山の上で作られるこ との多かった和紙原料が家屋に近い畑 で作られるようになってはいたけれど、 冬には二メートルほどもある大きな甑 で枝を蒸しているのをよく見かけた (図2) 。 それが最近ではミツマタは三
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飛んできて、 トンボが舞うようだった」 と語る。 私が柳野で調査を始めたのは、「失礼 な選択」が切っ掛けであった。日本全 国の山々は、主に昭和三〇年代あたり からスギやヒノキの植林が進んだ。こ れらの植林はお金になるまで数十年掛 かり、また丸太価格の低迷が続いてい
図1 柳野に今も残る架線(2013 年筆者撮影).
図 2 甑とコウゾ黒皮(2010 年、筆者撮影).
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑪
ストーブひとつで暖が取れるわけもな い。押し入れから緞帳を引っ張り出し てきて、それで部屋を六畳ほどに区切 って、そのなかに座卓や布団、ストー
日本文化を支えてきた和紙原料の衰退とこれから たなか もとむ
田中 求 東京大学大学院農学生命科学研究科助教 (専門は環境社会学)
大学四年生であった一九九五年の秋 から正月が明けるまで、高知県吾北村 (現、いの町)柳野地区の公民館で暮 らした。 広さ二〇畳ほどもある部屋は、
ブを持ち込んだ。 赤色鮮やかな緞帳は、 やや落ち着かなかったが寒気の遮断に 活躍してくれた。聞き取り調査から戻 ってくると、柳野のオンチャン・オバ チャンたちが天ぷらや柿などの差し入 れを座卓に置いておいてくれることが 良くあった。村の人たちはこの緞帳部 屋にどんな気持ちで入ったのだろうと 思うと、 今でも笑いがこみ上げてくる。 柳野は、昭和四〇年代まで焼畑での ミツマタや雑穀などの栽培を行ってき た山村である。現在の柳野の山にはス ギ・ヒノキの植林や広葉樹、竹やぶな どが広がっている。しかし、かつての 山は畑に入れる肥草や屋根葺き材料と なるカヤなどの採草地が広がり、春先 には白い花を咲かせるミツマタに包ま れ、また山のずっと上まで棚田が連な っていたという。 柳野のオンチャンは、 「山から収穫物などを下ろすための架 線(図1)がクモの巣のように張り巡 らされ、夕方になるとブーブブーブと
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ら輸入されてくる原料も多い。中国で 技術指導を行い、 向こうで生産した 「和 紙」を日本に持ち込んで多少の加工作 業を加えた後、国産和紙として販売す る業者もいると聞く。日本の紙幣には マニラ麻のほか、国産ミツマタが用い られてきたが、二〇一〇年から中国や ネパールから輸入された安価なミツマ タが主となった。いつのまにか、本当 の和紙が消えつつあることも余り知ら れていないのが現状だ。 栽培者は、和紙原料がどのような和 紙になり、どこでどんな風に使われて いるのかをほとんど知らなかったりも する。だから、土佐コウゾで作られた 世界で最も薄い紙である土佐典具帖紙 が、ルーブル美術館や大英博物館など 世界中で文化財の修復に用いられてい るということを話すととても驚く人も いる。 また、和紙原料を栽培している農家 さんたちの状況は、和紙製造者や消費
者などに知られていない。情報の共有 がなされていないまま、和紙原料が消 えようとしているのだ。 一〇〇〇年保つ和紙を作るには、適 地が限られる高質な和紙原料の栽培地 がとても重要だ。柳野は日本各地にほ んの少し残されたそんな栽培適地のひ とつだ。このところ、柳野に行くとコ ウゾ畑の草刈りばかりしている。問屋 さんや和紙業者さんに話を聞いたり、
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買取りの交渉をそれとなく進めること もある。話しを聞き取って学会で発表 して論文に書いて終わりというのでは なくて、どうやったらコウゾやミツマ タという柳野の大事な資源が受け継が れ、またそれで食べていけるようにな るのかを、鎌を持って右往左往しなが ら探っている。少しずつ答えは見えか けている。
図 4 柳野のみなさんと筆者(2010 年,筆者撮影).
世帯、コウゾも八世帯が栽培している のみである。 話を聞いて回ってみると、 いくつかの問題が生じていることがわ かった。栽培者は一人を除いてみな七 〇代以上であり、なかなか十分に畑の 手入れができず、その結果、問屋さん での買取り価格が下がっていた。三年 ほど前からはイノシシによるコウゾの
図 3 100 年余り受け継がれてきたコウゾの株と栽培者の黒 石正種さん(2012 年筆者撮影).
食害が深刻化していた。一〇〇年ほど 前から受け継いできた株が数十株も枯 れてしまったという八〇代のおじいさ んは、もう栽培を止めようと思うと語 っていた(図3) 。 まあ、柳野のコウゾが無くなってし まうのも仕方が無いのかな、と思いな がらも少し調べてみると驚いた。この 柳野が、全国のコウゾ生産量の六%ほ どを担っていたのだ。実は近年は和紙 原料についての正確な統計資料がない のだけれど、柳野や問屋さん、町役場 などの聞き取りからすると、二〇一〇 年の全国のコウゾ黒皮生産量は約四〇 トン、高知県が約二〇トン、このうち 柳野産が二・五トンであった。かつて は全国で二万八〇〇〇トンあまりも生 産されていたことからすると激減であ る。柳野も昭和四〇年代頃までは四〇 トンほど作っていたようだ。 柳野は良いコウゾやミツマタが取れ る場所であったとは聞いていたけれど、
ここまで重要な産地として残ってきた ところだとは思っていなかったのだ。 日本はこの数十年間でものすごい早さ で変化してきた。そのなかでいつの間 にか忘れ去られたり、切り捨てられて しまったものがたくさんある。そんな ものを、フィールドワークを通しても う一度拾い上げてみようというテーマ でこのエッセイの連載コーディーネー トを続け、たくさんの方々に執筆をお 願いしてきた。和紙や和紙原料も消え つつあるもののひとつなのだと思う。 そもそも和紙の定義というのは明確 ではない。材料や漉き方などで定義が 試みられてもいるが、和紙は日本文化 の基盤であり、 障子紙や書道用の半紙、 紙幣、団扇、和傘、提灯、ちり紙など のほか、日本画や版画用の和紙や文化 財の修復用に用いられる和紙もある。 あまりにも多様で、また製造技術も進 んでおり、 なかなか定義が難しいのだ。 近年はタイや中国、パラグアイなどか
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図 2 どちら の方向にウミ ガメ探しに行 くかの聞き取 り中.
岸地域に暮らす住民は卵を食用や販売 用にするために、産卵中のウミガメを 探してランプを片手に砂浜を歩き続け るのである。 しかし保全を重視する外部者の関わ りのなか、二〇〇九年からは保全・研 究目的以外のウミガメの卵販売は禁止 された。そのため現在では「NGOの 保全活動に協力する」という形で村人 は卵を売り、保全の対価として報酬を 受け取っているのである。エルサルバ ドル国内でも貧困地域として認識され るトゥラル村の人びとの多くが、この ようなNGOからの報酬や卵の違法販 売で得た収入を通して生計を立ててい る。 ウミガメ探しは過酷な仕事である。 雨季のトゥラル村は夜に嵐が来る。住 民は近づいてくる雷を注意深く観察す ることで嵐の接近を予測する。いよい よ嵐が近づき生暖かい風が吹き始める と、早足で帰路に着く者も現れる。し
かし家が遠い者やウミガメ探しを続け たい者は、薄いビニールカッパを着て 嵐を迎えるのである。そしてひとたび 嵐が一帯を飲み込むと、ヤシの木が折 れるような暴風と、会話もできないよ うな豪雨が降り注ぐ。雨風をしのげる ようなものが一切ない海岸線で、半袖 にカッパを着ただけの住民は暴風雨に 震えながら嵐が通過するのを待つので ある。時には雷に打たれて不運にも命 を落とす者もいるという。そのような 過酷な環境の中でウミガメ探しは行わ れている。 しかし過酷なのは気象だけではない。 ウミガメ探しを巡る競争は年々激化し ている。近年治安の悪化にともないト ゥラル村に暮らす村人は増加し、ウミ ガメ探しに参加する人口もかつてとは 比べものにならぬほど増加していると いう。古くからトゥラル村に暮らす住 民は「昔(二〇年ほど前)は、夕方に 浜辺に来て、砂浜に穴を掘って昼寝を
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忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑫
ラル村では雨季の夕方に、毎日こんな やり取りがある。トゥラル村を始めと するエルサルバドルの海岸には、タイ マイやヒメウミガメなどのウミガメが 雨季の夜に産卵のために上陸する。沿
知られざるウミガメ保全の裏舞台 いとう しょうご
伊藤勝吾 東京大学大学院農学生命科学研究科修士課程 (専門はエルサルバドル地域研究)
「今日はウミガメ探しに行かないの か?」 私が二年間青年海外協力隊として活 動し、その後もフィールドワークを行 ってきたエルサルバドル共和国のトゥ
図1 トゥラル 村の住民とわ たし.
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を当てにしてウミガメ探しに取組み続 けている住民も存在しており、このよ うな外部者による保全活動そのものが、 住民による自立した収入獲得手段の確 立を妨げているとも言うことができる。
図 5 産卵後のウミガメ.
リスクを冒して新しいことをはじめる よりも、NGOに依存する過酷なウミ ガメ探しを選ぶ住民を見て、地域に寄 り添ったかたちでの「発展」を夢見る 私は、もどかしく思うとともに、寄り 添うことの難しさを感じてきた。近い 将来ウミガメ探しの取り締まりが厳し くなりNGOが保全支援をやめとき、 彼らはどう生計を立てていくのであろ うか。「地域に寄り添いたい」 外部者は、
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今、彼らと何ができるのだろうか。 「保 全の現場」に近づけば近づくほど戸惑 いは大きくなっていく。 ともすれば私たちは観光やテレビで 「可愛い」動物を見て、 「保全」のモチ ベーションを高めることが多い。しか しそんな時に、その動物とともに生き る人々の生活まで想像を膨らますこと ができれば、保全の議論は一歩深いも のになるのかもしれない。
図 6 産卵後のウミガメを海に帰す住民.
したあとにウミガメを探していた。少 し探すだけで二匹から三匹分の卵を見 つけることができた。でもいまでは一 週間探して一匹もみつけられないこと もある」と語る。生計をウミガメの卵
図 3 ウミガメ探しを行うために,浜辺で夜を待つ住民.
に依存するある住民は、運悪くしばら くウミガメを見つけることができず、 数週間休みなしに夜間砂浜を歩き通し ていた。 このように過酷なウミガメ探しであ
図 4 卵を採取する住民.
るが、生計を依存する住民以外にも多 くの住民が参加していた。ウミガメ探 しをするのは一五歳以上の男性住民の 九四%にも及ぶ。ウミガメ探しの他に も収入源を持つ住民は、昨日は誰それ が見つけた、さっき上陸したカメの卵 は隣村のだれそれに持っていかれてし まって悔しいと話しながら、夜の浜辺 を楽しみ半分交えつつウミガメを探し て歩くのである。 昨今の野生動物保護の世論の中、ウ ミガメの保全を求める声は高まってい くことだろう。しかし、保全の現場― ―つまりトゥラル村のように実際に動 物と関わりの深い場所――を意識する 機会は限られている。そこでは野生動 物の存在に支えられる人々の暮らしが あり、私たちが当然と考える「保全」 は外部者が持ち込んだ論理にすぎない。 そしてウミガメ保全は、住民の過酷な 労働を前提として成立している側面も ある。またNGOが報酬を支払うこと
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に個体数密度の高い西部林道を訪れる と、昼間でも一〇頭を超えるヤクシカ を見かける。そのため、駆除による個 体数管理が行われており、平成二四年
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過剰なシカの存在はさまざまな問題を 引き起こすが、シカ自体もまた生態系 の重要な一員である。このバランスを 保全するにはどうすればいいか、自ら
図 2 ヤクシカの個体数密度が高く,林床植生が乏しくなっているところ.
度には約四五〇〇頭ものヤクシカを捕 獲している。屋久島を訪れる前にもこ の実情は知識としてあったものの、自 分の目で見たインパクトは大きかった。
図 1 島内で比較的ヤクシカの個体数密度が低いところ.
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑬
屋久島の生態系保全と ヤクシカを獲ること食べること くろいわ ありか
黒岩亜梨花
めとする独自の森林植生を有しており、 亜熱帯から冷温帯に及ぶ植生の垂直分 布を見ることができる地である。一九 九三年には、優れた景観と自然環境が 評価され、日本で最初の世界自然遺産
九州大学大学院システム生命科学府一貫制博士課程三年 (専門は保全生態学)
私がはじめて屋久島を訪れたのは、 学部四年生だった三年前の夏のことだ。 豊かな自然に恵まれた屋久島は、生態 学を学ぶ私にとって憧れの地であった。 屋久島は、樹齢数千年の屋久杉をはじ
に登録された場所でもある。この遺産 地域の保全管理を行うために設置され た、屋久島世界遺産地域科学委員会ヤ クシカワーキンググループの現地視察 に同行させてもらったのが、私が屋久 島を訪れたきっかけである。 私は、自身が抱いていた屋久島の森 林のイメージと実際の姿とのギャップ に驚いた。屋久島といえば下層植生が 豊かな苔むす森を想像していたが、実 際は林床がかなり空いているように感 じた。その原因は、シカなどによる採 食である。近年、全国的にニホンジカ の増加が騒がれているが、屋久島も例 外ではない。ニホンジカ亜種であるヤ クシカが、一九七一年から一〇年間に とられた禁猟措置や森林伐採に伴う良 好な餌場の増加、狩猟者の減少などの 要因によって急増しており、採食によ る植生の衰退や農林業被害が報告され ている。ヤクシカの活動が活発になる 夜間には交通事故が多発しており、特
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「かわいそうだと思うか?」と尋ねら れた。何も言えず黙っている私に、猟 師さんはこう言った。「確かにかわいそ うかもしれん。でもかわいそうなのは
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ることと、 その被害額は認識していた。 けれど、その言葉を聞くまで、彼らの 生活を想像できていなかった。 また、箱罠にシカがかかったという
図 6 くくり罠にかかった小鹿.
こっちだって同じだ。こっちだって生 活がかかっているんだ」 。 屋久島の住民 たちは、ヤクシカによる農業・生活被 害を受けている。私は、その事実があ
図 5 箱罠にかかったヤクシカ.
が屋久島の生態系や地域コミュニティ に入りながら考えたいと思って研究す ることを決意した。 修士一年となり、再び屋久島を訪れ た私は、まずヤクシカそのものについ
図 4 くくり罠を仕 掛ける様子.
て知る必要があると考えた。そこで猟 友会の方々に協力を依頼し、捕獲個体 を調べることにした。植生が乏しくな ったヤクシカは何を食べて生きている のか、今後も個体数を増加させうるの
図 3 島内で最も高密度である西部林道脇で撮影した写真.たくさんのシカ がおり,近づいてもあまり逃げない.
か、胃内容物や栄養状態を調べること で明らかにしようと考えたのだ。 まだ研究の途中ではあるが、ヤクシ カの栄養状態は高密度下でも良好で、 個体数増加の余地があること、屋久島 外のニホンジカ他亜種と同様に、植生 が乏しくなった地域のヤクシカは不嗜 好性植物の利用を開始していることな ど、 少しずつ分かってきたことがある。 今後も研究を続けることで、ヤクシカ がどのようにして個体数を維持してい るか、どのような対策をとるのが有効 かを考えていくつもりである。 そして、この研究の選択がきっかけ で、私は猟師さんから多くのことを学 ぶこととなった。 猟師さんが仕掛けている罠の見回り に同行させていただいたときの話であ る。見回りをしていると、今年産まれ たばかりの小鹿が罠にかかっていた。 愛らしい小鹿が捕獲されるところを見 た私の顔が引き攣っていたのだろう、
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これまでなんとなく繰り返していた 「いただきます」と「ごちそうさまで した」の言葉の重みとその大切さを、 身をもって感じている。今でも涙は流 れるけれど、その涙の意味と私の気持 ちは確かに変わっている。 ヤクシカを食べるだけではない。私 の今の興味は、食べられない部位をど のように利用できるか、というところ にある。まだ明確な答えはないが、頭 骨標本やなめした皮は、自然観察会や サイエンスワークショップを行う際の、 良い教材にもなる。 屋久島での研究を始めて、二年あま り経った。自然と寄り添い、共に生き ること。 「命」に対する感謝の気持ちを 忘れないこと。分かっているようで分 かっていなかったことに、気づかされ る日々である。自然の摂理に従った生 活をすることが、ヒトも含めた生態系 の維持につながっていくのかもしれな いなあと、ぼんやり考えている。
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切れずに、陰で泣いてしまうことが多 かった。しかし、屋久島で過ごす日々 の中で、命を「奪う」のではなく、命 を「いただく」という自然の営みに気 づいた。私もヤクシカを捌く手伝いを し、食べる。 「死」と向き合うことで、
図 9 頭骨標本となめした毛皮.
い。だから、どんな料理にも使えて美 味しい。人が食べない骨は、犬の餌と なる。いただいた命は、他の命につな がっていく。 屋久島に入り始めたばかりの頃、 「死」を目の当たりにすることに耐え
図 8 ヤクシカ肉のロースト.
連絡を受けて、私は現場を訪れた。そ こは、庭の作物や園芸植物が食害を受 けて困っているとの相談を受けたため に、猟師さんが罠を仕掛けていた場所 である。この付近では、 「かわいそうだ から」という理由で、猟師さんが仕掛
けた罠を外してしまう人がいる、とい う話をされた。肉を食べないのか、植 物だって生きているが野菜を食べない のか、虫採りをしないのか、大小の差 こそあれ、みんな他の命のうえに成り 立っているのだと気付かされた瞬間だ
った。 自分が生きるために、他の命をいた だく。これは、自然の摂理である。だ から捕獲する。捕獲したヤクシカは解 体して、肉を食べる。ヤクシカの肉は 栄養価が高い上、臭みも少なく柔らか
図 7 ヤクシカの解体をする筆者.
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の価値観や家庭の文化を持ち寄って、 新たなものを共同で作り上げていくと いう点では、程度の差はあれ同じこと だろうと思う。しかし異なる点がある とすれば、日本人とインドネシア人と
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訪れた村の人々の多くもイスラム教を 信仰している。イスラム教徒の女性は 異教徒との結婚が認められていない。 そのため、妻との結婚には自分がイス ラム教へ改宗することが条件であった。
図 2 友人達と参加したアジア森林パートナーシップの国際会議(バリ).
の結婚は、宗教と向き合うことから始 まるということであろう。インドネシ アは世界で最多のイスラム教徒を抱え る国であり、妻とその親族、留学先の 友人や指導教員、フィールドワークで
図1 ストリートチルドレン保護施設(ジャカルタ).
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑭
二つの紅白の旗のもとで揺らめくアイデンティティ: 結婚と母国、家族、宗教、文化 ふじわら たかひろ
藤原敬大
する度にインドネシアが大好きになり、 多くの友人もできた。その一方で、環 境や貧困といったインドネシアの抱え る問題を目の当たりにして、それらの 問題を解決するために「将来は研究者 として友人達と一緒に働きたい」と思
九州大学持続可能な社会のための決断科学センター (専門は森林政策学)
中学生の頃、インドネシアの熱帯林 が切り開かれ、多くの動植物が絶滅の 危機に瀕していることを知り、「将来は 熱帯林保護の仕事に携わりたい」と思 った。大学一年生の春休みに初めてイ ンドネシアを訪れ、人々の温かさに接
うようになった(図1) 。現在、熱帯林 の持続的利用(生産・保護・生計)を 実現するための森林政策のあり方につ いて、友人達と力を合わせて研究に取 り組んでいる(図2) 。 博士課程に入り、ガジャマダ大学森 林学部への交換留学を契機に念願だっ たインドネシアでのフィールドワーク を本格的に開始した。そして、ある国 際研究機関のセミナーで一人のインド ネシア人の女性に出会った。国際セミ ナーの運営事務をてきぱきとこなし、 独学で学んだという日本語を流暢に話 す彼女を見て、当初は恋愛感情という より尊敬の念を抱いていたが、お互い に惹かれるものもあり、自然に付き合 い始めた。その後、大変な時期を支え てもらう中で、彼女との結婚を決め、 二〇一四年三月一五日、西ジャワ州の ボゴールで結婚式を挙げた(図3) 。 日本人同士の結婚も、日本人とイン ドネシア人の国際結婚も、異なる個人
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ら、友人達と一緒にモスクでの「ジュ ンアッタン」 (金曜日の集団礼拝)に参 加したり(図4) 、 「ラマダン」 (断食月) 中にフィールドワークをした際には、 村のホームステイ先の家族と一緒に午 前三時に起きて「サフール」 (夜明け前
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てくれる指導教員のアワン先生からも イスラム教の教えを聞くことがあった し(図6) 、留学先の多くの友人達もイ スラム教徒で、学部のモスクでは、学 部長をはじめ、教員、学生が一緒にな って礼拝する姿も見ていた(図7) 。こ
図 7 森林学部の友人達.
の食事)を食べたり「ブカ・プアサ」 (日没後の食事)をしたり、また「イ ドゥル・アドハ」 (犠牲祭)の際には、 妻の家族と一緒に「サテカンビン」 (山 羊の串焼き)作りをしたこともあった (図5) 。 自分を息子の一人として接し
図 6 インドネシアの父であるアワン先生.
図 4 金曜日 の集団礼拝 へ参加.
後になって妻から聞いた話だが、交際 を始めた際、妻の家族は「自分がイス ラム教に改宗する気があるのか」を真 っ先に心配したようである。 図3 結婚式で の祈り.
インドネシア滞在中は、現地の人々 と同じ生活を送ることによって文化や 風習を知り、そして何よりも仲良くな りたいと思っている。そのため以前か
図 5 犠牲祭 でのサテカ ンビン作り.
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て、出来ることから一つ一つやってい けばいいんだよ」という言葉をよく思 い出す。 結婚を通してインドネシアは、同じ 紅白の旗を有するもう一つの母国とな った。初めて出会った時、まだ赤ん坊 だった甥は小学生になり、小学生だっ た姪は間もなく高校生になる(図 ) 。 また留学時に独身だった多くの友人達 10 図 9 シャハーダの儀式の後.
やフィールドワーク中にお世話になっ た家族の長男は親になった。 「オム・タ カ」 (タカおじさん)として子供達の成 長を見ながら、家族ぐるみの付き合い も始まっている。結婚後、自分のアイ デンティティが、インドネシア人でも なく、また単なる日本人でもない不思 議なものとして揺らめいている。その 揺らめきの中で大きく変化したのは、 これまでのように「相手のことを深く 理解しようという姿勢」 だけではなく、 「自らの宗教や文化の価値観の殻に閉
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じこもらずに、それらの価値観を外部 に向かって積極的に発信していく姿 勢」を持つことも相互理解の促進のた めには重要であり、その重要性をイン ドネシアの人々に対してもっと伝えて いく必要があると強く思うようになっ たことである。これからも日本とイン ドネシアの二つの紅白の旗のもとで揺 らめくアイデンティティの中で、相互 理解の促進につながる新たな価値観を 探しながら、両国の人々に対して積極 的に発信していきたいと思っている。
図10 「オム・タカ」になる時.
のようにインドネシア滞在中、多くの 人々の生活の一部になっているイスラ ム教に触れ、親しみを感じていたこと もあって、妻との結婚を機にイスラム 教へ改宗することに大きな抵抗を感じ たことはなかった。 二〇一四年二月七日の金曜日、それ まで調査でも度々訪れていた林業省の モスクで、妻や親友、アワン先生、一 〇〇名近い職員に見守られながら、「信
仰告白」 (シャハーダ)を行い、イスラ ム教徒となった。 アワン先生からは 「モ ハマッド」というイスラム名を与えて 頂き、 「入信証明書」 (ムスリム証明書) を林業省で発行して頂いた(図8) 。儀 式の後、それまで「フォレスター」と しての仲間意識を共有していた林業省 職員の方々が、同じ「ムスリム」とし て次々と祝福の握手をしてくれ、何と も言い難い不思議な気分であったのを
図 8 林業省発行の入信証明書.
覚えている(図9) 。 イスラム教徒となるにあたり、男性 には割礼が義務づけられており、アワ ン先生や多くの友人達も心配していた が、割礼に対しても特に不安や抵抗感 を感じたことはなかった。しかし一方 で、イスラム教が多くの人々の生活の 一部として溶け込んでいるインドネシ アとは異なり、食事や埋葬法などイス ラム教の教えに従って日本で生活する ことの難しさを強く認識しており、そ のことが原因で時に妻と激しい議論に なることもあった。家族は、日本とイ ンドネシアの両方におり、考え方が正 反対であることもある。インドネシア では自分が妻の家族の息子として、日 本では妻が自分の家族の娘として、異 なる互いの価値観や家庭の文化に向き 合いながら、新たなものを作り上げる 作業が続いている。そんな時、インド ネシアの友人の「何が出来ないのかで はなく、まずは何が出来るのかを考え
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培が広がっている作物だ(図2) 。主に 家畜の飼料や澱粉用、エタノールの原 料にされていて、タイやベトナムなど にも輸出されている。でも、そのキャ ッサバを地元の人たちは食べないとい う。毒があるからだ。キャッサバのな かには糖と結合した青酸が含まれてい て、毒抜きをしないと食べられない。
図 2 焼き畑のあちこちに立て置かれたキャッサバの苗.
天日乾燥させたものがキロ五〇〇リエ ル(約一四円) 。お世話になったレニュ ーさんの畑は、まだ収穫の途中だった けれど、 二トン分を収穫したという (図 4) 。 販売すれば約二万八〇〇〇円の収 入になる。焼き畑の一角には陸稲も栽 培されていたものの、キャッサバはす っかり主作物に変わりつつある。カシ
図4 焼き畑を案内してくれたレニューさん(左から3人目)と筆者(左端). 201
ソロモン諸島などでは毒のごく少ない キャッサバが食用とされており、ココ ナッツミルクで煮たり、摺り下ろした ものを石蒸し焼きにしてケーキを作っ たりもする(図3) 。カンボジアで広が っているのは高収量だけれども有毒な 加工用の品種だ。 キャッサバの村での引き渡し価格は、
図 3 キャッサバのケーキを食べるソロモン諸島ビチェ村のエディパ イ君.
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑮
移動と定住のフィールドワーク たなか もとむ
田中 求
ドルキリ州の山岳民プノン( ) Bunong )村 人の暮らすプチュレウ( Puchuleu にお邪魔して、みんなでキャッサバの
それでも学生たちとフィールドに入る のは楽しい。 昨日はベトナムと国境を接するモン
九州大学持続可能な社会のための決断科学センター准教授 (専門は環境社会学)
大学の実習を通じて、カンボジアで のフィールドワークを始めた。といっ ても、二週間に満たない短期での学生 実習を年に数回やるだけなので、なか なか歩き回る村の社会文化的な背景や 言葉の裏側まで把握することは難しい。
収穫の手伝いをした(図1) 。芋を折ら ないようにユサユサと揺らしながらグ イッと土中から引き抜くのはコツのい る作業で、慣れないから途中でポキリ と折ってしまうことも多い。変なとこ ろに力が入ってしまったのか、まだ腰 と背中がギシギシと痛い。 キャッサバはカンボジアで急速に栽
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図 1 カンボジア・モンドルキリ州でのキャッサバ収穫.
ったく新しい場所に移動して焼き畑を することもあった。焼き畑は複数年サ イクルでの移動もしくは他の土地への 移動を前提としてきたのだ。 定住化政策や商品作物の導入は、移 動を前提とする焼き畑を大きく変える ことになる。限られた土地では焼き畑 の移動サイクルそのものが難しくなる
図 7 中国企業によるマツの植林地
し、焼き畑用地にカシューナッツを植 えれば、そこは伐開することも火を入 れることもできなくなる。焼き畑で家 族や村のみんなで分け合って食べるも のを作って来た生活は、作物を売って 得たお金で食べ物を買う暮らしに変わ る。 キャッサバなどの商品作物を運び、
図 8 ラタンやタケで作られたプノン人の家屋.
販売するためには市場へのアクセスの 良い道路沿いが有利だ。モンドルキリ 州でも、道路沿いの土地には外部から 入植者が入ってくることもある。ゴム ノキやコショウの農園開発、植林を進 める企業(図7)との土地を巡る争い も生じている。焼き畑を続けてきたプ ノン人の村々は大きな変化を余儀なく されている。焼き畑の陸稲はとてもお いしくて大好物なのだけれど、それも 減りつつあるようだ。 定住を余儀なくされたプノン人のい くつかの村ではエコツーリズムの取り 組みが始まっている。プータン
( Putang ) 村もそのひとつだ (図8) 。 元々、現在の村から約二〇キロ離れた ベトナム国境にあるプータン川周辺に 住んでいた人々は、村の古老が数人亡 くなると話し合いのうえ新たな場所に 移動して焼き畑を行ってきた。薬用の 動植物についての知識が豊富(図9) で、ゾウなどを飼い慣らす技術にも長
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ューナッツもあちこちに植えられてい る(図5) 。これもまた商品作物だ。 カンボジアに限らず、東南アジア諸 国では長年にわたってあちこちに移動 しながら焼き畑を続けてきた村々に対 して、商品作物の導入や定住化が促進 されてきた。ビルマ・ラカイン山脈の サラインチン人は、軍による廃村や労
図 5 焼き畑や庭などに植えられているカシューナッツ.
働の強制などを受けつつも、あちこち 移動しながら焼き畑を続けていた。焼 き畑では、さまざまな種類の陸稲が栽 培されていて、みんなでサルなどを追 い返し、助け合って収穫をし、足りな いときはコメの貸し借りをして、村全 体でなんとかコメを自給しようとして いた (図6) 。 焼き畑を基盤にしながら、
図 6 ビルマ・ラカイン山脈のサラインチン人の焼き畑での陸稲の収 穫作業.
村のみんながつながっているのがよく わかった。つながりあって助け合わな ければ人手のいる作業もできず、天候 不順や獣害による不作にも対応するの が難しいからだ。そんなサラインチン 人の村でも、余剰があれば誰かに貸す はずだったコメを市場で販売するよう になり、商品作物であるトウガラシを 販売するために道路沿いに定住する人 も生じていた。私がお世話になった一 九九八年前後は、焼き畑や移動への規 制を受けつつも焼き畑を続けている人 が多かったけれど、今はどうしている のだろうか。 焼き畑での陸稲栽培は連作が難しく、 森を伐り開いて火を入れた一年目の焼 き畑では良く育つものの、二年目から は雑草が増え、収量も落ちるようにな る。そのため、新たな場所をまた伐開 することが必要になる。短くて数年、 長い場合は数十年間も休閑させた森が、 再び焼き畑として利用されてきた。ま
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学校に行かせない人も多い(図 ) 。 その一方で焼き畑はあまり行われなく なり、踊りで表現していた作業も現実 の暮らしとはかけ離れたものになって いくのかもしれない。 いつから移動しながら暮らすことが 悪とみなされるようになったのだろう。 人は定住するのが当たり前なわけでは
ない。 焼き畑だけでなく、 牧畜や漁労、 狩猟採集を主要な生業としながら移動 を繰り返してきた社会もある。国境の 設定や保護区などによる囲い込み、土 地の管理、企業などによる開発、そし て定住化政策は、人を特定の土地に縛 り付ける。商品作物は人を金で縛り、 人と人のつながりを大きく変えていく。 そこに軋轢や悲しさや歪みや矛盾は生 じないのだろうか。 みんなが食べないもの、食べられな いものがたくさん植わった焼き畑をみ ながら、この人たちの暮らしや社会が これからどうなっていくのか、そこに どんな豊かさがあるのかを考えていこ う、そしてこの人たちがお金や政策に 振り回されず、自然とつながり、人と 人がつながっていく社会を再構築して いく姿が見られたらと思っている。
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この村ではそんなことはしない。野生 動物は我々の仲間だ」と語るのはエコ
図 12 ゾウに泣きながら話しかけるプノン人のおばちゃん.
さん。 ツーリズムを進めている Vanny エコツーリズムは、移動を基盤にした 暮らしから定住へと切り替えざるを得 なかったプータン村の人々を豊かにで きるのだろうか(図 ) 。子守や焼き 畑で働くことを優先して、子どもを小 12
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図 13 弟の子守をしながら踊りを見ていたプノン人の女の子.
けた人々だ。 プノン人のさまざまな技術や知識、 価値観を次世代が受け継いでいけるよ うな取り組みもされている。織物作り (図 )のほか、銅鑼に合わせた踊り には子どもたちも参加する(図 ) 。 踊りはドブロクの入った壺にコメとニ ワトリを供え、ニワトリの血をコメに 10
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図 9 婦人病の薬になる煙で燻されたヤマアラシの内臓.
垂らしながら、収穫を精霊に感謝し、 許しを得てから始められる。陸稲の播 種から収穫、籾のより分け、漁労など の作業を模した踊りだ。大小六つの銅 鑼を組み合わせて「ボワンボボンボボ ンプワンプププワン」 とリズムを刻む。 何世代にもわたって受け継がれてきた 踊りや衣装なのだろう。 男性の褌は四・
図 10 プノン人の伝統的な織物を織る女性.
五メートルもの長さがあるという。ま だ踊りに参加できない小さな子どもた ちも銅鑼を鳴らす音をまねるように手 を叩き、興味津々だ。 「他の村ではゾウを一日五回、一回 五キロも旅行者を乗せて歩かせたりし ている。五〇年以上生きるはずのゾウ が、 二〇年で死んでしまうこともある。
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図 11 プータン村の陸稲収穫の踊り.
図1 乾季の 2 月に咲くカルダモンの花.
図 2 ヒルに足を噛まれた時に履いていたサンダル. その昔,地元の人々はカルダモンを取りに森に入る ときは靴を履くことは禁じられていた.
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そばにいた人が慣れた手つきでタバコ の火を押し付けるとヒルはいとも簡単 にポロリと落ちた。血を吸って膨らん だ姿を見てその人は言った「腹いっぱ いになったね」 。勝ち誇ったように、身 を伸び縮みさせて地を這う姿を見て、 苛立ちともいえない、何ともいえない 気持ちになった。
図 3 血を吸って、勝ち誇った様子で地を這うヒル.ティエッ クという小さく短めの種類.
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑯
フィールドワークでヒルと付き合う:
ウのようだ」と言われた。完治まで二 週間を費やした。それ以来ヒルが恐く なった―。 カンボジア西部の山岳森林地域につ らなるカルダモン山脈。ショウガ科の
人を噛む生き物が育む感情、感覚、想像力
いしばし ひろゆき
石橋弘之 東京大学大学院農学生命科学研究科 博士課程 (専門はカンボジア地域研究)
――フィールドで遭遇する厄介な生き物
ヒル( 蛭)
カンボジアの森でヒルに足を噛まれ た。足は大きく腫れあがり「まるでゾ
カルダモンの特産地であり、無数のヒ ルが棲む森が広がる地域。そこにはカ ルダモンを交易品とする人々が一〇〇 年以上も前から暮らしてきた。 その日、私はカルダモンの花を見よ うと土地の若者に案内してもらってい た。森の片隅の暗がりに小さく咲く白 いその花を見て歓喜した。早速写真を 撮り、歩道に戻り一息ついた。ふと足 元が気になってサンダルを脱ぐと両足 の甲と指にヒルが何匹も噛みついてい た。足にへばりつき蠢くその姿に驚愕 して、大慌てでヒルを素手でむしり取 る私を、若者は面白おかしく笑った。 宿泊先に一時間ほどかけて歩いて戻り、 やがて傷口が化膿した。 カルダモン山脈の人々の生活と歴史 を知りたいと森に飛び込んだ私を嘲笑 うかのように、その後もヒルは噛みつ いてきた。 家々を回っていた時も、くるぶしに 丸々と膨れ上がったヒルがひっついた。
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だよ」 。 それほどヒルが多いのなら、どのよ うに身を守ったのだろう。聞くと、腰 に下げた竹筒に塩や石灰を混ぜた薬を 入れておき、足に塗ったのだという。 別の日に、この男性に案内してもら 図 6 雨でぬかるんだ土の上を走る高級木材の運搬車によって壊される 村の道路.
い、畑の出づくり小屋に行った時もヒ ルはいた。それを見て悲鳴を上げそう になった私と違い、男性は慣れた手つ きでヒルを木の上に乗せて鉈でタン、 タンと叩き刻んだ。
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開発下の森林消失のなかで 変わる生活
その畑も今はなくなってしまった。 二〇〇九年に水力発電ダムの開発が着 工され、この機会に便乗した企業、商 人、労働者が高級木材の伐採を始めた のだ。やがて高級木材が枯渇すると、 キャッサバやトウモロコシなどを作付 けするための農地開墾が始まり、かつ ての畑は、一気に商品農作物の農園に 転化された。 そうしてカルダモンの森、 ヒルが棲む森の多くが伐採された。い つしか私もヒルに噛まれる心配をしな くなった。 それでもなお、あまりにも多くのヒ ルが棲む森とともに昔から暮らしてき たこの地域の人々にとって、ヒルはそ う簡単に忘れることができる存在では なかった。 図 7 水力発電ダム開発下で森を縦断する形で建てられた電波塔の一つ.
森で暮らす感覚を呼び起こす生き物 そんな生き物とこの地域に住む人々 は、 昔からつきあってきた。 あるとき、 五〇歳代の男性と話していると、カル ダモンのことに話題が及んだ。初めて
カルダモンを取りに行ったのはまだ幼 い九歳の頃。数十人で集まり一週間か けて森に入り、小屋を建てて肩幅程の 小さなゴザを敷いて寝泊まりしたこと を「楽しかった」と語った。 私がヒルはいたかと聞くと「おぉ!
図 4 焼畑用地に陸稲を植える穴を棒で掘る.
本当にたくさんだ! 足にもつくし、 頭にもつく。私なんか雨が降ってる時 に口の中にまで入られたんだから!」 。 口に入ったって、どうしてわかった んですか? 「ご飯を食べている時に気がついたん
図 5 焼畑用地周辺の森は、ダムの貯水池として伐採された後に,キャッサ バ農園と化した.
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猟師の子分を喰う巨大なヒルの王。 そのヒルの王を仕留めた猟師の長。森 に入り、無数のヒルと奮闘して暮らし てきた人々は、いつしか想像力を膨ら ませ、人を喰うヒルの王と闘う猟師の
伝説をも生みだしたのだ。
んだ、そうした力を秘めた生き物がヒ ルだった。 いま、人々がヒルという生き物とつ き合いを築いてきた森は伐採されつつ ある。そのなかで生活の場も急速に変 わっている。森がなくなれば、ヒルに 噛まれて厄介な思いをしなくてもよく なるだろう。そうした生活を選ぶのも 選択肢の一つかもしれない。しかし、 そのことと引き換えに生き物とのかか わりを通して呼び起こされる感情、感 覚、想像力を生んできた地盤も崩れ去 るかもしれないことを忘れてはならな い。あるいはまた、森に暮らしてきた 過去の経験を土台に、人と生き物、人 と人の関係をつなぐ新たな場を人びと はつくりだすのだろうか。その行き先 をこれからも見て行きたい。
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おわりに 現在のカンボジアでは、 ゾウやクマ、 ワニなど大型野生動物が保全活動の対 象とされている。そこでは人々が日々 の生活のなかで否応なく接するヒルの ような生き物が語られることはほとん どない。 しかし、そのような小さな生き物と のつきあいは、日々の暮らしの中では 避けることはできない。それは、体中 にへばりついて人の血を吸う厄介な生 き物であり、大事にされるどころか、 嫌われさえもする。 それでも、その生き物の名前をひと こと口にするだけで、森に入った時の 感情や、感覚が呼び起こされ、いきい きとした声と表情で人々が語るきっか けとなる。それは、想像力をふくらま せ、世代間で語り継がれる伝説をも生 図 9 川辺にて村の子供が撮影してくれた写真.
伝説 ―猟師を喰うヒルの王 それは、ヒルの王の伝説として今な お語られている。 二〇一一年六月、村を再訪した雨季 のある日、道を歩いていると知人の男 性の一人があいさつ代わりに声をかけ
てくれた。 「カルダモンの季節だ! また来た ね! 今年はいくらで買ってくれるん だ(笑) 」 そう言うなり、男性はそのとき立ち寄 っていた古老の家に私を招いてくれた。 古老が「昔はカルダモンの森を伐採
図 8 チュルーンという体の長い種類のヒル.砂地の多い川の中で 体をくねらせて泳でいたりする.ヒルの王の伝説に登場するのはこ のタイプ.
あるとき七人の猟師が森の中でご飯 を炊くことになった。ご飯を炊く水 がないので、猟師の長が子分の一人 に水を汲みに行かせた。ところが、 なかなか戻ってこないので二人目の 子分に水汲みに行かせた。やがて、 三人、四人と後から様子を見に行っ た子分も次々といなくなった。最後 の子分も戻ってこないので、とうと う猟師の長が池を見にいくと――そ こには見上げるほどの高さの巨大 ヒルがいた。猟師の長はすかさず、 椰子の実を弾にして弓を放ちヒルを 狙って仕留めたのだった。
するなんてことはなかったね。今やも うすっかりなくなったけど、カルダモ ンの森には椰子打ち池(スラバンニュド があって……」と語り始めると、 ーン) 横に座っていた男性は「おじいさん。 その話は私にさせてください……」と 前に乗り出し語りだした。 図 9 川で元気よく遊ぶ村の子供.
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図 1 陰暦七月のお参り(中元普渡).陰間 から来た「好兄弟」たちへもてなし(施餓鬼) をする.
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残る家族の間で、お馴染みの会話がな される。 「まぁ、あんたちょっと、もっ て帰りなさいよ」「いらない、 いらない、 食べきれないからさ」 「いいから、いい から」 、もう一個、もう一個と袋の中へ 詰め込まれて、苦笑いしながら荷物を かかえて人々は村を離れていく。 拝拝でもてなしを受ける対象の「好
図 2 お供えの準備中.タオルは水に浸して「好兄弟」へ供える.
る「鬼」 (グイ)は、非業の死をとげた 者、あるいは子孫が絶えて先祖の祭祀 が行われない者たちとされる。人々は 彼らを 「鬼」 と直によぶのをはばかり、 同時にいささかの親しみをこめて「好 兄弟」とよぶ。
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑰
冥土の門は夏ひらく まえの せいたろう
前野清太朗 東京大学農学生命科学研究科博士課程 (専門は農村社会学)
台湾の夏は「好兄弟」 (ハオシオンテ ィ) たちを迎える季節である。 いわく、 毎年陰暦七月は地獄の門が開く月とい う。その月いっぱい、あの世の陰間(い んかん)の亡者が、この世の陽間 (ようか ん)をさまよい歩くのだ。彼ら亡者た
陰暦七月一日から三十日の間の適切 な日に、肉・ちまき・酒・蒸し餅など 各種の供え物が庭先の机に並べられる。 家人そろって(ないし村の各世帯が廟 にそろって)線香をあげ、その線香と 小旗を供え物に立てて「好兄弟」用の お供えとする。お参りが終わると、ど っさりと紙銭(ズーチエン)を焼く。 紙銭は陰間で通用するお金である。食 事と心付けのおもてなしで「好兄弟」 たちに安穏なお引き取りと災厄からの 庇護を願うのだ。 陰暦七月のお参りを含め、日々いろ いろの儀式でありお祈りでありお供え を、台湾では拝拝(パイパイ)とよん でいる。年に数度の季節の祝日は拝拝 とともにあって、都市から村へ人々が 帰ってくる。毎度の拝拝で神仏・祖先 や「好兄弟」に捧げられた大量の供物 は、陽間の生者たちでいただく習わし である。拝拝の終わる連休の最後の日 ともなると、帰省してきた家族と村に
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図 4 演武用の旗を振って大人の演武の真似をする.
通じて「有縁份」の人々と新しい縁を つくっていく。反面、縁は多く抱えす ぎると厄介なものでもある。縁を深め ることは相手と相互のやりとりを始め ることを意味する。お世話になること は、将来的にお世話をするかもしれな いことなのだ。筆者は異国からの訪問 者で(かつ学生で)あるから、負うべ き義務は比較的軽い。それでも村の知 人やそのまた知人が日本に来ることが あれば、ガイドなり買い物の手伝なり はするべきものだ。お願いされて、お 世話になっている家の息子が一ヶ月ば かり狭い東京のワンルームへ居候して いたこともあった。 「お前、台湾でこん ないっぱい友人がいて、そいつらが一 〇〇人、二〇〇人、揃って日本に来た らどうするのさ。なんだったら今度東 京 へ 遊 覧バ スで 乗 り付けて や ろ う か?」とは、筆者にそんなキャパシテ ィがないことを知っての上での冗談で、 周りも「そんな真面目に受け取るもん
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兄弟」たちに名前はない。彼らは縁あ る人々がこの世にいなくなってしまっ た亡者だからである。この縁(ユアン) という言葉、それから「有縁份」 (ヨウ ユアンフェン)という言葉は、台湾を
歩き、人々を訪ねるとよく耳にする言 葉だ。 「有縁份だからね」といえば、 「袖 触れ合うも他生の縁」くらいの、ちょ っと気の利いた挨拶になる。 ただし 「有 縁份」であることはあくまでキッカケ
図 3 紙銭を焼く準備中.規模の大きいお参りではキロ単位で買ってくる.
で、 継続的な交流を積み重ねる中で 「有 縁份」が意味を持つ縁になっていく。 村であれ都市であれ、縁なしのアポと りや訪問はあまりうまくいかない。け んもほろろに追い返されることは、正 直少なくない。これが日を変えて縁の ある紹介人とともに行ってみると、打 って変わって手厚く迎えてくれる結果 になったりする。もちろん縁をたどっ て訪問するからには、その人と縁の深 い人々と優先的につながることは避け られない。ある人に対しては直接親身 に紹介してくれるけれども、別の人に 対しては連絡先なり大体の住所を教え てくれる程度であったりする。縁をた どればスムーズに人探しができるけれ ど、キーパーソンを尋ねるには時に深 い縁の輪の中から抜けだすことも必要 になる。 人々にとって縁は便利なものだ。縁 ある人を介して地区の問題を陳情した り、会社設立の人員を集めたり、縁を
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図 6 集落の人々とともにご神体が参詣から戻り、集落の中を神輿でめぐる.
く、集落に残る親族が多いからこそで きる珍しいケースである。それでも陰 暦七月のお参りに参加する三十世帯中、 三分の一はもう集落内に常住していな い。拝拝の折に故郷へ帰ってきて、廟 でのお参りに参加して戻っていく。も う少し規模の大きい隣の集落では、村 の世帯全てがそろうのも難しい。基本 的には個々の家で「好兄弟」へお参り するに留め、村の廟では小規模な儀式 があるに留まる。集落の外へ出た人々 が次第に第二世代・第三世代の子孫世 代へ移るにつれて、都市と村の繋がり は、固い縁から「有縁份」へ移行しつ つある。 「好兄弟」はいつまでも匿名の存在 で、人々と固まった縁をつくることが ない。しかし、もてなす人々がある限 り、毎年「好兄弟」はやってくるだろ う。生きる人々が縁でつながるからこ そ、縁の切れた「好兄弟」たちを迎え ることができるのである。
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じゃないよ」 と言ってくれる。 しかし、 もしも十分なキャパシティを備えてい れば、それらは引き受けなくてはなら ない。実際、村長はじめ地方のリーダ ーに担がれるのは、多くの縁と縁から
生じる厄介を厭わない人間である。も しリーダーが縁を通して生じる様々な 頼み事を処理しきれなければ、不満の 的になる。問題処理に熱心でない、と いうのは往々村長や議員の交代理由に
図 5 集落の外の廟へご神体とともに参詣.早朝に出発して到着後の一休止. 中央が筆者.
挙げられる。 「好兄弟」と人々の間のかかわりに も似通った関係がある。他所からやっ てくる不特定多数の「好兄弟」へお供 えするため、かつては灯籠つきの旗竿 を目印とした。この旗竿は低すぎても 高すぎてもいけない。低すぎては目印 とならないから「好兄弟」へ十分な施 しができない。逆に高すぎれば「好兄 弟」を必要以上に招いて厄介を抱える 可能性が出る。災厄を避けるため、 「好 兄弟」と仲良い関わりをもつ必要があ るが、必要な以上に縁を深めてもまた いけないと人々はいう。 かつて廟で拝拝をするとき、竹籠に 自家製のちまき・蒸し餅をぶら下げて、 村の人々が三々五々に集まってお供え をするのが常だった。こうした光景は 現在農村といえどなかなかお目にかか ることができない。筆者が訪問してい る集落では、まだ比較的古いお供えの 手法が残っている。これは集落が小さ
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それぞれの森から生活に必要な様々な 資源を得ることが可能になっているの です。それは村の家族と寝食をともに し、たくさんの話をし、一緒に畑仕事 をしながら見えてきたもので、S村で のフィールドワークは私の研究には欠 かせません。
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子を思い出さないわけにはいきません。 そんな想いを知ってか知らずか、村の お母さんたちは「子供を置いてきて寂 しくないの」と尋ねてきます。 「もちろ ん寂しい」と答えながら、子供を置い て海外に来るなんて冷たい薄情な母親 と思われているのだろうな、と後ろめ
図 2 森の中で赤く色づくコーヒーの実.
でも自分自身が子供を持った後で、 村での滞在が気持ちの面で別物になっ ていることを思い知らされました。村 では家族みんなの温かな視線に包まれ ながら子どもたちが元気に走り回り、 のびのびと育っています。そんな姿か ら、寂しい思いをしているだろう我が
図1 村でお世話になっている夫妻と筆者.
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑱
まります──。 多くの子育て中の女性フィールドワ ーカーにとって、フィールドに出るこ とは容易ではないでしょう。家族を日 本において、もしくは家族を連れて海
母がパナマでフィールドワーク!
ふじさわ なつほ
藤澤奈都穂 東京大学農学生命科学研究科博士課程 (専門は熱帯農業)
夫の胸に抱かれながらも必死でこち らに両腕を伸ばし泣きじゃくる一歳の 我が子に手を振りながら、出国審査に 向かう私。 「あぁ、人生の幸せとは何な のだろう」と繰り返し考える日々が始
外に長期滞在というのは、多くの家庭 にとっては困難なはずです。家族の全 面的な協力の下そのような「家庭面」 の障壁を乗り越えフィールドに行くこ とができている私はとてもラッキーで す。けれど、やはり幼い子供をおいて 出かけることは想像以上に辛いことで した。 フィールドワークの行先はパナマの S村。私はこれまで「人々が森を利用 しながらも維持していく方法を模索す ること」 を目的とし、 パナマで森の樹々 を日よけとして利用しながらコーヒー を栽培する「日陰農法」の調査を行っ てきました。その中で村の人々によっ て昔から行われてきた焼畑農業とコー ヒーを栽培する森は互いに良い影響を 与え合いながら村の生活を支えてきた 様子がわかってきました。焼畑にとっ てもコーヒーにとっても「森」は必要 です。それぞれの農法により村内には 異なった性質の森が維持され、人々は
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単身で町に出稼ぎに出ることも多いの です。 フリアナおばあちゃんの家は、そん な出稼ぎのお母さん三人とその子ども たちの温かな受け皿です。 二人の娘と、 村に住む息子の奥さんの出稼ぎを支え ているのです。長女のマリアは、娘を 治安の悪いパナマシティの学校ではな く落ち着いた環境の村の中学校に通わ せるため、フリアナおばあちゃんに預 けています。月に一度、村に戻ったマ リアは、ふっくらとした腕に娘をギュ ッと抱きしめて、 「寂しいけど、娘が高 校生になったらシティに呼び寄せる の」と話していました。トマサは発達 障害と診断された子供にかかる検診費 等を稼ぐために出稼ぎに出ました。母 親がまだまだ恋しい幼い息子のために、 毎週末たくさんのおもちゃやお菓子を 持って帰っていました。小学校に上が る年に、発達障害は認められないとい う診断を受けたため、すぐに村に戻っ て今は両親の家事の手伝いをしながら 暮らしています。奥さんが出稼ぎに出 ているエディルベルトさんは農業にも 熱心で、毎日三人の子どもたちの世話 をしながら畑にも出かけます。お母さ んがいなくなるたびに泣き出し、母か らの電話を毎日楽しみに待っていた次 男のロニーも妹ができ少し強くなりま した。 毎日学校が終わると子どもたちはお ばあちゃんの家に集まり一緒に遊びま す。フリアナおばあちゃんとアレハン ドロおじいちゃんはいつも子どもたち に甘いコーヒーを淹れ、おやつや夕飯 を作り、時にお使いを頼み、出稼ぎに 出ていかなければならない親の代わり になって、安心感に包まれた日々の生 活を作っているのです。 クリスマス休暇になると村には人が あふれます。出稼ぎや、都市で就職・ 就学した人々が一斉に帰省するからで す。 村はどんな生活スタイルの人々も、
また都会の生活になじめずに帰ってく る人々も受け入れ、幸せを与える懐の 深さを持っていると感じます。状況は それぞれだけど、互いに深い愛情を抱 きながらも離れ離れになって頑張って いる村の親子の姿は大切なことを私に 教えてくれた気がします。それは、自 分のフィールドワーク人生に後ろめた さを感じるのではなく、この状況の中 で自分たちらしい「親子」としての歩 み方や愛情のつなぎ方を精いっぱい作 っていくこと、そして親や兄弟、近所 や友達、 そういった身近な人々と共に、 子供がさみしさを紛らわしながら過ご せるような「私も子供も安心して帰る ことができる場所」を作っていくこと が大事なのだ、ということでした。子 育てと研究の両立を支援する「制度」 や研究者としての「覚悟」とはまた別 の研究の環境づくりの一つとして。
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たさも感じていました。そんななか、 村の中に子供と離れて生活することを 選ばざるをえないお母さんたちの姿が あることに気づいたのです。 そこから、 子育てフィールドワークのヒントも見 えてきました。 村では近年、 若い世代が高学歴化し、
農業を幼いころから手伝うことも少な くなったといいます。村の中学卒業後 は、村外の高校・大学に進学し、都市 に出稼ぎに行くのが一般的になってい ます。また急激な食料価格の上昇と生 活の変化から現金の必要性が高まり、 家族の一員が出稼ぎに行くことも珍し
図 3 トウモロコシを植えた斜面の焼畑と、そこから望む村.たくさんの 家々は木の下に隠れている.
くありません。その後、結婚や出産を 機に村に戻ってくるケースも多いので すが、村でも薬や食料品等の出費は避 けられません。特に若いシングルマザ ーである場合は、親世代も娘と孫を十 分養えるほどの余裕がないこともあり、 お母さんは幼い子供を祖父母に預け、
図 4 フリアナおばあちゃんと家族.
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図 1 柳野地区のコウゾ畑と家々.
知れない家族や戻ってきて欲しいと願
いながら亡くなった方の思いを断ち切
ることにもつながるからだ。
柳野地区には、誰にも貸さず、また
帰ってくる人もいないまま屋根が落ち、
床が腐り、誰も住めなくなってしまっ
た家があちこちにある。よくコウゾ収
穫の手伝いに行っていた畑の横に、と
ても縁側が広くて目の前に山が広がる
空き家があった。畑と家の間には立派
なお墓があった。お酒好きで有名だっ
たオンチャンと信心深くて働き者だっ
たオバアチャンのお墓だ。畑を手伝い
に行くたびに、 畑を荒らさないでくれ、
受け継いでくれという声がお墓から聞
こえてくるような気がした。
家と畑を借りられないかと、人を介
して娘さんにお願いしてみた。帰るこ
とはないだろうけれど、家がつぶれて
も良いから誰にも貸したくないとの返
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忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑲
フィールドに根っこを生やす 田中 求 たなか もとむ
ど山の文化、和紙などの調査を続けて きた。
家を借りるまでにはいろいろとドタ
バタがあった。私が高知に引っ越して
くることを伝えると、 あちこちから 「こ
の家を借りんか」「あそこが売りに出て
いるぞ」と話があった。でもどの家も
そこに住んでいたオンチャンオバチャ
ンたちのことを良く知っているし、家
を離れた家族のことも聞いていた。
「息子が帰ってくるはずだから」と
屋根を直していたオバアチャンの家、
「子や孫みんなで暮らそう」と新築し
たけれど借金を返しきれずに売りに出
された家、「いつか甥っ子や孫が帰って
「バアチャンの料理じゃけど食べるか
「明かりが点いているのがうれしい」
柳野では一九九五年から伐り畑(焼き
た私にいろんな人が声を掛けてくれた。
柳野地区で、この春から家を借り始め
決断は、もしかしたら戻ってくるかも
くなる。私が家を買う・借りるという
とどんなに良い条件の家でも借りにく
チャンの顔も浮かんでくる。そうなる
高知大学地域協働学部講師 (専門は環境社会学)
え」 「誰かが住んでくれるだけでエエ、
畑)や林業、踊りや宮相撲、ヨバイな
きたらいいねえ」と話していたオバア
助かる」 、高知県吾北村(現、いの町)
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図 3 借りることになった古民家.
を入れてもおいしい。五右衛門風呂も
沸かす手間は掛かるけれど自分が煮ら
れているような感じで楽しい。
暮らし始めてみると、そこに住む者
としての「当たり前」がたくさん降っ
てきた。山から引いている水の管理、
道普請、総人足、猟友会、消防団、イ
ベントの手伝い、家の横にある石仏の
掃除、近隣に迷惑にならないよう庭木
の剪定、庭に入ってくる猫やアナグマ
とのつきあい、ゴミ出しなど、地域の
人や自然とのつながり、生活基盤など
の「当たり前」のなかに入ることがで
きたのがうれしくてちょっと大変だ。
四年ほど前から畑も借りており、和紙
原料のミツマタやコウゾのほか、トロ
ロアオイやタデアイ、コムギなどを栽
培しているのだけれど、なかなか自分
の畑に行く暇がないくらい、地域との
つきあいがたくさんある。
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図 2 見晴らしの良い空き家.
事だった。私は子どもの頃から引っ越
しばかりで、自分が生まれ育った家と
いうのがないけれど、娘さんの生家へ
の複雑な思いは伝わってきた。
よく聞き取りに伺った民謡や釣り、
狩りが好きなオンチャンの家が空いて
いるぞという話がきた。長いこと入院
していたオバアチャンは、娘さん夫婦
の家で同居を始めたという。オバアチ
ャンが柳野の家に帰りたがっているこ
とは知っていたから、遠慮するつもり
だったけれど、娘さんたちはもう戻れ
る健康状態じゃないから貸しても構わ
ないという。
オバアチャンがいつ戻ってきてくれ
ても構わないし、もしお孫さんたちが
住みたいということがあったらいつで
も家を空けることを伝えて、借りるこ
とにした。水は水道ではなく山から引
いているからそのまま飲んでも、お茶
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図 5 ミツマタを運ぶ筆者.
しれない。
これまでのフィールドワークは、「知
ること」 「解釈して伝えること」が主だ
った。フィールドに住むことを選んだ
ことで、「何をどれだけ自分が受け継げ
るか」という柱が加わった。自分だけ
でできないこと、みんなで一緒にやる
こと、地域の長い歴史のなかで受け継
がれてきたことも多い。どこまで根っ
こを広く、また深く伸ばせるのか、と
ても楽しみだ。
169
図 4 家の上がり口にある地区内のお遍路(御大師様)の石仏.
山村は家や田畑を作るのに条件の良
い場所は限られている。柳野に来始め
た二〇年前だったら、新たに家や田畑
を借りたりするのはとても難しかった
と思う。長くつきあい続けることで関
係が深まったということもあるけれど、
それ以上に「先祖から受け継いだ家に
住み続ける、田畑も自分で耕作する」
という「当たり前」を、部分的に諦め
ざるを得ない人たちが増えてきている
のだと思う。諦めと、家や田畑が荒れ
かけていることが重なり、できた隙間
が私を受け入れてくれたのだろう。
長野県大鹿村の移住者さんは「今は
家も田畑も借りたかったら早い者勝ち
だよ、すぐに入れるところは無くなる
よ」と語っていた。七十代、八十代の
村人が増えていることからすれば、こ
の隙間はあと一〇年も続かず、誰も入
れない深い穴に変わってしまうのかも
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図1 柳野の猟師さんと一 緒に解体した約 75 キロの イノシシ.
図 2 筆者(左から 3 番 目)も加わった踊り.
い、ヤンヤの喝采も起きる。地域のか つての賑わい、人のつながりの濃さ、 思わぬ人たちが活躍して地域の人気者 になっていく様を感じられる場であっ た。 敬老会は、普段あまり顔を合わせる ことが無くなったお年寄り同士が会う 機会でもある。別れ際には「お互いに まあ元気でやっていかにゃあねえ」と 話すオンチャンたち。お孫さんや娘さ んたちに手を引かれて病院からやって きたオンチャンもいる。杖をつきなが ら、ようよう公民館にたどり着いたオ バアチャンも。かつての柳野では、田 んぼや焼畑での作業、水車や道の管理 などでいろんな共同作業があった。イ イと呼ばれる労働交換も盛んだった。 それもほとんど無くなり、お年寄りた ちにとってはお互いに会う機会はごく 限られたものになった。周辺の地区で は人手が足りず、もう敬老会はやめよ うかという声が挙がっているとも聞く
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忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑳
考えていた。しかしながら、借りた畑 はいつの間にか五反あまりにまで増え、 自分の畑の草刈りなどをちゃんとやる だけでも大変なのに、あちこちの畑の 手伝いや地域の行事にも顔を出すから、 まあなかなか忙しい。夜は夜でコウゾ
続・ フィールドに根っこを生やす たなか もとむ
田中 求 高知大学地域協働学部講師 (専門は環境社会学)
卒論以来、二〇年あまり居候を繰り 返してきた高知県いの町柳野地区で古 民家を借りるようになり半年が過ぎた。 柳野に家を借りたら、ゆっくり原稿を 書いて、畑仕事もして、その合間に地 域の手伝いもしてというようなことを
のヘグリ(表皮を取り除いて白い靭皮 繊維のみにする作業で、和紙の原料に なる)をしたり、小麦の種籾についた コクゾウムシを除けたり、声が掛かれ ば夕方からイノシシの解体・精肉の手 伝いに行くこともある(図1) 。移住し て、のんびりと原稿を書いて、という のは叶わぬ夢なのかも知れない。 先月は地区の敬老会に参加した。七 五歳を過ぎたオンチャンオバチャンに たくさん笑って長生きしてもらおうと いうことで、私もエビやカニの仮装ダ ンス、法被を着て「これから音頭」 、女 装をして「あれが噂のエマニエル、ハ ァウハウハー」と踊った(図2) 。 柳野地区には戦後しばらくまで桜田 劇団という地域の芸達者が集まった劇 団があった。各地に呼ばれて公演する ほど人気があったという。敬老会の催 しも一ヶ月前から練習を始め、かなり の熱意で踊りや出し物の練度を上げる。 敬老会ではたくさんのお捻りが飛び交
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た地域の人たちの思いを軽視すること になったりすることもある。柳野地区
招いたこともあった。 しかしながら、 柳野地区の敬老会は、 今のところ地域の人たちがとても大事 にしている行事であり続けている。ま た敬老会は村に戻ってきたオンチャン や移住者が地域でつながりを作ったり、 子どもたちを含めて新しいメンバーが いろんな役割を担い始めるための入り 口にもなっている。今回の敬老会で一 番の拍手を集めていたのは久し振りに 柳野に戻り、敬老会は初参加となった オンチャンだった(図4) 。そして一番 拍手をして歓声をあげ、笑い、喜んで いたのはそのオンチャンのお母さんだ った。 敬老会が終わって三週間ほど経った 今でも、道などで会えばオンチャンオ バチャンたちから、敬老会ではありが とうねえ、 楽しかったねえと話が弾む。 踊りを間違えたりもしたけれど、来年 はもっと笑ってもらおう、何をやろう かなあと考えたりもしている。
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でも盆踊りの再構築に外部者の関与を 強めようとしたことで、地域の反発を
図 4 帰村者や移住者も活躍する敬老会.
図 3 敬老会を楽しむ柳野のみなさん.
けれど、柳野地区には敬老会を楽しみ にしてくれている人が多い(図3) 。 柳野地区でも行われなくなった行事 はいくつもある。盆踊りも奉納相撲も 虫送りも御神楽も行われなくなったけ れど、その一部を敬老会で演じたり踊 ったりすることで少しでも受け継いで いこうとしている。柳野の敬老会は、 いろんな来賓を迎えて、堅苦しい挨拶 やためになるお話を聞き、お弁当を食 べて帰るという場ではなく、演者も客 もみんなが楽しもう、 たくさん笑おう、 久し振りに会おうという場にしたこと で続いているのではないかと思う。 伝統行事の時期や内容、 目的、 格式、 担い手、規則、作法などを変えない、 変わらないものとして固執すると、成 り立たない行事もある。外部者が関わ りすぎたり、人を集めることを重視し すぎることで、 「地域の行事」という意 味合いが薄れ、単なるイベントになっ てしまったり、ずっと行事を担ってき
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図 1 安田町中山地区での自然薯植え付け.
在」という形態のため、学内業務は主
にTV会議システムで行う。サテライ
トオフィスは、より地域に近い存在で
ある。このため筆者が何よりも嬉しい
のは、地域の方たちと近い場所で同じ
空気を吸い、語らうことで多くの時間
を共有し、地域を肌で感じ、気持をつ
なげることができることだ。
サテライトオフィス駐在の地域コー
ディネーターの最大の強みは、地域に
一番近い教員として、地域の多様な
方々(住民、行政、企業、団体等)と
「日常的」にコミュニケーションを図
り、そして「日常的」に知識や情報を
共有できる関係をつくりやすいことだ
ろう。高知で暮らし、責務を全うする
ようになり、丸三年が過ぎ、まさに「地
域を肌で感じる」ことが日々強くなっ
ていく。そしてそれがまだまだおぼろ
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忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク㉑
地域の散髪屋になるな 過疎高齢化の先にある世界に暮らす
あかいけ しんご
赤池慎吾
である。ゆずの収穫を迎えた秋、たわ
わに実った黄金色に輝くゆず畑に、
人々の賑やかな声がそこかしこに響き
わたる。家族総出で収穫が行われ、町
外に転出している人もこの時期だけは
ふるさとに帰ってくる。「収穫の頃は病
院に入院している患者すらいなくな
る」と言われるほど、誰も彼もが収穫
を手伝う。 一〇月頃から出荷量が増え、
一一月に最盛期を迎える頃には、ゆず
を満載した軽トラックが町中で列をな
し、搾汁工場から漂うゆずの香りに町
全体が包み込まれる。
筆者は高知大学で地域コーディネー
かつては林業で栄え、魚梁瀬森林鉄
は、現在では全国のゆず生産量の二
田町・北川村・馬路村を擁する同地域
安芸市にある「サテライトオフィス駐
地に赴任して丸三年が経った。勤務は
備事業)として、このゆずの香り立つ
高知大学地域連携推進センター特任講師 (専門は林政学)
道が駆け巡っていた高知県東部に位置
五%を占める「日本一のゆずの産地」
ター(文部科学省 地(知)の拠点整
する中芸地域。奈半利町・田野町・安
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図 2 「森林鉄道と暮らし」のフィールドワーク.
もたった一日だけという限られた時間
の方と一緒に活動する。年数回のそれ
け、草引き(除草) 、収穫、販売を地域
つ増えてきた。一年を通して、植え付
自然薯栽培に携わる地域の方も少しず
この三年間で栽培面積は五倍に拡大し、
地域課題を学ぶ、というものである。
然薯の栽培を行い、その活動を通して
一〇〇名の学生が地域の特産である自
ツアーの目的は、一年間で計四回延べ
しばらくすると表情が緩み、二時間話
ていただく。聞き取りをはじめてから
間の中でその方の「記憶」を言葉にし
こと、趣味や思い出話など限られた時
カメラで撮影し、家族のこと、仕事の
きた人々だ。約二時間にわたりビデオ
いずれも中芸地域で生まれ、暮らして
最年長一〇二歳から最年少七一歳まで
協力を得てリスト化した約六〇名は、
ルドワークを進めている。地域団体の
フィールドワークを進める中で感じ
題が尽きることは無い。 地域の方も増えてきた。さらに、二つ
ることは、どの方も個人個人の「つな
ではあるが、学生の来町を待ちかねる の学生団体が立ち上がり、地域の方と
だ。時間をかけて暮らしの中で築いて
がり」を良く覚えており、その「つな さらにもうひとつ、これも三年前か
きた人と人のつながりはとても強固で、
学生との自然薯のようなねばりのある
ら人文社会科学部教員と共に「森林鉄
まったく色あせることはない。地元の
がり」を今でも大切にされていること
道と暮らし」をテーマにして、地域の
人の 「記憶」 から見えてくる地域の姿、
関係ができつつある。
人々の「記憶」を「記録」するフィー
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うとすればするほど上滑りな感覚に陥
死にこの感覚を、文字や言葉で伝えよ
言葉にできない非言語的な感覚だ。必
かるという形容があてはまる。これは
まさに「肌感覚」 、そう、身に染みてわ
純な構造で理解しないと言うことだ。
決めごとをメリット・デメリットの単
かってきた。地域の人たちは、地域の
自分は散髪屋(イケメンでは無いこと
く)で教えてくれた。いつのまにか、
学もそれと一緒だよ」と宴席(おきゃ
ったら、真剣に悩むだろう。地域と大
が好きな男だったり親友からの言葉だ
もためらうだろ。でもよ、その女の子
と思うか。それが散髪屋のイケメンで
カットが似合うよ』といって髪を切る
ず知らずの人間が女の子に『ショート
続的な仕組みづくりが求められている。
域に還元できる形にしていくまでの継
とのマッチング、そしてその成果を地
現地関係者との調整、学内外の研究者
対して、 地域と顔の見える関係を築き、
ーターには、一つひとつの地域課題に
れない。だからこそ、地域コーディネ
付くことなく終わってしまうのかもし
術が効果的であったとしても地域に根
る限りにおいては、例えその知識や技
献が知識や技術の一時的提供にとどま
る。
は自覚しているが)になっていたので
筆者が担当する高知県東部だけで年
る。地域のとある方が、 「おまえな、見
この感覚に気づくのに時間がかかっ
はと、ハッとさせられた。その言葉は
間六〇件近くの地域課題や相談事が持
げながらであるが、どういうことかわ
たのは、これまで全国各地でフィール
筆者の体の奥深くに、抜けない棘のよ 地域の方の心を動かすには、筆者個
ドワークをするなかで、筆者が地域を とに原因があるだろう。自分自身がい
人と地域の方一人ひとりとがどういう
三年前から大学の正課外教育を通じ
ち込まれる。そのなかのいくつかが、
つのまにか当たり前と思っていること、
つながりを持っているかということが
て、安田町中山地区で「ワンデイボラ
うに突き刺さった。
つまり地域をメリット・デメリットの
重要だ。地域は大学に対して継続的な
ンティアバスツアー」を始めた。この
理解したつもりになっていたというこ
価値判断で合理的に動くものとして扱
つながりを求めている。大学の地域貢
てきている。
地域と大学との継続的な仕組みになっ
おうとしていたのかもしれないと感じ
268
図 4 地域で開催したシンポジウム.
た、同年一〇月から二ヶ月間、高知市
さらに中芸地域の歴史・文化や自然
後の「私達」に残せるもの。一〇〇年
人々の中に継がれているのだ。それが
を次世代が受け継ぎ、地域外に発信す
内で「高知の森林鉄道∞」展示会を開
「文化」なのだと思う。話を聞く中で
る取り組みも始まっている。二〇一六
後の 「私達」 がさらに紡いでいく歴史。
一〇〇年という単位は地域では決して
年八月、 「魚梁瀬森林鉄道」日本遺産推
催し、 多くの来場者で会場は賑わった。
長くないと思える。筆者はそれを強く
進協議会が中芸五町村連携で立ち上が
なぜ、一〇〇年なのか。地域はこれま
意識しながら聞き取りを進めている。
った。林業からゆず産業に変化した中
森林鉄道と共にあった人々の暮らしを
加えて少しずつではあるが、フィー
芸地域の人々の営みを「森林鉄道から
でも何百年も歴史を刻んでいる。確実
ルドワークの成果を地域に還元する取
日本一のゆずロードへ」というストー
見つめ直すキッカケになったのではな
り組みも始まっている。二〇一六年三
リーで紡ぎ、日本遺産認定を目指して
に一〇〇年前も、 二〇〇年前も、「私達」
月、安田町中山地区で開催したシンポ
いる。筆者は、ストーリー部会の部会
いかと思う。
ジウムには、地域内外からおよそ一四
長として人文社会科学部教員らと共に
がいた。 そしてその歴史は脈々と流れ、
〇名の方に来場いただいた。パネル展
協議会に参画している。
中芸地域でのこれまでの三年間を振
示や研究報告は、地域の方に向けてわ かりやすく伝えることを心がけた。ま
271
図 3 学生と魚梁瀬森林鉄道を散策.
そこには一人ひとりの表情がはっきり
とあり、人と人とのつながりによって
地域が形作られていることを再確認で きる。
筆者らが 「映像」 にこだわったのは、
地域の方の「記憶」を次の世代に直接
語る仕組みをつくりたいと考えたから
だ。地域の方が直接語る「映像」には、
文字や写真にはないインパクトがある。
さらにはデジタルアーカイブ化など活
用の汎用性もひろがる。一方、懸念す
ることもある。長い人生からみたら、
このわずか二時間の 「映像」 だけでは、
地域でどう生きてきたのか、記憶の背
景にある人間関係や生き方が不用意に、
いや意図しないまま切り取られてしま
う怖さも感じている。しかし、それで
も 「映像」 の持つ資料的価値は今日的、
いや未来への希望であろう。一〇〇年
270
図 6 学生団体と地域づくりの打ち合わせ(著者左から 2 番目).
大マイナス一八・九%、最小マイナス
五・三%)という数値がはじきだされ
てしまった。産業振興や移住対策も成
果を挙げるには当分時間がかかりそう
だということが、明らかになってしま った。
一〇〇年と前述したが、 直近の五年、
一〇年先の地域の姿はどうなっている
だろうか。地域の「記憶」を受け止め
て、さらに次世代に受け継いでいく人
はいるのだろうかと不安に駆られるこ
とがある。自分は地域の散髪屋になっ
ていないだろうか。地域の方一人ひと
りとのつながりを大切にし、地域と大
学が共に成長し、大げさでなく一〇〇
年後の私達へ繋げることができる地域
コーディネーターであり続けたい。
273
図 5 日本遺産推進協議会での住民ワークショップ.
り返ると、ワンデイボランティアバス
ツアーのような大学(学生・教員)と
顔の見える関係が構築されてきた上に、
フィールドワークといった調査研究が
実践され、その過程で大学と地域の方
が地域の価値を再発見する中で日本遺
産推進協議会の立ち上げのような自発
的な取り組みにつながった。研究者個
人の取り組みだけでは限界が有り、大
学と地域の方が協働で地域課題の解決
に取り組むプロセスに携わることがで
きるのも、地域コーディネーターの役
割であり醍醐味だと感じている。
こうした連携が進む中、二〇一六年
一〇月、少し残念なニュースが飛び込
んできた。平成二七年度国勢調査の速
報値だ。中芸五町村の総人口は一万七
七一人(二〇一〇年比マイナス一〇五
五人) 、減少率はマイナス九・九%(最
272
したりすることもできるが、やはり現 地の人びととの間に距離ができてしま う。また、相手がこちらに対して警戒 心や悪い印象を抱かないような話題か
141
な人間は、どうしたら無理なく世間話 ができるのだろうか。 ひとつの手は、現地の人びとの世間 話の輪の中に加わるというものだ。ス
図 2 子どもたちに連れられ,集落から離れた焼畑へ.
ら話を切り出すことも重要であろう。 不幸にして、私は日本にいても見知ら ぬ人びとに気軽に話しかけられるよう な性格ではない。それでは、そのよう
図1 焼畑での播種作業にて.老夫婦の拓く焼畑に子や孫たちが手伝いに くる.(左から 3 人目が筆者.2003 年)
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク㉒
らその理由を伺うことはなかったが、 私は次のように理解している。 多くの場合、調査ではある目的や関 心にもとづいて仮説を立てる。 そして、 研究対象や分析手法を明確にした上で 調査計画を立て、現場ではそれにもと
フィールドで世間話ができるようになるまで ますだ かずや
増田和也 高知大学農林海洋科学部 (環境人類学)
「フィールドの人たちと世間話をし なさい」 修士課程の頃、インドネシアのスマ トラへ初めての長期調査に出かける私 に、ある先生がアドバイスをくださっ た。なぜ、世間話なのか。その先生か
づき調査を実施していく。しかし、気 をつけたいのは、調査者が当初設定し た枠組みにとらわれるあまり、計画書 の調査項目から外れたことに目が向か なくなる可能性がある、 ということだ。 とくに、異文化社会での人びとの暮ら しに目を向ける研究分野では、調査前 に思い描いた調査項目からこぼれてし まうような事がらにも関心を払うこと が大切で、それを見つけることがフィ ールドワークの意義である。だからこ そ、時には調査地の様子を広い視点で 見渡しながら、自分の分析枠組みを批 判的に振り返りなさい。そのためのヒ ントは、フィールドの人びととの世間 話にある、ということではないだろう か。 とはいえ、初めて訪れる地域、とり わけ海外で、現地の人びとと世間話を するのは、なかなか容易ではない。ま ず、言葉の問題がある。もちろん通訳 を介したり、その国の標準語で会話を
140
図 4 調査村の 若者による共同 作業を手伝う. 新しい電線を掛 けるため,古い 電線と電柱を撤 去した.
ば「成り行きに任せる」ということだ が、同じ体験を重ねることで話題は増 えていったし、こうしたなかで、初め て知ることや初めて出かける場所も少 なくなかった。農耕や採集といった生 業活動に関わってきた人びとは、その 現場を前にすると、それに関連するこ とを活き活きと語ってくれることがあ る。居候先の「母」たちと畑の草抜き に出かける際、通りかかったアブラヤ シ園の一画を指差して、 彼女が幼い頃、 そこに両親の家があり暮らしていたこ とや当時の暮らしの様子を話してくれ た。こうした話は、集落ではなかなか 聞けなかったことであろう。 私のような人間には、何度も同じ現 場に通うことが大切なようだ。顔見知 りになることで、双方の緊張感がなく なるのであろうか。いつしか何気ない 会話ができるようになっているように 思う。また、ある程度の時間を挟んで の再訪では、前回とは異なる点がよく
見えてきて、それが新たな話題ともな る。そして、何より嬉しいのは、久方 振りの再会を相手が喜んでくれている のを見ることだ。初めての訪問から一 五年以上も経つスマトラの村に、今と なってはせいぜい年に一回、それも数 日間の滞在であるが、足を運ぶことに している。 そのたびに村びとたちは 「私 たちを忘れないでいるのだね」と笑顔 を向けてくれる。そうした一人ひとり の笑顔を思い浮かべながら、帰国後は 次の訪問を待ちわびる。 世間話で得られることは、小さな事 がらかもしれない。それでも、そこに 散りばめられた小さなネタがいくつも 結びついて、大きなストーリーが見え てくることがある。そして、そこに現 地で出会った人びとの表情が重なる。 そのような時に、フィールドワークの 醍醐味を感じる。
143
図 3 アカシア人工造林地内の水路での釣りに同行する.
マトラの農村では、こちらがとくに努 力しなくても、人びとの会話の輪に加 わることは容易であった。 というのも、 村には菓子類や雑貨など置く売店がい くつかあり、その前では店主と数人の 村びとが座りながらおしゃべりをして いることが多い。私はその前を通りか かると、たいてい呼び止められ、その 輪のなかに引きずり込まれる。最初は 私にいろいろな質問が向けられるが、 しばらくすると彼らの会話に戻る。私 は彼らの会話にうなずき耳を傾けるな かで、村で起きた出来事や村びとの動 き、特定人物の噂話など、さまざまな 話を聞くことができた。 また、村びとからの誘いには、なる べく応じるようにした。たとえば、集 落近くのアブラヤシ大農園内の水路で の釣りであったり、畑での草抜きであ ったり、買い物への同行だったりと、 調査地での滞在が長くなるなかで、さ まざまな誘いを受けた。言葉悪くいえ
142
図 1 ご自宅から徒歩数分の場所に ある茶畑にて剪定作業.ジローもつ いてきた.
図2 嬉しさのあまり、 ダットサンに乗せた 容器を記念に撮影し 115 た.
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク㉓
人からそう言われたのは、通い始めて 七年近く経ったころだったと思う。三 〇〇年以上続く農家で、西南戦争後に 造られたどっしりとした家に、ご夫婦
「 ガソリンば買うてきてくれんな」 もり さやか
森 明香 高知大学地域連携推進センター (専門は環境社会学)
「さやかちゃん、ガソリンば買うて きてくれんな」 ダム水没予定地に唯一残るお宅の主
と飼い犬のジローが暮らしていた。か つては塩を買うくらいで、食料はもち ろんブラウン管テレビや鍬さえもご自 分でつくっていたその方は、地縁のな いよそ者の私に何かを頼むことはそれ まではなく、池の鯉や自家製の材料を ふんだんに使った郷土料理でもてなし てくださったり、お邪魔するたびに持 参していたお土産のお菓子や魚を「す いまっしぇん」と受け取って下さるば かりの関係が長く続いていた。 だから、 「ガソリンば買うてきてくれんな」と 言って容器とお金を渡してくださった 時はやけに嬉しく、ダットサンに乗せ た容器を記念に撮影した(図②) 。学生 時代に触れた川辺川ダム計画をめぐる 流域の問題を理解したくて、初訪問か ら六年後に住込み調査を始めた。そし て訪れた、 忘れられない出来事だった。
地域社会に調査に入るということは、 どこの馬の骨かもわからない部外者が
114
図 4 川と共生する減災の知恵が埋め込まれた景観.
て根掘り葉掘り聞いて来たが、嘘を教 えてやった。突然来て教えてもらえる と思うな、と」 。ニヤリと笑みを浮かべ ながら話すその様子は、強く印象に残 っている。 恥を忍んでいえば、話を聞かせても らえたり泊めていただいたりするよう になり、「努力を重ねて関係を作り上げ て来た成果」と無意識のうちに思う自 分と直面したこともあった。振る舞い にそうした意識が顕れ、今なおトゲと して刺さった記憶もなくはない。けれ ども、生活空間に侵入される立場から すれば、そんな考えは独りよがりの驕 りでしかなかった。 これまで、ダム建設をめぐる問題に 対峙することを余儀なくされた流域社 会の方々、公害被害者の方々、被爆者 の方々、元ハンセン病患者とそのご家 族らにお話を伺う機会に恵まれてきた。 生活そのものやヒトを含む自然環境を 守るため、あるいは人間としての尊厳
117
図 3 ダム計画を抱えていた流域で。鮎が解禁になると県内外から釣り師が訪れる.
ある人の生活空間に侵入する、という 面があると思う。調査者はそこに住ま う人びとから教えを乞い、何かを学び 得るために、お邪魔する。一方、人び とからすれば協力して得られるメリッ トがあるとは言い切れず、いわば厚意 で受け入れてくれている。これは絶対 に忘れてはならないことだと自分に言 い聞かせる契機になった出来事がある。 学生の頃の話だ。 あるダム計画を抱える地域社会で、 泊まっていたペンションのオーナーが 「ダムの水没地の古老のお話を聞きた いのなら」とご親戚を紹介して同席し てくださったことがあった。そのご親 戚は水没する集落にある神社の宮司を している方で、その地の植物に関して 博識な古老だった。世間話を隣で伺っ ていると、その古老はこんなエピソー ドを話してくれた。 「このあいだ、ある 大学の薬学部の学生と教授がいきなり 訪れて来て、このあたりの薬草につい
116
図 6 母屋と納屋と畑が見える家の前で.
あまりなかった。ダム建設を受け入れ た(ざるをえなかった)村にあって、 唯一ダム反対の意思を体現する人とし てメディアにもしばしば紹介されてき たその方は、口数少なく、尋ねられれ ば訥々と「今までんごと自給自足の暮 らしが一番よか」と語った。ダム反対 の姿勢をその生き方で淡々と示すその 方から、どれだけのことを教えられた かわからない。 その方がなぜ、 先祖代々 がそうしてきたような、子々孫々がそ の地で生き続けられるように土地を守 り、後世に引き継ぐことの困難に直面 せねばならなかったのか。いつしか、 この問題はその方にとっての問題のみ ならず、私という人間にとっての問題 にもなっていた。 最近はダム問題でその方を訪れるメ ディアや研究者も少なくなった。その 方も年を取られた。昨年、新たに忘れ られない言葉をいただいた。「あんたが 来てくるっとが一番嬉しかばい」
図3
119
を取り戻し社会を生き抜くために闘っ てきた方々ばかりだった。時代が抱え ていた社会的な病の弊害を一身に引き
受けざるを得なかった方々でもあった。 そうした方々とどうかかわり、どう向 き合っていくのか。そうした方々から
図 5 2011 年 3 月、誕生日を祝うためにケーキを持って行く..かつてはケーキを 持ってきてくれる移動販売車もあったが、この頃には無くなっていた.
学んだことは、何らかのかたちにまと められたものもあれば、恥ずべきこと だがまとめられなかったものもある。 まとめられなかったものがあることは 論外と自覚している。だが、まとめら れたとしても、その後「さようなら」 でいいはずもない。 忘れられないのは、 ある被爆者の方が書かれた生活記録の 中にあった言葉である。「私がこの世で 一番大事に思っていることは人間性で ある。いくら大学を出たからとて、ま た頭がいいからとて、人間性の欠如し た人間に私は尊敬の気持は全然おきな い」(福田須磨子 『生きる』 ) 。 ここには、 調査者が対象とする問題と、またその 渦中にいる方々とどう向き合う覚悟が あるのか、という問いかけが内包され ていると思う。
ダム水没予定地に唯一残るそのご夫 妻は、その後も住込み調査の間毎週の ように訪れる私に、何かを頼むことは
118
図1 コウゾ畑と屋久島犬センポ.
図2 大型の甑 を 使った コ ウ ゾの蒸し剥ぎ 作業.
277
一の豪雪地帯である長野県栄村秋山郷 に狩猟やドブロクの調査で訪れたこと がある。その際には、 「雪が積もるとホ ッとする。雪が降る前にはあれこれと やっておかねばならないことが多くて 忙しい。積もってしまえばもうどうに
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク㉔
狩猟をめぐる文化と葛藤 たなか もとむ
田中 求 高知大学地域協働学部講師 (専門は環境社会学)
今年は雪の多い冬になった。筆者の 暮らす高知も例年にない寒さと積雪だ。 道が凍結していないか、水道管が破裂 していないか、毛の短い屋久島犬のセ ンポは凍えていないかなど、いろいろ と心配することも多い。数年前に日本
もならないから諦めて春まで静かにジ ッとしていられる。 」と聞いて、冬もな かなかいいのかもなあと思った (図1) 。 自然に合わせた四季の過ごし方、生 活や仕事のサイクルは、地域や生業に よって様々だ。でも、狩猟をする人、 和紙に関わる人たちは冬こそが一番忙 しい時期だったりする。私にとっても 月から2月は、狩猟の解禁時期であ り、コウゾなどの和紙原料の収獲と加 工作業などで山に入ることも多く(図 2) 、いつも以上にバタバタしている。 そして、この時期は学生たちの論文や 実習などの発表会、入試関連の業務な どもギッシリと詰まっていて、山での 作業との調整に悩むことばかりだ。山 と関わりながら、大学の教員をしてい ると、自然や季節、生業と折り合いを 付けるだけではなく、大学の仕事との 両立もせねばならない。 収獲したコウゾの枝は、大きな甑な どで蒸してから皮を剥き、数日間は乾 11
276
図 3 学生や娘たちとイノシシの解体.
円の報奨金が支払われるようになった。 イノシシの場合はシッポを切り取り、 写真を撮って書類と一緒に役場に提出 すればお金をもらえるから、山で掛か ったイノシシを運び出したり、捌く手 間を嫌がる人はシッポだけを切り取っ て終わり。イノシシをその場で放置し てしまう人もいる。かつては大事な食 糧でもあったのに、今ではワナに掛か った動物が札束に見えるという人もい る。かつては、猟期に狩猟によって獲 られたシカやイノシシの数が多かった ものの、近年は有害鳥獣駆除として猟 期以外に捕獲されるものが、猟期の狩 猟捕獲の倍近くにまで増加している。 ある地域では報奨金が出るようにな って、ワナを掛ける猟師が増えた。ど こにワナがあるのかわからなくなるく らいたくさん掛けている人もいる。そ のせいで、猟犬が掛かったり、家の周 りでは猫などが誤捕獲されてしまうこ ともある。足が括られてしまうと壊死
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かさねばならないから、適度に風が吹 く好天が続く時期に作業することが重 要だ。でも、そんな時期に限って大学 での業務が多かったりもする。午前中 だけ釜に火を入れ、皮剥き作業をして 大学に行き、全身から燻製のようなニ オイを漂わせながら学生の論文指導を することもある。 一番悩ましいのは、イノシシがワナ に掛かっているときにどうするかとい うことだ。1頭捌くのに1時間以上は 掛かるから、複数掛かっていたら、山 での止め刺しと運搬などを含め、半日 近くつぶれることになる。時間が掛か るのは自分の猟のためだけではない。 もともと猟師同士は、助け合いながら 一緒に猟をしたり、獲物を分け合った りしてきたから、新米猟師の私に捌き 方を教えてくれたり、山から獲物を運 ぶ手伝いの依頼が来ることもある。獲 れれば嬉しいし、猟の仕方を教われる こともありがたいけれど、大学の業務 との両立が難しいのだ。 最近は自分が掛けたワナもなかなか 小まめに見回りに行けないため、足を 括るタイプのワナではなく、大きな檻 のような箱ワナを使うようになった。 近くのコウゾ農家の畑には、このとこ ろイノシシが来てコウゾの芽や葉を食 べたり、根を掘り起こして困らせてい た。その畑のそばに箱ワナを置き、周 囲に米ぬかを撒いた。その翌日、まあ まだ掛かっていることはないだろうと 見回りに行くと箱ワナの中にこんもり と黒い塊。近づくと生まれてから1年 ほどの仔イノシシが4頭、檻の中を走 り回っていた。 すぐにでも捌きたかったけれど、今 日はもう大学に戻らねばならない。翌 日も朝から講義と会議がギッシリ詰ま っている。正直に言えば、翌日の午前 中の講義を休講にしようかとちょっと 考えた。 狩猟とも関連する講義だから、 山で止め刺しと放血だけして大学に持
って行き、講義中にみんなで捌いて食 べるところまでやろうかとも考えた。 結局、準備不足で、翌々日に止め刺し をした(図3) 。仔イノシシたちは臭み もなく、肉も軟らかくて、イノシシ汁 にしたり、ニラと一緒に炒めたり、焼 き肉にもして、学生や地域の方たちと おいしくいただいた。 しかしながら、農林水産省の調査に よれば、このおいしいイノシシも捕獲 したものの5%程度しか食用に利用さ れていないという。なかなか論文など には書きにくいけれど、自分がこれま で関わってきた高知県内や県外の猟師 の話しを聞くと、文化として地域に根 付いてきた狩猟の変質が見えてくる。 狩猟の変質要因として一番大きいの は報奨金だろう。猟期である冬以外の 時期に、有害鳥獣としてイノシシやシ カ、サルなどを駆除すると、地域や対 象鳥獣によって違いはあるものの、1 頭あたり6000円から2万5000
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追いつかないくらい捕獲され、また利 用されることなく捨てられる野生鳥獣 が多い。 いただいた命をきちんと食べるとい うことはとても大事なことだし、ジビ エ料理を通してそれが伝わると良いな あとも思う。猟師にとって自分が獲っ た獲物を猟師仲間や友人などに分けて、 喜んでもらえるととても嬉しい。知り 合いや友人がやっている料理店などに 獲物を持っていったり、猟師自らが民 宿などを経営してジビエ料理を出すこ ともある。狩猟文化のなかには、どう やって獲物を獲るかということだけで はなく、獲ったものをどうやって利用 し、 分け合うかということも含まれる。 獲物を分け合うのは日本のみならず、 世界各地の狩猟民に共通する文化だ。 ある熟練猟師は、仲間と一緒に山で獲 れた動物を丸焼きにして、焼けた肉を ナイフで削ぎ落としながら食べるのが 一番おいしいと話していた。
しかしながら、 ジビエ料理が流行し、 各地に解体処理施設ができるなかで、 猟師が捕獲し、山や自宅などで解体し た肉を売ったり、貰った肉を料理店な どで出したりすると、それは「闇肉」 と呼ばれることになる。野生鳥獣を解 体、精肉、販売するには食肉処理業と 食肉販売業の許可が必要であり、食品 衛生法に基づき定められた解体処理施 設を建てなければならないのだ。これ までは狩猟文化への配慮もあり、必ず しも強い規制が行われてきたわけでは なかった。しかしながら、2014年 には厚生労働省によるガイドラインも 策定され、猟師による獣肉の利用や販 売への監視や指導などの規制は厳格化 しつつある。 自然や四季の変化に合わせ、また地 域とのつながりにも折り合いを付けて 行われてきた狩猟は、 報奨金による 「狩 猟から駆除」への変化、ワナの増加に よるトラブルや捕獲個体の放置、ジビ
エの流行と野生獣肉の流通に対する規 制のなかで揺らいでいる。私はその葛 藤に加えて、大学の業務との両立をど うするかにも悩みながら、山での暮ら しを続けている。
281
図 4 ワナの設置を禁止する看板.
して断脚手術になることも多く、手術 代は8万円前後かかる。大事なペット が誤捕獲されれば、もちろん飼い主の 怒りは生半可なものではなく、警察沙 汰になることもある。ワナの設置を巡 ってご近所トラブルにもなる(図4) 。 イノシシやシカの肉、内臓、皮、角 などは、猟師の収入源でもあり、さら にはペニスや頭蓋骨、袋角なども漢方 薬として重用されるなど、大事な資源 として利用されてきた。それがいつの まにか害獣とされ、利用ではなく「駆 除」され、報奨金を得ることばかりが 優先されるようになった側面もあるの だ。 農林水産省は、有害鳥獣駆除を進め る一方で、ジビエの利用も促進してき た。ジビエとは狩猟で獲った野生鳥獣 の肉を指すフランス語だ。最近ではジ ビエ料理店もそれほど珍しくは無くな り、全国に630の野生鳥獣を解体処 理する施設が作られている。それでも
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の手」と沿岸部の「海の手」がともに 手を取り合い、手仕事で経済復興をし ようと活動を開始した団体で、現在は 新聞バッグの制作・販売を中心的な活
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グづくりが被災地女性の経済的な支え になっていることに大きな魅力を感じ )そして海山の話を聴くために岩 た (1。 出山や鳴子に通ううちに、海山に集う
図 2 海山のきっかけとなった梅見の会の写真.会場となった梅農場は個人所 有の梅園としては日本有数の広さを誇る.
動として行っている。 海山の新聞バッグに初めて出会った とき、わたしはまずこの新聞バッグの 可愛さに心を奪われ、次いで新聞バッ
図 1 2015 年 5 月,2 回目にお話をうかがったとき.一番左が筆者.
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク㉕
「 センセイ」 になることで得たものと失ったもの
が考え、手足を動かして進めているプ ロジェクトを、ほとんどかかわってい ない男が進めていると誤解される。そ んな悔しい経験が何度もある。だから
フィールドでのポジショナリティをめぐる葛藤
さとうようこ
佐藤洋子 高知大学地域協働学部 (専門は地域社会学・労働社会学)
仕事をする上で、若く、しかも女で あるということは、わたしにとって足 かせだった。若い女であるために下に 見られ、話を聞いてもらえない。自分
こそわたしは、もっともっと力がほし いと思っていた。 運良く大学の教員として就職が決ま り、わたしはいま、 「センセイ」と呼ば れる仕事に就いている。 「センセイ」と いう肩書きにはびっくりするくらい力 がある。若い女だから(といってもそ こそこの年齢になったのだが)話を聞 いてもらえないということはほぼない。 こうした「センセイ」の持つ権力に自 覚的であることが必要なのは言うまで もない。だがここでわたしが取り上げ たいのは、 「センセイ」になったことで 失ったものについてである。
いま、わたしには大切にしているフ ィールドがある。宮城県大崎市岩出山 に拠点を置く「海の手山の手ネットワ ーク」 (以下、 「海山」 )だ。海山は東日 本大震災の後、大崎市鳴子温泉に避難 していた沿岸部住民の 「仕事がしたい」 という思いをきっかけに、 内陸部の 「山
232
えたいと望みながら容易には乗り越え ることができない壁を、彼女たちはぽ んと乗り越えてしまっているのだ。 思い返してみると、学生の頃にお話
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なかったけれど、その分、若さゆえに 教えを請うという形で、相手の懐に入 り込み、関係を築くことが可能だった のだ、といまならわかる。
図 4 わたしも新聞バッグインストラクターの資格を取得した (2018 年 3 月).
をうかがった方の多くは、人生の後輩 である若いわたしにいろいろと教えて あげようという気持ちで話をしてくだ さっていた。あの頃のわたしには力は
図 3 高知大で開催した新聞バッグワークショップ(2017 年 7 月).
魅力的な人々にどんどん惹かれていっ た。 海山に集うメンバーはみな何らかの 生産者である。お餅を作って道の駅で 販売している代表の女性や、無農薬栽 培のとうがらしで自然調味料を作って いるご夫婦、鳴子で温泉熱利用を計画 し温泉たまごを作っている方。沿岸部 で美味しいわかめやこんぶを養殖して いる方もいるし、もちろん新聞バッグ インストラクターとしてプロ級に新聞 )彼ら バッグを作るメンバーもいる (2。 には生産者としての自信と誇りがあり、 それを基盤に真剣に物事を考え、とて も楽しそうに毎日を過ごしている。た まに失敗することがあってもそれを笑 い飛ばしてしまうようなおおらかさと 強さも持っている。わたしは多分、彼 らのそんなところが好きでここ数年海 山に通っているのだと思う。 海山をたんなる研究対象として見る のではなく、新聞バッグのことを一緒 に考え活動したいという想いが大きく なり、ここ1年は調査に行くだけでは なく、さまざまな形で海山とつながり を持っている。高知大の授業で代表の 曽木さんに講演をお願いし、新聞バッ グづくりのワークショップを開催した こともあった。学生と新聞バッグをつ くり、海山の高知大支部として新聞バ ッグコンクールへ出展もした。わたし 自身も新聞バッグインストラクターの 資格を取得し、新聞バッグでつながり のある富良野や四万十に行くのにもご 一緒させていただいた。 大学で開催したワークショップをき っかけに、昨年から学生2人も岩出 山・鳴子に通いはじめた。彼女たちは けっして新聞バッグに興味があるわけ ではないが、何らかの魅力を感じて岩 出山や鳴子に通っているようだ。高知 から遠く離れた宮城まで通い、物怖じ せずにいろんな人たちとつながってい く彼女たちの行動力を、わたしはとて
も尊敬している。 そして実は、わたしは彼女たちに嫉 妬してもいる。 ともに過ごす時間が増えても、海山 の方々との間にはどこか壁というか、 心理的な距離を感じるときがある。そ れはきっとわたしが「センセイ」とい う肩書きで海山にかかわり、ありがた いことに「センセイ」としてのわたし を海山の方々が尊重してくれているか らだろう。だが欲張りだとわかってい ながらも、わたしは「センセイ」とし て以上に、個人として、仲間として、 海山にかかわりたいと思っているよう なのだ。 そんなわたしの葛藤をよそに、学生 たちは学生個人の名前で海山の方たち とかかわりを持っている。感じたこと をストレートに表現し、海山の方々と 楽しい時間を共有し、ともに笑い、わ たしがまだ会ったことのない人にも会 わせてもらっている。わたしが乗り越
234
図 6 新聞バッグコンクールへ向けたミーティング(2018 年 6 月).
でのみ生じるものではない。学部の実 習で地域にお世話になるときにどのよ うに振る舞えば、学生にとって、地域 の方にとって、よりよい場をつくるこ とができるのか。1回限りのインタビ ューで出会う対象者にどのような距離 を取れば自らのことを十分に語っても らうことができるのか。日々の教育・ 研究の中で迷うことは多々ある。 ただ、 場面によって程度の差はあれ、 わたしはありのままのわたしを出すこ とでしか、フィールドで出会う方々と 関係をもつことができないなというの が、いまのわたしに見えかけている答 えである。 さて海山では、今年の新聞バッグコ ンクールを東北で初めて開催するため の準備が始まり、わたしも半ば押しか けるようにメンバーに加わった。 海山の新しいかたちを一緒に構想で きること、これまで海山で教えていた
だいたことを整理して示すことがそれ に役立ちそうなこと。そこに海山での わたしの役割を見つけたような気がし て、いまわたしは、もうすぐ行われる ミーティングをわくわくしながら待っ ている。
(1)スタンダードな新聞バッグは大50 0円、中300円、 小200円で販売され、 販売価格の約50%が作り手に支払われる。 海山は被災地の経済復興をめざすがゆえに、 新聞バッグの「商品としての価値」を重視 してきた。そのことが企業のノベルティと して採用されることにもつながり、これま でに10万枚以上の新聞バッグを制作・販 売している。
(2)作り手の中には本業を持ちながら1 カ月に数百枚の新聞バッグを折る方もいる。 またスタンダードなバッグだけでなく、購 入する方の注文に応じてオリジナルのバッ グをつくる技術をもつインストラクターの 方もいる。
237
図 5 つながりのある四万十にて.海山の方と学生と(2018 年 4 月).
では「センセイ」となったいまは、 どのような立場でフィールドに接する ことが正しいのだろう?
ここまで書き上げた原稿を真っ先に 読んでほしくて、 夜中にもかかわらず、 この文章を代表の曽木さんに送ったと ころ、こんな返事が返ってきた。
佐藤洋子「センセイ」は、 「センセイ」 となっても「ありのまま」じゃない ですか。 あなたは「ありのまま」で若さも女 であることも「センセイ」も超越し てます。笑
どうやら嬉しいことに、少なくとも曽 木さんには、わたしは「センセイ」と いう立場を超えて、ありのままの個人 として扱ってもらっているらしい。 「センセイ」とフィールドとの距離 をめぐる戸惑いは、継続的に通う地域
236
て生活ができて独り身でいると、ぼけ
金をもらうようになり「お金がもらえ
いても働いても貧しかったけれど、年
10年あまり1人で暮らしていた。働
働き者のお爺ちゃんが亡くなった後、
きながら嫁に来た」 とも話してくれた。
かと思っていると、「男の子が2人いた
のことか察しかねて、どう返したもの
れたり……」とポロリとこぼした。何
料理を作ったり、家のこともやってく
とはなかったかもしれんねえ。一緒に
たら、こんな風に1人で山で暮らすこ
子はきっと女の子だった。あの子がい
そんなお婆ちゃんがあるとき、「あの
いたことがあった。地域によっては、
して)神様に返す、子返しのことは聞
い子供であったと口などをオシテ(圧
後に産婆さんに合図を送って望まれな
出産前に胎児を堕ろしたり、出産直
……」と話してくれた。 「子返し」のこ
し、貧しくてね、育てられないからね
とだった。
す。
障子の貼り紙などの和紙をちぎって濡
れ紙にして、それを口と鼻に貼り付け
て窒息させたという伝承もある。嬰児
は夫婦の寝室の下に埋めて丸石を置き、
: 1998
幸せになれる世に生まれ変わってくる
よ う 願 っ たと い う ( 坂 本 、
) 。 182-185
ソロモン諸島でのフィールドワーク
では堕胎の話を良く聞いた。10年あ
の端っこにある小さな村だった (図②) 。
まり通い詰めたビチェ村は、小さな島
最近はソーラーパネルが使われ始めた
97
てしまう」と笑っていたことを思い出
図1 強い風で擦れて傷が付いたコウゾの枝.
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク㉖
命を返すということ たなか もとむ
田中 求
お婆ちゃんは、最近は病院や介護施
った。
設にいることが多くて、なかなかお会
いできないなあと思っていたところに
飛び込んできた訃報だった。91歳だ
った。とても笑顔がかわいらしくて、 た。
優しくて、話し好きのお婆ちゃんだっ
20年あまり前に調査でお世話にな
った集落にお婆ちゃんの家はあり、よ
く晩ご飯を食べさせてもらった。毎週
1回、決まった時間に魚屋さんが五木
ひろしや北島三郎などの演歌を大音量
で流しながらやってくると、そこで買
ていたお婆ちゃんが亡くなったと連絡
の合間に、昔からとてもお世話になっ
と、 「戦争中で恋もせず、結納も嫌でお
では命からがら橋の下に逃げ込んだこ
は路面電車の会社で働いていて、空襲
て縁付いた(結婚した)こと、戦時中
高知大学地域協働学部講師 (専門は環境社会学)
ったお刺身をご馳走してくれた。母親 今年は次から次へと台風がやってき
があった。台風にあったコウゾの株の
が集落にあった工場に紙漉きをしにき た。 畑のコウゾやミツマタが折れたり、
一部は、このお婆ちゃんの家の前に残
金をパラリッと両親に叩きつけた、泣
のもあった (図①) 。 枝を紐で括ったり、
っていた珍しい品種を増やしたものだ
擦れて傷が付いたり、株ごと倒れたも 株を起こしたりと作業に追われた。そ
96
図 3 ビチェ村の小学校.
胎をしていたのは、学校の寮に入って
いた子どもたちだった。中学校以上の
学費は、両親の収入の数カ月分でもあ
り、学費を出してもらえない子どもも
多かったから、進学することができた
子どもたちは何とか退学しないように
しては、ヤシ酒作りや飲酒、喫煙など
と努めていた。退学させられる理由と
があり、 男女交際もそのひとつだった。
ビチェ村の女性12人の年間性交渉
回数は平均で4回、男性15人は平均
7回と少なめだったけれど、女性16
人の初体験年齢は13歳から20歳で
平均は15歳、男性20人については
8歳から22歳で平均は14歳と早い。
せっかく中学校や高校に行けるように
なったのに、男女交際や飲酒などで1
2人のうち6人が半年足らずで退学に
なってしまった。同じ時期に、妊娠の
発覚を恐れて5人が堕胎をしたとも聞
いた。 パイナップルやヤシの実の煮汁、
99
図 2 ビチェ村の家々.
浜辺や川だけれど、とても自然が豊か
けれど、水道もガスもなく、トイレも
で、漁労採集と焼畑を主な生業にする
人たちが暮らす村だった。そこには、
子どもたちも加わってみんなで建てた
小さな小学校があった(図③、図④) 。
勉強に向かないから焼畑や木彫りを作
小学校に行き始めて間もなく、自分は
ったりして食べていく、と早々と学校
に見切りを付ける子どももいたけれど、
多くの子どもたちは勉強も学校も先生
のことも大好きで、何でこんなにたく
さんあるんだろうと頭から湯気を出し
ながらアルファベットを覚えたり、葉
っぱをちぎったりノートにたくさん棒
を書いて計算したりしていた。赴任し
てくれる先生がいなくて閉校が続いた
り、開校しても小学4年生までしか教
隣村や別の島の学校の寮に入って、中
えてくれる先生がいなかったりして、
学校や高校にまで行く子供もいた。堕
98
いだコウゾの株の世話をしながら、あ
きたいと思う。お婆ちゃんから受け継
坂本正夫( 1998 ) 『土佐の習俗-婚姻 と子育て』高知市文化振興事業団。
の悲しそうな笑みを思い出そうと思う。
どうしたら良かったのか、何ができた のか、答えもなく何年も考え続けてい
ない、と訳知り顔で納得しきれない。
そのひとつがこの堕胎や子返しだった。
る。そこに生き続けたかった命があっ
いろんな地域を歩き回る中で、受け
それが地域で生きていくためには必要
て、いつまでも忘れられない痛みや悲
とめきれなかったことがたくさんある。
なことだった、育てられないのなら、
しみがあったことだけは心に刻んでお
101
教育の機会を失わないためなら仕方が
図5
図 4 小学校の支柱用の丸太を削る子供たち.
ぎ汁、 マラリアの治療薬などを使って、
ある薬用植物の葉、マッチやコメのと
堕胎を試みたという。堕胎を試みて薬
用植物の葉の汁を飲み、お腹が痛いと
苦しんでいる女の子が痛み止めが欲し
いとやってきて、困ったこともある。
ビチェ村の人たちは現地語であるマ
ロヴォ語で、 Tonagia minado la pa
koburu oro togania minado mae pa (全ての幸せは、子 koburu tungana どもに注がれ、全ての幸せは子どもが
運んできてくれる)と話してくれた。
それぞれの家の事情に応じて、養子と
して子どもを引き取ることも多くて、
120人あまりの集落で26組の養子
があり、みんなとても子どもをかわい
がっていた(図⑤) 。女の子たちも、中
学校や高校に行くということがなかっ
たら、堕胎という方法を選ばなかった
のではないかとも思う。
100
図 1 盆綱(2015 年 8 月).
廻る。これでご先祖様の霊が盆綱に乗 ったことになる。これ以降は、大きな 声で冒頭に記した斉唱「ぼ〜んづ〜な ご〜ざった〜(盆綱が来ましたよ) 」を 繰り返しながら集落の全戸を訪れるの だ。 集落の人々は子供の声が近づいてく ると、玄関の戸を開けて盆綱が来るの を待つ。子供たちが家の前で「ぼ〜ん づ〜なご〜ざった〜」と斉唱しながら 盆綱を曳いて1回(新盆の家は3回) 廻る(図2) 。その間に祖霊は玄関から 家に入ってゆく。子供たちはその場で お駄賃としてお金(新盆のイエからは 500円、その他は300円)をもら い、次の家へと向かう。こうしてすべ ての家を回ったあと、子供たちは集ま ったお金を計算し平等に分ける。
このような伝承的な行事が集落の世
151
私にとってのフィールドワーク
図 2 我が家の玄関前で 3 回廻る(2015 年 8 月).
学生のこどもたちの大きな声が聞こえ てくる。声が近づいてくると、 「そろそ ろ玄関の戸を開けようか……」と夫婦 で玄関先に出て「盆綱」(ぼんづな)の到 着を待つ。
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク㉗
フィールドワークは続く いのうえ まこと
井上 真 早稲田大学人間科学学術院教授 (専門は環境社会学・東南アジア地域研究)
はじめに――旧盆の入り 「ぼ〜んづ〜なご〜ざった。ぼ〜ん づ〜なご〜ざった。…………」 毎年8月の盆入りの夕方になると小
精霊迎えの儀礼として全国で広く見 られるのは「迎え火」だが、我が家が あるつくば市南端の農村集落・上大井 では昔から「盆綱」が行われてきた。 前日の12日に、子供たちは集落の 全戸(およそ50戸)を回って稲藁を 集め、大人は細い縄を用意しておく。 当日13日の午前に、まず稲藁で直径 40センチメートルくらいの竜の顔を 作り、みんなで細い縄を撚って直径2 0センチメートル、長さ10メートル くらいの綱を作る。最後は竜の顔に目 (ナス)と口(赤いトウガラシ)をつ けて盆綱の準備は完了である(図1) 。 この作業を指導するのはこどものおじ いちゃんたちだ。 盆綱の本番は13日の夕方に始まる。 まずこどもたちは大きな声で「ほ〜と けさ〜まのおむかえだ〜(仏様のお迎 えだ) 」 と繰り返し斉唱しつつ集落から 共同墓地へと盆綱を曳いてゆく。そし て、墓地の真ん中で盆綱を曳いて3回
150
の1人であり、彼のフィールドワーク に対して脱帽の思いを抱きつつ学位論 文のアドバイスをした(図4) 。教育者 としてこれほど嬉しいことはない。
外から様々なテーマ、対象地域、それ に志向性(政治的スタンスを含む)を 持つ多様な学生が集えるゼミである。 学生を指導教員の枠にはめることは絶 対にしないと決意し、学生の興味を伸 ばすアドバイスに徹した。それは、私 自身の能力を試すことでもあった。実 に厳しい試練が待ち受けていた。特定 の現場をよく知っている学生に対して どんなアドバイスをすれば効果的なの か……最初の頃はかなり苦しんだ。そ して、多様なテーマと対象地域に対し て適切なアドバイスができるよう、睡 眠時間を削って必死でコメントの準備 をした。 この目標・理想を実現するためには、 教員と学生の垣根をできるだけ低くし、 自由に議論できる雰囲気を維持するこ とが欠かせない。そのため、学生には 「井上先生」ではなく「井上さん」と 呼んでもらうことから始めた。 まさに、 名は体を表す。 「先生」と呼んでいるよ
153
「 港」 としての井上ゼミ このような田中氏といわば二人三脚 で主に大学院学生たちのアドバイスを した場が、東京大学・大学院農学生命 科学研究科・農学国際専攻・国際森林 環境学研究室・井上ゼミであった。実 質的には「井上・田中ゼミ」と呼ぶの が正しいだろう。私は同研究科の森林 科学専攻で准教授をしていたが、次第 に「東大にフィールドワークの拠点と なるような場を作りたい」という気持 ちが募っていった。ちょうどそんな折 に農学国際専攻の教授ポストの公募が あったので応募し、幸運にも採用され た。 ゼミ運営の目標に掲げたのは、学内
図 4 田中求氏の学位審査祝賀会(2006 年 7 月,東京にて).
代を超えた共同作業の機会を与えてく れる。私自身は漫画「サザエさん」の 「マスオ」さんと同じ立場(婿入りせ ずに妻の実家に同居)である。今では 全ての集落行事を担う一員であり、集 落での行事を通していつも精神的な豊 かさと安心感を味わっている。 私はこのような小さな幸福感を今後 もずっと保ち続けたい。そのためには 世の中の平和を維持する必要がある。 普通の生活の中で感じる小さな幸せな ど、戦争や環境破壊などの反平和的行 為によって簡単に崩壊してしまう。だ からこそ、私たちは自分の生活に閉じ 籠もってはいけないのだ。 私自身がフィールドワークにかける 時間が圧倒的に短くなってしまったい までも、フィールドワークから離れた くない気持ちでおり、またフィールド ワークの重要性を若者たちに説き続け ているのは、このような問題意識に後 押しされているからである。そして、 図 3 ボルネオ先住民のロングハウスで子供たちとくつろぐ(1988 年,インド ネシア東カリマンタン州にて).
フィールドで新しいことを知る喜びや、 日常の生活で忘れられた当たり前を再 発見するような気づき、時にはその当 たり前を疑うことで新たな視角を得る 喜び、などがそのベースになっている ことも間違いない。 私は20歳代後半の3年間、インド ネシアのカリマンタン(ボルネオ島) でフィールドワークを実施し(図3) 、 帰国後に学位(博士号)を取得した。 先住民の生計(焼畑農業など)を環境 問題(熱帯林減少問題)との関連で検 討したフィールド研究は希少だったの で、わりと評価された。 しかし、その後私が大学教員になっ てからの学位(博士号)取得者は30 名を超え、かつて私がおこなったフィ ールドワークを質・量ともに凌駕する 者も多く現れた。このことを一番よく 知っているのは指導を担当した私自身 である。本連載「忘れられた当たり前 を探す」の企画者である田中求氏はそ
152
図5 まこカフェ 2016(井上ゼミ第1回OB 会.2016 年10 月,東京大学にて).
運良く、早稲田大学・人間科学学術 院で環境社会学の教授の公募が出てい ることを知り、応募して採用された。 大学院学生の数は以前と比べるとかな り少なく、逆に学部学生数が多いとい う特徴がある。教育は数年単位で相手 が代わるフィールドワークであり、以 前と変わらず「楽しく、厳しく、温か く」のモットーで取り組んでいる(図 6) 。 早大に移ってから東大時代より進 歩したこともある。男女問わずすべて の学生を「さん」付けで呼ぶようにな ったことだ。今では学生と私はお互い に「さん」付けで呼びあっている。 一方、研究では、ボルネオ島中央高 地を対象とする先住民の生計と環境保 全に関するプロジェクトを再開した (図7) 。 フィールドには短期滞在しか できないが、やはり研究の現場に復帰 した喜びは強い。そして、私なりの成 果を出せる気配も感じている。 いまここで、私が記録として残して 図 6 ゼミ合宿での田植え作業(2018 年 5 月,茨城県つくばみらい市にて).
155
うでは、批判も含む教員コメントをあ りがたく(あるはしぶしぶと)受け入 れる方向に流れてしまう。せっかくフ ィールドから戻ってきて意気揚々と発 表したのだから、的外れの批判やコメ ントなど元気よく跳ね返して欲しい。 逆に私自身は学生から論破されるのは 悔しい。有益なコメントができないよ うでは指導教員の存在意義はない……。 睡眠時間を削っての事前勉強はそのた めでもあった。私にとってゼミの場は いつも真剣勝負であり、教員としての 命をかけた闘いの場だった。一方で、 井上ゼミの学生が専攻の他教員から納 得できない批判を受けたときは、判定 会議の場などで私が捨て身の覚悟で擁 護した。 その成果は着実に現れた。 たとえば、 2010年4月に開催した農学国際専 攻・入試ガイダンスで使用した資料を 見ると、当時のゼミメンバーは助教で あった田中氏と私を含めて何と41名 に増えていた。 学部学生は1名のみで、 ほとんどは修士課程と博士課程の学生 だ。メンバーの主なフィールドは、日 本(6名) 、東カリマンタン(5名) 、 その他東南アジア(18名) 、南アジ ア・ソロモン諸島(3名) 、アフリカ(5 名) 、中南米(4名)である。 学生たちが世界中のフィールドに出 て行き、時々ゼミに戻ってきて骨休め をし、まずは癒される。そのうえで時 に激しく議論を戦わす……。熱い気持 ちをうまく表現・説明できず悔し涙を 流した学生もいた。ウェブサイトに掲 載していたモットーは、 「楽しく、厳し く、温かく」である。まさに、モット ーどおりで「港」のようなゼミが実現 したのだ。ゼミでは厳しい議論もする が、最後はやはり「駆け込み寺」のよ うに学生たちのすべてを受けとめてあ げたかった。それも大方は実現できた と思っている。 外国、特に東南アジア・南アジア諸
国とのネットワークもかなり充実し、 信頼関係に基づく教育・研究の体制を 構築することもできた。そして、30 名有余の学位取得者のうち日本人は、 いま全国の国公私立大学や研究所など で働いている。 このような農学国際専攻での井上ゼ ミは、2004年8月から2017年 3月まで約13年で終わりを迎えた (図5) 。その理由は、当初の夢を実現 できたことへの満足感と、このまま続 けるとマンネリ化してしまうという危 機感による。同時に、大学教員はプレ イングコーチ(選手兼任監督)でなけ ればいけないが、私自身の13年間は そうではなかったという忸怩たる思い もあった。私自身が企画したリレー連 載「越境と躍動のフィールドワーク」 の最終回⑭「過去から未来へ」 (201 0年1月)で「私自身のフィールドワ ーク第二章の始まりである」と書いた が、残念ながら実現しなかった。
154
の竹筒の中には、 集落全戸の名前と 「六 道」をやった印を記してある紙が折り たたんで納められている。その紙を見 ながら今回の「六道」を誰に依頼する のかを決める。 「六道」を依頼された側 が仕事などでどうしても無理な場合 (これはあまり好ましくないと認識さ れているが……)は次回に先送りされ る。集落の中で負担が平等にシェアさ れていることがわかる。合理的で不平 が出ないような仕組みが整えられてき たのだ。 人生初の「六道」経験は衝撃的だっ た。葬儀の最中に斎場の別部屋でお酒 と食事をいただき、葬儀終了時にはか なり酔った状態で棺桶を担ぎ火葬場へ と移動した。ご遺族の皆さんは悲しみ の底なのに、私たち「六道」は酔って 様々な話に花が咲き、笑いさえも出た ほどだ。こんなことではご遺族に失礼 ではないのか……。ご遺族と「六道」 のギャップに大いなる違和感と自省の
念を抱いた。しかし、正当化も可能で ある。ご遺族が納得のいくような葬儀 をつつがなく済ませるよう、受付や準 備など「表」で手助けするのが葬式組 合のメンバーである。そして、それを 「裏」で支えるのが「六道」だ。あく までも「裏」の場で、葬式組合の「取 り持ち」が「六道」を接待してくれる のである。だから、棺桶担ぎなど「表」 で動く時に常識的な態度でいれば良い。 私自身はこのように理由づけて納得す ることにした。 その時(2004年)には、既に火 葬になっていたので、 「六道」の機能は ほとんど必要とされていなかったはず である。実質的な必要性の低下にとも ない、隣の集落では「六道」の人数を 4人から2人に減らした。その影響も あり、私の集落でも何回か「六道」廃 止の提案がなされた。当初は、集落の 習わしだからということで人数を減ら すことも一蹴されていた。しかし、つ
いに2016年2月20日の会議で 「六道」の廃止が決まった。その場に いた私は、安堵感と寂しさが入り交じ った不思議な心境だった。
祭礼の変化
上大井集落の氏神様は、600年以 上前に建立された香取神社で、我が家 は氏子(合計23戸)である。いつの 時代からか不明だが、氏子の戸数は不 変で、それ以降の分家は氏子になれな い。元々は正月と秋の2回行われてい た祭礼が、昭和初期頃から年一回、新 暦の10月15日と定められた。その ためサラリーマンは仕事を休んで祭礼 に参加していたが、2008年からは 10月の第2日曜日と改められて現在 に至っている。このような日程の変更 は合理化の一種として全国で見られた 現象である。 この祭礼は23戸が輪番で主催して
157
おきたいのは、むしろ冒頭で述べた私 の集落のことである。 本稿の後半では、 生活実践における参与観察の中間報告 をしようと思う。
上大井集落では、葬儀の際に、別の 組合から4名の「六道」 (正式には「六 道人」 )が指名されていた。 「六道」は、 土葬をしていた時代の名残で、棺桶を 入れる穴を掘っておき、棺桶を担いで 穴に入れて埋葬するという重要な役割 を果たすものだった。葬儀を出す組合 から「取り持ち」と呼ばれる接待係が 選ばれ、 「六道」に食事やお酒をふるま う。埋葬終了後には喪主のお宅でお風 呂に入り、それからさらに料理とお酒 でお持てなしを受けたという。 そもそも、 「六道」は、インドで6つ の苦の世界(天道、人道、修羅道、畜 生道、餓鬼道、地獄道)を表していた。
「 六道」 の変化と廃止
図 7 ボルネオ島で先住民の村に向かう(2018 年 3 月,インドネシア・北カリマンタ ン州にて)).
日本では死後の世界を六道と言うので、 私の集落の「六道」は、死後の世界へ の旅立ちを準備する人という意味だと 私は解釈している。 私が最初に「六道」の役をやったの は2004年だが、その時は既に火葬 であった。土葬が最後に行われたのは 1991年とのことだ。2004年の 時の「六道」は作業用の服装で参加し た。黒の喪服に混じって「六道」だけ がくだけた服装なので違和感を抱いた。 ところが、私が2回目および3回目に 指名された際は、 「六道」も黒の喪服着 用へと変化していた。 では、どのようにして「六道」の担 当者を決めるのか。 それを知ったのは、 私が属す組合で葬儀を出したときだ。 葬儀を取り仕切る側が他の組合の中か ら「六道」担当者を選び、依頼に行く のである。まず、葬儀を出すことが決 まった時点で、前回葬儀を出した家で 保管している竹筒をもらって来る。そ
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落センターで食事とお酒の支度をして 待つ。私が義父に代わって祭礼に参加 し始めた頃は夕方まで酒宴が続いたが、 最近では2時間ほどでお開きとなる。 2017年の祭礼から当日の進め方 も変化した。それまでは、神主さんに 来ていただく前の11時に氏子全員が
りし、再び集落センターに戻って食事 会という流れに変わったのである。氏 神様をお祭りする行為自体は保持しつ つ、特定の人(当家、上戸、下戸)へ の負担を減らす合理化の現れであると 解釈できる。 ところで、 「当家」は、西日本に広く 見られる「宮座」と類似した点を有し ている。特に、村の全戸が祭礼を取り 仕切る「村座」ではなく、限定された 人々が取り仕切る 「株座」 に似ている。 一方で、氏子である23戸の全戸が祭 礼を執り行う集団であることや、当家 が神主の役割を果たさないことは、「宮 座」とは異なる点だ。私の知識ではこ の先へと解釈を進めることができない のは残念なことである。
氏子総代の役割
氏子総代は、年齢順に4名ずつ3年
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「当家」に集まり、氏子総会を開催し ていた。しかし、新方式では、当日の 9時に氏子全員が集落センターに集ま り、飾り付けや神社の掃除などをみん なでやることになった。その後、集落 センターで氏子総会をおこない、神主 さんが来たら一緒に神社に行ってお参
図 9 香取神社の本殿(2017 年 10 月).
きた。当番として主催するのが「当家」 であり、大変な準備を取り仕切らなけ ればならない。詳細は省略するが、あ らかじめ稲藁を保管しておいて鳥居に 掛ける標縄 (しめなわ)を撚ったり、竹 筒を作ったりと大変な作業だ。 「当家」 の大役が回ってくるのは23年に1回 である。一代で2回やれるかどうかは 微妙であり、また、とても「当家」だ けで大役を果たすことは困難である。 そこで、前年に「当家」だった人が「上 」 、次の年に「当家」をやる 戸 (うわど) 予定の人が「下戸 (したど)」として「当 家」と一緒に準備をする仕組みが重要 となる。いわば、アドバイザーと見習 いがつくのだ。私が「当家」を務めた のは2008年の祭礼だった。ちょう ど10月の第2日曜日という新方式に 変わった最初の年であったので仕事を 休まずに済んだ。 元来、祭礼の日には「鍋かけず」と いって氏子の家族全員が「当家」に集 図 8 香取神社の鳥居(2017 年 10 月).
まってご馳走になる風習があった。「当 家」の準備はかなり大変だったことが 想像できる。それが、昭和初期には「鍋 かけず」が廃止され、1戸から1名(世 帯主あるいはその代理人)が参加して 食事をするという形式に変わった。ま た、昭和30年頃からは個別の本膳を 出しての食事から普通のテーブルを並 べての食事へと簡素化した。さらに、 私が「当家」を務めた2年前からは、 食事の場所が「当家」の自宅から集落 センターへと変更された。これらの簡 素化・合理化も全国で見られた変化で ある。 さて、香取神社には神主がいないの で、近くの月讀神社の神主さんにお願 いして祭礼当日の昼前くらいに来ても らう。氏子の男性たちが神主さんと一 緒に「当家」の神棚の前で祈願をし、 それから香取神社にお参りに行く(図 8、図9) 。その間に、 「当家」と「上 戸」と「下戸」の3戸の女性たちが集
158
それよりも行事を担うことの楽しさ、 満足感、安心感といったような感覚の 方が強いような気がする。何かの機会 に、生え抜きの男性たちにそのあたり のことを確かめてみたい。 私にとっては、これらが継続的に実 施されることで、普段の生活ではあま り繋がりのない集落の人々と付き合う ことができることに価値がある。集落 の人たちは、少し前までは農業を通し て日常的に繋がりがあった。しかし、 今はほとんどがサラリーマンである。 なので、たとえ形式的ではあっても行 事を続けることで繋がりを再認識し、 長い地域の歴史の中で生活している、 地に足をつけて生きている、という安 心感を得ることができるはずだ。 私は、内部に入っているが外部者の 感覚を保持していると言う意味で「よ そ者」である。そして、フィールドワ ークの対象である民俗に興味を持ち、 楽しみながら理解を深めているプロセ スにある。早大での教育(=フィール ドワークの一種)と熱帯でのフィール ド研究の他に、問題山積の日本の農村 や山村のフィールド研究もやりたいと 思っている。それらと並行して自分の 集落を対象としたアマチュア民俗学者 にもなりたい。あまりにも欲張りだろ うか。たとえそうだとしても、確実か つ着実に私のフィールドワークは続く ……。
161
間の任期で選ばれる。私は2013年 から2015年の3年間、総代を務め た。その時の総代4名のうち私は最年 長だった。したがって、本来ならば祭 礼の進行や挨拶などやらなければなら ない。しかし、1年目の2013年は 義父の葬儀のあと四十九日の法要が済 んでいなかったため、喪中ということ で祭礼に参加することができなかった。 次の2014年は私自身の入院(脳外 科手術)によりやはり参加できなかっ た。 そんな私にも、総代としての役割を 果たすチャンスがやってきた。201 5年5月のことである。香取神社の土 地は参道両脇の農地も含めて氏子の共 有地だ。したがって、氏子が輪番で除 草作業をおこなっている。この氏子共 有地を貸して欲しいという近くの集落 の農業者と非公式な契約を結ぶことに なった。私が契約書の素案を作り、5 月25日に臨時総会を開いて検討した。 若干の修正事項があったが契約書を含 め土地を貸す議題は承認された。臨時 総会の司会は私より少し年少の農業専 業者(地元出身)が担当してくれた。 彼と私で、うまく役割分担し協力する ことができた。 さて、その臨時総会で面白い発言が あった。ある人が、 「いっそのこと、参 道の除草もその人に任せてしまおう」 と発言したのだが、それに対して、 「我々の神社なんだから、やはり自分 たちで参道と境内の除草をやるべき だ」という反対意見が出されたのであ る。その後数人から意見が出され、最 終的には自分たちで継続して参道の除 草をやることが決まった。やはり、コ モンズとしての神社用地に対しては自 分たちで汗を流して「かかわり続ける こと」が重要であるという感覚を共有 しているのだろう。
おわりに
盆綱は、小学生の男子の数が減った ため女子にも引いてもらうようにした ことで途切れずに現在まで続いている。 氏神様の祭礼は、開催日を変え、また 「当家」の負担を減らす工夫をするこ とでやはり継続している。このように 民俗が消えてなくなるのではなく、時 代に応じた簡素化・合理化などの変 化・工夫をすることで延命されてきた。 一方、葬儀時の「六道」は、火葬の導 入により機能的には不要になった後で も、服装を変えたり、お酒などのもて なしを止めたりして、どうにか反発を 抑えつつ継続していた……がついに消 滅した。 地域に受け継がれている様々な民俗 (当たり前)に対して人々はどんな感 情を抱いているのだろうか。もしかす ると、村で生まれ育った人たちは誇り を持っているのかも知れない。 しかし、
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