■司会挨拶
プラチナ社会
■開会挨拶
現代はどのような時代であるのか。 明日の株価がどうなるかといった意味 での経済も、もちろんわれわれが生き
現代はいかなる時代なのか
いると思いますが、ここで私は、いま が節目であることを明確にして、だか らプラチナ社会を目指すのだというこ とを申し上げたいと思っています。そ の流れで自然共生社会を考えてみます。
一般社団法人サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム理事長 プラチナ構想ネットワーク会長、三菱総合研究所理事長、東京大学総長顧問
こみやま ひろし
小宮山 宏
自然共生社会の実現に向けて
齊藤 修 さいとう おさむ
国連大学サステイナビリティと平和研 究所学術研究官
本日はお忙しいなか、サステイナビ リティ・サイエンス・コンソーシアム、 国連大学、東京大学サステイナビリテ ィ学連携研究機構主催によるこのイベ ントにお越しいただき大変ありがとう ございます。 まず開会のご挨拶を、小宮山宏先生 よりお願いします。
今日の主題は、気候変動に適応した 自然共生社会です。私からは、自然共 生社会を考える背景となるサステイナ ビリティ、持続性についての全体像的 なことを最初に少しお話して、この後 の議論につなげたいと思っています。 私はビジョンとして 「プラチナ社会」 を提案しています。いまわれわれは人 類の歴史の大きな流れのなかで節目と も呼ぶべき時期を生きています。皆さ まもいろいろな意味でお感じになって
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公開シンポジウム
気候変動に適応した 自然共生社会の実現に向けて
サステイナビリティ学では,俯瞰的立場から地球規模の問題解決への統合 的アプローチをとっています。この講演会では,こうした統合的アプロー チのひとつの課題として,気候変動適応と生態系保全のための対策を取り 上げ,レジリエンス(復元性)の高い自然共生社会の実現に向けた取り組 みについて討議しました。
●主催:サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC), 国連大学サステイナビリティと平和研究所(UNU-ISP), 東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S) ●共催:地球環境パートナーシッププラザ(GEOC) ●日時:2013 年 5 月 15 日(水)14:00~17:30 ●会場:国際連合大学エリザベス・ローズ国際会議場
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図②
なりました。アフリカもアジアもわず かな例外を除いて植民地になりました。 図①の右側の、最近の一〇年、二〇 年をみていただくと、先進国が急激に 落ちています。先進国の経済が縮小し ているのではなく、一パーセントとか 二パーセントとか微々たるものだけれ ど成長を続けています。世界平均が上 がってきたために相対的に先進国が落 ちてきたのです。図には中国とインド だけが書いてありますが、産業革命か ら遅れていた国が急激に工業化を進め て生産力を伸ばしています。産業革命 の成果が有限の地球のなかに拡散し尽 くすところにまできています。その意 味で現代は節目にあるといえるのです。 もう一つは長寿化です(図②) 。人間 の平均寿命は過去にはどれぐらいであ ったでしょうか。信頼できる数字で、 一九〇〇年の平均寿命は何歳だったか というと、 驚くべきことに三一歳です。 エジプトとかローマの時代にはだいた
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ていくには重要ですが、もう少し長い 時間スケールで考えると少し違ったも のがみえてきます。四つのことを申し 上げます。 図①を見てください。縦軸は、主要 国の一人あたりのGDPを、そのとき
の世界平均の一人あたりのGDPで割 った値です。横軸は年代です。図の右 端の上の方に日本を含めた先進国があ ります。その数値が三とか四であるの は、一人あたりのGDPが世界平均の 三~四倍だという意味です。 西暦一〇〇〇年までさかのぼるとG DPはどの国もほぼ同じです。そのこ ろのGDPのほとんどが生活必需品の 生産、具体的にいうと農業です。食べ るための生産が経済の主体でした。日 本では江戸時代まで、 「加賀百万石」と いったかたちで、米の取れ高で経済が 測られていました。
図①
産業革命で一気に生産性が上がり、 それを経験した国が先進国になりまし た。産業革命以前の農業といまの近代 農業とでどれぐらい生産性が違うかと いうと、 たぶん一〇〇〇倍です。 昔は、 一〇〇人いたら九九人ぐらいが農業を して、ようやくみんなが食べられまし た。現在は二〇〇人に一人が農業をす ると、全員が食べられるだけの量が生 産できます。また、昔と比べると、い まの人ははるかにたくさん食べていま す。トウモロコシをウシに食べさせ、 ウシの肉を人間が食べるというような こともしていますから、一人当たり必 要な穀物の生産量は一〇〇〇年前の五 倍ぐらいになっています。それで二〇 〇×五倍で、一人あたりの生産量は約 一〇〇〇倍です。 産業革命はイギリスから始まり、ヨ ーロッパ、北米、そして日本に広がり ました。それらの国が先進国になり、 他の国はほとんどが先進国の植民地に
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を意味します。経済が成長しなくなる ということです。一方で、持続的な社 会をつくっていくのには非常にいいこ とです。廃車する車のなかに、鉄でも 金でもレアメタルでもすべての必要な 金属が入っています。それをリサイク ルすればいいのです。自然資源、天然 資源に頼らなくてすむということです。 中国やインドなどはまだ二人に一台 になっていません。二〇一二年に中国 は一〇〇人に八台です。車がどんどん 増えて、経済がものすごいスピードで 成長しています。中国経済にも必ず飽 和というものがきます。一〇年足らず で確実にくるでしょう。 最後の四つ目がエネルギーです。自 動車は廃車されたら、そこから金属を 取り出して新しい自動車をつくるとい うリサイクルが可能です。エネルギー はリサイクルできません。人類はいつ までもエネルギー資源を必要とします。 一五〇年前にさかのぼると、世界中の エネルギー資源はほとんどがバイオマ スです。木を切って煮炊きをし、暖を 取っていました。いまは八割が石油・ 石炭・天然ガスの化石エネルギー資源 で、一五パーセントが再生可能エネル ギーです。 原子力は五パーセントです。 二一世紀の人類に課せられた大きな課 題は、八割を頼っている石油・石炭・ 天然ガスを限りなくゼロに近づけてい くということです。 以上、大きな経済・産業の流れ、長 寿、人工物の飽和、エネルギー資源の 四つを申し上げました。これらが物質 的な意味でこれからの人類を考えてい く鍵となるのです。
プラチナ社会と自然共生社会 われわれ個人の側に立って考えます と、衣食住、移動、情報、長寿を、一 握りの人ではなくて、一般の市民が得 たのが現代です。 「衣」を考えていただ
くと、昔だったら宝物のような素材の 衣料品が非常に安く手に入ります。 「食」でいうと、昔は牛肉は貴重な食 べ物でしたが、いまでは牛丼が三〇〇 円で食べられます。 「住」では、日本に は五八〇〇万軒の住宅がありますが、 世帯数は五〇〇〇万で、八〇〇万軒が 空き家です。贅沢をいわなければ「住」 は余るくらいあります。車が二人に一 台あって、飛行機に乗れて、自由に移 動できます。情報は、ほとんどの人が 電子端末を持ち歩いて、クリックすれ ば、プラトンは八二歳まで生きたとい うことがすぐにわかります。昔は情報 を先に得た人が相場で儲けたり、商売 で成功したり、戦争に勝ったりしてい ました。いまでは誰でも世界中の情報 にアクセスできます。長寿は先ほど申 し上げたように二十数歳という平均寿 命から、われわれ一般庶民が八〇歳ま で生きられるようになりました。 農業革命、産業革命によって物質的
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い二四~二五歳です。織田信長は四〇 〇年ぐらい前の人ですけれども、「人生 五〇年、下天の内をくらぶれば夢幻の ごとくなり」と、人生は五〇年と思っ ていました。ローマのジュリアス・シ ーザーが殺されたのは五五歳だそうで
図③ す。ウィキペディアでいろいろな人の 寿命を調べてみますと、プラトンは八 二歳で死んだとあります。プラトンが 長生きをしたのは確かなのでしょうが、 われわれが名前を知っているような人 たちの寿命を見ると、平均寿命が二四 歳というのとはかなり違った感じにな ります。その差は何かというと、歴史 上名を残したような人たちは、ごく一 握りの十分に食べられた人たちだった からです。栄養が取れて、衛生状態が よくてきれいな水が飲めて、当時の医 療にアクセスできたような人々だけを われわれは知っているのです。残りの 人たちは、そもそも赤ん坊のうちにた くさん死に、栄養状態が悪いから病気 になるとすぐに死に、飢饉がおこると バタバタ死にました。その結果、平均 寿命が二四~二五歳という時代がずっ と長く続きました。 産業革命によって、十分に食べられ る人が増えました。去年の段階で世界
の平均寿命は七〇歳になりました。日 本の平均寿命は八〇歳を超え、先進国 の多くは八〇歳ぐらいです。一握りの 人ではなく、一般市民が物質的に豊か になって長寿になったのです。長寿化 は文明の成功です。長寿社会をどのよ うにして活気あるものにしていくかと いうのが、これからの人類の大きなチ ャレンジになります。 三つ目は人工物の飽和です。図③は 一人あたり何台の自動車をもっている かという値です。〇・五というのは二 人に一台もっているということです。 日本には五八〇〇万台の自動車があり ますから、大体二人に一台です。一〇 年前も五八〇〇万台でずっと変わりま せん。新車が売れる数と廃車される数 とが釣り合っています。つまり、日本 の社会には車が飽和しているというこ とです。 人工物の飽和は、自動車のように、 一定の量しかものが売れなくなること
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図⑤
図⑥ 9
に成功し、これからどこにいくのかと いうことが問われています。何を目指 すのか、皆さんもたぶん合意されると 思いますが、量が満たされたら、その 次は質を高めることでしょう。 寿命は九〇歳まで生きる設計をしま しょう。私は、二〇五〇年の未来を見
図④ 通した「ビジョン二〇五〇」を提唱し ていますので、何とか二〇五〇年まで 生きて、 「どうだ、やっぱり俺が正しか った」と、いまこのビジョンを批判し ている連中にいってやりたいと思って います。そうするには、一〇〇歳を超 えて生きないとなりません。しかも、 相手にも生きていてもらわないと困る のだけれど…。 長く生きるだけでなく、 質を高めるとなると、健康長寿という ことになるでしょう。 環境も含めてさまざまな面で質の高 い社会を私は「プラチナ社会」と定義 しています。プラチナ社会の必要条件 は図④のようにまとめられます。 自然は極めて重要な要素です。図⑤ の左側上はいまの北京ではありません。 一九六〇年代の北九州市の空です。下 は洞海湾です。停泊していた船のスク リューが溶けるくらい海の汚染がひど くて、朝日新聞に筋状に溶けたスクリ ューの写真が出て、学生だった私は愕
然としました。いまでは大気も海もき れいになりました。三〇年以上かけて これまでになりました。東京の隅田川 も水が汚くて臭くて、川開きの花火が できなくなった時代がありました。い まは川開きが復活し、白魚が戻ってき ています。 浮世絵に描かれた江戸時代の隅田川 は、自然が美しく、ある種の自然共生 社会でした(図⑥) 。江戸を参考にして 考えようとよくいわれますが、先ほど の大きな歴史の流れを思い出してくだ さい。江戸時代の平均寿命は三〇歳で す。日本の人口は三〇〇〇万です。工 業化はおきていません。現代とは全然 違うレベルの社会です。江戸時代の自 然共生社会をこれからまたつくろうと いうことはおそらくないでしょう。江 戸時代の四倍の人が日本に生きていて、 自動車が二人に一台ある時代の自然共 生社会とは何であるのかということを、 われわれは議論しないといけません。
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央集権型で上から号令をかけて進めよ うとしてもうまくいかないでしょう。 市民ベースで、地方分権的に日本の各 地域で自然共生社会を目指す動きが湧 き上がって、各地域で成功例をたくさ ん作って、それらをネットワークで結 んで、日本全体として自然共生社会を 目指していくというかたちになるでし ょう。さらにそれが世界に向けたモデ ルとなっていくというのが、われわれ の目指すところなのだろうと思います。 今日はこの後の時間で、自然共生社 会について議論を深めていただければ と思います。
齊藤(司会) 小宮山先生、大変刺激 的なご挨拶をありがとうございます。 もしご質問があれば一つぐらいはお 受けできるかと思います。冒頭の挨拶 に質問というのも変なのかもしれませ んが、この貴重な機会にぜひというこ とがありましたらどうぞ。小宮山先生
なら何でも答えていただけるかと思い ます……。 ――地方分権というお話がありました が、それについてもう少しお考えをお 聞かせいただけたらと思います。 小宮山 地方分権を、たとえば道州制 のような制度で実現するのは大変だろ うと私は考えています。九州あたりは 自立できる可能性がありますし、議論 もかなり行われていて、実験的にいろ いろなことができると思いますが、制 度として地方分権を実現していくのは やはり非常に大変だと思います。 これからの時代は中央集権だけでは うまくきません。中央集権で成功した のは、鉄がないから八幡製鉄所をつく り、さらに釜石や室蘭にも同じものを つくるということでよかった時代です。 いまは鉄は足りていますし、自動車も 二人に一台あって飽和しているわけで
すから、中央集権で日本のどこでも同 じでいいというのではなしに、われわ れが本当に望むものをどのようにして 実現していくのかということを考えな ければいけません。だから難しいので すが、実質的に地方分権、地方の自立 を実現していくということでなければ、 それはできないだろうと思います。地 域によって人々が望むものは違うはず だからです。地方分権の問題はたくさ んありますが、それを実質的に動かし ていくことが必要です。そのための知 恵を出し、実行していく勇気をもたな ければいけないのではないでしょうか。
齊藤(司会) 続きまして最初の基調 講演に移らせていただきます。自然共 生社会の実現に向けてというタイトル で、国連大学上級副学長、並びに東京 大学国際高等研究所IR3S機構長の 武内和彦先生にご講演いただきます。 よろしくお願いします。
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図⑦
江戸時代よりもずっと昔の狩猟採集 の時代から、農業が始まったころまで の人間の活動は、自然に影響を与える ほどの大きさになっていませんでした から、まさに自然共生社会でした。江 戸時代あたりになってくるとかなり生 産性は上がってきましたが、まだ自然 共生社会であったといえるでしょう。 産業革命が始まって、自然共生があや しくなって、高度経済成長期に日本は 大変な公害を経験しました(図⑦) 。 人間というのは本当に悲しいと思い ます。二〇~三〇年前から、われわれ は中国の学者とともに、公害などとい うのは経験すべきでないという議論を していました。それは難しいことでは なくて、一時期一五パーセントにもな った経済成長を、一三パーセントぐら いに落とす気になれば、いまのような ひどい状況にはならずにすんだはずで す。 これから発展するインドなどには、 ぜひひどい公害を出さずに成長してほ
しいと思います。 日本はひどい公害を経験して、汚染 を克服するところまできました。この 先どこに行くのかというのと、今日の テーマである「自然共生社会」でしょ う。 いまコンパクトシティが議論されて います。少子高齢化で社会が少しずつ 縮小していくときに、ある程度密度濃 く住んだ方が、都市がいろいろなサー ビスを提供するのにいいということか ら、コンパクトシティがいわれていま す。都市をコンパクトにして、コンパ クト化された残りはどうするのでしょ う。都市のなかにも都市の周辺にも、 空地が出てくるでしょう。そういうと ころに、人間が親しめるような自然が あって、上手に利用していけるように なるといいのでしょう。日本の国土は 狭いので、有効に使われるようにする のが重要です。 自然共生社会を実現するために、中
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図①
図② 13
■基調講演Ⅰ
自然共生社会の実現に向けて たけうち かずひこ
武内和彦
〇七年です。折しも第一次の安倍内閣 のときで、当時の安倍首相は「美しい 国づくり」を提唱し、それと関連して 二一世紀環境立国戦略を作るというこ とで、当時の中央環境審議会のなかに 二一世紀環境立国戦略特別部会が設け られました。特別部会でこれからの持 続可能な社会のあるべき姿についてさ まざまな議論が行われ、私は次のよう な提案をしました(図①) 。 持続可能な社会を考える上で重要な
国連大学上級副学長、サステイナビリティと平和研究所長 東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)機構長
今日は自然共生社会の実現に向けて というテーマに関連して、この七~八 年の間に私が取り組んできた事柄を中 心に、お話をさせていただきたいと思 います。
自然共生社会を提案する 自然共生社会という言葉がいつから 使われるようになったかといいますと、 これはかなりはっきりしていて、二〇
社会像は三つに整理できるのではない かと思います。一つは低炭素社会。で きるだけ二酸化炭素を排出しない、エ ネルギー効率の高い、再生可能エネル ギーの割合の高い社会を作っていくと いう課題です。 もう一つが循環型社会。 物質を有効利用するということで、裏 返すと、廃棄物を抑制して循環資源と してどれだけ利用していけるのかとい う課題です。そして、三つめが自然共 生社会です。生物多様性あるいは生態 系の危機的な状況を克服して、人と自 然がうまく調和した社会を作ることが できるのかという課題です。 自然共生社会と似たような言い回し はそれ以前にもありました。環境基本 計画という国の環境に関する基本的な 施策を定めた計画のなかには、自然と 人が共生する社会づくりという表現が ありました。低炭素社会、循環型社会 の二つは非常にコンパクトに表現され ているので、同じように簡潔な言葉に
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ある方はぜひご覧いただければと思い ます。
SATOYAMAイニシアティブを 進める SATOYAMAイニシアティブが 大きなプロジェクトとして実際に立ち 上がったのは生物多様性条約第一〇回
締約国会議(COP10)においてで す(図③) 。COP10は二〇一〇年に 名古屋で開催され、二つの大きな成果 が得られました。一つは遺伝資源への 公平なアクセスと利益配分に関わる 「名古屋議定書」の採択です。気候変 動枠組み条約では、温暖化の排出抑制 についての「京都議定書」があります が、それと並ぶのがこの「名古屋議定 書」です。 遺伝資源は世界のいろいろなところ にありますが、とりわけ生物多様性の ホットスポットである熱帯林にたくさ んあります。多くの地域が開発途上国 です。一方、遺伝資源を使って、食料 を増産したり、医薬品を開発したり、 あるいは工業製品に用いたりするのは 多くが先進国です。先進国は得た利益 を遺伝資源の宝庫である途上国にきち んと還元しているのだろうか、あるい は途上国の人々が自分たちで遺伝資源 を使えるような能力を形成していくこ
とに先進国は協力しているのだろうか というと、どちらも十分にされていま せん。そこをきちんとしていく仕組み を作るというのが「名古屋議定書」で す。残念ながらまだ批准した国が少な くてこの議定書は発効していません。 日本もまだ批准していません。COP 12が来年、 韓国で開催されますので、 それまでに発効できるようにと期待し ているところです。 COP10のもう一つの大きな成果 は、二〇二〇年までの短期目標と二〇 五〇年までの長期目標を定めた「愛知 目標」の採択です。二〇五〇年までの 目標は日本政府が提案したもので、自 然と共生する社会を実現するというこ とをうたっています。国内で議論して きた自然共生社会が国際的な合意とし て認められたのです。非常に画期的な ことです。二〇二〇年までの短期的な 目標には、かなり多くのことが定めら れ、一つひとつを実現していくことが
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したいということで、自然共生社会を 提案し、公の文書に明記されました。 二一世紀環境立国戦略では、この三 つの社会像についての非常に明確な方 針が示されました。低炭素社会に関し ては「 Cool Earth 」 50が提唱されまし た。二〇五〇年までに世界全体の二酸 化炭素の排出を半減する必要があり、 とりわけ先進国は七割から八割ぐらい の削減が求められるということがいわ れました。ご承知のように、原子力発 電所の事故以来、原子力の比率が低下 するなかで低炭素社会をどのようにし て実現していくのかということについ てはかなり大きな議論がこれから始ま るところですが、二〇五〇年までに半 減するという旗印をいまも下ろしてい ません。 自然共生社会に関しては、環境省の 自然環境局の審議官であった黒田大三 郎さんなどと相談しながら、二一世紀 環境立国戦略に、「SATOYAMAイ
ニシアティブ」を始めるということを 提唱しました。里山といいますと、自 然との共生を図る伝統的な知恵を大切 にしようということになるのですが、 同じような知恵が日本だけでなく世界 各地にもあるでしょう。そのような情 報を世界の人々と共有しながら、過去 に戻るのではなく、新しい知識、新し い技術をより深くしていくことによっ て、現代社会にふさわしい自然共生社 会づくりを考えていく取り組みをスタ ートさせようというのがSATOYA MAイニシアティブです。 SATOYAMAイニシアティブの 提唱と並行して、日本の里山、そして 沿岸域の里海についての科学的な評価 を行う機会がありました(図②) 。国連 大学高等研究所が中心になって、日本 の約二〇〇名の研究者にご協力をいた だいて、それぞれの地域ごとの過去約 五〇年の生物多様性と生態系の現状を つぶさに評価しました。里海で例を挙
げますと、瀬戸内海では一時は大変な 赤潮等の被害があって大きく汚染され ました。その後、最近になって回復状 況にありますが、いまだに瀬戸内海の 水質はもとの状況には回復していない ということがデータで示されています。 世界的にみますと、自然が破壊され ていくのをどう食い止めるのかという ことが大きな課題になっています。逆 に、日本の里山の場合には、人が手を 入れないことによって、たとえば竹林 が広がって里山が荒れてしまうといっ たことが問題になっています。そのよ うな事態をどうやって食い止めて、人 間と自然のバランスのよりよい状態を 取り戻すかということが日本での大き な課題です。生物多様性国家戦略とい う国の戦略のなかでも、そのことを日 本の自然における一つの危機であると して記しています。 里山・里海の評価報告書は朝倉書店 から出版されていますので、ご関心の
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決められました。 それと並んで、SATOYAMAイ ニシアティブに関する国際パートナー シップが発足しました。国連大学高等 研究所が事務局になって、世界各地で いろいろな会議を開催して、共同の取 り組みを進めています。この活動に対 して、 一部の国から批判がありました。 自分の国の生物多様性に依拠した社会 づくりを推進するのは、自由な貿易を 促進するWTOの精神に反するという のです。 食料を大量に海外に輸出して、 それで国を成り立たせる国からの反対 でした。 アジア・アフリカの途上国が、 これからの開発は生物多様性と矛盾し ないかたちで行っていきたいという意 思を強くもっていて、そうした国の支 持を得て、SATOYAMAイニシア ティブを推奨することがCOP10の 決議文のなかに含められました。 COP10が開催された二〇一〇年 は生物多様性年でした。その年の一二
月に、生物多様性年のクロージングイ ベントが石川県の金沢市で行われまし た(図④) 。そのときに、国連食糧農業 機関(FAO)が認定する世界農業遺 産(GIAHS) (図⑤)に「能登の里 山・里海」と「トキと共生する佐渡の 里山」 が登録されると公表されました。 FAOの世界農業遺産に登録されるに は、伝統的な農林水産業が現代社会の なかでも維持され、人々の福利の向上 に役立っているということを説明する 必要があります。英語で文書を作らな ければいけませんので、手間がかかり ましたけれども、皆さんの力で認定さ れるに至りました。 世界農業遺産は、二〇〇二年に「リ オ+10」(持続可能な開発に関する世 界首脳会議)がヨハネスブルクで開催 されたときに提唱されました。持続可 能な開発に貢献する伝統的な農業ある いは林業・水産業といった土地利用シ ステムを認定する仕組みです。中国の
雲南省のハニの棚田といった壮大な棚 田景観が世界農業遺産に認定されてい ます。いわゆる遺産といいますと古い ものを大事にして凍結的に保存してい くイメージがありますが、世界農業遺 産の基本的考え方は、生きたシステム として現代社会のなかできちんと生か して、未来の社会づくりにつなげてい くということです。 二〇一一年五月に北京で国際会議が 開催されて正式に能登と佐渡が認定さ れました。 日本からは次の新しい候補地として、 静岡県の掛川でお茶を栽培するために 草原を維持している茶草場のシステム、 熊本県の阿蘇で草原を維持しながら赤 牛を飼っているシステム、大分県国東 半島・宇佐でクヌギを利用してシイタ ケを栽培して里山を管理しているシス テムの三つがあります。能登で今年の 五月に開催される世界農業遺産のフォ ーラムで認定されるかどうかが決定さ
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図③
図④ 16
れることになっています(五月二九日 から石川県七尾市で開催された「世界 農業遺産(GIAHS)国際会議」で 正式に認定された) 。 COP10にもどりますと、二〇一 一年から二〇二〇年まで、つまり「愛 知目標」の短期目標の達成期間の一〇 年間を「生物多様性の一〇年」にしよ うという提案を、日本のNGOが中心 になってCOP10で行いました。そ の年の一二月の国連総会で採択されて 正式に決まりました。現在は「生物多 様性の一〇年」の途上にあります。そ れを記念して、二〇一一年の一二月に 金沢で「生物多様性の一〇年」のキッ クオフのイベントを開催しました(図 ④) 。その翌年に「リオ+20」 (国連 持続可能な開発会議)が予定されてい ましたので、それに向けての「石川宣 言」を採択しました。グリーン経済と いいますと、何かハイテク的なものを 駆使するようなイメージが強いのです が、グリーン経済の本質は本当の意味 でのグリーン、つまり生物多様性を大 事にした経済社会でなければいけない のではないかということを明確にした のが「石川宣言」です。
レジリエントな自然共生社会 日本では、二〇一一年三月一一日に 東日本大震災が発生し、自然共生社会 のあり方について見直しを迫られまし た。自然共生社会といったときに、人 間にとって都合のいい自然とうまく付 き合うという捉え方があったのではな いかと思います。大震災がわれわれに 教えたのは、自然は恵みであると同時 に、脅威でもあるということです。恵 みと脅威は実は裏腹の要因で、われわ れは恵みでもあり脅威でもある自然と 向き合っているということを改めて認 識する必要があります(図⑥) 。 風光明媚な火山の景観があって、温
泉があって、そして多様性に富んだ国 土が形成されているということは、裏 返すと、火山活動によって大変な自然 災害が発生し、地震災害も非常に多い ということです。自然の都合のいい方 だけを取ってきて、それと付き合おう というのでは、やはりうまくいきませ ん。自然の両方の面と付き合うという ことを、 「生物多様性国家戦略」の見直 しのなかに明確に位置付けていこうと 考えて、「自然の恵みでもあると同時に 脅威でもある、そういう日本の自然に 対して、感謝と畏敬の心で接すること を認識する」という文章を書いて、 「国 家戦略」が昨年の九月に閣議決定され ました。「豊かな自然共生社会の実現に 向けたロードマップ」というサブタイ トルが付けられ、二〇二〇年までの間 にフォローしていくことが明記されて います。私は中央環境審議会の自然環 境部会長としてこの取りまとめにあた りました。その内容を簡潔に紹介する
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図⑤
図⑥ 18
図⑦
図⑧ 21
パンフレットは、通常ですと日本語で 作られてから英語に訳されるところを、 このときには一〇月にインドのハイデ ラバードで生物多様性条約の第一一回 締約国会議(COP11)があって、 そこに間に合わせないと国際社会に公 表する絶好のタイミングを逃すという ことで、日本語よりも英語のパンフレ ットを先に作るという日本の役所とし てはかなり異例の進め方をしました。 そして昨年は「リオ+20」があっ て、先ほど申し上げましたように、自 然共生社会の実現こそがグリーン経済 に貢献するということを私どもは主張 しました(図⑦) 。 この会議に先立って、ブラジルのア マゾンで日系人がアグロフォレストリ ーを実践している現場を見ました。写 真にありますように、森のように見え ますが、すべてが農産物からできてい ます。このような事例を見ますと、自 然共生社会のあり方はブラジルのよう なところでも適用できるのではないか ということを「リオ+20」の場で申 し上げました。 私たちはいまSATOYAMAイニ シアティブのなかで、レジリエンス、 ニューコモンズ、ニュービジネスモデ ルの三つを自然共生社会実現のキーワ ードとして提唱しています。従来は気 候変動への適応として、比較的長いス パンでの適応を考えていました。それ と合わせて、自然災害のような非常に 短期的なショックに対してもレジリエ ントな社会づくり考えて、両方にとっ て望ましい社会づくりをするのが重要 ではないかと思います。また、自然共 生社会を支えるいろいろなステークホ ルダーが共同して資源を管理する仕組 みづくりが求められています。私たち はこれをニューコモンズと呼んでいま す。さらに、自然を壊さないことを基 本にしつつ、付加価値を付けることに よって経済的な利益にもつながる新し
いビジネスモデルも重要です。 その具体的な取り組みの一例が三陸 復興国立公園です(図⑧) 。これまでに 陸中海岸国立公園を南北に広げていこ うという取り組みがありました。それ にとどまらず、震災復興に貢献する国 立公園にしたいという発想が出てまい りまして、私自身の強い希望もあって 国立公園の名称に「復興」という言葉 を入れることを提案させていただきま した。どこかで提案通りにはいかなく なるのではないかと危惧していたので すが、ついにこの名称で決定になりま した。来週の土曜日に八戸で環境大臣 出席のもと開設記念式典が開催される ことになっています(五月二五日に実 施) 。 三陸復興国立公園の創設と並んで、 北は八戸の蕪島、種差海岸から、南は 福島県の松川浦まで南北七〇〇キロに 及ぶ自然歩道が長期的には整備される 予定になっています。 この国立公園は、
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自然共生社会の実現に向けての歩み 「愛知目標」では陸域の一七パーセ ント、海域の一〇パーセントを保護区 にすることが明示されています。日本 でもできるだけ海域の保護区を増やし ていきたいということで、二〇一二年 三月に、霧島屋久国立公園を二つに分 けて、一つを霧島錦江湾国立公園、も う一つを屋久島国立公園として、漁業 者たちと協議しながら錦江湾に保護区 を広げました (図⑨) 。 このようにして、 「愛知目標」を具体的に展開していこ うとしています。 奄美でも国立公園を設置する話が進 められています。奄美には大変貴重な 照葉樹林が残っていますので、それを 中心に国立公園を構成していければい いのではないかと考えています。慶良 間諸島でも、珊瑚礁を中心国立公園に 指定する方向で検討が進んでいます。 将来的には、奄美から琉球に至る全
体の地域を世界自然遺産に登録できれ ばいいと考えているのですが、これに はかなり長い時間がかかると思います。 そういうことの第一歩を今年踏み出す ことになっています。世界自然遺産に するためには国際自然保護連合(IU CN)の理解が得られないといけない のですが、小笠原が世界遺産に登録さ れたときにも大変問題となったのが外 来種への対策です。奄美ではマングー スの駆除が非常に重要な課題になって います。 最後に、生物多様性及び生態系サー ビスに関する政府間科学政策プラット フォーム(IPBES)の取り組みに ついて紹介させていただきます (図⑩) 。 気候変動、地球温暖化に関しては、気 候変動に関する政府間パネル(IPC C)があるのはかなりの方がご存じで はないかと思います。IPCCと対に なるようなかたちで、生物多様性・生 態系サービスに関して同様なものが欲
しいということで、今年の一月にドイ ツのボンでIPBESという組織が立 ち上がりました。IPBESの初代議 長はマレーシア人のザクリさんで、こ の方はもともと国連大学高等研究所の 所長で、いまはマレーシアの首相科学 特別顧問をされています。私どもと非 常に親しい人が議長になったのを大変 うれしく思っております。事務局はド イツのボンに設置されることになって います。私どもとしては、このIPB ESの議論に、科学的なアセスメント といった観点から貢献していきたいと 考えています。来月には、ユネスコと の共催でワークショップを開催する予 定です。 IPCCはどちらかというと最先端 の科学的な知見にもとづいて気候変動 について議論をするという傾向が強い のですが、生物多様性では、非常にロ ーカルな資源が多いものですから、ロ ーカルな資源を生かす伝統的な知識を
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図⑨
ただ単に海岸の景観美をうたうのでは なく、復興に貢献するものでなければ いけません。人と自然の関わりを再構 築するために国立公園をぜひ活用して いただきたいと考えています。具体的 な例を挙げますと、フィールドミュー ジアムを展開して、里山・里海を駆け 巡って自然を体験すると同時に、自然 との付き合いについて学んでいく場に します。地域の人々にとっては、それ が一種の観光資源にもなります。図⑧ にサッパ船アドベンチャーと書いた写 真がありますが、地元の漁師さんたち が、観光にこられた方を船に乗せて、 いろいろな景観を見せたり、漁業のこ とを教えたり、震災の時の体験を伝え たりします。また、この地域ではユネ スコが提唱する世界の地学的な遺産、 ジオパークに関する取り組みも進んで います。震災の経験を伝えていくとい うことも含めて、ジオパークに指定さ れればいいと考えています。
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います。 ――知らないことをいろいろと教えて いただいてありがとうございます。ち ょっと気になりましたことを一つ。生 物の多様性に関しては、人間本位には ならずにということであろうかと思い ますが、マングースを少なくするとい うことはかわいそうな気もしますので、 何かやり方を考えていただけないかと 思ったのですが……。
武内 ここにはマングース対策に実 際に取り組んでおられる渡辺綱男さん がいらしていますので、渡辺さんから お答えいただけるとありがたいです。 渡辺さんは前環境省自然環境局長で、 現在は、 国連大学に勤務するとともに、 自然環境研究センターでマングース駆 除の責任者でもあります。 渡辺 ご質問ありがとうございます。
マングースは、日本のなかでは、奄美 大島と沖縄本島のやんばる地区に人の 手で持ち込まれました。ハブを駆除す るのが目的でした。それが、野外で非 常に数が増え、分布も広がり、在来の いろいろな貴重な野生動物の脅威とな っています。たとえば、奄美大島では アマミノクロウサギやアマミヤマシギ が、やんばるではヤンバルクイナが非 常に大きな影響を受けています。その ような在来の野生動物を回復させるに はマングースの数を減らすことが不可 欠です。 マングースの個体数を減らし、 分布の範囲を狭める対策をこの一〇年 ぐらいずっと進めてきています。 マングースがかわいそうという気持 ちはもちろんわかります。マングース に苦痛ができるだけ及ばないような配 慮をしています。しかし、固有の野生 動物を回復させていくためには、野外 からはマングースは取り除いていくと いうことが不可欠だというのが実情で
す。マングースを取り除かないと日本 の生物多様性を守ることができないの です。
――生物多様性が大切であることは理 解しています。ただ生きている命があ るのですから、その命を活用できるよ うなことがあればと思ったので質問さ せていただきました。
渡辺 ご指摘ありがとうございます。 いまのようなご指摘もいただいて、多 くの人と一緒に問題を解決していくこ とが重要だと思っています。
齊藤(司会) では次の基調講演に移 らせていただきます。 気候変動に対する適応策の展開とい うご講演のタイトルで、茨城大学地球 変動適応科学研究機関機関長の三村先 生からご講演をいただきます。よろし くお願いします。
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図⑩
どのようにして科学的評価に乗せてい くかということが非常に重要です。こ れは口でいうのは簡単ですが、実際に 行うのは非常に難しいです。そのあた りの議論を私どもではリードしていき たいと考えています。
ご紹介させていただきましたように、 自然共生社会の実現に向けて、ここ数 年の間に非常に大きな進展がありまし た。この勢いで進んでいけば、二〇五 〇年に自然共生社会を実現するという 目標が達成されることも可能ではない かと考えているところです。そのよう な期待をもって引き続きこの問題に取 り組んでまいります。
齊藤(司会) 武内先生、非常に包括 的なご講演ありがとうございました。 この後の総合討論で議論はさせてい ただきますが、ここでフロアから短め の質問がありましたら頂戴したいと思
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について世界にどのような懸念がある のかまとめられています。 現在IPCCは第五次報告書の準備 をしています。二〇〇七年に出された 第四次報告書は、気候変動問題に世界 は取り組まなければいけないという世 論形成を大きく後押ししました。五回 目の報告書は二〇一四年に出される予 定です。 日本国内ではあまり報道される機会 は少なくなっているとはいえ、世界的 には気候変動に関していろいろな取り 組みがされているのです。 つい最近の五月九日に、大気中の二 酸化炭素の濃度がついに四〇〇ppm を超えたとアメリカ大気海洋局が発表 しました。図①は横軸が年代で、縦軸 が大気中の二酸化炭素の濃度です。一 九六〇年ごろから測り始めて、最初は 三一〇ppmぐらいでした。年一回の 上下はありながらも全体としてはずっ と上がっています。過去数十万年間の
自然の変動のなかで、大気中の二酸化 炭素の濃度が一番高かったのは二八〇 ppmだったとされています。先ほど の小宮山先生のお話にありましたよう に、産業革命以降、石炭や石油の化石 燃料を燃やすことで、大気中に放出さ れた二酸化炭素がずっと蓄積して、一 九六〇年頃にはすでに三一〇ppmに なっていました。それがさらに五〇年 間で九〇ppm増えて四〇〇ppmを 超えました。これを受けて、ボンにあ る気候変動枠組み条約の事務局長は、 人類は新しい危機に直面する時代に入 ったという声明を出して、取り組みを 強めるよう世界に警鐘を鳴らしました。 IPCCなどでは、 将来の気候変動、 温暖化を予測するために、大気中の二 酸化炭素がどのように増えていくかと いうシナリオを作っています。大気中 に放出される二酸化炭素の量を設定し ないと将来予測ができないからです。 温暖化をあまり進めないような比較的
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書の他に特別報告書が出された訳です。 昨年の一一月には、世界銀行の『熱 を冷ませ な : ぜ四℃の世界を避けなけ ればならないのか?』というかなり分 厚い報告書が出されました。気候変動 図①
■基調講演Ⅱ
気候変動に対する適応策の展開 みむら のぶお
三村信男
最近、気候変動の影響についてまと
気候変動とその影響は どうなっているのか?
摘する人もいます。 今日の内容は、気候変動の影響はど のようになっているのか、それに対し てどのような対策を打てばいいのか、 世界はどのような動きをしているのか、 そして気候変動の適応策とはどのよう なものなのかといったことを、お話を しようと思います。
茨城大学地球変動適応科学研究機関(ICAS)機関長
今日のシンポジウムのタイトルは 「気候変動に適応した自然共生社会の 実現に向けて」となっています、その 前半の部分に関して、気候変動に適応 するということがどうして必要なのか をお話したいと思います。 二〇一一年の東日本大震災、福島第 一原子力発電所事故を受けて、日本で は震災・原発災害にどう対処するのか、 エネルギーをどう確保がするのかとい うことが大きな問題となっていて、気 候変動問題、温暖化問題に対する危機 感が薄れてきているのではないかと指
めた重要な報告が相次いで出されまし た。二〇一二年にIPCC(気候変動 に関する政府間パネル)の『気候変動 への適応推進に向けた極端現象及び 災害のリスク管理に関する特別報告 書』が出されました。中国やいろいろ な途上国、あるいはアメリカやオース トラリアなどで、激しい自然災害に見 舞われています。それらの異常気象、 気象極端現象が温暖化とどのような関 係にあるのか、これからそのような現 象がもっと激しくおこるのかといった ことについて、IPCCの通常の報告
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性があります。 図③は温暖化の将来予測です。今か ら二〇年くらいの間は、二酸化炭素を どんどん出そうが一生懸命削減しよう が、予測される気温の上昇にそれほど の差はありません。しかし、先に行く につれて大きな差が出てきて、二一〇 〇年には一・八℃から四・〇℃までの 幅が生じます。現在の時点で四〇〇p pmを超える濃度ですと、最悪のシナ リオの近くをたどりそうで、少なくと も下の方のコースではないという事態 になっています。 それでは、世界は一直線に気温が上 がってきているのかといいますと、地 球のシステムはすごく複雑で、単純で はありません。文部科学省と気象庁と 環境省が一緒になって温暖化の統合レ ポートを発表しています。一〇〇ペー ジ弱の非常によくまとまったレポート で、ホームページにも載っていますか らぜひ見ていただきたいと思います。
図④はその中にある図で、 、 観測されて いる気温の上昇と、予測される気温の 上昇がどのような関係にあるかを整理 したグラフです。黒い線が観測された 値です。赤い線と緑の線がたくさんあ るのは、二十いくつある気候モデルに よる予測値です。この図を見ますと、 気候モデルは過去の経過を非常によく 表現しています。ところが、二〇〇〇 年に入ったころからは、予測値に比べ て実際の観測値はそれほど上昇が激し くなくて、むしろ同じところにとどま っているように見えます。 モデルと少し離れてきていることに ついては学界でもいろいろな議論があ ります。過去の記録をもう一度見ます と、一九六〇年から七〇年の間は観測 値にあまり大きな変化がなく、その後 になって跳ね上がっています。現在の 上昇が止まっているような状態のまま で落ち着いてくれたり、下がってくれ たりすれば、気候変動の問題はなくて
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れらの将来シナリオのなかでどのよう な位置にあるのかといいますと、二〇 一三年の時点では三つのカーブにまだ それほどの差はないのですが、赤い線 の少し下ぐらいです。このままでいく
と、赤い線と黒い線の間をたどる可能
図④
持続可能なかたちで二酸化炭素を排出 したときには図②の青い線のようにな り、あまり気にしないで化石燃料をど んどん使うと赤いカーブのようになり、 その中間くらいだと黒いカーブのよう
になると想定しています。青いカーブ ですと二酸化炭素の濃度は四六〇~四 七〇ppmにとどまって、二一〇〇年 の地球の平均気温は現在よりも二度程 度の上昇になると予測されています。
図②
黒い線ですと七〇〇ppm前後まで上 昇し、気温上昇は四度くらいです。赤 い線ですと一〇〇〇ppmを超えて気 温上昇は六度ぐらいになります。 現在の四〇〇ppmという値が、そ
図③
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図⑤
が出ているのです。今後数十年でさら に少なくとも一・三℃は上がるので、 相当な影響が出るのは避けられません。 緩和策を取っても避けられない悪影響 に備えるのが適応策です。避けること
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な影響) のできない影響( unavoidable に対する備えです。 ここでは適応策についてお話します。 図⑦をみてください。災害を起こす外 力と、防災力の関係について考えてみ ます。昔は気候は安定していましたか
図⑥
すむのかもしれませんが、いろいろな 気象の原理に基づいた計算によれば、 気温は上昇します。二酸化炭素濃度が 四〇〇ppmを超えたのは、小宮山先 生のいう歴史の流れの大きなターニン グポイントとは少し異なるのかもしれ ませんが、われわれにとっての一つの ターニングポイントであるのだと思い ます。 世界の平均海面も上昇が続いていま す。温暖化によって地球に熱がたまり ますが、熱は大気にも、海にもたまり ます。海の方が大気よりも一〇〇〇倍 くらい熱をためる能力が大きく、温暖 化の結果として地球が吸収した熱の九 〇パーセントが海洋にたまります。そ のことによって、 海水が熱膨張したり、 あるいはグリーンランドの氷が溶ける などして、海面上昇が生じます。 アメリカやオーストラリアの穀倉地 帯では干ばつの被害が生じています。 一カ月ほど前にオーストラリアの人と IPCCの関係で電話で相談したとき に、オーストラリアはここのところ連 日暑く乾いた夏というニュースで持ち きりだという話をしていました。アメ リカも似たような状況で、高温・干ば つの傾向が出ています。気象災害の数 はアジアを中心に増えています。日本 では、これまで経験したことがなかっ たような集中豪雨による災害が毎年の ように生じています。これらのすべて が温暖化のせいだとはいえないのです が、先ほどの統合レポートから結果を 拾うと、異常気象や農業への影響、人 間の健康への影響、生態系への影響な ど非常に幅広い範囲で、日本国内で影 響が出てきているのがわかります(図 ⑤) 。
どのような対策を打てばいいのか? では、どのような対策を打てばいい のでしょうか。二つの方向があります
(図⑥) 。一つは緩和策です。皆さんよ くご存じの通り、二酸化炭素などの温 室効果ガスの排出を削減することです。 規制を掛けないで無制限に出し続ける と、とんでもなく気温が上昇してしま います。もしも世界平均で四度とか六 度とか上がるようになれば、北極では 一〇度以上も上がります。そうなって は、とてもではありませんが地球環境 がもちません。人間が対応できない危
な危険)を回避す 険( unmanageable るために、緩和策は絶対にやらなけれ ばいけない対策です。 それですべての問題が解決するかと いうと、残念ながらそうではありませ ん。非常に厳しい排出削減をしても、 今後の温暖化の進行を完全には防ぐこ とはできません。先ほどの最も気温上 昇の少ないシナリオでも行き着く先は 二度の上昇です。現在のところは一〇 〇年前に比べて〇・七℃くらいの気温 の上昇です。それでもこれだけの影響
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は、二〇〇九年にホワイトハウスに適 応のチームができました。日本でもい ろいろと研究していますが、一、二年 の内に、政府が適応計画を策定して、 自治体などでも取り組みを始めるとい う状態にあります。 途上国は先進国の支援を受けていろ いろな取り組みをしてきました。一国
の防災力にしても、人間の健康を守る 対策にしても、レベルを一気に上げる のはすごく大変で、いろいろな取り組 みがある割には進んでいません。国レ ベルの取り組みでは追い付けないとこ ろがあって、コミュニティのレベルで 始めているところもあります。私は 以前に南太平洋の島のコミュニティの
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問題を研究しましたが、海岸沿いのコ ミュニティが浸水や波にやられてしま うので、自分たちでマングローブを植 え始めたり、村全体が海から離れたと ころにじわりと移ったり(セットバッ ク) 、あるいは高台に移転したり(セッ トアップ)するコミュニティの例があ りました(図⑧) 。
図⑧
ら、強い台風がきたり大雨が降ったり と、災害を起こす力がある範囲の中で 変動していました。その一方で、人間 社会の防災力が低かったために、災害
でたくさんの人が亡くなるような被害 が出ました。人間がいろいろな努力を して、インフラを作り、早期警戒態勢 を作り、避難のための訓練もして、防 災力がアップしました。その結果、防 災力が災害外力を上回るようになって、 安心できる状態になりつつあると思わ れた時期がありました。一九八〇年か ら二〇〇〇年の間で、日本で自然災害 のために亡くなる人は実際に減りまし た。 ところが二〇〇〇年を過ぎてからは また被害が増え始めました。これから 将来にどのようなことがおこるのかを 考えると、温暖化の結果、災害外力は 大きくなるでしょうし、もしかしたら その変動の幅も大きくなるかもしれま せん。それと同時に、財政難や人口の 減少、インフラの老朽化などで防災力 が落ちてしまうのかもしれません。そ うすると、災害の外力と防災力の間の ギャップが広がってしまいます。災害
図⑦
の外力が大きく上がったのでは社会が とても耐えられませんから、上がらな いようにしようというのが緩和策です。 そして、社会の方の対応力を上げよう とするのが適応策です。その両方の組 み合わせがなければ、将来の温暖化に 対する対応はできないというのが温暖 化対策の基本的な考え方です。 もともと防災力が弱い途上国では適 応策がすごく重要だといわれていまし た。それでここ一〇年以上も途上国の 適応策が検討されてきたのですが、適 応策の体制ができたのは先進国の方で した。EUは去年の時点で一二カ国が すでに対応戦略を策定しています。イ
ギリスは二〇〇八年に Climate という法律を作って、そ Change Act の中に緩和策と適応策と両方を入れま した。適応策について五年を期に国が 責任をもって影響を予測して、今の適 応のレベルでいいかどうかの評価を繰 り返すと書いてあります。アメリカで
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図⑪
ですが、それを意図的に計画の中に組 み込むことが重要で、そのようなこと のできる能力を社会のなかに作ってい くのがレジリエンスを高めるというこ とだと思います。 そのようなことを政策のなかに組み 込んでいくのが適応策の主流化です。 政府や政策担当者は、それを意図的に 進めていただきたいと思います。さき ほども言ったように、温暖化が長期的 な環境変化をもたらす一方で、社会の 側の脆弱性も変化します。そこに生じ るギャップを埋めることが社会の適応 する力を強化してレジリエンスを強め るということです。これが適応策の眼 目だと思います。 埼玉県、長野県、三重県、熊本県な どのいくつかの自治体で、気候変動問 題の緩和策と適応策を組み合わせた対 策の検討を始めています(図⑩) 。これ までのいろいろな分野の政策のなかに、 気候変動によってさらにリスクが増す
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適応策の考え方は 温暖化の対策を考えるときに前提に あるのは、気候変動はすでに起こりつ つあるということです(図⑨) 。ある程
図⑨ 度の影響がいろいろなところでおきて いるとはっきり認識することが必要で す。影響は、自然のシステムや生態系・ 生物多様性、それに依存している農 業・漁業に最初に幅広く現れます。つ
図⑩
まり、気候変動は人類の生存基盤に影 響するのです。 その一方で、われわれの対策次第で 気候変動がどのあたりで落ち着くのか 変わってきますから、不確実性があり ます。将来のおおよそのところはわか っても、確実にはよくわからずに意思 決定・政策決定をしなければいけませ ん。そのために、科学的な知見が進む のに合わせて繰り返し評価をして、影 響がはっきりしてきたらそれに合わせ て対応を取るということをしていく必 要があります。それが順応的アプロー チというものです。 順応的適応策というものを最初に提 案したのは国際会議の場でした。順応
的適応策を英語でいうと「 Adaptive 」で、そのときに会場の人 Adaptation はみんな笑ったのです。「笑ったという ことはわかったということですよね」
と聞きました。適応( adaptation )自 体が環境の変化に合わせるということ
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からご質問がありましたらどうぞ。 ――質問というよりは感想です。貴重 なご講演ありがとうございます。私が 非常に感銘を受けましたのはレジリエ ンスです。今までは二酸化炭素が増え ると、それに伴って気候変動がおこる から、二酸化炭素をどうやって削減す るかということばかりがいわれていま した。今日は、気候変動は起こるのだ から、それに対する耐性といいますか 抵抗力を付けるというお話でした。そ れは、BCM、 Business Continuity の考え方に通じると思 Management います。BCMは経営にとって非常に 重要で、起こるかもしれないリスクの 発生によって生じる事業の中断に対し ても、事業の継続を確保しようとする ことです。二酸化炭素は削減するけれ ど、徐々に増えていくために気候変動 が生じるので、それから企業活動をど のように守っていくのか経営者にとっ
ても重要な課題です。非常にいいアド バイスになるご講演だと思いました。 ありがとうございます。
三村 どうもありがとうございます。 いまのご感想に関連して少し追加で 言わせていただきますと、 九州では 「亜 熱帯化最前線九州」と言い方を研究者 はしています。奄美大島でも九州でも いままでに経験したことがないような 雨の降り方になっています。地方自治 体は財政難で防災だけにそんなにお金 を使えないので、どのようにしたら人 命を守れるのか、経済的な被害から守 れるのかということを一生懸命に考え ています。レジリエンスの中身がそう いうところにあります。 長野県ではリンゴを作れるところが 長野県ではリンゴを作れるところが半 減するという予測があります。逆に暖 かくなるとブドウができるようになり ます。それでブドウを植え始めている
人がいて、将来はワインを作ろうとし ています。この間、ヨーロッパのワイ ンの醸造組合の人がきて、ボルドーと かドイツのワイン産地は気温が高くな りすぎるので、将来は長野ワインが世 界一になるのではないかと、かなりの リップサービスもあったと思いますが、 そんな話をしていたそうです。 このように適応には、変わる環境を いかにして利用するかという面もあり ます。私はビジネスの経験は全然ない ですが、おそらく環境の変化にどのよ うに柔軟に対応するかという視点を広 く持つことが重要なのではないかと思 います。
齊藤(司会) それではここでいった ん休憩に入らせていただきまして、そ の後でパネル討論をスタートします。
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図⑫
かもしれないという視点を入れている 段階です。これからは高齢社会になっ て災害弱者と呼ばれる人たちが増える でしょうし、里山がそれこそ手つかず になって荒れて土砂崩れがおきやすく なることもあるでしょう。脆弱性が増 していく要素をカバーするにはどうし たらいいのか検討していく必要があり ます。課題がたくさんあって、それぞ れの分野で苦労をされているところで す。 そのように非常に幅広い問題につい て、大学や研究所もさまざまな努力を しています。図⑪は政府がお金を出し ている研究プロジェクトを並べたもの です。日本でも研究のレベルではたく さんのプロジェクトがあります。課題 は、そのような研究から出てきた知見 を一つにして、気候変動を抑えるよう な低炭素社会を作り、それでも避けら れない影響に適応していく自然共生社 会を作っていくための実践的な情報に
まとめていくところにあると思ってい ます。 日本の社会は大震災・原発事故を受 けて、そこからの復興、そして、より 持続可能で安全な社会をどう作るかと いうことが課題になっています (図⑫) 。 いつ起こるか分からない長期的なリス クに備えて、新しいレジリエントな社 会を構築していくということです。 世界地図でみてアジア・太平洋地域 はかなりリスクの高い地域です。海面 上昇や台風の高潮の影響を受ける人口 は、アジアだけで数億人に及ぶ可能性 があります。アジアにおける気候変動 の問題は、環境問題というよりは社会 の安全保障の問題でもあります。その ような観点から、どのようにしてアジ アの人たちと協力して解決していくの かということも課題です。
齊藤(司会) 三村先生、どうもあり がとうございました。それではフロア
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も交えて議論をさせていただきたいと 思っています。 では、お一人一〇分間程度で、この テーマに関連したご発言を頂戴したい と思います。最初に亀山さんからお願 いします。
最近の国際交渉の現状を踏まえて
気候変動適応策に関する 国際的取り組み
亀山 私の専門は気候変動に関する 国際交渉です。気候変動の国際交渉の 現状をご紹介して、今日のシンポジウ ムのテーマに関連したことを最後に申 し上げたいと考えています。 図①は先ほど三村先生から紹介があ ったものと意味するところはほとんど 一緒です。気候変動の影響を二℃の気 温上昇という最小限のところに抑えよ うとしますと、世界の排出量は、この 最も下側の緑色のパスを取らなければ
なりません。しかし、いま各国が提示 している二〇二〇年目標を足し合わせ ますと、すでに二℃を目指すのは不可 能で、よくても三℃から四℃です。こ のまま放っておくと七℃以上にもなっ てしまいます。二℃という目標と、実 際の排出量との間を「排出ギャップ」 と呼んでいて、そのギャップをどのよ うにして埋めるかという話を国際交渉 ではしています。 気候変動について、気候変動枠組み 条約が一九九二年に採択され、そのも とで京都議定書が一九九七年に採択さ れました(図②) 。京都議定書では、二 〇〇八年から二〇一二年までの五年間 の先進国の排出量に関する削減目標が 設定されました。 いまの国際交渉では、 その後の国際的な取り組みをどのよう にすべきかが話し合われています。二 〇一一年に南アフリカのダーバンで開 催されたCOP17でダーバンプラッ トフォームという合意がなされました。
図①
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■パネルディスカッション
モデレーター
[
]
三村信男 (みむら のぶお)
[
] やすこ)
茨城大学地球変動適応科学研究機関長 パネリスト
亀山康子 (かめやま 独立行政法人国立環境研究所社会環境シ みつる)
ステム研究センター室長
大崎 満 (おおさき おさむ)
北海道大学大学院農学研究院教授
齊藤 修 (さいとう
けんじ)
国連大学サステイナビリティと平和研究所 学術研究官
蓮輪賢治 (はすわ
りゅうご)
株式会社大林組常務執行役員技術本部副 本部長
渡辺竜五 (わたなべ
佐渡市農林水産課課長
三村 それではパネル討論を始めた いと思います。当初、このパネル討論 は武内先生がモデレーターをされる予 定だったのですが、急遽外出しなけれ ばいけない用事があって、私がモデレ ーターを務めさせていただきます。 今日は初めに、小宮山先生から歴史 の流れのなかでわれわれの将来を考え るという大きな話がありました。続い て、武内先生からは自然共生社会とい う概念がどのように生まれ、国際的な 取り組みや国内のいろいろな制度づく りがなされて、いまどのように展開し ているかというお話がありました。そ れから私からは、気候変動への適応と はどういうものなのかということをお 話させていただきました。 本日のテーマは「気候変動に適応し た自然共生社会の実現に向けて」 です。 今日は五名のパネリストの方にきてい ただいています。まず、それぞれの方 のご意見を伺った上で、会場の皆さま
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図④
「すべての締約国に適用される条約の 下での議定書、別の法的文書、または 法的拘束力を有する合意された成果を 目指して交渉して、二〇一五年の合意 を目指す」 ということが決まりました。 ここでのキーワードは、すべての締約 国に適用されるということです。京都 議定書はアメリカは批准していません し、途上国は目標設定しなくていいこ とになっていました。これからどのよ うして全員が参加できる法的文書をつ くるのかというのが一番の議論になっ ています。 ダーバンプラットフォームが合意さ れた一年後の昨年の一二月にCOP1 8がドーハで開催され、ドーハ・ゲー トウェーといういくつかの合意文書を まとめたパッケージが合意されました (図③) 。 大きく五つのパッケージがあ ります。意外と報道されなかった一つ の重要な決定事項が一番下の(オ)で す。気候変動による損失と被害(ロス
&ダメージ) に関するCOP決定です。 これはどういう意味かといいますと、 三村先生のお話にありましたように、 一方では排出量を減らしていかなけれ ばならない、その一方で、適応策を通 じてレジリエンスを高めていかなけれ ばならない。しかし、いくらレジリエ ンスを高めてもやはり回避できないな い損失が気候変動によって生じる可能 性があって、その部分に注目が集まり つつあります。 これを国際交渉の流れで簡単にご説 明しますと、気候変動交渉の初期段階 の京都議定書が採択されるまでは、主 に緩和策、つまり二酸化炭素の削減と いうところに交渉が集中していました (図④) 。 その時点で適応策の話をしよ うものなら、緩和策はしてもしょうが ないと思っているのかと受け止められ かねなかったです。とにかく温暖化し ないように予防しようというスタイル で交渉していたのが初期の段階でした。
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図②
図③ 40
あるいは保証しなさいということがい われています。途上国対先進国という 対立の構図になっています。先進国は この交渉に非常に消極的で、できるだ け話したくないという態度を取ってい ます。お金の話だけになると、おそら く交渉は進展しないでしょう。より包 括的に考えて、ロスダメを最小化する ための緩和行動、適応行動との関連性 について認識を共有していく必要があ るのではないかと思います。ロスダメ が、単に先進国から途上国への賠償金 のようなお金の移転の話だけではなく、 生物多様性条約なども巻き込んだ気候 変動以外の価値の重要性を認識しなが ら議論を進めていく必要があると私は 考えていて、そのような観点から研究 を行っているところです。
三村 ありがとうございました。次に 大崎先生から一〇分間のプレゼンテー ションをお願いします。
北海道下川町における 自然共生モデルおよび サトヤマモデル展開の可能性 大崎 今日の大きなテーマとして、気 候変動の適応策・緩和策が出ています が、適応策と緩和策を分けて考えるの が非常に難しいといつも感じています。 いま考えている自然共生モデル、後か ら出てきますサトヤマモデルは、緩和 策と適応策が両輪だとすると、その上 に載っている車の話だと考えていただ いていいかもしれません。全体のテー マからは少し外れるかもしれませんが、 下川町をモデルにして、自然共生の新 しいモデルをどのようにして展開しよ うとしているのかということをご紹介 させていただきます。 自然共生とはどういうことなのか農 業や林業から考えてみます。典型的に アジアの稲作は、背後にある森林など の自然の条件をうまく利用し、複合的
な農業を行って、統合的な生産システ ムを組んでいます(図①) 。これが自然 共生的な伝統的な生産システムの一つ です。もう一つ安定して収量を上げて いるのがヨーロッパの三圃式農業です。 図②はドイツの例で、牧草を植え、小
図①
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図⑤
京都議定書が採択された後は、どう やら私たちが当初想定していたように は世界の排出量は減っていかないので、 そうなるとある程度の温暖化は避けら れず、それによって生じる悪影響に対 して適応策を真剣にやっていかなけれ ばならないという考え方が出てきまし た。それが二〇〇〇年前後からではな かったでしょうか。最初は脆弱性の高 い途上国から出てきたわけですが、最 近は先進国でも真剣に適応策について 策を講じなければならない時代になり ました。 さらに近年になって二年ほど前から、 適応しきれない部分、避けられないこ とが実際におきてきたときに、それに ついてどうやって補填していくのかと いう議論が出てきました。今後の気候 変動問題への対処は、緩和策と適応策 の二本柱に加えて三つ目の柱として、 損失と被害(ロス&ダメージ) 、省略し てロスダメが大きくなってくるのでは
ないかと思います。 緩和策の推進は、結果的に、適応策 およびロスダメの負担を下げることに なります。私が考えるに、適応策、つ まりレジリエンスを高めるというのは、 人間社会ではある程度想像が付きます が、適応できないのはむしろ動植物で はないでしょうか。暖かい新たな気候 に適応できない動物や植物がどんどん 絶滅します。生物多様性ではこのこと が非常に重視されます。 このように考えますと、低炭素社会 は、生物多様性あるいは自然共生の観 点からみても、同じような社会を目指 していると考えることができるのでは ないかと思います。 いま、国際交渉で緩和策、適応策、 ロスダメの三つそれぞれについて議論 が始まっています。ロスダメについて 申し上げますと、たとえば途上国の島 国から、気候変動によって生じる被害 に対して先進国はお金を出しなさい、
42
図④
図⑤
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麦を植え、馬鈴薯やカブを植え、家畜 を飼ってその糞尿を肥料にして土に戻 すということをしています。こういう システムができてヨーロッパの生産力 は飛躍的に高まりました。三圃式農業 は確かに持続的ですが、自然共生型の 農業かというと少し違う気がします。
図② 自然共生型ということを強調すると、 アジア型の農業あるいは農林業を見直 すというスタンスで考えることになる と思います。 ドイツあたりでは、エネルギーファ ーミングというかたちで、風車やバイ オガスなどのシステムを組み込んで低
図③
炭素社会を実現していくことを提案し ています(図③) 。それも自然共生かと いうとやはり疑問を感じます。 自然共生を具体的に検討するには、 日本に伝統的にある里山を見直そうと いうことから、まず漢字で書くところ の「里山」を考えます(図④) 。里山と いう言葉はもとは農用林ということで、 狭い意味で使われていました。 それよりも、広く低炭素・循環型と いうことをひっくるめた新しいモデル として、われわれは、カタカナで書く ところの「サトヤマ」と提案していま す。武内先生の紹介でありましたよう に、国連大学などを中心にして、英語
で Socio-Ecological Production Land というようなか -scape and Seascapes たちでの新しいSATOYAMAを提 唱していますが、それらも入れてわれ われはサトヤマシステムを考えていま す。アジアでとく発展してきたサトヤ マモデルをもう一度評価するのは、日
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本の研究者、あるいはアジアの研究者 の課題だと思います。 自然と人間の付き合い方について、 国連ミレニアム生態系評価に関する報 告では、四つのシナリオが示されてい ます。グローバル化と地域化、事後対 応と予防的対応という二つの軸で区切 られた四現象で分類されています(図 ⑤) 。 サトヤマはたぶん右下の部分にく ると思います。 さて、下川町で自然共生系を実際に 研究しようと、サステイナビリティ学 連携研究機構(IR3S)や本会SS Cの協力を得て、環境省の総合推進費 をいただいて北海道大学と下川町とが 連携を組んできました。下川町が森林 総合特区に認定されたり、環境未来都 市に認定されたり、環境モデル都市に 認定されるなどして、非常に野心的な 取り組みをここ五~六年進めてきまし た(図⑥) 。 下川町は人口が三六〇〇人ぐらいで、
森林面積が大体の八八パーセントで、 林業が非常に大きなウェイトを占めて います。森林をうまく使って産業を成 り立たせることで、地域社会が成り立 つかということが鍵になっています (図⑦) 。 資源として森林がたくさんあ っても、ただ切って売ってしまえばな くなります。循環型で持続的に利用す ることを考えます。なおかつ、ただ材 を売るのではなくて、加工して新しい 付加価値を付けます。また、いままで はあまり見向きをされなかった林地残 材とか端材を熱エネルギーにして、エ ネルギーの自給化を図ることも考えま す。そのようなことを統合的に行いな がら、少子高齢化という地域の課題に も対応しようとしています。似たよう な他の地域でも、下川町の取り組みが 展開していけるのかも、今後の課題と してあります。 具体的に、植林をして育てて伐採す るというサイクルを六〇年で行ってい
くと、三〇〇〇ヘクタールの森林があ ると循環型になります(図⑧) 。このよ うな持続的な林業体系を三〇年近く掛 けて作ります。材はいろいろな用途に 使って、捨てるものがないゼロエミッ ションを目指します。木を切り出して 売るだけではなくて、 すべてを使って、 エネルギーの自給にも取り組みます。 林地残材はウッドチップにして、ボイ ラーで燃やして電気を発生させます。 今までは電気は購入していたのが、自 分たちで供給できるようになります。 いろいろ試算をしますと、あと五年ぐ らいでこのシステムを全面的に導入す ると、エネルギーの完全自給が可能だ ということが理論上は分かっています (図⑨) 。 国の補助を得ながら、新しいエネル ギー自給型の自立したコミュニティを 作ろうとする構想があります(図⑩) 。 実際にここに高齢者が住んで、若者が 入ってきて、うまく運用できるかどう
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図⑥
図⑦ 46
かはこれからの大きな課題で、果敢に チャレンジしていくということです。 サトヤマのことをわれわれはいろい ろ考えていて、コベネフィット型サト
ヤマモデルを提唱しています(図⑪) 。 「サト」を広く人間系、 「ヤマ」を広く
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定義します。ヤマではこれまでは一次 産業が主体でしたが、経済としていま ではなかなか成り立たないので、サト の側で一次産業を高次化する、いまよ
図⑪
自然系ととらえ、地域における人間 自然共生システムをサトヤマモデルと 図⑩
図⑧
図⑨ 48
の泥炭地に供給されます。ここの森林 が切られてしまうと、雨が降ったらす ぐに表層をサーッと流れて低地は洪水 になりますし、乾期になると水がこな くて低地は乾燥しています。水のバラ ンスが非常に大事なのですが、人間活 動がどんどん活発になって、森林が破 壊されるとこの系全体が狂ってしまっ て、膨大な量の炭素がここから出てい ってしまう危険性があります。レジリ エンスでいうと、いまはまだ高い状態 にありますが、閾値を超えると崩壊し てとんでもないことになってしまいか ねません。ここでもサトヤマモデルを 導入して、将来的にも高いレジリエン スを維持できないか研究をしていると ころです。
三村 ありがとうございます。それで は、続きまして、齊藤さんからお願い します。
森林バイオマス利用を通じた 自然共生社会と低炭素型社会の推進 齊藤 私からは、大崎先生がおっしゃ ったことと関係している内容を紹介さ せていただきます。 森林バイオマスを利用することは、 カーボンニュートラルという観点から 低炭素型の社会をつくることに貢献し ます。そして山を手入れしますから、 生物の多様性を保ち、自然との共生が 図ることにもつながります。森林バイ オマス利用は、さまざまなことにつな がっていくハブになる可能性がありま すので、そのような考えのもとに研究 を進めています。 「日本の里山・里海評価」 (JSSA) について、武内先生からすでにご紹介 がありましたが、私は日本の里山を評 価するということをここ何年かやって きました(図①) 。この評価は、科学的 な文献に基づいてこれまでにどのよう
な研究がなされ、どういうことがわか っているかを評価するものですが、新 たにシナリオづくりもしました (図②) 。 研究者が一〇〇名近く集まるワークシ ョップを複数回催して、ああでもない こうでもないという議論を重ねました。 大崎先生がご紹介された国連ミレニア ム生態系評価のシナリオも踏まえて議 論し、結局はそれとやや似たかたちで 落ち着きました。一つの軸が、グロー バル化が進むのか、ローカル化が進む のか、もう一つの軸が、それを技術に よって推し進めるのか、それとも地域 に根ざした自然志向で対応していくの かということで、これらの二つの軸に よって四つのシナリオができます。 たとえば、左上のグローバルテクノ トピアは、 グローバル化を前提として、 技術によって生態系サービスを維持し ていく社会です。生態系サービスとい うのは、ちょっとなじみのない言葉だ と思いますが、生態系から得ているさ
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図⑫
くいわれている六次産業化することを 考えています。伝統的なシステムをあ る程度維持しながらも、サトとヤマを つなぐために、自然再生エネルギーの 自給や新しい物質循環を組み込んだモ デルを作ろうとしています。ヤマの自 然を守ることで気候温暖化に対する適 応であるとかレジリエンスであるとか も強化されるならば、そのあたりの評 価も含めて、新しい総合的な自然‐人 間共生系が考えていけると思っていま す。 われわれはインドネシアのカリマン で、低湿地の泥炭の研究をしています (図⑫) 。 低湿地に水がたくさんあって 炭素がたくさんたまっています。水は 山の方からくるのですが、非常に高い 背骨のような山脈があって生物多様性 の宝庫で、ハート オブ ボルネオと呼 ばれています。山脈で発生した雲が雨 を降らせ、その水が森林や土壌に蓄え られ、ゆっくりと川から流れて、低湿
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・
・
図③
まざまな恵みのことです。右下の里 山・里海ルネッサンスは、ローカル化 を進めて、適応・自然志向でいく社会 です。ここでルネッサンスと名付けた のは、単に伝統的な里山を維持すると いうのではなく、先ほど大崎先生が下 川町の事例で紹介されたような新しい 取り組みも合わせて、里山を創造・維 持・保全していく社会を想定している からです。 このような四つの社会像を、定性的 なストーリーで記述するだけでなく、 定量的な評価と結び付けられないかと いろいろな試行錯誤をしています。そ れについて森林資源に特化してやった のがここでご紹介する研究です。 生態系サービスには、 供給サービス、 調整サービス、文化サービス、基盤サ ービスという四つのカテゴリーがあり ます。そのうちの三つにしぼって、森 林バイオマス利用に関して記述したの が図③です。森林バイオマスは当然木
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図①
図② 52
図⑤
とともに、各シナリオ下での人口や土 地利用の定量化にあたって、蓋然性の 高い前提条件を設定して、供給サービ ス、共生サービス、文化サービスがど のように変化するかをシミュレートし た結果が図⑤です。 何がわかったかといいますと、たと えば、国産材をかなり積極的に利用す るシナリオを組み込みますと、場合に よっては、森林の蓄積量が減っていき ます。あまり一生懸命に利用しすぎる と二〇二〇年ぐらいから減っていく可 能性があるのです。森林が炭素を吸収 する速度は、年を経るごとに落ちてい きます。それは、いまの森林の林齢構 成が年を取った木が多いためで、林齢 構成を変えないといけません。 こうした結果を踏まえて、森林の蓄 積量を減らさずに利用するにはどうし たらいいのかといいますと、森林の年 間成長量の分だけ利用するということ になるのですが、実際の地域に対して
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図④
材を供給しますから、供給サービスと して木材生産があげられています。森 林は気候の調整や洪水の緩和などを果 たしますから、そのことが調整サービ スとしてあげられています。文化サー ビスとしては、どれくらい人を引き付 けて、 教育的な価値をもっているのか、 社会的な関係の価値をもっているのか といったことが位置付けられます。 将来シナリオは二〇五〇年までの変 化を可視化するのが目標です。その分 析のプロセスとしては、人口、土地利 用、森林の林齢構成の三つのサブモデ ルを作って、それぞれその影響下で 個々のサービスがどう変化するかをシ ミュレートします(図④) 。林齢構成と いうのは、森林には古い木もあれば若 い木もあり、人でいうと人口ピラミッ ドに当たるものです。 四つの将来シナリオそれぞれに、ど のような政策が組み込まれるのか、複 数の研究者の議論に基づいて整理する
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図⑦
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図⑧
図⑥
検討してみようということで、下川町 を対象にしました(図⑥) 。 バイオマスとして利用できる理論上 の可能量は、森林の成長量から、木材 として利用する分を差し引いた残りで す。下川町の民有林を対象に、一年で どれだけの成長量(蓄積量の変化)が あるのか計算しますと、三万トン弱と いう数値が出てきます(図⑦) 。実際に 下川町で使われている木材の量は一万 六〇〇〇トンぐらいです。 したがって、 どれだけエネルギーとしてバイオマス を使えるかというと、最大で一万六〇 〇〇トン余りです。それを、細かくチ ップに砕き、さらに小さい粒にして取 り扱いしやすいようにしたペレットに して利用します。利用可能量をすべて 使うと、下川町のエネルギー自給率は 一〇〇%を超えます(図⑧) 。もしも、 山の傾斜が二〇度未満の比較的集めや すいところからバイオマスを集めると すると、まかなえるのは下川町のエネ
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図①
建設廃棄物のリサイクル、あるいは削 減をそれぞれのサイトで果たすべく努 めてきました。地球環境の課題を解決 し、 持続可能な社会を実現することは、 弊社としても、企業使命であると考え ています。 その使命を実現するために、個々の 活動をバラバラに進めていくのではな く、統合的に推進していこうと考えて います。武内先生からご紹介がありま したように、 低炭素社会、 循環型社会、 自然共生社会を三本柱にした「二〇五 〇年のあるべき社会像」の実現に向け
て、弊社では『 Obayashi Green Vision 』を定めました(図①) 。それに 2050 向けて具体的にどのようなアクション が取れるのかを考え、実行し、年度ご とにどれだけ達成できたかを評価して、 企業活動を進めています。 具体的には、低炭素社会、循環型社 会、自然共生社会の三つのあるべき社 会像と、弊社の三つの事業分野との重
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ルギーの八〇パーセントぐらいです。 なお、 ここで自給といっていますのは、 あくまでも熱エネルギーの分で、重 油・灯油・LPGによる熱エネルギー 供給を森林バイオマスでまかなえる可 能性があるということです。電気も含 めると、森林生長量だけで一〇〇パー セントまかなうのは無理です。
三村 ありがとうございました。 ただいまの齊藤さんの発表に対して、 簡単なご質問を一~二受けたいと思い ますが、いかがでしょうか。 ――貴重なご講演をありがとうござい ました。三つほどあります。四つのシ ナリオで、外国人労働力の受け入れと いう記載がありました。外国からの介 護士、看護師の受け入れに対して、い ろいろなバリアを作って、入って来に くくしているという現実があります。 これから若者の労働力が減っていくと
大林組の取組
んでいくことに関して、生態系サービ スがどのような影響を受けるのか、別 途きちんとした研究をすべきだと思い ます。地熱発電に関しては、国立公園 内でも可能になるよう、規制緩和が行 われつつあります。
きに、林業を誰が担っていくのかとい うことは大きな課題ではないかと思い ます。 森林の保全には水源地を守るという 意味もあります。民間の森林が海外の 投資家に売られている現実があります。 そのような問題は今後はどのようにな っていくのでしょうか。 地熱発電は二酸化炭素の削減に大い に寄与します。しかし、国立公園では 地熱発電に対して制約があります。少 子化、森林の利用、エネルギーのあり 方について、画期的な政策を打ち出す べきではないかと思うのですが、いか がでしょうか。
蓮輪 気候変動に適応した持続可能 な社会の実現に向けて、弊社の取り組 みについて簡単にご紹介します。 弊社は建設事業を生業としています が、その事業は地球業環境にさまざま な影響を及ぼしています。以前から、
気候変動に適応した 持続可能な社会の実現に向けて
三村 大きな問題については、後の総 合討論で触れることもあると思います。 それでは次に蓮輪さんから発表をお 願いいたします。
齊藤 どれも大きなテーマで私が答 えられるとは思えないのですが、シナ リオでは極端なケースも含めるような かたちで、外国人労働力の受け入れを 大胆に推し進める場合もあえて設定し ています。民有林に外国資本が入り込
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図③
図④ 61
図②
ね合わせで、個別具体的なアクション を策定しています(図②) 。三つの事業 分野は、建物・都市建設、インフラ建 設、サービス提供です。まだ行動をお こした途中段階でありますが、それら のアクションをご紹介していきたいと 思います。 最初に低炭素社会の実現に向けたア クションです。 われわれはお客様に建物を提供し、 あるいはお客様のニーズを捉えて建物 を建設する際に、建物の低炭素化をご 提案してまいります。これをZEBと 称しています。 「ネット・ゼロ・エネル ギー・ビル」の略です。省エネルギー と、再生可能エネルギーを念頭に置い た創エネルギーで、建物の運用時のエ ネルギー収支のゼロ化を図ります。そ の第一として、二〇一〇年に弊社の技 術研究所本館テクノステーションで実 証を開始しました(図③) 。二酸化炭素 の排出量を一般的な事務所ビルに比べ
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図⑥
ころです。 次に、循環型社会の実現に向けての アクションです。 弊社は一九九九年に日本の建設業界 で最初にゼロエミッション活動を開始 しました。建設過程で発生する廃棄物 の最終処分量をゼロにする活動です。 二〇〇五年からは、すべての建設工事 現場で廃棄物の発生抑制と、最終処分 量の削減に取り組んでいます。 われわれは普段の生産活動において コンクリートをよく使いますが、どう しても余ってしまったり、あるいは不 要になったりして工場に戻すことがあ ります。これらは一般的には産業廃棄 物として処理されていますが、高品質 の再生骨材コンクリートとして供給で きる体制を構築しました(図⑥) 。 東日本大震災で発生した廃棄物は総 量で二二〇〇万トンで、岩手・宮城・ 福島の三県で普段発生する一般廃棄物 の二三年分の量に相当するといわれて
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図⑤
て五五パーセント削減したいという目 標を掲げて実施したところ、二〇一一 年度は五七パーセントの削減を実現し ました。二〇一二年度には六四パーセ ントでした。加えて、カーボンクレジ ットの購入によって、年間の排出量が ゼロとなるエミッションゼロを達成し ました。 建設活動全体での低炭素化を考えて います。こちらはZECと称していま す。 「ネット・ゼロ・エナジー・コンス トラクション」の略で、オンサイトに おける省エネルギー・省エネ施工と、 オフサイトでの企業活動のなかで創エ ネルギーを積極的に実施していきます (図④) 。創エネルギーでは、太陽光発 電、小水力発電、風力、バイオマス・ バイオガス、地熱などに取り組んでい ます(図⑤) 。太陽光発電事業は、昨年 度末に八〇メガワットの事業化を決定 しました。そのなか、すでに三カ所が 稼働して五メガ弱の運転を開始したと
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図⑧
図⑨ 65
図⑦
います。この二三年分を全量リサイク ルにもっていきたいところなのですが、 どうしても、いわゆるがれき残渣、廃 棄物残渣が一割程度は残ります。その ようなことも踏まえて、 がれき残渣を、 アップサイクルブロックという梱包の 中に閉じ込めて、盛り土の材料として 活用することを提案しています。実用 化にめどを立てたところです。 次に、自然共生社会に向けたアクシ ョンを二~三ご紹介します。 図⑧は、都市部における自然環境の 復元、再現の実例です。左は都心の表 参道にこの四月四日にオープンした弊 社の建物にある屋上庭園です。表参道 の植生等を詳細に調べ、それに近い植 生を再現しました。右は大阪のなんば パークスの屋上のパークスガーデンで す。 こちらも同じ理念で植生を再生し、 最近の生態系調査で、 九二種類の昆虫、 一〇種類弱の鳥類の生息を確認してい ます。
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図⑪
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図⑫
図⑩
北海道の帯広空港から三〇分ほどの ところにある中札内(なかさつない)村の 六花の森で、湿地の再生と植生の回復 を行った事業があります(図⑨) 。約一 〇年前から、六花亭製菓様の約一〇ヘ クタールの土地のランドスケープマス タープランを弊社で作成するとととも に、その後のランドスケープデザイン の監修を担当させていただきました。 非常に雰囲気の良い森に仕上がってい ます。ぜひお近くにお越しの際はお立 ち寄りいただければ幸いです。 最近発表した「いきものナビ」があ ります(図⑩) 。屋上緑化や、都市部で の生き物環境を再生するにあたって、 参考緑地をデータベース化したものを 使って環境評価を行い、その地に合っ た生き物を誘致することに活用してい ただくソフトです。 スマートシティへの取り組み (図⑪) や、間伐材の小口径の木材を利用して 仮設工事事務所をつくるエコサイトハ
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それでは、最後の発表ですが、渡辺 さんにお願いします。
みの現場での話をご紹介させていただ きます。 佐渡では三六年ぶりに野生でトキの 雛が誕生し、三八年ぶりに巣立ちしま した(図①) 。佐渡が取り組んできたト キの保護、共生の一つのステップを踏 むことができたと思っています。 ただ、 共生ができたのはまだ一部の水田で、 持続可能な島にまではまだたどり着い ていません。巣立ちの映像を見て、こ れをどう守り続けていくのか、正直私 は不安を感じています。これからの取 り組みが非常に大事です。 佐渡市が抱えている課題は三つあり ます(図②) 。人口減少、過疎・高齢化、 それに伴う産業の衰退です。全国どこ でも多かれ少なかれこの三つの課題を 抱えている地域はたくさんあると思い ます。この三つがトキの保護も含めて すべての元凶になっていることは常に 意識する必要があります。 まず、佐渡でのトキの保護は、戦争
が終わって少し落ち着いた昭和三〇年 を過ぎたころから始まりました (図③) 。 無農薬のコメ作りや啓発看板、ドジョ ウの放流など、本質的にいまやってい ることとほとんど変わりないのですが、 決定的な違いもあります。当時はトキ の保護のために行っていて、トキの保 護に関わる人しか参画していませんで した。佐渡の一部の取組であり、それ ほど多くの人が関わったのではありま せんでした。また、今はドジョウの放 流など直接餌を野生に放すことは行い ません。生態系のバランスを崩し、本 当の野生復帰にならないからです。し かしながら何とかトキを増やしたいと 歴史的に佐渡が取り組んできたのも事 実であり、その歴史の中でたくさんの 人々のものすごい努力が続けられたの もまた事実であります。しかし、残念 ながら日本のトキは絶滅してしまいま した。 大きな変革は中国から頂いた二羽の
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トキと人が共生する島づくり 世界農業遺産 トキと共生する佐渡の 里山 渡辺 トキと共生する佐渡の取り組
図①
図⑬
ウス(図⑫)があります。一般に知ら れている仮設ハウスは軽量鉄骨を部材 としたものが多いのですが、エコサイ トハウスでは間伐材を利用して非常に 雰囲気の良い建物をつくっています。 これは東京大学の生産技術研究所と共 同開発をしています。使用した人間に 聞くと、仕事の能率が上がり、リフレ ッシュにもなるといいます。 低炭素社会・循環型社会・自然共生 社会という縦軸と、三つの事業分野の 横軸とが交差するところに、具体的な ミッション、あるいはアクションプラ ンを当てはめながら、今後とも積極的 に取り組んでまいりたいと考えていま す(図⑬) 。
三村 どうもありがとうございまし た。それでは蓮輪さんの発表に対して 簡単なご質問がありましたらお受けし たいと思いますがいかがでしょうか。 よろしいですか。
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〇ヘクタールの水田やビオトープが必 要です。島全体で取り組まなければ、 とてもでないけれど、二〇〇〇ヘクタ ールもの水田やビオトープの生物多様 性を高めることはできません。 また、トキの個体数は順調に増加し
図④
て放鳥ができるまでになったものの、 放鳥した後の餌場については対策が進 んでいませんでした(図④) 。補助金を 出して、ボランティアで餌場作りをし てはいましたが、結果的には限界があ ってあまり進んでいませんでした。放
鳥したトキが、もしも餌不足で死んだ ならば、佐渡の環境にとって非常に悪 いダメージになります。トキのえさ場 は水田が中心のため、米作りと連携し た取り組みを行わなければならないと いうことから、農林水産課が動き出し ました。 トキの餌場の九〇パーセント以上は 水田です。そのえさ場の主役である農 業は二〇〇七年ごろにどのようになっ ていたかといいますと、図⑤にあるよ うな状況に陥っていました。二〇〇五 年まで非常に人気だった佐渡米が、台 風被害など気象条件などさまざまな事 情によって、毎年、売れ残るようにな りました。日本の農業は産地間競争が 激烈です。売れないと翌年は米を作る 面積が減らされます。佐渡ではいま三 六・六パーセントの生産調整をしてい ます。三分の一が作っていけないとい うことになっているのです。他の地域 では四〇パーセントを超えるところも 図⑤
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トキから始まりました。たくさんの努 力があり、繁殖に成功した後は、比較 的順調に繁殖が進みました。二〇〇八 (平成二〇)年にトキを野生に放つこ とができたわけです。放鳥する前は、
トキは山奥に行き、野生で何とか生き られるだろうと思っていました。とこ ろが、ドジョウの食べ方とかいろいろ みていますと、トキが定着するには相 当の生き物豊かな水田面積が必要だと
図②
わかってきました。トキの餌は一日に ドジョウ約二五匹で、年間七・五キロ です。それをまかなうには三三ヘクタ ールの餌場が必要です。約六○羽のト キが定着するには、餌場として二〇〇
図③
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図⑦
落ち、水路から河川に流れ、そのまま 水田に戻ることはありません。それを 変えなければいけないということで、 水田に水をためる技術、水田に生き物 を戻す技術を用いて、生きものを育む 農法を行うようになりました。 その販売力の強化として佐渡市が 「朱鷺と暮らす郷 里山米」をデザイ ンしました(図⑧) 。市長を始めとして 佐渡市もお米を持って売って歩きまし
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た。また、佐渡版戸別所得補償制度を つくりました(図⑨) 。これは佐渡市独 自の制度で、生物多様性に配慮した取 り組みを取組ごとに単価を設け、取組 内容により補助金を上乗せする制度で す。こうして販売と補助金の二つを組 み合わせて、農家さん頑張ろうと呼び かけて、生物多様性農業は現在二五パ ーセントにまで広がっています。一つ に地域とした日本で最大と思っていま
図⑧
あるという話で、産地によって数字が 異なります。売れなければ作る面積が 減らされる、しかも一三年間で米価は 四〇%下落しているので、作れない、 安いなどから佐渡の水田の一部は耕作 放棄地化してしまいました。耕作放棄
図⑥
地が増加すると、森があって池があっ て水路があって水田があるというつな がりが無くなり、里山が全体としてお かしくなって、里山が荒廃します。そ れによってトキの餌場がなくなってし まいます。 水田で米を作らないのなら野菜を作 ればいいとおっしゃる方もおられるか と思います。 乾田であれば可能ですが、 もともと湿田であったところでは基本 的に野菜はできません。高齢化、担い 手不足も大きな問題です。大規模化、 低コスト化を進めようとすると、作業 効率を上げるために水路はコンクリー トになります。生物多様性の低い自然 環境が広がっていきます。 このような現状から、トキの餌場と 米の販売力の強化を連携させた、トキ との共生をブランド化することを考え ました。ポイントは「生きものを守る 農業」です(図⑥) 。トキではなく、生 き物全体を守るには佐渡全体の再生が
必要です。すべての農家に役割があり ます。トキを守るためだけでは、トキ が餌を取りにいく水田にしか役割がな いことになっていまいます。すべての 生き物を守るということなら、すべて の水田に役割があり、いろいろな人に 役割があります。それで、すべての農 家が参加できて、消費者にもわかりや すいブランド化ができると考えたので す。 二〇〇七年に、「朱鷺と暮らす郷づく り認証制度」がスタートしました(図 ⑦) 。 市が生きものを育む農法を認証す るシステムで、コンセプトは非常に簡 単です。農薬・化学肥料を半分以下に 減らすことと、水田に生き物が生息で きる水辺を確保する二つがポイントで す。水田には一年中水があると思われ るかもしれませんが、実際に水がある のはぜいぜい三カ月間です。水田に生 息する水生の魚類や昆虫は、水田から 水がなくなると、コンクリート水路に
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図⑪
図⑫
いものは人間の経済活動が自然や風景 と共生し継承していることです。 佐渡には金山があって、江戸初期の 全盛期には、日本全体の人口が一〇〇 〇万から二〇〇〇万という時代に、佐 渡には少なくとも七~八万いたといわ れています。それだけの人が生きるた めに棚田が作られました(図⑪) 。日本 の最後の野生のトキがいたのはこのよ うな棚田でした。金山に集まった人た ちの食べるものをまかなうためにつく られた棚田が、最後のトキを守ってい たというのが、経済と自然の共生する 歴史の一コマです。いま棚田は美しい ということで守られており、これは美 しい水田ではなく美しい風景としても 棚田が評価され保全され続けてきまし た。日本人が守るべき里山の風景が農 業の継続と合わせて守られてきました。 金山に人が集まると、集落が生み出 され、さまざまな文化が形づくられま した。佐渡には薪能、鬼太鼓(図⑫)
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す。そこまで増えたのは、トキが水田 で餌を取っている姿を見るようになっ たことと、たくさんのメディアが褒め てくれたことの二つも大きな要因だと 思います。 また、 「生き物調査の日」を作りまし た(図⑩) 。六月の第二日曜日と八月の 第一日曜日に全島で実施します。農家
図⑨ には、自分の水田にどのような生き物 がいるか、お客様に伝えるようにして くださいという話をしています。生物 多様性農業を農家自らが理解をし、お 客様にお伝えすることができる。新し い農業のあり方と思っています。 また、 子どもたちも参加します。 佐渡KIDS生き物調査隊を二〇〇
図⑩
八年に発足しました。現在六〇人の子 どもが島全体から参加し、トキの保護 を通した水田の生きものを学び、無農 薬のお米作りをしています。また、兵 庫の豊岡市やさまざまな都市と交流を し、 東京大学で取組を発表したり、 様々 な活動を行っております。 企業との連携もできてきていきます。 朱鷺と暮らす郷米は売り上げの一部を 企業から寄付を頂いていまし、トキ野 生復帰プロジェクトを企業で実施し、 寄付と合わせて、都市部の子どもたち を連れてきて、佐渡の子どもと一緒に 生き物調査をします。農を通した環境 学習による地域の活性化の事例です。 トキとの共生を目指すこのような取 り組みが世界農業遺産(GIAHS) に認定されました。認定されたポイン トとして大きかったのは、売れなかっ たお米が高くしかも全量売り切れるよ うになったこと、そして生物多様性が 高まったことです。また評価として高
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民や子どもたちにきていただこうと考 えています。単に水田を歩くだけでは 観光になりませんが、世界農業遺産の 棚田を歩くというと観光になるでしょ う。トキの里山ハイキングを含めて、 観光にもつなげていきたいと考えてい
ます。そのようななかで、 「トキふれあ いプラザ」が三月三〇日にオープンし ました(図⑭) 。 「トキまで二センチ」 という合言葉ですが、実際には二〇セ ンチ以上あるでしょうか。修学旅行も 含めてたくさんの人が環境を学ぶ島と
図⑰
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して佐渡を訪れていただけたらと考え ています。 われわれがいまやらなければいけな いことを最後にまとめます。消費者は 農産物に価格・味を求めます。生産者 は低コストと大規模化を求めます。そ 図⑯
がありますが、これらは庶民の娯楽と して発展したわけではなく、五穀豊穣 を祈る神事として継承し続けてきまし た。祭りの前の一カ月間は、お年寄か ら子どもまで、公民館に集まって練習 をしています。これが集落コミュニテ ィのもとになっていて、それを続けて
図⑬ きたことが、農村文化を守り、里山の 自然風景を守ることにつながりました。 世界農業遺産の認定では、その点が大 きく評価されました(図⑬) 。 里山の価値というと、以前はお米を 始めとした農産物の生産をすることだ けを考えていたのではないでしょうか。
里山農業は、文化もふくめたさまざま な機能をもっています。これをどのよ うにして守っていくのか。農家・消費 者・大学・企業の連携が必要です。そ こで、新たにに「棚田協議会」が発足 しました。棚田のサポーター制度を佐 渡市が作り、できるだけ多くの都市住
図⑭
76 図⑮
体的な姿はどういうものかについて、 今度は発表の順番を逆にして、渡辺さ んからご意見をいただければと思いま す。
渡辺 自然共生社会を作るには大事 なポイントが三つあると考えています。 一つは、守るべきものを守る。会場か ら外来種の問題が出されましたが、佐 渡でも事例があります。佐渡のため池 にもブラックバスやブルーギルがいま す。あるため池で水を抜いてブラック バスを退治しました。そこには大きな 鯉が一匹とブラックバスしかいなくて、 他の生き物はほとんどいませんでした。 もう一つは使うべきところを使う。 水田でもため池でも森でも、使うべき ものを使っていかないと荒廃します。 使うべき方向性と土地のゾーニングを しっかり行っていくことが大事だと思 います。 そしてもう一つすごく大事だと思っ
ているのが、地域や社会が知っている ことです。どれほど生き物が豊かであ っても、人間が知っていなければ最終 的には守れません。人が知る仕組みを 作っていくことが大切です。以上の三 つが私は自然共生社会を作る上で非常 に重要ではないかと考えております。
三村 どうもありがとうございます。 私が一つお聞きしたいのは、自然共生 社会といったときに、佐渡であれば水 田の周辺が自然共生社会なのか、それ ともトキがくるところが自然共生社会 なのか、つまり、自然共生社会という ときに、社会の全体のどの程度をカバ ーしているのかということについて、 佐渡市の場合に意識されていることが あれば教えていただけますでしょうか。 渡辺 基本的にトキは関係ないと私 は言っています。トキは関係なくて、 トキが生きられる環境を作っていくこ
とが大事で、 それが自然共生社会です。 いまは取りあえずトキの餌場というこ とで水田に取り組んでいますが、森か ら水が出て、その水のなかに生き物が 入って田んぼに下りてくるわけですか ら、やはり森にも取り組んでいかなけ ればなりません。これまで森には手が 付けられなくて、武内先生にも、佐渡 の森は駄目だと叱られたことがありま す。ようやく今年から里山の整備を少 しずつ事業として手を入れていきたい と考えています。要は広葉樹林の再生 です。時間はかかりますが、田圃から 逆に川を通して森へと考えています。 佐渡の自然共生社会は島全体をどう再 生させるかということで考えたいと思 っています。
三村 それでは蓮輪さんのご意見を お願いします。
蓮輪 自然共生社会は、建設事業の絡
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れらと農業の価値は相反するものなの でしょうか(図⑮) 。大変おこがましい のですが、トキのようなシンボルをも っている佐渡が頑張って、農業の価値 はもっと多様なものであるということ に変えていくのがわれわれの仕事だろ うと考えています。 その実践のため「生物多様性佐渡戦 略」を作りました(図⑯) 。実践の三本 柱は、知る、守る、使うです。トキが 田んぼにいる風景(図⑰)を守るため に頑張っていきたいと思っています。
三村 どうもありがとうございまし た。非常に具体的なお話をいただきま した。 さて、このパネル討論は、五時二〇 分までと予定されていて、あと一一分 ぐらいしかありません。皆さんに大変 熱心に発表していただき、司会の不手 際もあって、申し訳ありませんが討論 が五分か一〇分ぐらい伸びることをお
許しいただきたいと思います。 では、会場の方から、いまお話を聞 いて、質問や論点についてどういうこ とでも結構ですからお受けしたいと思 います。それに基づいてパネルの先生 方からお考えを出していただくことに したいと思います。 ――質問ではないのですが、佐渡のお 話を非常に興味深く聞かせていただい て、関連することを申し上げたいと思 います。 私は横浜市栄区に住んでいて、 山の尾根を歩いて行くと鎌倉に通じる ところで、瀬上の森というところがあ ります。先ほど水を落とさない田んぼ の話がありましたが、瀬上の森でも自 然保護のために沼の水を全く落とさず に稲を栽培しています。できたお米は 近くの福祉施設に配ったりし、蛍も生 息して、その地域で非常に貴重な自然 環境を保っています。いまとくにわれ われが気を付けているのは、外来種を
いかに除くかということです。そのよ うな活動で、自然を守り、観光にも使 えるということで、都市のなかでもや ればできる可能性があるということを、 ご参考までにお知らせしたいと思いま す。
三村 ありがとうございました。いま の横浜市栄区の例で、都市のなかにあ る自然をどのようにしていくのかとい うことが出されましたが、自然共生社 会といったときに、われわれはどうい うものをイメージするかということで、 少しご意見を伺いたいと思います。 自然共生社会という言葉は共通して いても、具体的に焦点を当てている場 所や大切にするものが、それぞれの人 で違っています。すでに発表されたこ とのおさらいのようなことになるかも しれませんが、自然共生社会というと きに何が重要なのか、特にポイントと なる点は何なのか、自然共生社会の具
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的な評価を充実させていきたいと思っ ています。 生態系サービスのなかには、 現在は使われていなくても、それがあ ることで非常時に役立つということが いろいろな事例でありますから、多様 な生態系サービスをセットで守ること はレジリエンスを高める意味でも重要 です。 そしてもう一つ、最近とくに考えて いるのは、サービスを生み出す側と受 益する側の関係です。多様な生態系サ ービスに関して、農家や漁業者や林業 をされている方々が便益を産出してい る一方で、それを受益している消費者 は都市に住んでいたり観光客だったり して、産出している側と受益している 側が、往々にして乖離しているケース がみられます。地域のお祭りのような かたちで、生み出している人と享受す る人とが一致している場合ももちろん あるのですが、そうでないケースがい ろいろにあります。そこのところをき
ちんと再調整して、受益している人々 から、産出した側へと便益が戻ってい くようなことができないものかと思っ ています。佐渡では、直接支払制度の ようなものですでに行われていますが、 きちんとした科学的な知見に基づいて、 制度設計をしていくのが重要だと思っ ています。
三村 では大崎先生、お願いします。 大崎 北海道の下川町で持続的な自 然共生型の林業を中心とした社会をい ろいろに検討していて、何が問題かと いいますと、ポテンシャルの評価はあ る程度できて、どのようなことが可能 かということはわかるのですが、それ を現実化するところで困難があります。 要は産業としての林業の体系自体が日 本で崩壊していますので、林業を維持 するのが非常に大変なのです。切り出 してきた材を地元で加工するというの
はある程度可能ですが、山に木を植え て管理して育てて切り出してくるとい う林業のそもそもの体系がほとんど崩 壊しています。昔は馬を使ったり、人 の力を使ったりして木を運び出してい ました。ヨーロッパ型の機械を入れ、 林道をつくって運び出すということを していますが、日本ではそのような危 機などの開発が遅れていて、売れるよ うにできるシステムを作るのが非常に 難しいのです。日本には機械を開発し ているところがいまはありませんので、 高い機械を外国から買ってくると、コ ストが合わなくなってしまいます。 林地残材をボイラーで燃やして発電 しようとしますと、ボイラーでさえ日 本ではちゃんとしたものを作っている ところがありません。技術的にはそれ ほどたいしたものではないというと失 礼になるかもしれませんが、スイスあ たりから買ってくると非常にコストが 高くついてしまいます。日本の中小企
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みで申し上げるのはなかなか難しいと ころがありますが、先ほどもご紹介し ましたように、都市部における緑地回 復、緑地再生、あるいは屋上緑化をす るときに、その土地における元来の植 生を保全するようなかたちで提案して いくということが一つあるかと思って います。また一方で、最近は少なくな ってきましたが、大規模造成工事、場 合によれば人口島の築造などにも携わ ることがあります。その際に、護岸の 消波ブロック、あるいは護岸そのもの の傾斜に、海中の植生をきちんと復元 するようなことを考えます。それぞれ の海域で藻の種類が違い、海生生物も 違いますから、そういうこともきちん と事前に調査して、なるべくその海域 や土地の履歴に合った復元をしてやる こと大事です。大規模な事業は公共事 業であることが多いので、発注者であ る行政と協議を重ねて進めていくこと になります。
三村 実際の工事では、自然に対する 配慮を生かせない場合もあれば、ある いは一つの工事のある局面だけしか対 応できない場合もあるのではないでし ょうか。公共工事というと、一般の人 の受け止めとしては、自然を全部壊し てしまうのではないかとか感じている 人もいると思うのですが、現在の計画 や工事では、かなり注意をするように なっているのでしょうか。 蓮輪 決して一〇〇パーセントでき ているのではなく、自然との折り合い をどういうところで付けていくかのと いうところでは難しい面があります。 河川をいじるにしても、私が入社した 四〇年も前は、正直なところそういう ことは一切関係なしに、ものを作るこ とだけに終始していました。 いまでは、 河川の底の動植物にも、場合によって は非常に貴重な生物がいるケースもあ
りますから、専門の先生方と協議をし て、移転して工事後に戻して復元する ということをしています。そのような 配慮は以前に比べて格段の差になって いると思います。
三村 どうもありがとうございまし た。それでは齊藤さんから、自然共生 社会のポイントについてお願いします。
齊藤 私は発表のなかで生態系サー ビスという言葉を使わせていただきま した。生態系から人々が受けている恵 みの総称です。一つのサービスだけに 特化してそれだけを守るということで はなくて、まさに佐渡で取り組まれて いるように、各サービスのつながり合 いをきちんと踏まえた上で、多様な生 態系サービスをセットで残して守って いくことが非常に重要だと考えていま す。生態系サービスの多様性の確保と いうことになります。そのための科学
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と思います。 私にとって印象的だったことを一つ だけ申しますと、気候変動に対して、 生物や生態系は敏感に反応して変わっ ていく、 いわば被害者だと見る立場と、 そうではなくて、 生態系があることで、 気候変動から人間社会を守り、地球シ ステムを守るような調整機能があって、 いわば防護者だと見る立場もあるとい う指摘がありました。生態系は一方的 に受け身の、やられっぱなしのシステ ムではなく、変わっていく環境に対し て、社会や自然環境を守っていくもの としても捉える必要があるというのは 非常に印象的でした。 討論の時間が十分な長く取れません でしたが、パネリストの皆さまには熱 心な発表・議論をしていただきました。 お礼申し上げます。どうもありがとう ございました。 それでは最後に武内先生から閉会の ごあいさつをいただきます。 ■閉会挨拶
たけうち かずひこ
武内和彦
年の一月には、こちらの三階のウ・タ ントホールを使って国際的なシンポジ ウムを開きたいと考えています。自然 共生社会にとどまらず、私たちの社会 生活の持続性、それと地球環境の持続 性について議論することでの社会貢献 を続けていきたいと思っています。ま た別途ご案内を差し上げますので、引 き続きよろしくお願いしたいと思いま す。 本日は最後までご参加くださいまし てありがとうございました。
国連大学上級副学長、サステイナビリティと平和研究所長、 東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)機構長
本来は私がモデレーターということ でしたが、ちょっとした事情で三村先 生にお願いせざるを得なくて、いま戻 ってまいりました。最後まで大変多く の方に熱心に話を聞いていただきまし てありがとうございました。 サステイナビリティ・サイエンス・ コンソーシアムは非常に小さな組織で すけれども、 加盟するいろいろな大学、 研究機関、民間企業、それから自治体 の皆さま方とともに、引き続きこのよ うな取り組みを進めていきたいと思っ ています。 まだ最終決定ではありませんが、来
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業がある程度の経験を積んで参入して くると新しい産業も成り立つと思うの ですが、それができていないために、 理論上は可能であっても、画に描いた 餅に終わってしまう危惧があります。
三村 どうもありがとうございます。 じゃあ亀山さんお願いします。 亀山 私の観点からお話をすると、自 然共生社会を実現する国際制度はどの ようにしたら合意しうるのかというこ とになるかと思います。今日のほかの パネリストの先生方の話も伺って、気 持ちをさらに強く持ちましたのは、北 風よりも太陽の制度の方がいいだろう ということです。気候変動でいいます と、京都議定書は二酸化炭素の排出量 を削減する目標を決め、もしもそれを 達成しないと罰があるという制度で、 これは北風タイプです。 人間というのは褒められるとうれし
くて、つい目標以上のことをしてしま ったりします。国も一緒です。何か罰 がある国際制度では国はなかなか動き ません。認証制度などは褒めるタイプ の制度だと思いますが、太陽の制度を 増やしていくことが望ましい社会へと 動いていくことにつながるのではない かと思っています。 適正に褒めるために必要な制度は温 暖化の世界で構築されつつあります。 MRV( Monitoring, Reporting and )と呼ばれています。測定 Verification して報告して、それを検証し、検証し た結果、本当によくやっているところ を褒めます。そういう制度は今後重要 になってくると思います。それを可能 にするものとして、インターネットの ような情報発信も一つの方法としてあ るのではないかと思っています。
三村 どうもありがとうございまし た。短い時間でしたが、パネリストの
先生方から、それぞれ非常に得心の行 くようなご発言をいただいたと思いま す。 佐渡市の取り組みが典型的だと思い ますが、地域全体で自然共生のかたち をつくっていくお話がありました。多 様な生態系サービスを守るような社会 システムをどのように作っていくのか、 特に産業や経済の仕組みのなかにどの ように組み込むのか、そのようなこと を後押しするために、褒める制度が大 切ではないかというお話がありました。 われわれはどうしても道路を作ったり、 あるいは土地利用を変えたりすること が必要です。そのような事業のなかで も、自然を生かすような技術の開発、 設計の方法があって、そういうものに 取り組んでいるというお話もありまし た。その他にもいろいろ論点があった と思いますが、自然共生社会をどのよ うに作っていくのかという議論に、非 常に多様で有益なご意見をいただけた
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■開会挨拶
たけうち かずひこ
武内和彦 国連大学上級副学長、サステイナビリティと平和研究所長、 東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構機構長
今日はサステイナビリティ・サイエ ンス・コンソーシアム(SSC)の研 究集会にお集まりいただきましてあり がとうございます。 私は、ここ国連大学を、SSCの活 動の国際的な展開の場に使っていただ
号にその国際シンポジウム
CSS)をここで開催する計画もあり ます。 今日の集会は、SSCの内輪の集ま りとして、情報コミュニケーションと コラボレーションという大変重要なテ ーマで議論します。サステイナビリテ ィ・サイエンスは、知識の体系化・統 合化に一つの大きな特徴があります。 今日のテーマはサステイナビリティ・ サイエンスの要素として重要なもので す。 また、 国際的な展開を考えますと、 ディスタンス・ラーニングや、いろい ろな情報をオープンにしていくことも、 サステイナビリティ・サイエンスの発 展にとって大切なことです。今日の会 合が実り多いものであることを祈念い たします。
※『サステナ』第
の記録を掲載。
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きたいと、 いつもお願いしております。 幸いにもSSCとしては初めて外部資 金を獲得して、今年の一月にここで国 際的な会議を開くことができました。 ケンブリッジ大学のパーサ・ダスグプ タさんという大変有名な先生にお越し いただいて、最近彼らが提唱し始めた 「 包 括 的 な 豊 か さ 」( Inclusive )を紹介していただきました ※ 。 Wealth 来年初めには、ユネスコやOECDの 方々をお呼びした会議をここで行える のではないかと準備を進めています。 また来年度には、サステイナビリテ ィ・サイエンスに関する国際会議(I
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サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム研究集会
サステイナビリティ情報コミュニケ ―ションとコラボレーション
学際性を重視するサステイナビリティ学がカバーする領域は,他の既存の学 問分野よりも広く,かつ問題解決型の研究推進にあたっては科学者間の協働 だけでなく,多様なステークホルダーとのコミュニケーションと協働作業が 求められる。情報工学技術を用いることで,このような学際研究やコミュニ ケーションを支援するツールや仕組みが開発されつつある。本研究集会では, 情報工学技術を活用してサステイナビリティ学関係の研究・教育・社会実践, 先駆的な情報コミュニケーションの取り組みを行っている専門家・実践家に 話題提供していただいて,今後の研究と協働のあり方を討議した。
●主催:国連大学 サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC) 東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S) ●共催:地球環境パートナーシッププラザ(GEOC) ●日時:2013 年 5 月 14 日(火)14:00~17:00 ●会場:国際連合大学エリザベス・ローズ国際会議場 84
■講演1
情報工学を用いた新規研究開発課題の探索 かじかわ ゆうや
梶川裕矢
討して、それに基づいて、新しい技術 や製品やシステムを実現するための戦 略・施策を設計します。同時に、それ が経済・社会・環境にどのように影響 するのかをプロジェクト実施前に評価 します。 そして、 技術的な実現可能性、 既存の技術システム・社会システム・ 組織システムへの実装可能性、さらに 経済的な収益性などを評価して意思決 定をし、最後に実施に移します。 私が取り組んでいるのは、技術動向 や産業動向を観察して分析し、新しい
東京工業大学大学院・イノベーションマネジメント研究科准教授、 東京大学政策ビジョン研究センター客員研究員
私はイノベーションマネジメント研 究科で、文字通りイノベーションのマ ネジメントをどうするかという課題に 取り組んでいます。 イノベーションをフェーズに分けて 考えてみます (図①) 。 最終的な目的は、 イノベーションによって持続可能な社 会を実現するといったことにあります。 そのためには、技術動向・産業動向・ 社会動向・国際情勢・環境変化等をよ く観察し、その背後にあるメカニズム を分析し、将来どのようになるかを検
研究開発テーマを設計するシステムを 開発する部分です。 情報工学的なアプローチがなぜ必要 なのかといいますと、三つの問題があ ります(図②) 。一つは知識の爆発。た とえばワトソンとクリックが二重らせ
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■趣旨解題
さいとう おさむ
齊藤 修
継続していく難しさもあります。 今日の趣旨としましては、サステイ ナビリティ・サイエンスが問題解決に 向かっていくにあたっては、科学者の 間だけではなくて、多様なステークホ ルダーとの間でのコミュニケーション が重要であるという前提条件に立った ときに、どういった課題があって、ど のような取り組みがなされているのか 検討したいと思っています。情報技術 の発達に伴い、コミュニケーションの 新しい技術を使うことで、どのように 課題を克服していけるのか、可能性が どこにあるのかについて、これまでの
国連大学サステイナビリティと平和研究所・学術研究官
サステイナビリティ・サイエンスを 立ち上げた段階から、知の構造化、多 様なステークホルダーとの協働という ことがさかんにいわれていました。い ろいろな研究分野の研究者が協働、コ ラボレーションしていくことが各大学 でも、大学間でも求められました。そ れでコラボレーションがきちんと行わ れてきたのかというと、いろいろな問 題もあります。私自身も大阪大学等で の事務局的な役割をしていた時期もあ って、学内のいろいろな分野の研究者 を動員してコラボレーションしていく 難しさを感じました。 始めはよくても、
実践から得た教訓を共有して、次のサ ステイナビリティ・サイエンスのより 高度な研究、社会的な貢献につなげて いきたいと思います。
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図③
が難しいものがあります。知識の爆発 と知識の細分化・専門化に対して、課 題は複雑化しているということで、両 者の間にはギャップがあります。それ を、情報工学的なアプローチを使うこ とで埋められないかというのが問題意 識としてあります。 私は二つのアプローチを取っていま す(図③) 。一つが知識工学と私が呼ん でいるもので、頭の中で人間が考える プロセスを体系的に整理しようとする ものです。もう一つが情報工学です。 世の中に存在する膨大な量の情報を集 めてコンピュータに分析させ、その結 果をもとに、人の頭で考えようという ことです。人間の頭で考える部分とコ ンピュータが支援する部分をうまく組 み合わせて問題に取り組む必要があり ます。 三つの事例をご紹介します。第一が 「学術俯瞰と萌芽的領域の抽出・コア 論文予測」です。ある研究領域が何ら
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図①
図②
ん構造を発見した一九五三年には、D NAに関する論文は年間一〇〇本ぐら いでした。その気になればDNAに関 するすべての論文を読むことができま した。いまではDNAに関する論文は 年間一〇万本です。二つ目が知識の細 分化・専門化です。年間一〇万本の論 文の全部を読める人はいません。DN Aに関してすべてわかっている人は誰 一人いないといっていいでしょう。D NAの研究も専門領域が非常に細分化 されています。専門家の役目として、 当該研究領域に関して俯瞰的な知識を もっているということが必要な条件と してあるとしても、まずやるべきは新 しい知識を生み出すことです。そのた めには非常に細部に入って仕事をしな ければなりません。三つ目が課題の複 雑化です。社会から要請される課題に は、サステイナビリティや少子高齢化 など、非常に複雑で、単一の研究領域 や単一の知識では解決策を提示するの
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図⑤
ラスターに属している論文が出版され てから平均何年たっているかという数 字です。シリコン系は一一年で、かな り古い研究領域です。有機系や色素増 感型は約四年前から論文が出ている新 しい領域です。この分析は二〇〇九年 に行ったので、今の情勢とは若干の遅 れがあるかもしれません。 もう一つの分析例はCCS(カーボ ン・キャプチャー・アンド・ストレー ジ) 、つまり、人間が排出した炭素を回 収して地中や海中に保存する技術です (図⑥) 。 CCSに関する論文約一〇〇〇本を 分析しますと、一番大きな研究領域は 火力発電所のプロセス・デザインです。 論文数を国別にみますと、アメリカが 三三〇本、中国が一五〇本です。九〇 年代はアメリカしか研究しておらず、 この一~二年は中国が猛烈な勢いで論 文を出しています。日本では去年から CCSの大規模な国家プロジェクトが
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図④
かのきっかけで盛り上がると、その分 野が人々に知れるようになります。そ の前の萌芽的な段階で、研究領域を抽 出できないものかと考えています。そ れで取り組んでいるのが引用ネットワ ーク分析です。対象とする学術領域を 定めてそれに関する学術論文を集め、 引用している・引用されているという 関係の引用ネットワークを作ります。 図④の右の絵で、丸が一つの論文で、 矢印が引用関係に当たります。引用ネ ットワークから、似たような引用関係 をもっている論文群をクラスタリング という方法でグルーピングします。 例としてが、太陽電池に関する約四 万件の論文を集め、引用ネットワーク を可視化したものをご覧いただきます (図⑤) 。太陽光発電の研究が、大まか に五つの領域にわかれていることが一 目瞭然です。一番大きい領域がシリコ ン系の太陽電池で、約一万の論文があ
とありますのは、そのク ります。 age
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図⑦
図⑧ 93
図⑥
スタートし、年間一〇〇億、総額四七 〇億が投じられることになっています。 日本が強いのはアミン系の材料です。 そこは比較的古い分野であるために、 かなりリスクが高いのではないかとい うことがこの図からみえてきます。 事例の第二が「革新的研究課題の設 計」です。誰もまだ取り組んでいない ようなテーマをみつけられないかとい う課題です。ある研究領域で論文を集 めてクラスターにわけて分析しますと、 ある研究領域の技術と別の研究領域の 技術が関連しているのかしていないの かといったことがみえてきます (図⑦) 。 例として、高齢化社会とロボット技 術のつながりを分析しました(図⑧) 。 高齢化社会に関する論文を集めてクラ スターに分け、ロボットに関する研究 もクラスターにわけます。この両者の 間がキーワードでつながっているかな ど分析します。そうすると、高齢者の 鬱と補聴器、がんとロボットによる外
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図⑪
技術を抽出するということです (図⑨) 。 分析のアイディアは非常にシンプル で、片方に論文、片方に特許をもって きて、その間の関係性を分析していま す。例として二次電池の分析がありま す(図⑩) 。関係性を分析すると、ある ものは論文もあって特許もあります。 それは大学での基礎研究が企業のビジ ネスに役立っているものです。あるも のは特許はあるけれど論文はありませ ん。大学側からみると、応用寄りすぎ て研究にならないものなどです。論文 はあるけれど特許がないものがありま す。企業からみると基礎研究的すぎて 使えないということなのか、まだ企業 が着目していないということなのかも しれません。 以上のようなことをしていくための ツールをウエブシステム化して、研究 者や学生に提供して、実際にいろいろ 分析を進めていこうとしているところ です(図⑪) 。
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科手術、老人の孤独感とロボットのペ ット、排泄とトラッキング・デバイス などが関連が強いことがみつかりまし た。それらが革新的研究課題であるの
ではないかということです。 事例の第三が、萌芽的研究領域や革 新的研究領域をみつけたとして、それ が企業のビジネスになるのかどうかを
図⑨
評価できないかという研究です。大学 での基礎研究はいろいろな方向を向い ています。そのなかから企業の研究開 発に乗せられて市場化までいけそうな
図⑩
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より効率的な学習戦略を提案するよう になっていました。いまでは、例えば アマゾンなどで本を買うとそれに関連 する本を薦めてくれたりするのが普通
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ある概念とまた別の概念が一緒に出て きたことなどをシステム側が自然言語 処理技術によってモニタリングするこ とで概念間のつながりを学習して、図
図②
になっていますが、二〇〇四年当時と しては結構画期的だったと思います。 なぜそのようなことができるのかと いいますと、環境リスク管理に関する
図①
■講演2
サステイナビリティ・サイエンス領域における 人工知能技術応用の動向 まつい たかのり
松井孝典
ントや議員さんからフレッシュな大学 院まで、環境リスクに興味がある人に 集まっていただいて、図①にある一八 の講義を受講していただきながら、環 境リスクマネジャになっていただくと いうプログラムがあって、私はそこで eラーニングのシステムの開発に携わ りました。 このシステムは、受講生がログイン すると、出張などの用事で聞けなかっ た講義が聞けたりするわけですが、単
大阪大学大学院工学研究科エネルギー・環境工学専攻助教
今日のお話は、 『二〇〇一年宇宙の 旅』に登場する人工知能HAL900 0にサステイナビリティとは?と問い 掛けたときに何と答えるだろうかとい うのがテーマです。 私は二〇〇四年から二〇〇八年の間、 文部科学省の振興調整費新興分野人材 養成による「環境リスク管理のための 人材育成」プログラムという環境リス ク管理の教育プログラムの開発に参加 しました。民間企業のトップマネジメ
なる講義の映像配信とは違って、疑問 に思ったことをシステムに問い合わせ ることで、今何が論点になっている講 義なのかを答えてくれたり、その内容 は他のこの講義とも関係していますよ というように、学習経路のアドバイス をしてくれるようなシステムです。そ してこのシステムの裏側には強化学習 アルゴリズムが載っていて、受講生が 学習する経路にシステムが寄り添って、
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たりで構造化ができるといろいろうれ しいことがあるのではないかと考えま した。 オントロジーでは、概念と概念の関 係を構造化して書きます。そのための
また我々のチームではサステイナビリ ティ・サイエンスを構成する約六〇〇 〇の概念を構造化した体系をオントロ ジー言語で書きました。その成果は
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』に二本の論 『 Sustainability Science
図④
ソフトウェアがあって、図⑤はオント ロジー実装ソフトウェアの一例で、大 阪大学の古崎晃司先生が開発した「法 造」です。フリーソフトウェアで公開 されていますので是非ご利用ください。 図③
②のようなセマンティックなネットワ ークをもっているからです。当然なが らシステムは概念を理解しているわけ ではなくて、統計上のデータで学習し ているだけではあるのですが、これが 人工知能の一つの流れでもあります。 一方で私は、二〇〇五年から二〇〇 九年まで、サステイナビリティ学連携 研究機構のもとで大阪大学サステイナ ビリティ・サイエンス研究機構(RI SS)のメンバーとして、オントロジ ー工学の技術でサステイナビリティの 知の構造化ができないかということに 取り組みました。オントロジー工学と は人工知能に関連する一つの領域です。 「オント」は存在、 「ロジー」は論です から、オントロジーは「存在論」です。 オントロジー工学は世界の存在を、計 算機でも読めるように記述する理論で、 それをうまく計算機に実装してやれば、 計算機が意味をわかってくれていろい ろ支援してくれるのではないかという
壮大な期待があります。 オントロジーの考え方を簡単に紹介 します。図③はサッカーを例にしてい ます。具体的なインスタンスレベルと して、「バルセロナとエスパニョールと いうサッカーチームがダービーマッチ をして、メッシ選手がハットトリック を決めた」ということがあったとしま す。それを抽象化しますと、 「二二人の プレイヤーが二チームに分かれて、敵 ゴールにボールをシュートし合って、 選手Xが三得点した」 と記述できます。 さらに抽象化してクラス概念化すると、 「個体群Aと個体群Bが物質を介して 情報交換をした」となります。これで サッカーの本質がみえているのかわか らないところもありますが、最後のト ップレベルオントロジーでは「そこに 実存物がある」という話になります。 同様に地球温暖化を例にすると図④ のようになります。地球温暖化につい ての排出量取引で、開発途上国と先進
国が交渉が揉めてしまっているインス タンスを考えた場合「共通だが差異あ る責任」と「炭素市場による最適化」 に関する議論が出来ていない問題と抽 象化することができ、さらにはグルー プAとグループBが「不均衡」で「非 効率」である問題というようになり、 本質的には生物多様性で問題になって いる「生物資源へのアクセスと利益配 分」と等価な問題であることが理解で き、有効な知識移転や共通の解決策の 共同化などが期待できます。で、最後 はすべて実存物であるわけですが。 このようなオントロジーでうまく抽 象化すると現象の本質をシャープに示 せるのではないかと考えるわけです。 計算機可読の立場からするとトップレ ベルオントロジーまでいって神羅万象 がつながっていることを理解すればい いのですが、サステイナビリティ・サ イエンスとしてはそこまでいかずに、 クラスレベルとかサブクラスレベルあ
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図⑦
文が掲載されていますので、よろしけ ればごらんください(図⑥) 。 二つ思い出話をしながら、二つの潮 流をお話させていただきました。一つ は、前半にご紹介したように膨大なデ ータを機械に任せて帰納的に解析させ る、もう一つは、哲学的思考によって 演繹的に考えるアプローチです (図⑦) 。 これはどちらが正しいというのではな く、ただ違いがあるだけではないかと 思っています。今現在の私としては、 世界中に蓄積した膨大な情報やデータ が、どのような持続可能な未来を語る か素朴に聞いてみたいという思いがあ り、どちらかというと機械側に寄って 研究を進めています。 膨大なデータといえば、トップスタ
なら、もし Google
ーは Google です。一日二〇テラバイ ト級のデータ処理を行い、世界の消費 電力の〇・〇一パーセントを使ってい るといわれているようです。それだけ
のことをしている
101
図⑤
図⑥ 100
図⑨
図⑩ 103
図⑧
やサステイナビリティに対する答えを 何か持っているのではないかと思い、 「 サステイナビリティ」 Google and に問い合 というキーワードで Google わせてみました。すると、返ってきた 答えは、環境に優しいウエブを作る、 データセンターを省エネ化する、再生 可能エネルギーを使う、オフィス内を 省エネする、……ということでした。 これを見たときに私は少し違和感を感 じました。 違和感の原因は、グリーン・バイ・ AIか、グリーン・オブ・AIかです。 が答えてくれたのは、彼らのA Google Iテクノロジーをグリーン・オブ・A Iでアピールしていますが、グリー ン・バイ・AIについては語っていま が最近出したサービスで、 せん。 Google テラバイト級のビッグデータをクリッ ク一つで数秒で解析するAPIがあり ます。私が期待したいのは、そのよう なものを使ってサステイナビリティと
は何かに答えてくれないかということ です。 そのような背景から今、人工知能学 会でグリーン・バイ・AIで何かやれ ないかを提案しています。二〇一二年 の学会では、 「サステイナビリティ・デ ザイン指向のAI技術応用の基礎的分 析」という題目で、世界中でサステイ ナビリティ研究に対してどのようなA I技術が投入されているのかを分析し ました。二〇〇五年のIR3Sのスタ ート当時は日本のほうが先行していた と思うのですが、現在は残念ながら世 界には遅れを取っているように見えま す。世界的には、コーネル大学を中心 に展開されているコンピューテショナ ル・サステイナビリティ・プロジェク トが有名です(図⑧) 。これに関するワ ークショップや会議で発表された論文 は二八九件で、日本国内での発表は二 一件ですから、 一〇倍の差があります。 この時の分析では、これら三一〇件の
102
図⑪
図⑫ 105
タイトルをデータベース化して傾向を 分析しました(図⑨) 。 われわれは、脱温暖化社会、安心安 全社会、自然共生社会、資源循環社会 の四つの社会像をサステイナビリティ のゴールとして持っています。横軸に サステイナビリティの対象領域をとり、 縦軸にコンピューテショナル・サステ イナビリティ・プロジェクトが示すA Iの技術分類をとって、先ほどの三一 〇本の論文がどこに何本当てはまるか 調べることでトレンドを把握しました (図⑩) 。 地球温暖化と自然共生に対す る、最適化、システム・モデリング、 ネットワーク・モデリングのあたりの 研究が一番の主流になっています。し かしながら、こうした技術群は、従来 型のオペレーションズ・リサーチに近 い領域で、AIがもつ本当の機能を利 用したものではないのではないかと私 は思っています。一番下の行と一番右 の列の一般というのは、ここの類型に
入らないもので、それが四六パーセン トもあるということは、分類体系の設 定が甘いのと、想定しているよりもも っと新しい技術が出現してきていると いうことだと理解しています。 具体的にどのようなキーワードが出 ているのかみますと、図⑪の左側の斜 体がサステイナビリティの領域で、右 の太字がAIの技術といように並べて あります。上位の方に、計画とかプラ ンニングとか、いわゆる伝統的なオペ レーションズ・リサーチのキーワード があって、下の方にインタラクション とかインタラクティブな協調学習とか、 比較的新しい技術があります。オント ロジーのような内容指向の研究領域は ほとんどないので、そのあたりを展開 していければ、日本がこの研究領域で イニシアティブが取れるのではないか と期待しています。 今年の人工知能学会全国大会では、 グリーンAIのセッションを企画して
います(図⑫) 。人工知能学会の学会誌 では七月号にグリーンAIの特集を組 んで一〇本ぐらいのグリーン・バイ・ AI論文を掲載していますので、ぜひ ご覧いただければ幸いです。 ここまで人工知能についてお話して きましたが、私の本業は実はAIでは なくて、自然共生デザインで、生態系 サービスの持続的利用と生物多様性の 保全に関する研究が普段の仕事です (図⑬) 。AI×自然共生で何ができ るかというと、ミレニアム生態系評価 が示す四つの社会像に対して、テクノ ガーデンの世界を夢見ることができる でしょう。生き物の構造と機能をもっ た都市構造を作り上げていくバイオミ ミクリーの話とか、ブレイン・マシン・ インターフェイスの技術を使って、ネ ズミの脳に機械の車を接続して、ネズ ミの力を増幅させる話とか、ハーバー ド大学のロボビーといって、ミリサイ ズ、センチサイズの蜂ロボットで人が
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■講演3
ICT in the classroom Using MediaWiki to create a “server-client” lecture Anthony Chittennden 北海道大学サステイナビリティ学教育研究センター・特任助教
[要旨] 北海道大学サステイナビリティ学教育研究センター(CENSUS) の実践からの報告。五カ国のパートナーキャンパスと接続されたビデオ会議 システムを使用したグローバルキャンパスの内容を紹介して, 「アジア・ア フリカ地域知,文化,言語論」 (AACLR)の説明に及ぶ。文化とは何かな どの議論を踏まえて,AACLR のコースを実際に組み立てていく過程で,ど のようなジレンマに直面してきたかを述べる。Wiki を活用して学内外での 議論を促進し,学生の自主性を引き出す授業や,E-Book の形で仕上げてい く講義のモジュール化を紹介。今後のさまざまな発展が期待できることにつ いて触れる。
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行けない秘境を探索する話とか、そう いういろいろなプロジェクトを大量に データベース化することで、帰納的に テクノガーデン・ワールドの具体的な 未来像が描けないだろうかと思ってい ます。 最後に、私がいま一番好きな事例を 紹介させてください。メルセデス・ベ ンツのバイオームという車があります。
図⑬ 車を培養するプラントがあって、そこ に種を放り込むと車が育っていきます。 車としての役割を終えるともう一度土 に返るように戻っていく。二二五〇年 発売ということらしいので、まだご予 約頂けると思います。このような車が ある自然共生の未来はどのようになる のかを今後も研究したいと思います。 ありがとうございました。 ――非常に面白いお話をありがとうご ざいました。異分野間の対話は、オン トロジーのかなり上の方に戻らないと 成立しないのではないかと思います。 サステイナビリティだけでなく、正義 であるとか平等であるとかアイデンテ ィティあるとか、社会の原理に近い部 分に関しての対話をオントロジーがど のようにサポートできるのか、取り組 んでいく必要があるのではないでしょ うか。
松井 まさにおっしゃる通りで、オン トロジーのツールで体系化された中間 概念を、ステークホルダー間の対話促 進に使えるのではないかということで、 今度アメリカでワークショップするこ とになっています。
齊藤 人工知能学会でもサステイナ ビリティ関連の研究が盛り上がりつつ あるということでしょうか。
松井 人工知能学の基礎からすると 異端かもしれないのですが、応援して いただいている動きはあります。人工 知能というと、計算機が全部解いてし まって人間を駆逐してしまうのではな いかというような印象もありますが、 人工知能任せでなく、人工知能と協調 しながら人間も育っていく、インテリ ジェントアンプリファイアとしてサス テイナビリティを支えていくのがいい のではないかと思っています。
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■講演4
Communicating scientific research through the web and social media Brendan Barret 国連大学メディアセンター・センター長
[要旨] ソーシャルメディアをサステイナビリティ学にどのように使うべ きかについて発表。イギリスにおける一般市民に対する社会調査によると, 科学者と世論との関係は強くないことや,研究の評価は雑誌の発行元と論文 の引用頻度によることが大きいことなどを紹介。また,同じくイギリスでの 調査から,研究の企画・データ収集・分析・研究成果の発信といった一連の 流れの中でのソーシャルメディアの役割とその影響について報告。国連大学 では,2008 年以降, 「Our World 2.0」を初めとしてソーシャルメディアを 利用していて,一般の人々との対話や交流の範囲が急速に進展して,情報公 開や共有により新たな協働が構築されつつあることを紹介。科学的コミュニ ケーションを創造し,一般の人々に情報を伝達する科学者になるべきである ことを述べる。
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の右側にある「環境らしんばん」は、 環境NPOにはどのような団体があっ て、どのようなイベントがあるのかが 誰でも見られるデータベースです。登 録した団体は自由に書き込みをするこ とができます。GEOCのウェブサイ
トでは、セミナー情報などを掲載し、 海外に向けて発信すべき情報は英語に 翻訳して掲載しています。 GEOCは、全国八カ所にある環境 パートナーシップオフィス(EPO) と連携しています(図④) 。EPOは、
図②
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環境省の地方事務所と地域のNPOが 一緒になって運営に携わり、環境情報 を整えたり、相談業務を行ったり、各 種のセミナーを開催したりしています。 地域の環境団体の概要や取り組みの実 績、どのようなキーパーソンがいるの 図①
■講演5
GEOCにおける環境情報コミュニケーション GEOCのソーシャルメディア活用
ほしの ともこ
星野智子 地球環境パートナーシッププラザ(GEOC
トナーシップを促進するような場を作 っていく、情報センターとして環境・ パートナーシップ情報を普及する、オ ープンスペースを運営するなどです (図②) 。 市民参加やパートナーシップ 構築のために、いろいろなセミナーや シンポジウムを企画・開催したり、ボ ランティアや企業のCSRに関する相 談に応じたりしています。情報発信に ついては、ライブラリースペースで資 料を公開することや、NGOなどから
)
地球環境パートナーシッププラザは、 「アジェンダ 」 (一九九二年の国連 環境開発会議(リオ・サミット)で採 択)で宣言された「様々な主体の参加 とパートナーシップを促進することに よって、地球規模の諸課題を解決し、 持続可能な社会づくりを目指す」こと を受け、一九九六年に国連大学と環境 庁(当時)によって設立されました(図 ①) 。 GEOCの活動は、市民参加やパー 21
送られてくるニューズレターや雑誌な どを所蔵して閲覧できるようにするこ となどがあります。また、多目的スペ ースをNGOに貸し出して、いろいろ な展示やワークショップができるよう にしています。 GEOCは国連大学の一階にリアル な場をもつと同時に、ウェブサイトか ら国内外への発信もしています。図③
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二つ目は、新着情報の投稿で、GE OCのウェブサイトの新着情報をコメ ント付きで Facebook に投稿します。 三つ目は、ブログ記事です。できる だけ一日一回以上発信したいと思って
います。ここ一年ぐらいは新人スタッ フを中心にスタッフが毎日のようにブ ログも書いています。それによってG EOCの日々の動きをどんどん見てい ただきます。
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でできるかこととして環 Facebook 境NPOと活動をシェアすることを考 えて います。各団体が持って いる と相互につながって、一緒 Facebook に増幅していくイメージです。
図⑥
かといったいろいろな情報をもってい て、その地域の団体や情報をつなげて パートナーシップの構築になるようは たらきかけています。 (図⑤) 。 GEOCの課題として、私たちがも
図③ っている資源を有機的に機能させるた めに、どのようにウェブを構築し活用 したらいいかということがあります (図⑥) 。その一つが の活用 Facebook によってGE です(図⑦) 。 Facebook
からGEOCのウェブへと Facebook 誘導できるようにしたいと思っていま す。
OCの情報発信力をさらに強めて、環 境 に 関 心を 持 っ て い る 人 を 、 そ の
図④
図⑤ 122
図⑨
は、リアルな場所がまずは中心として あります。そこに訪れることのできな い人も、ウェブサイトをみたり、ある いは Facebook を見みたりしていただ いて、いろいろな経路で環境情報を普 及していきたいと考えています。こち らからだけでなく、たくさんの方々か ら情報を集められるようにもしていき たいと思っています。 ぜひ皆さまのお知恵を拝借して発展 させていけたらと思っております。よ ろしければ、今日のお帰りにもぜひG EOCにお立ち寄りいただけるとうれ しいです。
齊藤 企業側のニーズとしては、GE OCに具体的にどのような問い合わせ があるでしょうか。 星野 企業からは、環境のNPOと協 働したいというお問い合わせが多いで す。単発的なものとして、一緒に川の
清掃をするボランティア団体はありま せんかといったようなものもあります が、もう少しじっくりと一緒に事業を 進めていくようなことでの相談もあり ます。例えば住宅メーカーさんが森の 保全について市民団体と一緒に取り組 みたいといったことです。企業の本業 の部分で協働したいということです。 経団連とお付き合いがあって、企業 の社会貢献担当者の研修会で、環境N POについて全体的なお話をさせてい ただくこともあります。
齊藤 企業に市民団体を紹介するの はどのようなかたちでされているので しょうか。
星野 スタッフの知見でご紹介する のですが、市民団体とのこれまでの信 頼関係を活かして、それがきちんとで きるのがGEOCの強みでもあります。 また、環境ボランティアをしてみた
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四つ目として、遊びの要素も取り入 れて日常の動きを投稿します。GEO Cは、ここ数年、国連生物多様性の日 に入り口前のプランターで田植えをし ていますが、その稲の成長記録を「今
日のいイネ」で毎日投稿するとか、ス タッフがランチ会をして出た話題を投 稿するとか、スタッフが出張で拾って きた話題を投稿するとか、考えていま す。
図⑦
「環境らしんばん」でも Facebook を始めていくことを計画しています (図⑧) 。 このようにして、情報の接点の多角 化を目指しています(図⑨) 。GEOC
図⑧
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――東日本大震災以後、従来型の環境 の議論がほとんど力を失ってしまった ような印象が私にはあります。これま では、環境のための環境の議論をして いて、緊急事態には備えてはいなかっ た面があるのではないかと思います。 サステイナビリティ・サイエンスの大 きな課題として温暖化問題があります。 今年になって大気中の二酸化炭素の濃 度がついに四〇〇ppmを超えました。 生物多様性の保全でも、多様性が失わ れていく状況は少しもよくなっていま せん。良識をもって環境を議論する人 たちがどれほど多くいようとも、さま ざまな議論をしようとも、ふと立ち止 まると、問題が少しも解決に向かって 進んでいないということに思い知らさ れます。サステイナビリティ・サイエ ンスを構築しようと一生懸命走ってき て、振り返ってみて、一九七二年に『成 長の限界』で指摘されたことをわれわ れは超えたのでしょうか。
われわれは良識では温暖化は止めた いと考えます。ところが止まらないの は、人間の健全なる欲望があって、政 治の力と経済の力で良識を押し負かせ ているという構造があるからなのでし ょうか。グリーンイノベーションとか グリーン経済とか唱導されていますが、 結局のところ通用しているのでしょう か。どうやったら変えられるのでしょ うか。経済学者であろうとも、倫理学 者であろうとも、誰も解決の方法を見 いだせていないところに、人間はどう して陥ってしまうのでしょうか。その 問題を、宇宙からみたら、AIからみ たら、ごくわかりやすく、言われてみ ればその通りだよねというような理解 を私どもに与えてくれる画期的な方法 はないのでしょうか。
松井 強烈なご質問をいただきまし た。それはわからないのが神秘的でい いのかもしれませんが。先ほど申しま
した今後のインテリジェントアンプリ ファイア(IA)としてのアーティフ ィシャル・インテリジェント(AI) の役割をご期待ください。
齊藤 重要な論点のご指摘がありま した。貴重なコメントをありがとうご ざいます。今後の企画に反映していき たいと思います。
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い市民と市民団体との出会いの場を提 供する「環境ボランティア見本市」と いうイベントも開催しました。公募し て四〇団体ぐらいにきていただいてい ます。信頼のできる団体としてGEO Cがご紹介するために一定のプロセス を踏んでいます。
齊藤 以上で、予定していた五つの話 題提供がすべて終わりました。会場か ら何かコメントがありましたら、どこ からでも結構です。 ――松井先生には、これから進展して いく研究成果をまた聞かせていただく 機会があればと思います。
松井 これから先、AIがどこにまで いくのだろうかと思いますと、私レベ ルの想像力ではちょっとみえないとこ ろがあります。 二〇一一年に、IBMのクイズ・ロ
ボットの「ワトソン」がクイズ番組で 世界一になったということがありまし た。 二億ページ分のテキスト・データ、 一〇〇万冊の本を読ませて、クイズに 答えさせたら、クイズのプロを破って 世界一に輝いたのです。また今年は、 日本で、電王戦という将棋のプロとコ ンピュータの対戦が行われました。五 局行って人間側が一勝三敗一引き分け でした。 計算機の技術の進歩はたぶん当分止 まらないでしょうから、大胆に想像し 得る限り幅広く集めて議論をしたいと 思っています。 ――今日の企画はコラボレーションを どう考えるかということでした。去年 ですが、第六回の世界水フォーラムが フランスのマルセイユでありました。 そのときのやり方は、 二年前ほど前に、 いままでに言ってきたことについてど う責任を取るのかということにテーマ
を決め、ソーシャル・ネットワークを 使ってかなり議論を積み重ねた上で、 最後にマルセイユに集まってアジェン ダを決めるというものでした。 サステイナビリティの論文がたくさ んあって、人のネットワークもかなり あって、今日のようなコラボレーショ ンの議論もあって、その先に何がある かというと、今後どのような時代に向 かっていくのかといった判断ではない かと思います。サステイナビリティ・ サイエンスとしての判断はこういうも のがあるという議論をしていく必要が あるのではないかという印象を今日は 持ちました。
齊藤 サステイナビリティの議論を どのようにして責任あるアクションに つなげていくのかということですね。 次のまたそのような議論の場を考えた いと思います。
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者に匹敵するような大量の犠牲者を生み出し ながら、自動車のもたらす便益は享受されて いる。犠牲者を減少させる努力は続けられて いるにせよ、現時点でこの自動車利用の便益 に支払う高いリスクは社会的に容認されてい るようだ。何せ、交通戦争に匹敵するような 多大の人命を損なう大きな事故はまだ起きて おらず、電力供給と言う莫大な便益をもたら す原発の巨大リスクは許容できないとして、 この廃絶宣言した国があるのに対し、本格的 に普及した時期は原発とあまり変わらず、し かし莫大な人命を損なって来たハイリスクの 自動車の使用をやめてしまおうとする国など 現れていないのだから。 こうしたリスク受容の非一貫性の例は、探 せばいくらでもある。紙巻タバコを吸うリス クなども理解に苦しむ。吸えば寿命に響くと 包装用紙に大書きしてある警告も無視し、わ ずかな快楽を楽しむ人が無数にいる。人は、 便益に対するリスクの受容性に一貫性がない ように思えることに不思議を感じないのであ ろうか。
話は突然変わるが、人の温冷感に関して面 白い性質がある。空調される部屋で、暑い寒 いと訴える人にフェイクの温度コントローラ を与えると苦情が減る。フェイクなので実際 に設定温度を上げたり下げたりできないが、 コントロールできると信じると、暑さや寒さ をそれほど感じなくなる。人は能動的にかか わると信じられるだけで、その世界の受容度 が上がる。リスクも同じように見える。その リスクに個人がアクティブに関与できれば受 容度が上がる。リスクをアクティブにコント ロールできると信じた人は、大きなリスクを 受容する。リスクのコントロールが自分では できず知らない人まかせであると受容度は下 がる。悪い結果はすべて人のせいである。 問題は、実際にコントロールができる、でき ないではなく、コントロールができる、でき ないと信じるだけで、受容度が変わることに ある。為政者や社会に信じ込まされていない か、大いに気を付けなければならない。
連載 エッセイ
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リスクの受容で考えること 最近、自然災害の頻発や欧州の経済危機、 「おれおれ詐欺」などの犯罪被害など、その 社会的な背景からリスクと言う言葉が妙に身 近になった。若い人は躊躇せずリスクを取る というから、リスクを考えるようになったの は、自分の歳のせいであろうか。 リスクは便益に伴うというのが一般的であ ろう。便益がなくリスクだけということもあ るかも知れないが、直接的ではないにしろ何 らかの便益があってリスクが存在すると考え るのが一般的のようだ。 誰も思いあたる悲惨なリスクは戦争であろ う。先の世界大戦は、彼の国が何らかの便益 を求めてリスクを取って始めたが、結果は凄 まじい。戦争犠牲者は、五五〇〇万人(内、 非軍属の民間人三〇〇〇万人(ユダヤ人虐殺 六〇〇万人) )にのぼる。日本人の大戦による 犠牲者は三二〇万人余(内、非軍属の民間人 八〇万人)である。ソ連、中国の犠牲者は、
それぞれ二〇〇〇万人、一〇〇〇万人とも言 う。現在でも核爆弾の使用を含めた大戦が勃 発すれば、七〇億人という人類が滅亡の危機 に瀕する。この圧倒的な数字を前にし、これ だけのリスクをおかすためにはどれほどの便 益が求められたのかと嘆かずにはいられない。 戦争は人が起こす人災であって天災ではない ことを考えると、戦争に至る紛争の合理的解 天災による 決方法の社会 人文科学的研究が、 勝らざ 被害防止などの物理的 科学的研究に、 るを得ない最優先課題であることを痛感する。 ところで、人類の文化の発展がもたらした 巨大なリスクに自動車交通がある。その莫大 な便益とともに交通戦争とも言われる自動車 事故のリスクを取っている。世界の犠牲者は 年間一三〇万人にも達しているという。日本 は一時期一万人台を大きく超えていたが、近 年減少し年間〇・五万人と言う。しかし、世 界で三〇年も積算すれば先の世界大戦の犠牲
加藤信介
かとう しんすけ
(専門は都市・建築環境調整工学)
東京大学生産技術研究所教授
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物館が協働で運営する公共施設で、東京大学 が所有する宝物をいわば無造作に何の脈略も なしに置いています。館長の西野嘉章さんの 思想のもとで、何ともいえないユニークな空 間になっています。展示物にはほとんど説明 がありません。置かれたものから直接に何か を感じてもらうためです。 ものを見て感動してもらおうとする点では 同じでも、IMTはより強く感性を刺激する ことを志向し、科学博物館は感動の次に理解 してもらうことを意図しています。理解には 文字による説明が必要です。しかし、あまり 丁寧に説明すると、何の先入観なしに感じら れるはずだったものが消されてしまう恐れが あります。 博物館には、感じる博物館と学ぶ博物館が あるといえるのかもしれません。学ぶ博物館 でも最初に感動がなければなりません。科学 の展示でも、科学がわかっている科学者・研 究者だけでなく、人はどのようなものを美し いと感じるのかといったことを理解している 人たちとともにつくる必要があります。残念
なことに、国立科学博物館ばかりでなく日本 の博物館はまだまだそのような点が弱いよう に思います。 国立科学博物館は一八七七(明治一〇)年 に教育博物館として創設され、湯島に移転し た際に関東大震災に襲われ、その木造の建物 が焼けて、集めたものほとんどが失われてし まった苦い経験から、一九三一(昭和六)年 に、当時としては非常に立派な建物が上野に つくられました。それが現在の国立科学博物 館の本館で、重要文化財になっています。し かし、いまではそれも手狭となり、二〇〇四 (平成一六)年に地球館を増設しました。そ れでも、少し混雑してくると、車イスでこら れている方が非常に窮屈そうになりますし、 特別展などで入場者が増えますと、中が混雑 しすぎて入場制限をかけなければならなくな ります。より大きなスペースを得ることが国 立科学博物館のもう一つの課題です。いろい ろな働きかけをしていますが、実現は容易で はありません。
連載 エッセイ
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学ぶ展示、感じる展示 今年の四月に国立科学博物館長に就任しま した。かつて東京大学在職中に東京大学総合 研究博物館長を二期七年間務めた経験がある ので、 博物館とは浅からぬ縁があるようです。 国立科学博物館は自然史(ナチュラル・ヒ ストリー)と科学・技術史(サイエンス・ヒ ストリー)を展示しています。英語の名称は で National Museum of Nature and Science す。 お台場には日本科学未来舘がありますが、 同じく「科学」を冠する博物館でも、あちら は最新科学技術を紹介するのを主としていま す。科学は「科」に分かれて細分化が進み、 全体像を俯瞰できなくなっているのが現代の 科学の欠点といわれています。国立科学博物 館では、細分化し先鋭化して進んでいる科学 の先端の部分だけを紹介するのではなく、ま るごとの自然、まるごとの科学を見せる展示 を目指しています。自然を対象として総合的 であろうとしている博物館として、国立科学 博物館のほかに兵庫県立人と自然の博物館、
福井県立恐竜博物館、千葉県立中央博物館な どがあります。人々の科学心や自然への関心 をかきたてることがこれらの博物館の大きな 使命です。 一般の人々、とりわけこれらの将来を担う 子どもたちに博物館に大勢きてもらって、い かにして興奮させ夢中にさせるかをわれわれ 博物館員は日夜考えています。人が何かに心 をひかれるのは、知的な興味もさることなが ら、美しい、または奇妙だと感じることも大 切で、むしろそちらの方が大きいのかもしれ ません。広く博物館といったときには、その 多くは美術館です。人はアートの部分に惹か れることがずいぶんと多いのです。 東京駅の丸の内南口を出たところの旧中央 郵便局の跡地に、今年の三月に九八店舗から なる商業施設KITTEがオープンしました。 その建物の二階・三階にインターメディアテ ク(IMT)が同時にオープンしました。こ れは日本郵便株式会社と東京大学総合研究博
林 良博
はやし よしひろ
独立行政法人 国立科学博物館長
(専門はバイオセラピー)
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に突然姿を消してしまったマヤ文明の揺籃の地で す。ワシャクトゥン遺跡はティカル遺跡から北へ 二四キロの所に位置し、紀元前三二八年の碑銘を もつ石碑が発見され、最後の石碑は紀元八八九年 の建立となっているので、その歴史は千数百年に
界及び死後の世界の地下界に分けられ、 太陽は朝、 地上に顔を出して天に昇り、夜、地下界に隠れま す。マヤの人々にとってこの太陽の永遠の運行が 非常に重要で、その為に香を焚いて神々に永遠の 太陽と豊かな生活の為の豊穣を祈る事は欠く事の 出来ない祭事であったといいます。
E7下層神殿( E-VII-Sub )と 南北に三つの 神殿の中間に、地面に白い石灰岩の粉で固めたサ ークルの祭場を造り、蝋や木切れをくべて焚き火 をして、祈ります。先の家族が、ここに香炉の蝋 をくべて炎と黒煙が立ちます。そして、サークル の縁に額ずいて祈りを捧げていました。 この白い、 石灰を盛った丸い祭場を四つに区切り(地界を四 つの方位に分ける) 、それぞれに固形燃料(樹脂) をしきつめ、さらに上にロウソクと木切れを放射
)の東側 およびます。E7下層神殿( E-VII-Sub には、南北に三つの神殿が並んでいて、春分と秋
で、神殿( E-III )の南側から昇る日を拝む人々で ごった返しているかと思いきや、大晦日で大騒ぎ をしたせいか、 ほとんど人影がありません。 また、 当日は残念ながら曇りでした。
、 candles 、 cigars 、 ocote 状に置き、中央に cacao ( )を束ねたもの(マヤの Montezuma pine wood 世界樹のイメージか?) を捧げて、 火を付けます。 祭壇ではなく、祭場を地面に直接描きますので、 大地への祈りとなります。 青山和夫によると、マヤ世界は天界、地界、地 下界の三層に分かれていて、(一) 天界は一三あり、
分の日には、中央の神殿( E-II )の真ん中から、 )の北側から、冬至の 夏至の日には左の神殿( E-I )の南側から日が昇ること 日には右の神殿( E-III が分かっています。元旦の祈りにふさわしい遺跡
ここの石積の台座(E7下層神殿( E-VII-Sub ) ) 村から来た家族が、古代マヤから伝わ で、 Copa 」を焚いた特別の形の る蝋と香「コパル( Copal) 香炉を囲んで厳かに祈りと瞑想をしていました。 仲間に入れてもらって、ともに新年の瞑想と祈り をマヤの神に捧げてきました。マヤの信仰では、 世界は、神々の棲む天界、人々の生活の場の地上
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マヤ暦の紀元に立ちて 「
Ⅰ マヤの 緑の枯山水」 古代マヤ文明のマヤ暦では、紀元前三一一四年 が紀元で、二〇一二年一二月二一日に五番目の太 陽の時代が終焉を迎え、約五〇〇〇年の時を経て 暦が一巡します。二一日は冬至に当たり、その日 の出をもって、マヤ歴の新紀元が始まる、元旦で す。 マヤ暦の大晦日の一二月二〇日に古代マヤの都、 グアテマラのティカル ( Tikal ) 遺跡を訪ねました。 ペテン低地にあった古典期マヤの最大の都市で二 五〇〇年前に繁栄を極め、ピラミッド群の周囲に 六万人もの人々が暮していたと推定されています。 その古代マヤの都ティカルのⅠ号神殿では、マ ヤ暦を終える大晦日の祝いの準備が急ピッチです。 ここには、マヤの聖樹(世界樹)セイバの木( Ceiba 、学名 、英名 :Kapok tree 、 : Ceiba pentandra Tree )が多く、まさにマヤ界の中心 Silk Cotton Tree
といった風情があります。セイバは白肌で、横に 枝が伸び、樹形も変わっていて、なおかつ樹幹や 枝にはびっしり、蘭やパイナップル科の着生植物 が生えていて、確かに、他の木とは別格の感じが します。蘭やパイナップル科チランジア属のチラ
)の着生植物とまるで共生系 ンジア( Tillandsia をつくっている感じです。 チランジアのなかには、 サルオガセモドキのように、樹木の枝から根が多 数垂れ下がり、 簾を羽織っている風情もあります。 蘭やチランジアの着生植物は、セイバ樹から無機 栄養をもらい、窒素固定(窒素固定菌とさらに共 生)をして窒素をセイバ樹に供給しているでしょ うから、それで、一層、旺盛な生育をするのかも 知れません。 一二月二一日マヤ暦新紀元の元旦に、ワシャク
トゥン( Uaxactún )遺跡に行きました。古典期 マヤ文明は紀元前三〇〇年ころワシャクトゥンで 始まり、そこからティカル、パレンケ、コパン、 キリグアへと勢力を拡大していき、西暦八三〇年
大崎 満
おおさき みつる
北海道大学大学院教授
(専門は根圏環境制御学・植物栄養学)
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新暦で初めての晴天となり、新生マヤの太陽を浴 び続けました。コパン遺跡はグアテマラとの国境 近くに位置し、紀元前一五〇〇年ころには既に人 が住んでいたとのことです。近くには、 翡翠を産 するモルグア川の支流コパン川が流れ、また、カ カオの産地でもあった野で肥沃な土地であったと 推定されます。ここの遺跡もティカル遺跡同様セ イバ樹が旺盛に茂り、コンパクトにまとまった村 という感じで、自然と調和を図ったマヤ観がよく でているような気がします。レリーフ等のデザイ ンからも顔の表情などが、柔らかく、ひょうきん なのもあります。メキシコのオアハカのモンテ・ アルバン遺跡のレリーフと似た感じで、意外とマ ヤ族がひょうきん族であったかもしれません。 マヤ文明では、一〇〇種類以上の植物を栽培化 し、現在の世界の作物数の六割を占めているほど で、また、花卉では、ポインセチア、コスモス、 マリーゴールド、ダリア等の花が世界中で咲き誇 っています。インドに先立ちゼロを発明していま すし、文字をもち、正確な歴をつくり、高度な文 明基盤を持ちながら、石器文化にとどまったとい
うのは、全く不思議なことです。文字を持ち、正 確に自然の運行を解析していたなら、自然現象を 外観化し、絶対化するのが、これまでのほとんど の文明のたどった道です。外部に判断基準を設け て、それに従う。一神教の神とか、哲理とか、理 性とか、法律とか、とか。もちろん、マヤでも大 きな都市社会を形成していたので、何らかの規律 はあったでしょうが、マヤの碑文をみても、モー ゼの十戒のような成文化した規範はみあたりませ ん。しかも、マヤ暦は約五〇〇〇年という悠久の 時を円環します。時は進むのではなく、循環する のです。土木技術もピラミッドを作る高度な技術 があったにもかかわらず、自然を大規模に改変し ようとした痕跡もありません。車(車輪)を発明 できなかった低レベルの文明というのが、欧米の 研究者の長らくの見解でしたが、車も作っていま した。要は、多量に物資を運ぶ必要がない、その 生活圏でまかなえる以上の欲をもたなかったため に運搬手段はそれほど重視されなかったのかも知 れません。 自然 のなかにて足るものによりて文 明を構築し、それ以上の欲のための技術を発達さ せる必要がなかったともいえます。現代の物質文
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「
」
神や月や金星などが住み、 (二)地界は人間界で、 (三)地下界は九つで、一番下に死の神が住むと いいます( 『マヤ文明─密林に栄えた石器文化』 、 岩波書店) 。地界は四つの方位に分けられ、その方 位には、それぞれ赤、黄、白、黒色のセイバの木 が生え、その木の上には、聖なる鳥ケッツアルが とまっている。そして、その世界の中心には、母 なる大樹、緑のセイバの世界樹が生えており、そ の枝は天界まで延び、その根は地下界まで延びて いる。つまり、セイバの大木は、天上界と地下界 をつなぐ世界樹、つまり世界の中心軸です。セイ バは、マヤ人にとって過去から現在まで世界の中 心にそびえ立つ神聖な木であり続けています。 また、マヤ人のピラミッドは山信仰をあらわし ます。 ピラミッドのことを古典期のマヤ文字では、 「ウッツ(山) 」と呼び、文字通り山信仰と関連す る宗教施設で、神聖王の祖先の神々が宿り、人工 の神聖な山を象徴します。「マヤ低地は比較的平坦 なので、マヤ人は、人工の神聖な山を建設した。 それだけでなく、日本の山岳信仰のように自然の 山も崇拝した。マヤの山信仰は、洞窟信仰と深い 関係があった。洞窟は、神聖な山の空洞、内部で
もあり、過去から現在までのマヤ人にとって宗教 的に重要な場所である。ビラミッド状基壇の上の 神殿の入口は、洞窟あるいは超自然界への入口を 象徴した。 」 (同上書) 。 グアテマラ東部に美しいアグア山がありますが、 標高は三七六六メートルで形も富士山に似ている 火山で、飛行機からこのような火山が幾重にも連 なってみえます。マヤ低地でも、山がないことは ないのですが、丸みをおびた丘陵の山脈(やまな み)です。時々噴火する、富士山に似たような火 山が、マヤの 山 なのです。その象徴がピラミッ ドで、どうも日本の庭園のように自然を抽象化し て崇拝している感じがします。ピラミッドの配置 も星座の配置と関連があるようですが、これも自 然の抽象化でしょう。どうも、マヤの都市とは、 日本の枯山水を大きくしたようなもので、 これを、 マヤの枯山水と呼んでおきます。 密林に囲まれた、 生命力豊かな 緑の枯山水」です。 」 「
「
一二月二四日に、ホン ジュラ スのコパン
( Copán )遺跡を訪れました。朝は東に朝日に向 かって走り、夕は西に夕日に向かって走り、マヤ
134
『星の王子さま』は砂漠が舞台と思っていまし たので、熱帯雨林の要素も入っているという指摘 は刺激的で、しかもそれもマヤの密林です。 バオ バブの木」は セイバの木」というのには賛成いた します。 バオバブの木」はサバンナにまばらに生 えていて、旺盛な繁殖をしません。しかし、王子 さまは、 バオバブの木」は放っておくと、星の地 面は毒でやられ、星の全面にはびこり、その根は 星を突き抜けてしまい、星が崩壊してしまうとい は旺盛に生育しますし、 っています。セイバの木」 ほうっておくとマヤの遺跡を覆い尽くしてしまい ます。その根は到る処で遺跡を貫いています。 『星の王子さま』が、急に陰影のある成人とし て立ちあらわれてきた感じがしました。『星の王子 さま』のバラは妻のコンスエロをモデルとしてい るでしょうから、ますます濃密なバラの薫りが漂 ってきます。コンスエロは手記で「それにサンド バル家は一流の家柄だった……私の一族には、司 祭もいたし、枢機卿さえいた……私はスンシン家 からマヤ族の血(これはパリでもてはやされてい た)をたっぷりと、そして彼らが喜ぶだろう火山
の伝説を受け継いでいた。 」と述べ、中米のマヤの 文化が濃密な地域で育ち、それを誇りに思ってい たことが理解できます。 (コンスエロ・ド・サン=
テグジュペリ『バラの回想―夫サン テ =グジュペ リとの一四年』 、香川由利子訳、文藝春秋) 。
「
そのコンスエロの手記を読むと、メキシコの画 家の[ディエゴ・リベーラとフリーダ カロ]が[サ
「
・
ン テ =グジュペリとコンスエロ]と入れ子のよう になっている感じがしてきます。J・M・G・ル・ クレジオによると、 [ディエゴ・リベーラとフリー ダ カロ]の関係は、創造においてこれほど結ばれ た夫婦は二度と出てこないだろと、相互入れ子の ような描写をしてみせます( 『ディエゴとフリー ダ』 、新潮社) 。 ・
ディエゴの絵は天才──神秘的で傲然たる力、 筆先でフォルム、影、特に動き、集団の対立や 肉体のいらだちを浮び上がらせる一種の不死本 能──を表現する。天才とは彼の内部にいるフ リーダ、彼女の視線、彼女の意志、彼女の明察 力である。(中略)彼女はディエゴの眼によって
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「
「
「
明からすると、まことに奇妙な文明です。
Ⅱ『 星の王子さま』 の 惑星の枯山水
「
」
時訪れた時は二本だけであった、これも物語に 登場する バオバブの木」そっくりだ。/最後に 王子の体を噛むヘビは、三つの火山のふもとに ある火山湖コアテペケに由来するというのも私 の推察。先住民の言葉で ヘビの丘 を意味する からだ。 「
」
・
コンスエロは『星の王子さま』のバラだ。絹の ように柔らかな花びらを持っているかと思えば、 棘も持っている。火山のエピソードの文章と挿 絵はコンスエロの生まれ故郷、火山の国に因ん で書かれ、描かれた。なによりもまず、コンス エロは、王子さまが常にその許に戻っていくこ とになるバラの花なのだ。すなわち、 「君が自分 なじみになったものに対して、君はずっと責任 があるんだからね。君は君のバラに対して責任 があるんだよ……」というように。
『サン テ (鳥取絹子訳、 =グジュペリ 伝説の愛』 岩波書店)の解説でも、次のように記されていま す。
また、 伝記作家アラン ブィルコンドレも写真集
「
日本経済新聞の文化欄 (二〇一〇年六月二九日) に平尾行隆の「 『星の王子さま』中米生まれ」とい う記事が載っていました。サン テ =グジュペリの 妻、コンスエロ・ド・サン=テグジュペリの故郷 アルメニア市(エルサロバドル)こそ『星の王子 さま』の情景ではなかろうかという記事で、驚き とともに、腑に落ちるところもあります。コンス エロの故郷アルメニア市を三度目に訪れたとき、 畑の向こうの三つの山を見て虚をつかれ、王子の 星の原風景ではないかと思ったそうです。 晴れた空を背景にくっきりと稜線を描く山々。 これこそ王子が愛した故郷の三つの火山ではな いか。二つの火山と一つの休火山という事実も 一致する。/コンスエロは裕福なコーヒー農園 主の長女として生まれた。農園の入口には先住 民マヤの聖樹、セイバが三本あったという。当
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(サン テ =グジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、 新潮文庫) 。 さきほど、風が、ぼくを狩り立てるように、追 いまわした、 それからのがれるために、 ぼくは、 動物のように輪を描いて逃げまわった。つづい てぼくは、呼吸困難に陥った、胸を膝で押さえ つけられているような。膝で、この天使の重さ に対して、僕は戦った。砂漠の中で、ぼくは一 度も、孤独な気持ちはしなかった。いま、ぼく は自分を取り巻くものが信じられなくなり、自 分の中にもぐりこみ、目を閉じて睫毛 (まつげ) 一本動かさずにいる。さまざまなイメージの奔 流が、ぼくを押し流してゆく、その行く所に、 静かな思いがまっていると、 ぼくに感じられる。 河は深い海の中へ流れこんで、やがて静かにな るではないか。(中略)/人間を、十九時間で、 干物にしてしまう西風が吹いている。ぼくの食 道は、まだしめきられてはいないが、こわばっ て痛い。何か掻きむしるようなものが、もうそ こには感じられる。やがて話に聞いている、あ の咳が始まるはずだ。ぼくは待っている。舌が
邪魔になる。それよりもっと重大なのは、ぼく にもうまぶしい斑点が見えることだ。この斑点 が、炎に変わる時が、いよいよぼくの倒れると きだ。
脱水で脳に血液がまわらなくなり、おそらく脳 の統合が緩んで、 「さまざまなイメージの奔流が、 ぼくを押し流してゆく」や「ぼくにもうまぶしい 斑点が見えることだ。この斑点が、炎に変わる時」 といった、瞑想の極限といいますか、一種のトラ ンス状態に陥っています。
サン テ =グジュペリは四度の飛行機事故を起こ しますが、南仏のサン=ラファエルでの海での飛 行機事故で、呼吸が止まった瀕死の状態で、担架 で運ばれてきます(コンスエロ・ド・サン=テグ
ジュペリ『バラの回想―夫サン テグジュペリと = の一四年』 、香川由利子訳、文藝春秋) 。
あまりに慌てていたので、私は最初に目につい た瓶をつかんだ……それは犬の毛をブロンドに 染めるのに使っていた純アンモニア液だった…
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国〉が生んだ奇蹟」で、簡潔に指摘しています(河
フランスには人間を規定する非常に明確な定義 があります。人間とは理性をもった生き物だと いうものです。では、理性をもたないように見 える人間、たとえば幼い子供はどうなるのかと いうと、いたって簡単なことで、それは人間で はないということになります。なんとも乱暴な 定義ですが、フランス社会は長いことこの原理 で運営されてきたし、いまもそれほど変わって いません。
出書房新社編集部(編集) 『星の王子さまとサン = テグジュペリ 空と人を愛した作家のすべて』 、 河 出書房新社) 。
サン テ =グジュペリはコンスエロに多大な影響 を受けたと思いますが、本人自身がそれを受け入
つまり、 「内観性」は、理性を中心とした外部規 範でものを考える、いわば「外観性」の文化にお いては、最も劣った性質です。この「内観性」の
見、その感覚によって感じ、その精神によって 判断する。 彼女はディエゴであり、 ディエゴは、 まるで彼女がその身体の中に入れているかのよ うに、フリーダの内部にいる。
れる資質がなければなりません。サン テ =グジュ ペリは、「授業中、 突然、 瞑想状態に陥る癖があり、 教師に指名されても、見当違いな答えしかできな かった。 」 (稲垣直樹『 「星の王子さま」物語』 (平
極限を、サン テ =グジュペリは砂漠の不時着で味 わいます。ベンガジからカイロへ向かう途中、砂 漠に不時着して、二〇〇キロほどを三日彷徨し、 水が切れて、意識が朦朧としてきた時の情景です
絵画と文学の違いはありますが、そのへんを斟 酌して、この文の[ディエゴ・リベーラとフリー
凡社新書) )そうです。サン テ =グジュペリには、 非常に強い 「内観性」 が備わっていたと思います。 「内観性」が強いと、フランスではどういうこと になるかということを、鹿島茂が「 〈子供のいない
・
ダ カロ]を[サン テ =グジュペリとコンスエロ] に入れ替えても、そのまま成り立つ気がします。 コンスエロは『星の王子さま』の創作に際し、夫 サン・テグジュペリに多大なインスピレーション、 とくにマヤの世界観を与えたと思います。
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ものではないでしょう。コンスエロを追って、そ の胸をめがけて、海に突っ込んでいったとしか思 えません。まるで駄々っ子が、母親の注意を引く ために、海に飛び込んだようなものです。 『星の王子さま』は、サン テ =グジュペリが幾 度かの生死を超え、ガタガタの体となりながら、 アメリカ合衆国の田舎で、コンスエロとのつかの まの平静な暮らしのなかで、生まれました。この ような状況と、サン テ =グジュペリの未完の『城 砦』をヒントにすると、 『星の王子さま』は「樹」 が 水 をとおして「大地」と 大空」を結びつける 物語といえます。そして、コンスエロの バラ の 物語が重層してきます。 」 「
「
「
」
樹木とは、種子、茎、しなやかな幹、そして枯 れ木と移りゆくもの、そのそれぞれではない。 樹木を知るためには、 樹木を分割してはならぬ。 樹木とはゆっくりと伸びていき、大空と結びつ くあの力なのだ。(中略)もしお前が、自分とは、 このオリーブの木にしっかりとつながり、揺れ ている枝だと悟ることができるなら、お前自身
の揺らぎのうちに永遠を味わうことができるだ ろう。そしてお前を取り囲むものすべてが永遠 となる。 お前の祖先に水を与え、 歌っている泉、 愛する女がお前に微笑みかけるときの、その眼 差しの光、爽やかな夜、すべてが永遠となるの だ。 ( 『城砦』の断章一) (片木智年「いま読みた
い、 『星の王子さま』以外のサン テ =グジュペリ」 (河出書房新社編集部(編集) 『星の王子さまと
サン テ =グジュペリ 空と人を愛した作家のす べて』 (河出書房新社)から引用) 。
マヤ文明は、火山の象徴としてのピラミッドと 聖樹セイバの配置で、枯山水を大きくしたような 「
枯山水」都市をつくりました。サン テ =グジュペ リも、マヤの火山と聖樹セイバ(バオバブ)で、 宇宙に 惑星の枯山水」をつくりました。枯山水と は、みかけじょう生命的要素を抜きとった無機的 要素により自然を抽象化することにより、逆に、 「
「
」
生命のある自然(つまり 自然 人 : や生命と調和 した、 人や人の魂を含むことができる自然の意味) とは何であるかをネガとして映しだすものです。
141
…。/ああ、これで胸を温められるわ、あなた はなんて凍えているの!/毛むくじゃらの胸は、 こちらがむせ返るほどのアンモニアを吸い込ん だ。オーデコロンよりもよかったのだ。アンモ ニアはすでに向こう側にいってしまっていたト ニオの肺に入り込み、気管支を反応させた。ト ニオは呼吸を取り戻し、身動きした。鼻から水 が出てきた。/私は恐怖にとらわれて叫んだ。 /「助けて、夫が死んでしまう、みんな行って しまったの!」/でもトニオは奇跡的に意識を でもトニオはその日から、夜、 回復した 。 (中略) 眠たがらなくなった。彼は窓に顔をくっつけ、 私は寝巻姿でその後ろに立ち、手を引いてベッ ドに連れていく。彼はまた起き上がる。私はま た捜しにいく。そういうことが一ヶ月……たぶ ん二ヶ月は続いた。/彼は死人のようだった。 彼は死を経験したのだ。今では死を知っている のだ。 さらに、離婚して傷心のコンスエロは祖国エル サルバドルに帰還の途中の汽船で、グアテマラに 近づくとサン テ =グジュペリの飛行機がグアテマ
ラで墜落したとの電報が入ります(同上書) 。
トニオの顔は、 ほとんど見分けがつかなかった。 腫れ上がっていたのだ。誇張ではなく、五倍ぐ らいに膨らんでいた。(中略)/そしてこの男は 私の夫だった。ときおり、彼は片目を開けた。 もう片方はガーゼで完全に固定してあったのだ。 光りが目をかすめるとき、彼の頭の中では人に 理解できないような何かが起こっていた。彼が うめき声をあげると、私は運命がこね回し、血 を流させ、 壊し、 変形しておもちゃにしている、 その貴重な体を救おうと、彼が戦っているのが わかった。彼の人としての意識の底で、戦いは 過酷だった。そのとき、まだ、意識があったと してだが。/私はやがて、彼のすべての傷を自 分の中に感じるようになった。ベッドのそばの 小さな椅子に座り、ときおり私の服や顔に光を 注ぐ彼の目をうかがっていた。そうして何週間 も過ぎた。
もう、これはサン テ =グジュペリが仕事でたま たまグアテマラに飛んで、事故を起こしたという
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す。 」といいます。 通常、星の光が密になったのを天の川と考える のですが、それはただ砂利みたいなもので、本当 の川はその背後の真空だと先生(賢治)はいうの です。で、しかもその真空は水だというのです。 賢治の心を充たすいわば「心象水」とでも理解し ておけばよろしいでしょうか。 つまり、 銀河とは、 砂利が多く集まった、いわば枯山水です。 宮沢賢治も「内観性」が強かったようです。 『銀 河鉄道の夜』で、賢治の化身のジョバンニがカム パネルラ等と別れて牧場のうしろのゆるい丘に登 り、草の中に横たわっているうちに、眠ってしま います。しかし、夢を見たという物語でもなく、 眠ったというよりは、意識はある瞑想の世界に入 っていったようです(以下引用は、 『宮沢賢治全集 7』 (ちくま文庫)の宮沢賢治『銀河鉄道の夜』よ り) 。 ジョバンニはゆるい丘に上りますが、 それは 「牧 場のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな 頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんより も低く連なって見えました。 」 というような丘です。
何とも奇妙な丘で、単なる丘なら「平らな頂上」 のような表現をするでしょうか。頂上というから には、高い山で、この丘はかなり高いのではない かと思います。遠くから見ると、早池峰山は「平 らな頂上」の山に見えます。また「ゆるい丘」に 登っていく情景がまるで、早池峰山に登る感じな のです。しかも単なる「平らな頂上」でなく「黒 い平らな頂上」なのです。なぜ、頂上が黒いのか。 夕暮れなら頂上だけはまだ相対的に明るいはずで す。早池峰山だとすると、蛇紋岩地帯ですので、 黒っぽくみえます。蛇紋岩は超塩基性岩で、マグ マが露呈したもので、マグネシューム含有率が高 く、黒っぽい色になります。
ジョバンニは、もう露の降りかかった小さな林 のこみちを、どんどんのぼっていきました。ま っくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのし げみの間を、その小さなみちが、一すぢ白く星 あかり照らしだされてあったのです。草の中に は、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もゐて、 ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さ っきみんなの持って行った烏瓜のあかりのよう
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Ⅲ 宮沢賢治の「 銀河の枯山水」 畑山博はサン テ =グジュペリ文学の特色を、 「 「人間は、本来、樹木として作られているのだ。 太陽の重みを引き受けるほど力強く」という美し い言葉が『南方郵便機』の中にあります。/この 大地は、ただ太陽の恵みによって生かされている 未熟児保育器のようなものではないのだと、宣告 している言葉です。/太陽と対等な大地。/むし ろ、太陽が墜落しないように支えてやっている大 地の樹。/太陽が墜落せずにいられるのは、虚弱 な大地の上に、樹という意志を持った支柱が生え たときからなのです。 」と指摘します( 『サン テ = グジュペリの宇宙 「星の王子さま」とともに消 えた詩人』 、PHP新書) 。そして、畑山博は、宮 沢賢治とサン テ =グジュペリと共通の感性として、 「水」感覚が、恐いほど似ているといいます。 眠りからさめたとき、ぼくはあの夜空の水盤以 外の何も見なかった、そのゆえはぼくがとある 砂丘の頂点に腕を十字に組んで、あの星の生簀
に顔を向けて横たわっていたからだ。 (サン テ = グジュペリ『人間の土地』堀口大學訳)
上記と、宮沢賢治の最奥哲学の結晶である次の短 歌を並べてみるだけでも、それは一目で分かると いいます。 この世界 空気の代わりに水よみて 人もゆらゆら泡をはくべく
このように、賢治もまた、天は空気でもエーテ ルでもなく、水という生命の源であるものによっ て静かに充たされるべきであったと感じる作家だ ったというのです。 『銀河鉄道の夜』で先生が授業 で「この天の川が本当に川だと考えるなら、その 一つ一つの小さな星はみなその川のそこの砂利の 粒にもあたるわけです。(中略)そんなら何がその 川の水にあたるかと云ひますと、それは真空とい う光りをある速さで伝えるもので、太陽や地球も やっぱりそのなかに浮かんでゐるのです。つまり は私どもも天の川の水のなかに棲んでゐるわけで
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ぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍 のように、ぺかぺか消えたりともったりしてゐ るのを見ました。 それはだんだんはっきりして、 とうとうりんとうごかないようになり、濃い鋼 青のそらの野原にたちました。いま新しく灼い たばかりの青い鋼の板のような、 そらの野原に、 まっすぐにすきっと立ったのです。/するとど こかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀 河ステーションと云う声がしたと思うといきな り目の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万 の火を一ぺんに化石させて、 の蛍烏賊(ほたるいか) 、またダイ そら中に沈めたという工合 (ぐあい) モンド会社で、 ねだんがやすくならないために、 わざと穫れないふりをして、かくして置いた金 剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ば ら撒いたという風に、眼の前がさあっと明るく なって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦 ってしまいました。/気がついてみると、さっ きから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っ てゐる小さな列車が走りつづけてゐたのでした。 この『銀河鉄道の夜』は、賢治の物語の中でも
かなり特殊です。時空を全く自在に飛び回ってい る感じです。しかも、人の感情に襞 (ひだ)にまで 分け入っていきます。黒い平らな頂上をもつゆる い丘が、早池峰山とするなら、その頂から見る銀 河は、 まる手が届きそうな近くに見えるはずです。 漆黒の闇のなかで、日高の山中だとか、モンゴル の山中だとか、特に新月のときは、星々が宝石の ように輝き、 手ですくい取れそうな感じがします。 賢治の銀河はそのような銀河です。早池峰山から みると、銀河の両端は大地に繋がっていて、くい 込んでいる様に見えるでしょう。そして、下界で は、微かな列車の灯りがその南端の銀河に向かっ て動いていく。地に接した南端の銀河が「銀河ス テーション」です。そこから、銀河鉄道となり、 銀河沿いを登っていくのです。北極に近づくにつ れて寒くなるような描写が出てきたり、結局、銀 河の北端から、大地におよび戻ってきます。銀河 鉄道はなんとなく、宇宙にふわふわと浮いていく イメージだったのですが、地の道(レール)と天 の道(銀河沿いのレール)は同じ規格で繋がって いることになります。銀河なので、宇宙戦艦大和 のように、船がむしろ良かろうと思うのですが、
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だと思いました。/そのまっ黒な、松や楢の林 を超えると、俄かにがらんと空がひらけて、天 の川がしらしらと南から北へ亙 (わた)ってゐる のが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられ るのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、 そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだした といふように咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き続 けながら通って行きました。 森林を抜けると、 俄かにがらんと空がひらけて、 つりがねそうか野ぎくかの花が咲きほっています から、草原に出たのでしょうが、まるで早池峰山 の森林限界を抜けた風景です。低い丘で草原がこ の地域にあるとはとても思えません、貧しい村で あれば樹を植えているはずです。宮沢賢治が胡四 「経を埋めるべき山」と記 王山 (こしおうざん)を、 述していたことや、文語詩未定稿「丘」でも胡四 王山をとりあげているということで、ここが「ゆ るい丘」の可能性がありますが、 『銀河鉄道の夜』 の描写からすると胡四王山の情景ではありません。 胡四王神社の神楽殿は「山上の木にかこまれし神 楽殿」と賢治が記述していて、現在、賢治記念館
やイーハトーブ館が建てられているとはいえ、遠 景は森林に被われた山(丘)で、頂上に草原が広 がっていると丘とはとても思えません。 「まっ黒な、松や楢の林を超えると、俄かにが らんと空がひらけて」草原のようになります。そ こから、さらに頂が見えるのです。これは、単な る丘ではないでしょう。また、 「天気輪の柱」の意 味は不明のようですが、池峰山とすれば、山頂の 不思議な神事に関わるような柱々のような気がし ます。 霊山早池峰山の天気輪が林立する山頂で、ジョ バンニは、天気輪の柱の下に来て、どかどかする からだを、つめたい草に投げました。そして、瞑 想の世界に誘われていきます。 『銀河鉄道の夜』の 話の終わりに、瞑想から覚めますが、 「ジョバンニ は眼を開きました。もとの丘の草の中につかれて ねむってゐたのでした。胸は何だかをかしく熱 り頬はつめたい涙がながれてゐました。 」 で、 (ほ) 夢から覚めたというよりは、ジョバンニの、賢治 のもう一つの認識世界から覚めたということです。
ジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつか
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の「自然物」すべてに対しても、同様の意識を 抱いていました。分かりやすく言い換えるなら ば、 「人間も自然の一部である」と考えていたの です。 「
・
」
僕が最初に花巻を訪れたのは昭和四十四年(一 九六九年)のことでしたから、古い民家はまだ 残っていましたし、北上川周辺の景色もほぼ昔 のままでした。けっして暗くて陰鬱というわけ では無いのですが、陰影が深く、ざしき童子が 本当に出てきても不思議でない風景がそこには ありました。そのとき、 「賢治は想像ではなく、 見たまま、ありのままを描いているんだ」と実 感したのです。(中略)/もちろん、動物が言葉 を話したり、あたかも風や水の流れにも命があ るように表現された作品を読むと、「とても見た ままの風景を描いたようには思えない」とも感
夜』も賢治が経験した 自然 が描かれていて、空 想ではないと思います。早池峰山からみると、銀 河は手に届くように近く、その一端は野の果てで 大地と繋がっています。銀河鉄道は大地と天空の 融合した路線を走っていきます。これは齋藤茂吉 の 実相観入」の世界ですが、これに相当する概念 を賢治は 「心象スケッチ」 という言葉を用います。 ロジャー パルバースは、 賢治の 「心象スケッチ」 を次のように解釈します。
「
賢治以外の日本の作家でも、自然を美しく描い た人はたくさんいますが、彼らと賢治とでは、 自然との関わり方が根本的に異なっています。 ほとんどの作家は、遠くから客観的に自然を眺 めながら、その素晴らしさや美しさを書いてい ます。つまりは受動的に自然と対峙している。 /ところが賢治の場合は、自ら野や山に分け入 って能動的に自然と関わろうとしている。そし て自分の目で見て、肌で感じた自然を、まるで 手帳に書き留めるように作品に描き出していま す。(中略)逆にいえば、自然と触れ合う機会が なければ、彼はなにも書けなかった。賢治にと って、自然は「ライフブラッド」 (生きるために は、なくてはならないもの)だったのです。 自然は「ライフブラッド」ですので、ここでい われている自然は 自然 の意味です。『銀河鉄道の
147
「
」
賢治にとって、地道と天道は一体のものであると いう「心象」が、早池峰山から見ると、結ばれた といえます。また、早池峰山からみたとすると、 銀河と大地の壮大なスケールからすると、立ち位 置の早池峰山ですら 平らな丘 というちっぽけな 感覚をもったのでしょう。 ジョバンニ、賢治はまるで天と地を眺望する頂 から、列車にズームインして乗車し、列車ごと銀 河ステーションにズームアウトしていきます。こ れはまるでタオの世界で、 自然 の中に熔け込ん でいくのを暗示します。と同時に、光の束(億万 の蛍烏賊の火)が見えてきて、深い瞑想状態、ト ランスの状態に陥っているのもうかがえます。サ 「
」
「
」
ン テ =グジュペリが、砂漠で脱水のはてにみた光 の束です。すべてが熔けて、光りになっていく感 覚といってよいでしょうか。意識自体が光りとな ってあらゆるものに吸収されていく感覚でしょう か。 ・
ロジャー パルバースは、賢治の「自然」につい て興味深い指摘をしています ( 『宮沢賢治 銀河鉄 道の夜』 、NHK出版) 。
一神教であるユダヤ教、イスラム教、キリスト 教の中で一番重要なといかけとはなんである か?「私はなぜこの世に生まれたのか。いった いなんのためにうまれたのか」/でも僕は、賢 治は「なぜ自分はうまれたのか」という問を抱 かなかったと思うのです。彼は仏教という宗教 に深く帰依していたとはいえ、もともとは自然 科学的な考え方をする人です。(中略)/彼の内 面を支配していた悩みとは、それとは別のもの で、絶えず自問自答をくり返していました。で は、その問とは何か。それは「なぜ私は私であ り、 私はあなたではないのか」 という疑問です。 そして考え抜いた末に賢治が行き着いたものが 「いや、私はあなたであり、あなたは私である」 という答えでした。 」
前章の最後に、賢治の作品や彼の行動の根底に 流れている「私はあなたであり、あなたは私で あり、すべての人はつながっている」という意 識について少しお話しましたが、彼は人間だけ でなく、山、川、風、空、土、動物、昆虫など
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正月三日、コヨアカン地区の現在「フリーダ・ カーロ博物館」になっている、フリーダ・カーロ の《青い家》に出かけました。博物館は、一九〇 四年に両親が建てたフリーダの生家で、またフリ ーダが実際に住んでいた家で、通称「 La Casa (青い家) 」と呼ばれていて、外壁や塀は真 Azul っ青に塗られ、緑が多いため、まるで空があるい は海が描かれている感じがします。真っ青さがむ しろ自然と調和している。庭には石像が、さりげ なく置かれ、小型のピラミッドもあり、そこにも 石像が置かれています。まるでマヤ界の中に棲ん でいる感じです。マヤ界の枯山水に豊かな緑が再 注入されたような、不思議な空間です。 それを、J・M・G・ル・クレジオは次のよ うに描写します( 『ディエゴとフリーダ』 、望月芳 郎訳、新潮社) 。 《青い家》──フリーダの身体の延長であり、 どの石、どの家具にも、思い出のマランコリー と、苦悩のしるしが染みこんでいる避難所── 自ら選んだ孤独の中で、フリーダは次第に、デ ィエゴ・リベーラを中心とし、 その不屈の愛が、
彼女を全宇宙に、生きている一片一片に結びつ ける宗教の厳粛な司祭となってゆく。空の光に 向かって成長する植物──三本の木蓮のなめら かな幹、沼杉の灰色の草むら、木の葉の蔓の絡 まりあい──や、高い壁に閉ざされた庭は、彼 女がもうほとんど旅することのない今、全世界 ──愛玩する動物たち、鳥、ソチミルコの市で 買い、彼女の人形 (ひとがた)ともなった無毛の 犬たち(イツクイントレ)──を見出すことが できる一種の閉ざされた宇宙となる。そしてそ の飾り気なさ、その弱々しさばかりでなく、さ まざまな年齢の根底からにじみ出てくるやや寂 しげな様子によって、フリーダにとって人間の 条件の原型を表している幼時たち(エスクイン クレス) 。 「
空より濃い壁の青で、空までも 緑の枯山水」にと りこんだような、マヤの小宇宙庭園です。家屋に は、彼女が使っていた家具や調度品、小物類まで そのまま展示され、彼女が使っていたベッドや、 アトリエ、コルセットや車椅子、夫のディエゴ・ リベラの作品が多数飾られていました。ベッドに
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じるはずです。しかし、僕は〝本当に〟賢治の 目にはそう見えていたと思うのです。 たとえば、 画家のフィンセント ファン ゴッホを例にとる と分かりやすいかもしれません。ゴッホの作品 は実際の事物と比べると、色も違うし、形もデ フォルメされているように映ります。でも、ゴ ッホの目にはそう見えていた! ・
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ゴッホのこのような見方を小林秀雄は「巨きな 眼」といいましたし、斎藤茂吉は、 「人と自然の融 合した実相」にせまる日本伝来の認識(感性)を ゴッホに誘因されて再認識し、 「実相観入」という 概念に濃縮していきました。 「実相観入」とは思考 上の枯山水です。外部情報をむしろ極力排除しな がら、 「内観法」で引き算の思考でぎりぎりの要素 は何かをさぐりあてていくものです。 枯山水とは、 そのような思考の結晶ですが、思考というよりは 感性の結晶化といったほうがよいでしょう。宮沢 賢治は『銀河鉄道の夜』で、大地と人と銀河を融 合した「銀河の枯山水」を描いたといえます。
Ⅳ フリーダ・ カーロの「 マヤ界の枯山水」
グアテマラの帰途、メキシコにより、メキシコ の女性画家フリーダ・カーロの絵を見にでかけま した。二〇一三年正月二日、チャペルテペックの 国立メキシコ近代美術館で、フリーダ・カーロの
『二人のフリーダ』みました。 『 sol y vida (sun 』は、生命の樹を思わせる素晴らしい画 and file) で、太陽と根を結びつける構図です。 フリーダ・カーロは、一八歳になったばかりの 一九二五年九月、乗っていたバスが斜め前から来 る路面電車と衝突し、瀕死の重傷を負います。回 想によると、バスの一本の手すりが、雄牛を貫く 剣のように、わたしを串刺しにしたとあります。 腰はすっかりやられ、小水をすることもできず、 脊柱も損傷しました。この恐ろしい事件がフリー ダの生涯の流れをまったく変え、孤独と、苦痛の 呪いの中に彼女を閉じこめてしまいます。 そして、 深く自分を見つめ、生命を見つめていくことにな ります。
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は抱く、宇宙、大地、私、ディエゴ、メキシコ (二人が飼っていたエ のセニョール ショロトル スクィンクレ犬) 』の中で、フリーダは彼女の人 生をつくったすべてを再創造する──植物性の 肉体を持ったインディオの乳母、陰陽の力ある いは二面性を有するアステカの神、そしてテナ ワの女に抱かれ、ひたいに科学の眼を持ち、両 手でもぎとられた心臓の炎をかかえた雌雄両性 の嬰児ディエゴ──彼の愛人の足もとには、古 代メキシコ人の神話によれば、いつか、 〈太陽の 家〉に到達するため死の河を渡るときに力をか してくれるカカオ色の犬がうずくまっている。 /フリーダがあれほど永いあいだディエゴとい っしょに演じてきた愛と憎しみの残酷なゲーム は、今、人生の終わりなきゲームとなる。虚無 からむしりとったどんな細片も、彼女を育て、 太陽の強すぎる光や、いけにえの血みどろの暴 力のように、彼女の本質を伸ばしてゆく。その ときフリーダは彼女の愛人の肉体の内部にはい り、所有し、彼が掴むものすべてを共有する女 神となった。彼女はまさしく、大地の女神、肉 欲と死との女神、トラソルテオトルである。
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フリーダの身体的苦痛と、 ディエゴとの愛憎と、 瞑想癖と、マヤ地域社会との接触で、絵と生活空 間自体から「マヤ界」の要素を抽出 抽象した「マ ヤの枯山水」をフリーダはみせてくれました。そ れらは、 「内観法」と瞑想により、自身と文化の共 通要素を抽出し抽象化した、 「感性の文化」の極限 を示したものです。これらが形となり、形式化し たものが「枯山水」とよばれるものです。フリー ・
ダ カーロとサン テ =グジュペリは、かなり肉体的 極限がこの思考 感性に影響をおよぼしたと思い ますが、宮沢賢治は、肉体的極限はもたなかった ものの、宗教的な瞑想の訓練をある程度受けてい たでしょうから、そこから独自の気質で、両人の 達した境地に至ったと思います。極限の感性の世 界は、 「枯山水」のごとくであることを、マヤの紀 元に立ちて悟りました。
連載 エッセイ
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は上に鏡が張ってあって、これで自画像を描いて いたという。そうまでして絵画にこだわった、表 現することにより、自分の生命力をなんとか維持 しようとしていた強さを感じます。 J・M・G・ル・クレジオはフリーダ・カーロ がなぜこのような小宇宙を内面に創りあげたを見 事に描いてみせます(同上書) 。 まだ、ほとんど絵を描いていないころ。 他人とは違った人間であるという苦しみはフリ ーダの本当の自己形成力である。そのころの彼 女はほとんど絵を描くことを考えていなかった。 しかし幻想と夢の世界の中に生きており、自分 の部屋の窓に意識的にもう一人のフリーダ、自 分の分身、自分の姉妹を浮かび上がらせ、孤独 の代償を見いだしている。「窓ガラスに息を吹き かけ、その上に指でドアを描く」と、フリーダ は日記に書いている。 「そのドアから、わたしは 胸をおどらせ、息せききって、想像の世界に入 (ピンゾン) 》という名の ってゆく。 《 PINZÓN の〈 〉 乳製品工場まで走ってゆく。 PINZÓN Ó
という字から入り、地球の中心に向かって下っ てゆくと、いつもそこには《わたしの心の中の 友だち》が待っている。わたしはもう彼女の姿 かたち、髪の色もおぼえていない。しかしわた しは、彼女が陽気で、よく笑っていたことは知 っている。音はしなかった。彼女は敏捷で、ま ったく重さがないかのように踊った。わたしは 踊りまわる彼女につきまとい、同時にわたしの 悩みをすべて話した……」 。 /フリーダはその後、 絶対に彼女の分身から離れない。一九三九年に 描かれた『二人のフリーダ』と題された絵、手 を握り、隣りあわせに座り、二つの心臓は同じ 動脈で結ばれシャム双生児がそうだ。日々進ん でゆく身体障害、苦痛に悩まされる孤独の中の 幽閉は、子供の夢を幻想に変え、鏡の中に限り なく捜し求めるもう一人の彼女自身に、ほとん ど神話的な価値を与えた。
そして、亡くなる直前に描いたフリーダの達した 世界観を描いた絵。
彼女の最も複雑な絵、 一九四九年に描かれた 『愛
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が、一旦乾燥すると硬く固まって植物は育た ない。そのため黄土地帯の森林を伐採してし まうと、ほとんど再生は困難で、露出した表 土は雨に流されて河川は黄土の泥流と化す。 実は唐代までの長安郊外は豊かな大森林地帯 であった。 特に終南山山塊に続く南の郊外は、 深い森の中に古寺や山荘が点在する景勝の地 であった。王維も郊外の香積寺を訪ねた際に 「古木人逕なく、 深山いずれの鐘ならん」( 「香 積寺を過ぎる」 )と詠み、ここが深い森の中で あったことを記している。ところが一九〇〇 年代の初期に撮られた写真を見ると、香積寺 は黄土の荒野にポツンと建っているにすぎな い。深山の趣などどこにもない。これには理 由がある。 唐代後半から長安はしばしば反乱・一揆に 見舞われる。 街は焼かれ宮殿も被害を受ける。 その復興復旧に用いられたのが森林の樹木で ある。これは燃料にもなった。長安の繁栄を 支えたのは、郊外の森であった。唐王朝が滅 びたとき森も消えていた。長安は国都として の資産を使い果たしたのである。秦の始皇帝 以来、ほぼ一千年にわたって長安の需要を満
たした森林は消えた。その後、政治と文化の 中心は東に移る。 このように見ると、都市と森はきわめて深 い関係にあることが分かる。木材・燃料ある いは食料となる鳥獣、いずれも都市の生活に は不可欠のものであった。 現代では状況が変わるが、それでも人間の生 活の中で森の果たす役割は重く大きい。二酸 化炭素と温暖化の関係が指摘され、熱帯雨林 の機能が重視されてから、ようやく森林の価 値に目が向けられ始めたが、それでもアマゾ ンの原生林は一日にかなりの面積が消失して いる。 かつては樹木に覆われた黄土高原、レバノ ン杉の森が広がる大地、今は消え去った景色 ではあるが、それは将来への警鐘でもある。 ここでは都市と森と云ったが、その都市をよ り広く人類と読み替えてもいい。古人の詩に ことよせて駄弁を弄したが、都市の繁栄を支 えた森林が消えるとどうなるか、いやどうな ったか、それは必ずしも過去の出来事ではな く、むしろ眼前の問題として捉える事が出来 る。
連載 エッセイ
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渭城の朝雨 いじょう
うるお
渭城の朝雨軽塵を 浥 す 客舎青青柳色新たなり 唐の詩人王維が詠んだ有名な「元二の安西 に使いするを送る」詩の一節である。西安の 北郊、渭水に臨む古都渭城。もとは秦の始皇 帝の築いた咸陽である。王維は友人の元さん が西域に使者として旅立つのを送りにここま で来た。おそらく二人は、前夜ここの旅舎に 泊って、 別れの酒宴に興を尽したのであろう。 目を覚ますと朝方の雨に黄土の細かい砂塵は 洗い流され、中庭にある柳の木は青青とした 葉を芽吹かせている。詩はここで、 「君に勧む さらに尽くせ一杯の酒」と転じて、別れに臨 んでもう一杯となるのだが、場合によっては それが今生の別れになるかもしれない。 ところで唐代の長安(今の西安)には、春 になると芽吹いた楊柳の枝を折って旅人に贈 り、無事を祈る習慣があったという。雨に洗
われた柳の枝の青さは、手折ろうとして手を 伸ばした王維に、鮮烈な印象を残したようで ある。黄砂にくすんだ情景が、一転して鮮や かな色彩の世界にかわる。実に巧みな手腕と 云わざるを得ない。 唐の時代は軽塵ですんだが、現代では春先 の西風に乗ってくる黄砂は、汚染物質が付着 した危険物である。朝雨にあえば衣服にシミ とい が出来る。おまけにこの西風は P.M.25 う発がん物質さえもたらす。とても「青々」 とはいえないし、枯れる柳も出て来よう。考 えてみれば、文明はつねに歴史の中にその病 痕を残して発展してきた。ギリシャ・ローマ 時代に始まるレバノン杉の森の壊滅以来、地 上から姿を消した森林は数知れない。乱伐、 あるいは開発という名のもとに、生態系に重 大な影響をあたえてきた。換言すれば、人類 の歴史は環境破壊の歴史ともいえる。 ところで、長安は黄土の堆積帯の辺縁にあ たる。黄土は多様な養分を含んだ土壌である
山田利明
やまだ としあき
東洋大学教授
(専門は中国哲学)
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ることもあって、焼畑用地などに苦労 して植林をしたものの経済的な見返り をまだ得られていない林家が多い。世 界農林業センサスなどの統計データを ひねくり回してみたところ、特にその ような林家が数多く暮らしているのが 四国山地の山村であった。 利便性が低く、開発などが行われて
いないなどいろんな条件を加えて、「不 便なところに暮らしながら、お金にも ならない山を持ち続けている人たちが たくさん暮らしている村」ということ で選ばれたのが柳野であった。そして なんでそんなことをしているのかを探 りに行ったのである。結局、その答え はよくわからなかった。タイミングを 逸しただけだという人もいた。将来へ の期待を語る人もいた。ただ持ってい るだけという人もおり、いろんな意見 があったけれど、目の前に広がる山々 との日常的な繋がりがとても薄れてい ることはわかった。 その頃の柳野では、あちこちでコウ ゾやミツマタなどの和紙原料の栽培が 続けられていた。山の上で作られるこ との多かった和紙原料が家屋に近い畑 で作られるようになってはいたけれど、 冬には二メートルほどもある大きな甑 で枝を蒸しているのをよく見かけた (図2) 。 それが最近ではミツマタは三
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飛んできて、 トンボが舞うようだった」 と語る。 私が柳野で調査を始めたのは、「失礼 な選択」が切っ掛けであった。日本全 国の山々は、主に昭和三〇年代あたり からスギやヒノキの植林が進んだ。こ れらの植林はお金になるまで数十年掛 かり、また丸太価格の低迷が続いてい
図1 柳野に今も残る架線(2013 年筆者撮影).
図 2 甑とコウゾ黒皮(2010 年、筆者撮影).
忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑪
ストーブひとつで暖が取れるわけもな い。押し入れから緞帳を引っ張り出し てきて、それで部屋を六畳ほどに区切 って、そのなかに座卓や布団、ストー
日本文化を支えてきた和紙原料の衰退とこれから たなか もとむ
田中 求 東京大学大学院農学生命科学研究科助教 (専門は環境社会学)
大学四年生であった一九九五年の秋 から正月が明けるまで、高知県吾北村 (現、いの町)柳野地区の公民館で暮 らした。 広さ二〇畳ほどもある部屋は、
ブを持ち込んだ。 赤色鮮やかな緞帳は、 やや落ち着かなかったが寒気の遮断に 活躍してくれた。聞き取り調査から戻 ってくると、柳野のオンチャン・オバ チャンたちが天ぷらや柿などの差し入 れを座卓に置いておいてくれることが 良くあった。村の人たちはこの緞帳部 屋にどんな気持ちで入ったのだろうと 思うと、 今でも笑いがこみ上げてくる。 柳野は、昭和四〇年代まで焼畑での ミツマタや雑穀などの栽培を行ってき た山村である。現在の柳野の山にはス ギ・ヒノキの植林や広葉樹、竹やぶな どが広がっている。しかし、かつての 山は畑に入れる肥草や屋根葺き材料と なるカヤなどの採草地が広がり、春先 には白い花を咲かせるミツマタに包ま れ、また山のずっと上まで棚田が連な っていたという。 柳野のオンチャンは、 「山から収穫物などを下ろすための架 線(図1)がクモの巣のように張り巡 らされ、夕方になるとブーブブーブと
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ら輸入されてくる原料も多い。中国で 技術指導を行い、 向こうで生産した 「和 紙」を日本に持ち込んで多少の加工作 業を加えた後、国産和紙として販売す る業者もいると聞く。日本の紙幣には マニラ麻のほか、国産ミツマタが用い られてきたが、二〇一〇年から中国や ネパールから輸入された安価なミツマ タが主となった。いつのまにか、本当 の和紙が消えつつあることも余り知ら れていないのが現状だ。 栽培者は、和紙原料がどのような和 紙になり、どこでどんな風に使われて いるのかをほとんど知らなかったりも する。だから、土佐コウゾで作られた 世界で最も薄い紙である土佐典具帖紙 が、ルーブル美術館や大英博物館など 世界中で文化財の修復に用いられてい るということを話すととても驚く人も いる。 また、和紙原料を栽培している農家 さんたちの状況は、和紙製造者や消費
者などに知られていない。情報の共有 がなされていないまま、和紙原料が消 えようとしているのだ。 一〇〇〇年保つ和紙を作るには、適 地が限られる高質な和紙原料の栽培地 がとても重要だ。柳野は日本各地にほ んの少し残されたそんな栽培適地のひ とつだ。このところ、柳野に行くとコ ウゾ畑の草刈りばかりしている。問屋 さんや和紙業者さんに話を聞いたり、
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買取りの交渉をそれとなく進めること もある。話しを聞き取って学会で発表 して論文に書いて終わりというのでは なくて、どうやったらコウゾやミツマ タという柳野の大事な資源が受け継が れ、またそれで食べていけるようにな るのかを、鎌を持って右往左往しなが ら探っている。少しずつ答えは見えか けている。
図 4 柳野のみなさんと筆者(2010 年,筆者撮影).
世帯、コウゾも八世帯が栽培している のみである。 話を聞いて回ってみると、 いくつかの問題が生じていることがわ かった。栽培者は一人を除いてみな七 〇代以上であり、なかなか十分に畑の 手入れができず、その結果、問屋さん での買取り価格が下がっていた。三年 ほど前からはイノシシによるコウゾの
図 3 100 年余り受け継がれてきたコウゾの株と栽培者の黒 石正種さん(2012 年筆者撮影).
食害が深刻化していた。一〇〇年ほど 前から受け継いできた株が数十株も枯 れてしまったという八〇代のおじいさ んは、もう栽培を止めようと思うと語 っていた(図3) 。 まあ、柳野のコウゾが無くなってし まうのも仕方が無いのかな、と思いな がらも少し調べてみると驚いた。この 柳野が、全国のコウゾ生産量の六%ほ どを担っていたのだ。実は近年は和紙 原料についての正確な統計資料がない のだけれど、柳野や問屋さん、町役場 などの聞き取りからすると、二〇一〇 年の全国のコウゾ黒皮生産量は約四〇 トン、高知県が約二〇トン、このうち 柳野産が二・五トンであった。かつて は全国で二万八〇〇〇トンあまりも生 産されていたことからすると激減であ る。柳野も昭和四〇年代頃までは四〇 トンほど作っていたようだ。 柳野は良いコウゾやミツマタが取れ る場所であったとは聞いていたけれど、
ここまで重要な産地として残ってきた ところだとは思っていなかったのだ。 日本はこの数十年間でものすごい早さ で変化してきた。そのなかでいつの間 にか忘れ去られたり、切り捨てられて しまったものがたくさんある。そんな ものを、フィールドワークを通しても う一度拾い上げてみようというテーマ でこのエッセイの連載コーディーネー トを続け、たくさんの方々に執筆をお 願いしてきた。和紙や和紙原料も消え つつあるもののひとつなのだと思う。 そもそも和紙の定義というのは明確 ではない。材料や漉き方などで定義が 試みられてもいるが、和紙は日本文化 の基盤であり、 障子紙や書道用の半紙、 紙幣、団扇、和傘、提灯、ちり紙など のほか、日本画や版画用の和紙や文化 財の修復用に用いられる和紙もある。 あまりにも多様で、また製造技術も進 んでおり、 なかなか定義が難しいのだ。 近年はタイや中国、パラグアイなどか
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0歳からの ちいさなかがくのとも
)
『 くりくりくりひろい』
・
文・構成 平松 あい)
( 福音館書店 四一〇円) 澤口たまみ・文 サイトウマサミツ・絵
(こどもサステナ
(
こども サステナ
にまなぶ
2013 秋の号
くりごはんが だーいす きなぼく。近くでも拾える のよ、とお母さん。くり拾 いに行ったけど、くりは見 あたらない。えーっこのト ゲトゲがくり!? いたい! どうやってとるの!? 初めての栗拾いに◎ 読んでから栗拾いにでか けたくなる本。
数粒ずつ配る。客人はいたく感動してしまい、すご
ぎ 、さ ら に 口も 八 丁 手 も 八 丁と い っ た 具 合 。 保 育園
0 歳 サ ス テナ を 始 めて 3 年 、わ が 息 子 も 3 歳 を 過
つ、チャッカリ自分の分をたっぷり確保するという
片手いっぱいとり次々と口へ。いい子そうに見せつ
ずつ配っておいて、人が話をしている間に大皿から
いすごいとほめる…のだが。よくよく見ると、少し
で「お子さんを漢字一つで表すと?」という問いに、
作戦を母は 見抜いた!
チャッカリ、ウッカリ
思 わ ず 「 得 と 書 いて チ ャ ッ カ リ と 読 み ま す 」 と 答 え
るようだが、このかわいさに騙されたらいかん。
て、「あげるね♪」と人に渡し、「いらないの?
あ
の と こ ろ に 寄 って く る 。 か と 思 う と 、 半 分 ま で 食 べ
食べてしまい、 「みんなで一緒にたべようね♪」と人
大 好 きな お や つ は 、 自分 の 皿 の 分 を ち ゃ ち ゃ っと
に出てきたものが食べられなくなってしまった。ほ
けではないんだがねえ。ある時は欲張り過ぎて、次
ーのようだ。しかし、なんでも一番がいいというわ
きな年頃らしく、一番大きい、一番多い、がモット
食に関しては極めつけだが、どうも「一番」が好
一見イイことを言ってい
てしまった。まあなんというか、ウマイのだ。
りがと。」と受け取ったら、かわりに人の皿のまだ手
こないだ「おかーさん何歳?」と聞いてきた。 「二
らね、欲は適度にしましょう。チャッカリやったつ
最 近 は も っ と 高 度で 、 客 人 が 家 に き た 時 の こ と 。
五歳だったかな?」というと、負けじと「おれ次、
つ か ずの お や つ をと って 、 ア ム ア ムと 食 べ だ す ( そ
ブドウを大皿で出したところ、 「はい、どーぞどーぞ
三〇なるから!」年は大きい方がいいとは限らない
もりが、ウッカリな結果。
♪」と 数 粒 ずつ皿に 配 り、にこ にこ 。母と 客 人が食
ということを、まだわかっていないようだな。
れは、あげるね♪じゃなくて「交換」だ!)。
べ終わると、 「あっ、とってあげるから!」と、また