サステナ第44号

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全体司会 ただいまから、一般社団法 人サステイナビリティ・サイエンス・ コンソーシアム(SSC)主催の公開 シンポジウムを開会いたします。この 企画は佐渡市と東京大学サステイナビ リティ学連携研究機構(IR3S)の ■開会挨拶

みうら もとひろ

三浦基裕 佐渡市長

皆さま、こんにちは。本日はこのシ ンポジウムにご参加にいただきまして ありがとうございます。 佐渡市は、このシンポジウムを主催 しているSSCの会員に入れていただ き、SSCと一緒になっていろいろな モデル事業、実験事業等々をやらせて いただいております。

共催となっております。全体の司会進 行はSSC事務局長の須藤が務めさせ ていただきます。 まず、三浦基裕佐渡市長からご挨拶 を頂戴したいと思います。よろしくお 願いいたします。

本日の基調講演では、東京大学の武 内和彦先生とNHKエンタープライズ の井上恭介エグゼクティブ・プロデュ ーサーのお話があり、その後のシンポ ジウムでは、佐渡で実際に進めている 事業モデル等々のお話があります。 佐渡市は、自然と共生できる持続型 の島づくりに、長いスパンでしっかり

と腰を据えて取り組み、すばらしいエ コアイランドの実現を目指しています。 その意味でも、 今日の皆さまのお話は、 これから佐渡が進むべきあり方をしっ かりと描いていくうえで大変に参考に なることばかりであると思います。お 越しになった会場の皆さまには、今日 のこれからの時間をどうか有意義に過 ごしていただきたいと思います。どう ぞよろしくお願いいたします。

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SSC 公開シンポジウム

自然共生社会をめざして 佐渡からはじまる自然共生型の島づくり

佐渡島は,トキの野生復帰からトキ認証米の生産販売,そして地産地消,再生可能エネ ルギー導入,エコツーリズムまで,独創的なさまざまな取り組みで知られています。多 様な生物が関わり合う生態系から私たちが得ることのできる恵みに支えられる「自然共 生社会」の構築に向けて,佐渡島は日本をリードしているのです。その佐渡島での実践 とその教訓を広く共有するとともに,今後のさらなる発展・展開の方向性について検討 するシンポジウムを佐渡島で開きました。 ●主催:一般社団法人サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC) ●共催:共催:東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S) , 佐渡市 ●日時:2017 年 6 月 6 日(火)13:00~17:00 ●会場:あいぽーと佐渡ホール(佐渡インフォメーションセンター) 2


図①

(図①) 。佐渡の里山・里海には、さま ざまな農林水産物が恵みとして存在し ています。それを現代社会のなかでう まく活用していくにはどうしたらいい のかを考えるときに、一つの特徴的な 試みがトキの野生復帰です。トキの生 息環境を守るために生物多様性に配慮 した農業を行い、それによって栽培さ れた米を認証米として販売することで、 農家にとってもメリットがあるように

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全体司会 市長、ありがとうございま した。三浦市長におかれましては、急 なご出張が入りまして、13時20分 のジェットホイルにお乗りになるとい うことです。 それでは、これより公開シンポジウ ムを始めたいと思います。今日は佐渡 テレビが取材に入っておりますので、 ご了解をいただきたいと思います。1 12チャンネルで後日放映の予定と伺 っております。 それでは、武内教授より基調講演を お願いいたします。 ■基調講演1

自然資本を活かした地域づくり 佐渡島での実践事例から

たけうち かずひこ

武内和彦

と題する国際活動を行っています。里 山・里海は、もともと地域の自然を活 用し、文化を育んできましたが、残念 ながら近年はさまざまな問題を抱えて います。そうした問題を世界の人々と 共有し、問題解決に向けてどうすれば よいのか、多くの方々とともに考えて います。 佐渡島は、日本の里山・里海の縮図 のようなものだといっていいでしょう

サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC)理事 東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)機構長・特任 教授

今日は佐渡島での私たちの取り組み についてお話させていただきたいと思 います。

里山・ 里海モデルとしての佐渡島 私どもはここ10年ぐらいの間、日 本の里山・里海のような伝統的農村景 観の再生の取り組みを世界に発信する 「SATOYAMAイニシアティブ」

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図③

世界農業遺産の島

私自身が直接この佐渡島で関わった 取り組みの一つに、世界農業遺産への 登録があります(図③) 。実は先週もイ タリアのローマで、世界農業遺産のヨ ーロッパでの取り組みについて議論し てきました。世界農業遺産は、いま世 界的に見ると、中国と日本で多くが認 定されています。ヨーロッパではユネ スコの世界文化遺産の取り組みが先行 しているため、世界農業遺産について はこれから次々と認定していこうとい うことで、イタリアを始めとしていく つかの候補地が選定されています。 ここ佐渡島が、2011年6月に、 先進国として初めて、能登半島と並ん で世界農業遺産に認定されたのは、私 としても大変うれしいことでした(図 ④) 。佐渡島は「トキと共生する佐渡の 里山」と題して認定されました。その 後、静岡の掛川地域が、茶草場という

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図②

することから始まり、米以外のさまざ まな農林水産物にも付加価値を付け、 さらには地域の観光振興ともうまくつ なげるなどして、地域の再生を目指し ています。このような取り組みがこの 地域で進められていて、私どもがそれ に協力させていただいているのです。 認証米制度については、後ほどお話 があろうかと思いますので、私の方か らは詳しくは申し上げませんが、認証 米を生産する農家の数が増え、作付面 積が着実に拡大しています(図②) 。ト キの野生復帰についても、後ほど詳し い説明があると思いますが、着実に野 生のトキは増えていて、いまでは佐渡 でトキを見るのがごく普通の風景にな ってきています。 生物多様性の保全と、 農業・林業・水産業の振興がうまく統 合的に進められて、地域の新たな価値 創造へと進んできています。

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図⑤

して、認定を契機に農業と観光を組み 合わせる棚田ツアーが始まりました (図⑤) 。 世界農業遺産には「ツイニング」と いう考え方があります。 ツイニングは、 先進国と開発途上国の世界農業遺産地 域が連携してお互いに切磋琢磨してい こうという取り組みです。フィリピン のイフガオに有名な棚田景観がありま す。佐渡島とともに世界農業遺産に認 定された能登半島では、高校生をイフ ガオに派遣し、見聞を広めさせ、また イフガオの専門家を能登に呼び研修を 行うといった取り組みを始めています。 また、佐渡は世界農業遺産にとどま らず、ユネスコの世界ジオパークや世 界文化遺産への登録を目指した取り組 みが進められています。まだ私見では ありますが、ユネスコのエコパークの 登録も目指し、それらをうまく組み合 わせて、島全体が遺産的価値の宝庫に なるところにつなげていけたらよいの

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図④

二次草原を維持していて、生物多様性 とお茶の生産が共存しているというこ とで、また、熊本の阿蘇地域が、赤牛 を放牧するために野焼きをしており、 その野焼きにより草原の生物多様性が 守られているということで認定される などして、現在までに日本で8地域が 世界農業遺産に認定されています。最 近は立候補する地域が多くなり、20 16年度からは日本農業遺産の制度が 設けられ、すでに8地域が認定され、 そこからいくつかが世界農業遺産の候 補地になるようになっています。日本 での世界農業遺産の取り組みの先鞭を 付けていただいたということで、佐渡 島は大変にありがたい地域だと思って います。 佐渡島が世界農業遺産に認定された 根拠となったのは、今日これから議論 されるトキと農業の共生です。世界農 業遺産は、 認定されて終わりではなく、 むしろ認定が始まりです。その一例と

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図⑦

話を伺って調査したところ、必ずしも そうではないことがわかりました。私 もよく佐渡の方からいろいろなものを いただきますが、佐渡島にはいただき ものの文化があります。お米は、2割 ぐらいはいただきものでまかなってい て、野菜や林産物の3~4割はいただ きものです。いただきものは統計の数 字には出てきませんから、経済的には 見えない価値となっています。いま私 どもは、それを全部「見える化」して、 この地域の人々の生計のあり方を改め て検討する必要があると考えています。 そのための調査をやらせていただいて います。 いただきものをする、そして、その お返しをするのは、いわゆる「分かち 合い」の文化と経済です。そして、そ れだけにとどまらず、いただきものを したときに別のかたちで地域社会に貢 献する、たとえば清掃活動に参加する とか、農作業に参加するといったこと

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ではないかと考えています。

さて、私ども東京大学サステイナビ リティ学連携研究機構 (IR3S) は、 佐渡市と一緒にさまざまな取り組みを 行うために、2016年7月に協定を 結びました(図⑥) 。連携の対象の一つ は里山・里海の再評価とその再生のた めの新たな仕組みづくり、もう一つは エネルギーの地産地消です。後ほど尾 畑さんから具体的な取り組みの紹介が あると思いますし、IR3Sの松岡か らも具体的な事例を紹介いたします。 要するに、食料もエネルギーも地産地 消を進め、あまりお金を使わずに地域 内で多様な価値を創造して、地域の経 済的な自立につなげようということで す。 食料については、最高品質のものは 島外に向けて高く売り、普通の品質の

自然共生社会を目指して

図⑥

ものは島内で消費して、最後に残渣を 廃棄せずに、たとえばバイオガスとし てエネルギー利用を考えます(図⑦) 。 また森林については、経済的な自立が 難しいのですが、最近は国産材の価値 が評価され、森林の自給率が高まって いますので、佐渡でもきちんと材とし て使い、端材や残渣をバイオマスとし て利用するカスケード型の利用を考え ようとしています。それに太陽光や風 力を組み合わせて、できれば将来はエ ネルギーが自給できる島になっていく といいのではないかと考えています。 佐渡島の食料の現状を見ると、米は 島内でかなり自給できていて、高品質 の米が島外に出されています。ところ が、その他の農産物については、たと えば佐渡産野菜の流通量は、統計の数 字で見ると10パーセントもありませ ん(図⑧) 。野菜はほとんど島外から買 っていると普通なら考えるところです が、私どもの研究員が島の皆さんにお

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図⑨

ます。 収穫は英語ではハーベストです。 農作物もエネルギーもともに太陽から の恵みと捉え、それらを合わせること で経済的な自立につなげていくという のがコハーベストの考え方です。コハ ーベストが農家の収入増につながるこ とを試算したのが図⑨です。佐渡市が 目指している農業所得は、現状ではそ の達成が困難です。しかし、農作物に 高い付加価値を付け、エネルギーでも 利益を得られれば、目標は十分に達成 可能だと私たちは考えています。 いま環境省の支援を得て、日本全国 で100人ぐらいの研究者が集まって、 自然の恵みをいかに評価して、いかに 自然共生社会づくりにつなげるかを検 討するためのプロジェクトを進めてい ます。5年間のプロジェクトで今年が 2年目です。日本全体を対象にします が、同時にいくつかの重点地域を決め て、そこでは詳細な調査を行おうとし ています。そのうちの一つがこの佐渡

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を通して、いただいきものへのお礼を するという習慣がこの地域にはまだ残 っています。単に食べ物などのやりと

りにとどまらず、地域コミュニティの 維持につながっていることが、調査結 果からもよくわかってきました。

私は、佐渡で、農業とエネルギーの 自給をうまく組み合わせられないかと 考えて、 「コハーベスト」を提唱してい

図⑧

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図⑫

時に人的資本も大事ですし、自然資本 も大事です。それらの価値もきちんと 認めて、総合的に価値が最大化される ような社会づくりをするための「包括 的な豊かさ」が提唱されています(図 ⑪) 。 2010年に生物多様性条約の第1 0回締約国会議が名古屋市で開催され ました。そのときに世界全体が205 0年までに到達すべき目標として掲げ られたのが「自然共生社会の実現」で す。 これは日本政府が提案したもので、 それが世界目標になったことは画期的 であったと思います。今後の自然と共 生する社会づくりを考えていくうえで、 佐渡島は、そのモデルになりうるもの と私は考えています。

佐渡の将来シナリオ

これまでは、社会を経済的に活性化 しようする際には、個別の産業ごとに

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島で、地域の皆さま方にいろいろご支 援をいただきながらプロジェクトを推 進しているところです(図⑩) 。

いま社会では、経済成長を計るとき に国内総生産(GDP)が指標として 使われています。しかし、それだけで

図⑩

は社会の豊かさを総合的に評価できな いと言われ始めました。人々が作りだ した人工資本は非常に大事ですが、同

図⑪

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■基調講演2

「里山資本主義」の達人たち いのうけ きょうすけ

井上恭介

に株式会社を冠した会社におりますが、 NHKに入ってから30年間、ずっと 取材しながら番組を作ってきた報道番 組のディレクターです。いまも番組を 作っていて、佐渡でトキの撮影も少し 行っています。ですから、里山の専門 家でもなければ、里海の専門家でもあ りません。 リーマンショックというのが200 8年にありました。ニューヨークに本 社があるリーマンブラザーズという証 券会社がボンとつぶれましたら、世界 中のお金の何分の1かがなくなってし

株式会社NHKエンタープライズ制作本部番組開発エグゼクティブ・プロデューサー

私が申し上げたいと思っていたこと は、実はいま武内先生がほぼおっしゃ ってしまいました。世界で一番のお話 のうまい方の後で、30分ぐらい話せ といわれまして、いま緊張しておりま す。これからの30分間は、皆さんす みません、笑っていただく時間だと思 って、気楽に聞いていただけたらと思 います。

リーマンショックから始まった 私はいまNHKからの出向で、名前

まったという摩訶不思議な金融危機で した。それを取材した番組を『マネー 資本主義』という名前でNHKスペシ ャルとして放送しましたが、その番組 の取材をプロデューサーとして指揮し ました。 リーマンショックのときに何があっ たのかというと、豊かさをすべてお金 があるということで表して、お金でお 金を作り出すようなことを重ねて重ね

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活性化方策を考えてきました。農業な ら農業、水産業なら水産業、工業なら 工業、サービス業ならサービス業で、 それぞれをいかに活性化するのかを考 えてきました。しかし、日本の多くの 地域社会ではいろいろな産業が合わさ って存在しています。たとえば農業と 加工業は切り離せない関係にあります。 それらを合わせて最適な解を求めるこ とが大切だと思います(図⑫) 。自然共 生社会実現のための産業連関・連携を、 これからの自然共生社会づくりでは考 えていく必要があります。これまで行 政では、農業とエネルギー産業はセク ションが別でしたが、それらを横つな ぎにすることで、たとえば農業が再生 可能エネルギーによって支えられるよ うな、経済的にもより安定したシステ ムが形成されるのではないかと考えて います。 私たちはいま佐渡島の将来のシナリ オを作成しようと、地域のいろいろな 図⑬

立場の方々に参加していただいて、佐 渡島のあるべき未来についてお話を聞 かせていただいています(図⑬) 。これ からの4年間で、将来の望ましいシナ リオを佐渡モデルとして提示し、その 実現に向けていかなる道筋をたどって 行けば良いのかをお示しできればと考 えています。いま、このプロジェクト を実施中ですので、ぜひ関係者の皆さ ま方には、引き続きご支援・ご協力を いただければ幸いです。

全体司会 武内先生、どうもありがと うございました。 続きまして、井上恭介さんに基調講 演をお願いします。

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私からお話するようなことはほぼない なと思いながらも、言いたいこととし ては一つだけあります。そのことを申 し上げるのに、中国地方で出会った人 たちを紹介しながら話を進めようと思 っています。 図①

何もないところに資源があった この方は何をしているのかでしょう か(図①) 。木を切っていますね。この 方は過疎のなかの過疎である広島県の 庄原市総領町という本当に限界集落に 住んでおられる和田芳治さんです。先 ほど出会ったと申したのがこの方で、 里山資本主義の番組の最初の主人公に なりました。 和田さんは30年以上、「過疎を逆手 に取る会」というのをやっておられま す。過疎という言葉は、中国山地の山 のなかで生まれたのだそうです。過疎 と言いますと、 どんどん人口が減って、 どんどん高齢化が進んでということで、 普通はそれを何とかして食い止めて人 口増にもっていき、東京に売るような ものを作って何とか経済を活性化しよ うということなるのですが、和田さん たちは、中国地方のこれといった特徴 のないところで暮らして、過疎地が実

は一番豊かなのだと言い張ろうという ことを30年間やってきています。 中国山地では昔からたたら製鉄とい うのがあって、山の木のエネルギーを 活用するということを一番やっていた ところです。ところが、電気もガスも 石油も買うようになって、エネルギー は外から買うものだということになっ て、和田さんもエネルギーは全部お金 を出して買っていました。あるとき、 「あれ、 これはおかしいのではないか」 と思ったのです。 いまは山に全然人が入らなくて、林 業も炭焼きももうなくなってしまって いるけれども、 「過疎を逆手に取る会」 では、山の木はエネルギーとして使え るのではないのかと、ある日言い出し て、ガソリンスタンドに置いてあった 廃品のペール缶を改造して、今でいう ロケットストーブを作って、裏山に落 ちている枝とかを使って、毎日ご飯を 炊くということを始めました(図②) 。

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て、世界にお金があふれるようなこと になっていました。どんどんお金が増 えていくというシステムが完璧に作ら れていたはずだったのですが、その足 元で、誰も予想しなかったようなシス テム障害といいますか、大きな証券会 社が破綻するといったことがおこった とたんに、ヒューッとシステムが逆回 転して、お金がたちまちなくなってし まいました。お金がなくなると、豊か ではなくなり、世界経済が終わってし まうかもしれないということになりま した。事はマネーの世界だけではなく て、たとえば自動車産業もおかしくな りました。 自動車産業だけではなくて、 日本経済全体もおかしくなり、ここ佐 渡の経済までもおかしくなりました。 佐渡ではお米を育て、トキと一緒に 共生するということをしています。お 米は毎年収穫され、それを食べて人間 が暮らしているということでは、佐渡 は何も変わっていないはずなのに、リ ーマンショックによって、あるとき急 に豊かでなくなってしまったのです。 そのような金融危機を取材して、番 組の中ではさすがに大きな声ではいい ませんでしたけれど、相当に変だとい う趣旨の番組を作りました。何かよく わからないことで浮き沈みしている経 済とか、それに寄り掛かっている世界 というのは変だと、率直に思ったわけ です。 私も転勤族の1人でありますから、 2011年の震災の年に広島に転勤に なりました。リーマンショックの取材 の後からは、本当の豊かさとは何だろ うか、もともと人間はどうやって食べ たり暮らしたりしていたのだろうか、 自然と仲良くするような暮らしが一番 豊かなのではないか、お金で豊かさを 表すのではなくてお金が後からついて くるみたいな経済はないのだろうかと 思っていましたら、実はそれを実践し ていますという人に出会いました。そ

れで、エコノミストの藻谷浩介さんと 一緒に番組を作り、それを本にしたの が『里山資本主義―日本経済は「安心 の原理」で動く(角川 テーマ ) です。 里山資本主義という言葉を考え付い たのは私です。 「マネー資本主義」とい う言葉から「マネー」を取って「里山」 を付けました。マネー第一で、マネー だけが偉いんだということではなくて、 里山みたいなことを大事にする資本主 義というものがないのかということで す。 それ以来武内先生にいろいろ教えて いただいたりしながら、 門前の小僧で、 里山とか里海のことにも多少は詳しく はなりましたけれど、佐渡にくるのは まだ3回目ぐらいで、今日は本当は私 が話すのではなくて、こちらが皆さん の取材をしたいくらいです。この後の パネルディスカッションの資料を見て も立派なものが用意されていますので、

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想の転換をしたら、エネルギーの宝庫 だということになってきたのです。毎 日のご飯のおかずも、和田さん夫婦は 月に2000円分ぐらいですんでいる らしいです。全然生かされていなかっ た裏山の見え方ががらっと違ってきま した。 ストーブを使って自分でご飯を炊く というのは、実に楽しいことのです。 皆さんは、電器炊飯器のスイッチをポ ンと入れて、それでご飯を炊くのは楽 しいことであるとはなかなか感じられ ませんよね。ご飯を炊くのは炊飯器に 任せて、 別のことをしているわけです。 私は里山資本主義のプロデューサーを してからは、転勤すると、このストー ブを転勤先にも持って行ってご飯を炊 いています。今は東京の世田谷区のマ ンションに住んでいますが、そこでも 毎週これでご飯を炊いています。世田 谷では、歩いてすぐのところに裏山が あったりはしないので、どうやってス

トーブで燃やす枝を集めているのかと いうと、私は見た通りちょっと太って いるものですから、毎朝NHKまで徒 歩通勤をしていまして、1時間ほど歩 いているのですが、住宅地などではよ く木の枝が落ちていますので、それを 拾って集めています。だいたい1週間 ぐらいでご飯が炊けるくらいになりま す。自分で拾ってきた枝を、週末の土 日のうちのどちらかの日に、ストーブ にくべて、家族3人の1週間分のご飯 を炊きます。これが楽しいのです。一 人キャンプファイヤーといった感じで、 火を眺めながらビールを飲むのです。 松ぼっくりを拾うと、これがいいくべ ものになります。火のなかに入れて5 秒ぐらいたつとぽっと燃えるのです。 皆さんもぜひやってみてください。枝 を拾うということにかけては、東京の 世田谷より佐渡の方がずっと環境とし て優れていると思いますから。 ご飯を炊くこと自体が楽しく、炊き

あがったご飯を見て、決まり文句のよ うに「お米が立っている」ということ を言って、それでおにぎりを作って食 べる、それがまた実に楽しいのです。 しかも、どうしてだかわかりませんけ れど、普通に炊いたご飯よりも確かに おいしいのです。技術が進んで、電気 炊飯器が改良されて、いろいろいいも のが出ていますけど、でも結局一番楽 しくて一番おいしいのがこれなのです。 そしてこの分のエネルギーが自給でき ます。もちろん炊いたご飯の保存には 冷蔵庫を使っていて、現代文明のお世 話にはなっているのですが、ほんの少 しだけ地球にいいことをしているよう な気持ちになれます。

ストーリーを自慢しよう

佐渡のお米を、食いしん坊の代表と して私もいただきました。確かにおい しいです。佐渡では、一度はいなくな

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そうすると、少なくともその分のエネ ルギーは自給できて、お金がかからな くなります。そのようなことから始め てみたら、案外と打開できることがい ろいろあるではないかということにな りました。 田舎に行きますと、「ここは何もない ところなのですよ」みたいな言い方を よくされます。それが田舎のいわば常 識になっているわけですけれど、実は

裏山はエネルギーの宝庫なのです。私 はこのごろ「地上資源の時代」という 言い方をしています。地下資源のある 国が資源大国だということに今はなっ ていますが、地下資源というものはだ んだんなくなっていくわけです。将来 もずっとあるのが裏山の木のような地

図②

上資源です。裏山で拾った枝を缶にく べて燃やしますと、熱エネルギーが出 て、昔のお釜と同じおいしいご飯が炊 けます(図③) 。 裏山は、もはや林業が成り立たなく て、相続もしたくないといったマイナ スの話ばかりあるのですが、ここで発

図③

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年の農林水産大臣賞を受賞しています (図④) 。 この島はまさに逆境に置かれていま した。島中でミカンを栽培して、ミカ ンの島だったのですが、産地間競争に

敗れ、 産業としてミカンが駄目になり、 後継者になるはずの若い人たちがみん な島の外に出ていってしまいました。 瀬戸内海に浮かぶ暖かくてとてもいい 島なのに、ここ20年ぐらいで、統計

上日本で一番高齢化の進んでいる島に なってしまったのです。 ある種最悪の状態のときに、松島さ んご夫婦が周防大島でジャムを作ると いうことを始めました。旦那さんはも

図④

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ったトキが、いままた飛んでいる風景 がよみがえりました。自分たちが耕し ている田んぼでトキが餌をとり、農家 の方々が生き物調査をして、トキのこ とを考えながら、そして自分たちにと っても何が一番いいのだろうかという ことを考えてお米を育てています。そ してトキのお米ですと言って売ってお られています。農薬を使わない、ドジ ョウやゲンゴロウがいる田んぼのお米 はおいしいのです。おいしいお米を作 って、キロいくらで売れましたという ことだけのことなら、それだけの話で す。佐渡のお米には、全体としてすば らしいストーリーがあります。ストー リーがあるということが非常に大切で、 私たちはそういうところに入って取材 をして番組を作ったりしているのです。 和田さんの場合も、過疎という逆境 の中にあって、それに不平を言うので はなくて、あえて過疎がいいのだと言 い切って、何かをしようとしたら、裏 山の全然生かされていなかった資源を 使ってお米を炊くということが出てき ました。それが楽しくておいしいとい うことになりました。そのようなスト ーリーのあることが大切で、和田さん が面白いのは、そういったストーリー を自慢したがるところです。あらゆる 機会に、 「これがいい」と言うのを、私 は100万回くらいは聞いています。 佐渡ではどうですか。トキと一緒に暮 らしてお米を作る、古くから金山・銀 山があってここならではの地域の文化 があるといったストーリーを皆さんは 目を輝かして自慢しておられるでしょ うか。 ストーリーというのがすごく大切な 時代になっていて、案外それがこれか らの経済の一番の鍵になるのではない かと思っています。里山資本主義とい うことを言ったのはもう5年以上前で すが、いまもそれ言いながら新しい番 組を作っています。佐渡ともご縁がで

きて、佐渡でのストーリー性を考えて いるところです。 番組を見て皆さんがグッとくるスト ーリーというのは、 まず逆境があって、 それを乗り越えて、その先ですばらし い何かがつかめたみたいなものがいい のです。佐渡ではかつて身近にいたト キがいなくなってしまって、何てこと をしたのだろうということで、逆境に 打ち勝ってトキが復活するというスト ーリーもあるでしょうし、地球に優し いようなことをして、ものすごく特別 な品種というのではないけれどもおい しいお米が取れて、それから作ったお 酒を飲むと「うーん。おいしい」とい うようなストーリーもあるでしょう。

ジャムの島

山口県の周防大島に瀬戸内ジャムズ ガーデンというジャム屋さんがあって、 6次産業化のチャンピオンとして、去

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大きなストーリーを語ろう

りなしに人がきてここでジャムを買っ ています。都会のデパートには卸して いなくて、「島の環境をぜひ見てくださ い、僕たちのストーリーを聞いてくだ さい、 そしてジャムを買ってください」 ということをしています。季節が変わ ると新しいジャムができるので、ジャ ムそのものにもストーリーがあります。 そのストーリーが聞きたくてまた島に 来るのです。私は転勤していまは東京 にいますけれど、夏休みになると子ど もを連れていまだに島を訪れています。

全体司会 井上様、ありがとうござい ました。それでは少し休憩をいただき まして、パネルの準備をさせていただ きます。

のすごく輝きます。自分は農家だから 農業のことだけというのではなくて、 できれば大きなストーリーを語ってい ただけると、どんどん話が盛り上がり ます。何もない過疎地ということはな いのです。これまでの経済の常識を破 れば、実は資源はいくらでもあるので す(図⑤) 。ほかのところにはないよう なものが出てくるのです。ストーリー が大事で、全体のストーリーのなかに 農業も観光もその他のいろいろなもの が入ってくるということになるのです。

私が言いたいのは、 本当に一つです。 皆さん、 自慢をちゃんとしていますか。 何か一つのことでいいのです。ワクワ クしながら語っていただけると、聞い ている人がそれに引き込まれますし、 語っている人も勇気が出てきます。そ して、それを聞く子どもたちの目がも

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図⑤


ともとは電力会社の社員で、島出身の 奥さんと島ではないところで出会って 結婚し、新婚旅行にパリに行ったのだ そうです。奥さんがアクセサリー店を 見ている間に、旦那さんは「あなたは どこかで暇をつぶしていなさい」と言 われて、たまたまジャム屋さんに入っ たのです。いろいろな香りの芳醇な感 じのジャムが店に並んでいて、そこで ジャムをたくさん買い込んで日本に帰 ったのですが、そうこうしているうち に、 「俺はジャム屋をやる」って言い出 したのです。電力会社の社員で生活が 安定していたのに、そんなことを言い 出したので、夫婦の間はすごく険悪に なったそうです。それでも奥さんの地 元である周防大島に戻り、島の経済が どん底に落ち込む原因になったミカン を使ったジャムづくりを始めたのです。 松島さんご夫婦は全部手作りでいろ いろな種類のジャムを少しずつ作るよ うになりました。ミカンを仕入れに農

家に行くと、農家の人は「自分の子ど もにもうミカンは継がせられない。い つまでミカンを作っていられるだろう か」みたいなことでいたのですが、ジ ャムを作りますという松島さんがくる と、いろいろな話をするのです。たと えば、みかんは青い実のときにだけ放 つ独特の香りがあるということを農家 の人が言うのです。松島さんはそれを 聞いて、その香りを生かしたジャムを 作ってみましょうということになって、 ジャムのネタになるようなアイディア がたくさん出てきたのです。また、あ る種類のミカンは青い状態から黄色く なったころに市場に出すのだけれど、 木の上にずっとならしておくと、どん どん味とか風味が変わっていくという ようなことがあります。松島さんがそ れを聞くと、それを活かしたジャムが 作れないかということになるのです。 カキでも誰も取らないで木になりっぱ なしにしておくと、味がずいぶん違っ

てくるということがありますが、ミカ ンでもそのようなことがあるのだそう です。ミカンにはいろいろな種類があ って、同じ種類のミカンでも時期によ って香りが異なるということなので、 少しずつたくさんの違う種類のジャム ができるのです。島ではブルーベリー もできれば、島独特のサツマイモがあ って、それらを使ったジャムも作られ ています。 ここのジャムは一つの種類が30個 ぐらいしかできなくて、その1個を8 00円とか1000円とかで売ってい ます。これは戦後ずっと続けてきた、 できるだけたくさん作って、できるだ け単価を下げて売るという大量生産の 経済とは真逆です。島の経済をかつて は引っ張ってきたものが一度だめにな って再びエースに返り咲いたというよ うなストーリー性があります。周防大 島は広島から車で1時間ぐらいで行け るところで、休みの日になるとひっき

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る実態調査を行い、それをどう地域づ くりに生かしていくかという研究もし ています。 また、 国連大学にいますと、 国内の仕事だけではなく海外での仕事 もあります。アジアやアフリカには、 市場では見えてこない、分かち合い支 え合う仕組が伝統的に引き継がれてき ているものがあります。そういったこ とに関して国際的な視点からの研究を 行っています。海外で得られた知見を 日本の地域づくりに活かして行くには どうしたらいいかということも研究の なかに入ってきています。

さて、今日のパネルディスカッショ ンでは、実際に佐渡でアクティブに先 導的な活動をされているいろいろな分 野の方々にパネリストになっていただ いて、最初に、実際にどういった取り 組みをしているのかということを、そ れぞれ10分程度で話題提供をしてい ただきます。その後で、会場の皆さま からの質問も含めて、議論を深めてい きたいと思っています。まず行政関係 のスピーカーからお話をいただいて、 その後に民間セクターの方にお話いた だくという流れにしたいと思います。

それではトップバッターとして、環境 省の佐藤さんにお願いします。

トキの野生復帰

佐藤 私からはトキの野生復帰につ いて話題提供させていただきます。

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■パネルディスカッション コーディネーター

[ おさむ)

]

齊藤 修 (さいとう -

[

] ちお)

国連大学サステイナビリティ高等研究所( UNU IAS) アカデミック・ ダイレクター パネリスト

佐藤知生 (さとう たかゆき)

環境省佐渡自然保護官事務所自然保護官

西牧孝行 (にしまき るみこ)

佐渡市農業政策課里山振興係係長

尾畑留美子 (おばた

しんいちろう)

尾畑酒造株式会社専務取締役

齋藤真一郎 (さいとう

あきひこ)

有限会社齋藤農園代表取締役

松岡昭彦 (まつおか

昭和シェル石油株式会社、 東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構特任研究員

全体司会 それでは、これより公開シ ンポジウムのパネルディスカッション を始めたいと思います。ここからは国 連大学の齊藤修様にコーディネーター を担当していただきます。それではよ ろしくお願いします。

齊藤 (司会) 最初に私と佐渡との関 わりを少しだけ申し上げますと、武内 先生よりはスタートが遅いのですが、 この4~5年の間に何度かこちらにこ させていただいています。エコツーリ ズムの研究をしたり、里山の自然の恵 みを生かした新しい社会づくりの将来 像を描いて、科学的に検証していくと いうプロジェクトに参加したりしてい ます。私は埼玉の田舎の海のないとこ ろで育ったのですが、最近は島や半島 での研究が比較的増えて、能登半島や 伊豆七島の八丈島にも行っています。 市場にはなかなか出てこないけれど、 隠れて流通している自然の恵みに関す

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過去最多の記録となっています (図③) 。 この映像は、今年初めて巣立ちが確認 されたペアの繁殖期の様子です。3月 中旬の雪が残っているような時期から、 雄と雌で木に巣を掛けるような行動が

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として定義していて、雛は巣立ちをし てから、しばらく巣を出たり入ったり しながら、だんだんと飛べるようにな って、巣の外に出ていきます。 こうした野生復帰の取り組みは、2

図⑤

見られ始めます。トキは雄も雌も交代 で卵を温め、雛が生まれると、やはり 交代で外に出て餌を取ってきて、吐き 戻して雛に餌を与えます。 環境省では、 雛の両足が巣から離れたときを巣立ち 図④


野生下の現在のトキの個体数ですが、 推定213羽ほどのトキが佐渡の空を 舞っています(図①) 。お手元の資料で は195となっていますが、先週末の 土日に新たに放鳥を行いましたので、

図① さらに数が増えています。また、今年 生まれのトキはこの数に入っていませ ん。野生下で誕生したトキは70羽ほ どいて、トキの3分の1程度は野外で 生まれている状況です。

図②

2008年にトキを野生に戻す放鳥 を始めまして、2012年に初めて野 生下で雛が誕生し、今年で6年連続で 野生下で雛が誕生しています(図②) 。 今年は誕生した雛が80羽以上いて、

28 図③


ているのかといいますと、まずトキ自 身に関わることとして、飼育や放鳥の 取り組みがあります(図⑧) 。そして、 放鳥されたトキたちが生きていくため には生息環境整備と社会環境整備が必

図⑩

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いけるように、飛び方や餌の取り方、 群れ行動の練習をするため、約3カ月 間の順化訓練を行っています(図⑨、 図⑩) 。その上で放鳥をするのですが、 いまは自発的にケージの外に飛び立っ 図⑨

要で、さらにそれらの取り組みをモニ タリングして、今後の取り組みに生か していくという仕組みです。 飼育の段階では、トキを野外に放す 前に、ケージの外でもちゃんと生きて 図⑧


003年に環境再生ビジョンを作り、 トキとの共生のための地域社会づくり としてスタートしました(図④) 。この 当時から共生の地域社会づくりを目指 していたことは特筆すべきことであっ

図⑥ たと思っています。そのときに201 5年頃にトキを60羽定着させるとい う目標を立てました。この目標はすで に達成され、いまや野生で多数のトキ が見られるような状況になっています

図⑦

(図⑤) 。 いまは、2020年頃に佐渡島に2 20羽のトキを定着させるという新た な目標に向かって取り組みを進めてい ます(図⑥) 。先ほど213羽いると申 し上げましたが、220羽の目標とし て掲げているのは定着数となっていて、 これは、1年以上生息しているトキの 数です。現在は定着数でいうと130 羽ぐらいで、目標に近付きつつあると いう状況です。 トキの野生復帰の意義は、もちろん トキが再び日本の自然のなかにもどっ てきたということもありますけれど、 それ以上に大きな意義として、トキを 豊かな自然の象徴、シンボルとして、 自然環境全体の保全・再生が進んだこ とではないかと思います(図⑦) 。さら に、そのことは、地域の活性化や他の 絶滅危惧種の保全などにつながってい ます。 具体的に野生復帰をどのように行っ

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図⑭

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水のなかにいる生き物の微妙な振動な どを感じて餌を探しています。トキは 何を食べているのかというと、動物性 のカエルやドジョウなどです(図⑭) 。 トキの命を支えるには、多様性の豊か

図⑮


て行くのを待つソフトリリースという 放鳥方法を取っています(図⑪) 。 野外に羽ばたいて行ったトキがどの ようなところで生活しているのかとい うと、大体夜明けとともに林にあるね

ぐらを出て、日中はエサ場に下りて餌 を食べて過ごしています(図⑫) 。エサ 場としては水田などの浅い水辺を使っ ています。そして夜になると安全な居 場所であるねぐらの林に戻ります。

図⑪

餌の食べ方の特徴として、水田に入 り、泥のなかにくちばしを突き刺すよ うにして餌を食べる行動が見られます (図⑬) 。トキのくちばしは、私たちで いうと指先のように感覚が優れていて、

図⑫

図⑬

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レットを作って配布しています (図⑱) 。 「やさしい見方であなたもトキの味方 に」というのがリーフレットのキャッ チフレーズで、車に貼れるステッカー もお配りしています。 こうした社会環境を整備した上で、

図㉑

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ムで、トキの生存状況や繁殖の状況を 追い掛けています(図⑳) 。それによっ てトキが季節によってエサ場を使い分 けていること(図㉑)や、トキと佐渡 の人々の暮らしと共生が進んでいるこ とが見て取れるになってきています。 図⑳

野生のトキを見ていただけるような施 設をいま計画しています(図⑲) 。 このような取り組み全体のモニタリ ングも行っていて、環境省のほかに新 潟大学、ボランティアさんなどいろい ろな方々で構成するモニタリングチー 図⑲


ないろいろな生き物が必要です。 佐渡には、 トキのねぐらとなる林と、 餌場となる水田などの環境がモザイク 状に存在していて、トキにとってはす ごく住みやすい土地となっています

図⑯ (図⑮) 。 トキが暮らしていくための社会環境 整備も大切な取り組みです。環境教育 はもちろん、地域の方と話をする共生 座談会や、ルールやマナーの普及も行

図⑰

っています(図⑯) 。いまとくに力を入 れているのが、野生のトキの観察の仕 方、観察ルールの普及です(図⑰) 。ト キに影響がないように観察していただ けるよう、 「トキのみかた」というリー

図⑱

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すく説明していただきました。 では、続いて佐渡市役所の西牧さん からお願いします。

―未来に伝えつづける「農」の力

トキと共生する佐渡の里山

西牧 私からは、佐渡の農業の現状と 課題について簡単にお話させていただ きます。 まず農業の現状として、第一次産業 のなかで農業の占める割合が非常に大 きく、農業産出額は約91億6000 万円です(図①) 。そのうちお米の産出 額が64億円で、その割合が非常に大 きくなっています。問題は農家数で、 平成22年の農林業センサスでは約7 100戸だったのが、5年たった平成 27年には597戸で、約1000戸 減少しています。そのなかで販売農家 だけを見ると、5年間でやはり約10

00人減って4313人になっていま す。60歳以上の農家の占める割合が 73パーセントで、農業の超高齢化時 代に突入しているのが現状です。 農業産出額の多くを占めるお米を作 っている水田について、特徴的なこと を挙げますと、水稲作付面積は約60 00ヘクタール弱です(図②) 。図には 5500ヘクタールと書いてあるので すがそれは間違いです。国仲の平野部 に約4000ヘクタールあって、土地 改良をしたお米を作りやすい田んぼが 広がっています。 佐渡の農業、農地の開発には、江戸 時代になって湧いた金銀山のゴールド ラッシュが大きく影響したといわれて います(図③) 。国仲には大規模な田ん ぼが広がっており(図④) 、大佐渡の北 部には海岸段丘の上に棚田が広がり (図⑤) 、 独特の田んぼの風景をつくっ ています。 二見・小木半島には特徴的な水利用

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トキの生息エリアはだんだんと拡大 して、国仲平野一帯に広がり(図㉒) 、 その他の地域や、さらには本州への拡 散も見られるようになってきています (図㉓) 。 こうしてトキが増えてきたのは、や

図㉒ はり佐渡だからこそできた取り組み、 とくに社会環境整備や生息環境整備が 効果を発揮しているのだと思います。 人間の活動が実際に行われている里 地・里山にトキが定着しているという ことは、人と自然が共生する社会の一

図㉓

つのモデル、 「佐渡モデル」になったの ではないかと思います(図㉔) 。

齊藤(司会) ありがとうございます。 飼育から放鳥、そしてモニタリングま で幅広い活動内容について、わかりや

36 図㉔


パーセントぐらいの田んぼが近代化さ れ、お米は作りやすくなっても、生き ものにとっては棲みにくい環境が広が っていました。放鳥当時は、農業とは あまり関係のない取り組みであると多 くの人は認識されていたのではないか

から、トキの放鳥は農業と非常に関係 性の高い取り組みだったのです (図⑧) 。 近代化された農地が広がっていると ころで、どのようにして生きものを育 んでいったらいいのでしょうか。農 薬・化学肥料を単純に減らせばいいと いうことではなく、1年を通して生き ものの生息環境を田んぼのなかに確保 する必要があります(図⑨) 。要は、一 年を通して田んぼのなかに水辺を作る ということがポイントです。そのよう な取り組みのなかで「朱鷺と暮らす郷 認証制度」を始めました。 認証制度は図⑩のように推移し、い までは水稲作付面積の約25パーセン トに広がっています。農家戸数でいう と約10パーセントの方が認証制度に 取り組んでいます。2008年に認証 制度を始めましたので、今年で10年 目の作付けを迎えました(図⑪) 。10 年を機に、生物多様性の取り組みの理 念や質を高めていかなければいけない 図⑤

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なと思います。私もその一人でした。 トキは田んぼに生息する生きものを 食べます。トキの野生放鳥がうまくい かないと、佐渡の農業、特にお米は安 心・安全とはつながっていないという ことになってしまいかねません。です 図④


の仕組みがあります。上の絵が小木半 島の横井戸という水利用の仕組みで、 いまも活用されています(図⑥) 。下の

絵は二見半島の段丘の形状を活用した ため池システムです。 このような佐渡の豊かな里山に、日

図①

本で最後までトキは生息できていたの ですが、乱獲によって数を減らし、さ らに農業の近代化によって生息環境が 失われていきました(図⑦) 。トキの野 生放鳥は2008年から始まりました。 佐渡のおよそ60パーセントから70

図②

図③

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また、トキは稲が生長すると、なかな か田んぼの中に入っていけないので、 畦際が夏場の重要な餌場になっていま す。それで、畦畔では除草剤を使わな いで丁寧に草刈りをしましょうという

図⑩

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りましたので、無農薬無化学肥料栽培 を生きものを育む農法の五つ目に加え たのです。 また水田の景観を豊かにし、 畦際の生物多様性を向上させるために 畦での除草剤の散布を禁止しました。 図⑨

これまでは四つの生き物を育む農法と いっていたものを、一つ増やして五つ の農法にしました。無農薬栽培は、田 んぼの生物多様性に最も費用対効果が 高いのではないかという研究成果があ 図⑧


図⑥

ということを何年か前から議論してき ています。これまで農家が行ってきた 8年間の実績と、新潟大学による研究 の成果をもとに、 今年の29年産から、 認証制度の要件を追加しました (図⑫) 。

図⑦

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いたのが非常に大きかったと思ってい ます(図⑬) 。 こうした佐渡の取り組みを非常に高 く評価していただき、2011年に世 界農業遺産に認定されました(図⑭) 。 先進国では初めの認定でした。世界農

知恵の遺産とか生きている遺産といわ れるのですが、農産物を高く売ること が目的であるというような見方には疑 問を持っています。ブランド化などは 一つの手法だけであって、もっと大事 なことがあるのだろうと思っています。 日本農業遺産制度もできて少しずつ 気運は高まっているとは思うのですが、 世界農業遺産と言っても、国内ではま だまだ認知されていないのが現状です。 去年、佐渡で調査をしましたが、世界 農業遺産を知っている人は4割しかい なくて、聞いたことがあるという答え も含めると7割とか8割になるという 状況です。世界農業遺産の理念である 農業の多面的な価値を国内でどのよう に広げていくのかということがとても 大事だと思っています。 これからは、世界農業遺産の理念に 共感して価値を高めていく取り組みが 必要です(図⑮) 。熊本の阿蘇が世界農 業遺産の認定されるきっかけになった 図⑮

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業遺産に認定されて以降、自治体やメ ディア、研究者から、認定されてから どれだけものが高く売れるようになり ましたかとか、観光客がどれだけ増え ましたかといった質問をたくさんいた だいいました。世界農業遺産は、よく 図⑭


のを加えたのです。 認証制度に取り組んでいる農家には、 生きもの調査を義務付けています。や はり8年もたちますと、調査がマンネ リ化してモチベーションが下がってき

図⑪ ているということが少し前からいわれ ていました。生きもの調査の価値をも う一度見直して、それを農家にお伝え して、ぜひ自信を持って調査に取り組 んでいただけるような仕組みづくりを

これから進めていきたいと思っていま す。 このような認証制度が10年にわた って続けてこられたのには、消費者や 企業やいろいろな方々に支えていただ

図⑫

図⑬

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いて、ブランド競争ということだけに なってしまうと、なかなか農の価値は 伝わりません。それで、食育という部 分から世界農業遺産を普及させていく 活動ができないだろうかと考えている ところです。

齊藤(司会) ありがとうございます。 佐渡の農業の全般的な状況から認証制 度の仕組み、そして世界農業遺産の価 値について、多角的にわかりやすくご 説明をいただきました。 途中でお話されていたように、米の 消費の減少が続いていますが、昨年は 少しだけ増えたということを伺ってい ます。そうはいっても日本人のカロリ ー摂取がかなり低くなっているなかで、 お米の需要を高めていくのは難しいこ とではないかとよく話題に上ります。 国連大学にいると、海外からの留学生 から、日本人のカロリー消費はどうし てそんなに少ないのだろうということ

私は佐渡島の真野というところに生 まれ、東京の大学に行き、映画会社で 仕事をしていましたが、21年前に佐 渡に戻りました(図①) 。佐渡の真野に は1892年創業の尾畑酒造があり、 真野鶴というお酒を造っています(図

図①

を聞かれたりします。 それでは次は、お米を使ったお酒で 佐渡を超えた取り組みを活発にされて いる尾畑酒造さんから話題提供してい ただきたいと思います。

オール佐渡産の酒造り ―佐渡の語り部を醸す

尾畑 お米からできるお酒の話をさ せていただきたいと思います。

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宮本けんしんさんというシェフがいて、 農の出口は「食」と仰っていて、食と 農の支えあいが大切であり、そのこと をもっともっと広げていくことで、農 業の価値が高まっていくのだろうと思

います。 地域のなかで棚田の散策ツアーをし たり、小学校から高校生を対象にして 佐渡のいろいろ資源を活用しながら巡 る体験塾を開いたり、佐渡総合高校生 が世界農業遺産に関するDVDを作っ て発言したりと、世界農業遺産に認定 されてからいろいろな活動が行われて います。DVDは去年佐渡の小中学校 に送り、その結果、小学校の先生から 5年生の社会科の授業に世界農業遺産 を取り入れていきたいと思っています という反応をいただいています。 日本国内には世界農業遺産の八つの 認定地域があり、それぞれの地域がい ろいろなイベントを仕掛けて、世界農 業遺産の認知度を上げる活動をしてい ます。既存のイベントや物産展に出向 いても、なかなか世界農業遺産の価値 が伝わらないので、昨年は食にこだわ りのある料理家などを首都圏で50人 ぐらい集めて、食という切り口で世界

図⑯

農業遺産を伝えるイベントを実施しま した。 私は去年まで佐渡米を販売する業務 に携わり、ものを売りながらその価値 も伝えることが非常に大事だと思って いるのですが、もしかして限界かもと 感じていることが一つあります。そも そものお米の消費量が減っているので す。高度経済成長には1年間に1人約 2俵食べていたのが、いまでは1俵も 食べていません。お米の消費量が減っ ているなかで、お米を販売しつつ世界 農業遺産の価値を伝えていくのはかな り難しいです。それでも、店頭で消費 者にお米を売っているお米屋さんには、 世界農業遺産のことをぜひ消費者の皆 さんに語っていただきたいと思ってい ます。 「農」の出口は「食」ということを もっと意識していきたいと考えていま す(図⑯) 。いまはいろいろな産地から いろいろなブランドのお米が出てきて

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渡の物語も伝えることを必ず心掛けて います。 そのようなスタイルのプロモーショ ンの結果、海外から佐渡へ訪れる方が とても増えてきました(図⑧) 。昨年だ けでも数十人いらしていただきました。 つい2週間前もアメリカから7人いら

図⑦

また、このようなお酒は国内はもちろ ん海外にも輸出しています(図⑦) 。現 在当社からは14カ国に輸出している のですが、輸出するためには海外に行 ってプロモーション活動をします。そ のときにはお酒のことはもちろんのこ と、そのお酒を生んだ生産地である佐 図⑥

夫で健康なお米を作っているのです。 このお米を使って作ったお酒が、純 」と、純米吟 米大吟醸の「実来 (みく) 醸の「朱鷺と暮らす」です(図⑥) 。 「朱 鷺と暮らす」は先月から運行をスター トした四季島という豪華列車のダイニ ングでもご利用いただいております。 図⑤


②) 。 当社の社是といいますかモットー があります。それは、お酒造りに必要 な三大要素である「米・水・人」に、 生産地である「佐渡」を加えて、四つ の宝の和をもって醸すということです。 「四宝和醸」という言葉で表していま す。

図② 佐渡の個性と言ったら何だろうかと 考えますと、 もちろん朱鷺です (図④) 。 佐渡の個性である朱鷺をお酒に入れる ために、私たちは酒米にこだわってい ます(図⑤) 。この写真の左側に写って いるのは契約農家の相田さんで、ここ で作っているお米は朱鷺と暮らす郷認

図③

証米です。またここでは牡蠣殻農法と いうオリジナルな農法を使っています。 佐渡で取れる牡蠣があり、牡蠣を食べ れば当然牡蠣殻が出ます。相田さんは 山から下りてくる水を牡蠣殻を通して 田んぼに引いていて、すなわち山と海 と両方のミネラルを田んぼに入れて丈

図④

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二つ目の柱が学びです(図⑭) 。お酒 を学びたいという方に、1週間通って もらうことを条件として、お酒仕込み に参加していただきます。タンク1本 につき3人から5人のチームが関わり ます。ちょうど昨日から今年の第一チ ーム目が佐渡にいらしています。お酒

図⑫

すので、この学校蔵では夏場にお酒を 造っています。今年は5月の中旬から スタートして8月いっぱいぐらいまで で、タンク4本を仕込みます。ここで 作ったお酒は「学校蔵」という名前で リリースをされます(図⑬) 。昨年まで のものは完売となっています。 図⑪

て再生することに決めました。図⑫は 2012年頃の写真ですが、旧理科室 を改装して、小規模の醸造機械を導入 しました。稼働は2014年で、ここ では四つの柱を持って運営をしていま す。まず一つ目はお酒造りです。冬場 は私どもは本社でお酒を仕込んでいま 図⑩


して3日間滞在され、とても喜んで帰 られました。そう考えますと、佐渡の お酒は佐渡の物語を海の向こうに伝え る語り部でもあると感じています。 このような取り組みをして感じてい ることがあります。お酒の世界にもグ ローバリゼーションがあって、価格競

図⑧ 争となったら、やはり安く大量生産で 作られたものにはかないません。それ では、われわれのような小さな生産者 はどうしたらいいのかというと、リー ジョナリティを発信して差別化してい くことが大事であると考えています。 リージョナリティにさらにオリジナリ

図⑨

ティを付けるにはどうしたらいいのか というと、ローカル×ローカルで、そ の相乗性を高めることであろうと思っ ています。それをすると必然的にロー カルコミュニティが活性化するという ことを感じています。まさに地域との 共生をするわけですが、言い方を変え ますと、競争の世界からローカルな地 域で共に作る共生を学び、それを続け ていくことがサステイナブルな地域づ くりということになるのではないかと 感じています。サステイナブルという 言葉には、再生という意味合いも含ま れるのではないかと思います。 そこでご紹介したいのが、当社が始 めている学校蔵プロジェクトです(図 ⑨) 。 舞台は西三川小学校です (図⑩) 。 こちらは日本で一番夕日がきれいな小 学校とうたわれながらも、少子化が進 んだために2010年に廃校になりま した(図⑪) 。この場を何とか残したい と思い、この廃校をお酒造りの場とし

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話が、佐渡のお話が、どんどんと広い 世界に発信されていくということにな りるます。 それから、この活動に共鳴してくだ さる企業の方々からコラボレーション のお話もいただくようになり、 新聞社、 大手流通、大手情報通信社の方と一緒 図⑯

にタンクを仕込むことで、それをきっ かけとしていろいろな方が佐渡との縁 を持ってくださるようになっています (図⑮) 。 三つ目が環境です(図⑯) 。ここでは オール佐渡産のお酒造りを目指してい て、酒米はもちろん、お酒造りのエネ 図⑰

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ルギーも佐渡産でということで、太陽 光パネルを敷いて佐渡の太陽の力を取 り入れています。 この活動に関しては、 東京大学IR3Sと共同研究をしてい ます。今年の初めに、右上にあるパネ ルを増設し、理論上100パーセント のエネルギーをまかなっています。わ

図⑱


造りを知ってもらうということ以外に も目的があります。1週間滞在するな かで、午前中はお酒の仕込みで忙しい のですが、午後は比較的時間がありま すので、皆さんには自由に佐渡を巡っ てくださいと申し上げています。生産 地である佐渡を知っていただくと、ど

うしてこのようなお酒ができるのかと いうことをよりわかっていただけるの ではないかと思っています。また、長 期滞在というのは、おそらく観光のス タイルとして今後考えていかなければ いけない、ブラッシュアップをしてい かなければいけないことなので、その

図⑬

図⑭

いいモデルになるのではないかと思っ ています。図⑮の写真の右側に写って いるのは、2年前からバルセロナでお 酒造りを始めた方で、昨日から学校蔵 に入って、より本格的なお酒造りを学 びだしたところです。こういう方々が いらっしゃることによって、お酒のお

図⑮

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る八百万の神が生んだものだといわれ ています(図⑳) 。お酒を飲むときに、 よく「乾杯」といいますが、乾杯は日 本の八百万の神様にしているとわれわ れは考えています。佐渡のお酒には当 然佐渡の八百万の神が絡んでいます。 多様性に恵まれた佐渡の八百万の神様 です。私が目指していきたいと思って いるのは、佐渡でも出来ることではな くて、佐渡だからこそ出来ることです (図㉑) 。 学校蔵の校訓があります。 「幸醸心」 と言います。幸せを醸す酒造りです。 われわれは佐渡と共に生きる幸せを、 お酒造りを通して醸していきたいと思 って続けています。

齊藤 (司会) ありがとうございまし た。縦の連携、横の連携を視野に入れ た学校蔵の話、そして佐渡だからでき ることを追求していくという、非常に 深いお話をしていただきました。

では続きまして、齋藤農園の齋藤さ んにお願いします。

トキと共に

――持続可能な農業へ

齋藤 (真) 私は農業を通じて、20 00年からトキと関わりを持ってきま した。そのなかで感じてきたこと、そ して佐渡の農業の未来、持続可能な農 業についても少し話をしていきたいと 思っています。

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「幸せを産む働き方」がテーマです。 たくさんの課題を抱えて課題先進地と 言われる佐渡島でありますが、実はそ れと同じぐらいに希望があるのだ、そ のことに気付く授業になっていればと 思って続けています。 そもそも日本酒は、日本の自然に宿 図㉑


れわれは売電が目的ではないので、1 00パーセント達成を機に、横に連携 していくことを進めていて、廃棄する 予定だったゆずを買い取って、学校蔵 で作ったお酒と一緒に仕込んで、「佐渡 のゆず酒」を造り、たぶん今週リリー スできることになります(図⑰) 。無糖

図⑳

加でまさに手仕事の味わいのナチュラ ルなお酒です。これは何をしたいのか というと、朱鷺が飛んでいる佐渡の自 然環境のよさをお酒を通してもっと見 える化するということを目指している わけです。 四つ目が交流です(図⑱) 。やはり学

図⑲

校というものは、いろいろな人が集ま るこその学校です。佐渡高校、エネル ギー関係の学会、大学生等々といろい ろなコラボレーションを行っています。 そのなかでもメインになるのが学校蔵 の特別授業です(図⑲) 。 「ミニジャパ ン佐渡から考える島国日本の未来」と いうことで特別授業を行っています。 2014年は藻谷浩介さんが講師にい らして約40名の方が参加されました。 2015年には藻谷さんと「希望学」 を提唱されている玄田有史さんをお迎 えし、佐渡高校の生徒さんを始め約8 0名の方が参加されました。そして2 016年には出口治明さんをお迎えし て、 「世界とつながる地方で起業」とい うテーマで行いました。高校生からに も発表していただいたり、アメリカか らも参加していただいたりということ で、まさに多様な方々が参加されまし た。ちなみに今年の授業は6月10日 に開催します。 「世界から佐渡を見る」

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のではないかと思います。トキがいる ことで、佐渡はマスコミを通じての発 信力があり、そのおかげでほかの地域 の方々に佐渡への関心を持っていただ けています。もしトキがいなかったら 関心をひかなかったのかもしれません。 佐渡の観光客は減ってはいますが、緩 やかな減少で、トキがいなかったらも

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す。トキがいなければそうはならなか ったでしょう。そして、佐渡を自慢す る人もそれほどいなかったろうと思い ます。実際に私もトキが復活するまで は、佐渡ということをなるべく言わな いようにしていました。 これからの佐渡の農業を考えるとき に、やはり、循環型、持続可能がキー

図④

っと急激に減っていたのではないでし ょうか。また、市民の方々がここまで 環境問題に取り組んでこなかったでし ょうし、子どもたちの環境教育・食農 教育もここまで進んではいなかっただ ろうと思います。持続可能性や生物多 様性という言葉は、佐渡の人にはかな りのレベルで浸透し、理解されていま 図③


トキの野生復帰の意義は、先ほど環 境省の方からもお話がありましたが、 私は15年ぐらい前から個人的にこの ような意義があるということを申し上 げています(図①) 。このなかで一番重 きを置いているのは、③生物多様性豊 かな環境の復元です。トキが棲める環

境は、多くの生きものが生きることの できる豊かな環境で、人間にとっても 安心して住める環境であるということ を肝に銘じて農業に取り組んでいると ころです。 もしトキがいなかったら、佐渡はど うなっているだろうかということを少

図②

し考えてみました(図②) 。佐渡はいま 環境保全型農業に取り組んでいますが、 トキがいなければ、おそらく他の地域 と同じように、田んぼにたくさんの生 きものがいることよりも、田んぼから どれだけお金を生めるのかという、経 済効率優先の農業に軸足を置いていた

図①

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すので、できれば地元の酒粕を地元の 農地に返して、それによってできた作 物を食べていただくというような取り 組みをしたいと思っています。 牡蠣殻は島内で唯一自給できる石灰 質肥料です(図⑦) 。牡蠣殻にはミネラ ルがたくさん入っていて、アミノ酸の

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含有量が高いことから、肥料として用 いるとおいしい農産物が取れるように なります。島内産の牡蠣殻で作った石 灰肥料は市販の貝殻石灰よりも3割か ら4割ぐらい安い価格で販売されてい ますので、積極的に島内で利用してい けたらと思っています。

図⑧

ということで試作をしてもらいました (図⑥) 。 酒粕は非常に有効な資源です。 微生物の宝庫で、地温を上げたり、糖 度や食味を上げたり、品質を向上させ るなどさまざまな効果があります。私 もイチゴ栽培に酒粕を使っているので すが、いまは島外の酒粕を使っていま 図⑥

図⑦


ワードになってくると思います (図③) 。 佐渡には自給的な肥料、農薬、資材が 少ないので、島にあるものをどのよう にして利用していくのかということが 大事です。佐渡の農業を未来に継承し て持続させていくには、やはり、子ど もたちへの環境教育や食農教育を充実 させていくということが大事です。

佐渡にある資源をどう利用するかと いうことで、いまは産業廃棄物になる ことが多い籾殻があります(図④) 。玄 米にするときに出る籾殻です。田んぼ で焼却する人もかなりいますが、これ を有効利用するために、堆肥に変えて 田んぼに戻す取り組みを佐渡市と連携 して行っています(図⑤) 。

先ほどお酒の話がありましたが、酒 粕が産業廃棄物になりかかっていると 聞いています。以前は粕漬けに使うよ うなことで利用価値があった酒粕が、 粕漬け造りをする人が非常に少なくな って、酒粕を焼却処分しているという 現状があります。それで、今年、1・ 5トンの酒粕を肥料として使えないか

図⑤

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挑戦しています(図⑩) 。いずれは、佐 渡の大豆と佐渡の小麦、それに佐渡の 水で醤油作りをしようと、皆さん頑張 っています。 自然栽培の取り組みも増えつつあり ます。自然栽培は木村秋則さんが提唱 していて、肥料も農薬も使わないで、 図⑪

米、野菜、果物を作ろうという農法で す。技術的には難しいのですが、資源 の少ない佐渡にとっては、非常にやり がいのある栽培方法ではないかと思っ ています。いま地域で一生懸命に自然 栽培に取り組んでいるのが石川県の福 井市のJAはくいで、今年はJA佐渡 図⑫

も自然栽培研究会を立ち上げました (図⑪) 。 最初は10人も集まらないか なと思っていたのですが、会員数が5 1人になっています。今年実際に栽培 するのは若干名ですが、来年、再来年 と会員の方々が実際に自然栽培に挑戦 して、新たな佐渡のブランドを作って いく取り組みにしたいと思っています。 自然栽培をする目的は、佐渡は生物 多様性農業をうたっていますので、そ の意味でさらなる挑戦をしていくとい うことが一つありますし、安全・安心 をより高めて佐渡のブランド力を上げ ていこうということがもう一つありま す。さらに、Iターン、Uターン、孫 ターンといった新規就農希望者を佐渡 に誘致したいということも大きな目的 です。JAはくいでは昨年20人ぐら いの新規就農者がきたのですが、自然 栽培に関心を持った方々が多く入って きているということです。佐渡でも新 規就農者を入れることで、持続可能な

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食物残渣の循環も大事なことです (図⑧) 。 消費者が食べ残した食物残渣 を有効に利用するということでは、先 進事例としては山形県の長井市のレイ ンボープランや栃木県の茂木市のバイ オマスタウンなどがあり、新潟県内で も新発田で食の循環によるまちづくり

が行われています。佐渡は島であるた めに、地域内でものを循環させるには ある意味理想的な環境ですので、食物 残渣を堆肥にして農地に返し、農地で できたものを地元の方が買うという循 環を作れるのではないかと思っていま す。環境の島ということをうたう佐渡

図⑨

でそのような循環ができれば、佐渡の ブランド力をさらに向上させることに 役立ちます。 最近で、IターンとかUターン、ま たは孫ターンと言われる方々が結構佐 渡には帰ってきています。私もいま孫 ターンの研修生を受け入れていますが、 ここ1~2年、佐渡で農業をしたい、 佐渡で暮らしたいという方が増えてい ます。とくに自給自足というかたちで 農業をしてみたいという人がたくさん います。 佐渡には自家製の醤油がないで、調 味料も自給できるようにということで、 醤油造りを始めました(図⑨) 。非常に おいしいものができています。このよ うなところからも、自然や地域への考 え方は深まっていくのだろうと思って います。 佐渡では有機農産物の割合が低いの ですが、農薬を使わない有機栽培で大 豆を作り、その有機大豆で味噌作りに 図⑩

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なりません。生産者、消費者、トキ、 生きもののお互いの暮らしを思いやる ということが、共に暮らすということ だろうと思っています。 佐渡は世界農業遺産に登録されまし た。農家としてはどういう思いなのか といいますと、 さきほど井上さんは 「お

はもっともっと認識するべきです。農 業があることによって、佐渡のきれい な風景、自然が守られているのだとい う誇りを農業者は持っていくべきです。 佐渡に暮らすことが伝統文化を継承し て、地域活性化になるということへの 自覚も必要なのだろうと思います。そ して、具体的には「朱鷺と暮らす郷認 証米」の取り組みをいかに発展させる かといことが私たちの使命の一つとし てあります。 「朱鷺と暮らす郷認証米」が10作 目になるということで、一つのプロジ ェクトを進めています。この写真は2 年前に栃木県の小山市で撮影したもの で、田んぼにトキが描かれていました (図⑯) 。これを見て、何で佐渡ででき なかったのだろうと悔しい思いをしま した。田んぼアートはお金が掛かるも のなので、後押しをしてくれるところ がないとなかなかできない事業です。 今年になってやっと田んぼにトキを描

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金は後から付いてくるもの」という言 い方をされましたけれど、経済的効果 が出てくるということの前に、心の豊 かさを持ちながら農業を続けていくこ とが大事ではないかと思っています (図⑮) 。 農業があることで生物多様性 が維持されているということを農業者 図⑮

図⑯


農業につなげていきたいと考えていま す。 農業の6次化の一つの例として、自 然栽培で作ったお米でお酒を作って販 売しています(図⑫) 。無農薬・無化学 肥料栽培のお米で作ったお酒とともに 人気が高くて、自然栽培のお酒である

「上弦の月」は9月の上弦の月の日に 販売して、約1週間で約3000本が 売り切れるという人気ぶりになってい ます。消費者の方々もいいものを求め るという傾向がありますので、そのあ たりにターゲットを絞っていくという ことが大事だと思っています。

図⑬

図⑭

生物多様性農業というのはなかなか わかりにくい言葉だと思いますが、こ れを私なりに解釈をしてみました(図 ⑬) 。 有機農業と生物多様性農業とは若 干異なります。生物多様性農業は、有 機栽培だけではなくて、化学肥料を使 った減農薬栽培も含んでもいいと思い ますし、自然栽培も含まれる幅広い内 容のものです。ただし、生きものへの まなざしがなければなりません。生き ものを育み、地域の風景を創造してい くという視点があるということで作ら れたものが生物多様性農業です。地域 全体、産地全体として取り組むことが できるものであって、その結果として 郷土愛が形成されます。 トキと暮らすとはどのようなことな のだろうかと、 ずっと考えてきました。 共に暮らすにはやはり我慢が必要です (図⑭) 。 家族で暮らすのでも我慢が必 要です。トキと暮らすためには、10 0パーセント人間優先や効率優先には

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図①

ていただいています。佐渡では再生可 能エネルギーの導入についていろいろ な試験的な試みをしています。本日は 事例紹介ということで、どのようなこ とをしているのかお話させていただき ます。 最初に少しだけ会社の説明をします。 昭和シェル石油グループは、 ガソリン、 灯油、重油など主に油を販売している 会社ですが、石油製品の需要が低下し ているということもあって、10年ほ ど前に、エネルギーソリューション事 業を第二の事業の柱にしようというこ

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くことができるようになりました。田 んぼアートの効果はいろいろあります。 観光資源として活用したり、都会との 交流人口を増やしたり、佐渡はすばら しいところであるという地域の意識を 強めてモチベーションを上げていくと いう効果もあると思います。そして、 田んぼアートの一つの大きな目的は田

んぼに人々を呼び戻すことです (図⑰) 。 田んぼからお米だとかお酒だとかの米 文化を発信して、田んぼにきてくださ った方に受け止めていただいて、お米 は大切なものなのだということを知っ ていただきたいと思います。 そのような思いで田んぼアートに取 り組み、約120人の方々に集まって

図⑰

いただいて5月13日に田植えをしま した。今年の完成予想図です。鷺に間 違えられないようにトキが絵として浮 かび上がってくれたらいいと思ってい ます。秋にはぜひ見にきていただきた いと思います。

齊藤 (司会) ありがとうございまし た。佐渡のなかで循環型の農業、生物 多様性農業の非常に先進的な取り組み についてのお話をしていただきました。 それでは、最後になりますが、東京 大学IR3Sの松岡さんにお願いしま す。

エネルギーの地産地消に向けて

――佐渡のエネルギー自立を目指して

松岡 私は昭和シェル石油株式会社 というガソリンその他の石油製品を販 売している会社に勤め、4年前から東 京大学IR3Sに出向し、研究をさせ

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図②

図③ 65


とになり、主に太陽電池事業と電力販 売事業の拡大を進めているところです。 そのなかでも太陽電池事業について は、弊社は40年ほど前のオイルショ ックのころから研究開発を続けていま す。よくある太陽電池とは違って、弊 社の場合は、CIS薄膜太陽電池の技 術を30年間ほど研究して事業化を行 い、100パーセント子会社のソーラ ーフロンティアという会社を設立して、 パネルの製造販売を行っています。こ の電池の特徴は、実際の発電量が多い ということで好評をいただいているの に加えて、見た目が真っ黒で非常にス タイリッシュで、周囲の景観に調和し やすいということがあります。 弊社の今年までの『中期経営アクシ ョンプラン』においても、石油製品の 販売から、エネルギーソリューショ ン・プロバイダへと転換していくとい う意思をはっきりと表明しています (図①) 。 再生可能エネルギーを導入し たいけれど、どのように入れたらいい のだろうかと検討をしているお客さま に、このようなソリューションがあり ますと提供できるような会社になりた いと考えています。 そういった意味で、 佐渡において再生可能エネルギーの導 入に取り組んでいくことは、われわれ にとって非常に重要な経験になるとと もに、今後の日本のエネルギーの使い 方についていろいろな知見が得られる ことになるのではないかと考えていま す。 まだ少しずつですけれども、再生可 能エネルギーを導入した事例がありま す(図②) 。南相馬市では、イチゴを栽 培するグリーンハウスに太陽光パネル を付けて、高付加価値の農業を行うこ とに加えて、太陽光発電で得られる売 電収益によって、収益性が高くて持続 性が高い施設園芸モデルができないか ということに取り組んでいます。川崎 市には、日本でも有数規模のバイオマ

スの発電所があります。ここで燃やし ているペレットは実は海外製なので、 いずれは日本のものを使って地産地消 にしていきたいと考えています。 また、 太陽光発電パネルはかなり機械的な部 分が多いので、景観に調和させようと いうことで、木製の架台を使うことも 試みています。 2007年から昭和シェル石油は東 京大学IR3Sと共同研究をやらせて いただき、もう10年になります(図 ③) 。 今後は石油製品の需要が下がって いくだろうということで、弊社も再生 可能エネルギーを含めたクリーンなエ ネルギーの供給を進めていきたいとい うことで、先生方のお知恵をいただき ながら研究に取り組んでいます。シン ポジウムを開催したり、タイ、ベトナ ムのようなアジア地域での低炭素シナ リオを構築したりしています。昭和シ ェル石油の前身の昭和石油は新潟が発 祥の地ということがあって、新潟を中

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になっています。また、左下のグラフ を見ると、重油やガソリンの使用量が 多くなっています。そのあたりの使用 量を減らしていくことと、発電につい

さらに、家庭での省エネルギー技術を 普及させて、化石燃料の使用量を減ら していくことで、将来的には佐渡のエ ネルギーが自立していくようなシナリ オが作れないだろうかと考えています。 化石燃料を減らす一番のメリットは、 島外に出ていっているエネルギーのコ ストを減らせることです(図⑤) 。化石 燃料は、やはり域外、それも日本でな くて中東などの海外から持ってくるわ けですから、非常に安い燃料を買って きたとしても、それを調達するお金は 島外に出ていってしまいます。島内で 再生可能エネルギーを導入すれば、島 外に出ていっていたエネルギーのため のお金は島内にとどまります。島内で お金が循環すれば島内の経済の基盤強 化や発展につなげていけるのではない でしょうか。島外からなら安くたとえ ば100円で買えて、島内で買おうと すると少し高くて110円であっても、 100円が島外に出ていくよりは、島

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ては自然エネルギー、いわゆる再生可 能エネルギーの使用割合を増やしてい くことで、佐渡の低炭素化につながっ ていくのではないかと考えています。 図⑤


図④

心にして再生可能エネルギーを導入す る試験的な取り組みをしていて、その 流れで佐渡での取り組みをさせていた だいているところです。 私から皆さんに向かって佐渡のお話 をするのも変な感じがしますが、私か ら見た佐渡のエネルギー事情について 少しだけお話をさせていただきます (図④) 。佐渡の一番の特徴は、本州と は電力のケーブルでつながっていない ということです。そのため、島にある 東北電力の火力発電所で電気を作って います。右下のグラフにあるように電 気の99パーセントは重油を燃やして 発電している状況です。石油製品は船 で運ぶ分高価になってしまうのですが、 電力料金に関しては、ユニバーサルサ ービスですので、東北電力管内は佐渡 も含めて同じ料金になっています。 佐渡には大きなエネルギーを使う工 場などが少ないことから、家庭・民生 部門での使用量が多いというのが特徴

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少し増やせば100パーセント行くで しょうという話をさせていただいて、 尾畑酒造さんは20キロワットを増設 され、現在ではほぼ100パーセント まで達成されています。旧西三川小学 校のプールのところに10キロワット を置き、そしてグランドの端の方に2 0キロワットのパネルを設置していま すので、近くにこられることがありま したら、太陽光パネルってこんなもの だというのを見ていただければと思い ます。 二つ目は、鷲崎で太陽光発電と農作 物のコハーベスト、つまり、農地で作 物を栽培しながら、その上に太陽光パ ネルを設置して電気を売るということ をしています。こちらでは2014年 からいろいろやらせていただいていて、 農地の上に太陽光パネルを載せるには いろいろな制約もあったのですが、2 015年に耕作者さんと土地所有者さ んによる一般社団法人「鷲崎から始め

る佐渡を育てる会」というのを作って いただきました。10キロワットの太 陽光パネルを設置していろいろデータ を取ることをさせていただいています。 こちらの問題としては、パネルを設 置することでパネルの下の作物の収量 が低下してしまうのなら、パネルを撤 去しなければいけないということにな ります。どのような作物をどのように 作ればいいのかというデータが意外と 少ないこともあって、データをどんど ん取っているとことです。やってみた いと思う方にはこのノウハウをお伝え して、島内に展開していきたいと考え ています。こちらもお近くに行かれた 際にはぜひご覧いただければと思いま す。こういったものが地域活性化の一 つの拠点になったりするといいですし、 売電収入を原資にしていろいろな活動 をしていただくのもよろしいかと思い ます。パネルのまわりでいろいろな人 が集まるイベントを行って地域おこし

ということにも貢献できればと考えて います。 三つ目は、岩首で、こちらはまだ計 画段階なのですが、棚田地域で使って いる草刈り機の電動化を目指していま す。展望台の屋根に太陽光パネルを張 って、その下に充電ステーションを設 置して、その電気で草刈をしていただ くということを考えているのです。再 生可能エネルギーを使って農作業をす るということが、農産物の付加価値向 上に貢献でるかもしれません。そうい ったところで少しデータを取って、皆 さんと検討させていただきたいと思っ ています。 四つ目は省エネルギーで、こちらは 佐和田中学校の入り口にゼロエネルギ ーハウスを建てて、今年の4月から本 格的に稼働しています。太陽光パネル と蓄電池をセットにして、最新の断熱 技術を使って、比較的寒冷な佐渡でも エネルギー収支がゼロの快適な家が作

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図⑥

内で110円が循環するのならば、い ずれは隣の人や自分のところに110 円が帰ってくるということになります から、そちらの方が島内の経済を考え れば有効であると言えます。 とはいえ、どのような形で再生可能 エネルギーを導入していったらいいの かということではいろいろ難しいとこ ろもあって、いまいくつか試験的な取 り組みを行っているところです (図⑥) 。 一つは、先ほど尾畑さんからもお話 がありましたように、尾畑酒造さんと の共同研究です。こちらでは2014 年に、最初に10キロワットぐらいの パネルを付けるとどのようになるのか というシミュレーションを行い、必要 な電力の20パーセントぐらいをまか なえるだろうということになりました。 2015年に学校蔵に実際にパネルを 付けて稼働が始まり、データを取った 結果、43パーセントぐらいがまかな えるということがわかりました。もう

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ころにエネルギーのグリッドが作れな いだろうかと、引き続き佐渡市役所さ んのご協力をいただきながら検討を進 めていきたいと考えています。 最後になりますが、佐渡市の環境対 策課の皆さんや、共同研究でご協力い ただいている皆さんにお礼を申し上げ て、私の報告を終わらせていただきま す。

齊藤 (司会) どうもありがとうござ いました。佐渡での多様なプロジェク トについてわかりやすくご紹介いただ きました。 ここで休憩を入れさせていただきま す。その間に、フロアの皆さまには、 できるだけ質問用紙にご記入いただい て、事務局の方にご提出をお願いしま す。パネルディスカッションのなかで 取り上げていきたいと思いますのでよ ろしくお願いします。

トキは何羽まで増えていくのか 齊藤 (司会) それではパネルセッシ ョンを再開します。パネリストの皆さ んに、フロアからの質問も交えて、私 からお尋ねしつつ進めさせていただき たいと思いますのでよろしくお願いし ます。 最初に佐藤さんに伺います。ご報告 のなかでトキの野生復帰の目標の数が 220羽ということでしたが、その数 字には何か理由があるのでしょうか。 佐藤 いろいろなシミュレーション をして、2020年ごろにだいたい2 20羽ぐらいになっていればいいので はないかということで決まったもので す。 齊藤 (司会) 220羽ぐらいであれ ば、佐渡島が受け入れられる許容能力 とバランスするということでしょうか。

それとも、いまのペースで放鳥してい くと220羽になるということでしょ うか。

佐藤 どちらも含めての数字です。

齊藤(司会) それと関連するな質問 をフロアからいただいています。「佐渡 にもいくつか限界集落というような言 い方をされるところがあり、そこにも トキが生息しています。今後、220 羽のトキの餌がまかないきれるのでし ょうか」という質問です。

佐藤 いまトキの餌が足りないとい うような状況は見受けられていません。 認証米をはじめとする環境整備のおか げで、島内には生物多様性が豊かな環 境ができていて、まだ余裕があるので はないかという見方をしています。2 20羽は大丈夫であると考えています が、佐渡の環境収容力としてトキが

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れるのだということを実証していこう としています。温水器などもこれから 加えていく予定です。モニターの画面

で太陽光パネルの発電の状況や蓄電池 の状況などが見られるようになってい て、見学自由となっていますので、こ

図⑦

ちらの方もぜひ立ち寄って見ていただ ければと思っています。 そして五つ目は、エネルギーという のはインフラでありますから、 10年、 20年、30年先を見通してエネルギ ーの計画は作っていくべきものです。 その点で、若い方に再生可能エネルギ ーを知っていただきたいということで、 新潟県立佐渡高等学校に太陽光パネル を設置させていただきました。去年の 夏から稼働をして、自然科学部の顧問 の先生と生徒さんを中心にして発電デ ータを取っていただき、文化祭での活 動報告をしたり、学級新聞に記事を載 せていただいたりしています。 以上のように、また少しずつなので すが、再生可能エネルギーを佐渡の中 に導入しているところで、いずれは五 つの点から面展開ができるようにして、 地域のエネルギー自立を目指していけ たらと思っています(図⑦) 。将来的に は、中心部から遠い小規模な集落のと

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では、トキにとっては水辺の生きもの が大切なので、無農薬無化学肥料とい うだけで生きものを育む農法といって いいのだろうかという指摘もあったと 記憶しています。

齊藤 (司会) その点について齋藤さ んから何か追加がありましたらお願い します。 齋藤(真) 都会の方々、消費者の方々 から、「佐渡のお米は農薬を使っていな いのですよね」ということをよく言わ れます。トキ米イコール無農薬米とい うイメージがあるのです。それで無農 薬栽培をぜひ生きものを育む農法に入 れてもらいたいと思っていました。 いろいろな調査で、無農薬栽培の田 んぼの方が、農薬を8割減らした田ん ぼに比べて、生き物の量が多いという 結果も出ていると聞いています。無農 薬で稲を作ることで、生き物をちゃん

と育む効果が高くなるのです。そうい うことで、無農薬栽培をもっと取り入 れるべきだと思っています。お米の値 段はいま非常に安くなってきていて、 経費も取れないような価格になりつつ あります。収入を上げるための一つの 選択肢として、農家の負担はかなり大 きなものになりますが、無農薬とか自 然栽培に取り組むことにはメリットが あると思います。

学校蔵から生まれるもの 齊藤 (司会) 尾畑さんに伺います。 学校蔵での1週間の学びに参加される のはどのような方々なのでしょうか。 尾畑 今年で3年目になりますが、参 加してくださったは最初の年は2チー ム、次が4チームで、今年も4チーム です。一つのチームが3人から5人で す。年齢に関しては、20代から60

代ぐらいまでいろいろです。資格とか は問うていません。日本酒のファンの 方もいらっしゃれば、雑誌の編集者も いらっしゃいましたし、うちとコラボ している企業さんからこられたり、他 の酒造業界の方々がこられたりとかさ まざまです。自分たちとは違った作り 方を体験したいというお気持ちからこ られた人もいます。海外からも昨年は お二人いらっしゃいましたし、今年も いらっしゃいます。大変に多種多様な 方々がお見えになっています。

齊藤 (司会) 1週間も一緒に過ごす と参加者どうし横のつながりのような ものも出てくるかと思うのですが、学 校蔵での学びが終わった後での交流の ようなものはあるのでしょうか。

尾畑 ある種同じ卒業生としてのつ ながりを保っていきたいなと思ってい ます。それをどのようなかたちにした

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どれぐらいまで棲めるのかということ は、 まさにいま検討している段階です。

齊藤 (司会) 2017年度から農法 が一つ加わって五つになったわけです が、この点は農家さんにとってどうな のでしょうか。

認証米制度を巡って 齊藤 (司会) 西牧さんに伺います。 朱鷺と暮らす郷認証制度に関して、水 田面積と農家数の推移の表がありまし たが、数値が近年は頭打ちといいます か横ばいになっています。これはある 程度飽和するまでに達したためなのか、 それとも認証を受けるための要件が追 加されたりして大変になったためなの か、どうなのでしょうか。

西牧 新たに加わったのは無農薬無 化学肥料栽培ですが、佐渡ではたぶん 30ヘクタールぐらいしかやっていま せん。これは非常に手間がかかるもの なのでなかなか広がっていきません。 無農薬無化学肥料栽培を生きものを育 む農法に加えるかどうかの議論のなか

結構減らしているのがふゆみずたんぼ (冬期湛水)です。2012年をピー クにして、13年には100クタール ぐらい減っています。冬期湛水が農業 に及ぼすデメリットのようなものが出 てきて、少し休んでみようかというこ とがあるのではないかなと私は見てい ます。一方で、江(深み)の設置とい う農法は順調に少しずつ増えています。

西牧 たぶんさまざまな要因がある と思います。農家数については、離農 される方が増えて農業の担い手が減っ ていたりとか、規模集積が進んでいる ことがあります。 生きものを育む農法はこれまでは四 つあって、その内訳を見ると、面積を

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はないかと思っています。力の量とか 熱量とか方向性とか、そういうものが 大きい目の化学反応が起こっているの です。私自身も特別授業に関わること で化学反応が起きています。それが楽 しくて続けているのです。

齊藤 (司会) 佐渡島のなかで何か新 しいアクションとして現れてきている ものがあるでしょうか。 尾畑 いま具体的にこういうアクシ ョンがあるということではないのです が、佐渡は現在人口減少が進み、毎年 1200人ずつ減っていて、このまま だとあと数十年でゼロになってしまい ます。それはあくまでもこのまま進め ばということで、どこかで誰かが何か のアクションを始めれば未来の予想図 は変わっていきます。そういうことに 向けての新しい出合いを作っていけた らと考えているのです。

島のポテンシャルと将来 齊藤 (司会) では齋藤さんに伺いま す。循環型の農業として、酒粕や牡蠣 殻を肥料に使う試みを紹介されていま したが、いま島内で使っている肥料の どれぐらいをまかなえるのか、感覚的 な見込みでいいのですが、おわかりに なるでしょうか。 齋藤 (真) 籾殻は田んぼ1反あたり から100キロぐらい生じます。それ を発酵させたものをもとの田んぼにも どして、肥料が全部まかなえるかとい うと、たぶんまかなえません。籾殻は 肥料の一部を補完する程度です。いま 実際に有機農業をしたいという人だけ の分であれば、佐渡で取れる籾殻で十 分に循環型の農業ができます。 牡蠣殻の潜在的な能力がどれぐらい あるかはちょっとわかりません。いま はとにかく山のように牡蠣殻が残って

います。消費者の方々が家庭菜園でも 牡蠣殻が有効であるということを理解 して使っていただければ、ホームセン ターでも販売するようになって普及し ていくと思っています。いまは普及さ せるための宣伝が必要な段階です。 酒粕は捨てるのはもったいなくて、 果物やお米に使って非常にいいもので す。廃棄してしまうようなものがちゃ んと資源になるという意識をもつこと が大切だと思っています。月桂冠は酒 粕を肥料とした循環型の米作りをして 京都環境省を受賞していますので、そ うした先進的な事例を勉強しながら佐 渡でも取り組んでいきたいと考えてい ます。

齊藤 (司会) もう一点伺います。新 たな風ということで、UターンとかI ターンとかで若手の自給自足を目指す 農家さんが出てきているということを 紹介されましたが、これまでの専業

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らいいのかいま考えているところです。 それと同じぐらい大事かなと思ってい るのは、いらっしゃった方と佐渡の人 のつながりです。学校蔵にこられた方 には、空いた時間に佐渡のいろいろな ところを巡って、佐渡の人たちと出会 っていろいろな交流をもっていただき たいと思っています。そして佐渡にま た来ようと思ったときに、学校蔵の卒 業生同士で会うということも大事なの ですが、佐渡で出会った人にまた会い たいと思ってくださるということがと ても大切だと思っています。そのよう な交流がこの後どのように発展してい くのか楽しみにしているところです。

齊藤 (司会) 特別授業についても伺 います。対象者に高校生や大学生も含 んでいるようですが、高校生というの は地元の高校生たちですか。 尾畑 佐渡高校の生徒さんには特別

授業で発表していただきましたが、他 の高校の方もご参加いただけます。特 別授業は年齢制限はないので、何歳の 方でもOKです。今年は16歳から7 4歳で、正確にいうと子連れの方がい らっしゃるので2歳から74歳までが 参加される予定です。島内の方と島外 の方は半々ずつぐらいでしょうか。メ ディアの方も取材ではなくて授業を受 けにこられます。 醸造企業の役員さん、 留学生の方、大学生などいろいろな方 が新潟や東京やさまざまなところから いらっしゃいます。

齊藤 (司会) 特別授業のプロダクト として何かできてくるものがあるので しょうか。 尾畑 本としては『学校蔵の特別授業 佐渡から考える島国ニッポンの未来』 というのが日経BP社から出ています。 そのような目に見えるかたちのプロダ

クトだけではないものがあると思って います。 特別授業はその場で答えを出すため の授業ではありません。ここに集まっ てこられる方には、結構面倒くさい申 し込みフォームにいろいろと書いてい ただいているのですが、ご自分のなか に何かしらの疑問を抱えていて、前に 進みたい、何かしらのアクションを起 こそうとしている人がほとんどです。 そういう人たちに何かしらヒントが生 まれるようなことがあればいいのでは ないかと思っています。何か気づきの ようなものを得て、学校を出たときに アクションを起こそうと思ってもらえ たら、いい授業だったということにな ります。 自分とはかなり違う人たちと意見を 交わしたりすると、そこで化学反応が 起きます。いろいろな場で化学反応は 起きているのですが、この特別授業で 起きる化学反応はかなり大き目なので

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くないという人もいます。人によって 考えは違うわけですから、我慢のし合 いみたいなこともあるかと思います。

太陽光発電と島 齊藤 (司会)□松岡さんに伺います。 ソーラーシェアリングでは、ソーラー パネルの下に具体的にどういうものを 植えて、どういう実験が進んでいるの でしょうか。 松岡 ソーラーシェアリングに関し てはまだデータがそろっていません。 いまのところ、特別に変わったソーラ ーシェアリング用の作物を作るのでは なくて、よくある普通に作られる野菜 を作ろうということで、農家の方に計 画していただいています。実際に植え ているのはネギとサツマイモです。こ の二つを実際に植えて、生育の様子を いま見ているところで、もうしばらく

したらご報告できるのではないかと思 っています。

齊藤 (司会) その実験に高校生も入 ってくるのですか。 松岡 高校生にいましていただいて いるのは、佐渡高校に設置されている パネルと佐和田に設置されているパネ ルのデータの比較です。使っているパ ネルのタイプが異なり、場所によって 日照とか温度の状況も多少違います。 そういったところを高校生の皆さんに 練習がてら見ていただいています。 齊藤 (司会) 西牧さんのところでも 高校生を巻き込んだ農業の取り組みが ありますが、今後より広い連携を考え ていたりするのでしょうか。 松岡 いまはまだ具体的なプランは ないのですが、何かしら連携できると

ころあれば、さきほどおっしゃってい た化学反応のようなことも起こると思 いますので、今後検討してみたいと思 っています。

一番苦労したこと

齊藤 (司会) これで一巡しましたの で、これからは皆さまに共通する質問 をさせていただきますので、佐藤さん から順にお答えいただければと思いま す。一つ目の質問は、これまでの取り 組みで一番苦労したのはどのようなこ とで、それをどのようにして乗り越え たのでしょうか。

佐藤 苦労したことは何かと尋ねら れると、ちょっと困るかなというのが 正直な感想です。外から佐渡にきた私 からすると、認証米の取り組みなどの おかげで、トキが当たり前に見られる まで増えていて、すでに素晴らしい環

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農家とは違うスタイルの新しい農家像 を作っていくようになるのでしょうか。

齋藤 (真) 人によって違いがあると 思います。私の知り得るところでは、 Iターンの方々は大規模農業を目指す のではなくて、自分のこだわりのある ものを自分で作って自分で販売する、 自給自足的なスタイルで生活していき たいという傾向が強いと思います。さ きほど説明を省きましたが、 「小農」と いう言い方が最近あって、それは農家 の規模が大きいとか小さいとかではな く、利潤だけを追求するのではないと いう意味で「小」だという農業です。 規模の大きな農家でも、利潤だけを追 求するのではなくて、環境を育む、地 域を育むという理念をもっていれば、 「小農」という言い方ができます。そ のような利潤だけではないという思い が強いのがいまのIターン、 Uターン、 孫ターンの方々なのかと思っています。

佐渡でも、大規模農家だけになって しまっては、たぶん地域は守っていけ ません。小さい農家も点在しているこ とがいいのだろうと思います。ただし 小さい農家は、 農業プラスアルファで、 牡蠣を獲るとか、自宅でネットを通じ て情報発信をするとか、農家民宿をす るとか、農業以外の付加価値を生み出 していかないと、なかなか維持するの は難しいと思います。

齊藤 (司会) 齋藤さんのご発表で非 常に印象的だったのが、トキと暮らす には我慢が必要だと明確に書かれてい たことです。 Uターン、 Iターンの方々 の将来像を見据えたときにも、やはり 我慢というものが重要になってくるで しょうか。

齋藤 (真) 一番にくるのが経済的な 我慢です。それから人との関係での我 慢です。有機農業のようなことはした

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生物多様性のような理念を置き去りに してきたのではないかということを感 じて、これからは、生物多様性や地域 づくりといった取り組みについて、何 か重点項目を決めてやっていかなけれ ばいけないと考えました。これからい ろいろ苦労することがいっぱいあるだ ろうと思っています。生物多様性の認 知度は全国平均では4割ぐらいで、佐 渡では去年の調査で78パーセントの 人に認知されているということでした から、生物多様性を活かした地域づく りにみがきをかけていくような活動を 具体的に進められたらと思っていると ころです。

前向きに楽しく 尾畑 苦労したことは何かというと、 多すぎて思い出せないくらいなのです が、そう言ってしまっては答えになら ないので、質問を少し変えさせていた

だいて、学校蔵を進めるに当たって、 結果として前向きにやってこられたポ イントは何であったのかということを 申し上げたいと思います。 日本全国に廃校になった学校がたく さんあり、まだまだ増えていきます。 廃校の活用は各地で課題になっていま すが、なかなかうまくいっていないと 聞きます。そういうなかで学校蔵は面 白い例だとしていろいろな方が見にき てくださり、「どうしてうまくできたの ですか」と聞かれて、考えたことがあ ります。 われわれは廃校をどうにかしようと 思って活動しているわけではなく、地 域活性化でいいことをやろうと思って 取り組んでいるわけでもありません。 学校が、あの場所がすてきだと思った のがスタートなのです。言い方を少し 変えると、われわれにとってあそこは 廃校だから何かをしなければというこ とではないのです。廃校を何とかしな

ければと思ったら、なかなかいいアイ ディアは出てこないと思いもします。 学校蔵がうまく回っているとしたら、 たぶんお酒を生産するという経済活動 を行っているからなのでしょう。廃校 を活用しようとしてそこでイベントを 行っているだけですと、管理する方も たぶんご苦労が多いのではないかと思 います。学校蔵は基本的にお酒を造る 場所、経済活動の場として捉えていま すので、そこが前向きに今まで続けて きて、これからも続けていこうと思え るポイントではないかと思います。

齋藤 (真) あまり苦労したという思 いはなく、楽しかったという思い出し かありません。苦しいとき、困ったよ うなときには必ず何か神風が吹いて、 「時の運」といいますけれど、それこ そトキがすべて解決してくれたのかな と思っています。 そのなかでもあえて苦労したような

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境ができていると感じているためです。 一方、それが当たり前になりすぎてい るようにも思います。 ただ、トキが増えてきて、稲踏みの 被害の相談を受けることが多くなった ということはあります。もともとトキ が絶滅したころには、稲を踏み荒らし てしまう害鳥だといわれていて、むし ろ嫌われて追い込まれたり、駆除され たりしたことがあったようです。私も 佐渡にきて、実際に田植えをさせてい ただいたり、稲踏みの現場を見せてい ただいたりして、農家さんが一本一本 大事に植えた稲をトキが踏んでしまう というのは心苦しく感じています。き っと踏むのはトキだけではないのです が、トキも踏んでいると思います。先 日も、結構広く稲が踏まれてしまった ような状況を見ています。踏まれて収 量がどれだけ減ったかということより も、大事に植えた稲が踏まれてしまう というのは、やはり心情として嫌なも のがあるのだろうと思います。踏まれ ると植え直すことになるのですが、も う一度田植えをするというのはなかな か大変な作業で、あまりおおっぴらに は出てきてはいませんが、不満のよう なものはあると思います。 一方で、齋藤真一郎さんのように、 多少の我慢はしながらも、トキがいて くれてありがたいと言ってくださる方 もいらっしゃいます。トキの味方にな ってくださる方がかなり増えてきつつ あると思える一方で、島内でもまだ野 生のトキを見たことがないとおっしゃ る方もいて、トキに対する意識にかな りの違いがあります。そのあたりを今 後どのように変えていくのか、課題は 多いと思っています。いま述べた稲踏 みにどのように対応していくのかとい うことも含めて、これからもっとトキ が増えたときに、トキなんかいなけれ ばいいのにと言われないように持って いかないと、持続可能というところに

はいきません。今後もっともっと苦労 していくことになるのではないかと思 っています。

西牧 私が農業政策課に配属になっ たのは2010年で、認証制度は20 08年に立ち上がっていましたから、 たぶん一番苦労したであろう時期に私 は関わっていないのです。2011年 ぐらいから本格的にお米のセールスを 担当させていただきましたが、そのと きにすでにいろいろな販路が広がって いましたので、やはり最初の苦労とい うのをしていないのです。波に乗って きたものをどう維持し、それ以上のと ころにどう乗せるのかということを一 生懸命に考えて、お米をどうやって売 るのかという視点でいろいろなプロモ ーション活動を行ってきました。 去年あたりに少し振り返ってみて、 お米を売るというところに特化しすぎ て、佐渡がこれまでに築き上げてきた

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て、どうやって農家の実際の仕事に落 とし込んでいくのかというのが大変だ ったとご経験を紹介していただきまし たが、こういう研究があると自分がい まやっている取り組みをさらに進めて いく上でいいのだがといったような、 「学」に対しての要望なり意見・コメ ントがあればお願いしたいと思います。

西牧 「学」への要望ということにな るのかどうかわからないのですが、お 米を売っていくなかで、消費者の消費 動向を見ていると、お米を食べること の価値をどう伝えたらいいのかという ところで限界のようなものを感じてい ます。食育といいますか、学校教育と の連携が大切になっているのではない かと思っています。 持続可能な地域づくりは、今後の非 常に大事な課題です。小学校から高校 まで教育プログラムのなかに、わかり やすいかたちで、落とし込んでいくと

いうことが求められていくのではない かと、私の個人的な意見ですが思って います。 もう一つ、佐渡にある自然エネルギ ーは太陽光だけではありません。佐渡 の七割は森林で、新潟県の竹林面積の 51パーセントが佐渡にあります。そ の竹林が荒れ放題になっています。竹 林のバイオマス利用を考えたいところ なのですが、竹を運ぼうとすると、か さばって空気を運んでいるみたいなこ とになって、運送コストがかかって採 算が合わなくなります。すぐ裏から竹 を切ってきてビニールハウスで使うよ うなことができるといいのですが、竹 は燃焼効率が悪く、その点でもなかな か経済的に合いません。竹を燃やすボ イラーの開発も含めて、佐渡をモデル にして何かやれると面白いのではない かと思ったりします。

齋藤 (真) サステイナビリティとい

う言葉自体、ここにいる人はわかると 思いますが、一般の人に聞くとたぶん わからないでしょう。サステイナビリ ティの理解を広めていくということも やはり大事であろうと思っています。 いまバイオマスの話が出ましたけれ ど、佐渡にどのような資源がどれくら の量あるのかということは調査をして いても、なかなか現場に結び付いてこ ないというところがあります。費用対 効果の問題もあって、あまり高すぎる と現場では手が出せないということに なりますから、具体的にどうしたら実 際に現場でやれるのかという組み立て をぜひやっていただきたいと思います。

人の多様性から生まれるもの

尾畑 竹林の話がありましたが、島に あるもの、島で取れるものをいかに加 工して商品に仕立て上げるのか、そし ていかに付加価値を付けて出していく

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ことを挙げると、2000年ぐらいか ら農業の取り組みが始まって、島外か ら鳥の専門家だとか環境学者だとかが きて、環境だとか持続可能性だとかい ろいろな話をしてくださったのですが、 実はちっとも意味がわかりませんでし た。それをどう実行に移すのかという ことになってくると、顔はニコニコし ながらも、 「そんなのできない」って心 に思っていました。酒を飲みかわしな がら、 「うーん、どうするかなあ」って 語り合って、だんだんと一緒にやれる ようになって、結局は楽しかったとい うことになったのだと思います。 経済的な部分で困りそうになったこ ともありました。それでも、行政の方 で所得保障を組んでくださいましたの で、さほど困ったということにはなり ませんでした。認証米についても、農 家・農協・行政の三者が一体となって 取り組むことができました。そのどれ かが欠けてもできなかったと思います。 そのときのタイミングといいますか、 人と人との関係で、うまいことででき てしまったという思いがしています。 順風満帆という言い方はおかしいか もしれませんが、それに近いような楽 しいトキ野生復帰のこの15年間だっ たといまは思っています。

実際にやってみてわかること 松岡 私の方で苦労したことといま すと、一つは、制度面でいろいろと難 しさあるというのをやってみて初めて 知ったということでしょうか。たとえ ば先ほど少しお話したように、農地の 上に太陽光パネルを載せようとすると、 土地所有者と耕作者と発電設備の所有 者が同一でなければならないという制 約がありました。そのようなことは事 前に調べればわかることではあるので すが、実際に土地を利用させていただ こうとして、そう簡単ではないと知っ

たのでした。いろいろなことがあって 非常に勉強になりました。 あと一つは、発電、特に再生可能エ ネルギーの事業者になってくださる方 を見つけるのが簡単ではなかったこと です。やはりできれば佐渡の人に事業 者になっていただきたいのです。もち ろん昭和シェルが事業者になって発電 設備を作って売電収入を得るというこ とはできるのですが、それは決してわ れわれがやりたいことではないのです。 地域で再生可能エネルギーを必要とさ れている方に巡り会うプロセスが非常 に難しいということを体験したのが一 番の苦労といえば苦労した点かなと思 っています。

学問・ 教育への期待

齊藤 (司会) 次の質問に移ります。 さきほど齋藤さんから、研究者が島に きて話をしてくれてもよくわからなく

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生のモデルということになっています。 しかし、あと10年、20年で、いま 見えている佐渡の景色がガラッと変わ ってしまうこともあるのではないでし ょうか。 たぶんそれは佐渡だけの問題ではあ りません。日本全体で人口が減ってい くなかで、どうしたら持続可能に発展 できる地域社会づくりができるのか、 広い視野で考えていなければならない のだろうと思います。さらに、世界と のつながりも関わってくることにもな ると思います。そのような広く状況を 見据えた上で、また佐渡に戻って、現 場レベルで具体的に何ができるのかと いうことを考えて実践していくのだろ うと思います。 佐渡は日本の縮図というお話もあり ました。自然共生型社会として日本の 先進地である佐渡で問題解決のシナリ オを作成するといわれていることもあ ります。佐渡から日本の未来を拓いて いくようなことができたらいいのでは ないかと思っています。

社会的実装を目指す 齊藤 (司会) グローバルとローカル をつなぐと、言葉でいうのは簡単です けれども、本当にどうつないで、どの ようにして地域の特徴に合った形に落 とし込んでアクションに結び付けてい くのかというのは非常に重要な課題で す。サステイナビリティ学としても広 く議論していくべきことだと思います。 それではここでサステイナビリテ ィ・サイエンス・コンソーシアムの理 事長である仲上先生からもコメントを 頂戴したいと思います。 仲上 健一 い ま サ ス テ イ ナ ビ リ テ ィ・サイエンス・コンソーシアムがと くに目指しているのは社会的実装です。 今日基調講演をいただいた井上様の里

山資本主義に照らしみても、佐渡にお けるいろいろな活動は全国的に非常に すぐれたものだと感じています。佐渡 から日本の未来を拓いて行くというの は大事な視点であると思います。 それと同時に、佐渡の将来を考える と、佐藤様がいわれた人口減少に目を 向けないわけにはいきません。佐渡の 人口は1960年には11万人でした が、2015年の国勢調査では5・7 万人です。佐渡市の将来予測では、2 060年に2・5万人、2080年に は1・5万人と推測しています。一方 で、佐渡市の予算の地方交付税の依存 率は47・3パーセントで、全国的に はワーストエイトぐらいに入ります。 里山資本主義もありますけれど、現実 的には、人口減と財政依存度の厳しさ とがあるわけです。 サステイナビリティ学は、平たくい うと死なないための学問、生き残るた めの学問です。生きるためには、先ほ

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のかということが、経済的な部分から 見るととても大事です。そのときに意 外と、制度的な制約・規制がある場合 があります。お酒に関しても制約があ りますし、学校蔵でも規制の一つで我 慢していることがあります。そういっ た規制を上手に取り除きながら経済を 回していくということを、社会実験と して続けていきながら、その結果とし て持続可能な島づくりに結び付いてい くということになるのでしょう。つま り、持続可能な島づくりとは、どうい う経済活動ができるのか、あるいは生 活目線でどういうことが必要なのかを 考えて、 社会実験を繰り返すなかから、 島でのわれわれの暮らしが実際に持続 可能になっていくということだと思い ます。そのためには、交通、教育、医 療などさまざまなことをうまく回して いく必要があると思います。 高齢化というと、私たちは、高齢化 イコール結構やっかいなこと思いがち ですが、年を取るというのは決して悪 いことではありません。綺麗事として いうのではなくて、年齢が上がってい くことによって得られる知識や経験と いうものが実際にたくさんあります。 東京のような都会にはたくさんの人が いますけれど、似たような人同士が会 っていて、意外と多様な人とは会わな いものです。でもこういう小さな島で すと、多様な人と会う場が意外とつく りやすいのです。とはいうものの、町 を歩いている人がいなくて、多様な人 と会う機会はどんどん減っているとい う現実があります。学校蔵で特別授業 をすると、こんなにもいろいろな人が いっぺんに集まるのはなかなかないと 思ったりもします。佐渡ならではの多 様性とは、自然だけではありません。 人の多様性もあります。今日ここに集 まった研究者の方々も一緒になって、 いろいろな人の集まる場を作って、そ こから生み出される価値というものを

見いだしていくような経験をぜひ進め ていただければと思います。

佐渡から日本の未来を拓く

佐藤 持続可能性ということで感じ ていることを一つお話します。地域の 集落の方にいわれたことがあります。 「いまトキが増えてきて、トキのエサ 場がたくさんあって、トキにとってす ごくいい環境になってきた。これこそ が自然共生型の社会だと感じることも ある。でも、自分の集落でいまトキの エサ場として使われている農地を維持 しているのは、平均すると70代ぐら いの人で、あと10年もしたら、とて もじゃないけどいまと同じだけの農作 業をする体力が残っていない、そうな ったときにトキはどこに行くのだろう か」 。 そのように聞かれて、私は答えられ ませんでした。いま佐渡は自然との共

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若い世代の人たちを作っていかないと いけないと思っています。そういうこ とに頑張っていく10年間になること でしょう。

尾畑 私の友人にITですとか、いわ ゆる社会の最新のお仕事をしている人 たちがいます。いまを時めく華やかな 業界にいる人たちに、「やっと取れたお 休みで何をしたいですか?」って尋ね ると、 「田舎に行って、パソコンを使わ ないで、スマホも切って、ゆっくりし たい」とおっしゃいます。 「私たちの佐 渡はまさにそういう世界ですよ」とい う話をします。佐渡島は離島であった ために、中途半端に都会にならなくて よかったと思っています。10年後に も、佐渡にはお金では買えないものが ある、そういう場所であったらいいな と思っています。 10年後に向けてやってみたいと思 っているのは、 教育に関わることです。

10年後には、「佐渡には他では受けら れない教育を受けた子どもたちがいる んだよね」というような評判が世界中 に広まって、佐渡で子どもを育てたい と思う人たちが移ってくるようになっ たらいいと思っています。

西牧 私はいまの部署にきて8年目 です。10年いたとしたらということ を少し考えたことがあるのですが、こ れからは、やはり先程来お話をしてい る学校教育との連携が大切だと思って います。行政だけではなくて、いろい ろな主体が学校教育と連携しながら人 材を育てていくということがとても大 事になるのだろうと思います。 私は、小学5年生の総合学習に呼ば れて行くことがあるのですが、佐渡の 学校給食には週5日、朱鷺と暮らす郷 認証米が入っているということを私が 言いますと、生徒さんは初めて知ると いうような状況です。学校の先生はや

はり基本の授業でとても忙しいので、 佐渡について知るという点では私ども がバックアップする必要があると感じ ています。学校教育にどう関わってい けるのかというところを模索していき たいと思っています。そして、10年 後には、世界農業遺産や生物多様性の 認知度を100パーセントにしたいと 言いたいところですが、90パーセン トぐらいにまでしていくためにこれか らいろいろな取り組みを進めていきた いと思っています。

佐藤 今年がトキの放鳥からちょう ど10年目の年で、野生のトキがゼロ だったところから200羽まで増えま した。この先たぶん300羽近くまで 増えていくでしょう。ここまで増えて きたのはトキの生命力もありますけれ ど、それ以上に佐渡の方々のお力のお かげでトキと共生する社会が形作られ てきたからだと思います。

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ど尾畑様がいわれましたように、経済 活動に結び付けていかなければなりま せん。ビジネスモデルをどう成功させ るかということも含めて、そのための ビジョンを作って、社会的実装をして いくということが求められていると思 います。

齊藤 (司会) いまの仲上先生のお話 に関して何かコメントがありますか。 西牧 地方交付税の依存度の高さは 確かにご指摘の通りで、佐渡市が財政 的に厳しい状況に陥っていることは理 解しています。それでも持続可能な地 域づくりを進めていくなかで、生物多 様性の部分は確実によくなってきてい ます。最近はよくレジリエンスという ことがいわれていますが、時代の変化 に適応していく力を高めていくことが 必要であると思っています。佐渡をモ デルとしてサステイナビリティ学の研

究を進めていくということは実際にと ても大切なことであると思います。

これからの10年間にしたいこと 齊藤 (司会) では最後に、次の10 年間にどのようなことにしていきたい のか、今後に向けた抱負を一言ずつお っしゃっていただきたいと思います。 松岡 これからは、エネルギーとくに 電力については、自由化がどんどん進 む10年間になるでしょう。原発の再 稼働も含めていろいろな問題があるの で、大きな変化が出てくるのかもしれ ません。佐渡は離島で本州とつながっ ていません。大きな変化を一歩引いた 視点から見ることのできる地域である のかもしれません。そのような佐渡で あるからこそ、自分たちにとってエネ ルギーとはどういうものなのかという ことを、皆さんにぜひ考えていただき

たいと思います。私どもとしては、議 論をするための場を作りつつ、エネル ギーとはこういうものだと皆さんが手 で触れて知ることができるようなもの をどんどん提供していきたいと考えて います。 エネルギーは作ることが目的ではな く、 当然使っていただくべきものです。 エネルギーを使ういろいろな産業の方 といろいろな連携を深めて、将来、1 0年といわず、20年、30年後、5 0年後に佐渡はこのような姿になって いたらいいなと皆さんが思い描くこと にふさわしいエネルギー・システムは どのようなものなのかということを議 論していきたいと考えています。

齋藤 (真) 先ほどで、10年後に佐 渡の風景がガラッと変わっているとい う話がありました。農業もたぶん大き く変わっているしょう。そのなかで、 環境や生物多様性を考えて農業をする

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■閉会挨拶

ふくし けんすけ

福士謙介

とが世界に知れて、世界中から人が佐 渡に訪れて、そして尾畑酒造さんの真 野鶴で乾杯をして、人と人の輪をさら にさらに広がっていく、そのようなこ とができたらいいと思っています。 佐渡の研究は、今後もSSCのメン バーが続けて実施してまいります。同 時に、そのほかの地域への横展開とい うのもさまざまなところで進めていき たいと考えています。SSCでは、こ のようなシンポジウムを毎年行ってい ます。次回は違う地域での開催になる とは思いますが、今日ここにいらした 皆さま方にはぜひまた足を運んでいた

サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム理事 東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)教授

皆さま、長時間にわたり参加してい ただきまして大変ありがとうございま す。今日の基調講演、そしてパネルデ ィスカッションを伺って、いろいろな 分野に多様なタレントがいらっしゃる ということを再認識いたしました。 基本的には自給していく、地産地消 というのがサステイナビリティの基盤 です。それを出発点に、先ほど齋藤先 生がおっしゃった「佐渡モデル」を構 築して、日本のみならず世界中に広げ ていきたいと考えています。一番高度 に一番新しいことにチャレンジしてい るのがほかならぬ佐渡であるというこ

だいて、サステイナビリティに関する 論議に参加していただければと思いま す。 本日はどうもありがとうございまし た。

全体司会 ありがとうございました。 それではこれにて散会となります。

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この次の10年間は、トキだけでは なくて、自然環境全体との関わりであ ったり、いろいろな個別の部分であっ たり、さまざまなところで接点を持ち ながら、佐渡の活性化に力添えができ たらいいなと思います。おそらく10 年後には、佐渡から本州にトキがたく さん飛んでいっていることでしょう。 初めてトキがきた地域では、トキのた めに何をしたらいいのか、トキと暮ら すとはどういうことなのか、佐渡に見 習おうとする地域がたくさん増えてい くでしょう。それによって佐渡の魅力 が島外にもっともっと広がっていって、 佐渡もそれによってまたさらによくな っていくということがあったらいいの かなと思っています。 佐渡にきてすごく感じたのは、知り 合いの知り合いが親戚みたいなところ があって、佐渡のコミュニティ力だっ たり、団結力を生んでいるのではない かということです。それは離島ならで

はの特性なのではないかなと思います。 そこから生まれるパワフルな力が、こ の先ももっともっと続いて、佐渡の未 来をよくしていくと思います。私自身 は10年後にはおそらく佐渡にはいな いと思うのですが、どこに行っても佐 渡にずっとかかわって、大好きな佐渡 のためにできることを考えていきたい と思っています。

齊藤 (司会) ありがとうございまし た。それぞれご自身の経験に裏打ちさ れたかたちで、次の10年について非 常に前向きなお言葉を聞かせていただ いて、非常に励まされる気がします。 いくつか共通で出てきたキーワードと して、教育との連携強化、そして、い ろいろなものを多面的につなげて社会 的な多様な機能の底上げなどがあった かと思います。 小さいことでもいいから社会実験的 なことをして、学問的にもきちんと検

証しつつ前に進んでいく取り組みをし ていくことが重要だと思います。武内 教授の基調講演にもありました通り、 われわれの研究プロジェクトでは、自 然共生型の島づくりの佐渡モデルを、 これから3~4年かけて作っていこう としています。さまざまな方々にご支 援をいただきながら、進めていければ と思います。今日はそのための基盤と なるような貴重なお話、たくさんの示 唆をいただきました。これからも引き 続き皆さまともに将来ビジョンづくり を進めていきたいと思っています。 本日は、スピーカーの皆さん、それ からフロアの皆さま、本当にありがと うございました。

全体司会 パネリストの五名の皆さ まありがとうございました。 最後にSSCの理事で、東京大学I R3S教授の福士謙介より閉会のご挨 拶をさせていただきます。

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司会 それでは、サステイナビリテ ィ・サイエンス・コンソーシアム平成 29年度研究集会を始めます。 最初に、

■開会挨拶

仲上健一 なかがみ けんいち

サステイナビリティ・サイエンス・コ ンソーシアム理事長よりご挨拶申し上 げます。

ていただきます。 モデレーターをしていただきます武 内和彦IR3S機構長、伊藤哲司茨城 大学教授、そして取りまとめをしてい ただきます掛下知行大阪大学教授、な らびに報告者の先生方にお礼を申し上 げます。また本日の研究集会、および 明日のシンポジウム開催にご尽力をい ただきました三浦基裕佐渡市長様、佐 渡市役所関係者各位に厚くお礼を申し 上げます。

一般社団法人サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC)理事長

本日はサステイナビリティ・サイエ ンス・コンソーシアム(略称SSC) の平成29年度研究集会「人間の自然 観とサステイナビリティ」にご参加い ただきましてありがとうございます。 主催者を代表してご挨拶申し上げます。 今回の研究集会は、開催地の佐渡の 自然・歴史・文化を踏まえて、 「自然資 源の活用」 、そして「日本人・アジア人 にとっての自然」という魅力的な二つ のテーマで、最新の研究成果を報告し

本日午前中に実施しましたエクスカ ーションでは、史跡佐渡金山、トキの 森公園、世界農業遺産を見学させてい ただき、佐渡の自然・歴史・文化に触 れることができました。本日のテーマ にまさにふさわしい佐渡で開催される 研究集会が実り多いことを期待したい と思います。 持続可能な社会の実現は、21世紀 の地球環境と人類社会の存続に関わる 重要な課題です。この課題に果敢に挑 戦しようとする俯瞰的で超学際的な学 術体系がサステイナビリティ学であり、 さまざまな試みがこの佐渡において実 践されています。 サステイナビリティ学連携研究機構 (IR3S)は2005年度から20 09年度までの5年間、科学学技術振 興調整費戦略的研究拠点育成事業によ り、この分野をリードする日本の大 学・研究機関が強固なネットワークを 形成し、地球・社会・人間の各システ

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研究集会報告 平成29年度

サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム研究集会

人間の自然観と サステイナビリティ

平成 29 年度のサステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC) の研究集会は佐渡島で開催された。佐渡島は自然と人間社会が共生する社会 を目指している。トキの自然繁殖に成功し,世界農業遺産に認定され,トキ 認証米等の実例があり,さらに再生可能エネルギー活用やエコツーリズムの 推進など自然資源を活用した社会の活性化を進めている。今回の研究集会で は,佐渡島のそうした先進的な取り組みを背景として,日本人やアジア人が どのように自然を捉え,さらにそれがどのように地域のサステイナビリティ に影響するかを検討した。 ●主催:一般社団法人サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC) ●日時:2017 年 6 月 5 日(月)14:00~18:00 ●会場:あいぽーと佐渡(佐渡インフォメーションセンター)多目的ホール 88


■テーマ1

私が代理で司会をさせていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします。 それでは最初に梅田先生にご発表を お願いいたします。

自然資源の活用

武内和彦 東京大学サステイナビリ ティ学連携研究機構(IR3S)の武 内です。本来は同じくIR3Sの福士 謙介さんが司会をする予定だったので すが、東京で別の用事がありまして、 ■発表1

離島における資源循環の可能性 うめだ やすし

梅田 靖

日の「自然資源の活用」というテーマ で私から何がお話できるのだろうかと 少々ためらいがあったのですが、佐渡

東京大学大学院工学系研究科精密工学専攻教授

私は工学系の人間で、自動車よりも 小さいような工業製品の製品制御や材 料設計を専門としています(図①) 。本

島の勉強を兼ねてここにこられるとい うことは大変に魅力的でありましたの で、私なりに考えまして、大きなテー

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ムと、それらのシステムの間に破綻を 来しつつある現状を解明し、問題解決 を目指して活動を行ってまいりました。 このIR3Sのプログラムの育成期間 終了に伴い、これまでの研究教育・普 及啓発活動をさらに発展させるととも に、政府・自治体・企業・NPO等と の連携を強化し、技術革新と社会変革 に向けた実践活動の展開を図るために、 一般社団法人サステイナビリティ・サ

イエンス・コンソーシアム(SSC) が2010年5月 日に設立され、ち ょうど7年を経過いたしました。SS Cの主たる活動内容として、研究成果 の発表のための研修集会や、普及啓発 のための公開シンポジウム・公開講演 会・国際シンポジウム・国際集会の開 催があり、今回の研究集会は重要な位 置付けを持っています。活発なご議論 が展開されると期待しております。 SSCはこの7年間の活動実績を踏 まえて、サステイナビリティに関する 研究開発、教育・普及活動などの活動 を行うにあたり、国内外の学術界・経 済産業界・行政機関・市民・NPO・ NGOなどと積極的に交流し、よりい っそう具体的な実践活動を通じて、サ ステイナビリティの社会的実装を展 開・促進してまいりたいと思っていま すので、なにとぞご指導・ご支援をど うぞよろしくお願いいたします。 19

司会 ありがとうございました。それ では早速研究集会を始めたいと思いま す。研究集会の前半の「自然資源の活 用」のモデレーターは武内和彦先生に 担当していただきます。

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いて、非常に大きな変化を引き起こす 可能性があります。枯渇性資源に関し てはリユース、メンテナンス、リサイ クルなどを組み合わせて資源循環を大

図③

幅に高度化し、再生可能資源について もカスケード化などさまざまな面で循 環を高度化していこうとするものです。 循環経済によって、雇用の確保、E Uの競争力の強化、環境負荷削減、資 源枯渇対応といったさまざまなことが 実現するということがいわれています (図④) 。 私どもはここ20年近くリサイクル について研究してきているのですが、 それがなかなか経済の駆動力にはなっ ていかないので、正面切ってこのよう なことを主張するというのはなかなか うらやましいところがある一方で、図 ③に描かれた矢印が具体的にどのよう な意味をもっているのかわからないと いうこともあります。循環経済はこれ からいろいろと議論していく必要があ ります。 国立研究開発法人物質・材料研究機 構(NIMS)の原田幸明さんは、E Uにおいてはメーカーが主役となって 図④

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図①

マから少しずれますが、資源循環につ いてお話させていただくというのが今 日の趣旨になります。

最近のトレンド

ー ロ ッ パ の 循 環 経 済 ( circular )です(図③) 。資源の循環 economy によってヨーロッパの競争力を高め、 雇用を確保するということがいわれて

最近の大きなトレンドとして、持続 可能な開発目標(SDGs)は外せな いかなと思い、SDGsの17項目に 佐渡島を当てはめて検討したみたいと 考えました(図②) 。これは一つのケー ススタディとして面白いと個人的には 思っています。 17項目のなかで私がとくに関係する のは12番の「作る責任、使う責任」 です。これからはものを作ってそれを 消費するときに、作る側と消費する側 とがいかに連携して、資源の有効活用 をしていくのかということが重要な課 題になっています。 もう一つの最近のトレンドとして非 常にインパクトをもっているのが、ヨ

図②

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口ですが、人口はかなり明確に減少し ています(図⑤) 。現在6万人を切るぐ らいのところで、世帯数は2万200 0世帯で、 世帯平均で3人ぐらいです。 市内総生産を見ますと、第三次産業 が大きくて、第一次産業はかなり小さ いです (図⑥) 。 第二次産業については、

図⑧

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佐渡島の現状 さて、佐渡島についてですが、SS Cでは以前から佐渡島を研究の対象に していて、今日ここでは私が佐渡島に ついて一番知らないのではないかと思 って、お勉強をしてきました。まず人 図⑦


循環を回しているのではなくて、循環 プロバイダーのような人たちが循環を 回す主体となっているので、このよう なことが考えうるのではないかといっ た見方をしています。また、いままで 循環といいますと、動脈と静脈の両者

図⑤

をうまく回すことが必要だという話を していたのですが、そうではなくてい わば毛細血管のように細かく多様な循 環を作って回すことによって循環経済 を作ろうとしているのではないかとい うこともいっています。

図⑥

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割ると耐用年数が出るのですが、だい たい20年という数字です。日本の自 動車の平均使用年数は約14年なので、

それより長くなっています。というこ とは廃車としてではなくて、中古車と して島から出ていくものがたぶんある のではないのか思われます。 家電リサイクルについては、家電製 品協会のホームページに、離島での効 率的な輸送手段の好事例として佐渡島 が取り上げられています(図⑫) 。廃棄 する家電製品を島の中間集積場に集め て、月に2回程度、フェリーで本土に 運んでいます。

以上のような佐渡島の現状を踏まえ て、話題提供として今日お話をしたい ことの一つとして、大量生産と大量リ サイクルの単純な組み合わせでは、安 定した循環を作るのはなかなか難しい ということがあります(図⑬) 。

佐渡島への一つの提案

図⑫

リサイクルには、品質( ) 、 quality ) 、配送( delivery )が重 コスト( cost

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出ることになっています。その出えん 台数というのが1年に大体2000台 ぐらいです。保有台数を出えん台数で

図⑪


従業員が4人以上の事業者数のリスト が市のホームページにあります (図⑦) 。 さまざまな産業があるにはありますが、 特に大きな規模の事業所はありません。

次にごみについてみますと(図⑧) 、 可燃ごみ、不燃ごみ、粗大ごみ、資源 ごみ、廃プラスチック、有害ごみ、乾 電池の搬入実績が計上されています。 一人当たりの排出量は1日1キロぐら いで、処理費用は1人当たり1年に2 万数千円というところです(図⑨) 。東 京23区では1人当たり828グラム という数値が出されていますが、それ には資源ごみが計上されていませんの

図⑨

で、実質的にはそれほどの違いはあり ません。清掃センター、クリーンセン ター、一般廃棄物最終処分場などは図 ⑩のような場所にあります(図⑩) 。 佐渡島についてのお勉強をもう少し 進めますと、自動車保有台数は5万8 000台で、1世帯当たり2・5台ぐ らいです(図⑪) 。自動車のリサイクル に関しては離島対策があり、離島から 使用済みの廃車を出すときには補助が

図⑩

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すが、これは使い方への支援です。壊 れるまで修理しながら使った方がいい 場合もありますし、より環境に適した 製品が出てくるのなら交換した方がい い場合もあります。エアコンなどは適

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を観光客に提供するような可能性があ ると考えられます。購入時の負担を軽 減することができ、所有から切り離す ことによって資源をうまく回していく こともできるようになるでしょう。い

図⑯

切な時期で交換すべきいい例でしょう。 佐渡島の産業は第三次産業の占める 割合が大きく、観光業が大きな割合を 占めています。自動車に限らず、シェ アリングによってさまざまなサービス 図⑮


要です。佐渡島だけですと、家電のリ サイクルにしても自動車のリサイクル にしても、島内で処理するにはごみの 供給量が不足するので、島の外に持ち 出して処理をするということを前提に

図⑬ して循環システムを組まなければなり ません。それで安定的に処理できてい るということになればそれでいいので すが、島の外から資源をもってきて使 って、いらなくなったら島の外に返す

図⑭

というのは、基本的に資源利用の効率 としてはあまりいいものではありませ ん。 そこで一つの提案をもってまいりま した(図⑭) 。島内に家電産業や自動車 産業がないというのは、最初にご覧い ただいたヨーロッパの循環経済の構造 に似ているところがあるのではないか と思います。ですから、ヨーロッパの 動きを参考にして、便利で楽しくて未 来的な、エコな工業製品のライフサイ クルのショーケースのようなものが佐 渡島にできる可能性があるのではない かと思うのです。 製品サービスシステム(PSS)と いうことがいわれています(図⑮) 。製 品を所有するよりも、製品を適宜使っ て、適宜循環をさせるということを製 品サービスシステムでは考えます(図 ⑯) 。たとえば、自動車を自分で所有す るのではなく、使いたいときに借りる カーシェアリングというものがありま

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■発表2

奈良県十津川村における問題解決型教育 くりもと しゅうじ

栗本修滋

問題解決型研究教育とは

大阪大学工学研究科附属オープンイノベーション教育研究センター特任教授

発表資料には私の名前と上須道徳先 生の名前を記載していますが、この問 題解決型教育を主に担っているのは上 須先生です。 私は手伝いをしています。 本来は上須先生が発表するのがよかっ たのですが、SSCの教育プログラム を一昨日から昨日の夕方まで実施して いて、ここにくる元気がもうないとい うことで私が代わりに発表をさせてい ただきます。

今日、お話しますのは、奈良県十津 川村で行っている授業についてで、自 然を教育に活用することと、自然教育 を通して地域社会と学生がどのように 交流ができるのかをお示しすることが 主な内容です。タイトル画面の左下に 「とつぷろ」と書いてありますが、こ れは、学生が自主的に自分たちの思い を地域で生かしたいと、サークル的に 活動している団体の名称です。ホーム ページも立ち上げていますので、ぜひ

見ていただければと思います。 この授業の目的は、一つはサステイ ナビリティ学の実践です(図①) 。小宮 山宏先生と武内和彦先生は、サステイ ナビリティ学には知の構造化と行動の 構造化の両方が必要だとおっしゃって おられますが、それを実際に試みるの が授業の一つの目的です。もう一つの 目的は学際研究です。学際研究には関 係者の協働作業が必要です。そして、 知と行動の構造化の事例や、そこから

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まはまだ買うことにこだわっている人 が結構いますが、そのところをやわら かくはずしていくと、いろいろな可能 性が出てきます。家やオフィスにある

図⑰

ものが、自分の所有物としてあるので はなくても、サービス提供の窓口を通 じていろいろなサービスが提供される ようになれば、利用する側もさまざま な便益を得られ、供給側も利益が増え ることになります。 ヨーロッパ発のもう一つの脅威とし てインダストリー4・0というのがあ ります。要は、情報化技術やコンピュ ータが非常に安くなって広く普及する ことによって、現実世界のものと計算 機上のものとが一対一で対応して、現 実世界の状態を見える化できるように なるので、それが価値を提供する重要 な手段になってきているという話です。 そうなると、離島でも離島ではないと ころでも違いはなくなってきます。そ のような新しい技術を使って顧客にサ ービスを提供すると、島のイメージア ップになり、未来的な工業製品がたく さんある島ということになっていくと 思います。これからのものづくり、あ

るいは工業製品のライフサイクルの将 来像を示すショーケースに佐渡島がな っていく可能性があります。 それに対していろいろな疑問はある と思います(図⑰) 。たとえば、島には お年寄りが多くて、新しいライフスタ イルにはなじまないといことがあるか もしれません。それならそれで、お年 寄りが使いやすくなるような製品サー ビスシステムを考えたらいいと思いま す。いろいろとご批判はあると思いま すが、研究集会の最初の発表として以 上のようなお話をさせていただきまし た。

武内 どうもありがとうございまし た。引き続いて大阪大学の栗本さん、 よろしくお願いします。

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域の安全・安心とコモンズの管理手法 に関する研究」を立ち上げました。研 究会に参加した教員・研究者は、学生 と一緒になって地域に入って研究活動 をしてきました。その経験を踏まえて この授業をスタートさせています。 授業では問題解決型をうたっていま す(図②) 。しかし、教員が勝手に問題 設定をしても、地域が抱えている問題 とは違うということがありえます。地 域に入って住民の方々と交流しなけれ ば、地域で何が問題になっているのか を見定めることができません。問題設 定が誤っていれば、その解も誤ること になります。ですから、問題設定能力 と問題解決能力の両方を涵養すること が重要と考え、 教育の柱にしています。 今日は教育の実践内容についてお話し します。 問題の解決とは、こうすればよい、 ああすればよいと研究者が地域の人々 に向かって言うことではありません。

地域、すなわち自然共生の場を理解す る過程において、学生や研究者、それ に地域の人との間には差異が生じます。 その差異を認めて、共同の価値を新し く作り上げていく作業が、実は問題の 解決につながるのです。

十津川村 十津川村は奈良県の一番南の端、和 歌山県との境に位置する大きな村です (図③) 。 人口は3500人ぐらいしか ないのですが、面積は672平方キロ メートルもあって、琵琶湖ぐらいの広 さがあります(図④) 。大きな台風被害 にたびたび見舞われ、1889年には 168人が死亡する大災害があって、 住民は北海道に移住し、そこに新十津 川町を作りました。2011年には台 風12号によって行方不明を合わせて 12人が犠牲になっています。私たち は十津川村神納川地区の方々に協力し

ていただいているのですが、神納川地 区も10日間孤立状態になりました。 江戸時代、十津川郷の村々には、水 田が僅かしかありませんでしたので、 年貢を免除されていました。幕府の直 轄天領で、住民全員に郷士という身分 が与えられ、明治時代には村人全員が 士族になりました。明治の廃仏毀釈を 徹底して行い、この村には公式的には お寺が一軒もなくて、神社だけとなっ ています。 ここを教育実践の場として選定した 理由の一つは、行政の単位である村と 実態的な村が一体的であることです。 平成の大合併によって、行政の村と実 態の村が一体的なところは実はそれほ ど存在していません。また、安全・安 心社会の実現を目指すという点から、 十津川村が災害を受けやすい地理的条 件を有していることも選定理由に挙げ られます。 自然と共生の長い歴史から、 豊かなコモンズが残されているだろう

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得られる知見の蓄積を、教育や研究に 活用するということもまた目的の一つ となっています。 このような授業を実践する背景とし ては、先ほど仲上先生からIR3Sの

事業の話がありましたけれど、IR3 Sの育成期間が終わった後に、大阪大 学では「想創技術社会実現のための環 境イノベーションデザイン教育拠点形 成事業」を2012年からスタートさ

せました。 その事業を企画する過程で、 社会の将来ビジョンと研究シーズを架 橋する交流研究が必要となると、梅田 先生を中心に考えてくださいました。 そのような交流研究の一つとして「地

図①

図②

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てみていただきます。図⑤の写真はワ ークショップの様子で、集落の人、役 場の人にも教室に来ていただいて、学 生が成果を発表しているところです。 学生に与えたテーマは三つあります (図⑥) 。 (1)地域資源をどのように

自主的に判断して考えます。適正技術 に関しては小水力発電を取り上げ、生 物の多様性では地域内で育てている固 有種をどのように守っていくのかを検 討し、地域の知識に関しては災害に関 わる知識を掘り起こして可視化するこ とをテーマにしました。 水車を導入するということではいろ いろなことがありました(図⑦) 。明ら かになったのは、学生が考えているよ うな水車による小水力発電は、地域社 会に受け入れられにくい事情があるこ とでした。これまでにも水車を利用し て生活をした経験があり、地域の人に とって水車で発電するのは魅力的では ないようでした。緊急の場合に地域で 発電する必要があるにはあるのですが、 緊急時にはむしろ水の確保のような生 命にかかわる基本的環境の維持がとて も重要で、 発電どころではありません。 学生と地域住民とで水力発電の考え方 の差異が生じているのですが、学生に 図⑥

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利用するのか、適正技術の課題。 (2) 生物の多様性などを踏まえて、十津川 村の固有種をどのように継承していく のか。 (3)地域の知識(ローカルナレ ッジ)を可視化する。この三つの課題 から、具体的に何をするのかは学生が 図⑤


図③

次に、実際の協働作業や研究につい

水車プロジェクト

と想像できることも理由にあります。 さらに、ここには世界遺産の熊野古道 が通っていて、古道沿いに集落が点在 しているということも選んだ理由とな っています。

図④

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今後の展開としては、地域住民の生 活や風景の一部となるような水車のあ り方を模索しています(図⑨) 。地域の 木材を利用して大工さんに水車を作っ てもらえないかとか、盆踊りのときの 図⑩

提灯を水力発電でともしてデモ機を披 露できないかとかと考えています。そ うしながら、地域の人のモチベーショ ンを引き出したいと取り組んでいると ころです。

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固有種の継承

固有種の継承プロジェクトでは「め はり寿司」 を取り上げています (図⑩) 。 めはり寿司というのは、白いご飯に高 菜の漬け物を巻いた食べ物です。地域 の住民の方々に伺うと、漬け物にする 高菜が集落によって異なっていて、こ の葉はどの集落のものとちゃんと区別 がつくほど形状や味に個体差があると 言われています。山に囲まれて集落が 点在しているので、人を介した作物の 交流が少なかったことや、集落と集落 の間の距離も遠く離れているので自然 交雑が起こりにくかったことなどによ って、集落ごとに個体差が生じている と考えています。 一方、農家の高齢化が進んでいるこ とに加えて、ほかの効率的な作物への 転作が進んでいて、固有種を栽培する 人が少なくなっています。今後の課題 として、役場の人と情報交換をしなが 図⑪


は自分たちの思いを達成したいとの願 望が強くあります。あきらめずに水車 を設置する場合の条件などついて住民 の方々と一緒になって考え、理解を深

めながらゆっくり進めていこうとして います。いま取り組んでいるのは、自 転車の発電器を使って、田んぼの水の はけ口でどれぐらいの発電量が得られ

図⑦

るかの実験で、住んでいる人も一緒に なって行っています(図⑧) 。結構な量 の電気を作れることが実感できていま す。

図⑧

図⑨ 106


が崩れるといわれますが、最新の科学 の知見では、スギの人工林の方が広葉 樹の林より土砂崩壊が発生しやすいと の明らかな証左は得られていこと、地 元の人が北向き斜面に被害がよくおこ

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図を常設し、住民および行政と情報共 有を行い、非常時の避難計画を一緒に 作る取り組みを考えています。このよ うなことができれば、他地区へも展開 できるのではないかと思っています。

図⑭

るといわれているのは、地質的な素因 によるのか、地層の向きによるのかな ど、 科学的にも検討する必要があると、 学生たちにアドバイスしています。 今後は廃校になった小学校に立体地 図⑬


ら、中学校にもできたら協力していた だいて、中学生がおじいちゃん、おば あちゃんに固有種の作り方を教えても らったり、食べたりすることも実際に やってみて、村全体で固有種の継承に

取り組めないかと考えています。 十津川村には、 「むこだまし」という 食べ物があります。山奥の集落では米 が取れなかったのですが、粒が大きい 品種の粟がありました。蒸すと白くて もちもちとしているので、これでモチ をつくり、われわれの村は餅米が取れ る豊かなところだと婿さんをだました と伝わっているのが、 「むこだまし」で す。 この粟の保全活動を、学生たちが大 阪大学のフェスティバルで発表したと ころ、 ロート製薬の方がご覧になって、 スローフードの基金に登録をしたらど うかと提案してくださり、登録する見 込みとなっています(図⑪) 。

地域の知識、ローカルナレッジに関 しては、災害に関する知識の可視化に 取り組んでいます(図⑫) 。学生が作っ

災害に関する知識の可視化

図⑫

た立体地図を地域の人たちに見ていた だきながら、過去にどこで災害が起き やすかったのか、災害が起こった時に どう逃げたのか、話していただきまし た(図⑬) 。立体地図を見たのは初めて という人がほとんどで、こうしてみる と本当に急傾斜のところに住んでいる ということがよくわかるといってくだ さり、ここはよく被害が出ている場所 であるとか、いろいろと話が弾みまし た。 立体地図を見ながら得られた知識を マップに落として、さらにヒアリング を繰り返すという作業をしました。そ の作業の過程で、土砂崩れの危険のサ インがどのように出るかとか、どこで 土砂崩れが起こりやすいのかというこ とがわかってきました (図⑭) 。 ただし、 これは地域の人たちから聞いただけの 知識で、科学的知見との整合性はこれ から検討していく必要があります。た とえば、地元の人が人工林でよく斜面

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きないといったこともありします。住 民の方々は前年通りにいつも対応でき るわけではないのです。 また大学側にも、皆さんよくご存じ のように、 教育は教員に任されていて、 熱心な教員が異動すると、いまやって いることも廃れてしまうといったこと もあります。今日の発表の内容は、2 012年に私たち教員が十津川村に行 って地ならしをして、2013年から 5年ぐらいやってきたことの成果です。 今後継続するなかでさらに新しい発見 があるのではないかと思っています。

武内 どうもありがとうございまし た。質問はございますか。 ――最初のスライドにコモンズという ことが記されていましたが、コモンズ について何かコメントしていただけま すでしょうか。

栗本 私たちは、地域のローカルナレ ッジも一種のコモンズだろうと考えて います。地区に固有の作物があるとい うのも、やはり地域のコモンズとして とらえています。そういうものをどう 管理していくのか、どう発展させてい くのかを考えるのが、私たちのコモン ズへの取り組みとなっています。 武内 よろしいでしょうか。ほかに何 かありますか。 ――私は奈良に住んでいて、十津川村 に行くのはすごく大変だと感じていま す。大阪大学から十津川には行くのも 大変なのではないでしょうか。また、 観光資源の開発でうまくいかなかった 事例とか十津川村にはあるのではない かと思いますが、教えていただけます でしょうか。

栗本 十津川村は確かに遠いのです

が、いまは道もかなりよくなり、大阪 大学からでしたら3時間ぐらいで行け ます。授業で学生を連れて行くときに は、 実はいろいろな工夫をしています。 、 例えば、地元に観光バスがあるので、 地域貢献も考えて大阪大学まできても らっていました。この授業の最初の年 は大災害がおきた後で、観光に対する 復興助成金があって、地元の観光バス を利用しやすかったのですが、いまは なくなりました。 十津川村には昴の郷などの観光資源 があって、多くの人によく利用されて います。私たちも行くときは、民宿や 温泉施設を利用して、民宿の経営者の 人たちの話も貴重な情報として授業に 生かさせてもらっています。

武内 どうもありがとうございまし た。続いて、早稲田大学の吉田先生に お願いします。

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教育効果とこれからの課題 以上のような実践でどのような教育 効果があるのか、解決力を涵養できた のか、意味付けまたは新しい価値付け

図⑮ ができたのか、発見や理解に基づく次 の展開や実践についてデザインしたの か、小さなスケールから大きなスケー ルに展開する可能性ができるのかなど、 いろいろなことを評価しながら、教育

図⑯

を継続しているところです(図⑮) 。 この教育プログラムは2013年か ら始まったのですが、2014年ぐら いから学生の自主的な活動として「と つぷろ」が立ち上がったり、学生が参 加することで地域の祭りや盆踊りが活 性化したりと波及効果も見られました。 (図⑯) 。地元には神納川HBP(ハッ ピー・ブリッジ・プロジェクト)とい うグループがあるのですが、学生たち に刺激されて活動が活性化したと聞い ております。 課題もあります。学生は卒業するの で、次から次と入れ替わります。一方 で、住民は高齢化が進んでいます。住 民にしてみたら、せっかく慣れた学生 が卒業していなくなり、次の新しい学 生と関係を築き直すのが大変だと私た ちに伝わっています。また、2~3年 前までは住民の方と一緒に茶摘みとか 田んぼでの作業ができていたけれど、 今年になったらもうしんどい、もうで

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ひところ大きな問題になりました。ゴ ルフ場の開発は、バブル期の余剰のお 金をどのように再配分・再投資するか というビジネス戦略の中で、地方の土

地が使われたために生じた問題であっ たと理解しています。三番目がトキの 野生復帰に向けた取り組みです。 まず地盤沈下です。なぜ新潟県で地 盤沈下が問題になったのかというと、 上越をはじめ県の各地で冬季に雪を融 かすために地下水を大量に汲み上げた からです。温度の高い地下水を汲み上 げて屋根から流して雪を融かすのです。 冬になると一挙に地下水が汲み上げら れ、一年間で10センチぐらいの地盤 沈下が起こりました。春になると若干 回復するのですが、冬になるとまた下 がります。 六日町保健所の建物などは、 地面が30センチぐらいも下がってコ ンクリートの基礎が浮き上がり、階段 をもう一段増やさなければ建物の中に 入れないくらいにまでなりました。 雪下ろしのために毎年数十人の方が 亡くなっていましたので、何とか生活 の質を向上させようということで、地 下水の汲み上げは豪雪地帯の方々にと 図①

ってはやむをえない地域資源の利用で あったといえると思います。 その後は、 熱交換をして地下水はもとに戻すとい う方法も普及して、以前ほどに目立っ た沈下はありませんが、最近の新潟県 の環境白書を見ても、雪の降り方によ ってはまた地盤沈下がひどくなる恐れ があると書かれています。 二番目のゴルフ場の問題は、環境と 開発とのせめぎ合いが長い間続いてき たなかで、経済開発が環境に悪い影響 を及ぼした一つの事例でありました。 1970年代には、全国総合開発計画 のひずみとして公害と並んで自然の破 壊が進みました。1980年代のバブ ル期には、乱暴な経済開発によって地 方の環境が破壊されました。経済開発 をするときの政策論理として、地域間 の格差をなくすということが必ず強く いわれました。しかし、結局はうまく いかなかった例として1987年に制 定されたリゾート法を挙げることがで

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■発表3

行政過程にみる自然観の変遷と 地域の持続可能性の考察 よしだ のりひさ

吉田徳久

三つの環境問題

早稲田大学大学院環境・エネルギー研究科教授

私は新潟県とご縁があって、もう3 0年ほど前になりますが、新潟県庁に 2年8カ月間出向し、公害対策の担当 課長をさせていただいたことがありま した。今日はそのときの経験を踏まえ て、新潟県のローカルな環境問題を切 り口として、日本においてサステイナ ビリティの考え方がどのように論じら れてきたかということをお話させてい ただきたいと思います。

私が新潟県に出向しましたのは昭和 の末から平成の最初にかけてで、当時 新潟県が抱えていた環境問題の中で、 今日的にみるとサステイナビリティと 関係して重要だと思う課題は、大きく わけるとこの三つでした(図①) 。ここ に挙げたこと以外にも、公害時代の痕 跡を残したような問題や、過去の公害 が後になって災いとして露呈するとい った問題もありました。農薬の空中散

布によって通学中の学童が頭から農薬 を浴びるという事故が起こって担当課 長として慌てたこともありました。 最初に示したのが地盤沈下で、二番 目がゴルフ場の農薬問題です。もうお 忘れの方も多いかと思いますが、バブ ルの時代には全国でゴルフ場の開発が 行われ、とくに北海道が多かったと思 いますが、新潟県でも結構な数のゴル フ場ができました。芝を美しく保つた めに、あるいはゴルフ客は虫を嫌うこ とから、農薬を大量に集中的に撒き、

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図②

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きます。この法律のもとにてつくられ た宮崎県のシーガイアは破綻し、長崎 県のハウステンボスも決して順調に経 営されてきたわけではありません。地 方の論理で行われた観光開発がかえっ て地域を疲弊させてしまったという事 例は数多くあり、新潟県のゴルフ場問 題もその一例であったと思います。 三番目のトキの野生復帰については、 恥ずかしながら私は今日の午前中の見 学会で初めて本物の元気なトキの姿を 見ました。これは地域活性化の非常に すばらしいモデルケースです。いま佐 渡で優雅に舞うトキの姿が見られるの は、非常に長い間の苦労があってのこ とで、決して短期間のうちに回復した わけではありません。そのことをここ から少しお話をさせていただきます。

トキの野生復帰 図②はトキの保護から野生復帰まで

の経過をまとめたもので、いまでは人 工飼育された子どもも含めて500羽 のトキが佐渡の空に舞っています。こ こまでの経過は四つのプロセスに分け ることができると思います。 最初は野生下で保護しようとした時 代です。トキは1927年に絶滅した と一度は思われていました。新潟県が 懸賞金を出してトキ探しに乗り出し、 それが功を奏して、1931年に2羽 発見されました。これが保護運動の始 まりといわれています。そして193 4年にトキは天然記念物になりました。 たまたまではありますが、日本で最初 の国立公園の指定がなされたのが同じ 1934四年でした。1952年にト キは特別天然記念物になり、1960 年には国際保護鳥になっています。1 965年に新潟県の鳥になり、200 4年に佐渡の鳥になっています。 野生下で何とか保護しようという時 代が長らく続いたのですが、なかなか

うまくいきませんでした。それで19 81年に一斉捕獲して人工飼育が始ま りました。ところがこれもうまくいき ませんでした。 国際的にみると、1970年代から 絶滅危惧種を保護する動きがあり、ワ シントン条約が結ばれ、世界遺産の採 択も始まっていました。しかし、日本 で絶滅危惧種、あるいは世界遺産に関 心がもたれたのは10年以上も後にな ってからでした。このあたりのギャッ プがあって、トキの保護に乗り出すの は、世界的な潮流からは少し遅れたか なという気がしないでもありません。 それでも幸い中国との友好関係によ って、2001年以降、トキの人工増 殖が順調に進むようになりました。こ れが二つ目のプロセスです。2003 年から2005年にかけてトキの野生 復帰の計画が立てられ、ここから国と 県と佐渡市が手を組んで環境整備計画、 保護計画が具体化され、非常に大きな

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⑤) 。 午前中のトキふれあいプラザの訪 問で伺いましたところ、トキは絶滅す る前には山の方の田にいたので、人工 繁殖させて放鳥した後にもやはり山の 方の田にいくだろうと考えて、一生懸 図⑤

命にドジョウを繁殖させて餌場を作り、 営巣する場所も作って、トキのための ビオトープを整備したのだそうです。 ところが、実際に放鳥したら、意外に も里の方の田んぼに生息するようにな

ったとのことでした。その話だけから も、難しい課題をいくつも乗り超えて 現在にいたったのだということを改め て感じました。 トキのブランド化を進めていくには

図⑥

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力が盛り上がっていきました(図③) 。 三つ目のプロセスが野生復帰への努 力です。2008年に秋篠宮ご夫妻を お招きして、初の放鳥が行われ、現在

では500羽のトキが生息するように なったのです。 四つ目のプロセスはこの放鳥以後に 進められたトキのブランド化です。こ

図③

れは「自然資源と持続可能性」という 今日の研究集会のテーマから注目すべ き点ではないかと思われます。環境倫 理的な価値観だけでは、トキの野生復 帰をここまで進め、それを今後も維持 していくのは難しいのではないかと思 います。やはり経済的に先立つものが あってのことです。 国と県と佐渡市が協力して野生復帰 を成功させたわけですけれど、野生復 帰の難しさを十分に知られていて、多 くの苦労がありました。国際自然保護 連合 (IUCN) の種の保存委員会が、 絶滅した種を野生復帰させるガイドラ インを示しています(図④) 。これをご 覧いただくだけでも、野生復帰がいか に難しい課題であるかおわかりいただ けると思います。新潟県と佐渡市が周 到な準備をして、野生復帰に成功され たご苦労を改めて感じております。生 息地の整備に関する生態学的な取り組 みの難しさももちろんありました(図 図④

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図⑦

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図⑧


いろいろな知恵が集められました。有 機農法、あるいは減農薬の農業を営む のは非常に労力のかかることなので、 地域の農家の皆さんの協力がなければ できません。その見返りとして、トキ 米のブランド化ということがあるわけ ですが、経済的に十分なものがかえっ てくるのかということにはいまも不安 が残っていると思います。温暖化対策 と絡めて実施しているトキの森のカー ボン・オフセット、 「トキの森クレジッ ト」 というプロジェクトもありますし、 世界農業遺産に認定されたということ も大きな力になっていますが、いずれ にしてもトキのブランド化が成功しな ければ野生復帰も、これからの持続的 な野生化の維持も難しいのだろうと思 います。 図⑥は新潟県の環境保健環境科学研 究所長の中田雅夫さんがお作りになっ たスライドからお借りしたもので、ビ オトープづくりがどのようにして行わ れてきたのかおわかりいただけると思 います。 図⑦は佐渡市のホームページにあっ た古いバージョンの絵です。理想的な 姿でトキの再生を考え、非常に美しく 描かれた絵であると思います。このと きはブランド化という発想は盛り込ま れていませんが。

自然環境行政の進展と トキの野生復帰 ここまでトキの再生復帰についてお 話をしてきましたが、日本全体の自然 環境行政と、このトキの再生がどのよ うに絡まっているのかということをお 示ししようと作ったのが図⑧です。た くさんのことを書き込んでしまったの で、ややわかりにくくて恐縮ですが、 四つの軸があって、中心から上に伸び る軸が時間の流れを示しています。1 931年に始まる国立公園行政の時代、

1970年代から1990年代にかけ ての自然環境保全法の時代、1993 年に環境基本法ができて公害対策と自 然行政が一体化して歩んできた時代、 そして一番上が自然共生社会づくりの 時代です。 中心から左に伸びる軸には、自然環 境行政が対象とするべきスコープが示 されています。国立公園という限られ た地域で一部の優れた自然を守るとい う意識しかなかったと時代から始まっ て、地球の全地域、すべての種を対象 にして、人間社会がどう取り組んでい くかというところにまで広がってきて います。 中心から右に伸びる軸には、景観保 護に始まって自然共生社会づくりへと 進んでいく理念的な発展が示されてい ます。 中心から下に向かう軸では、どのよ うな施策が展開されてきたのかという 流れが示されています。

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という構造がみえます。 三番目のトキの問題では、トキは生 態系ピラミッドの一番高い位置にいる 鳥です。トキの再生とは生態系ピラミ ッドの再生でもあります。生態系はわ たしたちにさまざまな生態系サービス をもたらしてくれます。そのなかでも とくに、トキが地域に与えてくれる文 化的サービスを、トキの野生復帰によ って復活させたと理解していいのでは ないかと思います。トキの問題のこれ からは、善意とアイディアの段階を超 えて、支援ネットが経済的な持続性を もてるかどうかということになってき ていると思います。トキの野生復帰と は、社会的な持続可能性への挑戦とし ての自然資源の回復であったと理解で きるでしょう。

持続可能性の議論のあり方

ここからは余談になります。持続可

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図⑩


また斜めに伸びる軸には、保全の手 法、外圧との調整、施策課題の変遷、 施策展開の動機が示されています。 動機としては、最初の国立公園行政 の一番の根っこに、外国人を対象にし

図⑨ た観光拠点の整備という意識が強くあ ったと、自然保護行政に詳しい友人か ら聞いています。公害の時代には自然 も荒らされましたので、自然を守ると いうことが倫理観の根本に置かれ、厳 格な保護がうたわれました。やがてツ ーリズムや地域振興などが動機として 議論されるようになりました。 トキの再生が、このような自然環境 行政の進展とともにどう動いてきたの かといいますと、最初は天然記念物の 保護という意識からでした。しかし、 野生において絶滅させるのもやむをえ ないと判断されて、人工飼育に切り替 わりました。世界ではすでに1970 年代からラムサール条約、世界遺産条 約、ワシントン条約を採択していまし たので、国際的な流れからやや遅れた 感じは否めなかったのですが、その後 は中国の支援で人工繁殖に成功し、野 生復帰の試みが国と地域の連帯で進め られ、そしてブランド化もして、永続

的にその自然資源を守ろうとしていま す。そして、いま自然行政でも重要な テーマになっている里山イニシアティ ブとうまく呼応して進んでいく段階に きていると思います。

問題の整理

私が新潟県にいた当時の三つの課題 を、自然資源の活用と持続可能性とい うテーマに沿って整理してみますと、 地盤沈下の問題は、地域の枯渇性資源 の過剰利用を抑止するのが難しいとい うところから生じたものでした (図⑨) 。 つまり、社会の発展が環境的な持続可 能性を崩したという問題、 逆にいうと、 環境を持続可能にしなければいけない という観点から排除された問題であっ たということです。 二番目のゴルフ場の問題は、経済活 動そのものが非持続的なプロセスを選 択し、環境がそのとばっちりを受けた

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的持続可能をわれわれはもう一度考え 直してみる必要があるように思います。 アメリカのトランプ大統領がパリ協 定から離脱すると宣言したのは、パリ 協定に従うと雇用が減って経済に悪い 影響があるということを根拠としてい ました。環境対経済といった対立論で 捉えていいのかという疑問があります。 環境を守るというのは、あくまでも物 理的に環境を守ることだとしても、人 間社会の持続可能性、あるいは経済的 な持続可能性が環境の持続可能性を実 現することになるので、それらは対立 するものではないと考えることもでき ます。 そして、 温暖化の問題にしても、 地域の自然資源の活用の問題にしても、 何がわれわれの意思決定の根拠になる のか、何がドライビングフォースにな るのかという部分を解き明かすことが、 一つの重要なポイントになるのではな いのかと思います。 最後に、カナダの学者が書いた『地

球環境の政治経済学』という本から、 私の解釈でピックアップした図をご覧 いただきます(図⑪) 。ここには現代の 環境論を左右する四つの思想が示され ています。まず、経済優先でテクノセ ントリズムを志向する新自由主義があ り、いまはおおかたこれが勝っていま す。それに対して、国際的な秩序を作 ろうという立場の人たちがいて、これ を制度主義といいます。そして、環境 危機に悲観的で社会的公平性を重視し、 グローバル化に否定的で地域主義を重 視するソーシャル・グリーン主義あり ます。それと共通したところもありま すが、人間活動の自制までも考える極 端なまでの生態環境主義があります。 生態環境主義はひょっとすると環境フ ァッショを作る恐れがあるとされてい ます。このうちのどれがいいか悪いか は別にして、これら四つの考え方が渦 巻いているのが現代の社会であるのは 間違いありません。

今日はSSCのメンバーの方々と一 緒に考えていただくせっかくの機会で すので、新潟県の三つの問題から発し てこのようなこところまでお話をさせ ていただきました。

武内 ありがとうございました。 時間もだいぶ経過していますので、 続けて千葉大学の渡辺均先生にお願い します。

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図⑪

能性の議論について最近改めて読んで みてますますわからなくなった面があ りますので、最後にそのことを少しだ けお話させていただいきたいと思いま す。 持続可能な社会の理念的な整理とし て、低炭素社会を作る、自然共生型社 会を作る、資源循環型社会を作る、こ れら「三つの社会」を作ることだと説 明されます。 (図⑩) 。しかし、いま申 し上げた三つの社会は、環境の持続可 能性を確保するための主要な条件であ って、社会が持続可能であるのか、経 済が持続可能であるのかということに なると、もっと裾野を広げて考えなけ ればいけないのではないでしょうか。 いま思い出してみると、 「成長の限界」 が指摘したのは狭い意味での持続可能 性、つまり、地球環境の限られた容量 のなかで人類が生活をするという意味 での持続可能性の問題だったのではな いか思います。社会的持続可能、経済

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図①

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ます。人の健康・幸福と植物の関係を 整理すると図③のようになります。人 の健康・幸福は、肉体的な健康と精神 的な健康に大きく分けられます。肉体 的健康に関して植物との関係は、エネ

図②


■発表4

地域資源を活用した健康機能性植物生産の試み わたなべ ひとし

渡辺 均

健康機能性植物と 環境健康フィールド科学センター

千葉大学環境健康フィールド科学センター准教授

私は大学教員になる前は、民間企業 で花の品種改良や、野生植物を採取し て改良するといった仕事を行っており ました。千葉大学環境健康フィールド 科学センターは人と植物の研究者が結 集し、医・薬・農が連携した新しいコ ンセプトのセンターです。現在、私は そこで健康機能性植物に関わる研究を 行っています(図①) 。今日はそれにつ いてご説明・ご紹介をさせていただき ます。

千葉大学には国内唯一の園芸学部が あり、園芸学部が保有する栽培技術的 要素と、医学・薬学・鍼灸学の先生方 による健康や機能性に関する要素を加 え、同じフィールドのなかで医・薬・ 農の連携で新しい研究が進められてい ます。 図②は母の日を前にした私どもの温 室の様子です。ここでは生産農家と同 じように、5000鉢近くの花を生産

して全国各地に出荷しています。見て いただくとわかると思いますが、どの 鉢花も皆同じ大きさに生育が揃ってい ます。このような最先端の栽培技術を 教える場にもなっています。今日の報 告の趣旨とは違うかもしれませんが、 同じものを均一に作る技術も商品開発 技術として教育現場ではとても大切な のです。 私たちが考えている健康機能性植物 とは何かということを簡単にご説明し

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ターができて14年になり、昨年は皇 太子殿下と妃殿下が当センターにこら れまして、私たちの活動について説明 させていただきました。 私は佐渡には初めてきたのですが、 ここには佐渡オケラという有名な薬草 が古くから栽培されていました。佐渡 オケラは現在ほとんど栽培されていな いということで残念ですが、江戸時代 には佐渡では40から50品目ぐらい の薬草が栽培されて、幕府の財源にな っていたということを聞いています。 佐渡オケラは栽培が難しいこともあり、 現在では栽培する人がいなくなってし まったのです。

健康機能性植物の 新しい生産方法に向けて 健康機能性植物を現代の農業生産に 当てはめて考えてみますと、まず種苗 の入手が難しいということがあります

(図④) 。 ほとんど野生の植物に近いた めに、発芽や発根がそろいませんし、 栽培期間が非常に長いということもあ ります。また、品種が確立されていま せん。そして、日本薬局方という法律 があり品質検査などをきちんと行わな ければならないという制約があります。 また、中国から単価の安い生薬が輸入 されるということもあり、生産を続け るのがかなり難しい状況になっていま す。生産者の後継者不足、高齢化も進 んでいます。 そこで、従来の栽培法に私たちがも つ効率的な生産技術を組み合わせるこ とで、新しい生産方法ができないだろ うかと研究を進めています。方向性と してはいろいろありますが、経済的に 成り立つようにするには、ある程度の 生産規模があり、独自の生産技術・品 質管理技術があり、実需者のニーズを 把握した生産と販売を行っていかなけ ればいけません(図⑤) 。

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図④


図③

ルギー源やビタミン・ミネラル源とし て植物を摂取するということがありま す。精神的健康に関しては、花や緑を 五感で感知して癒やしをもたらすとい うことがありますし、花壇づくりや公 園緑化に参加することで社会的な癒や しが得られるということも近年では注 目されています。 この表の中央にある医学の部分に関 する植物研究は、じつは今はぽっかり と空いてしまっています。薬用植物・ 健康機能性植物を栽培し、研究しよう とする研究者は非常に少なくなってし まっています。遺伝子組み換えや遺伝 子導入などで有用な植物を作リ出すよ うな植物研究は盛んに行われています が、薬用植物そのものを評価し、農業 生産に生かすという視点はほとんど失 われてしまっています。 そこで私たちはこの部分に着目して、 植物と人の健康に関わる研究を進めて います。環境健康フィールド科学セン

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たいと思います(図⑦) 。野生種とは、 栽培種と対になる用語です。自然界に 自生している生物種、原種が野生種で

す。野生型というのは、野生集団のな かで最も高頻度に観察される表現型、 あるいはそのような表現型を持つ系統 や生物種のことです。種の定義は、交

図⑧

図⑨

配可能性の可否によって区分する生物 的な概念種と、形態等の類似による形 態的な概念種とを合わせて行います。 さらに、進化学的種概念、系統学的種 概念も利用して分類します。そして、 植物の分類は科、属、種といった構成 になっています。 ある野生種を一つの尺度で評価する と、必ず大きなばらつきが生じます。 たとえば花粉粒数を調べると図⑧のよ うなばらつきがあります。すべての野 生種にはばらつきがあり、平均的なと ころを野生型と呼んでいます。こうし たいろいろな変異を集め、私たちにと って有益な植物の育種を行ない、機能 性植物としての生産につなげていきま す。 薬用植物の生産を再検討する流れを 整理すると図⑨のようになります。こ こに列挙されたようなことを見直して、 野生種を日本の現在の農業のなかで生 産できる農産物に作り替えていく、つ

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図⑥は長野県の薬用人参の生産の現 場ですが、このようにして伝統的に作 られてきたものを、どのようにして現

図⑤ 代の技術に置き換えていくかというこ とを考えながら研究を進めているとこ ろです。

図⑥

薬用植物をどのように生産するのか

ここで野生種について説明しておき

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図⑦


への利用が期待できることがわかり、 新たな産地化が期待できるのではない かと考えています(図⑬) 。

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しています。 オケラも全国からいろいろな系統を 集め、 実際に栽培して調べています (図

図⑬

ヨモギは食品としても使われていま す。 全国から150系統ほどを集めて、 食品機能という観点からヨモギを評価 図⑫


まり経済性のある品目に作り変えてい くという研究を進めています。 実際の研究例をみていただきます。

図⑩ トウキという薬用植物があります(図 ⑩) 。全国から栽培系統を集め、種子を 撒いて従来の方法で育てると左側の写

真のようにわずかしか発芽しません。 ところが種子の採り方を変え、発芽の 温度処理を加えると95パーセント以 上の発芽率になります。このようなこ とをひとつひとつ試みて、新しい栽培 方法を確立していくのです。 もう一つの例はモグサ用のヨモギです (図⑪) 。 全国から127系統のヨモギ を集めて温室で育てています。すると 優良系統とそうでない系統が出てきま す。日本海側の新潟県や山形県から、 葉が大きくて毛の多い系統が抽出され ました。逆に太平洋側は葉が小さくて 毛が薄い系統であることがわかりまし た(図⑫) 。現在、モグサは新潟県の糸 魚川の辺りで製造していますので、実 際にその地域のヨモギがモグサ生産に とっては良い系統だということがわか りました。 このように全国に自生する系統を同 じ条件で栽培したところ、鳥取県、鹿 児島県、滋賀県、新潟県のヨモギが灸 図⑪

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同じようなストーリーですが、カラ スビシャク(半夏)という植物も全国 から55系統集めて交配して栽培して います(図⑱) 。そうすると、多様な形 態的のものが得られます。それはどう いうことかというと、親世代も多様性 図⑰

をもっているということです。

これから目指すもの もしも、地域に自生している植物が さまざまな治療薬として使えるという

ことが証明されたら、大いに利用され るようになるでしょう。今後、私たち は健康機能性植物種苗開発センターを 作って、海外から輸入される生薬に対 抗し得る機能性が高く、安全な薬用植 物を永続的に生産できるようにしたい

図⑱

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⑭) 。その結果、長崎県平戸の系統が生 育が非常に旺盛であるということがわ かりました。オケラは生薬として利用 できますし、「山でうまいはオケラにト トキ」といわれるぐらい非常においし

い山菜とされています(図⑮) 。種播き から収穫までの栽培期間を短縮するこ とで、もっとたくさん栽培できるよう にならないか検討しています(図⑯、 ⑰) 。

図⑭

図⑮

図⑯ 132


ばいけません。さらに地域の皆様への 種苗の配布と利用を促進して、生薬と してだけでなく、食品としても利用で きるように幅を広げ、販路も増やして いくことを考えています。 最終的には、 地域の農業者が地域で生活がきちんと できる仕組みを作り、海外との競争力 を有するような魅力ある農産物にして 行きたいと考えています。 私どもの薬草園ではいま400種ほ どの健康機能性植物が植えられていま す(図⑳) 。私たちの身近な野山に自生 している植物資源をもう一度見直して、 それを利用できる仕組みを作っていこ うとしています。実際にいくつかは商 品化にまで進んでいます。植物を介し て地域の中で農業と医療が結び付くよ うな仕組みを考えて進めているところ です。

武内 植物工場では生産できない一 番のポイントは、苗を土に戻さないと

渡辺 いまのところ、植物工場で行な われているような養液栽培による薬用 植物生産は考えておりません。生産コ ストがかかりすぎるのが現状です。で すから、私たちは温室内では苗を作り ますが、畑に定植して土で育てるとい うことを考えています。 効率的に生産するには、5年も6年 もかかるような栽培期間を、たとえば 半分にできないだろうかと考えていま す。 買い取り単価の問題もありますが、 生育に時間がかかると、それだけ植物 工場では採算が合わなくなります。

私から一つお伺いします。同じ千葉 大学のキャンパスで植物工場の研究が 進められていますが、それとこの機能 性植物の生産を合体させるような話は あるのでしょうか。

武内 どうもありがとうございまし た。

有用な機能が発揮されないということ ですか。

渡辺 今のところはそうです。ゆくゆ くは植物工場でも品目ごとにミネラル 等の要求量を把握し、それらの成分を すべて与えることも考えられなくはあ りませんが、現状では難しいと私は感 じています。

武内 どうもありがとうございます。 大変よくわかりました。 それでは前半のテーマの最後になり ますが、IGESの劉さん、よろしく お願いします。

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と考えています(図⑲) 。まずは植物の 多様な系統を集めてきちんと評価し、 維持・保存をしつつ優良種苗を開発す

ることから始めて行きます。そして、 より効率的に苗を育て生産する技術を 開発します。従来の手作業だけの栽培

図⑲

方法は、人手不足などで今後は難しく なるので、機械化や自動化といった現 代の農業技術を取り入れていかなけれ

図⑳

134


1772年に窒素元素が発見され、1 840年に、窒素、リン、カリが生物 の活動に不可欠な必要元素であること がわかりました。そして、大きなこと として、1898年に、イギリス科学 アカデミーの会長のクルックス氏が就 任演説で、「イギリスを始めとする全て の文明国家はいま死ぬか生きるかその 図①

図②

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■発表5

n e h C u i L

2009年に、世界の環境科学の研 究者は、気候変動、オゾンホール、大 気エアロゾル、海洋の酸性化など九つ の環境指数に対して、科学の知見に基 づいて地球の限界(プラネタリー・バ ウンダリー)を定義しました(図②) 。

なぜ窒素が問題なのか

話します。そして最後に、自然と共生 する循環型社会に向けて何をすればい いのかというのを少し考えてみたいと 思います。

窒素循環から考える人間と環境の相互関係 劉 晨 地球環境戦略研究所(IGES)主任研究員

私からは、いままでの話とは少しテ ーマが飛びますが、窒素循環から人間 と環境の相互関係について皆さまと考 えてみたいと思っています。 今日のアウトラインは三つです(図 ①) 。まず、なぜ窒素なのかということ です。臨界点を超えてしまった窒素フ ロー、 窒素の人為的な利用とその歴史、 地球上の窒素循環の変遷、窒素による 諸環境問題の4点についてお話します。 二番目は、私自身の研究調査として、 アジア地域の窒素循環の変遷について、 中国、日本、ラオスを代表地としてお

この限界を超えてしまうと不可逆的か つ急速な変化が生じてしまう可能性が あります。ここで強調したいのは、窒 素フローが70年代、80年代にこの 限界を超えてしまっていることです。 気候変動は1990年から2000年 の間に限界を超え、生物多様性は最近 になって大きく超えてしまいました。 なぜ窒素フローが地球の限界を超え てしまったのか、窒素の人為的な利用 の歴史から考えてみたいと思います (図③) 。 窒素の肥料としての利用には、 実はそれほど長い歴史はありません。

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0世紀の後半には、人為的な窒素の固 定量が自然の固定量を大幅に超えるこ とになりました。 少し余談になりますが、人間と窒素 との関係では、火薬としての付き合い が長くありました。中国では大昔から 錬金術や不老不死の薬を作る努力の過 程で技術が発達し、7世紀には硝石と 硫黄で黒色火薬が作られるようなりま した。ハーバー・ボッシュ法が発明さ れてすぐに第一次世界大戦となり、戦 争中は窒素が爆弾として利用され、そ の後に平和利用されるようになりまし た。 大気の78パーセントは窒素です。 大気中の窒素ガスは化学的に安定で、 多くの生物はそれを利用することがで きません。ハーバー・ボッシュ法は、 大気中の窒素にエネルギー、温度、圧 力を加えることで、生物にとって利用 しやすい形態の窒素にして、われわれ が食べるパンやお米や肉に変えられる ようにする魔法の技術です。生物が利 用しやすい形態の窒素を反応性窒素 ( )といいます。図④には、その反 応性窒素が1950年代から急増した 様子が示されています。この図の一番 上側の曲線は世界の人口で、その下の 曲線が反応性窒素のトータルな量、次 がハーバー・ボッシュ法によって作ら れたものの量、次が植物による窒素固 定量です。この図から、人口の増加と 反応性窒素の増加に密接な関係がある ことがわかります。 ハーバー・ボッシュ法以前と以降で、 人間が生態系の窒素循環に与える影響 がどのように変ったのかを見ます。図 ⑤はハーバー・ボッシュ法以前で、根 粒菌のような菌が大気中から窒素を固 定して、植物に栄養分を提供していま す。植物に取り込まれた窒素は動物に まわり、植物や動物の排泄物は微生物 によって分解され、栄養としてまた植 物や動物に戻ります。全体としてぐる Nr

ぐる回る循環になっています。ここで 重要なのは、窒素が一つの制限要因に なっていることと、廃棄物がないこと です。全ての生物が出しているものが 次の生き物の栄養分になっているので す。 昔は人間の農業もこのような循環の なかで行われていました。焼畑農業、 輪栽式農業、あるいは棚田で行われて きた農業は、基本的に自然の循環のな かで、環境を維持して行われていまし た。そこでは人間の排泄物も資源でし た。図⑥の上の写真は博物館で撮った もので、漢代のお金持ちのお墓から出 土した豚小屋です。実はこれはトイレ です。豚小屋がトイレだということは 漢字からわかります。豚が四角で囲ま れている圂という字はトイレを意味し ます。ちなみに水のたくさんあるとこ ろでは、水の上に板を渡して排泄物を ポトンと落としたりしていました。日 本では川屋=厠と呼ばれますね。九州

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危機に直面している。それを止める唯 一の方法は、大気の窒素から大量の肥 料を生産することだ」といいました。

これはクルックス予言といわれ、窒素 肥料の研究では非常に有名です。その 後、1913年にハーバー・ボッシュ

図③

法によって、大量に化学肥料を生産で きるようになりました。1940年か ら1950年には緑の革命があり、2

図④

138


図⑦

下に豚がいるということです。豚は特 別な胃腸を持っていて、人間が消化し きれないものを消化して吸収すること ができます。従って、人間の排泄物が 豚の餌となり、豚は人間の食べ物とし て戻り、そのサイクルの中で生命に不 可欠となっている窒素が循環利用され ています。 ハーバー・ボッシュ法以後はどのよ うに変わったかというと、化学肥料が 大量に作られ、作物生産は化学肥料に 依存するようになりました(図⑦) 。化 学肥料によってたくさんの農耕飼料が 作られ、たくさんの牛や豚が生産され るようになりました。ここで何が問題 かというと、化学肥料の3割しか作物 生産には利用できなくて、残りの7割 は河川や大気に環境負荷として出され ていることです。人間の排泄物も、現 在ではさきほどのように豚に食べさせ るのではなくて、水洗トイレで流して 環境への負荷となっています。家畜が

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図⑤

の南の奄美大島の日常生活を描いた図 があり、図⑥の下の絵ですけれども、 これを見て本当かと思うかもしれませ んが、人間と豚は昔から密接な関係が あったのです。家という字は、屋根の

図⑥

140


図⑩

出す排泄物も環境への負荷となってい ます。つまり、大量生産・大量消費・ 大量投棄のシステムは、生態系の本来 の循環と違って、資源として回すとこ ろがあちこちで切れてしまっています。 そのため世界中の河川で富栄養化が 問題になっています(図⑧) 。私が調査 に加わった上海周辺の太湖では200 7年から大規模なアオコが発生して問 題になっていますし、長江の上流の方 では魚が全滅したりもしています。ま た、大気中に蓄積される窒素がどんど ん増えて、酸性雨の原因ともなってい ます(図⑨) 。

アジアにおける窒素循環の変遷

次に中国の窒素循環の変遷を見てい きます。2005年から中国の各地で フィールド調査をしました(図⑩) 。図 ⑪は1980年から2008年の上海 における窒素収支の変化です。矢印の

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図⑧

図⑨ 142


図⑫

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図⑬


図⑪

太さはフローの量を示しています。詳 細に説明する時間はないのですが、見 てほしいのは、窒素の流れに構造的な 変化が生じていることです。1980 年には化学肥料が主な負荷になってい ましたが、2008年には大気からの 沈降量が半分ぐらいの割合になってい ます。そのようになったのは、都市化 が進んで車が普及して大気中の窒素量 が増えたことと、一方で農地の面積が 減ったことによります。水に対する窒 素の負荷は2000年がピークでその 後は減っています。なぜかというと、 一つは排水処理技術の進歩及び普及に よるものです。もう一つ重要なのは、 汚染のひどいたとえば製紙工場などの 移転が進んだことです。そのため、上 海だけを見れば環境は改善されたので すが、広域で見るとむしろ環境問題は 悪化しているといえます。 次は長江全体に排出された窒素の負 荷量です(図⑫) 。量も増え、面積も拡

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とするとされています。166万トン というのは約3億人分の窒素の量です。 日本はそれだけ余分の窒素を使って環 境に負荷を与えているのです。 ラオスでも調査を行っています(図

⑭) 。ラオスでは焼き畑が減少し、19 90年代以降から化学肥料の使用量が 増加しています。そこは排水処理施設 がなく、ラオスには雨季と乾季がある ために、雨季になるとかなりの量の流 出があると思われます。

自然と共生する循環型社会に向けて

最後に自然と共生する循環型社会に ついて考えたいと思います(図⑮) 。1 8世紀には、人口増加によって慢性的 な食糧不足が生じるのではないかと懸 念されました。しかし、技術の進歩に よって窒素固定ができるようになって 食料生産が増大し、人口はどんどん増 加しました。その後、都市の人口が増 加して、人間の排泄物に由来する窒素 の負荷が増加しました。先進国では下 水処理にエネルギーを投入し、一応の 処理が行われています。それでも、土 壌の酸性化が進み、オゾン層が破壊さ

れ、さまざまな環境問題が発生してい ます。このような問題はこれからの食 糧の増産を阻害するようなことになり ます。もう一つ重要なのは、化石燃料 の枯渇です。現在のシステムはすべて エネルギーに依存していますので、エ ネルギーがなくなると成り立たなくな ります。 現在のような化学肥料によって支え られている社会を今後どのようにした らいいのでしょうか(図⑯) 。選択肢は 大きく分けて二つあります。一つは、 化石燃料の代わりに新しいエネルギー を開発することです。たとえば原子力 発電が安全に利用できるのならそれも ありうるのかもしれませんが、いまは 安全かどうかという疑問が多くなって います。もう一つの選択肢は、途切れ てしまった循環を何らかの形でもとに 戻すことです。それは技術的にありう る話です。実際に中国の雲南省では、 人間と豚の関係を昔に戻し、バイオガ

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図⑯


大していることが確認できます。 次に日本を見ます。図⑬は日本の窒 素循環の変遷で、 1960年、 82年、 87年、92年の窒素の流れを示して

います。右側が国内で生産された飼料 と食料、左側が国外で生産された飼料 と食料のデータです。日本は半分以上 を輸入に頼っています。やや古いので

図⑭

すが、1992年で、全環境に対する 窒素の負荷量は166万トンとなって います。われわれ人間は1人年間約6 キログラムの窒素を何らかの形で必要

図⑮

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図⑲

スを使ったりして、生活レベルが改善 されています(図⑰) 。 「アジア地域における持続可能な消 費・生産パターン定着のための政策デ ザインと評価」という研究があって、 私も事例研究のチームとして参加して います(図⑱) 。東南アジアのいろいろ な地域に行って、実現可能なよい取組 を調べています。たとえば日本では東 近江の「菜の花プロジェクト」があり ます(図⑲) 。一つ大切なことは、一つ のプロジェクトではなく、さまざまな 活動を活発化させる〝場〟が存在し、 多様な取組が相互に刺激しあい、とき に連携しつつ、地域の持続可能性に関 する多様な課題に取り組む体制を育ん でいることです。もう一つ強調してお きたいことは、地域の固有資源(自然 資源・人的資源・人工資源)を生かし て,地域内循環する〝ループ〟を形成 することによって,地域固有資源のス トック量が増加させていることです。

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図⑰

図⑱ 148


■テーマ2

私からは、中国の漢の時代の自然保 護の思想を中心にしてお話をしたいと 思っています。

漢代の自然保護思想 紀元前2世紀に、漢の王族の1人で あった劉安が多くの学者を集めて『淮 南子』(えなんじ)という論文集を作り

ました。老荘思想を中心にして、儒教 や法家の思想を加えて、政治的あるい は技術的なことについて記した論文集 です。そのなかに、環境保全について 記した部分がありますので、今日はそ れを紹介して、紀元前の中国の環境保 全について考えてみたいと思っていま す。 『淮南子』巻九「主術訓」に次のよ

東洋大学文学部教授・エコフィロソフィ学際研究イニシアティブ所長

やまだ としあき

山田利明

中国の自然保護の歴史と思想

■発表1

日本人・ アジア人にとっての自然

司会 武内先生、ありがとうございま した。ご発表の先生方、ありがとうご ざいました。 それで休憩時間なしということで、 伊藤先生、後半のモデレーターをお願 いできますでしょうか。伊藤先生には ご無理をお願いして、ご自身のご発表 とモデレーターの両方をしていただき ます。 伊藤 それでは続きまして後半のモ デレーターを務めさせていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします。 後半は全体のテーマが「日本人・ア ジア人にとっての自然」 ということで、 私を含めて3人の発表があります。最 初に東洋大学の山田先生からお願いし ます。

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埼玉県小川町には、一生懸命に有機 農業をやってきた金子氏がいます(図 ⑳) 。金子氏はあまり大げさに「有機農 業をやらなければ」というようなこと はいっていなくて、私が良いモデルを

作れば、みんなも自然に同じようなこ とをするだろうということで行ってい ます。理解されるまでに30年近くか かったのですが、2006年には住ん でいる下里集落のすべての農家が有機 農業に転換し、また、2010年に, 有機の里として農林水産祭村づくり部 門で天皇杯を受賞できました。有機農 業を中心に多くの連携とネットワーク が形成されています。 昨日私は初めてこの佐渡島にきまし た。夜に温泉に入ると、 「虫さんも葉っ ぱさんもカエルさんもみんなと一緒に お風呂に入りたがっているよ。よろし くネ」と書いてありました(図㉑) 。こ ういうのはいいなと感じました。今日

図⑳

武内 ありがとうございました。 だいぶ時間が過ぎて、予定していた 休憩時間も全部使ってしまいましたの で、休憩時間はなしということで、ご 理解をいただきたいと思います。 それではこれで司会を交代させてい ただきます。よろしくお願いします。

は午前中、金山を見学しました。佐渡 には金山があって、棚田があって、昔 から自然と共生しながらやってこられ たのだなと感心しました。トキの保護 についても見学しました。佐渡島で完 全に無農薬の農業が実現できたら、日 本の将来の一つのモデルになるのでは ないかという希望をもちました。

図㉑

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ある。だから、人の上に立つ君主は、 時節によって、大地のもっている力を 尽くし、そして人の力を用いる。それ によって人々は繁栄し、五穀が稔る。 民衆に六種類の家畜を飼うことを教え、 時節時節に作物を植え、田畑を作り、 桑や麻を植え糸をつむぐ」というよう なことです。 後の方には、こういうことをしては

いけないというのが書かれています。 らして漁せず、 たとえば、 「沢を涸(か) 。つまり「池 林を焚 (や)きて猟せず」 の水をかい掘って漁をしてはならない。 林を燃やして中にいる動物を追い出し て狩をしてはいけない」と。 また、 「豺 (さい)のいまだ獣を祭ら ざれば、罝罦 (しゃふ)の野に布 (し)く ことを得ず」 。 豺というのは山犬のこと らしいのです。 「祭る」とは「獺祭 (だ 」の「祭」と同じ意味です。獺 っさい) が小さな生き物を獲って肉を割いてバ ラバラにするのが「獺祭」で、獲物を 神に捧げるという意味で「祭る」とい っています。ですから、ここの意味は、 「山犬が小さな動物を襲って祭ったり しない間に網を掛けて、取り尽くそう としてはいけない」ということです。 次に、 「獺がいまだ魚を祭らざるに、 網罟 (もうこ)の水に入るを得ず」とあ ります。 「獺が魚を祭る前に、網を水に 入れて魚を捕まえてはいけない」とい

うことです。そして、 「鷹隼のいまだ摯 たざるに、羅網を溪谷に張るを得 (う) ず」とあって、 「鷹や隼が鳥を獲らない うちに渓谷に網を張ってはいけない」 と。要するに時節時節にこういったこ とを守って猟をしろということがずっ と書かれているのです。 時節に合わせて生き物を捕るという ことは、生き物の絶滅を防ぐためであ るというのは明らかであります。 いまこうして読んでみて、初歩的な 環境保護の思想が伝えられているわけ で、このような思想がいまから200 0年以上前に中国に存在していたので す。こうした環境論はある程度はどこ の国にもありました。これが書かれた 当時において、実際にこういうことが 広く行われていたことを示すものでは ないかと考えられます。 いま読んだ『淮南子』は漢代に編集 』という されたもので、 『礼記 (らいき) 古い経典にもこの部分とほぼ同じこと

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うな文章があります。

食者民之本也。民者国之本也。国者君之本也。是故人君者、上因 天時、下盡地財、中用人力、是以群生遂長、五穀蕃植、教民養育 六畜、以時種樹、務修田疇、滋植桑麻、肥墝高下、各因其宜、丘 陵阪険不生五穀者、以樹竹木。春伐枯槁、夏取果蓏、秋畜疏食、 冬伐薪蒸、以為民資。是故生無乏用、死無転尸。故先王之法、畋 不掩群、不取麛夭。不涸沢而漁、不焚林而猟。豺未祭獣、罝罦不 得布於野、獺未祭魚、網罟不得入于水。鷹隼未摯、羅網不得張于 溪谷。草木未落、斤斧不得入山林。昆虫未蟄、不得以火燒田。孕 育不得殺、鷇卵不得探、魚不長尺不得取、彘不期年不得食。是故 草木之発若蒸気、禽獣之帰若流泉、飛鳥之帰若煙雲、有所以致之 也。

これはいわゆる漢文、当時の中国の 文語文であります。見ていただきたい ところを読み上げます。

「食は民の本 (もと)なり。民は国の本 なり。国は君の本なり。この故に人君 は、上は天の時に因 (よ)り、下は地の 財を尽くし、中に人の力を用いる。こ こをもって群生は遂げて長じ、五穀は 蕃植する。 民を教えるに六畜を養育し、 時をもって種樹し、務めて田疇 (でんち ゅう)を修め、桑麻を滋植し、肥墝 (ひ こう)を高下し、各おのその宜 (よろ) しきに因り、丘陵阪険にして五穀生ぜ ざるものは、もって竹木を樹える。春 には枯槁を伐り、夏には果蓏 (から)を 取り、秋には疏食を畜え、冬には薪蒸 を伐る……」 。

このように書いてありますが、要す るに「食料は民のもとである、その民 は国のもとであり、国は君主のもとで

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なかったと思われます。 食料生産の効率もよくありませんで した。稲にしても現在のようにたくさ んの穂をもつ品種でなく、1本の稲か らいまの収穫量の3分の1ぐらいしか 採れませんでした。 そういう状況での農業生産ですから、 どうしても収量が少なく、慢性的な飢 饉状態にあったと思われます。そのよ うなことで一番被害を受けるのが子供 です。子供は次代を背負うわけですか ら、それが少しずつ死んでいくとなる と、人口構成の下の方が減ってしまっ て、全体として人口に大きな影響が出 ます。 そして人口がある程度のリミットに まで減ると、人口がまた少しずつ増え るようになります。つまり人口に合っ た食料事情が回復することで、人口が 元に戻っていくのです。 細かいところについてはもう少し調 べなければいけないのですが、おそら

くこの考え方である程度の整合性があ るのではないかと思っていて、今度論 文に書くことにしています。

伊藤 山田先生、ありがとうございま す。 では、続いて東京大学の吉田先生、 お願いいたします。

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が記録されています。どちらが最初に 書かれたのかということはわかりませ んけれども、2000年以上前にこう ような意識があったということは明ら かです。

中国における人口の変遷 次に、漢の時代にどのぐらいの人口 があったのかということを考えてみた いと思います。これについては、面白 い研究を広島大学の加藤徹さんがなさ っていて、2006年に発表していま す( 『貝と羊の中国人』 (新潮新書) ) 。 中国では紀元2年に戸籍の調査が初 めて行われ、そのときの人口は595 9万497八人であったという数字が 残っています。確かにここまで調べて いるのです。ほぼ6000万人です。 このときの人口は、戸籍調査なので1 戸を単位にして調べています。 これから100年ほどして後漢にな

ったときにも戸籍調査が行われていま す。そのときの人口は、驚くべきこと に、2100万782人という数字で す。 つまり3分の1しかいないのです。 100年と少しでほとんど4000万 人が消えてしまったのです。これをど う考えたらいいのでしょうか。 さらにこの後の資料を見ますと、後 漢の末の紀元157年には人口は56 48万6000人ほどで、かなり回復 しています。ところが、それから15 00年後の三国時代に入ると1600 万人台に減っています。 つまり、5000万人から6000 万人に近くなると、その後100年か ら150年ぐらいかけて少しずつ減っ ていって1500万人から2000万 人ぐらいにまでなってしまうのです。 このような増減が何度も繰り返されて、 1億人を超すのは宋の時代、12世紀 から13世紀になってからです。 このような増減の繰り返しが何によ

るのか、いろいろな説があって、はっ きりとした原因はつかめていません。 戦乱によって減ったという説明もあ ります。そうだとする、戦乱時に激減 するはずなのですが、実際には少しず つ減っています。 私としては、仮説として、こういう ことも考えられないだろうかというこ とを今日はお話したいと思っています。 漢代の中国は、いまの中華人民共和 国よりはかなり狭く、しかも、黄河よ り北の華北地方は半分以上が黄土台地 で、 耕作はほとんど望めませんでした。 また、唐代の終わりぐらいまでは、華 中から華南にかけて、その半分ぐらい は森林地帯でした。森林でなければ、 人間が入れないような原野が広がって いました。そうしますと、海沿いのと ころから深さ200キロないし300 キロぐらいまでのところしかおそらく 耕作できなかったのではないかと考え られます。要するに絶対的に食料が少

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のは典型的な人間中心型の自然観です。 人間が自然の上に立って、自然から搾 取をしたり、自然を改変したりするの は人間の権利であるという理解です。

157

う状態です。三つ目は仲間(パートナ ー) です。 人間と自然が同等の関係で、 より良い状態に向かって協力し合う存 在だという理解です。四つ目は管理人

図②

二つ目は無関心・無関係で、これは先 ほどの二つ目の側面で自然との関係が 弱いというのを挙げましたが、弱いだ けではなく、関係が欠如しているとい 図①


■発表2

佐渡とイリノイの自然観 よしだ ゆき

吉田有紀 -

えていきます(図①) 。 まず三つの側面から申し上げますと、 一つ目の側面は、環境に対する態度の 主な焦点となっている自然と人間の位 置付けです(図②) 。たとえば、人間が 上だとか下だとか、人間が自然の一部 であるとか、人間中心的か自然中心的 か、そういった考え方です。二つ目の 側面は、 自然と人間との関係の質です。 これは強いとか弱いとかに加えて、感 情的・理論的といったこともあります。 三つ目の側面は、自然についての理解

東京大学大学院新領域創成科学研究科 サステイナビリティ学グローバルリーダー養成 大学院プログラム(GPSS GLI)博士後期課程

今日のテーマは「日本人・アジア人 にとっての自然」ということですが、 私からは、いま研究している佐渡と、 これまで研究してきてイリノイとを対 比しながらお話させていただきたいと 思います。

自然観の3側面と6タイプ 自然観とは、大まかにいうと、人や 社会と自然との関わり方ですが、ここ では三つの側面と六つのタイプから考

です。地球環境は人間が誕生する前か らずっとあって、たとえ人間が自然環 境を破壊して自滅しようとも、自然は 続いていく強い存在なのだという理解 がある反面で、生態系というものはと てもデリケートで丁寧に扱わなければ いけない、か弱い存在なのだという理 解もあります。 次に六つのタイプですが、順に簡単 に説明します(図③) 。このうち四つは 先行研究でよく使われています。一番 上に記した「主人(マスター) 」という

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図⑥

佐渡とイリノイの比較研究 今回の研究対象地は佐渡とアメリカ のイリノイです(図⑤) 。佐渡はトキと

の共生が進み、生物多様性の教育がと ても発展していることでよく知られて います。 イリノイについて簡単に背景を説明 します。イリノイ州の州都はシカゴで す(図⑥) 。典型的な中西部で、延々と 平坦なトウモロコシ畑や大豆畑が続き ます。農家の平均面積は1600反以 上で、大規模農業です(図⑦) 。環境負 荷の問題がいろいろと指摘され、その なかでも化学窒素の投入が世界的にも 問題視されています。図⑦の下の写真 はメキシコ湾の富栄養化の状況を示し ていて、これはミシシッピー川の流域 で大量の窒素が投入されていることが 原因であるとされています。今回の研 究対象地は、窒素投入量が最も高い地 域、図⑧で真っ青になっている地域で す。 この地域では1970年代からこう した問題があるということは認識され ていました。環境対策の助成金も出さ

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ファレンスなどと関連付けられていま す。先行研究は主にオランダをはじめ とした西ヨーロッパで行われていて、 それらの研究では、ほぼ参加者全員が 「主人」といった人間中心的な考えは 否定しています。このような考えは現 代の一般社会には存在しないと言い切 られているほどの否定の度合いです。 図⑤


(スチュワード)です。これはもとも とは聖書の考え方からきていて、キリ スト教の主が自然を人間に託したので あって、人間の役割は、託された自然 をうまく管理していくことなのだとい うことです。 いまでは宗教に関係なく、 たとえばサステイナビリティの定義に

ありますように、次世代に自然を残し ていく責任がわれわれにあるというの は、自然の管理人であるということに ほかなりません。 五つ目が参加者です。 これは六つのタイプのなかで最も自然 中心的な考え方で、人間は自然の一部 であり、心身ともに自然と強い絆で結

図③

ばれていると考えます。たとえばネイ ティブアメリカンとか、日本古来の考 え方もこういった位置付けになるかと 思います。大自然のなかで人間はちっ ぽけな存在であるとの考えや、スピリ チュアリティの話とかもこのタイプに 含まれます。 最後が利用者です。 近年、 生態系サービスという考え方が環境政 策のなかで使われていますが、これも 一つの自然観ではないかと思います。 生態系サービスというのはその名の通 り生態系が人間に提供するサービスの ことで、自然はサービス提供者である という考え方です。人間はそのサービ スを使って幸せになろうとする利用者 です。 上からの四つのタイプが先行研究で よく使われていて、一番上の人間中心 的な考えは自然破壊の原因であるとし て長く理論的に議論されてきています (図④) 。最近の研究では、四つのタイ プの自然観が、実際の環境政策のプリ 図④

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について発表させていただきます。イ リノイは農家だけを調査の対象とし、 佐渡は一般市民を対象にしています。

後半で、年齢にかなりの広がりがあり ます(図⑩) 。違いが明らかなのは、イ リノイの方は90パーセント以上の回 答者が男性です。学歴は、佐渡の回答 者の多くが高卒ということで、イリノ イの方がずいぶん高い結果になってい ます。 先行研究によると、男性の方がより 人間中心的な回答をしている傾向があ り、高学歴の方がより自然中心的な考 え方をしているということになってい ます。

調査結果

実際のアンケートの調査結果ですが、 自然観について先ほどの6タイプごと に5通りの回答から選んでいただきま した(図⑪) 。 イリノイの方がより多く自然中心的 な考えに賛成しているという結果にな っています。自然中心的な考えに賛成

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図⑪

両者の比較は慎重に行わなければいけ ません。 回答者の平均年齢はどちらも50代 図⑩


れているのですが、改善していないの が現状です。フィジカルな技術だけで は解決できない問題で、農民がどのよ うに考えているのかということも大事

です。それで、自然観についての研究 が必要ではないかということでアンケ ート調査、インタビュー調査を行いま した。アンケート調査は2012年と

図⑦

2013年に行い、合わせて200人 あまりの回答者にご協力をいただきま した(図⑨) 。 佐渡については、佐渡市役所に大変 にご協力をいただき、今年500人近 くの回答をいただきました。今日はま だ入力途中なので400人ほどの回答

図⑧

図⑨ 160


賛成している人たちがいること自体が、 ヨーロッパのこれまでの研究とは結構 対比的です。 イリノイは環境問題に関して調査す

水質についてうかがうと、ご近所さん が水を使うから気にしなければいけな いといった話が多くありました。 また、 できるだけたくさん生産しなければい けないので、自然のことなど考えてい られないといった意識もありました。 インタビューのなかでとても鮮明に なったのは、個人的にはより自然中心 的でありたいと考えながらも、実際に ビジネスとして農業を行っていると、 そうではない人間中心な考えにならざ るをえないということが出てきている ことでした。そういった状況にイリノ イの農家が置かれているということで す(図⑯) 。 これまでの研究では、1人の人は一 つのタイプであるということが前提と なって分類されていました。しかし、 図⑰では、たとえば青い線は、主人で あることに賛成した人たちが、他のタ イプについてどのように答えたかが示 されています。ご理解をいただきたい 図⑯

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る対象になることが多く、農家の皆さ んには結構警戒心があって、インタビ ューのなかでも、そうしたことを意識 したような答えがありました(図⑮) 。 図⑮


している部分だけを抜き出すと、より わかりやすいかと思います(図⑫) 。イ リノイではインタビューも行い、自然 中心的な発言がたくさん聞かれました

図⑫ (図⑬) 。 われわれはスチュワートとし て自分たちの土地を預かっている、神 様からいただいた土地を丁寧に管理し ているのだといった意識をとても強く

図⑬

農家の皆さんが持っておられました。 その反面、主人であるという考えに 賛成する人もイリノイの方が多くいま した(図⑭) 。主人であるということに

図⑭

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いうことがあります(図⑱) 。日本人が あまりはっきりとした言い方をしない ということや、そもそものアンケート の設問が直訳的でわかりにくかったと

いうことがあったのかもしれません。 無関係というところに賛成が佐渡で2 5パーセントほどいたのがかなり高い 割合となっています。無関係というタ イプは自然中心と人間中心の間のタイ プで、イリノイでは最も賛成が少なか ったので、25パーセントも賛成とい うのは結構異例な結果です。 なぜこうなっているか、一つ考えら れるのは、そもそも日本には自然とい う単語がなかったということもあって、 自然を別の存在として見る習慣がなく、 自然についてどう考えるのかと聞かれ ても、何かよくわからないという答え になってしまうのではないかと思われ ます(図⑲) 。 アンケートの自由回答欄で、「あなた にとっての、 佐渡の豊かさは何ですか」 という質問をさせていただきました。 63パーセントの回答者が自然という 言葉を入れていました(図⑳) 。おいし い米や魚がとれる、野菜は自家で作れ 図⑳

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日本人の自然観 また、佐渡の特徴として、どちらで もないと答えた人がとても多かったと 図⑲


図⑰ のは、主人と答えていても、他の自然 中心的な考え方にも賛成しているとい

うことです。同じ人でもいろいろな考 え方をもっているということです。

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図⑱


■発表3

漢字文化圏の「自然」観についての試論 とくにベトナムに注目して 伊藤哲司 いとう てつじ

ました。昨日の夕方に来て、今日の午 前中ちょっと回っただけなのですが、 やはり島というものには独特のものが あるのかなと感じて、長くここに関わ ってみたいと思い始めています。 私は茨城大学で地球変動適応科学研 究機関(以下、ICAS)というサス テイナビリティ学の研究・教育を行う ところの機関長を務めさせていただい ております(図①) 。私自身の専門は社 会心理学という文系分野なのですが、 学内の60人以上のさまざまな分野の

茨城大学地球変動適応科学研究機関(ICAS)機関長

私はもともと自然観について研究し ているということではないのですが、 「日本人・アジア人にとっての自然」 というテーマをいただいて少し考える ところもあり、今回は試みの論という ことで提示させていただきます。ベト ナムに割と長く関わってきていますの で、そちらの話をします。

自己紹介をかねて 今回初めて佐渡に来させていただき

教員がICASに参加しています。2 016年は10周年の記念シンポジウ ムを開き、つい先日は、東京の立川に ある国文学研究資料館と地誌資料を使 った防災研究を一緒にやりましょうと いうことで協定を結び、これから研究 が始まっていく予定です。 ちょうど2年前にSSCの集まりを 茨城大学でやらせていただきました (図②) 。 原子力にどのように関わるの がよいのかということでワークショッ プを行ったりしました。

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る、畑がたくさんあるから何でも作れ る、山のものもたくさんいただけて幸 せです、元気の源ですといったことが 書かれています。美しい自然に囲まれ ていることは、人情味があるというこ とにつながっていると思いますという

答えもあります。自然が生活のあらゆ るところに貢献しているという意識も あります。 日本人の自然観として、自然を「神 秘的・神」として捉える、 「師匠」とし て捉えるということがあります。欧米 ですと、 「マザーネーチャー」というよ うに自然を母親とみることがあります が、日本では山が険しかったり、地震 もあったりして、より厳しい自然とい った見方もより強くあるのかなと思い ます図㉑) 。そういったことから、自然 の恩恵を受けるとか、自然に服従する とか、そのようなことともまた少し違 うニュアンスがあるのではないかと考 えられます。 今回はイリノイと同じようなアプロ ーチで佐渡の自然観を捉えようという 試みだったのですが、もともと欧米で 出てきた自然観のタイプ分けなので、 日本ではもう少し違ったことも考えて 調査しなければいけないのかなという 図㉑

思いもあります。 まだ研究の途中経過ではありますが、 ご静聴どうもありがとうございました。

伊藤 ありがとうございました。 では、続きまして私から発表させて いただきます

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実は再々婚で、一番上の子がもう21 歳の大学生になっているのですが、い まは毎日乳飲み子の息子と向きあい子 育てをしています。そういう子どもの

図④

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日は助産師の方に講演をしていただき ました。 (図⑤) 。ある参加者から、サ ステイナビリティ学と助産師の関係が わからないというご指摘をいただきま

図⑤

ことを考えても、やはり命の問題はサ ステイナビリティを考える上で大変重 要だなと思っていて、 「命の授業」とい うのを行ったりもしています。つい先

図③


私は1964年に名古屋で生まれ、 ベトナムに比較的長く関わってきまし た(図③) 。もともと災害研究をしてき

たわけではないのですが、 「被災地」に 関心があり、社会心理学の立場から、 「葛藤(コンフリクト) 」に関心があり

図①

ます。 私はもう53歳なのですが、この年 になって子どもに恵まれました (図④) 。

図②

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5月から翌年の2月まで当時の文部省 の在外研究員として滞在しました(図 ⑦) 。その経験をまとめて『ハノイの路 地のエスノグラフィー』(ナカニシヤ出 版)という本を書きました。私はベト

ナム語はすらすらとは書けないのです が、友人の力を借りてベトナム語でも 本を出しました。この本には、ハノイ の路地と生活世界の当たり前のことが つづってあるのですが、わりとうけが 良くてたくさんの方から反響をいただ いたり、あるいはハノイの新聞社など から取材を受けたりもしました。 それで今日の話に入るのですが、ベ トナムというのはご存じの方もいらっ しゃるでしょうけれど、漢字文化圏で す(図⑧) 。ベトナム語はいまはアルフ ァベットに記号が付く表記をしていま すが、 これは基本的には発音記号です。 ですからルールさえ覚えれば、ベトナ ム語は音読することができます。 ただ、 発音は結構難しいので、何となくそれ らしく読んでも通じないということが よくあるのですが。 いくつかベトナム語を並べてみまし た。一番上は「トゥニエン」という発 音ですが、 「トゥニエン」は自然です。 図⑧

「ティエンイエン」は天然、 「チューイ ー」は注意、 「イーキエン」は意見、 「キ ーニエム」は記念、 「クアンサット」は 観察、 「カムドン」は感動、 「ラックヮ ン」は楽観です。 ハノイは漢字で書くと河内と書きま す。ハノイというのは一つの言葉では なくて、 「ハー」が河で、 「ノイ」が内 です。あそこは紅河が流れていて、川 の内側にある場所がハノイということ です。ベトナムは越南です。 「ニヤッバ ン」は日本です。 日本語・ベトナム語辞典とか、ある いはベトナム語・中国辞典とかを見ま すと、 漢字が表記されています。 ただ、 ベトナム人の皆さんはいま漢字をまっ たく使いませんので、漢字での表記を 多くのベトナム人は実は知りません。

ベトナム語の自然

自然はベトナム語では図⑨のような

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した。でも、命の問題、あるいはライ フの問題は、サステイナビリティを考 える上で根本的な問題ではないかと思 っています。

ご存じの方が多いかと思うのですが、 日越大学がハノイに昨年9月に開学し ました(図⑥) 。茨城大学は七つ目のプ

ベトナムとの関わり

図⑥

ログラムにあたる気候変動・開発プロ グラムの幹事校になり、今年の9月か ら1年遅れで始まる予定でいま準備を しているところです。 私はベトナムのハノイに1998年

図⑦

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図⑪

という意味になります。もう一つ「ト ゥニエンニイ」というと、 「ニイ」とい うのは日本語の 「で」 に近い接尾辞で、 直訳すると「自然ですね」ということ になりますが、これは「恥ずかしくな いの?」というような意味です。日本 語だと「天然ボケ」という言葉があり ますが、 それに近いのかなと思います。 詳しい考察ではありませんが、日本 語の自然と「トゥニエン」は少しずれ ていて、でもかなりは合っているとい うことです。

自然を支配する?

次はネット上で見つけた情報なので、 あまり詳しく説明はできませんが、自 然観・社会観の国際比較です(図⑪) 。 自然は共存すべきか支配すべきかとい うことを問うたアンケート調査です。 日本では96パーセントぐらいが共存 すべきものと答えているのに対して、

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表記をするのですが、日本と意味が同 じなのだろうかということで、日本語 が堪能な何人かの友人たちに聞いてみ ました。意味するところはほぼ同じで はないかという声が割と多かったです。 「トゥニエン」というのは、人間がコ

図⑨ ントロールできるものなのかどうかと いうことも聞いてみましたが、私が聞 いた範囲では、コントロールできない ものである、つまり人間を何か超えた ものであるという声の方が多くありま した。

図⑩

ただ、人工のものではない自然にあ るものは、 トゥニエンという言葉より、 ティエンイエン(天然)という言葉で 表すことがどうも多いようです。ティ エンイエンを日本語でいう自然と訳し た方がそれこそ自然であるような気が します。 大自然という意味での自然ではなく、 「自然に話す」とかいったような意味 で「トゥニエン」を使うときもありま す。 「どうぞご遠慮なく、自然にお召し 上がりください」というときにも、 「ト ゥニエン」を使います。 一方で、明らかに日本語にはない意 味で使われることもあります(図⑩) 。 たとえば「不意に彼は何も言わずに帰 ってしまった」というときに、 「トゥニ エン」は「不意に」という意味になり ます。 「気がついたら、春になってきま した」というときには、 「トゥニエン」 を使って「春が自然にきた」という言 い方をして、日本語の「気がついたら」

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自然観は変化する 暫定的な結論としては、同じ漢字文 化圏ということで、中国とか韓国・北 朝鮮を含めてのことですが、西洋の言 葉には見出しにくい共通の概念がある

ことは確かです(図⑬) 。たとえば、 「縁 がある」という言葉がありますが、縁 をベトナム語では「ズエン」と言いま す。これはたとえば英語には単純に直 しづらいものです。それから、今西錦 司さんが書いていることで、「自然に対 比されるものは人工であるけれど、西 洋流の考え方では自然に対比されるも のは人間である」と。1966年にこ のように書いています。 漢字文化圏のなかで、概念の共通性 に注目しながらも、意味のずれとか使 われる文脈の違いにも注意を向けた検 討が必要だと思います。 日本語でも 「自 然」を「シゼン」と読むのか、 「ジネン」 と読むのかで意味が異なるとも言われ ます。一番私が知りたいのは、その時 代、その社会での生活のなかで、どの ような自然観が人々の間で共有されて いるのかということです。それは災害 観にもつながるだろうし、あるいはそ こからさらに適応とは一体何なのかと

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の日本あるいはベトナムにもいろいろ な地域がありますから、そうそう単純 にはいえないでしょう。それでも、も う少し詳細に検討していく価値がある のではないかなと思っています。 図⑬

図⑭


ベトナムでは、支配すべきものと答え たのは半数くらいになっています。先 ほどベトナム人の友人たちが、自然は

どちらかというと人間の手を超えたも のだと捉えているところが多いと話し ましたが、この結果を見る限りはかな

図⑫

り違うような感じがします。私が20 年ぐらい前にベトナムで生活していた ときの経験からいうと、東洋医学も結 構入っているのですが、西洋医学の薬 を単純に信用して、それを飲んでこそ 病気が治ったみたいな言い方をしてい て、何か科学的なもの、ないしは人工 的なものを信頼する度合いが高いのか なと感じたことがあります。そのよう なこととも多少つながるようなデータ ではないかと思います。 そのような自然観も時代が変化すれ ば当然変わっていきます。残念ながら ベトナムのデータが見当たらなくて、 日本だけです (図⑫) 。 これを見ますと、 人間が幸福になるためには自然を征服 するという考え方は、1060年代半 ばぐらいまでかなり高くて、そこから グッと下がっています。自然観に関す る考え方は、時代とともに、あるいは 経済状況とともに変化してくるという ことを表しています。とはいえ、現在

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彼女が東大に行く前から私は実はつな がりがあって、彼女の案内で少し巡っ たときに、田んぼに農夫がいて、これ から田植えをするところで、この農夫 たちの話もいろいろと興味深かったで す。広大な田んぼなのですが、最近は 蟻とかネズミが屋根の方に上ってきて いると語っていました。ということは 何を表しているかというと、これから 大きな洪水が起こるだろうと言うので した。しかし、堤防というものは基本 的に作らなくて、洪水を何としても防

も起こってしまうわけで、1999年 にはこのあたりに非常に大きな洪水が あり、 数百人の方が亡くなっています。 でも、逆にその洪水がなくなると、畑 のトウモロコシを荒らすネズミが増え るということもあるそうです。いわゆ る自然との付き合い方というところは いまの日本のあり方とはずいぶん違う のかなというのを感じた記憶がありま す。こういったことも含めて、今後さ らにこのテーマを検討していく価値が あるのかなと思っています。 何かご質問があるでしょうか。 図⑱

山田 自然という言葉と天然という 言葉を対比したことについてお尋ねし たいのですが、自然という言葉は中国 の道家思想から出ていて、それは「自 ずから然り」 「自然にそうなる」という 意味です。つまり「ケセラセラ」です。 ただ、中国の古い時代において「天然」 という言葉を私は見たことがありませ

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ごうという発想そのものがないように 見えました。 農民にとっての適度な洪水がむしろ 必要だということです。一方で大洪水

図⑰


いう、適応の概念を検討することにも つながってくるのではないかという気 がします。とくに災害をどう見るのか ということに関しては、最近、ICA Sが協定を結んだ国文学研究資料館と の共同研究のなかでも、課題になって

図⑮ くると思っています。 これはおまけで、2006年に作っ たものです(図⑭) 。ベトナム中部のフ エにはこのような風景が広がっていて、 ここは洪水の頻発地域です。ここで中 学生たちと出会っていろいろな話をし

図⑯

たのですが(図⑮) 、洪水がしばしば起 こって大変だと言いはしても、そんな 陰はあまり見えませんでした。 フォン川という川が流れていて、そ こに水上生活をする一家がいて、イン タビューをしました(図⑯) 。一番下の 娘さんが筏から落ちて亡くなっていて、 子どもたちには陸に上がって生活をし てほしいと、彼らご夫婦は言っていま した。ちなみにいまは水上生活の人々 は陸上に移住させられて、もうそこに はいません。 図⑰のおばあさんは、洪水はとにか く防がなければいけないとは考えてい なくて、それが畑を豊かにしてくれる という考え方をしていました。でも、 家が壊れてはやはりかなわないので、 丈夫な家に建て替えたいと言っていま した。 図⑱もベトナムのフエの風景で、こ こに写っている女性はマイさんといっ て、福士先生の研究室にいた人です。

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があります。ベトナムの生活世界、特 に農民の生活世界を表していると思う のですが、ベトナム語で、水のことを 「ヌオック」といい、 「ヌオック」には もう一つ「くに」という意味がありま す。国家という意味ではなく、自分た ちの住んでいるふるさとという意味の 「くに」です。水と「くに」が同じ言 葉だというのは、非常に面白いなと前 から思っていて、水があるということ と自分たちの生活世界に何かつながり があるんだろうなということを思いま す。 ――ベトナムには40回ほど行ってか なり付き合いがあるのですが、同じ漢 字文化圏とはいっても、いまのベトナ ム語は発音記号みたいな表記になって いて、それでベトナムの人が満足して いるのでしょうか。日本人はみんな漢 字を知っていて、日本の企業がボラン ティアでベトナムで漢字の復興作業を

やってみたりするのですが、ベトナム の人には漢字が失われたことに対する 動きというのはあまりないような気が します。そこはいかがでしょうか。

伊藤 その他にコメント、質問がなけ ればこのセッションはこれで閉じさせ

支配をされてきたという関係なので、 漢字に対する若干の嫌悪感みたいなも のがもしかするとあるのかもしれませ ん。

山田 いまのお話を少し補足したい と思うのですが、1990年代から2 000年に入るかどうかというこころ に、 「漢字文化圏」という概念がかなり 使われたことがありました。それはア ジアから出た言葉ではなくて、ヨーロ ッパの中国学研究者の間から出てきた 言葉でした。向こうから見ると、確か に漢字文化圏かもしれないのですが、 アジアから見ると、漢字文化圏のなか にもいろいろな文化があって、漢字を 使っているからといってひとまとめに して、それを文化に結び付けるのはや はりだいぶ無理があると思います。

伊藤 個人的な意見ですが、漢字を改 めて学びたいとはほとんど思われてい ない感じがします。19世紀まで使わ れていたチュノムという漢字を少し変 形させたような文字があって、それは 非常に難しくて、一部の人しか読めな かったと言われています。いまのベト ナム語の表記法は非常に近代的で優れ ていると考えている節があるようです。 便利で覚えやすいし書きやすいしとい うことで、そこから離れて漢字を復活 させようといったことは考えていない 感じがします。 それからもう一つ、中国出身の方が いる前では少し差し障りがあるかもし れませんが、歴史的に中国との関係は 必ずしも良好ではなかった、あるいは

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ん。劉さん、どうですか。

劉 ないです。 山田 中国にない天然という言葉が ベトナムにどのように入ってきたのか 面白く思ったのですが、どうなのでし ょうか。 伊藤 ありがとうございます。申し訳 ありません、この点については知識が ないので、このことにはお答えができ ません。中国、日本、ベトナム、ある いは韓国との比較ができると興味深い 発見ができるかもしれません。コメン トとして受けさせていただきます。 それでは、私も含めた3人の発表が ありましたが、全体を通してコメント なりご意見なりありましたらぜひお願 いします。 ――イリノイと佐渡の自然観について

お聞きします。とくに水に対する意識 がアメリカ人と日本人では違うのでは ないかと思うのですが、川の水を使う のと地下水を使うとでは、感じ方が違 うというようなことがあるでしょうか。

吉田 ご質問ありがとうございます。 イリノイでは井戸水を多く使っていま す。農地から流れ出る水の水質につい て質問をしますと、飲み水としての水 質についての答えが返ってくることが よくあります。そういう意味で、自分 たちが利用する水、という意識が強い ように感じました。また、イリノイの 調査した地域はもともとは湿地で水を 抜いているので、 水は排出したいもの、 という意識が感じられました。

伊藤 関連するかどうかわからない ですが、ベトナムには、水の上に人形 を浮かす水上人形劇の伝統芸能があっ て、ハノイとかホーチミン市には劇場

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関心をお持ちである方であると強く感 じておりました。私も、工学研究科で 5年間にわたり教務委員長を4年間に わたり研究科長させていただいたこと もあり、自然共生、資源循環ならびに 低炭素社会という極めて大切な概念を、 将来を担う学生に真に認識させるには、 どのようなことをすべきであろうかと いうことを真剣に考えておりました。 今日の栗本先生のお話は、まさにこの 課題に対する一つの解答を示して下さ ったという感じを持ちました。地域に 実際に出向き、そこにある環境問題を

含む山積みの問題を地域の方々とのコ ミュニケーションを取りつつ解決を図 って行くという方法は、客観的に見て 非常に優れた実践教育であると思いま す。一方で、長く続けるには、学生と 地元の方々とのコミュニケーションの 継続性の問題をはじめとするいくつか の重要な課題があるということも大変 参考になりました。 引き続き吉田先生、渡辺先生のお話 をお聞きしました。先生方は、地域の 活性化の必要性のみならず如何に地域 経済の発展と展開を図るべきかの具体 策を述べられました。お話の意義と展 開は、とても理にかなっており大変す ばらしいことだと思いました。特に、 吉田先生が言われました現代環境論を 左右する四つの思想は大変に重要な紹 介で、それは、まがいもなく政策に大 きな影響を与えるものであります。思 想の背景には自然観をどのように捉え るかという最も基本的なものから発し

ており、私も再度きちんと考え直さな ければならないなと強く思いました。 劉さんの講演のキーワードは窒素で すが、窒素というと私などは単純にノ ックス( )とか排ガスのことしか考 えていなかったのですが、循環できな い窒素がこれだけ過剰にあるという指 摘は衝撃的でありました。このことは 是非多くの方々に知っていただきたい と思いました。 山田先生は中国での人口の増減理由 を考察しておられ、それは単に戦争が あったからというのではなく、生産プ ロセスの問題、それが自然観と深くか かわっていることに起因するという考 えであり、大変興味深く聞かせていた だきました。その考えは、日本はいま 人口が減っていますので、これからの 生産プロセスがどうあるべきかという ことの問題に対しヒントを与えるもの として大いに意義があるように感じま した。

NOx

181


ていただきます。どうもありがとうご ざいました。

司会 伊藤先生、発表の皆さま、あり

■とりまとめ

かけした ともゆき

掛下知行

がとうございました。これで研究発表 はすべて終了しました。 それでは、本日の取りまとめを大阪 大学の掛下先生にお願いいたします。

工学だこうかと思います。特に、皆さ まのご講演の中で、私が感じました印 象的で刺激的なところについてお話さ せていただこうかと思います。 まず、梅田先生のご講演ですが、冒 頭に述べられた「作る責任、使う責任」 というキーワードは、工学が専門の私 にはぐさりと心に突き刺さる思いでし た。私は、鉄鋼材料を主体とするいわ

サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC)理事 大阪大学大学院教授

皆さま、大変素晴らしいご講演をし て下さりありがとうございます。貴重 な講演のとりまとめ役は私にはふさわ しくありませんが、ご指名がありまし たので僭越ながら役を果たさせていた だきます。ご容赦の程どうぞよろしく お願いいたします。とりまとめにあた り、私の専門は工学でありますので、 的視点の立場から、お話をさせていた

ゆるものを支える構造材料の基礎と開 発にも携わっておりますが、とかく機 能性を追求することに主眼を置いてし まい、その生産プロセスやできた後に かかわる環境に優しくかつ資源循環に 適したという極めて重要なことを忘れ がちになります。その結果、環境破壊 につながる二酸化炭素や窒化物等の発 生問題を引き起こしてしまうことにな ります。十分にその大切さを認識して いるつもりですが、そのあたりことを あらためて厳しく問われているような 思いがしました。また、このキーワー ドを踏まえた日本の産業のあり方につ いていろいろなお話をされましたが、 私のみならず皆さまにも大変参考にな ったのではないかと感じております。 次は栗本先生です。栗本先生と私は 大学で同じ組織に属しておりましたこ ともあり、いろいろなお話を伺う機会 がしばしばありました。そのお話を通 して、私は、先生が教育に熱心で深い

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では武内先生にモデレーターをお願い し、後半の「日本人・アジア人の自然 観」では伊藤先生にモデレーターをお 願いしました。そして各先生方から大 変興味深い貴重なお話をいただいきま した。皆さまに厚くお礼を申し上げた いと思います。私も拝聴しておりまし て、大変勉強になりました。 ただいま掛下先生からおまとめをい ただいた通りで、私からはほとんどそ れに加えることはありません。私自身

はどちらかというと第一セッションの 方が日頃考えておりますことに近いも のですから、その点でいろいろと考え させられる点も多かったわけでござい ます。サステイナビリティということ を考えていく際に大切なこと、循環経 済であったり、野生生物資源であった り、 絶滅の恐れのある生物であったり、 薬用植物であったり、あるいは窒素循 環というような新しい問題も絡んでく るといったことであったり、さまざま なところからのお話を聞かせていただ きました。また教育の側面からのお話 も伺いました。いずれしましても、私 が感じますのは、地域の自然のシステ ムをベースに置きながら、いかにして 社会や経済のシステムが持続可能なも のに変わっていくのかというところで、 今後さらに皆さんの研究が発展してい くことを大いに期待したいと思います。 後半のセッションの自然観に関わる ところにつきましては、日頃私はあま

りこういった点についてよく考えるこ とをしておりませんので、今日は勉強 をさせていただいたということ以上に 私からは申し上げる点はございません。 本日のセッションおいて、自然観とサ ステイナビリティというテーマについ て、いろいろな側面から掘り下げるこ とができたのは大きな成果ではないか と思います。 今後ますます皆さまのご研究が進み、 そしてこのサステイナビリティ・サイ エンス・コンソーシアムにおいてさら に有意義な交流が行われ、相互の研鑽 が進みますことを祈念いたしまして、 私からの閉会の挨拶とさせていただき ます。本日は大変にありがとうござい ました。

司会 浜中先生ありがとうございま した。以上をもちまして研究集会を終 了します。

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佐渡とイリノイの自然観という吉田 先生のお話は、私も1年半ほど招へい 研究員としてイリノイに住んでおりま したので、大変興味深く伺いました。 三つの側面と六つのタイプに分けてお 話をされたのですが、イリノイと日本 とでは自然観に違うところがあって、 その差によってやはり政策的なところ が大いに異なってくるところがあるこ とを教えられました。ともに自然共生 という考えを持っていてもその基本な 思惟は国民間で微妙に異なっており、 それが差になっていると考えると国 (民族)の自然観の詳細な把握が必要 で、それは大変難しいものであるとい う思いもしました。 最後のご講演は伊藤先生でありまし た。出だしにベトナムと日本とは漢字 文化圏として言葉が似ているところが あるということを述べられました。ど のような展開になるか気になっており ましたが、最後には、自然観とか価値

観はやはり地域によって違いが現れる ことを述べられました。言語が似てい るところがあっても、微妙な違いがあ るため、サステイナビリティを展開し ていく上でも地域により違ってくる可 能性があることを示唆するお話でした。 以上に述べましたように、今日は本 当にすばらしいご講演をお聞かせいた だき、さまざまな刺激を受けました。 皆さま方の今後のますますのご発展が

■閉会挨拶

はまなか ひろのり

浜中裕徳

期待されます。本日は、お忙しい中、 貴重なご講演をしていただき大変あり がとうございました。

司会 ありがとうございました。それ では時間もまいりましたので、最後に 研究集会の閉会のご挨拶をSSCの理 事をお引き受けいただいている公益財 団法人地球環境戦略研究機関(IGE S) 理事長の浜中さんにお願いします。

とサステイナビリティ」というテーマ につきましてお話をいただきました。 最初のセッションの 「自然資源の活用」

サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC)理事 公益財団法人地球環境戦略研究機関(IGES)理事長

本日は皆さま、大変長時間ご苦労さ までございました。SSCの今年度の 研究集会ということで、「人間の自然観

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した。 深海に関する新しい知見を数多くもたらし ているのが海洋研究開発機構(JAMSTE C)です。JAMSTECは水深6500メ ートルまで潜れる有人潜水調査船「しんかい 6500」や、海底の岩盤を掘削してサンプ ルを採収する地球深部探査船「ちきゅう」な ど海洋を調査するための船舶や探査機を保有 し、科博に比べると人員も予算も約10倍の 大きな組織です。JAMSTECのような先 端的な研究をしているところと共催すること で、4年間という比較的短期間で再度の深海 展を開くことができました。 「大英自然史博物館展」は大英自然史博物 館のスタッフと長い時間かけて企画を練って 実現しました。 先方が見せたいと思うものと、 われわれが見せたいと思うものが最初から一 致していたわけではありません。先方は、自 然史研究において女性が大きな貢献をしたこ とを展示したいと強く希望しました。イギリ スでもかつては女性の地位は必ずしもよかっ たわけではなく、家計を助けるために恐竜を 発掘し続けた女性がいました。先方の希望を

入れて女性の活躍を打ち出した展示をしたと ころ、来館者の評判もよく成功しました。一 方で日本側の要望で応じてもらえなかったも のもありました。ニホンオオカミの剥製は世 界に4体(日本国内に2体、英国とオランダ に1体ずつ)しかなく、われわれは日本への 里帰りを望みましたが実現しませんでした。 海外の博物館と共同で特別展ができるのな ら、国内の博物館とも可能ではないかと、現 在、 国立民族学博物館と相談を進めています。 民博は大阪の万博記念公園にありますから、 そこを訪ねて展示を見ればいいわけなのです が、科博と共同企画すれば普段とは違った切 り口で見ていただけることになるのではと考 えています。民博には約20万点の標本があ り、その1割以上が首飾りで、マッコククジ ラの歯で作られたものもあります。同じ首飾 りでも自然史的なアプローチによって異なる 見方ができる可能性があります。 科博では、新たな視点からさまざまな特別 展を企画して行きたいと考えています。ぜひ お越しいただければと思います。

連載 エッセイ

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国立科学博物館の特別展 国立科学博物館では年に2、3回の特別展 を開いています。今年度は春に「大英自然史 博物館展」を、夏に「深海―最深研究でせま る〝生命〟と〝地球〟」を開催し、この3月 には「人体―神秘への挑戦」が始まります。 先の二つの特別展はともに大変好評で、来場 者がそれぞれ30万人、60万人を突破しま した。 「大英自然史博物館展」では、7000万 点以上もある同館の収蔵物から約370点を 厳選して展示し、ほとんどが日本初公開でし た。深海展の方は、世界で初めて深海で撮影 されたダイオウイカが大きな話題になった2 013年から4年ぶりの開催でした。 今回の深海展の見どころの一つは発光生物 でした。NHKが2年間かけて開発した4K 超高感度深海撮影システムによって、深海生 物が放つ微弱な光が初めてはっきりと捉えら れ、その映像が会場で流されました。深海生 物が光るのは、 (1)敵から逃げる、 (2)獲 物を捕らえる、 (3)助けを呼ぶ、 (4)敵か

ら隠れる、などの理由によると考えられてい ます。ホタルイカは食べたことのある人も多 いと思いますが、その腹側に多数の発光器が あります。ホタルイカは普段は200メート ル以深の深海に生息していて、そこにはごく わずかな太陽光しか届きません。それでも下 からホタルイカを見上げるとごく淡い影が生 じ、何かがそこにいるということがわかりま す。捕食者はその影を見て襲いかかります。 そこで、ホタルイカは太陽光の明るさと同じ くらいに発光して影を消して捕食者から見え ないようにしていると考えられています。こ れをカウンターイルミネーションといいます。 科博には深海生物の多数の標本があります。 それらはホルマリンに浸かっているために、 白っぽく色が抜けて本来の色彩がわからなく なっています。また、深海から採収する過程 で体の構造が破壊されてしまうこともしばし ばあります。 NHKが撮影した映像によって、 深海生物の豊かな色彩や繊細な構造がわかる ようになったのも今回の特別展の見どころで

林 良博

はやし よしひろ

独立行政法人 国立科学博物館長

(専門はバイオセラピー)

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た小さな泉で、塑像(ケルト神話のダヌか?)とプ の湧き口は確か レートがあります。 Donau-Quelle にあるのですが、その上に丘陵が続き放牧地で、森 林伐採され、水はランオフで地表を幾筋も流れてい が真の源泉なのか て、はたしてこの Donau-Quelle は疑問です。ここは谷筋で、昔は確かに、森から地 下に浸透した水がここから勢いよく湧き出していた のであろうと思います。 この Donau-Quelle から100メートル程登ると、 丸い地形の尾根筋に石に刻んだ標識に とあり、この尾根筋全体が分水界のよ Donau/Rhein の分水界をまたいで(といっ うです。 Donau/Rhein てもかなり平坦なのでそれらしいところを探すのに 苦労しますが) 、右足と左足の雪が溶けて、一方は黒 海へ、もう一方は北海へと別れ別れになることを思 うと、なにやら地球規模の重大事をまたいでいる気 分になります。かつて、ウガンダとポンテアナック (西カリマンタン)で赤道線をまたいで、北半球と 南半球に足が乗っているときのような気分です。あ あ、地球をまたいでいる。 から、ライン川側に流れるエルツ Donau-Quelle 川の源泉が2キロほどにあると看板が出ています。 この辺りはもう冠雪しており、タクシーの運転手は

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ランス中東部のアルザス地方(アルザス ロ =レーヌ、 ライン地溝帯)との国境にあります(ウィキペディ ア) 。 南北で約160キロに広がり、 一番高い箇所は、 )の山頂で、海抜149 フェルトベルク( Feldberg 3メートルです。標高1000メートル近い高地で すが、氷河に削られたなだらかな丘陵地帯といって もよいです。 シュヴァルツヴァルトは、もともとオーク(ブナ 科コナラ属、カシ)を主体とする落葉広葉樹帯です が、なぜか、古くローマの時代からシュヴァルツヴ ァルト(黒い森)と呼ばれていたようです。オーク が大量に切り出された後、 ドイツトウヒが植林され、 ドイツトウヒの純林となり、ドイツトウヒの葉が黒 っぽい色をしているのでシュヴァルツヴァルトと呼 ばれるようになったという解説が多く見られますが それは間違いです。 ドナウ川:フライブルグから、約30キロ東にあ )に向かい、ド るフルトヴァンゲン( Furtwangen )に至りました。 ナ ウ の 泉 ( Donau-Quelle は海抜1078メートル、ドナウの Donau-Quelle 河口(黒海)から2888キロの地点で、ドナウの 川に湧き出しています。石で囲われ 主源流の Breg

北海道大学大学院名誉教授

(専門は根圏環境制御学・植物栄養学)


イン川‐ドナウ川・ベルトはシュヴァルツヴァルト 、 「黒い森」でかつてはオークの原 ( Schwarzwald 生林地帯)を分水嶺(界)とし、オーク地帯を流れ るオーク・ベルトでもあり、ヨーロッパを南北に繋 ぐ河川交通の要でもあります。 シコツ・ベルトではサケが重要資源で、ミズナラ はサケの産卵のために涵養を維持していました。ラ イン川‐ドナウ川・ベルトではオークの原生林が覆 い、その実(ドングリ)が、秋に豚の滋養となり、 さらにそのオーク材は船造りに極めて重要でした。 ライン川沿いのバーデン バ =ーデンには有名なモー ル温泉があり、石狩平野にもやはりモール温泉が散 在します(地質年代的にも低湿地が広がっていた) 。 分水嶺(界)のあるシュヴァルツヴァルトでは、魔 女狩りと古層のケルト・ゲルマン文化狩りが峻烈を 極め、千歳ではアイヌ民族が冊封されました。 シュヴァルツヴァルトはバーデン地方に属し、北 はバーデン バ =ーデン、東はシュトゥットガルト、 南はフライブルク、西はライン川の流れを挟んでフ

風水土の旅3 ドナウ川‐ ライン川分水界とオーク Ⅰ ドナウ川‐ ライン川分水界( 嶺) ボンで開催のCOP23(2017年11月)を 抜け出して、フライブルグに向かう。フライブルグ から東30キロにフルトワーゲンの町があり、そこ から北西に7キロの所にドナウ川の源泉 )があり、また、ライン川側に流れ ( Donau-Quelle るエルツ川の源泉がその近くにあります。また、そ こには、南東に流れ黒海に注ぐドナウ川と、北西に 流れ北海に注ぐライン川の分水嶺(界)もあるので はシュヴァルツヴァル す。しかも、 Donau-Quelle ト(黒い森)にあります。前回訪ねた、日本海に注 ぐ千歳川(北西に流れる)と太平洋に注ぐ美々川(南 東に流れる)の分水嶺が千歳にあり、規模は違いま すが、ライン川と千歳川、ドナウ川と美々川が流れ る方向で相似的構造が認められ、そうするとフライ ブルグが千歳に相当する位置にあります。 千歳川‐美々川をシコツ・ベルトと呼びましたが、 ここは古くはミズナラのベルトでもありました。ラ

大崎 満

おおさき みつる

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過去に何度かイン川沿いに旅をしていた点と線が、 このドナウ川‐ライン川分水界の旅を書いていて突 然繋がってきました。 ザルツァハ川( )は、イン川の支流で、 Salzach 長さは225キロ。 Salz とはドイツ語で塩を意味し、 19世紀までこの川は、塩を船で輸送するのに使用 されていました。この州都ザルツブルクで、ドイツ 表現主義の天才詩人ゲオルク・トラークルが生誕し ました。 ドナウ川文化圏とは、ハプスブルグ帝国の支配領 域の文化圏です。岩崎周一( 『ハプスブルグ帝国』 、 講談社現代新書)によると、 「14世紀を通じ、ハプ スブルグ家の支配はウィーンを事実上の首都として、 オーストラリア諸邦に徐々に浸透していった。(中 略)ライン川上流では、今日、環境問題に対する先 進的な取り組みで知られる都市フライブルグが、市 民の選択により、ハプスブルグ家の支配下に入った (1368年) 」とあり、さらにオーストリア系ハプ スブルグ家は、神聖ローマ皇帝の位を保持しつつ、 チェコとハンガリーを加えて、中欧に広大な君主国 ──いわゆる「ドナウ君主国」──を形成していっ た」とあります。 「ドナウ君主国」は、西端にフライ

ブルグを含み、従って、シュヴァルツヴァルトにま で接していたことになります。つまり、ドナウ川流 域の「ドナウ君主国」はローマカトリック教会文化 の強力な影響下にあったといえます。「1806年に、 完全に形骸化していた神聖ローマ帝国は、ライン同 盟の結成とフランツ2世の帝位放棄によって名実と もに消滅した。これによりハプスブルク家は『神聖 ローマ皇帝』という『至上の地位』を失い、オース トリア大公及びハンガリー王、ボヘミア王ほか諸侯 の地位を保持する一領邦君主に転落した。 とはいえ、 第一次世界大戦までは、依然としてハプスブルク帝 国は強大であったが、諸民族が自立性を求め、ハプ スブルク帝国は完全崩壊する」(岩崎周一とウィキペ ディアより要約) 。

ネッカー川:ネッカー川はシュヴァルツヴァルト 山地とシュヴァーベンジュラ脈(シュヴェービッシ )を流れます。 ェ・アルプ)に挟まれた高地( Baar その両山地・山脈はさまれた森林地帯を流れるネッ カー川河畔に、大学都市として知られるテュービン ゲンがあります。テュービンゲン大学は、古くから とりわけ神学研究の中心地とし知られています。そ の前身テュービンゲン神学校 (1447年創設) は、

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いやがるので、歩いてみましたが、全く源泉の形跡 なしでした。あとで、堀淳一の『ドナウ・源流域紀 (東京書籍)を読ん 行 ヨーロッパ分水界のドラマ』 で、びっくりです。 「ライン川へ行くべき水を人間が 自分の勝手な都合でドナウのほうに引っ張ってしま っていた」のです。別の言い方をすると、シュヴァ ルツヴァルト山地はそれほどなだらかな分水界をな しているということです。堀は、ドナウの流域は、 まわりをすっかりラインの流域に包囲されているよ うだと指摘します。 「だから、ちょっとドナウが氾濫 したら、水はたやすく樋の縁を越えて、あふれ出そ う」な状況です。ですからここは分水嶺よりは分水 界といったほうがいいようです。 現在の名ドナウと各国語でそれに相当する名前は、 ダーヌビウスに由来するとい ラテン語の Danubius います(ウィキペディア) 。これはローマ神話の河神 の名で、スキタイ語、あるいはケルト語からの借用 はイン 語がもとになっているようです。語頭 Danu 」と ド・ヨーロッパ祖語で「川」を意味する「 dānu ) 、 いう単語より来ており、ケルト神話のダヌ( Danu )など、印欧語 インド神話の水の女神ダヌ( Danu 族の神話にはこの語が残っています。黒海周辺には

ドン川、ドニエプル川、ドネツ川、ドニエストル川 など、同様の単語から派生したと見られる川の名が 多数あります。 柏木貴久子・松尾誠之・末永豊によると、 「紀元前 800年頃から西暦100年頃までドイツ南西部は ケルト人の土地だった。紀元前15年頃にアルプス を越えてドナウ川にまで進出したローマ人が西暦7 4年頃にネッカー流域に入植して、ケルト人は西に 移動する」 ( 『南ドイツの川と町―イーザル、イン、 ドナウ、ネッカー』 (SANSHUSHA) )とあり、 シュヴァルツヴァルトにはケルト人の文化が濃厚に 存在していたようです。 ドナウ川の支流の一つのイン川は、スイスの上エ ンガディンの山中に発し、スイスのサンモリッツ湖 に流れ込み、 オーストリアのインスブルックを流れ、 バッサウでドナウ川に注ぎます。昔、サンモリッツ でスキーをしたとき、氷河辺りの斜面からサンモリ ッツ湖を眺めた記憶が甦ります。 最近 (2014年) 、 イタリアのフィレンツェからミュンヘンまで列車の 旅をしたとき、比較的広いイン川の渓谷を縫い、オ ーストリア国境まで1キロの地点では遠くに氷河が 望め、オーストリアのインスブルックの山肌は石灰 岩で、雪とまごうほど白かったのを思い出します。

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イナの6カ所) 、そして、 (2)ドイツの古代ブナ林 (ドイツの15カ所)が追加されて、 「カルパチィア 山脈のブナ原生林とドイツの古代ブナ林」と呼ばれ ています。 ドナウ川がシュヴァルツヴァルト山地の古代ブナ 原生林からカルパチィア山地ブナ原生林地帯を縫う ように流れていますので、「ドナウ川オーク・ベルト」 と呼んでも良いでしょう。 ブナ原生林ですので、秋には豚にどんぐりを食べ させ、それを加工して冬を越したというのが、オー ク原生林帯の狩猟採取生活として一般的だったでし ょう。そうすると、日本の縄文文化との類似性を見 たくなります。縄文人は、世界でいち早く土器を発 明し、それを巧みに使った文化を発展させます(今 からなんと1万年以上前にです) 。土器により、ドン グリやクリなどの堅果類を調理することが可能にな ります。つまり、土器により、煮炊きや蒸したり、 これに焼くも加わり、食糧保存も容易になり、食文 化が一気に開花します。ヨーロッパでもかなり遅れ て土器の製作がなされますが、じつに貧弱で数も少 なく、調理に使ったかは疑問です。たとえば、フラ イブルグの博物館を見ても、この地方の出土物がい

かに貧弱であるかに驚かされます。一方、千歳川 美々川の分水嶺である千歳の郷土資料館の縄文出土 物の多さと質の高さには圧倒されます。ケルト文化 での調理法は、石焼きが基本で、穴を掘って石をな らべ、調理物をいれて、焼いた石を入れて土をかけ る一種の蒸し焼きです。この原理が進化したのがオ ーブンですが、調理法からいうと石器時代の調理法 です。フランス料理も含めてヨーロッパで料理がま ずい根本的理由はこの石器時代調理法に依存してい ることにあると思います。ヨーロッパで質の良い土 器がつくられなかったのは、おそらく質の良い粘土 が得られなかったためと思われます。氷河により表 土は削られ、また、火山が無い(歴史年代で)こと などから粘土成分の供給が限られていたでしょう。 一方、ヨーロッパのオーク等の実は、渋みがあまり なく豚がそのまま食べることができます(日本のド ングリを豚にやると有毒を起こして死んでしまう) 。 そこで、豚に食べさせて高タンパク質源化して保存 する戦略がとられました。縄文とケルトの文化の違 いは、土器か石器(紀元前1000年あたりから鉄 器に移行)で、それが食文化にきれいに反映されて いると思います。 もう一つ、土器文化がないと貧弱になるのは、土

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シュヴァルツヴァルトにおけるケルト・ゲルマン民 間信仰に対するローマカトリック教会の楔として打 ち込まれたのでしょう。しかし、このテュービンゲ ン神学校は、17世紀から19世紀を通じて、むし ろルター派正統神学の拠点となりました。 エアフルトよりシュヴァインフルトまでは、「テュ ービンゲンの森」と呼ばれる山地帯で、テュービン ゲン州西部のハイニッヒ国立公園は、ヨーロッパブ ナが多数を占める 「ドイツ中央部の原生林」 が残り、 ヨーロッパ最大の広葉混交樹林といわれています。 また、テュービンゲンの森は、その大部分が、北側 のエルベ川やヴェーザー川、南側のマイン川の水系 を分ける分水界ともなっており、シュヴァルツヴァ ルト山地と合わせて、数多の川の分水界の連続地帯 をなしているといえます。 ライン川:ライン川源流はスイスアルプスのトー マ湖で、バーゼル(ここから河口までは3000ト ン級の船の往来ができ、バーゼルはスイス唯一の国 際貿易港となっている)を通り、フランス領のアル ザス(ヴォージュ山脈)とドイツのバーデン ヴ =ュ ルテンベルク州(シュヴァルツヴァルト)との間の 国境をなすライン地溝帯を北流していきます(ウィ

キペディア) 。 ドイツ・フランスの国境を北に向かい、 ストラスブールを越えてドイツ国内を流れ、ボン、 ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルグなどを 通過しオランダ国内へと入ったあと二分岐し、ワー ル川とレク川なり、ロッテルダム付近で北海に注い でいます。全長1233キロ。そのうちドイツを流 れるのは698キロですが、ドイツにとっては特に 重要な川で、ライン流域を主軸のひとつとしてドイ ツ史が展開してきました。また、産業革命の中心地 のひとつとなったルール工業地帯もライン川とルー ル川に挟まれた地域にあります。

オーク・ ベルト:ブコビナはカルパチィア山脈とド ニエストル川に挟まれた地帯一帯を指す地理名称で、 「ブナの国」の意味で、北部がウクライナのチェル ニウツィー州、南部がルーマニアのスチャヴァ県及 びボトシャニ県にあたります(ウィキペディア) 。当 初、この東カルパチィア山脈に残るヨーロッパブナ の原生林が、ヨーロッパに残る同種の森林の中でも 樹齢、種類の多様さ、木々の大きさ、範囲の広さな どの点で突出した価値を持つとして、世界遺産(自 然遺産)に登録されました。その後、 (1)カルパチ ィア山地ブナ原生林(スロバキアの4カ所、ウクラ

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末から20世紀にかけて、 「内観的世界観」の文化・ 芸術のポテンシャル(地に眠っていた)がまるで吹 きだしてきたような感じを受けました。 そしてその、 「内観的世界観」のポテンシャルがライン川を流れ 下り、そのデルタ低湿地・泥炭地でゴッホの中から も湧出するのを見出しました。 このドナウ川‐ライン川分水界の紀行にはなぜか、 パウル・ツェランが深く関わってきます。そこでパ ウル・ツェランの詩で、ドナウ川‐ライン川の分水 界を巡るというのも一興かと思い、ツェランの詩を たくさん引用します。ただ、地名がはっきり分かる 詩は少なく、私が勝手に詩のイメージを貼り付けて みただけの地域も多いですが。ツェランの詩は極め て難解で複雑であると評されていて、理解しようと すると確かにそうなのでしょう( 「外観的世界観」に なり)が、しかし、感じようと思え( 「内観的世界観」 になり)ば、実に多彩で豊穣な世界に導いてくれま す。味わうこつとしては、ツェランが作り出した詩 的世界を心に思い描くことで、そしてそのなかに自 分を浸してみることです。日本の詩歌ではあたりま えのことですが、欧米の無数の詩の中でも、唯一、 ツェランの詩だけがこのような味わい方ができます。

さっそくツェランの分水界を詠んだと感じられる 詩を読んでみます。なお、以下に『パウル・ツェラ ン全詩集IかⅡ』とは、すべて中村朝子訳で青土社 出版のものです。 (いくつもの水原地点) いくつもの水原地点、夜には、 遠距離にわたって、 神々を予期して、

お前の山裾、脳髄の山よ、 心臓―「あなた」の中に、 あれらによって まわりを泡立ちでつつまれて。 『光輝強迫』の「Ⅴ」章( 『パウル・ツェラン 全詩集Ⅱ』所収)

ツェランの詩には、キーワード的に出てくる言葉 があります。これをちょっと理解しておくと、いっ きにツェランワールドが開けてきます。なお、これ も私が勝手に理解した(感じた)ことで、ツェラン 学の学者や評論家が認めていることではありません。 念のため。

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を捏ねて造形するいわば抽象芸術です。土を捏ねる (手による身体機能)ということは、写実性(目に よる観察・観念機能)よりは、実用性をかねた抽象 化能力が求められます。マヤ・アステカやインカも 土器文化が発達し、 その造形能力には圧倒されます。 写実性よりも、抽象性と機能性。土器文化とは、食 の多様・多彩な文化、抽象芸術(身体機能による表 現) 、そして土そのものをとおした「大地性」から構 成されます。土器文化は、架空の観念論的文化の対 極に位置します。 パウル・ツェランがなんと、土器の詩を詠んでい ます。ツェランはなにやら縄文人の心を持っている のではないかとさえ思えてきます。 「アッシジ」(抜粋) 土の瓶、 陶工の手がしっかりとついた土の瓶。 ひとつの影の手が永久に密閉した土の瓶。 影の封印をもつ土の瓶。 『敷居から敷居へ』の「取り替わる鍵で」章 ( 『パウル・ツェラン全詩集I』所収)

多少飛躍しますが、西洋の彫刻では、限りなく現 実に近づけるよう削っていく(微分的手法)で、西 洋の絵画では、限りなく現実に近づけるよう塗り固 めていく(積分的手法)で、以前、これらは「外観 的世界観」 (表面を観察した具象主体)の芸術である ことを指摘しました。 一方、 瞬間的に本質を見切り、 心に溜まった象を、一気にまとめ、練り上げ、描き きる(錬りきる)のを「内観的世界観」 (内面に蓄積 した抽象主体)の芸術と称しました。つまり、神が 作りあげた一元的世界を、微分・積分的手法で極め ようとするのが、ローマカトリック教会を基盤とし た西洋のめざす芸術ドグマで、それがそのまま精神 世界(思想・哲学)にも反映して行きます。ドナウ 川オーク・ベルトやシュヴァルツヴァルトのオーク の森では、土器文化が貧弱で、またローマカトリッ ク教会に抑圧されて、 「内観的世界観」の芸術を発達 させることはありませんでした。しかし、オークの 森の豊かな自然の中で、神々を棲まわせ、精霊や妖 精で溢れさせた古代の精神世界では、 「内観的世界 観」の文化・芸術のポテンシャルは擁していたと思 います。 わたしはこの旅で、 ドナウ川‐ライン川分水界 (シ ュヴァルツヴァルト一帯)を中心として、19世紀

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しいせせらぎが生まれたといいます。 いたるところ、超自然的で魅力的な無数の形象 がとつぜん輝き、また一方、影となった部分の中 では、醜悪な形相をしたものと恐ろしげな亡霊と がうごめきまわっていた。(中略)森を支配する山 の神々、水を支配する水の神々、地中を支配する 地の精、岩の精、たたく精(家具や壁などをたた いてお告げをするという霊) 、七つの枝角 (えだづ め)を持つ大鹿に乗って叢林を突っ走る暗闇の狩 人、黒い沼に住む乙女(ピュセル) 、赤い沼に住む 7人の乙女、10本の手を持つ神ウォーダン、1 2人の黒い男、謎かけをしたむくどり、お祖母さ んから聞いたお話を物語るかささぎ、ツァイテル モースの小人の怪人たち、狩りの途中で迷子にな った王侯たちに道を教えるひげのエヴェラルド、 洞窟でドラゴンを殺した、角のある悪魔ジーゲフ ロイなどだ。悪魔はおのれの石を〈悪魔の石(ト イフエルシュタイン) 〉の上に置き、梯子を〈悪魔 の梯子(トイフェルスライダー) 〉に立てかけた。 悪魔は大胆にも 〈黒い森 (シュヴァルツヴァルト) 〉 の近くのゲルンシュバッハへ、おおっぴらに福音 を説きにゆきさえした。

さて、ライン川‐ドナウ川分水界で古代の文化や 伝統になにがおきていたのでしょうか。古層として ケルト文化があるのはまちがいないと思います(た だし、 単純にケルト人という民族は多分存在しない) 。 前3世紀のケルト人のラテーヌ文化地域は、エルベ 川(ボイイ族) 、ライン川(トレウェリ族) 、セーヌ とライン川に挟まれた地域(パリシイ族)での流域 文化圏であり、前3世紀以降、それぞれ北イタリア に侵入し、エルベ川のボイイ族はさらにドナウ川域 にも侵入します(原聖『興亡の世界史 ケルトの水 脈』 講談社学術文庫) 。 原聖は、 最近の研究によると、 そもそも、ケルト、ゲルマン、ギリシャ、ローマの 信仰形態を分けることが難しいともいいます。

欧州ではキリスト教伝来以前の生死観を表現す ると思われる神話が、ギリシャ・ローマという古 典的世界と、ゲルマン・ケルトという異教の民に ついて伝わっている。後でみるように、ケルト人 の世界にはギリシャ・ローマから移入された神々 も多い。おそらくそれは、たとえば仏教と神道の 関係を合理的に説明する本地垂迹( ほんじすいじゃ

く)という思想が不必要なほど、前提となる文化

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「語」 :言霊( 「語」が頻発しますが、西洋的な語 でなく、自然と人を繋ぐような語で、それで言 霊と理解しています。 「お前」 :生きた自然に対する呼びかけの感じで、 八百万神の神々、精霊・妖精と思うとしっくり きます。人である場合もありますが、自然に向 かっているときは、衰退し隠棲している神々、 精霊・妖精と思うとよいです。 泥炭・低湿地の花:ツェランはなぜか泥炭・低湿 地に強く深くこだわっていて、それが、草花で 描かれている場合が多いです。エリカ、エニシ ダ、ジャコウソウが典型的で、この順にやや乾 燥化し有機物層が薄くなっていきます。エリカ は泥炭(ヒース)の典型的な草花です。

Ⅱ 神々の遁走 ユーゴの『ライン河幻想紀行』 (榊原晃三編訳、岩

波文庫)によると、ライン河には、きわめて明確な 四つの段階、つまりきわめて際立った四つの相貌が あるといいます。 「第一段階は、ノアの洪水以前の、 そしてたぶんアダム以前の火山の時期だ。第二段階 は古代史の時期、つまりゲルマン民族とローマの闘 争の時期。そこではカエサルが光輝を放っている。 第三段階は奇蹟の時期で、そこではカルル大帝が出 現する。第四段階は近代史の時期、つまりドイツと フランスの闘争の時期で、ナポレオンがそれを支配 する。結局、ヨーロッパの歴史を端から端まで展望 するとき、たとえ作家がこれら偉大な栄光の単調さ を避けようとしてどんなことをしようとも、やはり カエサルとカルル大帝とナポレオンとは、三つの巨 大な里程標、いやむしろ千年標であり、それは常に 歴史の流れの上に見出されるものなのである」 。 そし て、「歴史によってライン河の岸辺に生まれるのを目 撃される最初の人間は、自称〈ケルト〉 、ローマから は〈ガリア〉と呼ばれた、あのなかば未開の人間の 一大家族だ」で、 「ライン河はコンスタンツからロッ テルダムへ、鷲の国から鰊の国へ、ローマ教皇と公 会議と皇帝たちの都市から商人と庶民の売り台へ、 アルプスから大西洋へと流れくだる」といいます。 さらに、ライン河の岸辺には、伝説とお伽話の愛ら

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(ギリシャ・ローマの)神々は今、すでにむか し経験したのと同じ悲惨なきびしい暮らしを余儀 なくさせられているのである。それはあの古代の 革命的時代のことだった。巨人神族が冥府の神オ ルクスの監視を逃れて地上に上がり、オッサ山の 上にペリオン山を載せてオリュンポス山に登った、 あの時代のことなのだ。古代のあわれな神々は当 時屈辱的な逃亡をし、あらゆる可能な限りの覆面 をして人間の住むこの地上に身をかくしたものだ った。ほとんどの神々はエジプトへ行って、より 安全に暮らすために動物の姿をとったものだ。こ れはよく知られている。それと同様に、世界の真 の主が十字架の旗を天の城にうちたて、偶像破壊 に血道をあげる狂信者ども、つまり僧侶の黒い一 味があらゆる寺院を破壊し、追放された神々をさ らに火と呪いのことばをもって追いかけまわした とき、 異教の神々はふたたび逃亡を余儀なくされ、 可能な限りの覆面をして人里離れたかくれ家に住 まいを求めなければならなかった。これらの亡命 者の多くは気の毒にも雨露をしのぐ軒も、神とし ての食物もなく、今や、せめて日々の糧を得るた めに人間庶民の手仕事をしなくてはならなくなっ

た。そういう事情のもとで、自分の聖なる社 (やし ろ)を没収された神々のうちには、わがドイツで 木こりとして日雇い労働をし、ネクターの代わり にビールを飲まなければならなくなった神もある。 アポロンはこの苦難に直面して、安んじて牧畜業 に奉公したように思われる。そしてそのむかしア ドメトスの牝牛たちの番をしたように、今はニー ダーエスターライヒ(下オーストラリア)で牧童 として暮らしている。ところがその歌があまりに も美しかったために疑いをもたれ、ある博識な僧 侶によって、魔法を能 (よ)くするむかしの異教の 神であると見破られ、教会の裁きにゆだねられて しまった。拷問のあげく、彼は自分がアポロンの 神であると告白した。処刑の寸前になって彼は、 最後にもう一度ツィターをひき歌をうたうことを 許してもらいたいと願いでた。ところがそのツィ ターの楽の音はひとの心を強くうち、その歌は魅 力にあふれるものだったので、しかもそのうえア ポロンの顔と均整のとれた肉体がとても美しかっ たので、女たちは皆泣いてしまった。そればかり か、この感動のためにのちに病気になった女もた くさんいた。しばらくして人びとはアポロンの死 体を地下納骨堂から引き出して、その胴体に丸太

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が類似していたためかもしれない。(中略) いずれにしても、ギリシャとローマの神々の相 互関係、ローマとケルトの神々の相互関係などか ら考えても、ギリシャとローマ、ゲルマンとケル トが、 個別の信仰形態をとっていたと考えるより、 近接しあったものだったとみるほうがわかりやす い。それは本書でみるように、ケルトの司祭ドル イドの位置づけにも関係し、従来の学説の修正を 迫るものにもなるのだが、こうした古代世界にキ リスト教が入り込んで、人々の世界観、生死観に 変化が生じた。すでに見たように、火や泉に対す る信仰には、キリスト教以前の信仰が反映してい ると考えられる。 ハインリヒ・ハイネは、ライン川河畔に位置し、 ライン・ルール大都市圏地域の中心であるデュッセ ルドルフに生まれ、ベルリン大学でヘーゲルの教え を受けています。ハイネは、古層の異教の神々に対 するキリスト教による迫害について生々しく描き出 します。以下、長くなりますが、ハイネ『流刑の神々・ 精霊物語』 (小沢俊夫訳、岩波文庫)の「流刑の神々」 の項からの引用です。私がドナウ川‐ライン川ベル トをシュヴァルツ(黒い闇黒)ベルトと呼ぶゆえん

でもあります。

キリスト教が世界を支配したときにギリシャ・ ローマの神々が強いられた魔神(デーモン)への 変身のことを述べてみようと思っているのである。 民間信仰は今ではギリシャ・ローマの神々を、た しかに実在するが呪われた存在にしてしまってい る。その意味ではキリスト教会の教えとまったく 一致しているのである。教会は古代の神々を、哲 学者たちのように、けっして妄想だとか欺瞞と錯 覚のおとし子だとは説明せず、キリストの勝利に よってその権力の絶頂からたたきおとされ、今や 地上の古い神殿の廃墟や魔法の森の暗闇のなかで 暮らしをたてている悪霊たちであると考えている。 そしてその悪霊たちはか弱いキリスト教徒が廃墟 や森へ迷いこんでくると、その誘惑的な魔法、す なわち肉欲や美しいもの、特にダンスと歌でもっ て背教へと誘いこむというのである。 このテーマ、 すなわち、古代の自然崇拝がサタンに奉仕するも のとされ、異教の祭司の勤行(ごんぎょう)が魔法に つくりかえられたこと、神々の悪魔化というテー マに関しては、わたしはすでに『サロン』の第二 部と第三部において腹蔵なく意見を述べておいた。

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なれた民衆は、キリスト教への改宗ののちにも、 ある特定の場所に対しては時代おくれの畏敬の念 を保っていたのだが、このような共感を、ひとは 新しい信仰のために利用しようと試みたり、悪い 敵の推進力であるとして誹謗しようと試みたりし た。異教が神聖なものとして崇拝したあの泉のわ きに、キリスト教の坊さんが利口にも教会をたて た。そしてこんどは彼自身でその水に祝福をあた えて、その魔法の力を食い物にした。今でも古代 の愛すべき泉があって、民衆はそこへ巡礼し、そ こから自分たちの健康をくみとることがまだおこ なわれている。 信心深い斧に抵抗した聖なる樫の木は中傷され た。つまりこの木の下で悪魔たちが毎晩ばかさわ ぎをし、魔女たちが地獄のみだらな行為をしてい ると今日ではいわれている。しかしそういわれて も樫の木は今でもドイツ民族にとくに愛されてい る。樫の木は今日でもドイツの民族性のシンボル である。それは森のなかでいちばん大きくて強い 木であり、その根は大地のいちばん底まで達して いる。その梢はみどりの軍旗のように、誇らかに 空中はためいている。詩にでてくるエルフェはそ の幹に住んでいる。聖なる英知のやどり木がその

太い枝にまつわりつく。ただその実は小さくて人 間には食べられない。

ケルト・ゲルマンの神々や精霊、そしてギリシャ・ ローマの神々も逃亡生活を余儀なくされ、 ある神は、 ついにはオランダの東フリースランドの海岸地方に まで逃れていきます。東フリースランドは低湿地帯 で、その有機物層が厚ければ泥炭地とよばれます。 神々や精霊は低湿地・泥炭地に隠れ住むのを余儀な くされます。ハイネ『流刑の神々・精霊物語』の「流 刑の神々」より、ここは重要ですので、さらに長々 と引用します。

また東フリースランドの海岸地方にもこれと似 た伝承がひろく伝えられている。その伝承にはこ れらの伝承すべての基礎となっている古代の異教 的観念、つまり死者が影の国へ渡航するという観 念がもっともはっきり表明されている。(中略) 北海に面した東フリースランドにはいわば小さ な港を形成している湾がいくつもあり、 ジール (入 江)とよばれている。その入江の最先端に漁師の 家が一軒さびしく立っている。この漁師はその家 族とともにこの一軒家で静かに、満足して暮らし

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をぶっ通してやろうとした。彼は吸血鬼(バンビ ール)であったにちがいないから、この折り紙つ きの特効薬的民間療法をほどこせば病気になった 女たちもなおるだろう、と考えてのことだった。 だが墓はからっぽだった。 これは、魔女狩りの原型的な話です。さらに、ハ イネの『流刑の神々・精霊物語』の「精霊物語」の 項で、キリスト教による精霊達の虐待を明らかにし ます。 ……よく言われることだが、ヴェストファーレ ンには、古い神々の聖像がかくされている場所を いまだに知っている老人たちがいるということだ。 彼らは臨終の床で、孫のうちでいちばん幼いもの にそれを言って聞かせる。そしてそれを聞いた孫 は、口のかたいザクセン人の心のなかにその秘密 をじっとだいている。むかしのザクセン領だった ヴェストファーレンでは、埋葬されたものすべて が死んでしまうわけではない。そして古い樫の森 を逍遙していると、いまでも古代の声が聞こえて くる。そしてマルク・ブランデンブルクのすべて の書物よりもはるかに充実した生命がわきでてく

るあの深遠な呪文の余韻がいまでも聞こえてくる。 かつてこの森を歩きまわりながら、あの古代のジ ークブルクのそばを通ったとき、わたしの心はあ る神秘な畏敬の念でいっぱいになった。

ヴェストファーレン( Westfalen )は、ドルトムン ト、ミュンスター、ビーレフェルト、オスナブリュ ックを中心とした地域で、ライン川とヴェーザー川 の間にあり、ハイネはその中心都市のデュッセルド ルフを故郷とします。ハイネは「私のライン地方の 故郷」で、キリスト教が古代ゲルマンの宗教をどう やって抹殺しようとしたか細かに書きつづるのです。

わたしはこの小冊子では、きわめて興味深い考 察に多量の資料を提供するであろうテーマに、い つもほんのちょっとふれるだけだった。そのテー マとはすなわち、キリスト教が古代ゲルマンの宗 教をどうやって抹殺しようとしたか、あるいは自 分のなかにとりいれようとしたかというそのやり かた、また古代ゲルマンの宗教の痕跡が民間信仰 のなかにどのように保存されているかということ である。あの抹殺戦争がどのようにおこなわれた かは周知のとおりである。……以前の自然崇拝に

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まで浜の砂のなかにずっしりくいこんでとまって いた舟が、読み上げが終わると突然軽くなっても ちあがる。それによって船頭は自分の積荷が無事 引きとられたことを知り、ジールの我が家にいる 妻のもとへ安心してもどる。(中略) わたしは先に、うまく覆面をしていてもこの伝 承にあらわれる重要な神話上の人物を言いあてる ことができるとあえて言った。これはむかしの霊 魂の案内人、つまりヘルメスの霊魂の案内人であ るメルクリウス神にほかならない。 池上俊一はヨーロッパ中世の森のイメージを大変 よくまとめていますので、少し長くなりますが、 「森 の不思議」の項より引用しておきます( 『森と川─歴 史を潤す自然の恵み』 、刀水書房) 。 中世人は森を、恐ろしい異界でありながら、人 間生活の再生にはなくてはならない恵みの地であ ると考えていた。それが、ケルトやゲルマンの 「神々と妖精の棲まう土地」であったからだ。ま た古代ギリシャ・ローマにも、ゲルマン・スカン ジナヴィアにも聖樹の観念があり、森はさまざま な神々の住処だと信じられていた。

(中略)

キリスト教化された、神的な世界としての「森」 について先に述べてみよう。この「森」はまず、 古代・聖書的世界の「荒野」 「砂漠」に相当する場 所であることによって意味づけられた。それは、 あたかもイエス・キリストが、40日間「荒野」 に引っ込んで修行し、神と語り合ったように、中 世の修道士や隠修士が、孤独で密やかな場所であ るほど、祈りと反省の庭としてふさわしいと、修 行の場に選んだところから、キリスト教的に価値 づけられたのである。すなわち森は、悪魔などの 誘惑がある試練の場・危険な場であると同時に、 楽園風の場ともなった。このことは、彼らの伝記 や修道院創建譚などから窺われる。また、彼ら聖 なる人物の現存と超人的な修行によって、危険に 満ちた森が、キリスト教によって征服され、真に 聖なるものに換えられていくのである。そこで動 物の回心、病人の奇跡的治癒などの奇蹟が、多発 することとなる。 しかし、本書での議論においては、こうしたキ リスト教的に意味づけられる森よりも、異教的な 森の神聖さのほうが、より重要である。文明化= キリスト教化の努力の中で、絶えず対峙すべき相

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ている。ここの自然はもの悲しく、鳥さえも、か もめ以外には鳴き声をたてない。かもめという鳥 は固い砂丘に作った砂の巣のなかから、ときどき 不吉な金切り声をあげて飛びたつ。嵐を予言する のである。白波をたてては砕け散る海の単調な潮 騒はどんよりした雲の去来によく似合っている。 ここでは人間どもも歌うことがない。だからこの メランコリックな海岸では民謡の一節さえ聞くこ とはできない。 この地の住民はきまじめで正直で、 宗教心が厚いというより合理的で、勇敢な心と祖 先たちの得た自由を誇りに思っている。こうした 人たちは興奮して幻想にかりたてられることはな く、あまりくよくよ思いわずらうこともない。こ のさびしい入江に住んでいる漁師にとって主たる 生業は魚とりであり、その他に、北海のここかし こに散在する島々へ旅人を渡す、その渡し賃であ る。その年のあるとき、漁師が家族とともに昼食 のテーブルについていると、ひとりの旅人がこの 家の大きな居間へ入ってきて、家族の主人に向か って、仕事のことではなしたいから少し時間をと ってくれとないかと言う。(中略)彼自身の言うと ころによれば、彼は運送業者で、普通の小舟に乗 せられる程度の数の霊魂を東フリースランドの海

岸から白島へ運搬してくれと、商売仲間のひとり からたのまれたのだそうだ。(中略) 船頭はきめられた時刻にきめられた場所へ釣り 船をあやつっていく。はじめのうち舟は波のまに 揺られているが、やがて満月があらわれると船頭 は舟の揺れがすくなくなり、次第に吃水が深くな るのに気づく。しまいに水面が船べりからほんの ひと握り下というほどに吃水が深くなる。これを 見て船頭はお客たち、つまり霊魂たちがみな乗船 したにちがいないと思い、客を乗せた舟をこぎだ す。 どんなに目をこらして舟のなかをよく見ても、 船頭にはいくらか霧がたなびいていることしか見 やがて白島に到着し、舟をとめる。 えない。 (中略) 浜には誰もいない。だがかん高い、ぜんそくのよ うにあえぎながら、めそめそ泣くような声が聞こ える。船頭はその声があのオランダ人のものであ ることがわかる。そのオランダ人は固有名詞ばか り書いてある名簿を読みあげているらしく、その 調子には点検するときの一種の単調さがある。読 みあげられる名前のなかには漁師の知っているも のがいくつかあり、いずれもこの年に亡くなった 人びとの名ばかりである。名簿が読みあげられて いくあいだに舟はだんだん軽くなる。そしていま

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観(世界観) 」では、森に棲む妖精・精霊が人の中に 入り込んでくるというのは、もう恐怖としかいいよ うがない。自然はあくまでも人の外にあるべきで、 そうでないと世界がなりたたないのがローマカトリ ック教会というシステムなのです。つまり、自然と の付き合い方が分からない。つきあう必要もない。 不快なら壊せばよい。したがって、ローマカトリッ ク教会の教理のもとでは、思想・芸術・文化のあら ゆる分野で、自然の表面をなぞるだけのものを生産 し続けることになります。現在の欧米の芸術・文化 においても、実際の所、抜き刺しならぬほどに「外 観的自然観(世界観) 」が組み込まれています。欧米 の現代芸術とは、 「外観的自然観(世界観) 」を解体 してバラバラにしただけのもので、決して「内観的 自然観(世界観) 」に達したものではありません。 「内 観的自然観(世界観) 」に達したと錯覚しているかも 知れませんが。

Ⅲ シュヴァルツヴァルト( 黒い森)

さきに、ケルト・ゲルマンの古層文化圏にキリス ト教が侵入して、 ケルト・ゲルマンの神々や妖精が、 さらにギリシャ・ローマの神々が、執拗に狩りださ れ、かなりは、悪魔として監禁され、魔女として火 あぶりにされ、多くは逃亡を余儀なくされたのをみ ました。逃亡先は、人のあまり入らない湿潤な深い 森や低湿地・泥炭地であったようです(なぜか、ロ ーマカトリック教会は湿潤な深い森や低湿地・泥炭 地を忌避する) 。 南北に伸びる「シュヴァルツヴァルト山地」や「テ ュービンゲンの森」の地形は、ヨーロッパの特徴的 な風向きの風を遮る形となり、さらに南の背に聳え るアルプスも風を遮り、降水量が多い地帯を形成し ています。シュヴァルツヴァルトは、このように地 形的特徴で湿潤で、なおかつ氷河で削られてわりと 平地な丘陵地帯で沼沢地も多く、冷涼(高地で高い ところでは標高1000メートルを超え)で、貧栄 養土壌(片麻岩を基盤として砂岩が覆い被さってい る)で、氷河に削られ表土が薄くすぐ岩盤に達する (土層の発達が悪く、水はけも極めて悪い) 。このよ

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手としての森である。住居と耕地を囲み、周囲に 迫っている森を、切り開き自分たちに資するもの にすることを良しとする人々にとって、自然のま まの森とは、野蛮で非人間的な未開の世界にほか ならなかった。だが、未開で野生だからこそ、森 は、ある者たちにとっては分厚い防御壁に守られ た安らぎの地であり、また許されぬ恋を成就させ る愛の巣であり、責め苛む官憲から逃れるアジー ルでもあった。 森には、精霊が住み着いている。初期中世の聖 人の奇蹟譚には、布教者が命がけで異教の神聖な る松やオークや菩提樹を伐採する話が登場するが、 これは、異教徒にとっての森の神聖性を物語って いる。10世紀まで、そうした樹木礼拝を禁止す る決議をした公会議の例は多い。ところが、伐採 されたはずの樹木の背後には、おびただしい異教 の神々が生き残った。いくら樹木崇拝が、マリヤ 崇敬や聖人崇敬にすげ替えられていったと言って も、住民の心の中には、異教の神々の成れの果て だろうか、 「小人」 「巨人」 「森の精」 「トロール」 (森や山に住む妖精の一種) 「エルフ」 (大地・火・ 大気を象徴する小妖精)などが生き残り、森のパ

ンテイオンに祀られて無数に残存しつづけるので ある。

ローマカトリック教会が、このオークの森地帯に 入ってきた時、本気で異教の神々、妖精・精霊が住 んでいると認識していたようです。神が与えてくれ た自然、森に化け物が勝手に住んでいて、ローマカ トリック教会的宗教をむしろ、崩壊させようとして いるという認識です。ローマカトリック教会が敵と 見なし、全力で抹殺しなければならないと認識する ほど、 オークの森は異教の巣だったということです。 オークの森に住めば、八十万神の神々とつきあう必 要がでてくるのは当然で、自然との付き合い方のマ ナーみたいなものを、事細かに妖精・精霊たちが教 えてくれます。人類は本当はそうやって自然とつき あってきたのです。そして、自分たちの中に自然(妖 精・精霊)も入り込んでくる。自然と自分たちが一 体化しているのです。 自然が自分の中にあると感じる感じ方を、「内観的 自然観(世界観) 」と私はいっています。それに対し て、自然は神から人に与えられた贈り物で、自然は 人の内部にはないという、そういう考え方は「外観 的自然観(世界観) 」とよびます。この「外観的自然

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て、シュヴァルツヴァルトは「黒い森」ではなく、 「黒い土の森」であったと推察されます。この湿潤 な湿地性がローマカトリック教会には苦手なようで す。そもそも、キリスト教は乾燥した砂漠地帯を背 景とした宗教で、 「湿潤な森」は宗教的背景から嫌悪 されていたのではないかと思います。 「風水土」から すると、ローマカトリック教会は「風風観」を持っ た宗教観です。 「風」は大気、ひいては宇宙の象徴で、 「風」は流動的で動的世界の象徴です(大地性が希 薄) 。これに対して、シュヴァルツヴァルトの宗教観 (ケルト・ゲルマンの神々や精霊・妖精が住む)と いうか生命観は、 「水土観」といえます。シュヴァル ツヴァルトは、ケルト・ゲルマン文化の古代信仰の アジール( 「聖域」 「自由領域」 「避難所」 「無縁所」 ) だったと仮定すると、 いろいろなことが氷解します。 シュヴァルツヴァルトは、オークの森林(樹木信仰) で湿潤で湿地でした。また、この延長のライン川流 域の湖沼や、ライン川河口の泥炭地・湿地も同様に アジールだったのです。 シュヴァルツヴァルトはローマカトリック教会的 には、異教の悪魔の巣窟です。グリム童話集に収め られた『赤ずきん』もシュヴァルツヴァルトが舞台

といわれています。 『グリム童話』には森林が舞台の ものが多く、シュヴァルツヴァルトやライン川河畔 に接する森の話と思われています。グリム兄弟はハ )で生まれ、幼少期をすごします。 ーナウ( Hanau ハーナウはライン マ =イン地域の東部、キンツィヒ 川がマイン川に注ぐ河口に面し、オーバーライン盆 地の北端にあたり、広大な森林地帯であるブーラウ に囲まれています(ウィキペディア) 。この森の物語 は、怖い話が多く、森自体を悪魔の巣窟というロー マカトリック教会の大前提が明らかに潜んでいます。 つまり、民間伝承と言っても、ケルト(あるいはゲ ルマン古層)の文化を反映した民間伝承というより は、明らかにローマカトリック教会的視点の民間伝 承です。そもそも『グリム童話』はグリム兄弟がド イツ中を歩き回って、古くから語り継がれてきた物 語をドイツ生粋の素朴な民衆たちから直接聞き集め、 それを口伝えのかたちのまま収録して出版されたも のだと一般には考えられてきましたが、最近の研究 により、 (1)現実には「口伝えのかたちのまま」で はなく、兄弟の手によって少なからず手が加わって いること、 (2)実際には兄弟の聞き取りの取材源の ほとんどが中・上流階級の家庭であり、農村を歩き 回って民衆から話を聞き取ったりはせず、 (3)取材

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うな地形では、腐食性有機物(層が厚いと泥炭)が 貯まりやすいです。さらに北方で冷涼湿潤なスコッ トランドでは丘陵全体がヒースという厚い泥炭で覆 われエリカやエニシダが群生しています。 熱帯でも、 例えばボルネオ島の1500メートル付近に雲霧林 が発達し、シュヴァルツヴァルトのように湿潤で、 腐食性有機物の黒い層(厚ければ泥炭層)が形成さ れます。 一方、柏木貴久子・松尾誠之・末永豊によると、 ネッカー川はシュヴァルツヴァルトの南西山麓のシ ュヴェニンゲン沼沢地(シュヴェニンガーモース) を水源として、北に流れてライン川に注ぎます( 『南 ドイツの川と町―イーザル、イン、ドナウ、ネッカ ー』 (SANSHUSHA) ) 。シュヴェニンゲン沼沢 地は豊富な泥炭に恵まれていて、18世紀中葉から 盛んに採取され、採掘のために排水溝がはり巡らさ れ、その結果沼沢地は水を失って衰え、干上がって いったそうです。 また、ハイデガーが『存在と時間』を執筆した山 荘がトートナウベルクにありますが、ここは「シュ ヴァルツヴァルト山地」の南端の中央嶺(嶺といっ ても氷河で削れられた丘陵)にあり、シュヴァルツ ヴァルトの臍みたいな所で、ここにホールバッハ湿

原(深いところでは泥炭)があります。

かつて、純林に近いオークの森がシュヴァルツヴ ァルトには広がっていたはずです。オークは広葉樹 林や混交林の中で、 いろいろなところに生えていて、 これまで無数に見てきましたが、純林となるとなか なか見出すことができません。 どうもナラやブナ (オ ーク)純林はかなり生育条件の悪い所に成立するよ うな気がします。特に湿潤で冷涼な高地に。北限の 黒松内岳(739メートル)のブナ、秋田の田代岳 (標高1178メートル)のブナ(白神山地ほどの 規模ではないですが) 、 中国雲南省の四双版納熱帯植 物哀牢山森林生態系統安定研究所のある標高270 0メートルのアイラオ山保全地区の頂上付近(熱帯 気候地域で山頂付近は雲霧林)のナラ、ロシアのボ ルガ川中領域のサラトフ(高地ではないが冷涼)の ナラ、とかの純林では、随分と湿潤な環境だった記 憶があります。

シュヴァルツヴァルトを歩いてみると、岩がごろ ごろし、到る処から水が滲みだし、腐植酸を含むよ うな水が流れており、土は黒っぽく、黒色の腐植土 は厚くはないですが一面を覆っています。あらため

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のテュービンゲン大学は、きら星のごとく歴史的人 物を輩出しています(ウィキペディア) 。 ヨハネス・ケプラー:16世紀後半から17世紀 前半にかけての天文学者。当大学で数学を学ん だ。天体運行に関するケプラーの法則で知られ る。 フリードリヒ・シェリング:18世紀後半から1 9世紀前半にかけての哲学者。ドイツ観念論の 代表的な哲学者で、 「人間的自由の本質」などで 知られる。 ゲオルク・ヘーゲル:18世紀後半から19世紀 前半にかけての哲学者。シェリングと同時期に 活躍した哲学者で、ドイツ観念論の大成者とさ れることが多い。 『精神現象学』などの作品で知 られる。 フリードリヒ・ヘルダーリン:シェリング、ヘー ゲルと同時期にテュービンゲン大学で学んだ詩 人。 カール・バルト:20世紀最大の神学者の一人で、 テュービンゲン大学で学んでいる。 ローマ書」 「教会教義学」などで知られる。 グドルン・エンスリン:ドイツ赤軍の創設者であ ると同時に初期の指導者。1960年から19

63年までテュービンゲン大学に在籍。彼女の 父ヘルムート・エンスリンもテュービンゲン大 学出身である。父はカール・バルトの神学を信 奉したルター派牧師であった。ドイツ社会に与 えた影響と衝撃は大きく、21世紀に入っても 文学、映像世界で多くの作家によって彼女の生 涯は取り上げられ、何人もの女優によって演じ られ続けている。

ヘルダーリンは1770年にネッカー河畔の町ラ ウフェンに生まれ、1788年、テュービンゲン大 学神学校に入学し、同級生のヘーゲルやシェリング と親交を結び、 二人とともにカント、 ライプニッツ、 スピノザの哲学を学びました。とくにヘルダーリン はやフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービの『スピ ノザ書簡集』を通じてスピノザの汎神論に感銘を受 けたといわれています。 この「風水土の旅」の初回で触れたように、井川 義次によると、ライプニッツは朱子学の「理」に大 きな影響を受けていました ( 『宋学の西遷 近代啓蒙 への道』人文書院) 。 オランダとテュービンゲンは地理的にはライン川 で一本に繋がっています。 このライン川で生まれた、

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源の一部であるドロテーア・フィーマンはフランス から逃れてきたユグノーの家庭の出で、フランスの 民間伝承が混じり、といったことが分かってきてい ます。ヨーロッパ古層の森林文化であるケルトの文 化に多生とも触れるためには、むしろ『グリム童話』 以前のメルヒェン物語の方がまだましかも知れませ ん。 さて、パウル・ツェランの詩で、オークの原生林 を徘徊してみます。 「森林におおわれて」 森林におおわれて、鹿たちの発情した鳴き声に満 たされて、 世界はいま、 長らえてきた夏に灼熱されつくした お前の唇でためらっている語のまわりに 押し寄 せる。 世界はその語を取り去り そして お前はその後 を追う、 お前はその後を追い そして つまづく──お前 は感じる、

お前が長い間信頼をよせてきた風が お前の腕を ヒースのまわりに曲げる様を──

眠りから来て そして 眠りへと向かった者は 魔法にかけられたものを 揺することができる。

お前はそれを揺すりながら 水辺へと連れていく、 カワセミがどこにもいない巣の近くで 自分の姿を映している水辺へと。

お前はそれを 揺すりながら、 火照る木の奥深く 雪を切望している防火林道を 連れて下りる、 お前はそれを 揺すりながら、語へと 連れてい く。 もうすぐに白いお前のものをあそこで名付けてい る語へと。 『敷居から敷居へ』の「取り替わる鍵で」章 ( 『パウル・ツェラン全詩集Ⅰ』所収)

テュービンゲン:湿潤なシュヴァルツヴァルトと 「テュービンゲンの森」に抱かれたネッカー川河畔

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私はどこへ行くのか? 人間は働き 報酬を得て生きる。労苦と休息が入れ代り 誰もが満足している。 なぜ私にばかり 胸にささった刺が眠らない?

葡萄は純度を高め 森の果実は 赤らむ やさしい花の多くが 大地に謝して 散り果てた後。

野中の静かな径 (こみち)をもとおれば 充ち足りた農夫らの財は 一面に熟している。 骨折り甲斐のある 働きの末 この富が成り出でた。

光と風に包まれて わが愛もわが悩みも!── しかし愚かな願いに追いやられ 魔法は逃げ去る 闇は深まり 大空の下 私はいつものように ひとり立つ。─ ─

固有の地に根づかぬと 植物のように 人間の魂は燃えつきてしまう。 日の光ばかりをたよりに あわれな人間は 神聖な大地をめぐるのだ。

(中略)

夕空に春は花ひらき 数限りなく薔薇は咲き おだやかに 金色の世界は光りを放つ。おお私を引きさらえ 深紅雲よ! その高みに消えよかし

いざ来れ 甘い眠りよ! 心は多くを 望みすぎる。 しかしいつかは燃えつきる 休みなく夢想に耽る若さとて。 やがて来る老いは 平和で晴れやかだ。

あまりに強く 天上の高みにあるものは 私を引き上げる 嵐の日にまた晴れの日に。

空からいそしむ者たちに 木々を透かして 柔らかな光がさし 喜びを分かち合う。 人間の手ばかりで 実りが得られるわけではないのだ。

「わが持分」 秋の日は充溢して静かに憩い

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汎神論、無神論や唯物論、ひいては現象学は、たん にたまたま風に吹かれて思想が空中を舞い広がった のではなく、ライン川の水脈で太く繋がっていると みていいでしょう。平たくいうと、ローマカトリッ ク教会に対する知的暴動がライン川でうねりをなし ていったのです。無神論や唯物論、ひいてはプロテ スタントのうねりもライン川で繋がっています。 ハイネ『流刑の神々・精霊物語』を読むまでは、 ヘルダーリンの詩はあまり好きではありませんでし た。やたらと、ギリシャ・ローマの神々を讃え、霊 だの精霊だのエーテルだの、これ見よがしに謳って いるように思えたからです。ところが、ハイネによ ると、ギリシャ・ローマの神々も、ケルト・ゲルマ ンの神々・精霊たちも、ローマカトリック教会の虐 殺にあい、ある神は身を隠して農夫や漁師や木こり になり、細々と暮らしているというのです。ヘルダ ーリンの神々は、輝くばかりの神々しい神でなく、 日常的にも疲れ果てた、なれの果ての神々で、なん と、ひとびとの隙間にほそぼそ生きているのです。 湿潤な森深いシュヴァルツヴァルトや沼川地や泥炭 地で生き延びてきたのです。そこを、最初は全く読 み切れなかったのです。ヘルダーリンの詩をあらた

めて読み直してみて、たしかに神々はやつれていま した。そして、観念論的だと思っていたヘルダーリ ンは、むしろ地に足の付いた詩を詠んでいます。こ の「風水土」の旅で、ヘルダーリンに再会できたの は、望外でした。以下に、テュービンゲンにおける、 民の生活と自然へ深い慈愛とで、何よりも自然と対 峙していないのがよく分かる、ヘルダーリンの詩で す( 『ヘルダーリン詩集』川村二郎訳、岩波文庫) 。 自然に包まれて生きる、自然に委ねる、そんな感じ がします。ローマカトリック教会のような、自然と の緊張は微塵もありません。

「夕べの幻想」 わが家の前の物影に控えて おだやかに 農夫は座る 分を知る者の竈(かまど)に煙は立つ。 親しげに 旅人の耳にひびく 平和な村の 教会の夕べの鐘は。

今 舟人も港へ帰る 遠い街では 市の陽気なざわめきが 鎮まって行く 静かな園亭では 打ちとけた食事の席が 友らを照らす。

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改めて 我とわが身の力を感じ取る。 大きな業に挑む時 男の眼が火と燃えるように 新たな時代の兆候を示す世界のもろもろの行為か ら 詩人の魂に 一点の火がともされた。 感受されなかった過去の事象が 今ようやく開示され 我らに微笑みつつ 作男に変装し 野良にいそしんだ者たちも 今正体を明す 生気みなぎる 力ある神として。 この神はいかなるものか? 歌の中にその霊は吹 きすさぶ。 歌は昼の陽光と温かい土から生れ 空を翔 (かけ)る嵐から またそのほかの 時代の底で入念に用意され 天と地の間を巡りながら 明らかな 深い意味を告白する嵐から生れ 民らのもとで 共通の霊の思念となり 詩人の魂の中で静かに終止する。

詩人の魂は長らく 限りない存在に なじんでいたが 突然の衝撃に襲われて 記憶に ゆり動かされ 神聖な光芒に点火され やがて魂 から 愛の結実が 神と人との作り成した 歌がめでたく誕生し 神人双方を証(あかし)する。 詩人の伝えでは 神を現身 (うつしみ)に見ようと 願った 女 セメレの家を電光は搏 (う)ち 神は搏たれたセメルは生んだ 嵐の果実 酒神バッコスを。

かくして天の火なる酒を 地上の子らは 危険を冒すことなしに賞味する。 我らに叶うのは 神の嵐のもとで 詩人たちよ! 頭もあらわに直立 (すぐだ)ち 父神の光芒を 父そのものを わが手に 捉え 民に天上の施しを 歌にくるんで手渡すこと。 幼児さながらに心清く 我らの手も無垢ならば 父の清らかな光芒も 焼き焦がすことはない。 深く震撼され 巨大な神の苦しみを

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私は胸の内に食い入るのを感じる こもごも変転する神々の力が。 しかし今日は 静かになじみの径を辿り 森に行かしめよ 森の梢を すがれ行く葉が金に彩る。 わが額も そのように飾れ やさしい思い出よ! また願う すがれ行くわが心が救われ ひとなみに 安住の地を得るように 故郷を失ったわが魂が 生を越えてあこがれ出ることのないように。 「祭の日の……」 祭の日の朝まだき 野の様子をたしかめようと 農夫が表へ出て見ると 熱かった夜を 冷す電 (いなずま)が絶間なく光り はるかになお 雷 (いかずち)はとよもす。 溢れた流れは岸の内に収まり さわやかに土地は青み 喜びをもたらす天からの雨に 葡萄はそぼ濡れ 静かな陽光に 輝きながら 森の木々は立つ。

まさしくそのままに 慈悲深い気象のもとに立つ のは 名匠一人の作ではなく 奇蹟のようにどこにも現 れ やさしく抱きとめる 力強い 神さびて美しい自然の はぐくむものだ。 一年の折ふしに 大空にまた草本や民らのもとに 自然が眠り入るかと見える時 詩人の面輪は悲しみに翳り よるべない思いにひたる風情 とはいえほのかな 予感はある。 自然みずからが 憩いつつ予感しているのだ。

しかし今は夜明け! 待ちくらした末私は見た。 その到来を。 目にした神聖なものを わが言葉たらしめたい。 時よりも古く 西方東方の神々さえ 超越している 自然そのものが 今 物具の打ち合う音とともにめざめた。 高い天上の気から千仞の奈落に到る 神聖な混沌から 古来の鉄則に従って生れた 万物を創造する源なる霊感は

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中に棲まわせ、そこにアジールを作り出していたの ではないでしょうか。 パウル・ツェランがテュービンゲンを訪れ、ヘル ダーリンを謳った詩があります(関口裕昭『パウル・ ツェランへの旅』郁分堂) 。 「テュービンゲン、一月」 盲目へと説き 伏せられた眼たち。 彼らの─「純粋に 生じたるものは 謎なり」─、彼らの 思い出は 漂うヘルダーリン塔の群れ、 回りを鴎が飛び交っている。 溺れ死んだ指物師たちの訪問 これらの 沈みゆく言葉のもとに── やってきたら、 ひとりの人間が、やってきたら ひとりの人間が、この世に、今日、やってきたら

族長の光る髭を もってやってきたら、その人が、 この時代について 語るとしたら、 彼はただ 口ごもり口ごもり言うしかないだろう、 いつも、いつ いつまでも。 ( 「パラクシュ。パラクシュ。 」 )

盲目:盲目であるがゆえにかえって先見の明をも つ 純粋に生じたるものは謎なり:ヘルダーリンの頌 歌「ライン河」からの引用で、その続きは「詩 でさえ、その謎を解くことはできない。/なぜ ならあなたはうまれたままに、とどまるだろう /いかに多くの困苦と、規律が働きかけようと も」 ヘルダーリン塔:かつて狂人と化したヘルダーリ ンが虚しく後半生をすごした塔。 指物師(木工品の専門職人) :ツィンマーが暮らし た家の円形型の一部をさす。この塔は狂人を捕

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ともに苦しみつつ 高まり寄せ来る神の 嵐のさなか 心は自若としてとどまるのだ。 …………………… …………………… ヘルダーリンは晩年には、精神的には追い詰めら れていきますが、 逆に詩では淡い光が射してきます。 「春」 光が新たに大地に降り注ぐと、 春の雨に緑の谷は輝く、そして陽気に 明るい川に沿って樹々は白く花咲く、 快活な一日が人間へ身を傾けたのちに。 明るい区別によって明白さは増し、 春の空は平和をたたえて滞まっている、 それゆえ人間は心おきなく年の魅力を眺め、 生の完全さに思いを馳せる。 関口裕昭「パウル・ツェランへの旅」 (郁文堂) より そうして、ヘルダーリンは最晩年の乱心時代終焉 を向かえて「生のなかば」 ( 『ヘルダーリン詩集』小

牧健夫・吹田順介訳、角川文庫)にたどり着きまし た。あらゆる闇と戦い、ヘルダーリンが讃えた「光 りなき闇に跼蹐(きょくせき)する雷神」に打たれて一 瞬のうちに自然に溶け込むことができた、そんな静 寂と安堵を感じます。ほぼ辞世の詩です。 「生のなかば」 黄色なす梨の実は 枝もたわわに 野薔薇水に映ろう 湖の岸べに立てば ろうたき白鳥よ 汝達 (なれたち)は 愛の接吻 (くちづけ)に酔いしれつ 頭 (こうべ)をひたに浸すらし 浄 (きよ)らにも冷やけき水の中に

悲しからずや 冬としなれば われはいずこに花を摘ままし いずこに日の光を 地上の影をや求めえん 隔ての障壁 (しきり)は言葉なく 冷かに連なりて 風吹くなべに風見 (かざみ)ぞきしめく

ヘルダーリンは、古層の神々や精霊を自分の心の

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陽にさらされ、干物の刑に処されているのです。大 聖堂の八角錐の尖塔のオークの葉の髯をはやしたグ リーンマンの数はおびただしく、グリーンマンへの 尊厳のはずがなく、これは明らかにさらし首です。 最近、大聖堂の八角錐の尖塔の大改修がほぼ終え ましたが、なんとグリーンマンの首(像)が見当た らないのです。また、かつてミュンスター大聖堂の 周りに円柱が何本もたっていてその台座にグリーン マンの首が置かれていましたが大改修工事でこれら の柱も取り外され、現在も外されたままです。フラ イブルグはかつて、魔女裁判が最も峻烈を極め、そ の恐ろしい実態を展示した魔女博物館がありました が、それも閉館されて形跡すらありません。フライ ブルグは最近、トラム(LRT)の導入や車の乗り 入れ制限、最先端のゴミ処理とリサイクルシステム などで環境(エコロジー)先進都市として売り出し ています。環境先進都市として、不都合な真実を隠 蔽しようとしているとしか思えません。 アンダーソンは、グリーンマンは北方と南方の境 界地域の都市に多く見られ、これらの都市では魔女 狩りがもっとも激しかったところとほぼ一致し、共 通の地下水脈が存在すると推定しています。この北 方と南方の境界地域の都市というのは、ライン川沿

いの都市です。詳細に調べているアンダーソンの本 を見ても、ゴシック様式建築以前には、グリーンマ ンそのものを認めることが出来ませんし、どうも、 グリーンマンはゴシック様式の建築とともに創られ たようなのです。ゴシック様式の建築とは、キリス ト教会がオークの森を破壊し、 「森の精霊や妖精」を 炙り出して干物にしていた象徴建築です。ゴシック 大聖堂は、キリスト教の自然支配、自然征服の記念 堂です。それで実に迫真の象徴建築となったのでし ょう。その緊張と残虐性がなんとも美しい建築にし ているのです。しかし、フライブルグのゴシック様 式のミュンスター大聖堂はかつては美しい聖堂でし たが、今はグリーンマンの首のない、まるで歯抜け の尖塔になってしまい、寂しい限りです。

ゴシック大聖堂は森の spirituality (霊性)を裏返 した(晒した)ものであると合点した瞬間に、ハイ デガーの「世界内存在」という概念は、ゴシックが 自然の裏返しであるなら、 それをもう一度裏返して、 大地に根付かせようとした概念ではないかという考 えにふと囚われました。 「世界内存在」はヤーコブ・ フォン・ユクルキュルの 「環境世界理論」(生物体は、 それがおのれに固有な環境世界とのあいだにとり結

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らえた「牢獄」である同時に、危機の時代にお 、た 、う 、ことを諦めなかった詩人のいた いてもう 「燈台」でもある。 ひとりの人間:ヘルダーリン 族長:旧約聖書に描かれるユダヤ民族の父、アブ ラハム、イザク、ヤコブらをさす。 光る髭: 「光」は、ツェランの『息の回転』の最後 の言葉「光(リヒト)があった。救いが」が暗 示しているように、晩年の詩は白い不可知な光 のトーンが主流を占めるようになる「光」 。背後 でツェランにも精神病がひたひたと忍び寄って いた。 「パラクシュ」 :精神の闇に陥ったヘルダーリンが 訪問者に対して発した言葉で、 あるときは 「然 」を別のときには「否 (ないん) 」を意 り (やー) 味した。 ここで二度繰り返されることにより、 」と「否 (ないん) 」が区別される 「然り (やー) ことがない。 フライブルグ:フライブルグには、壮麗な尖塔を もつゴシック様式のミュンスター大聖堂があります が、その内部は深い森(オークの森)の世界を模し

ているといわれています。左右に立ち並ぶ巨大な石 柱はオークの幹を、石柱の頂から天井にかけて放射 状に伸びるアーチはオークの枝を、石柱の頂には刻 まれたフォルムは葉を形象化しています。さらに、 大聖堂の八角錐の尖塔には、グリーンマンが刻まれ ていたのです。グリーンマンとは、オークの葉の髯 (ひげ)をはやした人面像のことで、ケルトやゲル マンの樹木信仰に由来し、もっとも立派なグリーン マンがここの尖塔に刻まれているといいます(W・ アンダーソン 『グリーンマン』 河出書房新社) 。 実際、 以前、改修前にはこの尖塔まで登れて、尖塔にはグ リーンマンの像がびっしりはめ込まれていました。 しかし解せないのは、ローマカトリック教会は樹 木信仰のような異教の信仰を絶滅するためにこの地 に進出してきたはずです。その教会の大聖堂に森林 を形象化したとすると、それは森林に対する愛着で も尊厳でもありません。それは、むしろ樹木信仰の 異教に勝利した記念塔と考えた方がいいでしょう。 内側は森林の構造ですが、大聖堂の外側のガーゴイ ル(雨水の排水口)には多数のモンスター(化け物) たちの彫刻が施され、不気味な顔や姿態で威嚇して います。私はこのモンスターたちは森の精霊(妖精) ではないかと思っていて、森から引きずり出され太

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佐々木健一『美学への招待』 (中公新書)や『叡知の 台座―井筒俊彦対談集』(岩波書店)( 「Ⅱ東西の哲学」 中での今道友信との対談)に詳しいです。つまり、 「世界内存在」は、 実は「処世」であり、つまる ところ「世間」のことにほかならないということに なります。しかし、ほんとうに興味ぶかいのは、ハ イデガーの「世界内存在」というこけおどしの概念 よりも、荘子の「処世」に該当する適当な言葉(つ まり概念) が、 ヨーロッパにはないということです。 この部分の英文は、次のようです( 『茶の本 英文 収録』 (桶谷秀明訳、講談社学術文庫) 。 But the chief contribution of Taoism to Asiatic life has been in the realm of aesthetics. Chinese historians have always spoken of Taoism as the "art of being in the world", for it deals with the ── ourselves. present なんということもない文ですが、この文のタオイズ )の「処 ムの「処世術」 ( art of being in the world 世」が「世界内存在」と逐語訳され、20世紀に大 騒ぎとなった実存主義へと流れていったとすると、 「狐につままれた」とまではいいませんが、実存主

義からまるで空気が抜けていく感じがしないでしょ うか。

わたしはクラクラと目眩がしてきます。

張錘元 (チャンチュン・ユアン)は、老子の『道徳経』 を現代西欧哲学が、特に、ハイデガーが、どのよう に理解し、吸収し、影響を受けたかについて解説・ 論考しています( 『老子の思想 タオ・新しい思惟へ の道』上野浩道訳、講談社学術文庫) 。張錘元は19 71年にドイツのフライブルグにハイデガーを訪問 し、お互いに共鳴するところがあったといいます。 その対談後に著されたのが本書というわけで、ハイ デガーが、 「道(タオ) 」をどう理解していたかを知 る上では、絶好のテキストと言えます。 『道徳経』の 第一章「道の驚き」の張錘元の解説に、 「ハイデッガ ーもいう。 」 という一節でハイデガーの言葉が記され ています。

老子の詩的思惟のキーワードは「道」である。そ れは「正確にいえば」道を意味する。しかし、我々 は「道」を表面的に二つの場所を結びつける道と して考えがちである。そして、 「道」という言葉を

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んでいる機能的円環関係のうちで捉えられねばなら ないとする理論) (木田元「ハイデガー「存在と時間」 の構築」 、岩波現代文庫)に着想を得たと言われてい ます。 20世紀に入って、シュヴァルツヴァルトの中心 都市のフライブルグ大学にて、E・フッサール、M・ ハイデガーにより、今から見ると環境哲学的色彩の 強い、現象学が発祥しました。 この「風水土」の旅の初回で、中国の朱子学の「理」 と「気」の哲学が、西洋哲学(思想)に「理性」と して注入されたのをみました。朱子学の「理」と「気」 は「風水」を骨格としています。つまり、自然の「理」 と「気」からなる「理性」 ( 「理」と「気」を翻訳し ただけ)がライン川流域の知的世界に注入さ、それ が遡り、ドイツ観念論がシュヴァルツヴァルト山麓 に育ってきます。ハイデガーはさらにタオ(道教) を自らの哲学に導入しようとします。なぜかという と、シュヴァルツヴァルトに逃げ込んだ神々や精 霊・妖精といった古層の精神文化をとらえる視座が、 西洋の思想装置の中には無いからと思います。 ハイデガーは、自らの哲学は思想体系を提出する のではなく、 「道」 (道路)をつくる(指し示す)だ

けだと、何度も述べています。その思考様式は「形 ) 」と呼ばれ、存在 式的指標( die formale Anzeige 神秘という極点を「かたちばかり指標するにとどめ る叙法」 (問題を指し示すだけの叙法)によって全著 作が編みあげられていることが明らかになっていま す(古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』講談 社現代新書) 。これは、まるで、老子の『道徳経』の 叙述のようです。 『存在と時間』でさえ、この本は「一 つの道にすぎぬ」 という趣旨で、 とじられています。 また、全集出版にあたり、 「全集編集上の留意」とい う覚書をのこしていて(全集第一巻冒頭) 、死の数日 前のせりふで、 いわば遺言はたった一言 (古東哲明) 。

「道。著作ではない」 ( Wege-nicht Werke )

ハイデッガーは生涯通して、老子の道(タオ)を 極めようとしたといってよいかもしれません。

岡倉覚三(天心)が英文著書『茶の本』 ( The Book )で、荘子の「処世」に対する苦心の訳語を of Tea としましたが、ハイデガーはそ Being in the world ( 「世界 れをドイツ語に引き写して In-der-Welt-sein 内存在」 ) としたことは、 よく知られていて、 例えば、

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てしない広がりの下に隣人同士で住むことの近さを 打ち立てるのです」です。 「間」という概念は、 「空」 や「静」や「闇」という概念にも似た謎めいた概念 で、この「間」において、良寛とハイデガーが通底 するというのです。 ハイデガーが幼年期を回顧した美しい短文『野の 道』に、 「野の道は、ホーフガルテンの城庭の門を出 て、エーンリートの方へ走っている。城の館の庭に は古い菩提樹の木がある。野の道は、復活祭の頃に は、青く芽を吹く麦畑と、活気づく牧場の間に、あ かあかと光、降誕祭の頃には、吹雪の下に、間近の 岡の彼方に消えていく。しかし、城の館の庭の古い 菩提樹の木は、いつも城壁越えに、その野の道を見 送っている。野の中に十字架がたっている。野の道 は、その十字架の所で森の方へと曲がって行く。森 のほとりに高い槲(オーク)の木がある。野の道は、 そのほとりをすぎる時、その槲の木に挨拶を送る。 槲の木の下には、荒けづりのベンチが置いてある」 (マルティン・ハイデッガー『野の道 ヘーベル一 家の友』 (ハイデッガー選集8) (理想社) )と述べて います。 ハイデガーの弟子エゴン・フェエタは、ハイデガ ーはこの「野の道」において生涯を思索に捧げる決

意を定めたのであるといってます。 そこでこの、 『野の道』のオークが見たくなり、ハ )までい イデガーの生誕地、メスキルヒ( Meßkirch ってみました。ホーフガルテンの城庭は、ハイデガ ーが描いているそのままでしたが、しかし、ホーフ ガルテンの城庭の門をくぐると、なんと! 左右に は住宅が迫り、野の道の林があるべき方向は全く牧 草地で、舗装道路が走り、わきには最新の工場がた っています。ハイデガーが忌み嫌った物質文明に、 いみじくも「野の道」の続く森は消滅させられてい ました。高い槲(オーク)の木は倒され、 「野の道」 はすでにたたれ、しかし、なぜか、石の十字架だけ は取り残されています。 『野の道』は、すでにそのこ とを察知した、オークの森の最後の一本の老木に対 する追悼文だったような気がしてきました。

晩年、さらにハイデガーは、世界(ヴェルト Welt ) )へと説き、ヘルダーリン から大地(エルデ Erde の詩「漂泊」から、 「根源の近くに住むものは その 場所を去りがたい」でしめくっています( 『芸術作品 の根源』平凡社) 。ハイデガーの哲学を読み解くこと は私にはできませんが、 「風水土」の旅からすると、 シュヴァルツヴァルトの山麓で、西洋が失った「水

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あまりにもせっかちに考え、 「道」の意味すること に名前をつけないのは不適当であると考えてきた。 そこで、 「道」は理性、精神、存在、意味、ロゴス と訳されてきた。もし、我々がこれらの名前を語 られないところへ戻せるならば、思想豊かな「言 説」のもつ神秘は「道」という言葉にふくまれる であろう。 この文章からすると、ハイデガーは、かなり正確 に「道」 (タオ)を理解していたものと思われます。 「道」 (タオ)は形もなく、名前もなく、言葉によっ て表現されることもない根源的・原初的状態である と。 メスキルヒ:ハイデガーの故郷メスキルヒは、シ ュヴァーベンジュラ脈(シュヴェービッシェ・アル プ)の東南の裾で、シュヴァルツヴァルトを源流と するドナウ川の河畔にあります。この辺りのドナウ 川は峡谷を走り急流です。 このあたりもオークの 「黒 い森」の文化があったはずです。 フライブルグ大学で教鞭をとる、U・グッツォー ニは良寛の詩を引用して、

坐時間落葉 静住是出家 従来断思量 不覚涙沾巾

坐して、ときに落葉を聞く 静かに住するは これ出家 従来 思慮を断ち 覚えず 涙 巾をうるおす

は、 「M・ハイデガーのいう「そのとき世界は死すべ き者たちの住まう家である」というイメージの親近 性ないし類似性、あるいは多分こう言ったほうが一 層よいと思うのですが、気分の親近性ないし類似性 というようなものを見ることができるのではないで しょうか」と述べています( 「変革する思考」慶応義 塾大学出版会) 。ハイデガーの『ヘーベル一家の友』 における、その部分は「さすらうことは、地と天の 間、誕生と死の間、歓喜と苦悩の間、行為と言葉の 間での人間滞留という意味における住むことの重要 な特徴でありつづけます。わたしたちがこの多様な 「間」を世界と名づけるならば、そのとき世界は死 すべき者たちの住まう家なのです。それに対して 個々の家や村や町は、その多様な「間」を自分の中 に、もしくは自分の周りに招き集める構造物です。 これらの構造物がはじめて、住まわれた風景として の大地を人間の近くへと招き寄せ、また同時に、果

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話し合われたかは不明ですが、パウル・ツェランが 書いた以下の詩「トートナウべルク」だけが残され ています(関口裕昭「パウル・ツェランへの旅」郁 文堂) 。 アルニカ、目の慰め、 星形の賽をかかげた 井戸からのひと飲み、 小屋の 中で、 その記念帖に ─私よりも前に 誰の名前が記された?─ この記念帖に 書きこまれた ある希望についての一行、 今日、思索する人への 心の中に 来るべき 言葉への、 森の湿地、平らにされず、

欄、また欄の花、離ればなれに、 生のものが、後になって、車中で、 明らかに、 私たちを運んでゆく、その人も、 一緒にそれを聞いている、 半ば 踏み入れられた丸太 道 高層湿原の、 湿ったもの、 多く。

関口はこの詩の一字一句が、ハイデガーを非難し ている詩として解釈します。宇京賴三も同様にツェ ランは、ハイデガーがナチを支持したことにたいす る謝罪を求めたけれども、無言であったとし、ツェ ランがこれにより深い絶望に陥り、精神の安定を欠 きついには自殺にまで到ったと暗示します(ツェラ ンとハイデガー:詩「トートナウベルク」をめぐっ て、人文論叢:三重大学人文学部文化学科研究紀要

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土」観を基盤とした自然観哲学を何とか構築しよう としたということでしょうか。没落した古層の神々 とともに。 トトナスブルグ:ハイデガーはトトナスブルグの 山荘で、 『存在と時間』の大部分を執筆しました。ハ イデガーの哲学を理解することはかないませんので、 せめて、その思索の場の情景を知りたいと思い、ト トナスブルグの山荘を訪ねたことがあります。フラ イブルグ駅からバスでシュヴァルツヴァルトを抜け、 アルプス風高地の草原・牧草地を走り、トートナウ べルクに着きます。トートナウべルクは、今は避暑 地で、 冬はスキーの保養地として有名なようですが、 閑散としていました。草原の尾根を行くと高山植物 の可憐な花々が道に彩りを添え、一本の大木に至り ます。その木陰のベンチでハイデガーがしばしば時 を過ごしたといいます。 朽ちかけたベンチにかけ (エ アー状態で) 、谷間をみると、眼下の彼方に雲霧に煙 る村が見えます。放牧されたスイスブラウン牛のカ ウベルのかそけき音(ね)が風とともに牧草地を這い 上がってきます。大木が道標なのか、そこから森林 と牧草地の境の「野(辺)の道」となり、踏み分け 道をしばらく行くと、森と牧草地の境に、ハイデガ

ーの山荘がひっそりたたずんでいました。深山幽谷 とまではいいませんが、そのように現世から隔絶し た庵で、 『存在と時間』が執筆されました。当時の室 内の写真を見ますと、書物がほとんどありません。 瞑想と思索によって『存在と時間』は生み出された といえます。

1967年6月23日、ハイデガーはバウマンに 宛ててこう書きます。 「もう長い間、わたしはパウ ル・ツェランと知り合いたいと思っていました。彼 は遙かに進んだところに立っており、すぐれた自制 心を備えています。 彼のことはすべて知っています。 彼がひとりの人間に可能な限り、あの深刻な危機か ら自分を救い出したことも。(中略)パウル・ツェラ ンに黒い森(シュヴァルツヴァルト)を案内してや ることが、彼を癒す効果を持つでしょう。最近彼か ら新しい詩集が届きました。 『息の回転』です」 。 7月24日、ツェランはフライブルグ大学の講堂 で、詩を朗読し、翌日、ツェランはハイデガーとと もに車でトートナウベルクへ向かい、山荘で両者は 長時間にわたり話し合ったといいます。折からの雨 のため、ツェランが強く望んだホールバッハ湿原へ の散策は中断(途中で?)されました。山荘で何が

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それで、ツェランが別に書いた「高層湿原」の詩 を次に載せます。ツェランにとって高層湿原はこの トトナスブルグしかないと思いますが、何を感じた のでしょうか(記録では、雨で引き返したとありま すから、縁を訪れただけかも知れませんが) 。 (高層湿原) 高層湿原、時計のガラスの 形をして(時間を持っている者もいる) こんなに多くのキアゲハ、毛氈苔を欲しがり、 湿原の緑 から 安息日の蝋燭が 上に向かって立っている、 震動する沼、 もしお前が泥炭となるならば、 時計の針を 義人から ぼくは外す。 『雪の声部』の「Ⅳ」章( 『パウル・ツェラン 全詩集Ⅱ』所蔵) 義人(ぎじん)は、キリスト教の概念で、 『広辞苑』 (第

6版(岩波書店) )によると「堅く正義を守る人。わ が身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」 のこととあります。それで「義人」はキリスト教文 化とでも理解しておきます。高層湿原はまだ浅く泥 炭となっていません。飛び跳ねてみてもまだぶかぶ かです。古層の神々や文化が泥炭層としてしっかり 蓄積するなら、キリスト教的歴史・文化は不要です (まったく、突拍子もない解釈ですいません) 。

Ⅳ ライン川流域

現在、ライン川は、バーゼルの少し北で、アルザ ス大運河と接続し、さらにこのアルザス大運河は、 (1)マルヌ・ライン運河へと接続してパリなどセ ーヌ川水系水運ともつながり、 (2)ミュールズでロ ーヌ・ライン運河と接続し、ローヌ川水系へと接続 してリヨンや地中海とつながっています。 ちなみに、 ライン川はマイン川と合流し、マイン川をさかのぼ ると、1992年に開通したライン・マイン・ドナ

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、三重大学) 。 21, A1-A15, 2004 宇京賴三は、一方では、パウル・ツェランの詩に は、マルティン・ハイデガーという哲人の精神的・ 内的関係が深く係わっているとも指摘します。 確かに、パウル・ツェランという詩人とマルテ ィン・ハイデガーという哲人の精神的・内的関係 。それは、スタイナ は深く、緊密であろう(中略) ーやラクー バ =ルトがいみじくも指摘するところ である。いわく、 「ハイデガーの肖像を描くにあた ってP・ツェランは重要であるし……P・ツェラ ンの全く革新的な語彙やある程度まではその統合 法でさえもが……ハイデガー的である」(スタイナ ー、略) 。 「ツェランの詩にはハイデガー流の新造 語や溶接語が貫通している」 (スタイナー、略) 、 「ツェランのポエジーはその全体がハイデガーの 思考とのひとつの対話である」 (ラクー バ =ルト、 略) 」 。ツェランがハイデガーを読み出したのは1 953年2‐3月の『存在と時間』第一部からと されるが、同年7‐8月にも『森の道』読書の記 録があり、こうした「50年代のハイデガー精読 が彼の詩と詩に関する理論的考察を育んだ」 ()の であろう。

ツェランは、 「トートナウべルク」で、 「その記念 帖に/─私よりも前に/誰の名前が記された?─」 と書いていますが、これは明らかにヒトラーのこと を指しています。ヒトラーもこの山荘を訪れていま す。それで、 「トートナウべルク」では、ヒトラーに 加担し続けたハイデガーを非難しているのはその通 りでしょう。そうすると、そもそも、ツェランはそ んな山荘になんで出向き、ハイデガーはなんで「黒 い森(シュヴァルツヴァルト)を案内してやること が、彼を癒す効果を持つ」などと書いたのでしょう か。山荘訪問は精神的にまいっていたツェランの傷 口を広げるだけです。むしろツェランが強く望んだ のは、シュヴァルツヴァルトの象徴的ホールバッハ 湿原を訪れることだったと思います。ツェランはこ の訪問の前にホールバッハ湿原のことをよく知って いたふしがあります。山荘訪問の自明な忌まわしさ を越えてまで、シュヴァルツヴァルトにあるホール バッハ湿原を探訪したかった。この探訪こそが、ハ イデガーとの繋がりの鍵だったような気がします。 シュヴァルツヴァルトの「魂」がこの「高層湿原」 にはあるように、二人とも感じていたのではないで しょうか。

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を見続けてきたことになります。ライン川両岸には おびただしい数の城や要塞や砦があるのはそのため です。 このライン川流域はまるで歴史的地政学的ジグゾ ーパズルですが、もう一つ、宗教的ジグゾーパズル が重なります。つまり、 (1) 「シュヴァルツヴァル ト山地」や「テュービンゲンの森」はケルト民間伝 承の宝庫で、多神教的自然崇拝的世界観、 (2)テュ ービンゲン神学校は、17世紀から19世紀を通じ てルター派正統神学の拠点、 (3)スイスのチューリ ッヒはプロテスタントの中心(フルドリッヒ・ツヴ ィングリが宗教改革先導して神性政治を確立しよう とした地)であり、チューリッヒ付近を流れるリマ ト川もライン川の支流アーレ川に注ぎ、 (4)ライン 川河口域のネーデルラント諸州が北海・バルト海交 易を握って経済力を強めていき、カルヴァン派の拠 点となるといった具合です。 COP23がボンで開催されましたが、ボンは小 さな街で、ホテルが満席か、とてつもない値段につ り上がっています。しかたがなく50キロ程離れた ケルンから通うことにしました。夜に着いて、ケル ンの駅を出ると、強大なケルン大聖堂に威圧されま

す。ケルン大聖堂はゴシック様式の建築物としては 世界最大であり、ローマカトリック教会のミサおこ なわれています。つまり、ケルト・ゲルマン古代信 仰の制圧・弾圧の一大拠点であったわけです。 ケルンは、ライン川が山間部の裾野から平野には いる要の位置に在り、日本だと山辺という、山と野 の境界線上にあります。山(丘陵)と野(低地)で は、風俗習慣も異なり、異文化の境界線でもあると もいえます。ライン川沿いだと低湿地も多く、人が あまり住みつかない地域も多かったはずです。この 湿地・泥炭地をなぜかローマカトリック教会は忌避 していますので、低地側にはケルト・ゲルマン古代 信仰の神々のアジールがかなりあったと思われます。 いっぽう、丘陵地の山側には森林があり、おそらく 異なったタイプの神々のアジールがあったでしょう。 ケルン大聖堂正面のファサードの二つの塔の先端 に、かつてのフライブルグ大聖堂のように、グリー ンマンの首が置かれていたはずですが、双眼鏡でい くらみてもそれらしいものはありません。ここも世 界遺産に登録されて、すっかりお利口さんになった のでしょうか。

関口裕昭が『パウル・ツェランへの旅』 (郁分堂)

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ウ運河によってドナウ川へと水路がつながっており、 この三河川を使用すれば北海から黒海まで河川のみ で行くことも可能です。おお、なんと、ライン川は、 北海はもとより、黒海、地中海にまで繋がっていま す。というか、ヨーロッパはなんと平らなことか。 ライン川はドイツの歴史を流していると言っても よいほどで、ウィキペディアですこし歴史のおさら いをしておきます。 古くはライン川を境界として、西岸はケルト人、 東岸はゲルマン人が主に居住していましたが、ユリ ウス・カエサルのガリア侵攻によって西岸はローマ 帝国領となり、ライン川はローマとゲルマンの境界 となります。やがてローマ帝国は衰えを見せ始め、 4世紀に入ると東岸のゲルマン人がローマ国境を越 え、次々と西岸へと侵入します。ゲルマン民族の大 移動です。 これにより西岸もゲルマン化されていき、 やがてライン川周辺地域を中心として、フランク王 国が勢力を拡大していきます。また、フランク王国 の勢力拡大とともにこの地域には政治的安定が戻り、 ライン河口地域に住むフリース人(フリジア人)た ちが活発な商業活動を展開するようになります。 フランク王国はカール大帝の時代に最盛期を迎え

るも、その孫の代に、ライン川西岸は中部フランク 王国へ、東岸は東フランク王国へと分裂し、ライン 川は再び国境となります。東フランク王国はやがて 神聖ローマ帝国となり、西フランク王国はやがてフ ランス王国となります。そうしたなかで、フランス の国境をライン川へと求める、いわゆる自然国境説 がフランスで有力となっていき、以後フランスの多 くの為政者がライン川沿岸にフランス国境を伸ばす ことを狙うようになっていきます。これがドイツと のいがみ合いのもととなっていきます。 第一次世界大戦はフランスを含む協商国の勝利に 終わり、1919年のヴェルサイユ条約においてフ ランスはアルザス ロ =レーヌを奪回し、さらにライ ン川左岸50キロの非武装化をドイツに認めさせま す。しかしこの条約はドイツに非常に強い不満を呼 び起こし、やがてアドルフ・ヒトラーとナチスの台 頭を招く一因となります。1936年にドイツはラ インラント進駐をおこない、ラインラントを再武装 化します。これに対しフランス側はライン川にほぼ 沿う形でマジノ線を建設し、ドイツ側もこれに対抗 すべくジークフリート線を建設して両軍は対立の度 を深めます。 ライン川はフランスとドイツの1000年の攻防

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この男たちこそラインの4人の選帝侯で、この石 は王の座席つまり 〈王座 (ゲーニヒシュトワール) 〉 なのだ。 彼らがライン渓谷のほぼ中央で選んだ場所レン スは、ケルンの選帝侯の領地で、西方つまり左岸 にあるトリファーの選帝侯の領地カペレンをにら むと同時に、北方つまり右岸の、一方ではマイン ツの選帝侯の領地オーベルラーンシュタインと、 他方では宮中伺候の選帝侯の領地ブラウバッハの ほうをにらんでいる。各選帝侯は1時間以内に居 城からレンスに赴くことができるわけだ。 一方、毎年、復活祭の2日目に、コブレンツと レンスの名士たちが祝祭を口実にして例の石のか たわらに集まって、仲間うちでなにやらひそひそ 相談しあう。 COP23に行こうとした11月11日の朝、ケ ルンで突然カーニバルに巻き込まれました。まず、 ホテルのエレベータで変なぬいぐるみを着た変態オ ヤジに出くわしました。ぬいぐるみの「なに」のと ころから悪魔のようなリンガが生え、ぶるぶる動い ています。顔は化粧をほどこし、悪魔的です。わな わな打ち震え(うそ) 、変態オヤジ襲ってこないだろ

うか、横目で警戒します。ロビーに出ると、怪しげ な集団で埋まっています。食堂で、T先生がネット で見るとカーニバルらしいよ、と教えてくれます。 11月にカーニバル? T先生大丈夫(本当は遅れ てきたハロウィンなのでは?)と気遣いながら、ネ ットで調べると、ケルン・カーニバルは、ドイツ三 大カーニバルのひとつで、このケルン・カーニバル が始まるのが、なんと本日の11月11日の11時 11分とでてきました。カーニバルの本番は、毎年 2月の木曜日「女性のカーニバルの日」に始まり、 翌週の「灰の水曜日」まで続くということです。本 番では、パレードを見に国内外から100万人も訪 れるといいます(ウィキペディアなどから抜粋) 。 毎年11月1日に行われるハロウィン )は、古代ケルト人を起源とする祭り ( Halloween で、秋の収穫を祝い、悪霊を追い出す行事でした。 ケルトの「四つの季節祭」は「光りの半年」が終わ る10月31日がサウィンでいわば大晦日で、「闇の 半年」が始まる11月1日がハロウィンで、いわば 「闇の半年」の新年にあたります(鶴岡真弓『ケル ト 再生の思想──ハロウィンからの生命循環』ち くま新書) 。2月1日のインボルクが春の始まりで、 これがカーニバルの起源である可能性が高いそうで

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で、ツェランの詩「ケルン、駅前で」を紹介してい ます。 心の時刻、 真夜中の文字盤のために 夢見られたものたちが立っている。 あるものは沈黙の中に語り、あるものは沈黙し、 あるものは自分たちの路を行った。 追放され、破滅して 故郷へ帰っていった。 おまえたちドームよ。 おまえたち眼に見えないドームよ。 おまえたち聞こえない流れよ。 おまえたち私たちの奥底にある時計よ。 ケルン大聖堂 この詩は、ハイネ『ドイツ 冬物語』の第四章の詩 を受けて詠まれているといいます。 それは精神のバスティーユ牢獄だ、

狡猾なローマ崇拝者はこう考えた この巨大な牢獄でなら、 ドイツの理性もくたばってしまうだろう! そこへルターがやってきて、 大声で「中止しろ!」と叫んだ、 その日からドームの建設は、 中止となった。

ケルト・ゲルマン的古代信仰からするとこのケル ン大聖堂はまさに牢獄で、ローマ・カソリック教会 からすると勝利の記念塔というのが良く理解できま す。

ユーゴが『ライン河幻想紀行』 (榊原晃三編訳、岩 波文庫)で紹介しているように、ケルンはライン川 一帯の要に位置します。

さて、四つの異なった方面からやってきた4人 の男が、ライン河畔のレンス、カペレン間の並木 道に近い左岸にある、とある石のかたわにときど き寄り集まる。4人の男はその石に腰を下ろし、 そこでドイツ皇帝を立てたりやめさせたりする。

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ましたが、それでも2時間以上もかかりました(通 常30分) 。 さて、帰りの、ボンからケルン行きの列車はほと んど動いていません。3本程ラインがあり、地下鉄 ラインが動いていたので乗りますが、ボンとケルン の中間で、駅舎も無い駅で突然運転停止になり、客 を降ろして消えてしまいます。2時間程待まっても まったく列車は来ません。ケルンからボンに向かう 列車は時たま通ります。ケルンから人を搬送し、ケ ルン市中には入れないよう、当局が指示していると しか思えません。 これって、 強制連行と違うか? し ょうがないから、また、ボンにもどることに。ボン に戻る列車は、ビールビン、ワインビンとその破片 が散乱し、カンやゴミが散乱し、嘔吐物があり、小 便くさく、床がぬるぬるで、仮装の連中が大暴れし ています。修羅場列車です。おお、まるで魔界への 強制連行列車の再現か? ボンでドイツ鉄道(DB)に行くも、ここもケル ン行きは大幅に遅れていて、運行の目処が立たない ようです。それで、外に出て、タクシー乗り場に行 きますが、長蛇の列で目がくらむ。そこであきらめ て、ボンのDBでケルン行きの運行再開をひたすら 待つことに。ケルンに到着したのは真夜中で、なん

と6時間近く、難民化していたことになります。一 般人に対してこれですから、本当の難民の方々の大 変さは推して知るべしです。 ケルン中央駅からすぐのケルン大聖堂のテラスは ビールビンが散乱し、ゴミが散乱し、ぬるぬる状態 で、このカーニバルはアンチキリスト教会の地下エ ネルギーなのだから、ケルン大聖堂なぞくそ食らえ です。実際、くそがしてあった。

ユーゴ『ライン河幻想紀行』 (榊原晃三編訳、岩波 文庫)に戻ります。

ともあれ、16世紀が近づいていた。すでに1 4世紀に、ほど遠くないニュールンベルクで大砲 が生まれるのをラインは目撃した。1400年、 ケルンはあの有名な長さ14ピエ(昔の長さの単 位で、1ピエは約30センチ)の火砲を鋳造し、 1472年には、シュピーレの町のヴェンデリン が聖書を印刷したのだ。新しい世界が出現しよう としていたが、そこで強調する価値のある際立っ たことは、これら火器と印刷術という二つの不思 議な道具が、新しい形を見つけ出し、これを取り 入れたのがライン河畔においてであるということ

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す。どうもケルン・カーニバルは、ハロウィンとカ ーニバルを合わせたような、古代ケルト人の祭りの 象徴なのではないでしょうか。つまり、ケルトの「闇 の半年」が支配する世界への導きの日なのです。弾 圧の象徴のケルン大聖堂の地で、古代の神々が「闇 の半年」が支配すると宣言する日なのですね(そう ですか、まだ神々の戦いは続いて居たのですね) 。 ちなみに、夏の始まり5月1日がベルティネで、 メーデーです。 秋の始まりの8月1日はルーナサで、 日本ではピントきませんがコムギ文化では収穫祭に あたります。欧米の祭りは、奇妙なことに、古代ケ ルト人の祭りや暦を基盤にしています。キリスト教 は古代ケルト人は征服してもその文化までは破壊で きず、むしろ上手く取り込んでしまった。ローマカ トリック教会はなかなかしたたかです。 さらに、芳賀日出男(文・写真『ヨーロッパ古層 の異人たち 祝祭と信仰』東京書籍)によると、 「冬 至とは、昼は一年中で一番短くなり、そしてそれ以 降またふたたび昼が長くなってゆく日のことである。 古代の人々からすれば、冬至は太陽がいったんは死 に、また甦る日、つまり太陽の誕生日であった」と いうことで、 初期キリスト教徒たちは巧妙にも、 人々 が最高神として崇めるこの太陽の誕生日をイエス・

キリスト生誕の日に重ねあわせたということです。 キリスト生誕の日が今日の冬至から若干ずれている のは、古代ローマ帝国で広く信奉されていたミトラ 教(太陽神を崇める宗教)では12月25日が太陽 の誕生日と定められていたためです(新訳聖書の記 述から推すと、イエス・キリストが生まれたのはも う少し温かい時期であって、冬至の頃ではない) 。

ケルンは、 ライン川沿いで、 山と平地の境にあり、 どうもケルト・ゲルマンの神々の取り纏めの拠点な のかも知れません。ケルン・カーニバルはその象徴 かも知れません。

ケルン中央駅に向かうと、変態、失礼、変装した コスプレの群れまた群れ。ロボットに変装したのか ら、ケルト・ゲルマン的な魔女、悪魔(男) 、妖精、 怪物、怪獣、各種動物から、なんと日本のコスプレ のまねをした〝かわいい〟軍団(かえって怖い)ま で、 抑圧されていたパンドラの箱が開いた感じです。 ドイツ中から、変な格好をした人々がケルンに殺到 していたのでした。おかげで、普段でさえ混乱して いる列車の運行が全く機能しなくなります。でも幸 い、2時間以上遅れがたまたま来て、ボンまでいけ

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線バスを拡張して中心部には基本パーク&ライド方 式で自家用車が入れないようにし、自転車専用道路 を166キロ整備し、太陽パネル・風力発電や生ゴ ミから発生するメタンガスでコジェネレーション発 電をし、徹底的緑化、ゴミの分別、リサイクル等、 徹底的なエコが図られています。 ゲッチンゲン(ライン川沿い)にある、ゲッチン ゲン大学とユンデ村が共同出資をして、家畜の排泄 物を主にしたバイオガスプラントを作り、熱と電気 を村に供給し、残りを売電し、分解液を液肥として 畑に返す、いわゆる、循環型地域社会を先験的につ くりました。 このモデルが世界中に広がっています。 このモデルで重要なのは、太陽エネルギーを基本と した(風力、水力、バイマス)分散型エネルギーは、 地産地消が原則ということです。このことは現在の 産業・経済システムの変革を迫っています。それに 基づくと、現在、地方の危機が叫ばれていますが、 むしろ潜在的には都市の危機の方が深刻で、分散型 エネルギー社会に移行すると、都市の危機が顕在化 して来ます。ライン青月孤から未来の構造もみえて きます。

Ⅴ オランダ低湿地とシュヴァツルヴァルト

ライン川は、オランダ領に入るといくつもの支流 に分かれ、網の目のように水路を広げライン川デル タを形成し、低湿地・泥炭地が広がります。ライン 川のもっとも大きな支流はワール川であり、アイセ ル川(北のアイセル湖へと流れ込む) 、ネーデルラン ド川が三大支流です。

司馬遼太郎は、ハイネの『流刑の神々・精霊物語』 (同上)を引用しながら、ローマカトリック教会に 追われて、この低湿地にギリシャ・ローマの神々が 隠棲している様を描きます ( 『街道をゆく35 オラ ンダ紀行』朝日文庫) 。 「ハイネは、球根の皮をむく ようにして、自分自身をむき、ユダヤ教からも自分 を剝き、さらにはヨーロッパをいわば一元的に蔽っ てきたキリスト教という皮さえ剝こうとした」とい います。 また、「ヨーロッパという肉体の皮をむけば、 皮下脂肪にギリシャの神々や、ゲルマンの古い精霊 たちが息たえだえになって棲んでいることを、ハイ

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だ──神はこれら二つの道具を使って、弩 (いしゆ み)と書物、戦争と思想などというように人間の 文明にたえずはたらきかけたもうのである。 また、グーテンベルク(ラインラント プ =ファル ツ州都のマインツ生誕)の活版印刷技術はライン 川沿いに広がり、アルプスを越えてイタリア(トリ ノ、ミラノ)やフランスに、海を越えてイギリス(北 西イングランド)にも到達しました。この活版印刷 技術の拡散ルートは、現在ブルーバナナ( Blue 、 「青いバナナ」で「青」は伝統的にヨーロ Banana ッパを示す色)とよばれている経済的、人口的に発 展しているバナナ型の地帯に重なります。このブル ーバナナ地帯は、ライン川とライン川デルタの低湿 地帯を貫いており、わたしはライン川半月孤と別に 呼ぶことにします(イギリスとイタリア入れない) 。 わたしは、これまで、メソポタミア以外でも肥沃 )を、 (1)極東・東南ア な半月孤( Fertile Cresent ジアのモンスーン、 (2)幻のスンダ大陸の巨大デル タ、 (3)人類発祥の東アフリカ地溝帯(ナイル川、 ザンベジ川を含むアフリカ地溝帯)で見出してきま した。これらに共通していえるのは、豊かな水の系 ということです。つまり、水と関連が深い半月型の

地域なので、青月孤――メソポタミア青月孤、アジ ア青月孤、スンダ大陸青月孤、東アフリカ青月孤、 ライン青月孤と再定義します。 ライン青月孤はバーゼルから河口までのライン川 流域圏で、産業革命の中心地のひとつとなったルー ル工業地帯も含み、その充実した内陸水路と豊富な 地下資源によって発達した地帯をいいます。メソポ タミア青月孤は衰退し、スンダ大陸青月孤は海面上 昇で水没し、東アフリカ青月孤は過剰負荷で土壌が 疲弊し保水力が極端に衰え、現在、アジア青月孤、 ライン青月孤のみが機能しています。 考えてみると、水は太陽エネルギーにより循環し ていて、これが上手く機能しているのがアジア青月 孤とライン青月孤です。ライン青月孤では、シュヴ ァルツヴァルトのオーク(光合成で太陽エネルギー 蓄積)をライン川で流し(一種の太陽エネルギー利 用) 、下流のオランダで造船し、世界制覇へと乗り出 していきました。この旅で、ライン川のエネルギー ポテンシャルの高さに改めて感嘆します。 一方、現在ライン川沿いに、自然再生エネルギー 利用が急速に進んでいます。 フライブルグは、 現在、 原発建設を撤回し、先進的な環境政策の街として、 環境関係者の間ではつとに有名です。路面電車、路

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て、ホルモン剤や抗生物質の投与は少なく(あるい は無い) 、乳製品は健全のようです。 の町から De Nieuwe Heuvel に向かう途中に Ede オ ー ク の 立 派 な 並 木 が 続 き 、 感 動 的で す 。 De 牧場にもオークの樹が多いです。オ Nieuwe Heuvel ークは泥炭のような低地にも強いようです。かつて は、どんぐりで、豚の飼育も行われていたにちがい ありません。途中の家々に、茶色の葉を付けたヨー )の垣根がほうぼうに ロッパブナ( Fagus sylvatica みられます。秋にも落葉せず、春まで葉が木に残る 「枯凋性」と呼ばれ、特に幼 現象は、 marcescence 木時や、生垣として刈り上げられたときに発生する といいます。 この茶色葉のヨーロッパブナの垣根は、 オランダ以外にもベルギーやパリの低湿地帯の家々 によく見られます。ブナの垣根は、まるで低湿地文 化のシンボルのような感じがします。 フランスのヴェルサイユ宮殿は小高い丘の上に築 かれていますが、北西の方角は低地地帯で、グラン・ カナルが掘られていて、排水をしています。この低 地の庭にも茶色葉のヨーロッパブナの垣根が見られ ます。丘の上のヴェルサイユ宮殿の庭に比べると、 貧乏くさいですが、しかし、これは明らかに低湿地 文化の象徴です。丘陵地と低湿地の文化が明らかに

ヴェルサイユ宮殿の敷地内に混在し、きれいに分離 しています。 オランダは低湿地・泥炭とブナ・オークの国でし た。この低湿地を歩くと、茅葺きの家が多いのに驚 きます。今、低湿地にほとんど葦ははえておらず、 この葦はなんとほとんどが中国からの輸入といいま す。そうまでして、茅葺きの家に住み続けたいとい うことで、低湿地・泥炭の人々の強いこだわりでし ょうか。かたくなに伝統を守り続けている。

さらに、司馬遼太郎にしたがって、この低湿地の 人々の思想を見てみます。

この〝低い土地のひとびと〟は、 独立以前から、 商工業で生きてきた。商工業は、従事する個々に おいて独立自尊の精神がなければなりたたない。 それに合理主義思想がなければならず、さらには 封建的圧力はご免という心も兼ねそなわらねば、 16、17世紀の商工業など、やってゆけるもの ではなかった。 それが、 当時のカトリック批判にもつながった。 いまの百錬をへたカトリックとはちがい、当時の カトリックは、古ぼけた支配思想のかたまりだっ

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ネは知っていた」 。また、 「東フリースラントで、北 海に面したさびしい僻地で、いまも古代以来のフリ ース語という言語がつかわれている。古代フリース 人は海面すれすれの地に住んでいて、海に浸されな いように人工の丘(テルプ)を築き、10世紀ごろ から、丘(テルプ)と丘(テルプ)とを土木的につ なぐことによって堤防(ダム)が築かれはじめた。 低湿地・泥炭の東フリースラントは、ケルト・ゲル マン的文化が残るか、ギリシャ・ローマの神々のア ジール(避難所)のあった地域といえ」 、神々はライ ン川を落ちのびてきたのです。 ツェランの詩「ごみ運搬の小舟」は、魂が、神々 がごみとなったような、印象を持ちます。 「ごみ運搬の小舟」 水の時刻、ごみ運搬の小舟が ぼくたちを夕べに運ぶ、ぼくたちは、 それと同じように、急いではいない、ひとつの死 んだ 「何故」が艫に立っている。 ………………

積荷を下ろされて。肺が、水母が 鐘へと膨らむ、ひとつの褐色の 魂の突起が 明るく吐き出された「否」に到達する。 『言葉の格子』の「Ⅲ」章( 『パウル・ツェラ ン全詩集Ⅰ』所収)

ヨハン・ホイジンガーはフリースラント州出身で、 司馬遼太郎は、「かれはヨーロッパの繊維質そのもの のような知性をそなえ、さらには都市的な柔軟さを その思想にも文体にも持っているのだが、ヨーロッ パ文明そのものを覆うような物の考え方は、かえっ て辺境の地から出るものなのだろうか」と、フリー スラントを、ヨーロッパから隔離されたアジールと して高く評価しています。

昨年、レンタカーで、馬の飼育牧場 De Nieuwe のあるオランダ中部の Ede エーデに向かい Heuvel まで、ほとんど牧草地で、雪に覆われ ました。 Ede ていますが泥炭地のようです。大きな牛舎は見当た らないので、牛の放牧が主のようで、基本的には自 然放牧で、冬は干し草を与えているようです。従っ

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川を通って、ネッカー川の利用を始まったのは1 100年頃。以来、約800年間ネッカー川は、 もっぱら木材輸送に用いられてきた。 1476年、 ネッカー川全流域の自由貿易に関する取り決めが 合意され、シュヴァルツヴァルトの木材はこの川 を通してオランダまで運ばれた。大航海時代に入 り、 より多くの木材が必要となったためである (ウ ィキペディア) 。

オーク地帯のケルトの神々や妖精・精霊は到る処 でぼったくりにあってさんざんな目にあったようで す。

一方、イギリスでは自領のイングランドだけでな く、スコットランドやアイルランドの森を食いつぶ して新造船を造り、覇権争いに勝ったといいます。 なんとも、イギリスのオークの森も開発され、そこ に棲息していたケルトの神や妖精もまた追放され、 でも氷河に削られた美しい湖水地方があったおかげ で、そこに安住の地をえたのでしょうか。お伽話の 地を。

いずれにしても、シュヴァルツヴァルトのオーク とライン川がオランダを、海外に向かわせる原動力 となり、17世紀のアムステルダムには、東インド 会社の本拠地が置かれ、世界貿易の中心として黄金 期を迎えるわけです。オランダは、東インド会社で 植民地の富をむさぼります。インドネシアはその餌 食になった。プランテーションは拡大し、熱帯雨林 は破壊される。シュヴァルツヴァルトの破壊が、な んと熱帯雨林の破壊へと連なっていったのです。資 本主義の牙が、アムステルダムで磨かれ、そしてア

オークの木炭は、熱含有率が高く、燃焼が安定し ていたことから、鉄鉱石を精錬する溶鉱炉の燃料と して重宝でした。また、オークは年輪に対して直角 に細胞が並ぶ放射組織のため、木目に沿って割り裂 くと、まっすぐな割材が取れ、丈夫で曲げやすく、 強くて重すぎず、水も通しにくいことから、船の骨 組に欠かすことが出来なかったといいます(W・B・ ローガン『ドングリと文明』日経BP社) 。小山修三 は、オランダの海外進出を支えたのは、シュヴァル ツヴァルトのオークがライン川を下って河口のオラ ンダの都市に運ばれて船を建造することが出来たた めで、 ここのオークが枯渇して、 船が造れなくなり、 イギリスとの覇権争いに敗れていったと述べていま す( 『森と生きる』山川出版) 。

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た。 オランダは、エラスムスという巨大な人文主義 者を生んだ。かれは、司祭から出発したものの、 その著『痴愚神礼賛』において、当時の職業的僧 侶をはげしく攻撃し、王侯貴族から教皇にいたる まで戯画化して、 痛烈に風刺した。 オランダ人は、 その当時もいまも、このエラスムスが大好きなの である。 もっとも、エラスムスは、すでにドイツやオラ ンダで勃興しつつあったプロテスタント(新教) の狂気をきらっていた。かれは、冷厳な理性の人 だった。理性が、かれの文章を生んだ。 包囲しているスペインは、いうまでもなくこの 当時、ヨーロッパにおける最強の帝国だったし、 その軍隊は歴戦の手だれだった。 ライデン側は、ほとんどが毛織物工業に従事し ている商人や職人やその家族たちで、要するに素 人が戦った。 ついに1574年10月3日、オランダ側が水 門を破壊することによってスペイン軍を水攻めに し、かれらに退却せざるをえないようにした。 敵の退却とともに、ひとびとは運ばれてきた食

糧にありついた。そのときの光景を描いた絵が市 庁舎のホールにかかげられているが、画中の一人 の男は、生ニシンのシッポをつまんで、上にむけ た口の中にほうりこもうとしている。この157 4年のこの日こそ、世界史的な市民社会の誕生の 日だったが、オランダ人が宣伝(?)しないため に、200年のちのアメリカ独立宣言(1776) やフランス革命(1789〜99)のほうが有名 になってしまっている。

宗教が、ドグマであることはいうまでもない。

たった一種類のドグマが、国民のすべての暮ら しと意識を縛り上げているなどといった経験は、 日本史ではほとんど存在しなかったが、ともかく 16、7世紀のオランダは、ドグマの支配から解 放された。

低湿地のひとびとは、独立以前から、商工業で生 きてきたとありますが、いかなる商工業であったの か?

ライン川河口の低湿地に住むフリース人はライン

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を迎えたといいます(田中仁彦『デカルトの旅/デ カルトの夢 『方法序説』を読む』岩波現代文庫) 。 非常に長い夢でそれ自体たいした意味もないと思い ますので、 思いっきり簡約しますと、 第一の夢では、 道を歩いていると幻影が現れておびやかし、烈しい 風が吹いて渦巻きの中に捲き込むという情景で、第 二の夢では、雷鳴のごとき音に驚かされて飛び起き ると、部屋の中をたくさんの花火が降ってくるのが 見え、第三の夢では、机の上に辞書と詩華集が載っ ている情景です。デカルトは、第一の夢と第三の夢 を解釈して、 これらは天の啓示で、「真理の霊の啓示」 と確信します。そもそも、デカルトは、 「この日、驚 嘆すべき学問の基礎を発見したという思いで心を一 杯にし、非常な興奮に充たされて眠りにつき、一晩 のうちにつづけて天から来たとしか思われない三つ の夢を見た」(原資料は失われこのノートを直接見た アドリアン・バイエの報告書)といいます。夢自体 には、それほど大きな意味もないのですが、興味ぶ かいのは、眠る前に異常な興奮状態で、第二の夢で は、 「雷鳴のごとき音に驚かされて飛び起きると、部 屋の中をたくさんの花火が降ってくるのが見えた」 のですから、これは一種のトランス状態に陥ってい たことを物語っています。おそらく、このとき幽体

離脱を体験していて、心身が二分されていたのをは っきり感じたはずです。 『方法序説』はだいたいそん な構造になっています。 さて、このドイツ郊外の「暖炉部屋」ですが、ウ ルム市郊外の村に宿を取ったとあります。ウルムは シュヴァーベンジュラ山脈(シュヴェービッシェ・ アルプ、「チュービンゲンの森」 のある) の麓にあり、 ドナウ川河畔にある町です。シュヴァーベンジュラ 山脈はシュヴァルツヴァルト山地と平行に走り、か つてはオークの原生林で覆われていました。デカル トが神秘体験をしたウルムは、なんとチュービンゲ ンから約60キロ東に、ハイデガーの故郷のメスキ ルヒからドナウ川沿いに70キロ北東の近さに位置 します。このウルムには、ゴシック建築のウルム大 聖堂があり、教会の塔としては世界一の高さを誇る といわれています。壮麗なゴシック教会があるとい うことは、かつて、オークの森に棲息していたケル ト・ゲルマンの神々や精霊が大量虐殺にあったこと を暗示しています。デカルトは、オークの森の裾の 村で、生涯を通じて彼を虜にする「真理の霊の啓示」 を得て、 「驚くべき学問の基礎」を見出したというの です。 デカルトの神秘体験がドナウ川河畔のウルム市郊

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フリカ、アジア、新大陸に襲いかかります。 わたしは、クラクラと目眩がしてきます。 一方、シュヴァルツヴァルトのおかげで、オラン ダに商業が勃興し、その商業をスムーズにするため の社会装置として、 「独立自尊の精神」 「合理主義思 想」 、それをささえる「理性」が育ちます。 この「風水土」の旅の初回でみたように、朱熹(朱 子は尊称)は朱子学を打ち立て、 「理」と「気」の哲 学を確立し、その影響は西洋哲学にまでおよんでい ますが、その思考の核心は風水といってもよいもの でした。井川義次によると、16世紀から18世紀 にかけてのイエズス会士による中国哲学情報が、ヨ ーロッパに影響を与え、ヨーロッパにおける理性の 思想形成において中国思想の関与がきわめて大きな 役割をはたし、ヴォルフは、 「理」なり「性」の訳語 としての「理性」という語を用いることを通じて、 自立した「理性」が成り立つにおいては、従来のヨ ーロッパとは別様な可能性が存在すると宣明しまし た。特にライプニッツは朱子学の「理」に大きな影 響を受けていました。通俗的にいえば、朱子の「理」 と「気」の翻訳として「理性」となり、まずライン

川の低地・低湿地のライプニッツ(ライプツィヒ出 身)に、ついでスピノザ(アムステルダム出身)に 注入されていきます。 「理性」は西洋近世の哲学の駆 動力でもありますので、もともと西洋思想の根幹と してあったように錯覚していますが、それは中国か ら注入された朱子 「風水」 の観念思想の変形版です。 そしてこのライプニッツとスピノザの理性を基盤と した17世紀近世合理主義哲学が、 ライン川を遡り、 湿潤な「シュヴァルツヴァルト」と「テュービンゲ ンの森」に抱かれたテュービンゲン大学のフリード リヒ・シェリング、ゲオルク・ヘーゲル、フリード リヒ・ヘルダーリンに注入されます。 合理主義哲学者として、スピノザ、ライプニッツ とくると、三種の神器みたいなもので、デカルトが あげられます。 デカルトはフランスの哲学者なので、 スピノザ、ライプニッツとは、来歴が異なるはずで す。 デカルトが『方法序説』 (旅のそして思索の記録の ようなもので、さしずめ「哲学の奥の細道」のよう な風情がある)には記していませんが、ドナウ河畔 の「暖炉部屋」における「三つの夢」の事件があり、 これは、デカルトの生涯の決定的転機で、彼に学問 の設計者たることを決意せしめた一つの重大な事件

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( 『パウル・ツェラン全詩集Ⅰ』所収)

Ⅵ ドナウ川‐ ライン川ベルトの現代詩人 19世紀から20世紀にかけて、西洋の文化・芸 術は大混乱に陥り、破壊と解体が進み、ひいては2 1世紀もそれらを引きずっているようで、とても回 復しつつあるようには思えません。文化・芸術では ナンチャッテ主義が網の目のように蔓延し、 錯綜し、 それで学問が成り立つ始末です。以下に、代表的ナ ンチャッテ主義 (いつも混乱する) を整理の意味で、 纏めておきます。 表現主義(または表現派) ( Expressionism ) :感 情を作品中に反映させて表現する傾向の芸術運 動。 象徴主義( symbolisme ) :自然主義への反動で、 「観念に感受可能な形を着せる」 ことが重要で、 理想世界を喚起し、魂の状態の表現を特別扱い

する印象や感覚を探求する芸術運動。 シュルレアリスム(超現実主義) ( surrealism ) : 現実を無視し、まるで夢の中を覘いているよう な非現実感を描く。 印象主義(印象派) ( Impressionism ) :1860 年代半ばにフランスで起きた芸術運動で、アカ デミーが教える整えられた美しさではなく、目 の前の光景をリアルに描こうとした写実主義。 印象や光の表現などに重点を置き、ジャポニス ムなどの影響を強く受けた。

西欧の現代詩全般を、読み解くのは困難ですが、 ドナウ川‐ライン川ベルト上の二人の詩人で、西洋 現代詩に多大な影響を与えたといわれる、ゲオル ク・トラークルとパウル・ツェランを読み比べてみ ます。西洋の文化・芸術の大混乱を、ドナウ川‐ラ イン川分水界のあるシュヴァルツヴァルトから眺め てみます。 ゲオルク・トラークルは象徴主義(若い頃)と表 現主義の詩人で、パウル・ツェランはシュルレアリ スムや象徴主義の詩人といわれています。パリやロ ンドンやベルリンやウィーンからみると、そういう ことになるのでしょうが、シュヴァルツヴァルトの

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外の村であったというと、すぐにハイデガーの神秘 体験に連想がいきます。ハイデガーは、青年期、故 郷メスキルヒ(ドナウ川河畔)近郊のボイロン修道 院にて、本格的な深い瞑想生活に入ります。度重な る心臓発作(神経性心臓病) 、生を揮発されたような 神学徒生活、戦争で残虐の野原と化した焦土のなか で、ハイデガーは、 「死を極限まで思うそのメレテ・ タナトの行法がこうじたある日、最終最後のあるな にかを、しっかりつかむ。それは、 「驚異中の驚異、 つまり、存在者が《存在するそのこと》 」を経験しま す(古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』講談 社現代新書より)。「なにか神のようなもの( ein ) 」を感じたという神秘体験で、精神的な「死 Gott の淵」から「生」へと転換をとげます。 近世合理主義哲学は、ライン川沿いを遡り、なん と、シュヴァルツヴァルト一帯で閃光を発しはじめ るのです。ああ、なんとデカルトまでもがです。 わたしは、閃光で、いっそうクラクラと目眩がし てきます。 ツェランもこの霊性豊かなオランダ低湿地に踏み

込みます。 (オランダ)低湿地の詩と思われるツェラ ンの世界を覗いてみましょう。

「島に向かって」 島に向かって、死者たちとならんで、 森から丸木舟と契らされ、 腕のまわりには 禿鷹のように天が群がり、 魂たちは 土星の輪をはめられて──

こうして 見知らぬ者たち そして自由な者たち が漕いでいく、 氷の そして石の支配者(マイスター)たちが─ ─ 沈んでいく浮標の音につつまれて、 鮫の青さの海に吼えたてられて。

かれらは漕ぐ、かれらは漕ぐ、かれらは漕ぐ、─ ── お前たち 死者たち、お前たち 泳ぐ者たち、先 に立っていけ! これもまた簗の格子をめぐらされて! すると明日 ぼくたちの海は気化する! 『敷居から敷居へ』の「島に向かって」の章

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天では 動く気配がする、 一群の野鳥が渡っていく あの国々へ、美しい、よその国々へ。 葦が、身を起こしたり、沈めたりしている。 I詩集( 『トラークル全集』所収) 表現主義とは、感情を作品中に反映させて表現す る傾向の芸術運動でした。確かにそのように読めま す。 「夕べのメランコリー」はトラークルの典型的な 詩の一つと思います。感情移入は確かにあります。 しかし、静的です。これは典型的風景描写で、まっ たく突き放して眺めているだけです。あるいは聞い ている。西洋の典型的な自然を対峙化しているだけ の詩です。自然と決定的に距離を置いています。 次の詩は、 「生の魂」がちょっと自然の中を徘徊し ている感じですが、でも自然の表面をおっかなびっ くりなでている感じで、自然との隔離は依然として 大きいです。 「生の魂」 没落、それが 柔らかく 木の葉を暗く包み、 森には 広がっているその沈黙が 宿っている。

やがて ひとつの村が 亡霊のように傾いていく ようだ。 妹の口が 黒い枝々の間で 囁いている。

孤独な者が やがて すべり抜けていくだろう。 おそらく ひとりの羊飼いが 暗い小径をたどっ て。 一匹の獣が そっと 木々のアーチから歩み出る、 瞼を 神性の前で 大きく見開いて。

青い川は 美しく流れ下り 夕暮には 雲が現われる、 魂は 又 天使のような沈黙のなかに。 いくつものはかない形が 沈んでいく。 I詩集( 『トラークル全集』所収)

次に、トラークルに典型的なもうひとつの側面の 詩を読みます。 「農夫たち」 窓の前では 緑と赤が鳴り響く。 黒く煤けたみすぼらしい部屋で 下男や下女たちが 食卓にむかい、

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ドナウ川‐ライン川分水界から眺めると、まるで異 なった文化・芸術の「風水土」が見えてきます。 ゲオルク・ トラークル( Georg Trakl ) : ゲオル ク・トラークルは、1887年にザルツブルクで生 まれ、18歳まで過ごします。共感覚をもち凝縮さ れた表現で、ドイツ表現主義最大の詩人と評されて おり、 とりわけランボーの影響が強く見られます (た ぶん、共感覚を合わせ持った者同士だったからと推 察しますが) 。 トラークルを高く評価しその作品を愛 した思想家・芸術家にはヴィトゲンシュタイン(ウ ィーン出身)のほかにマルティン・ハイデガー(ド イツのドナウ川沿いのメスキルヒで生誕) 、ライナ ー・マリア・リルケ(プラハ出身)ら、いわばドナ ウ川流域文化圏の人々がいます。このドナウ川流域 文化圏の人々にとって、この世紀末のハプスブルク 帝国の崩壊と続く世界大戦は、これまで長らく支え てきた精神的文化的支柱を失ったという意味で、大 事件だったでしょう。崩れ去った、虚構だったが精 神的支柱であったローマカトリック教会がその矛先 に挙がるのも当然と言えば当然です。なお、マルテ ィン・ハイデガーはドナウ川‐ライン川分水界にま たがって、つまり、ヨーロッパの思想・文化の分水

界にまたがって思想を形成した特異な存在です。

トラークルは、ドイツ表現主義最大の詩人と評さ れています。表現主義とはなんなのか、その詩を読 んでみましょう。以下、 『トラークル全集』は中村朝 子訳、青土社出版からの引用です。

「夕べのメランコリー」 ──死に絶えた 茫漠たる森── そして影たちが そのまわりで 生垣のようだ。 あの獣が 震えながら 隠れ場からやって来る、 小川はひっそりとすべっていく

羊歯や古い石のあとを追い 銀色に、 もつれ合った葉の間で きらめいている。 まもなく 黒い谷に流れ込むのが 聞こえる── もしかしたら 星たちももう 輝いているかもし れない。

暗い地平は 果てしないようだ、 散らばった村々、沼、池。 そして 何かが お前には 炎のように見える。 冷たい輝きが 道のうえを去っていく。

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現主義(感情を作品中に反映させて表現する)のよ うに錯綜させます。逆にいうと、表現主義とは、感 情というよりは共感覚のような単に異感覚の世界だ けの側面があります。

杉岡幸徳は衝撃的なことを書きます( 『ゲオルク・ トラークル、詩人の誕生』鳥影社) 。

夜の現われ、蟇蛙たちが 銀色の水から浮かび上 る。 『夢のなかのセバスチャン』 ( 『トラークル全 集』所収)

杉岡幸徳は、トラークルの薬物リストを載せ、ど の薬物がどの詩に反映しているかまでも分析します。 トラークルは「アヘンを愛用」していたシャルル・ ボードレールの影響が強く、「憂鬱と倦怠に悩んでい た」とし、両者の類似の詩まで解析します。トラー

ジャンキーとは、自らの世界の中心にドラッグ を据えた者のことだ。 詩人ゲオルク・トラークルもまた、ひとりのジ ャンキーだった。彼の試みたドラッグのリストは 後に掲げるが、トラークルは、薬剤師であったと いう立場を利用して、当時手に入れることのでき たあらゆるドラッグを使っていたのである。死ぬ ときすら、コカインを使って死んでいた、という 念の入りようだ。

パウル・ツェランにとって、沼地や低湿地や泥炭 地はかなり重要な心象のキーワードです。トラーク ルにも「沼地」の詩いくつかありますので、比較の ために一つ載せておきます。 「沼地で 第三稿」 さすらう者が 黒い風のなかに、低く囁く 枯れ た葦が 沼地の静けさのなかに。灰色の空を 一群の野鳥が 渡っていく、 斜めに 暗い水のうえをよぎって。 混乱。朽ち果てた小屋で 黒い翼で 腐敗が舞い上がる。 ねじれた白樺の木々が 風のなかで 溜息をつく。 人気のない酒場の夕暮れ。家路を取り巻いている 草を食んでいる羊たちの群の柔らかな憂鬱が、

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葡萄酒を注ぎ パンをちぎる。 真昼の深い沈黙のなかで 時おり わずかな言葉が洩れる。 畑は 絶えず きらめいて 空は 鉛のように 重く広がる。 歪んだ炎が炉のかなでゆらめき 蝿の群が 羽音をたてる。 下女たちが おずおずと口を閉ざし 耳を澄ます そのこめかみで 血が脈打っている。 そして時おり 激しい欲情に満ちた眼差がぶつか り合う、 その時、獣じみた臭いが 部屋を吹き抜ける。 単調に ひとりの下男が 祈りの言葉を唱えてい る 雄鶏が 戸口の下で ときをつくる。 そして再び畑へと。ひとつの恐怖が包みこむ しばしば かれらを 轟き荒れ狂う穂のなかに そして 軋めきながら 見え隠れする 大鎌が 亡霊のように 拍子をとって。

I詩集( 『トラークル全集』所収)

中村朝子の解説です。 「緑と赤が鳴り響く」 :ここでは、 「緑」と「赤」 という色彩と「鳴り響く」とい音とが呼応して用 いられている。トラークルの詩においては、この 色彩と音響の呼応、つまり、視覚と聴覚との結合 は、頻繁に現れるが、その他にも「匂い」といっ た嗅覚、 「苦い」 「甘い」といった味覚、 「冷い」 「固 い」といった触覚も互いに呼応して用いられる例 を見出すことができる。 こうした諸感覚の呼応は、 心理学においても取りあげられる現象であり、「あ る感覚が刺激を受けた場合、 その感覚だけでなく、 同時に他の感覚も反応する」現象を、心理学者は 共感覚と呼んでいる。 トラークルは明らかに共感覚の持ち主です。 また、 象徴主義の代表的な詩人、アルチュール・ランボー も共感覚の持ち主で、例えば「Aは黒」といった具 合に、確信を持って母音を色に変換します。トラー クルにはランボーの影響が強いようですが、これは おそらく共感覚の持ち主という共通項が効いている ためでしょう。 共感覚を持たない人にとって、共感覚はまるで表

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を西洋(欧米)は生み出したと宣言(出生登録)し ても、 「アヘン(ヤク)中毒の戯言にすぎない」と、 いずれ評価されることになるでしょう。現代美術館 が西洋(欧米)の文化・芸術の墓場であったことが、 いずれ発掘調査(歴史認識)で明らかになると思い ます。 19世紀末から20世紀かけて西洋は未曾有の精 神的・文化的・芸術的危機に陥りました。表現主義、 象徴主義、シュルレアリスム(超現実主義)などは、 本来ですとその危機をなんとか乗り切るためのはず だったのが、むしろ、精神的・文化的・芸術的世界 が、これらナンチャッテ主義でますます、ずたずた に、細切れに、無秩序に、暴力的になる一方です。 それは、アヘン(ヤク)中毒により生み出された精 神的・文化的・芸術的世界だからにほかなりません。 というか、もうそれに頼るしか手がなかった。ロー マカトリック的精神規範が崩れ、では何が内面を支 えるのか。結局、我々の生命システムを支えている のは「自然」なのだから、 「自然」を取り込むしかな い。和解するしかない。 「自然」の中に生きるしかな い。そして「自然」のなかの八十万神の神々、精霊 達とうまくやっていくしかない。不幸なことに、ロ

ーマカトリック教会は、 1000年以上にわたって、 「自然」のなかの八十万神の神々、精霊達を徹底的 に内(魂)から排斥し、虐殺してしまいました。ト ラークルを読んでいると、 「自然」にたして全く空疎 で、むしろ怯えているとさえ感じられます。 「自然」 に逆襲されるとさえ感じ、怯えさえしています。 たぶん、ハイデガーは、ローマカトリック教会に より画一化した西洋文明が危機的状況にあるのは、 人の心(内)から自然を排除してしまったことによ ると気づいた、数少ない哲学者だったと思います。 ですから、ヘルダーリンやパウル・ツェランを評価 できた。なによりシュヴァルツヴァルトに隠棲した のがその証です。しかし、ゲオルク・トラークルを 評価したのはいただけない。ましてや、ヒトラーを 見抜けなかった。ハイデガー自身、まだ西洋の本当 の危機を見抜いていなかったということをさらけ出 しているようなものです。実存主義とはなんだった のか?

パウル・ ツェラン:パウル・ツェラン( Paul Celan ) は1920年、旧ルーマニア領、現ウクライナ共和 国のブコビナ地方チェルノヴィツでドイツ系ユダヤ 人の両親のもとに生まれました。1941年、ナチ

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クルは27歳でコカインの過剰摂取で死にました。 アヘンによると、異常なまでに一定のイメージが くり返され、 「下降」のイメージが強くなり、コカイ ン吸引直後に書かれたと推察される詩「夜に」を杉 岡は取り上げます。 「夜に」 ぼくの目の青は 今夜消えた、 ぼくの心の赤き黄金。 おお! 何て静かに明か りは燃えただろう おまえの青いマントが 沈んでいく者を包んだ、 おまえの赤い口が 友の錯乱を封じた。 この異常な高揚ぶりは、実はコカインの陶酔を歌っ ているのではないかといいます。 さらに、 次の詩も。 「夜の歌」 痛みよ 僕を襲え! 傷口が燃え上がる。 こんな苦しみがなんだ! ほら 僕の傷口から 謎めいて 星が夜に向かって咲いていく! 死よ 僕を襲え! 僕は成し遂げられる。

わたしは、またしてもクラクラと目眩がしてきま す。

表現主義、象徴主義、シュルレアリスム(超現実 主義)とはアヘン(ヤク)の巣窟のようなところだ ということです。シュルレアリスムのアンドレ・ブ ルトンはいうにおよばず、今、明らかになった表現 主義を代表するゲオルク・トラークル、なに主義か 分かりませんが象徴主義の元祖的シャルル・ボード レール。サルトルに、ボーボワールに、ピカソに、 アントン・アルトーに、等々。これでは「目眩」よ りも、サルトルの「嘔吐」じゃないですか。19世 紀末から、21世紀にかけて、西洋(欧米)で、何 が起きたのか。 アヘンは昔から知られていて、 でも、 文化・芸術の中枢には入り込んでは来ませんでした が、19〜21世紀には西洋(欧米)の芸術・文化 の核心を占めるに到ったということです。それは、 アヘンでその世界を追体験する人の群れが相当の数 にのぼり、新たな共同幻想(ここでは主義)が成立 したということです。そのアヘン(ヤク)により生 まれた共同幻想的文化・芸術の出生の秘密を隠して、 あたかも新しい文化・芸術であるかのように表現主 義、象徴主義、シュルレアリスム(超現実主義)等々

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『雪の声部』の「Ⅲ」章( 『パウル・ツェラン 全詩集Ⅱ』所収) 次の詩は、オークの純林をうたった詩のように感 じられます。 「天の葉」は、樹冠が一体化して森林全 体が一枚の葉になったような印象を受けます。 (編み目のような葉脈の走る) 編み目のような葉脈の走る天の葉の下の 晩材の日。 大きな細胞でできた空白の時刻を抜けて よじ登 るのだ、雨のなかを、 あの濃紺の、あの 考えの甲虫が。 動物の血をもった語たちが その触角の前に押し寄せる。 『息の転換』の「Ⅱ 」I章( 『パウル・ツェラ ン全詩集Ⅱ』収蔵) ツェランは、フランスのル・ムーランの別荘で、 ハイデガーの『野の道』の影響下で書かれたとみら れる詩「野原」を書いています(関口裕昭『パウル・

ツェランへの旅』郁分堂)が、残念ながら『パウル・ ツェラン全詩集ⅠとⅡ』には収蔵されていませんで した。ル・ムーランの別荘は、パリとシャルトルの 間にあるようですが、 シャルトルに近づくにつれて、 低湿地的な地形が多くなると記憶しています。リ ュ・トゥルヌフォルはツェランが当時住んでいたパ リの通りですが、次の詩の村はル・ムーランの別荘 ではないでしょうか。

(沼沢土壌から) 沼沢土壌から 像をもたないものの中に浮かび上がる、 希望という銃身の中の 一つの血色素、 標的が、焦燥のように大人になって、 その中に。

村の風(ドルフルフト) 、リュ・トゥルヌフォル。 『雪の声部』の「Ⅳ」章( 『パウル・ツェラン 全詩集Ⅱ』所収)

さらに、関口は、 「ツェランとブルターニュ地方と は深い関係があり、なぜ彼がこの地方に関心を寄せ

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ス・ドイツの侵攻により両親とともにゲットーへ移 住させられ、翌年、ツェランの両親がトランスニス トリアの強制収容所へ移送され収容所内で死去し、 ツェラン自身も1944年まで強制労働に狩り出さ れました(ウィキペディア) 。1944年、赤軍によ りチェルニウツィーが解放されると、ツェランは精 神的に憔悴しながらもチェルニウツィーに戻り学業 を再開するも、共産主義独裁の空気を嫌い、194 8年パリに亡命。 1970年パリのセーヌ川で自殺。 ブコビナはカルパチア山脈とドニエストル川に挟 まれた地帯一帯を指す地理名称で、 「ブナの国」の意 味で、北部がウクライナのチェルニウツィー州、南 部がルーマニアのスチャヴァ県及びボトシャニ県に あたります(ウィキペディア) 。カルパチア山脈の麓 のチェルニウツィーの「ブナの国」は、まるでシュ ヴァルツヴァルトのようか感じがします(写真で) 。 ハイデガーはツェランにシュヴァルツヴァルトを訪 問したいはずだと感じているし、ツェランはそこの ホールバッハ湿原があるのを熟知していたようなの です。カルパチア山脈をくだると、ドナウ川のデル タ低湿地がひろがるような地域です。ブコビナは、 どこかシュヴァルツヴァルトに似たような大変湿潤 なオークの森だったでしょう。

ツェランはシュルレアリスム、象徴主義の詩人の ようにいわれていますが、多分、まるで関係ないと 思います。ツェランはブコビナ、つまり「ブナの国」 の出生です。ブナ、オークはツェランの心の骨格み たいなものです。ツェランにはもう一つ、低湿地・ 泥炭地が心を浸しています。いってみてば、自然が ツェランの心の中に必要不可欠の要素としてがっち り組み込まれているということです。とはいえ、オ ークがツェランの詩に頻発するわけではありません が。ツェランの「橅の木」をみてみます。 (暗闇となって現れ出て) 暗闇となって現れ出て、もう一度、 お前の言葉が 橅の木の 影を伸ばす葉 芽-吹きに向かう。

何も お前たちについて言いたてることはない、 お前たちはよそよそしさを封土として与えられる。

終わりなく ぼくはお前のなかで石が立つのを聞く。

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(お前たちは ぼくを知っていたのか、 両手よ? ぼくは お前たちが示した二股に分かれた道を行った、ぼ くの口は その砂利を吐き出した、ほくは行った、ぼくの時 は、 さまよう雪庇は、その影を投げた─お前たちは、 ぼくを知っていたのか?) 手、茨が 求めた傷、鐘が鳴る、 手、無、その海たち、 手、エニシダの光につつまれて、あの 血の帆が お前に向かって進む。 お前 お前は教える お前はお前の両手に教える お前はお前の両手に教えるお前は教える お前はお前の両手に教える 眠ることを

『言葉の格子』の「Ⅲ」章( 『パウル・ツェラ ン全詩集Ⅰ』所収)

この詩の中で、「お前の後ろの川床は埋め立てられ /その時刻は葦で覆われ/上では、星のもとで、乳 の流れる」の一節には、 「内観的自然観(世界観) 」 では重要な心の動である、川床‐葦‐星(乳、天の 川)と典型的ズームアウトが認められます。 さらに、ブルターニュの海岸のメンヒルでの詩。 「メンヒル」 成長し続ける 石の灰色。

灰色の形姿、目の ないお前、石の眼差しよ、それとともに 大地が私たちの前に現れた、人間のように 暗く、白い荒野の道の途中で、 夕暮、 お前、天の峡谷の前に。

櫃に入れられたものが、車で運ばれてきて、 心の尾根の彼方に沈んでいった。海の

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たのか、 今後に残された研究テーマのひとつである。 ブルターニュにはフランスの中でも異文化、特にケ ルトの影響が強く、古くから巨石文化など独自の歴 史を持っている。霊魂の不滅を信じ、亡き人の魂が 木や石に封じ込められ、親しい人が通り過ぎるとそ の人を呼ぶと考えたのである」とも書いています。 ブルターニュ地方は低湿地が多く、ローマカトリッ ク教会に追われて、ケルト・ゲルマンの神々・精霊 たちが隠れ住む地なのです。 ブルターニュ地方のケルモルヴァンから書いた手 紙に、 「ヒースやシマセンブリ、スイカズラやジギタ リス、それにまだ咲いているエニシダ」 (関口裕昭 同上)のことが記されていて、これらの草花は低湿 地によくみかけます。ブルターニュ地方の低湿地・ 泥炭(ヒース)のツェラン詩をみてみます。 「ブルターニュの海岸」 集められている、ほくたちが見たものが、 お前との そしてぼくとの別れのときに── ぼくたちのために いくつもの夜を陸に放り投げ た海、 僕たちと一緒に その夜たちを通り抜けて飛んだ 砂、

そのうえの 錆びたように赤いヒース、 そのなかで ぼくたちに 世界が生起した。 『敷居から敷居へ』の「七つの薔薇だけ遅く」 の章( 『パウル・ツェラン全詩集Ⅰ』所収)

「ブルターニュのマチエール」 エニシダの光、黄色く、斜面は 天に向かって膿んでいる、茨は 傷を求めている、 そのなかで鐘が鳴っている、夕べだ、無が 自分の海たちを祈禱のために転がす、 血の帆がお前に向かって進む。 乾いている、 お前の後ろの川床は埋め立てられ、 その時刻は葦で覆われ、上では、 星のもとで、乳の流れる

澪が泥濘のなかでおしゃべりしている、貽貝が、 下では、茂みに覆われて、青空のなかへぱっくり 開いている、一本の宿根草ほどの うつろいやすさが、美しく、 お前の記憶に挨拶する。

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神々・精霊とともに、 ナチスの悪魔も潜んでいます。 そういえば、アウシュビッツも写真で見ると湿地帯 です。 さて、パウル・ツェランとは何者であったのか? ゲオルク・トラークルは、 自然を絶えず対峙化して、 自分の中には決して入れませんでした。外部の物と して観察するだけでした。 これを、「外観的自然観 (世 界観) 」とよびます。それに対して、パウル・ツェラ ンは、自然を内に宿しています。魂は自由に自然の 中に陥入していきます。これを「内観的自然観(世 界観) 」とよびます。この「内観的自然観(世界観) 」 は、日本では全く普通なことで、全く気づかないほ どです。 しかし、 西洋では1000年以上に渡って、 自然を人間の内部から追い出してしまいました。表 現主義だろうが、象徴主義だろうが、シュルレアリ スムだろうが、その「外観的自然観(世界観) 」は全 く変わりません。むしろ、切り刻み、打ち砕き、バ ラバラにし、ゆがめ、とても自然を把握するどころ ではありません。 ツェランはほとんどそうなのですが、まず自然を 内に秘めています。そしてその内なる自然が外なる 自然と呼応しています。身体のあらゆるところが自

然に接し、自然に繋がっています。これが「内観的 自然観(世界観) 」で、欧米にはほとんど見当たりま せん。ツェランのこの「内観的自然観(世界観) 」は ケルト・ゲルマンの基層文化から来ていると思いま す。それはブコビナ地方チェルノヴィツのオークの 原生林の中に色濃くのこされていた文化によるに違 いありません。

「目に接ぎ木されて」 目に接ぎ木されて いるのだ お前の目に、 森に道をしめした小枝 が── 眼差に姉妹のように結びつけられて、 それは あの黒い、 あの芽をふく。

空一杯に 瞼が この春のために張られる。 瞼一杯に 空が 広がる、 その下で、あの芽に守られて、 永遠である者が 耕している、 主が。

その犂先に耳を澄ませ、耳を澄ませ。

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臼が粉を挽いた。 明るい羽根をつけて、お前は、早朝 エニシダと石の間にとまっていた 小さな蛾よ。 お前たちは、黒い、 聖句を記した羊皮紙の色だった、 お前たち、ともに 祈り続ける莢よ。 関口裕昭『パウル・ツェランへの旅』 (郁分堂) より ここにも、石‐大地‐白い荒野の道 夕-暮 天-の峡谷 とズームアウトの視線が見られます。ツェランの魂 は自然を自由に徘徊しているのです。 関口裕昭が「アンネ・フランクは奇跡的にアウシ ュビッツを生き延びたが、ドイツのベルゲン べ =ル ゼンに移送された。 そこでチフスに罹って力尽きた。 ツェランがその強制収容所を訪問した時の印象」と 推測する詩「夏の報告」です。

「夏の報告」 もはや踏み入れられることのない 迂回される麝香草 (じゃこうそう)の絨毯。 空白の一行が エリカの原野を横切っている。

この「夏の報告」を中村朝子訳で読むと。

もはや歩まれることのない、 迂回されたジャコウソウの絨毯。 空白の行が一行、 エリカを横切って置かれて。 何も 風に折られた木々のもとに運ばれず。

「落石」 、 「硬い草」 、 「時」 、 そんな散り散りになった語たちと 再び出会うこと。 『言葉の格子』の「Ⅴ」章( 『パウル・ツェラ ン全詩集Ⅰ』所収)

エリカの原野とあるからヒースの低湿地・泥炭地 です。強制収容所は人の住まない、ヒースの地に造 られたのです。低湿地には、ケルト・ゲルマンの

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然観) 」の見本のような句と読めます。この一句はい ったい英語ではどう訳されるのでしょうか。ドナル ド・キーン訳の松尾芭蕉 『英文収録 おくのほそ 道』 (講談社学術文庫)では、 ─ How still it is here Stinging into the stones, The locusts' trill で、 「や」が「─」 (スラッシュ)になっていて、訳 しようのない「や」にさすがに文字を当てることが かなわなかったと見受けられます。しかし、 「─」 (ス ラッシュ)ですと、それ以後の文は、一般的にはサ ブタイトルとか、説明の言い直し的な用法になりま すので、まったく異なった意味になります。 また、 この訳だと全くの情景描写になっています。 はっきり言って、心の動きはない。眺め聴いている だけの情景描写に過ぎません。つまり、 「外観的世界 観(自然観) 」の詩歌に変型してしまっています。 これをもう一度、訳し直すと、 何と閑かなことか (なぜなら)

石に吸い込まれていく 蝉の声ですら

といった、 「石」が全ての音を吸い込んで静かである といった、アンドレブルトン風のシュールレアリズ ム(オカルト)になってしまいます。

トーマス・ クリング:トーマス・クリングは日本で はほとんど知られておらず、その経歴も、詩的流派 もよく分かりません。 フライブルグで定宿にしている Colombi Hotel で、 ドナウ川‐ライン川分水界の旅も終え、雑誌の現代 詩手帳を読んでいると、ドイツ人のトーマス・クリ )の詩『炎 (も)える書庫』 (縄 ング( Thomas Kling 田雄二訳) (現代詩手帳 2017年11月号、思想 社)に出会いました。まるで、シュヴァルツヴァル トから地球を眺めているような、ドイツ観念論的な 力強い詩であります。一方、フェルダーリンやツェ ランのような透明な諦念と、大地や自然の衰弱を感 じさせます。まだ、自然と対峙している観はぬぐえ ませんが、ドイツ観念論が詩の中で羽ばたいている 感じがします。西欧の思想と芸術と文化の衰退と衰 弱から飛翔できるでしょうか?

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耳を澄ませ──それは軋んでいる あの固く、あの明るい、 あの太古の涙のうえで。 『敷居から敷居へ』の「取り替わる鍵で」章 ( 『パウル・ツェラン全詩集Ⅰ』所収) 宮沢賢治は自然界や宇宙など森羅万象から感化さ れ浮かんだ心象風景を詩や童話に著し、数々の物語 を紡ぎました。ツェランも同様に森羅万象を感じ、 詩に紡いだのです。これをわたしは「内観的世界(自 然)観」と呼んできました。ひとの心は森羅万象と つながり、したがって自由に森羅万象に行き来がで き、森羅万象が心の中にも入ってくる。ところが、 ローマカトリック教会が作ってきた世界観は、人と 自然が画然と分離して、 人はあくまで自然を眺める、 観察する、写生するだけで、これを「外観的世界(自 然)観」と呼びます。お互いにその観念は、あたり 前で常識ですから、たがいに気づくことはほとんど ありません。 「心」といっても、自然に対しては、ま ったく異なる概念より成っていることすら気づきま せん。このことが端的に分かるのが、松尾芭蕉の次 の句です。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

実に味わい深いものがありますが、欧米人には理解 できません。ちなみに長谷川櫂の解説でこの句を味

、 わってみます ( 『松尾芭蕉 おくのほそ道 人生はか 、み 、だ』NHKテレビテキスト 100分 名著) る 。

わたし的には、この句などは「内観的世界観(自

本文に目をもどすと「佳景寂寞として心すみ行の みおぼゆ」とあって「閑さ」は心の中の「閑さ」 であることがわかります。/芭蕉は山寺の山上に 立ち、眼下にうねる緑の大地を見わたした。頭上 には梅雨明けの大空がはてしなくつづいています。 そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天 地に満ちる「閑さ」を感じとった。(中略)/この ように「閑さ」とは現実の静けさではなく、現実 のかなたに広がる天地の、 いいかえると宇宙の 「閑 さ」なのです。梅雨の雲が吹きはらわれて夏の青 空が広がるように、突然、蝉の鳴きしきる現実の 向こうから深閑と静まりかえる宇宙が姿を現した というわけです。

de

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Ⅵ ゴッホ ゴッホを見る前に、レンブラント Rembrandts に 寄り道します。ゴッホのヒマワリを見ていると、レ ンブラントの肖像画を思い出すからです。何か共通 の意識が働いているような。 数年前、コペンハーゲン国立美術館へ、デンマー ク生まれのヴィルヘルム・ハンマースホイ(186 4~1916)の絵を見にでかけました。白と黒を 基調としたモノトーンに近い色使いで、室内風景や 自然風景を描いています。ハンマースホイの絵は不 思議で、近くで見ると、キャンパス地も見えるくら いに軽く描いていて、 また隙間だらけです。 しかし、 離れるにつれて、すうーと絵が浮いてくる感じがし て、とても不思議です。しかも、近くでは陰影が強 く、 離れるにつれて、 すうーと光が差し込んでくる。 簡素にて、深みがあります。まるで、長谷川等伯の 松林図屏風の動画を見ている感じがしてきます。 こうして、ハンマースホイを堪能して、さて横を 見ると、レンブラントが数枚あります。 "A Yang Women Resting her Hand on the Picture Frame"

(1641)という肖像画で、目が生き生きしてい て、思わず近づいてみると、油絵なので、まぶたが 複雑な無数の線で立体的に描かれていて、離れるに 従って、すっと目に収斂してきます。まるで、ハン マースホイの高密度版です。距離により、絵が浮い たり収斂したりするというのは、 驚きです。 まるで、 絵が生きているようで、動的なのです。また、光線 の入り方によってもその動きはことなります。おそ らくこの絵は、光線の入り方や質により千変万化し ます。春夏秋冬、朝晩。レンブラントのこの絵は、 立体的であるとともに、生きています。これは、写 実の領域を越えた、まさに脳内に作りだした、超細 密立体抽象画です。18世紀から19世紀にかけて 発展する西洋画のほとんどすべてが描き込まれてい るような気がします。たとえば、先の肖像画の特に 目の周りの一隅を超拡大してみると、その拡大画は みごとな抽象画になっているはずです。別の言い方 をすると、レンブラントの肖像画には、無数の抽象 (画)が埋め込まれていることになります。レンブ ラントは見ること、観察することをほぼ極限まで押 し進めました。

これは、写実をこえた、超写実画です! したが

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「牛乳の書蹟」 Milchschrift 青い深皿は 地球。 ブルーベリーの多島海。 この牛乳をつらぬく 書蹟の細流。 匙のしるす書。 食べつつ紅 (あか)い跡を 読む。皿に かすかな震えが走る。 「大気」 Luft ……そして大気がさざめく。 大気──星椋鳥 (ほしむくどり)の群れが震わす。 神経のはりつめた紙を 飛び 鳴らす──ただちに降 (くだ)り やぶ(水木 (みずき) )に入 (い)れば やぶは 砕ける波のように暗く泡だつ。

しばしのみ。 そして鳥が向きを変えれば ふたたび星椋鳥の大気がさざめく。 ウーテに

「殺九鳥 (もず) 」 Der Neuntöter われは一羽の殺九鳥にて候 (そうろう) 、 殺九鳥にて候! 夢みつつ 地球を旋 (めぐ)らし禿 (はげ)にする!

われは彼 (か)の殺九鳥にて候、 殺九鳥にて候! 夢をかさね 眼光のスイッチを弱 (じゃく)へ旋らす! (以上、縄田雄二訳)

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17世紀のオランダ人画家が、「絵画から物語性を 追い出した」経済的背景はそのとおりで、大変素晴 らしい推察といえます。ただ、そうだとすると、ヨ ーロッパの貧しい周辺国に、なぜ大量のレンブラン トとゴッホが産まれなかったか?「絵画から物語性 を追い出した」のは経済的理由(必要条件)かと思 うのですが、それが、オランダできわめて特殊な絵 画を描く画家がうまれたことの、十分条件になって いません。

されている。その集中あるいは時間の凝縮のなか に生命の尊厳があらわれているばかりか、無名の 婦人に、かつての聖画のなかのどの聖者もおよば ない──むしろ別趣の、あるいは市民的な──威 厳さえ感じさせるのである。

景色は牧草でおおわれた美しい低地地方とはち がい、粘土質的な茶色っぽさがめだち、いうなれ ば荒々しい。これが、 「馬鈴薯を食べる人びと」が 住んでいた大地であり、ゴッホが育ち、生涯愛し ていたいわゆる〝ブラバント的風景〟である。

とあり、 夫のテオについても、「思い出」 のなかで、

フィンセントは数回帰郷(注・ブラバントに)した が、何度現れても「田舎者」のままだった。

オランダにあっては、堤防の内側にひろがる海 面下の農地こそ肥沃で、ビロードのようにやわら かい緑でおおわれている。 この点、ブラバント台地は、ヒース( heath ) がはえるような土地だった。 オランダ語でいうヘイド( heide )というこの常 緑の低木は、花に野趣があるとはいえ、この木が 生える土地は概して酸性で、農地としては物成が わるいのである。 ブラバントは、 ヒースの原でもあった。 同時に、 ヒースは貧しさと粗野の象徴だったともいえる。 ヨハンナの前記「思い出」には、

それで、さらに司馬遼太郎の「ゴッホの生誕地」 訪問に従っていきます。 アシット( Acht )という小さな地名をみてから 東へ折れた。 このあたりは、北ブラバント州である。一面に 台地がひろがっている。

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って抽象画にもなっている。 さて、司馬遼太郎の『街道をゆく35 オランダ 紀行』朝日文庫)にしたがって、ゴッホを訪ねてみ ます。オランダの画家達がなぜ、ローマカトリック 教会的絵画から離脱していったかについて、鮮やか に説いています。 画家といえば、 オランダは、 絵画の国でもある。 17世紀にはレンブラントを生み、19世紀にゴ ッホを生んだだけでも、この国は人類に大きく貢 献した。 それに、静物画や風景画といった分野を開発 (?)したのも、17世紀のオランダ人だった。 それまでの画家で、たれが、ただの農家のテーブ ルや、無名の市民や、へんてつもない田園が絵に なると思ったろう。 17世紀のオランダ人たちは、 絵画から物語性を追い出したのである。 もっとも、追いださざるをえなかった。 なにしろ、この国は、画家にとって大きな注文 ぬしだったカトリックを否定したために、聖画の しごとがなくなったのである。それまでヨーロッ パでの一般的な画家のしごとというのは、聖堂や

教会にかざる聖書物語の絵をかくことであり、さ らには貴族やその家族の肖像画を描くことで生計 をたててきた。 オランダには貴族制がないにひとしく、 いても、 画家に肖像画をたのむほどの財力はもっていなか った。 だから、レンブラントはときに裕福な商人から 肖像画をたのまれることがあっても、ひまなとき (?)には自分自身や自分の家族を描いたり、銅 版画ながら、乞食の絵まで描いた。 レンブラントの場合、風景も、聖書物語の背景 ではなくなり、まったく叙事性のない風景をかい た。たとえば銅版画の「シックスの橋」などは、 運河にかかる粗末な木橋が主役で、なんの物語性 もない。 いまとなればあたりまえのことなのだが、 ともかく17世紀のオランダの画家たちは、コロ ンブスのように卵を割って立ててみせたのである。 同時代のハルスという画家は、 陽気な酒飲みや、 ジプシーの女を描いた。またレンブラントに匹敵 する天才というべきフェルメールは、台所で壺か ら他の容器に牛乳をそそぎつづけている婦人のそ の瞬間を描いた。 婦人の大脳も筋肉も注ぐというただ一点に集中

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野獣の濡れた毛なみをおもわせる。 ゴッホの絵は、目で見るよりも前に目で触れて しまう感じである。筆触に、いのちの粘膜を感じ させる。 「渓谷」は、むろん山の谷あいを描いている。 流れまであり、秋の花まで咲いている。しかしま ったく〝説明〟はない。 自然から離脱し、独立して存在する〝自然〟な のである。 これは、 かなりゴッホに肉薄した記述かと思います。 ゴッホの自然(観)は、 「自然から離脱し、独立して 存在する〝自然〟」といいます。わたし流に言い直 すと、ゴッホの心の内に入り込んだ「自然」 、もしく はゴッホが自然の中に入り込んだ「自然」 、その「自 然」をゴッホは内にもっていたということです。つ まり、 「内観的自然観(世界観) 」です。自然を対峙 化して、眺めた、感動はしても心の外にある、写実 的な自然、つまり「外観的自然観(世界観) 」ではな いのです。「目で見るよりも前に目で触れてしまう感 じ」はパウル・ツェランにも当てはまります。 司馬遼太郎はそのようなゴッホの自然観をさらに

次のように記述します。

ゴッホは、精神を絵画にした。 このことそのものが、異様であった。 それ以前の、たとえば宗教画でいえば荘厳さと か神秘的光景、または聖母の慈愛、あるいは神に 対する敬虔といった心理的情景は絵画によって描 写できた。それも、一種の〝説明〟だった。 そういう〝説明〟からいえば、ゴッホはいわば 無茶だった。かれは自分の精神を、絵画で表現し ようとした。自己の皮膚を剥ぎ、自己そのものを 画面にひろげてみせたのである。

司馬遼太郎はさらに続けて、「ゴッホはゴッホにと どまっている」と畳み込みます。

画家は、ゴッホ派になるより、セザンヌ派にな るほうが、楽である。 数学の達者だったセザンヌは、人間も静物も自 然も、形象としてとらえた。 セザンヌはそれらの形象をすべて幾何学に還元 した。 そのような理論によって〝造形〟という感覚・

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微笑ましく語っている。 すっかり洗練されたパリジャンになったテオも、 よく自分で笑いながら言うようにどこかしら「ブ ラバント少年」の面影を心のなかに残していた。 ゴッホは、あるときこういったという。 「われわれのなかにはブラバントの野とヒースの 野のなにかしらがいつまでも残りつづけるだろ う」と。 ヨハンナは、ファン・ゴッホを姓とするフィン セントとテオの兄弟の心とブラバントの野のかか わりについて、美しい文章でつづっている。 かれらの少年時代はブラバントの田園生活の詩 でいっぱいだった。かれらは小麦畠やヒースの原 や松林の間で、また村の牧師館の独特の世界のな かで成長した。そしてその魅力は一生の間かれら の心のなかに残った。 司馬遼太郎は「ブラバントの野とヒースの野」が

ファン・ゴッホを生んだというのです。その通りな のですが、それは、まだ十分条件でありません。ヒ ース(泥炭)は、中・北部ヨーロッパ、イングラン ド・スコットランドに広範に在り、なぜ、オランダ だけにゴッホが生まれたのか? レンブラントも? フェルメールも?

司馬遼太郎はゴッホがゴッホになった理由(たぶ ん必要条件)をさらに重ねます。

元来、西洋画は、人や物や自然の輪郭を線でか こまず、色面であらわすのだが、ゴッホの時代、 日本の絵からの影響があり、新進の画家たちが線 を使いはじめた。 が、 多くの場合、 輪郭の強調にすぎなかったが、 ゴッホの絵画にあっては、線も筆触(タッチ)も、 どれもが単独でも生きものとして動き出しそうで、 それら無数の生命の総和の上に絵がなりたってい て、 「ひまわり」のような小品でさえ、いのちを感 じさせる。 1889年の「渓谷」などは、無数のくねる線 でできあがっていて、灰色、黒、赤、黄色の線が 腸のように蠕動し、ぜんたいが、身をくねらせる

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ゴッホが、隠浮世絵画派と一線を劃したのはどこ でしょうか。隠浮世絵画派は、西洋画の悪弊の外観 (描写)にのみ力点をおきました。つまり構図はパ クっても、あいかわらず中身は変わらない。ゴッホ は外観(描写)主義では、このような内的動的多彩 な描写は不可能であることを悟ったはずです。この ゴッホの悟りを改めて内観主義( 「内観的自然観(世 界観) 」 )とよびます。あらゆる構図を脳内に蓄積し て、再構築して表現する手法です。むしろ隠浮世絵 画派よりもとことん自然をよく見ますが、それをそ のまま写し取る必要はない。心に溜まった自然の構 図(要素)を画の中心に据えれば良い。その際、不 要な要素は切り捨てれば良い。その原理は、石庭や 枯山水とも通じます。ゴッホの心には自然が流れこ んできていた。自然はつねにゴッホの内部にすみ続 けていた。これが「内観的自然観(世界観) 」です。 隠浮世絵画派というか、西洋画では、自然は外部に 在り、描く時だけ関心が寄せられる。自然はあくま でも人間から切り離されて、外部に存在する。これ が、 「外観的自然観(世界観) 」です。 ゴッホの絵は1885年まで、暗い。1886年 にパリに移り、浮世絵の収集を弟テオと始めます。

南フランスのアルルに移り住んだのは、 1888年。 ゴッホの絵は、 1887年から一気に明るさがまし、 構図に変化が見られます。南フランスのアルルがゴ ッホに色彩を与えたといいますが、これはご都合的 解釈で、明るい色と新たな構図を与えたのは、浮世 絵です。これほど明確な理由は他にありません。

ゴッホの手紙で、日本へのあこがれが至る所に出 てきますが、これは単なる日本贔屓でなく、西欧の 思考・創造原理への生理的嫌悪を背景として、その アンチテーゼとして捉えていることが読み取れます。 「日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者で あり哲学者であり知者である人物に出会う。彼は歳 月をどう過ごしているのだろう。地球と月との距離 を研究しているのか、いやそうではない。ビスマル クの政策を研究しているのか、いやそうではない。 彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。/とこ ろが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、つぎに は季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物 を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして 彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすに は人生はあまりにも短い。/いいかね、彼らがみず からが花のように、自然の中に生きていくこんなに

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概念がうまれ、立体派(キュービスム)や抽象画 へと発展し、さらには現代のデザインにまで系譜 がつづくのである。 その点、ゴッホはゴッホにとどまっている。 昨年(2017年) 、上野の国立西洋美術館で北斎 展「北斎とジャポニスム―HOKUSAIが西洋に 与えた衝撃」を見ましたが、モネ、ドガ、セザンヌ、 ゴーガンをはじめ西洋美術の名作約220点の絵の 構図が、北斎の錦絵約40点、版本約70冊の計約 110点の中からの、パクリ(模倣)であることを 比較しながら明確に示していました。ジャポニスム が、これほど広範囲に西洋画を革新したとは、考え てもみなかったです。衝撃でした。しかも、これは 北斎のみでの展覧会です。 浮世絵や日本画全体では、 さらに計り知れない、インパクトを与えていたわけ で、もう、ほとんど、西洋の近・現代美術は日本の 絵画芸術により作られたといってよいほどです。 わたしは、またしてもクラクラと目眩がしてきま す。 もちろんゴッホもその一人ですが、モネ、ドガ、

セザンヌ、ゴーガン等と明らかに違う絵を描いてい きます。モネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガン等と何が 違うのか? モネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガン等は、 明らかに構図をパクっているだけで、 なぜ日本画 (浮 世絵)が、このようなダイナミックな構造を生み出 したか、考えようともしません。自分が有名になる なら、何でも利用して、それを上手く隠して独自性 を強調する。ゴッホはそれらとは、結果的にまるで 無縁でした。 そこで、浮世絵に強い影響をうけたモネ、ドガ、 セザンヌ、 ゴーガン等を、 隠浮世絵画派と呼びます。 この隠浮世絵画派の特徴、つまり近代西洋画の特徴 は、外観(描写)主義です。これまでの静的外観描 写に、動的外観描写が加わったと言う意味では、ま あ、画期的なことですが。さらに、自然描写が、お きまりの規定された自然から、解き放たれ実に多彩 となったことも画期的なことです。しかし、外観描 写主義、構図主義の本質は変わりません。構図主義 では、ある構図を全く別の構図に組み込むことが芸 術となりえます。例えば、相撲取りの構図が、ドガ の踊り子の構図となり、これが独創的絵画と呼ばれ るように。隠浮世絵画派はしょうもない低俗な連中 です。

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かれらは掘った。

(黒土) 黒土、黒い 土であるお前、時刻たちの 母 絶望──

かれらは掘った そして掘った、こうして かれらの昼が過ぎ去った、かれらの夜が。そして かれらは神を讃えなかった、 神は、そうかれらは聞いたのだが、これらすべて を望んだのだ、 神は、そうかれらは聞いたのだが、これらすべて を知っていたのだ。 かれらは掘って そしてもはやなにも聞かなかっ た、 かれらは賢くならなかった、ひとつの歌もつくり 出さなかった、 どんな言葉も考え出さなかった。 かれらは掘った。

手とそしてその手の 傷からお前に 生まれたものが お前の萼を閉じる。 『誰でもない者の薔薇』の「Ⅱ」章( 『パウル・ ツェラン全詩集Ⅰ』所収)

おお 一人、おお 一人も、おお 誰も、おお お 前── どこへ行ったのか、どこへも行かなかったゆえ に? おお お前は掘る そしてぼくは掘る、そしてぼ くはぼくをお前に向かって掘る、 そして ぼくたちの指に 指輪が目覚める。 『誰でもない者の薔薇』の「Ⅰ」章( 『パウル・ ツェラン全詩集Ⅰ』所収)

静寂がやって来た、嵐もやって来た、 すべての海がやって来た。 ぼくは掘る、お前は掘る、そして掘るのだ あの 虫も、 そして あそこで歌うものが言う、「かれは掘って いる。 」と。

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素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真 の宗教とも言えるものではないだろうか。/日本の 芸術を研究すれば、誰でももっとも陽気にもっと幸 せにならずにはいられないはずだ。われわれは因習 的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、も っと自然に帰らなければいけないのだ。 」 (J・V・ ゴッホ ホ-ンゲル編『ゴッホの手紙 テオドル宛 中』 (岩波文庫) ) 。 このように、ゴッホはなぜ「ゴッホがゴッホ」な のかを自覚的に明確に書いています。「自然の中に生 きていくこんなに素朴」な日本の芸術は「真の宗教」 と言い切りますが、それは西洋では「自然の中に生 きていない」といっているのとおなじことです。ま た、日本の芸術家は、 「ただ一茎の草の芽を研究して いる」と言い切ります。自然の中に生きている「生 命」に触れるために、 「自然に帰らなけいけない」と もいいます。それは人と分離した自然ではなく、人 と一体化した自然( 「内観的自然観(世界観) 」 )で、 西洋で排除され隔離され対峙された客観的自然 ( 「外 観的自然観(世界観) 」 )ではありません。 昨年、久しぶりに、アムステルダムのゴッホ美術 』 館を訪れました。 『 Two Women on the Peat Moor

(1883年)はオランダの泥炭地を描いていて素 晴らしいです( http://www.vangoghonline.com/19 で見られる) 。泥炭 83/08/two-women-in-moor.html を切り出している風景画。いろいろな理由で、この 初期の絵に、ゴッホの絵のすべてが描き込まれてい ると感じます。少なくとも原点です。 数学者の岡潔もまた、ゴッホの「土の色」にあざ やかな記憶があるといい、「土が黒々としてそこに草 花がのぞいているのが目に入ると,妙に気が休まっ た。日ざしを浴びた土の色は妙に心をひかれてあと に印象が残るようである」と鋭い指摘をしています ( 『日本のこころ』 (講談社文庫) ) 。 ゴッホにとってオランダの泥炭地(ヒース)は、 自然の重要な要素なのです。通常の芸術家の伝統的 に鍛えられた美意識とはまったく関係なく、自然の 生命の基本要素を描ききる(つかみ取る)のが、ゴ ッホの美意識なのです。

パウル・ツェランの詩の中にもゴッホと同様の美 意識を見出すことができます。

(かれらのなかに 土があった) かれらのなかに 土があった、そして

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ざまざと分かります。 ゴッホには、隠浮世絵画派のような、構図のパク リはほとんどないです。いきなり浮世絵の真髄をつ かみ取った感じです。1887年はゴッホにとって 人生でもっとも充実した年でした。1888年にア ルルに移り、むしろその過剰な明るさが、彼の心を 焼いていくように思われます。全景が陽炎のように 揺れ動くようになる。ゴッホのほぼ最後の絵、 《鳥の 群れ飛ぶ麦畑》 (ゴッホ美術館)は、暗い絵のようで すが、暗く冷たい故郷の心象で燃える心の冷却を図 った感じすらします。しかし、ゴッホの炉心は制御 不能に陥っていった。そして燃えるような寒さと、 輝くような暗さを残して、爆発したのです。ほぼ同 時期の《立ち行く雲の下の麦畑》も冷却を図った絵 です。

「刻々」 刻々、だれの手まねき? 明るさはすみずみまで眠っていない。 おまえはのがれ出ることなく、 いたるところで、 心をあつめよ、 立っていよ。

「糸の太陽たち」 糸の太陽たち、 灰黒色の荒蕪の地の上方に。 ひとつの 樹木の高さの想いが、 その光の色調(トーン)を とらえる── まだ歌える歌がある、 人間の 彼方に。 『息のめぐらし』 ( 『パウル・ツェラン詩文集』 所収)

ル・ツェラン詩文集』白水社より) 。 「糸の太陽」と はゴッホの描いた太陽ではないかしらとも思えます。

パウル・ツェランは、詩「力、暴力」でゴッホに 触れます。ツェランは個人を詠うのは希で、短い詩 ですがゴッホに深い関心を持っていたはずです。ゴ ッホの詩「力、暴力」の前に置かれた詩は、ゴッホ の心象を描いたともうけとれます。少なくともゴッ ホの郷土の風景のような低湿地・泥炭地(ヒース) を描いていると思います(飯吉光夫 編・訳『パウ

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ゴッホのアルルからのベナール宛の第二信に、ま ずこの土地の空気は澄んでいて、明瞭な色の印象は 日本を想わすものがある。水は綺麗なエメラルド色 の斑文を描き、われわれが縮緬紙の版画でみるよう な豊かな青を風景に添える。淡いオレンジ色の落日 は、土を青く感じさす。毎日太陽は黄色く輝いてい る」(ゴッホエミール・ベナール編 『ゴッホの手紙 ベ (岩波文庫) )とあります。この一文 ナール宛 上』 からも、ゴッホの畑や土へのこだわりが強く感じら れます。たとえば、土に関しては手紙で、 「橙色した 地面」リラ色の耕作地 耕されたライラック色の地 面 紫色の土塊のある広い耕された畑 地面は赤 ほとんど誰も気づ 紫 と多彩な色を見てとっており、 かない(気にもとめない)風景が、彼の心象の核に なっています。 「

「 」 」

「 」

「 」

『 View of Aurers 』 (1980年)をみていると、 ゴッホの「揺れ動く線描」は、実際、風で揺れ動い ている動的風景を描いていることがよく分かります。 手前の風景は風になびき、 後景は静的線で描かれる。 「揺れ動く線描」が、動的風景をあらわしていると すると、 「内面的心の動き」が、段々、絵全体におよ

んでいく様子もわかります。 『 Tree Root 』 (1980年)は、もうほとんど内 観的描写です。根がなにやら人に見えてきます。幻 覚ではない。日本の文化の内観的描写の世界に達し ています。

さて、先に訪れた Ede の町から30分ほどのクレ )美術館を訪問し ラー・ミュラー( Kröller Müller ました。デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園(550 0ヘクタール)の自然林の中にあり、オークの樹々 も茂り、野外彫刻も点在するヨーロッパ最大級の彫 刻庭園をもつ美術館です。馬で庭園内を回れるのも すばらしい。 実業家のアントン・クレラー・ミュラーと、その 夫人ヘレン・クレラー・ミュラーのコレクションを 基に1938年に開設され、ゴッホのコレクション が充実していて、アムステルダムのゴッホ美術館と ならび、二大ゴッホ美術館と称されています。 ここの美術館にすばらしいゴッホの絵画が集めら れていました。特に、1885年までの暗さと、1 886年にパリに移り印象派の影響で色彩が射して きて、この年の後半に浮世絵に触れて、1887年 から一気に構図と色彩と対象が革新されるのが、ま

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その背後の竹やぶのなかで── 吠える癩(レプラ) 、交響楽のように。 贈物にされたヴィンセント・ヴァン・ゴッホの 耳が、 到着する。 『糸の太陽たち』 ( 『パウル・ツェラン詩文集』 所収) 淵江律子は、パウル・ツェランは『言葉の格子』 の中の『フィンセント・ファン・ゴッホの絵の下へ』 のタイトルで詩を書いていますが、該当するゴッホ の絵は『カラスのいる麦畑』とほぼ同定されると述 べています(パウル・ツェラン『ある絵の下へ』に ついて─『言葉の格子』より、日本女子大学紀要 人 間社会学部、第19号、2008年) 。 「一つの絵の下に」 鳥たちが群がる小麦の波。 どの空の青さ? あの下の? 上の? 魂から飛ばされた晩い矢。 さらに激しく唸る音。さらに近づく灼熱。

二つの世界。 『言葉の格子』の「Ⅱ」章( 『パウル・ツェラ ン全詩集Ⅰ』所収)

パウル・ツェランはゴッホをつかみ取った。ある いは、ゴッホにつかみ取られた。ツェランは、ゴッ ホのなかでは「二つの世界」 (魂と自然)は融合し、 溶けていると言っているのです。 パウル・ツェランは、ゴッホのこの絵で、まるで 自然が動いているような、空が逆転して回っている ような、そして道が矢?となって中央に吸い込まれ るような感じを描き切ります。 「遅い矢、それは魂か らはじけた」と、ゴッホの魂の動きもつかみます。 パウル・ツェランもまた、 「遅い矢、それは魂からは じけた」世界へはじけて逝ってしまいました。

こうして、パウル・ツェランにもゴッホと同じよ うな「自然と人に対する「感受性」 」を見出せます。 それは、古いシュヴァルツヴァルトと低湿地・泥炭 地(ヒース)にひそむケルト・ゲルマンの古層文化 なのです。あたかも縄文の世界観のような。

パウル・ツェランのみならず、ゴッホは日本の文

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『糸の太陽たち』 ( 『パウル・ツェラン詩文集』 所収) 「咬傷」 どこにもない咬傷。 それをもおまえは とりさらねばならない、 ここから。 『糸の太陽たち』 ( 『パウル・ツェラン詩文集』 所収) 「おまえは」 おまえはぼくの死だった── おまえをぼくはひきとめておくことができた、 ぼくからすべてが脱落したときも。 『糸の太陽たち』 ( 『パウル・ツェラン詩文集』 所収) 「アイルランド風に」 あなたの眠りにたどりつく穀物階段をこえていく 道の 通行権をぼくにあたえよ、

眠りのこみちをこえていく 通行権を、 心の斜面で 泥炭を掘る権利を、 明日。 『糸の太陽たち』 ( 『パウル・ツェラン詩文集』 所収) 「時がきた」 時がきた── 脳の鎌が、きらめきながら、 空をわたりあるく、 胆汁質の天体をぞろりひきつけて、

反磁気が、支配する者が、 なりわたる。 『糸の太陽たち』 ( 『パウル・ツェラン詩文集』 所収) 「力、暴力」 力、暴力。

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とは、あまり確かでない。むしろ、僕は、ある一 つの巨 (おお)きな眼に見据えられ、動けずにいた ように思われる。 さて、小林秀雄の感じた、 「巨きな眼」は、 「ゴッ ホは、写生しているときにみまわれる『恐ろしいよ うな透視力』について語っていますが、語られてい るのは、肉眼というよりもむしろ心眼でありましょ サン・レミイの病院で書いた手紙の中に、 う。 ( 中 略 ) こんな言葉があります。 『君は、あるオランダの詩人 が言った言葉を知っているか、「私は地上の絆以上の もので、この大地に結びつけられている」 。これが、 苦しみながら、 特に、 いわゆる精神病を患いながら、 私が経験したことである』 」です。ゴッホが会得した 「自然」 は、 ヨーロッパでは形而下であるがゆえに、 見向きもされなかった大地(性)の思想(思索)に までおよんでいました。 齊藤茂吉の「実相観入」 、小林秀雄の「巨きな眼」 、 そしてゴッホ本人の「恐ろしいような透視力」は、 すべて「内観的自然観(世界観) 」に含まれるもので す。

ゴッホの絵が伝えてくる、鼓動のような、うねり のような、熱のような、凄まじいばかりのエネルギ ーをこめた心象を受け取ることはできます。 しかし、 ではなぜゴッホがそのようなゴッホになったかはい ぜんとして謎です。 帰国してからバーナデット・マーフィー著『ゴッ (山田明美訳、早川書 ホの耳―天才画家 最後の謎』 房)を読みました。著者は、ゴッホが耳を切り落と したのはなぜかを知りたくなり、そのためには耳を どのようにそいだかの記録が一切無く、証言により まったく、 まちまちであることを知ります。 そこで、 アルルでのゴッホの詳細な調査を始めるのです。そ れは、1888年12月に起きた、100年以上前 の事件(出来事)の資料による再現です。そして、 ゴッホの耳の図をついに発見し、また、耳を渡した とされる女性がラシェル(ガブリエル)という名前 の人であり、一般にはゴッホがその時娼館を訪れて いたことから娼婦と思われていましたが、実は娼館 の掃除婦であったのを確かめます。なぜ、ラシェル (ガブリエル)に耳を渡したのか? ゴッホの住ま いから娼館は近く、ゴッホはラシェル(ガブリエル) を頻繁に見かけたはずで、ラシェル(ガブリエル) が犬に腕を噛まれ、その犬が狂犬病持ちで大変な災

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芸家をも強く捉えます。斎藤茂吉は第一歌集『赤光』 および第二歌集『あらたま』で、フランス印象派絵 画、特にゴッホから少なからぬ影響を受け、ゴッホ 最晩年の絵画に、「実相観入」 を見いだしていきます。 茂吉の「実相観入」とは、 「実相に観入して自然・自 己一元の生を写し」です。片野達郎は、茂吉のとな えた「写生説」を整理し、すなわち、 「写生」とは「実 相観入」 (対象とひとつになりきること)によって 「生」を写すことであるが、この「写生」は、手段・ 方法ではなく、主観や客観をも包括した全体、総和 であるというのであり、感情移入によって果される 「写生」の究極は、 「生」の象徴となる、と纏めてい ます( 『斎藤茂吉のヴァン・ゴッホ――歌人と西欧絵 画との邂逅』講談社) 。つまり、茂吉にとって、 「写 生」とは、 「生 (しょう)うつし」で「いのちをうつす」 意味です。 斎藤茂吉歌集の『あらたま』の次の句は、ゴッホ の絵を詠んだ句と考えられます。 あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我 が命なりけり 芥川竜之介もまた、おそらく『赤光』を通して、

「あらゆる文芸上の形式美に対する眼をあける手伝 ひもして」 ( 「僻見」 「芥川龍之介全集第11巻」岩波 書店)もらい、さらに、ゴッホの絵画を通して、頓 悟にも似た芸術的体験をし、ゴッホの眼をもって風 景を把えることができ、それは芥川にとって、新し い美(特に、絵画的美)の発見であったと、片野達 郎は指摘します。 さらに、小林秀雄は、 「上野の展覧会で、ゴッホの 画の前で、愕然とした、とうとうその絵の前にしゃ がみ込んでしまった」と書きとめています( 『ゴッホ の手紙』角川文庫) 。それは、ゴッホが自殺する直前 に描いた有名な複製画でした。

熟れきった麦は、金か硫黄の線条のように地面い っぱいに突き刺さり、それが傷口のように稲妻形 に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥 が、イングリッシュ・レッドというのかしらん、 牛肉色に剝き出ている。空は紺青だが、嵐を孕ん で、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原のよ うだ。全管絃楽が鳴るかと思えば、突然、休止符 が来て、鳥の群れが音もなく舞っており、旧約聖 書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向こうに 消えた――僕が一枚の絵を鑑賞していたというこ

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まで迫ったときに、同様に感情を抑え、屋根から崩 れ落ちる茅の姿に自分を重ねて描いた」と言ってい ますが、よく見るとこれは茅葺きの情景です。オラ ンダの低湿地では茅 (ヨシ)が繁り、その茅で屋根を 葺いていました。茅がほとんど手に入らなくなった 現在でも中国から輸入してまで、茅葺きの屋根にし ています。オランダでは家とは茅葺きでなければな らりません。ほぼ最後に、伝統的に郷土に根付いた 家の茅を葺いている《茅葺屋根で作業する人と二人 の子供》を描いて、家の角の二人の子供は恐らくゴ ッホと弟のテオです。 これは幼年期の心象風景です。 この絵は、ゴッホの内なる住み家なのです。

ゴッホが浮世絵から掴んだ《鳥の群れ飛ぶ麦畑》 や《立ち行く雲の下の麦畑》の鮮やかな心象と《茅 葺屋根で作業する人と二人の子供》の幼年期の風土 の心象が、ゴッホの心に立ち現れ、心象の制御が不 能に陥るほど溢れだしてきた。それは郷土と伝統と 自然の全てに対する「共感力」が極限に達したとい うことです。

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象派を越えて現代へ』 (みすず書房)を読みました。 小林は、基本的にゴッホの最後の数枚の絵を、やは り狂気から読み解きます。それらの絵はまるで、既 に覚悟を決めた辞世のように説きます。結果から見 ればそうなのですが、はたしてゴッホは描いている 最中そんなことを思っていたでしょうか。 それらに、 凄まじいエネルギー力を、熱を感じますが、死の匂 いはまるでありません。カラスが不気味だとか、空 が暗く、雲が重いだとか、死を予感させるという記 述はたわいのないことです。カラスの群れも、暗い 空も、重い雲も、剥き出しの大地も、オランダ低湿 地の、ゴッホの故郷のブラバント台地の現風景で、 ゴッホの心象風景の骨格で核心です。ゴッホの心象 の構成要素です。ゴッホはこの心象風景を生きるエ ネルギーに変えていただけです。 ほぼ最後になる《鳥の群れ飛ぶ麦畑》と《立ち行 く雲の下の麦畑》 。 《鳥の群れ飛ぶ麦畑》は、熱を帯 びて揺れています。 《立ち行く雲の下の麦畑》は、冷 めて静寂のなかにあります。ゴッホが愛した田園風 景の極限をこの2枚で描ききったと思います。《茅葺 屋根で作業する人と二人の子供》もほとんど最後の 絵ですが、小林英樹は、 「この世と別れるときがそこ

連載 エッセイ


難が突然降りかかったことを知っていたと、著者マ ーフィーは推察します。著者マーフィーは、結局、 ゴッホは「人への共感力」が非常に強く、自分の痛 みによって人を救うような行動に走ったと考えます。 ゴッホは異常なほど感受性が鋭く、ときにはそれ が異常に見えることもあった。しかし、一見衝動 的に見える行動の背景には、常にそれなりの論理 があった。耳をそぎ落としたあの夜がまさにそう だ。あれは、まったくのでたらめな自傷行為とい うわけではない。耳をそぎ、水で洗い、新聞紙に くるんで持っていったあの行為には、ゴッホなり の考えと意図があった。 「ラシェル」は、これまで 考えられていたような娼婦ではない。 「ラシェル」 すなわちガブリエルは、お金を稼ぐために一生懸 命働く、若くか弱い女性だった。ゴッホは、彼女 が娼館といういかがわしい場所で夜通し掃除の仕 事に励むさまをじっと見ていたに違いない。そし て、その腕に見える大きな傷跡に深く心を動かさ れたのだろう。ゴッホは見習い伝道師のころ、自 分の服をすべて貧しい人々に与え、自分はぼろを 着て床の上で寝ていた。弟に迷惑をかける自分に 耐えられないような男だ(それが自殺の一因にも

なった) 。それを考えれば、ゴッホがあの晩に耳を 持っていったのは、ガブリエルを怯えさせたり怖 がらせたりするためではなく、救いをもたらすた めだったはずだ。確かに、ブー・ダルル通りの《一 番娼館》の戸口に現れた女性にしてみれば、訳の わからない恐ろしい行動に思えたかもしれない。 だがゴッホにとってあの耳は、彼女の苦しみを和 らげるつもりで贈った心からのプレゼントだった。 この特異な行為から、ゴッホについてこれまで見 すごされてきた大切なことがわかる。それは、利 他の心である。ゴッホは、思いやりがあり、感受 性が強く、 異常なほど共感能力の高い人間だった。

ゴッホの絵に迫ってくるものがあるのは、印象派 のような単なるパクリでなく、 自然と人に対する 「感 受性」と「共感力」の強さによると改めて認識させ られました。 これをわたしは、「内観力」 といいます。 オランダとベルギーの低湿地にはこの「自然と人に 対する「感受性」と「共感力」 」が存在するのを今回 の旅でも到る処で強く感じました。ある意味ではケ ルト的感受性なのかも知れません。

さらに、続けて、小林英樹著『先駆者ゴッホ 印

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ー板に靴を固定するのも一苦労、スキーの流れ 止めも靴につけなくてはならない。当然、ミト ンの手袋は脱がないとできない。セイフティー リリースが固く、 靴には大量の雪がついていて、 これを取るのが難しく、なかなかスキーがはけ ない。大汗を掻いて、スキーを装着。脱ぎ捨て て雪の上にあるミトンを、体をかがめて拾う。 この動作をするだけでバランスを崩し、転びそ うになる。おかげで体中の筋肉が緊張して、体 力を消耗。 スキーも履いた。準備ができた。しかしここ からまた苦行が始まる。歩こうとすると、スキ ーが邪魔をして歩けない。 上り坂が少しあると、 全く前に進めない。ストックをついて歩けと言 われても、長く、また軽くはないストックが両 手にあり、 両方のストックを交互に振り出して、 思うようにストックをつくことなど、初心者に はすぐにはできない。あげくのはては、自分の スキーにストックをついてしまい、コーチに呆 れられる。情けなくて涙を流しながら雪の上を 歩く。ようやく歩けるようになると今度は、緊 急時対応のためか、スキーを履いたまま、しり もちをつく練習。後ろにしりもちをついてしま

ったら、スキーの上で、スキーは止まらない。 つまり、しりもちは斜め後方につくのだ。これ も難しい。今でもスキースクールでは、しりも ち制動の仕方を練習させるのかな? 平地で尻もちをつくと、スキーをつけたまま ではなかなか立ち上がれない。立ち上がる練習 を重ねるが、体力の消耗激しく、全身大汗。さ らに、スキーミトンは雪と水でぐしょ濡れ、手 袋の防水性能を何とかしてくれないと……。 その後、ようやく、直滑降の練習。さらには スキーのテールを押し出して、 プルークの練習。 いよいよ腿の筋肉に負荷をかける。このころに なると、靴紐には大量の雪がつき、体温で雪が 溶け、靴の中が水浸し。手袋はびしょぬれ、靴 も靴下もびしょぬれ。気持ちもびしょぬれ。 スキー道具は今は格段に進歩し、靴の脱着も スキーの脱着もワンタッチ。靴や手袋が濡れる こともない。ストックは軽くて扱いやすく、ス キーは短くなり、テールの押し出しなどしなく ても、体重移行するだけで勝手に曲がる。こん なにもスキーは便利になり、初心者に優しくな ったのに、どうしてスキーを始める人は減って いるの?

連載 エッセイ

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スキーの進化 雪の降らない太平洋側で生まれ育ったので、 スキーなどのいわゆるウインタースポーツとの 出会いは、 それほど早いわけではない。 しかし、 一度知ってしまうと、 病みつきになってしまい、 毎年、雪の便りを聞くと、スキーに行きたいと いう衝動に駆られる。 最初にスキーに行ったのは中学1年の冬、親 元を離れ、スキースクールに入校。一日一便し かないディーゼル急行 「赤倉」 で妙高高原まで、 半日以上の長旅で、到着した赤倉温泉の景色は 一面の雪、どんよりと暗い空と無彩色で寂寥感 に満ちていた。屋外で一夜を過ごせば間違いな く凍死するに違いない、厳しい世界と感じる中 で、 この色彩のない世界にとても不安を感じた。 翌日から早速、スキーの初心者講習。靴の履 き方、スキーの装着、ストックの持ち方さえ知 らぬ全くの初心者で、手助けしてくれる親も知 り合いもない。すべてが大変だった。何カ月も 前から楽しくスキーを操る夢を見て、期待に胸 膨らませていたのに、現実は、それがとんでも

なく遠いことを思い知らされる。 今でも、スキー靴を履くのに苦労する人を見 かけるが、 当時の靴は今に比べて格段に難しい。 硬い靴に足を入れるのも大変なのに、靴擦れ防 止のため、厚手の靴下をつけた足を靴に入れる のは、本当に難行であった。両足を靴に入れる のに5分は使う。さらに、靴紐と足の間に挟ま った靴のベロを引っ張り出すのに苦労して、靴 紐を編み上げようとするも、力が足りず、締め あげることができない。結果、靴紐が足りなく なって靴紐も結べない。やっとの思いで靴を履 くだけで、大汗を掻く。着ているアノラックや 防寒具が異常に暑いが、我慢して外にでる。 指が一緒になるミトン型の手袋が良いと言わ れて、ミトンの手袋を持参したが、指が自由に ならず、身長よりはるかに長いスキー(昔は、 初心者にも、スキーの長さは身長+20センチ と長いものをお薦め)とストックを持って運ぶ のも大変である。 さて、ゲレンデに出て、体を折り曲げ、スキ

加藤信介

かとう しんすけ

東京大学生産技術研究所教授

(専門は都市・建築環境調整工学)

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アメリカ・インディアンが顔を出す。その言 葉が正しくこのピジン語。もっとも日本語に 吹き替えたものだから、もともとはどのよう な英語であったかわからないが、 「白人・悪 い・インディアン・騙される」式の日本語と してはピジン・ジャパニーズ。もっとも、最 近のメラネシアでは英語教育が進んで、こう したピジン語も使われなくなっているという。 近年、大学の国際化というので多くの大学 では、学生を海外の提携大学に出したり、あ るいは海外からの学生を迎え入れたりして、 英語による授業が増えている。私の担当する 中国哲学の科目も英語で行わないかという打 診があった。例えば演習科目を英語で行うと すれば、 『論語』や『老子』 、 『孟子』に『荘子』 など主要な文献はいくつかの英訳書がすでに あるから、これを用いれば授業としては成り 立つ。しかし、学生の現状をみると漢文文献 を原文のまま理解し得る能力を持つ学生は、 極めて少ない。とくに訓読法については、入 学時点でこれをこなせる学生は30%ほどで あろう。それをなんとか卒業までに100%

にしたいというのがここ5、6年の努力目標 であった。訓読法はかつての翻訳法であり、 日本語の文語文に翻訳しながら中国語文を読 んだ読解法である。ところが、最近の新入生 の国語力は極端に低下していて、文語体の語 法を理解していない学生が少なくない。した がって、その読み方はまさしくピジン漢文と なる。 「子いう、学び習うの時、また説かない か?」 (子曰、学而時習之、不亦説乎) 。以前 に高校の国語教師になった教え子から聞いた 話である。記憶に不確かなところもあるので 少し異なっているところもあると思うが、大 方こんな読み方をしたらしい。これを聞いた ら孔子も「天われを滅ぼせり」といって泣く だろう。 最近の大学生のレポート類を読んでいると、 文章が短くぶつぶつと切れる。長文が書けな い。つまりもう既に日本語もピジン化してい るのか。古典はその民族の文化そのものであ る。これを伝えられない民族はどうなるのだ ろう。

連載 エッセイ

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ピジン語 1年ほど前、メラネシアの大学との語学留 学協定の話が出てきた。講義は何語で行って いるのかと聞くと英語だという。それなら良 いんじゃないか、という話になってきた。と ころが、大学の中は英語でも街なかでは何語 なんだと聞く人がいる。さて、誰も答えられ ない。それもそのはず、よく調べてみるとメ ラネシア諸島では島々の言語的独立性が強く、 隣の島でも言葉が通じないことがあるという。 それで共通語は、ピジン・イングリッシュ。 要するに英語の簡略型である。単語だけを並 べて意思をあらわす。 格や時制の変化もない。 「ユー・ナンバー・ワン」と云えば「おまえ は凄い」 。ところが状況が変われば「あなたは 一番金持ち」 、 「あなたは大統領」等々意味が 変わる。この時、親指を立てて前につき出す と効果的。相手を褒めるときの常套語である が、 「ナンバー・ワン・ギャング」といえば「最 悪な奴」となる。要するに状況に応じて限ら

れた単語を並べることで意思を通じる、ある

、じ 、さ 、せ 、る 、。 いは意思を通 これと同じピジン語を池袋の寿司屋で聞い たことがある。2人連れの外国人(後でアメ リカ人と分かる) が私たちの隣に座り、「ツナ」 という。店員が「レッド・オア・ファット」 と聞くと「レッド・アンド・ファット」とい う。これを旨そうに二カンずつ平らげて、 「お すすめ・きょう・なに」という。店員「こは だ・しゃこ……」 、外人客「こはだ・なに」 、 店員「このしろの子ども・酢でしめる」 、外人

客「?」 、店員「これ、これ」 (実物を見せる 、) 外人客「それ・いいね」 。しゃこはどう説明す るのか、まさか「ガレージ」とは言わないだ ろうと期待していたが、 彼は注文しなかった。 まだ中学生の頃、テレビでよく西部劇の吹 き替えを放送していた。 『ララミー牧場』 ・ 『ロ ーハイド』……ああ、なんと懐かしい。時々、

山田利明

やまだ としあき

東洋大学教授

(専門は中国哲学)

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図1 コウゾ畑と屋久島犬センポ.

図2 大型の甑 を 使った コ ウ ゾの蒸し剥ぎ 作業.

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一の豪雪地帯である長野県栄村秋山郷 に狩猟やドブロクの調査で訪れたこと がある。その際には、 「雪が積もるとホ ッとする。雪が降る前にはあれこれと やっておかねばならないことが多くて 忙しい。積もってしまえばもうどうに

忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク㉔

狩猟をめぐる文化と葛藤 たなか もとむ

田中 求 高知大学地域協働学部講師 (専門は環境社会学)

今年は雪の多い冬になった。筆者の 暮らす高知も例年にない寒さと積雪だ。 道が凍結していないか、水道管が破裂 していないか、毛の短い屋久島犬のセ ンポは凍えていないかなど、いろいろ と心配することも多い。数年前に日本

もならないから諦めて春まで静かにジ ッとしていられる。 」と聞いて、冬もな かなかいいのかもなあと思った (図1) 。 自然に合わせた四季の過ごし方、生 活や仕事のサイクルは、地域や生業に よって様々だ。でも、狩猟をする人、 和紙に関わる人たちは冬こそが一番忙 しい時期だったりする。私にとっても 月から2月は、狩猟の解禁時期であ り、コウゾなどの和紙原料の収獲と加 工作業などで山に入ることも多く(図 2) 、いつも以上にバタバタしている。 そして、この時期は学生たちの論文や 実習などの発表会、入試関連の業務な どもギッシリと詰まっていて、山での 作業との調整に悩むことばかりだ。山 と関わりながら、大学の教員をしてい ると、自然や季節、生業と折り合いを 付けるだけではなく、大学の仕事との 両立もせねばならない。 収獲したコウゾの枝は、大きな甑な どで蒸してから皮を剥き、数日間は乾 11

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図 3 学生や娘たちとイノシシの解体.

円の報奨金が支払われるようになった。 イノシシの場合はシッポを切り取り、 写真を撮って書類と一緒に役場に提出 すればお金をもらえるから、山で掛か ったイノシシを運び出したり、捌く手 間を嫌がる人はシッポだけを切り取っ て終わり。イノシシをその場で放置し てしまう人もいる。かつては大事な食 糧でもあったのに、今ではワナに掛か った動物が札束に見えるという人もい る。かつては、猟期に狩猟によって獲 られたシカやイノシシの数が多かった ものの、近年は有害鳥獣駆除として猟 期以外に捕獲されるものが、猟期の狩 猟捕獲の倍近くにまで増加している。 ある地域では報奨金が出るようにな って、ワナを掛ける猟師が増えた。ど こにワナがあるのかわからなくなるく らいたくさん掛けている人もいる。そ のせいで、猟犬が掛かったり、家の周 りでは猫などが誤捕獲されてしまうこ ともある。足が括られてしまうと壊死

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かさねばならないから、適度に風が吹 く好天が続く時期に作業することが重 要だ。でも、そんな時期に限って大学 での業務が多かったりもする。午前中 だけ釜に火を入れ、皮剥き作業をして 大学に行き、全身から燻製のようなニ オイを漂わせながら学生の論文指導を することもある。 一番悩ましいのは、イノシシがワナ に掛かっているときにどうするかとい うことだ。1頭捌くのに1時間以上は 掛かるから、複数掛かっていたら、山 での止め刺しと運搬などを含め、半日 近くつぶれることになる。時間が掛か るのは自分の猟のためだけではない。 もともと猟師同士は、助け合いながら 一緒に猟をしたり、獲物を分け合った りしてきたから、新米猟師の私に捌き 方を教えてくれたり、山から獲物を運 ぶ手伝いの依頼が来ることもある。獲 れれば嬉しいし、猟の仕方を教われる こともありがたいけれど、大学の業務 との両立が難しいのだ。 最近は自分が掛けたワナもなかなか 小まめに見回りに行けないため、足を 括るタイプのワナではなく、大きな檻 のような箱ワナを使うようになった。 近くのコウゾ農家の畑には、このとこ ろイノシシが来てコウゾの芽や葉を食 べたり、根を掘り起こして困らせてい た。その畑のそばに箱ワナを置き、周 囲に米ぬかを撒いた。その翌日、まあ まだ掛かっていることはないだろうと 見回りに行くと箱ワナの中にこんもり と黒い塊。近づくと生まれてから1年 ほどの仔イノシシが4頭、檻の中を走 り回っていた。 すぐにでも捌きたかったけれど、今 日はもう大学に戻らねばならない。翌 日も朝から講義と会議がギッシリ詰ま っている。正直に言えば、翌日の午前 中の講義を休講にしようかとちょっと 考えた。 狩猟とも関連する講義だから、 山で止め刺しと放血だけして大学に持

って行き、講義中にみんなで捌いて食 べるところまでやろうかとも考えた。 結局、準備不足で、翌々日に止め刺し をした(図3) 。仔イノシシたちは臭み もなく、肉も軟らかくて、イノシシ汁 にしたり、ニラと一緒に炒めたり、焼 き肉にもして、学生や地域の方たちと おいしくいただいた。 しかしながら、農林水産省の調査に よれば、このおいしいイノシシも捕獲 したものの5%程度しか食用に利用さ れていないという。なかなか論文など には書きにくいけれど、自分がこれま で関わってきた高知県内や県外の猟師 の話しを聞くと、文化として地域に根 付いてきた狩猟の変質が見えてくる。 狩猟の変質要因として一番大きいの は報奨金だろう。猟期である冬以外の 時期に、有害鳥獣としてイノシシやシ カ、サルなどを駆除すると、地域や対 象鳥獣によって違いはあるものの、1 頭あたり6000円から2万5000

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追いつかないくらい捕獲され、また利 用されることなく捨てられる野生鳥獣 が多い。 いただいた命をきちんと食べるとい うことはとても大事なことだし、ジビ エ料理を通してそれが伝わると良いな あとも思う。猟師にとって自分が獲っ た獲物を猟師仲間や友人などに分けて、 喜んでもらえるととても嬉しい。知り 合いや友人がやっている料理店などに 獲物を持っていったり、猟師自らが民 宿などを経営してジビエ料理を出すこ ともある。狩猟文化のなかには、どう やって獲物を獲るかということだけで はなく、獲ったものをどうやって利用 し、 分け合うかということも含まれる。 獲物を分け合うのは日本のみならず、 世界各地の狩猟民に共通する文化だ。 ある熟練猟師は、仲間と一緒に山で獲 れた動物を丸焼きにして、焼けた肉を ナイフで削ぎ落としながら食べるのが 一番おいしいと話していた。

しかしながら、 ジビエ料理が流行し、 各地に解体処理施設ができるなかで、 猟師が捕獲し、山や自宅などで解体し た肉を売ったり、貰った肉を料理店な どで出したりすると、それは「闇肉」 と呼ばれることになる。野生鳥獣を解 体、精肉、販売するには食肉処理業と 食肉販売業の許可が必要であり、食品 衛生法に基づき定められた解体処理施 設を建てなければならないのだ。これ までは狩猟文化への配慮もあり、必ず しも強い規制が行われてきたわけでは なかった。しかしながら、2014年 には厚生労働省によるガイドラインも 策定され、猟師による獣肉の利用や販 売への監視や指導などの規制は厳格化 しつつある。 自然や四季の変化に合わせ、また地 域とのつながりにも折り合いを付けて 行われてきた狩猟は、 報奨金による 「狩 猟から駆除」への変化、ワナの増加に よるトラブルや捕獲個体の放置、ジビ

エの流行と野生獣肉の流通に対する規 制のなかで揺らいでいる。私はその葛 藤に加えて、大学の業務との両立をど うするかにも悩みながら、山での暮ら しを続けている。

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図 4 ワナの設置を禁止する看板.

して断脚手術になることも多く、手術 代は8万円前後かかる。大事なペット が誤捕獲されれば、もちろん飼い主の 怒りは生半可なものではなく、警察沙 汰になることもある。ワナの設置を巡 ってご近所トラブルにもなる(図4) 。 イノシシやシカの肉、内臓、皮、角 などは、猟師の収入源でもあり、さら にはペニスや頭蓋骨、袋角なども漢方 薬として重用されるなど、大事な資源 として利用されてきた。それがいつの まにか害獣とされ、利用ではなく「駆 除」され、報奨金を得ることばかりが 優先されるようになった側面もあるの だ。 農林水産省は、有害鳥獣駆除を進め る一方で、ジビエの利用も促進してき た。ジビエとは狩猟で獲った野生鳥獣 の肉を指すフランス語だ。最近ではジ ビエ料理店もそれほど珍しくは無くな り、全国に630の野生鳥獣を解体処 理する施設が作られている。それでも

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形の いい イ チゴはミ ツ バ チ が上 手 に 受粉 さ せたからで 、 形がいび つだったり 大き いもの はちょっと 受粉が下手だった結果とのこと。 しかし、驚くなかれ! イチゴは下からだんだ ん赤 くなる につれて 甘 みが増すの だが、この 時 に 長 い 時 間を かけ て 赤 く な っ た 方 が 甘 い そ うで 、 形が いびつだっ たり大き い 方が赤 くな る の に 時 間 が か か る た め も っ と 甘 くな る と の ことなのである!目からウロコ。 食べ 放題 じゃ な い イ チ ゴ 摘 み体 験 、 オ ス ス メです。

【第 44 号】

(親子サステナ

文・構成 平松 あい)


るまで食べ続け、元を取らなきゃソン!とばか

時間を めいっぱい使っておなかいっぱいにな

食べ放題で○○円」というのが主流だと思う。

とでこの話題。イチゴ狩りというと、「○○分

そろそろイチゴ狩りの季節が到来、というこ

花粉を集めるミツバチの動きなんかもじっく

いものをじっくり選べるし、イチゴの花や実、

あ、あ、 、甘い! 時間に追われないので、い

よ~く吟味して、これだと思うイチゴを味見。

食タイム。ミツバチがぶんぶん飛び回る中、

方や食べ方などを教えてくれる。そして、試

イチゴ摘み

りに最 後は 赤 いと ころ だけ 食べて あとは ポイ

り観察できる。最後は、配ってもらったパッ

クに自分 が摘み取っ た イチゴを (詰められ る

…という光景も珍しくない。 「それは私たちが伝えたいことと違う、ただ

だけ)詰めて、お土産としてお持ち帰り。

息子くんは、スタッフの人にたくさん質問

たくさん食べるよりも、大切なことを知っても らいたい…」という作り手の思いから、伊賀の

ないかも … 汗) 、おもしろい形のイチゴを探し

したり、ミツバチの巣箱をのぞいたり、ミツ

てみたり、満喫。食べ放題よりも、心もお腹

バチを追いかけてみたり(これはあまりよく

ここでは食べ放題ではない。最初にイチゴに

里モクモク手づくりファームでは、「イチゴ摘

まつわるちょっとした学習タイムがある。イチ

も満足感が高い時間だった。

み体験教 室 」 がはじ ま ったと い う 。

ゴ栽培の苦労や工夫、おいしいいちごの見分け


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