サステナ第38号

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■司会挨拶

たむら まこと

田村 誠

では、開会に先立って、このシンポ ジウムの主催者の一人である、サステ

授のミランダ・シュラーズさんに基調 講演をしていただきましてから、星槎 大学学部長ならびに東京大学名誉教授 の山脇直司先生と討論をしていただき ます。その後で、参加型討論というこ とで会場の皆さんにグループディスカ ッションを行っていただきます。主催 者側がしゃべり続けるのではなくて、 皆さんに討論へ参加していただきます。 ICAS機関長の伊藤哲司がファシリ テーターを務めさせていただきます。

茨城大学地球変動適応科学研究機関(ICAS)准教授

本日はお集まりいただきありがとう ございます。 このシンポジウムは、茨城大学と一 般社団法人サステイナビリティ・サイ エンス・コンソーシアム(SSC) 、そ して国立研究開発法人国立環境所の共 催で、「エネルギーから考えるポスト震 災社会とサステイナビリティ学」とい うタイトルのもとで行ってまいります。 私は全体の進行を務めさせていただ きます茨城大学地球変動適応科学研究 機関 (ICAS) の田村誠と申します。 どうぞよろしくお願いいたします。 本日の流れは、ベルリン自由大学教

イナビリティ・サイエンス・コンソー シアム理事長の仲上健一先生からご挨 拶をいただきたいと思います。

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SSC シンポジウム

エネルギーから考える ポスト震災社会と サステイナビリティ学

2011 年の東北地方太平洋沖地震以降の「ポスト震災社会」では,エネルギー 政策のあり方が再検討されています。本シンポジウムの前半では,ミランダ・ シュラーズ氏によるドイツのエネルギー政策における科学技術と倫理の課題 に関する基調講演と,それに対する山脇直司氏からのコメント,そしてそれ への回答によって,本テーマを掘り下げました。続くシンポジウムの後半で は,前半の内容を踏まえて,参加者全員によるエネルギーとサステイナビリ ティに関する参加型の討論会を行いました。

●主催:茨城大学 一般社団法人サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC) 国立研究開発法人国立環境研究所 ●日時:2015 年 5 月 23 日(土)13:00~16:10 ●会場:茨城大学水戸キャンパス人文学部講義棟 10 番教室 2


はないかと思います。 基調講演をしてくださるミランダ・ シュラーズ先生は世界的に活躍され、 この茨城とは非常に深い関係がありま す。山脇直司先生からコメントを頂戴 することで、すばらしい内容の講演と 討論になると期待しています。 そして、 SSCシンポジウムとして初めての試 みとして、茨城大学の学生さんも交え て参加者全員でこの問題を議論するこ とを予定しています。講演を聞いて、 せいぜい数人の方が質問をするという やり方ではなくて、全員参加で議論を より深めていきたいと思っています。 私自身の専門は水問題で、二〇一五 年四月に第七回の世界水フォーラムが 韓国の大邱でありました。そのときの 主要なテーマが、水を巡る正義と倫理 でした。水の問題を単に工学の視点か ら考えるだけでなく、正義と倫理の問 題として捉えることが大切だというこ とを実感してきました。

エネルギーの問題も正義の問題、倫 理の問題として考えることが重要であ るということがこの後の基調講演で出 てくると思いますし、全員参加型の討 論もそういった側面から進んでいくか と思います。 本日のシンポジウムでは、 これまでのシンポジウムとは一味違っ た成果が出ることを期待しています。 皆さまどうぞよろしくお願いいたしま す。

田村 どうもありがとうございまし た。 では、基調講演に移りたいと思いま す。ベルリン自由大学のミランダ・シ ュラーズさんから「ポスト震災のエネ ルギー政策から考える科学技術と倫 理」というタイトルでご講演をいただ きます。ご本人からも自己紹介があり ますが、水戸一高に一年間いらしたご 経験がありますので、今日ここにきて いただいていますのは非常に縁を感じ

るところだと思います。また日本語で お話をいただけます。学生さんにとっ てはドイツについて知るいい機会とな るでしょう。ぜひしっかり聞いてくだ さい。 では、どうぞよろしくお願いいたし ます。

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■開会挨拶

なかがみ けんいち

仲上健一

ります。今回は「エネルギーから考え るポスト震災社会とサステイナビリテ ィ学」という極めて重要なテーマを設 定して、皆さまに準備していただきま した。 東日本大震災から四年半になろうと しています。震災からまだ半年になら ない二〇一一年六月二五日に東日本震 災復興構想会議から『復興への提言― ―悲惨のなかの希望』という報告書が 出されました。そのときに議長であっ た五百旗頭真先生が当時の菅首相に 「しっかり読んでください」と言って 手渡したのですが、その報告書の冒頭

サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC)理事長

皆さまこんにちは。 本日のこのシンポジウムをSSCと ともに主催していただきました茨城大 学の皆さま、三村学長、伊藤先生、田 村先生、そして国立環境研究所の住理 事長にまずお礼を申し上げます。どう もありがとうございます。 SSCとしましてはこのシンポジウ ムを非常に重要なものとして考えてい ます。 これまでに第一回を東京大学で、 第二回を北海道大学で、第三回を大阪 大学で、第四回を国連大学で、第五回 を国立環境研究所で開かせていただき ました。今回の茨城大学で第六回にな

に七つの原則が掲げてあります。原則 四として「地域社会の強い絆を守りつ つ、災害に強い安全・安心のまち、自 然エネルギー活用型地域の建設を進め る」とあります。これは単なる文章と して終らせてはいけないものです。ス マートコミュニティというかたちで実 現に向けた動きもありますが、四年た ったいま非常に重要な課題となってい ます。今日のテーマはこの原則四の中 身を深めていくような意味をもつので

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を今日は皆さんにお話したいと思って います。私はここ八年間ぐらいドイツ に住んでいて、日本と関係があったこ とから、ドイツのエネルギーヴェンデ の議論の真っただ中に入っていくこと になりました。なぜかというと、福島

ドイツのエネルギーヴェンデの背景 にはいろいろな考えがあります (図②) 。 一つは地球温暖化の心配です。ドイツ は一九九〇年ぐらいから地球温暖化の 政策をいろいろ取り入れています。ド イツでは、八〇年代ぐらいから、近代 技術は世の中を変えすぎているのでは ないかということが言われ出しました。 技術のリスクと社会について、私たち は技術をよく考えずに使っていて、そ れでいろいろな悪影響が出てきている のではないかという議論が少しずつ強 くなってきていました。その一つとし て地球温暖化の心配があって、私たち が化石燃料を大量に使っている現状を どうにか変えないとダメじゃないかと いうことになったのです。 もう一つの背景は原子力発電です。 これも技術のもたらすリスクと社会と の関係が非常に強い問題です。チェル ノブイリ原発の事故があって、ドイツ では一九八六年から原子力をやめよう

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の原発事故があって、私に日本の経験 があったものですから、メルケル首相 からドイツ倫理委員会のメンバーにな ってくださいと言われたんです。とい うわけで、私の話には、日本とドイツ とアメリカの経験が出てきます。

図①

図②


■基調講演

ポスト震災のエネルギー政策から考える 科学技術と倫理 ミランダ・ シュラーズ s r u e r h c S . A a d n a r i M

( Energiewende )という言葉がはや っています(図①) 。エネルギーヴェン デは、日本語ではエネルギー転換とい うのかもしれませんし、あるいはエネ

今日の話で、ドイツの経験を皆さん に伝えたいと思っています。 ドイツではいまエネルギーヴェンデ

エネルギーヴェンデとは

ますが、許してください。あるいは手 伝ってください。

ベルリン自由大学教授/ドイツ倫理委員会委員

皆さんこんにちは。茨城にきて家に 帰ってきたような気持ちです。私の日 本のふるさとはやっぱり茨城ですよね。 ドキドキしています。私が昔ホームス テイしたのは三五年前ですが、そのと きお世話になった家族の方々もこちら に座っています。 私はアメリカ人で、いまはドイツに いて毎日ドイツ語で頑張ろうとしてい るのですが、今日は日本語で頑張ろう と思います。もしかしたら話のなかで 日本語が出てこないときがあると思い

ルギー革命といっていいのかもしれま せん。いずれにせよ、エネルギーヴェ ンデは、私たちがこの一五〇年間、二 〇〇年間ぐらい使っている化石燃料と、 五〇年間ぐらい使っている原子力燃料 をやめようとするものなので、それは 革命といっていいような転換だろうと 思います。それを実行するためには、 私たちの経済の背後にあるエネルギー の制度を変えなければなりません。 どうして今のドイツは、エネルギー ヴェンデを行っているのか。その背景

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任があるので、何かをやらなければい けなかったのです。 いまは世界のなかでヨーロッパが出 している温室効果ガスの割合は一〇パ

ど大きくはありません。しかし、経済 大国としてたくさん輸出している国が エネルギーヴェンデを達成できるのな ら、望みがあるということになるでし ょう。ですから、ドイツの一つの大き な考え方として、地球温暖化対策にド イツが大きな役割を果たせるとしたら、 まず自国のエネルギー転換を達成する ことであると考えています。それに成 功すれば、多くの国もこれは可能性が あるということがわかって後に続くよ うになるでしょう。 ハワイのマウナロア観測所で、二〇 一三年に初めて大気の中の二酸化炭素 濃度が四〇〇PPMを超えたことを観 測しました(図④) 。四〇〇PPMとい うのは、地球温暖化が厳しくなり、危 なくなってきたことを示すものです。 予測される地球温暖化のトレンドを 見ますと(図⑤) 、私たちは二一世紀末 に地球の平均気温が三℃上昇する流れ に乗っているのかもしれません。これ 図⑤

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ーセントぐらいです。ドイツの割合は 三パーセントぐらいです。三パーセン トですと、たとえドイツがゼロにして も、地球全体へのインパクトはそれほ 図④


としてきました。 さらにもう一つの背景として、ドイ ツは日本と似てたくさんの化石燃料を 国外から輸入しているということがあ

図③

ります。どこから輸入しているかとい うと、中東とロシアが多いです。しか し、中東もロシアも政治的にあまり安 定していません。中東では非民主主義 の政治が続いている国が多くあります。 そのようなところからエネルギーを輸 入するのは倫理的にどうかという議論 があります。経済的に考えますと、エ ネルギーを輸入するとコストが高くな ります。将来もっと輸入する必要があ るということになれば、コストがもっ と膨らんでいきます。 最後に自然エネルギーです。ドイツ では八〇年代ぐらいから自然エネルギ ーを導入しようとしてきました。自然 エネルギーを増やせば、エネルギーを たくさん輸入しなくてもよくなります し、もっともっと安全なエネルギー制 度、将来的なエネルギー制度が作れる ようになります。 以上のようなことから、将来に向け て安定で安全なエネルギー制度を考え

ようというのがドイツのエネルギーヴ ェンデなのです。

ドイツの地球温暖化政策

次に、地球温暖化の話をします。一 九六〇年代には、アメリカとヨーロッ パがたくさんの地球温暖化ガスを出し ていました(図③) 。九〇年代でもまだ アメリカとヨーロッパが中心です。だ から、九〇年代に温室効果ガスを削減 するためのいろいろなセッションが始 まったころには、ヨーロッパが非常に 大きな役割を果たしました。ヨーロッ パのなかでもドイツは経済的に大きく て、九〇年ですと、ヨーロッパの経済 の三〇パーセントぐらいを占めていま した。いまはほかのヨーロッパが少し 大きくなったので、ドイツは二二パー セントぐらいです。九〇年代には地球 温暖化問題でドイツの役割は非常に大 きいものがありました。ドイツには責

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を入れて二酸化炭素の量を減らしてき ました。 政策の一つが自然エネルギーの普及 です。さきほどお話しましたように、 自然エネルギーは国として将来的なチ ャンスをもたらすエネルギー・システ ムであると捉えています。 二〇〇七年の政策ではいろいろな目 標が立てられています。電気の二五か ら三〇パーセント、熱の一四パーセン トを、自然エネルギーから作ります。 そうすると、自然エネルギーによって 四〇万人ぐらいの雇用を作れると予測 されていました。このためには、いろ いろな技術を取り入れる必要があるで しょう。 このころは排出した二酸化炭素を地 中に入れるCCS( Carbon dioxide )という話があり capture and storage ました。いまはドイツであまりその話 は出ていません。

自然エネルギーが 一〇〇パーセントの社会は可能か

私がドイツに移住したのがちょうど このころ、二〇〇七年です。二〇〇八 年には環境委員会のメンバーになりま した。 環境委員会には学者が七人いて、 スタッフが二五人です。毎月二日間ぐ らい集まって議論をし、いろいろなテ ーマを取り上げてレポートを書きます。 二〇〇八年に私が新たに加わってから 議論して、一つ取り上げたのが「自然 エネルギーが一〇〇パーセントの社会 は可能か」 というテーマでした (図⑧) 。 これは地球温暖化が心配で取り上げた テーマです。二〇〇九年、二〇一〇年 にいろいろなシミュレーションをした りモデルを作ったりして、レポートが できあがったのが福島の事故の一カ月 前でした。 私たちはレポートを書くといつも環 境大臣に渡します。当初「自然エネル

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もあります。東ドイツは西ドイツに比 べてエネルギー効率が非常に低い国で した。両ドイツが一九九〇年に統一さ れて、二酸化炭素の量が一一パーセン トぐらい落ちました。四〇パーセント 削減のうちの約一〇パーセントはドイ ツが統一したことによって達成された のですが、そのほかにいろいろな政策 図⑧


は危ない流れです。政策を変えないと いけません。ドイツだけではなくて、 先進国と、中国・インドなど大きな発 展途上国の経済制度とエネルギー制度 とその政策を変えないと、二一世紀末

の地球の平均気温は二℃以上あがって しまいます。多くの科学者は、大気中 の二酸化炭素が四〇〇PPMを超える と二℃ほど気温が上がると言っていま す。実際に四〇〇PPMにもうなって

図⑥

いるのですから、ここで何かを変えて いかないと四五〇PPMの水準さえも 守れなくなってしまう恐れがあります。 地球の平均気温の上昇を二℃でおさ えるには温室効果ガスをどれくらい減 らさなければならないのかということ で、ドイツのあるシンクタンクが作っ た図があります(図⑥) 。グループ1と あるのは先進国で、グループ3はこら からもっと発展していこうとしている 途上国です。インドとか中国などはも っとエネルギーを使いたい、もっと必 要だということになっていくでしょう から、先進国が先に二酸化炭素の量を より多く減らさなければなりません。 このようなことから、ドイツ政府は 地球温暖化対策の新しい政策を二〇〇 七年一二月に出しました(図⑦) 。それ は、二〇二〇年までに二酸化炭素の量 を一九九〇年に比べて四〇パーセント 削減するという政策です。四〇パーセ ント削減の背景には東西ドイツの統一 図⑦

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図⑩

イツのなかだけで一〇〇パーセント自 然エネルギーにしようとすると、必要 な土地が広くなりすぎて、コストも割 と高くなります。隣国と一緒にやると コストを抑えられ、電気料金の制度を 工夫すれば可能性はより高くなるとい う結果を得ました。 このレポートのなかで、図⑩のよう なシミュレーションをしました。

が原子力で、私たちのシミュレ KemE ーションでは、原子力は二〇二三年ぐ らいまでにやめることになっています。

が褐炭、 SK が石炭で、両者を二〇 BK 三五年ぐらいまでにはやめることにな

っています。 は天然ガス、 EG が水力です。そ Wasserkraft gesamt れら化石燃料の代わりに太陽光や風力、 バイオマスを入れていきます。 いまの私は、このシナリオはあまり よくないと思っています。なぜかとい うと、風力に頼りすぎだからです。も っといろいろなものをミックスした方

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ギーが一〇〇パーセントの社会は可能 か」というレポートを渡したときに、 環境大臣はあまり面白くなさそうな顔 をしていたので、 「読みます」と言いは しましたが、机の上に置いてそのまま

図⑨ たぶん読まないだろうと私たちみんな は思いました。私たちは、環境省だけ でなくほかのいろいろな省庁にもアド バイスをしていて、経済省にもお渡し たのですが、全く興味をもってもらえ ませんでした。 しかし、一カ月後に福島の事故があ って、このレポートはなかなかいいア イディアではないかということになり ました。 「自然エネルギーが一〇〇パーセン トの社会は可能か」という議論をした ときに、低炭素社会を実現するにはい ろいろな方法があるだろうということ をまず考えました(図⑨) 。一つは原子 力です。日本でもドイツでも、地球温 暖化には原子力が一番いい方法だと思 っている人は結構います。ただ私たち の委員会はそういう考えはもっていま せんでした。私たちは、原子力にはい ろいろな問題があって、とくにドイツ の社会のなかでは困難な議論になるか

ら、原子力は考えに入れずにシミュレ ーションをやりましょうということに しました。 もう一つ、低炭素社会には、化石燃 料を使うけれどもCCSで地中に入れ るという話もあります。ドイツではC CSに反対する人が結構います。CC Sの経験が世の中ではまだ少なくて、 本当に安全であるのか、本当に二酸化 炭素を長く地中に埋めておくことがで きるのか不安があります。それでCC Sがないシナリオでシミュレーション をしましょうということになりました。 次に需要を減らすということです。 エネルギーの効率性を高めること、省 エネです。 そしてもう一つが自然エネルギーで す。ドイツで自然エネルギーの一〇〇 パーセントの自給が可能かどうか、一 つのシミュレーションをしました。そ のシミュレーションでは、可能である ということを示せました。ただし、ド

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た次の年に全部廃炉になりました。な ぜかというと、チェルノブイリ原発と 同じ技術で、ドイツの安全基準を守れ なかったからです。西ドイツには二七 の原子炉がありました。 ドイツは世界で四番目にたくさんの

原子炉をもっていました。アメリカ、 フランス、日本、ドイツの順です。六 〇年代のドイツでは、原発はエネルギ ーの将来的モデルであると考えられて いました。日本には五年前ぐらいまで は原発の割合を増やしていく計画があ ったと思うのですが、それと同じよう な計画がドイツにもありました。七〇 年代のドイツでは、電気の半分ぐらい は原発から作れるのではないかと考え ていたのです。 ドイツと日本の違いは市民運動の高 まりと、それによって変化した原発に 対する姿勢でした。ドイツでは市民運 動が七〇年代に非常に強くなりました。 リスク社会への不安があって、その一 つとして原発に対するいろいろな反対 運動が七〇年代に始まりました。図⑬ はその一つで、ブロックドルフという 町に原発をつくる計画があって、この 町の人口よりもたくさんの人が反対運 動に参加しました。このようなデモに 図⑬

よって、この町では原発が作ることが できませんでした。 このようにして反対運動によって原 発を作れなかったことからエネルギー が足りなくなるという問題が出てきま した。こうしたエネルギー問題があっ たことで、自然エネルギーへの志向が 始まったのです。 ドイツでの非常に大切な動きとして 緑の党の誕生があります(図⑭) 。緑の 党は一九七〇年代の終わりにいろいろ な地方の選挙で議席を得て、一九八三 年に初めて連邦議会選挙で議席を獲得 しました。得票率は五・六パーセント でしたので、それだけでは議会をあま り動かすことはできませんが、結構う るさい党でした。緑の党の連邦議会へ の進出がどうして大切なのかというと、 このころ原子力に反対していたのは緑 の党だけだったのです。キリスト教民 主党、社会民主党、自由党は全部原子 力を推進していました。

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話が変わって、今度は原子力の話を

ドイツの原子力発電

がいいと思います。これが二〇〇八年 から二〇一〇年くらいの考え方でした。

図⑪ します。原子力の歴史をみると、ドイ ツと日本は似ているところがあります。 どちらも第二次世界大戦で負けました。 ドイツは自分で核兵器を作ろうとして いました。日本は広島、長崎に原爆を 投下され、ドイツはそういう経験はな

平和のための原子力の制度( Atoms )を作りました(図 for Peace Program ⑪) 。 原子力のエネルギーが平和にも使 えるという考えにもとづいて、ドイツ 向き、日本向きのプログラムが作られ ました。この二つの国がアメリカと協 力するために作ったプログラムだとい うこともできます。そうしないともし かしたらソ連と協力するかもしれない という心配がアメリカにあったのです。 この平和のための原子力のプログラ ムでドイツは原子発電にずいぶんと力 を入れました。原発が一番多かった時 期には、電気の三〇パーセントぐらい を原子力で作っていました。原子炉は 西ドイツにも東ドイツにもありました (図⑫) 。 東ドイツには六つの原子炉が あって、全部がソ連の技術でした。こ の六つの原子炉はドイツが東西統一し

いのですが、ベルリンは街の八〇パー セントが爆撃で駄目になりました。 一九五〇年代になると、アメリカは

図⑫

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ルノブイリ原発の事故がありました (図⑯) 。 これはドイツに大きな影響を 与えました。 ドイツはチェルノブイリから一〇〇 〇キロメートルも離れていますが、風 に乗って放射性物質が飛んできました

がいいとか、ホウレンソウはだめだと か。三カ月たっても子どもたちはずっ と家の中で遊ばせるようにしていたと いいます。私はそのころはドイツには 住んでいません。後でほかの人から聞 きました。福島の事故のときは日本に は住んでいませんでしたが、ニュース で見ると同じようなシーンがずいぶん あったと思います。 チェルノブイリの後に、キリスト教 民主党は、あれはソ連の技術だったか ら事故がおこったので、ドイツの近代 的な技術ではありえないといいました。 緑の党は前から原子力をやめましょう と主張していましたが、社会民主党は 緑の党の主張を取り上げて、二つの党 が原子力に反対の立場を取るようにな りました。そのころは社会民主党と緑 の党を一緒にしてもキリスト教民主党 よりも小さかったのでキリスト民主党 の政治が続き、 原発は動き続けました。 ただし新しい原子炉はもう作りません

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(図⑰) 。 フランスよりドイツの方が汚 染はずっとひどかったのです。日本の 福島の事故後のニュースとドイツのチ ェルノブイリ後のニュースは非常に似 ていました。子どもたちを外で遊ばせ ないでくださいとか、魚は食べない方 図⑰


緑の党はドイツ議会で核兵器に反対 しました(図⑮) 。ここにある写真は皆 さんわかりますか? このころはまだ 冷戦が続いていて、ソ連とアメリカの 間でもしも戦争になったら、たぶんド イツで始まるだろうという心配があり

図⑭ ました。核戦争になるかもしれない。 それで、広島や長崎を忘れないように ということで日本の写真を議会にもっ てきたのです。

図⑮

チェルノブイリ原発事故からの変化

緑の党の登場だけでは、たぶん状況 は変わらなかったと思います。そのま ま原発の推進が続いたでしょう。タイ ミングが重要です。一九八六年にチェ

図⑯

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だなくて、法律を変えなければなりま せんでした。法律を変えるための闘い も始めたのです。大きな電力会社は自 然エネルギーで作った電気は買わない といっていました。法律が変わると、 今度は私たちの送電線を使ってはいけ ないと言い始めました。スラーデクさ んは、だったら自分でエネルギー会社 を作ろうと、自然エネルギーの会社を 起こしました。いまではドイツのなか で五番目に大きなエネルギーの会社に なっていて、ドイツ全体に自然エネル ギーを売っています。

二〇一〇年の計画と福島の事故 チェルノブイリから一五年が経った 二〇一〇年にキリスト教民主党は、地 球温暖化を背景に新しいエネルギー政 策を作りました(図⑳) 。このとき一五 歳以下の子どもたちは、チェルノブイ リの事故の後に生まれたので自分の経

験としての記憶はありません。その後 は原発の事故がなかったので、原発は 何とか使っていけるのではないかとい う考えがドイツでも少しずつ出てきて いました。キリスト教民主党は、新し い原子炉は作られなくても、いまある 原子炉を延長して使っていくことは可 能ではないかという議論をしていまし た。 二〇一〇年の新しいエネルギー政策 では、二〇二〇年までに自然エネルギ ーの割合を一八パーセントに、二〇三 〇年までに三〇パーセントにするとし ました。自然エネルギーは、風のある 日とない日、太陽光のある日とない日 では発電量が変化するので、安定的な 発電ができません。それでエネルギー のベースとして原発を続けましょうと いうことで、原発の稼働期間を八年か ら一四年延長するとしました。 この政策は地球温暖化対策から出て きたものです(図㉑) 。二〇五〇年まで

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んでした。それでもこの町ではソーラ ーパネルを入れたり、風力発電、バイ オマスを入れたりしようとしました。 それだけではなくて、自然エネルギ ーで発電した電気を送電線に入れて売 ろうとしました。当時はその権利がま 図⑳


でした。 チェルノブイリの後で原発の廃棄物 をどうするのかという話が強くなって きました。廃棄物の処分場があると、 原発がこのまま続いてしまうのではな いかと心配した市民たちが、廃棄物の

持ち込みをブロックするデモをしまし た(図⑱) 。これは電車で廃棄物を運ん でいくところでデモをしています。数 カ月間、 このようなデモが続きました。 私はいまドイツで教えていますが、 ドイツの政治文化と日本の政治文化は、

図⑱

かなり違います。アメリカの政治文化 ともまた違います。ドイツ人はデモを するのが大好きです。反対、反対、反 対……。私の学生は「今日はちょっと 授業に出ません」とよくいいます。 「な ぜ出ないのですか」と聞くと、 「プロテ ストしに行く」というのです。 このご夫婦は日本でも有名になって きていると思います(図⑲) 。シューナ ウという小さな町に住むスラーデクさ んです。 チェルノブイリの事故の後で、 奥さんは、実は問題は私たち自身にあ ると言い始めました。 なぜかというと、 私たちは原発、あるいは化石燃料から 出てきているエネルギーを毎日使って います。向こう側に、ものを変えなけ ればいけないというばかりでは駄目な んだ、自分たちの生活を変えなければ いけないんだということをいって、動 き出したのです。一九八六年から八七 年のことです。そのころの自然エネル ギー技術はいまほどには進んでいませ

図⑲

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がドイツの原子力にとってどういう意 味があるのか、ドイツの原発は安全で あるのか、いろいろな試験を入れてい くことを検討しました。もう一つが安 全なエネルギー供給のための倫理委員 会(図㉖)で、私はここに加わりまし

た。

倫理委員会での議論

倫理委員会は非常に珍しい委員会で、 メンバーには原子力の専門家は一人も いませんでした。 政治家、 教会関係者、 大学教授、ビジネスの方々など、社会 のなかのいろいろなグループを代表す る人々で構成されました。倫理の専門 家も何人かいました。 私は、福島の事故がおきた一〇日後 ぐらいに電話で、「委員会のメンバーに なりませんか」 といわれました。 最初、 私のドイツ語力が足りなくて、間違っ て聞こえたかなと心配しました。倫理 委員会はドイツ語でいうと、エティッ クコミシオンなのですが、オンケルコ ミシオンというのもあるので、間違っ て聞こえているかなと思ったのです。 でも、それはいわずに「はい」と答え ました。数日後に一七人のメンバーと

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本に協力しようとする方々がドイツに いました(図㉔) 。 ドイツ政府は福島の事故を受けて、 二つの委員会で対応を検討しました。 一つは前からあった委員会で、原子力 安全性委員会です(図㉕) 。福島の事故 図㉔

図㉕


図㉑

に二酸化炭素の排出量を一九九〇年代 に比べて八〇から九五パーセント削減 します。そのためにはエネルギー革命 をおこさなければなりません。再生可 能エネルギーで電気の八〇パーセント、 エネルギー全体の六〇パーセントにし ます。また、省エネもエネルギー効率 を五〇パーセントぐらい高めます。こ れを達成するには、原子炉の延長が必 要だというのがキリスト教民主党の計 画でした。 それに対する社会の反応として、デ モ、プロテストがたくさんありました (図㉒) 。 ここでまたタイミングです。この計 画は二〇一〇年一〇月に発表されて、 一一月から計画がスタートしました。 いろいろな会社が、この計画にもとづ いて投資の判断を始めました。そうし た中で、二〇一一年三月に福島の事故 がおこったのです(図㉓) 。原発に反対 している人も、そうではない人も、日 図㉒

図㉓

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原発以外にいろいろなより安全なエ ネルギーがあります。しかし、地球温 暖化も考えなければなりません。原発 をやめて化石燃料をもっと使うという のはいいことではありません。化石燃 料をやめながら原発もやめるというこ

スを生み出す可能性があります。一番 倫理的なエネルギーだろうということ です。 私たちは報告書をまとめて五月三〇 日にメルケルさんに渡しました。その 次の日に、メルケルさんは原子炉を停 止する計画を出しました。私たちの報 告書を読んでその計画を作ったわけで はなくて、たぶん計画はその前にでき ていたのです。でも私たちの報告を待 って、その計画を出しました。

福島後のドイツ社会の変化

ドイツでは、二〇一一年福島の事故 のすぐ後に原子炉を八基停止しました (図㉘) 。今年も一基停止します。残る のは七基ですが、二〇二二年までにす べて停止することになっています。 メルケルさんは二〇一五年三月に日 本にきて原発について発言しました (図㉙) 。 これはドイツ語から私が日本

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とを考えなければなりません。そうな るとやはり残るのは、エネルギーの効 率性を高めること、省エネ、それに自 然エネルギーです。 自然エネルギーは、 環境に対するインパクトが一番少なく、 新しい仕事を供給し、経済的なチャン 図㉗


メルケル首相とのミーティングがあり ました。内閣から四~五人一緒に出て いました。 メルケルさんがいったのは、 「福島の事故を受けて、私たちは原子

力の計画を考え直さなければならない。 ドイツでは脱原発ということが前から いわれているが、どうするのか。いつ 脱原発するのか。ドイツでは新しい原

子炉を受け入れることはない。原子力 について倫理的にどのように考えれば いいのか」 。 一七人のメンバーにこのよ うな宿題が出されたのです。 一七人は、二カ月、三カ月の間かな りよく集まりました。金曜日の午後か ら日曜日の夜まで、土曜日には朝八時 から夜一一時まで議論をしました。ど のようにエネルギーと倫理をつなげて 考えるのか、政治的にどういう影響が あるのか、 いろいろと話し合いました。 私たちのメインの考えはこういうも のでした(図㉗) 。まず原子力は他のい ろいろなエネルギーよりも不安定なの ではないか。もしも事故があった場合 には、その衝撃は、ほかのエネルギー 事故よりも大きい。もう一つ、次の世 代に対する倫理的な問題があります。 ドイツには放射性廃棄物の処分場はで きていません。その問題を次の世代に 残していくのはどうなのかということ です。

図㉖

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トの割合でしかありません。大きな会 社は自然エネルギーへの転換にはあま り役割を果たしていません。ドイツの 自然エネルギー転換は、草の根、ピー

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り手を出さなかったので、利益が自分 たちのところにこないです。 これはドイツの地図ですが、濃い青 色のところは一〇〇パーセント自然エ

図㉜

プルズパワーから出てきました。それ で、大きな会社はいま困っています。 大きな会社は原発がなくなり、石炭も なくなって、自然エネルギーにはあま 図㉛


語に翻訳したのでちょっとおかしいか もしれませんが、日本も脱原発を考え た方がいいのではないかという話でし た。 福島原発事故後の社会の変化は、ド イツではっきりと読み取れます。

図㉘

、ドイツ Energiegenossenschaften 語は非常に長いのですが、日本語でい うと、エネルギーの協同組合でしょう か。自分の町で自分たちの手でエネル ギーを作り出そうという組合です。そ の数が福島の後で急激に増えています

図㉙

(図㉚) 。 自然エネルギーにだれが投資したの かというグラフをみますと、最も多い のは個人です(図㉛) 。ドイツには四つ の大きなエネルギー会社がありますが、 自然エネルギーの投資では五パーセン

図㉚

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図㉟

ました。太陽光パネルのほうが新しい 原子炉をつくるよりも安くなっていま す(図㉞) 。 自然エネルギーのなかで、最近では 太陽光の伸びが大きいです(図㉟) 。太 陽光パネルにすごく投資していて、し すぎたのかもしれません。ドイツは太 陽光の少ない国なので、たぶん風力の 方が合理的ではあるのですが、風力よ りも太陽光が好きな市民がたくさんい るのでこういうことになっているのだ ろうと思います。 福島事故の前と後でドイツのエネル ギーミックスの変化をみてみます(図 ㊱) 。二〇一〇年には自然エネルギー

)が一七パー ( Erneuerbare Energie セントで、自然エネルギーのなかでの 比率は右側の棒グラフに示されていま す。二〇一四年には自然エネルギーが 二六パーセントに増えています。ドイ ツは自然エネルギーの普及では成功し たといえますが、化石燃料の削減はま

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ネルギーになっています(図㉜) 。薄い 青色は二〇二〇年までに一〇〇パーセ ント自然エネルギーを達成するところ です。緑のところはバイオマスの地域 です。赤のストライプは地球温暖化地

域 (温室効果ガスを多く排出する地域) です。たとえばベルリンでは一〇〇パ ーセント自然エネルギーはできないの で、地球温暖化地域になっています。 原発の割合は二〇一一年に七ないし

図㉝

八パーセント落ちて、それに置き換わ るようにして自然エネルギーが増えて います(図㉝) 。自然エネルギーの技術 のコストはどんどん下がっていて、四 年間で四〇パーセントぐらい削減され

図㉞

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図㊲

だ成功していません。石炭

( ) が一七・八パーセント、 Steinkohle )が二五・ それに褐炭( Braunkohle 四パーセントあって、合わせると四四 パーセントです。その割合は二〇一〇 年とほとんど変わりません。これはエ ネルギーヴェンデの大きな問題点で、 何か新しいことをやらないとエネルギ ーヴェンデは成功しません。 ドイツの二酸化炭素のトレンドをみ ます(図㊲) 。二〇二〇年まで二酸化炭 素を一九九〇年に比べて四〇パーセン ト削減しなければなりません。ところ が、いまのままですと、六から八パー セントぐらい足りません。達成できな いと、ドイツのイメージにとって非常 によくないことになります。それでド イツは最近、新しい政策を導入しまし た。エネルギー効率性を高めること、 省エネです。それと化石燃料を使って いる古い発電所を停止することです。 石炭の割合がまだ大きすぎるのは、倫

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図㊱

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来的には自然エネルギーに投資すれば もっともっと増えるだろうと思われて います。 省エネで成功しているセクターには 一億四六〇〇万ユーロの経済効果があ って、八〇万の雇用が生じました(図

(図㊶) 。 ここからいくつかの町の事例をお見 せします。 私はいろいろな委員会に入っていて、 その一つはベルリンの地球温暖化対策 の委員会です。その委員会では二〇五 〇年までどうやってベルリンを低炭素 都市にできるかを考えています。目標 は二酸化炭素の割合を一九九〇年比で 二〇五〇年までに八五パーセント削減 することです(図㊷) 。いまベルリンの 自然エネルギーは三パーセントしかあ りません。それでどうやって八五パー セントも削減するかというと、一つは 省エネで、もう一つは近隣の村と協力 して自然エネルギーを導入することで す。しかし計画を立てるのは大変難し いです。ベルリンは会社がほとんどな くてお金がない町です。 成功している例を見ますと、ベルリ

ンの郊外に Sieben Linden というエコ ビレッジがあります(図㊸) 。どこの家

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図㊷

㊵) 。 エネルギーヴェンデがいいことな のかどうかというアンケートをとると、 非常に大切であるが六六パーセント、 大切であるが二七パーセントという答 えで、あまり大切ではないが六パーセ ント、知らないが一パーセントでした 図㊶


図㊳ 理的ではありません。ベルリンからあ まり離れていないところに炭鉱があり ますが、写真でみてあまりきれいな感 じはしません(図㊳) 。石炭の使用は環 境へのインパクトが結構大きいので、

それよりも自然エネルギーを将来大き くしていった方がドイツのイメージと してはいいと思います。 いまドイツには自然エネルギー関連 の雇用は三七万人あります(図㊴) 。将

図㊴

図㊵

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す。ここにすごい市長さんがいて、二 〇二〇年までに二酸化炭素を五〇パー セント削減する計画を作りました。ど うするのかというと、まず石炭をやめ て、建物を省エネにします。いま世界 中からこの町に毎日たくさんの人が見 学にきています。 図㊻

エネルギーヴェンデが もたらす可能性 エネルギーヴェンデの話をすると、 私は結構エキサイティングになります。 なぜかというと、自然エネルギーだか らではありません。エネルギーヴェン デというと、多くの人は風力と太陽光 を考えますが、エネルギーヴェンデは それだけではなく、いろいろな創造性 を引き出すものだからです。将来もし かしたら、車は太陽エネルギー、ある いは風力エネルギーで走るようになる のかもしれません。スマートシティと いうことがいわれていますが、ソフト ウェアによって電気の使い方がとても よくなっていくことでしょう(図㊻) 。 いろいろな新しいアイディアが、若い 人たちから出てくると思います。 石炭、 石油、ガス、原子力を考えるよりも、 こちらの方がもっともっとおもしろい たくさんの創造性があると期待できま

す。 それは、社会の作り方を変えること になるもしれません。いまドイツの若 い人たちは自分の車をあまり持とうと しません。自分の車を持つと面倒くさ いからです。自分でガソリンを入れた りメンテナンスしたり、いろいろな支 払もあります。それよりもカーシェア リングをすると、そちらの方が安くて 効率的です。 将来の車はどうなるのか、 電気自動車になるのか、ハイブリッド になるのか、 それはまだわかりません。 エネルギーヴェンデは電気だけの革命 ではありません。運輸・交通の革命に もなっていくでしょうし、そうならな ければならないのです。 難しいのは建物のエネルギー効率を 高めることです。ドイツには古い建物 がたくさんあって、そのエネルギー効 率性はあまり高くありません。新しい 建物では、二〇三五年の基準ではエネ ルギー収支がゼロになる建物を作らな

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もソーラーパネルがあって、ちょっと ヒッピー的な村です。ここに住みたい と思ったら、申し込んで、インタビュ ーを受けて、一カ月間ぐらいテストを されて、それにパスしなければなりま せん。私はたぶんパスできないと思い

図㊸ ます。 はヨーロッパで初めて一 Feldheim 〇〇パーセントの自然エネルギーに成 功した町です(図㊹) 。ベルリンから一 時間ぐらい離れているところで、行っ てみるととてもおもしろいです。家が

図㊹

小さくて、風力発電ばかりがたくさん あります。この町ではベルリンに自然 エネルギーを売っています。

図㊺

という町があります(図㊺) 。 Bottrop 石炭鉱山の真ん中にあって、失業率が とても高くて、移民がとても多い町で

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――ひとつお聞きしたいと思います。 倫理委員会の委員には政治家も五名ほ ど入っていますが、そういう方々が報 告書の骨子のもとになるようなものを 作ってきて、それにいろいろと加える かたちで報告書ができたのでしょうか。 そのあたりの経緯について少し教えて いただければと思います。

シュラーズ 報告書に何を入れるか というのは委員会のメンバーで議論し ました。そのときに非常に摩擦もあり ました。私たちの報告書では、原発は あと一〇年間ぐらい稼働することを許 しています。そうした方が、エネルギ ー転換が経済的にも個人の雇用からも スムーズであるからと書いたのですが、 原発を稼働させることに反対した人も 結構いました。報告書はいくつかのグ ループに分かれて書かれていきました。 書かれたものをグループどうしで読み

合って、議論して、そこのところは私 としては許せないといったようなこと が結構いろいろとありました。 ――ドイツでは現在ある原子炉を止め るということですが、チェコで二〇二 〇年に新しい原子炉を作って、そこで 発電するかなりの割合がドイツに売電 されるという話があります。それにつ いてはどうなのでしょうか。

シュラーズ ドイツが言っているの は、他の国が何をやるかを私たちは決 められないということです。決められ るのは、自分の国のエネルギー政策で す。エネルギーヴェンデという考えを ドイツは提示していますし、それが他 の国へも広まってほしいと思っていま す。隣の国が原子炉を作れば、ドイツ にインパクトを与える可能性がありま す。もしも事故になった場合には重大 な影響を受けることになります。

――実際にチェコで新しく原発を作れ ば、その電気がドイツに入ってくるこ とにはなるわけですよね。

シュラーズ ドイツとしては、たぶん チェコは原発を作れないだろうと考え ています。なぜかというとコストがか かりすぎるからです。いまは天然ガス の値段が低く、オイルの値段も低いな かで、新しく原発をつくるのは高くな りすぎます。まわりのいくつかの国が 新しく原発を作ると言っていますが、 ドイツはそれを信じていません。もし 作ったとした場合に、そこから電気が ドイツに入ってくる可能性はあります が、実際にはあまりないと思います。 たとえばフランスからの電気は、ドイ ツを通してチェコに行っていますが、 いまドイツはフランスの電気を必要と していません。ドイツはキャパシティ オーバーだからです。将来はどうなる

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ければならないということになります。 古い建物をどうするのか、資金も含め て大きな問題です。 ドイツではエネルギーヴェンデが始 まってから、大学の研究テーマがずい ぶん違ってきました。エネルギーヴェ

図㊼ ンデのために何ができるかをたくさん の大学で研究しています。私も参加し ている一つのプログラムがあります (図㊼) 。 これは原子力を推進していた 大きなシンクタンクのプログラムで、 原子力の将来はドイツではもうありま

図㊽

せんので、新しいミッションとしてい まはエネルギーヴェンデの研究をして います。エネルギーヴェンデはさまざ まなチャンスを生み出します。 最後に、私の大学でしていることを 紹介します(図㊽) 。次の世代をエネル ギーヴェンデの文化に誘い入れていく ために、私たちは新しいプログラムを 作りました。 春に一週間、 秋に一週間、 四〇〇〇人ぐらいの一一歳から一三歳 の子どもたちを大学に連れて行き、そ の子たちに大学生がエネルギーヴェン デについて教えています。とてもおも しろいプログラムで、人気があって、 いろいろな賞をいただいています。

田村 ミランダさん、どうもありがと うございました。 時間が押しているのですが、事実関 係の確認のような簡単な質問でしたら、 ここで一つか二つなら受けられるかと 思います。何かあるでしょうか。

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はミランダ・シュラーズさんにお聞き したい点にしぼってお話させていただ きます。 先ほどミランダさんがいわれました ように、福島の事故の後でメルケル首 相は二つの委員会に助言を求めました (図①) 。一つは原子炉安全委員会で、 日本でいうと原子力委員会に相当する ものです。この委員会では、基本的に ドイツの原発は安全だと判断しました。 ドイツには震度四以上の地震はないの で、地震の問題は考える必要がありま せん。洪水が起こるかもしれないけれ

ど、洪水が起こっても原発は安全であ る。ただし、航空機が墜落してぶつか った場合には必ずしも完全に安全だと 言いきれない原発もあるとは言ってい ます。 もう一つが、ミランダさんも入って おられた倫理委員会です(図②) 。委員 長はテプファーという人で、日本では あまり知られていませんが、キリスト 図①

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教民主党(CDU)のなかの緑派の人 です。キリスト教民主党のなかにも、 日本の自民党でいうと河野太郎や現在 の小泉元首相のようなグループがあっ て、だんだんと大きくなり、この時点 ではマイナーからメジャーになってい ました。当時ドイツのなかで原発を推 進しようとしているのは自由党(FD T)だけでしたが、ドイツでは連邦選

図②


かわかりませんが……。 ――いまの質問に関連して申しますと、 日本のなかでは、ドイツは原発をやめ ても、そのまわりの国で原発をつくる から大丈夫なのだという言い方がされ ています。ドイツは自分のところはや めて結局チェコに作らせているんだと いう勘ぐりというか、邪推をしていま す。日本ではそのようなことはできな いから原発がいるんだというのが、日 本の原発を推進したい人たちの意見で す。 そのあたりについてはどうですか。

シュラーズ 原発を必要とするのか どうかという点に関してドイツ人がい うのは、一つは、フランスは電気の七 五パーセントが原発依存なので、もし もフランスで日本みたいな事故があっ て、原子炉を全部停止しなければなら なくなった場合には、経済全体が駄目 になって、フランスはおしまいだとい

うこと。もう一つ、ドイツは自然エネ ルギーが普及していくスピードが非常 に速いので、電気を輸入する必要はな いということです。

田村 まだたくさんの質問があろう かと思いますが、時間が限られていま すのでここで区切りたいと思います。 ■討論

ここで、皆さまには、くじを引いて いただきます。後の参加型討論で使い ます。 では、次に山脇先生からミランダさ んへの質問ということでいくつか投げ かけていただきたいと思います。よろ しくお願いします。

ミランダ・シュラーズさんの発表への コメントと質問 やまわき なおし

山脇直司

の大学、学生の平均年齢が三八歳で、 その七割が社会人という星槎大学の共 生科学部の学部長をしています。今日

東京大学名誉教授/星槎大学共生科学部学部長

私はミュンヘン大学で哲学の博士号 を取得し、東京大学の駒場キャンパス に二五年ほどいました。現在は通信制

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典型です。そうではなく、地球温暖化 対策と脱原発の双方を推進するのが大 きな課題だと倫理委員会は述べていま す。 現状を見ましょう(図⑤) 。ドイツで はまだ原発が七基動いています。二〇 一五年五月現在、日本では一基も動い ていません(二〇一六年二月現在は二 基動いている) 。 現状では動いていない 図⑤

のですから、日本の方が脱原発を行っ たという皮肉な見方もできるでしょう。 ミランダさんどう思いますか。ドイツ で七基をすぐに止めても、やっていけ ますか。

シュラーズ 難しいです。

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いまは日本の方が脱原発の状態なので す。しかし、日本政府のエネルギー政 策、特に安倍政権が二〇一四年四月一 一日に出した政策では、ドイツと全く 逆のベクトルになっていて、原発推進 宣言と読める内容になっています(図 ⑥) 。 この政策のキーワードは3E+S です(図⑦) 。その3Eにはしかし、エ シィックス(倫理)のEは入っていま

図⑦

山脇 これは一つの皮肉で、ともかく 図⑥


挙で五パーセント以上を得票しなけれ ば議席数がゼロになるために、それが できなかった自由党は連邦議会の議席 を失い、いまの連邦議会では全部の党 が脱原発を支持し、原発推進政党は存 在しなくなりました。 その倫理委員会報告書の翻訳書が出 ています(図③) 。安いのでぜひ買って 読んでください。

図③ ところで、倫理という概念に日本人 の多くがつまずくわけです。何故なら 日本で倫理というと、これをしてはい けないという狭い意味で使われるから です。しかしドイツ倫理委員会での倫 理とは、どのような公共的価値や政策 を選択すべきか、という政策判断にま でわたるような広い範囲に関わる概念 です。日本での公共政策においては、

図④

倫理という言葉はあまり使われません が、ドイツでは公共政策の大前提にな る価値判断が、倫理なのです。日本で も、 科学に問うことはできるけれども、 科学だけでは答えることのできないよ うな価値やライフスタイルに関わる問 題は、トランスサイエンスと呼ばれま すが、これからのドイツの経済や社会 をどのように構想していくのかという 政策の総体に関わるトランスサイエン ス的な問題を、倫理委員会は論じ結論 を出した訳です。 倫理員会が出した見解では、地球温 暖化の防止と脱原発を両立させるとい うのが大前提になっています(図④) 。 日本のある有名な学者が、原発を動か さないのは無責任だとある新聞で発言 しました。火力発電を多く使えば地球 温暖化に対してゆゆしい帰結をもたら すのだから、原発を動かすべきだとい うのですが、この発言は、地球温暖化 と脱原発をトレードオフとして考える

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ておらず、エネルギー政策というレベ ルではまだナショナルな個別段階に留 まっています。ですから、少なくとも エネルギー政策に関しては、「統合の終 焉」どころか、 「統合の基本計画」もな されていない感じがします。 実際、日本の六ヶ所村の再処理工場 では、フランスの技術者がいろいろ助 言をしています。そこで働くフランス 人のキリスト教徒は、米軍基地のある 近くの三沢の教会のミサには行かない そうです。 米軍基地をなくすためにも、 再処理工場を実現しプルトニウムを保 有して、場合によっては核武装してア メリカから独立したほうがよい、とま で言いかねないのが原発大国フランス の論理です。 以上を踏まえてのミランダさんへの 私の質問の第一は、脱原発に関して、 ドイツの市民運動とフランスの市民運 動の連結は今後可能かどうかという点 です(図⑨) 。ドイツの緑の党は本当に

突出していて、 日本にはありませんし、 フランスにはあるにはあるが、人口の 二パーセントぐらいの支持しか得てい ません。この落差はどうしてなのでし ょうか。私は昨年ドイツだけでなくフ ランスにも行き、ドイツ市民とフラン ス市民がエネルギー政策に関して対話 できないものだろうかと期待している のですが、今のところ対話はあまり起 こっていないようです。フランスには 日本が顔負けの「原子力村」がありま すから、市民運動レベルでの独仏連帯 の動きは起こらないのだろうかと今後 も注目したいと思っています。 質問の第二は、 「三重苦の乗り越え」 の問題です(図⑩) 。JR東海の『ウェ ッジ』という雑誌が新幹線で車内販売 されたり、グリーン車では無料で配布 されていますが、ドイツの脱原発は失 敗だとか苦難の連続だというような記 事が載っていました。読んでみると、 その根拠は電気料金が高騰して大変だ

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参加し、フランスからも学者を呼んで 議論しました。 そこで確認できたのは、 先ほどミランダさんがいわれたように、 ドイツは国をあげて脱原発と脱石炭依 存を敢行するという強い意志でした。 いまフランスから電気をさかんに輸入 しているのは、ドイツではなくイタリ アのようです。しかしエネルギー政策 に関しては、EUの統合はまだなされ 図⑨


せん。エネルギーの安定性、効率(エ フィシエンシー) 、環境(エンバイロメ ンタル)の3Eです。それに加えたS は、安全性(セーフティ)です。そこ にエシィックス (倫理) が不在なのは、 先ほど述べたように、そもそもそうい った概念が、日本にはあまりないから でしょう。そういう事態に反発して、 私は『科学技術と社会倫理』 (東大出版

図⑧ 会)という本を二〇一五年一月に編集 して出しました。いろいろな学者が議 論し、論考している本なので、よかっ たら読んでいただければ幸いです。 さて、日本のエネルギー政策の問題 はいろいろあります。大きな点を挙げ ると、日本はまだ核燃料サイクルを放 棄していません。核燃料サイクルは、 高速増殖炉もんじゅと六ヶ所村の再処 理工場が動かなければ実現しません。 もんじゅは二〇年間まったく動いてい ませんし、再処理工場もまだ本格的に 動いていません。 今後のエネルギー政策を、中国を含 めいろいろな国と連携して進めると日 本政府は宣言し、特にアメリカとフラ ンスと政策協力しようとしています。 しかし、エネルギー基本政策の中にド イツは出てこず、あえて無視されてい ます。 要するにドイツ外しの政策です。 先ほどのご質問にもありましたが、ド イツはいざとなったらフランスから電

気を輸入できるというレトリックが日 本で流行っています(図⑧) 。チェコの 原発の話が出ていましたが、私はチェ コにも友人がいて、 その人がいうには、 メルケルは政治的に勝ちたいから脱原 発を掲げているにすぎないと話すので すが、驚くべきことに、その人は核燃 料サイクルの実現を信じています。ド イツでは日本のもんじゅに当たる高速 増殖炉をカルカーという所に作ろうと したのですが、住民や州政府に無駄だ と判断されて頓挫し、そこはいまでは 遊園地になっていて、作りかけの施設 を利用してロッククライミングなども 楽しめるので、年間八〇万人ぐらいの 人が訪れています。 ドイツのエネルギーヴェンデに関し ては、昨年一一月末にドイツの

(科学技術アカデミー)主催の acatech 会議がミュンヘン工科大学で開かれ、 日本からは私や前の内閣府原子力委員 会委員長代理だった鈴木達治郎さんが

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からそこに輸送されてくるプルトニウ ムを止めようと人々が線路の上に横た わって抗議するようなデモも行われて います。実際に、核廃棄物の最終処分 問題は、ドイツでも依然として解決さ れていません。今後も、中間貯蔵地問 題は大きな争点になってくると思いま すが、ミランダさんはどう思われてい るのでしょうか。 さらに廃炉についてもお尋ねしたい です。 廃炉には、 大変な作業が必要で、 一体廃炉に何年かかるのかという問題 も、お聞きしておきたいと思います。 ちなみに、日本では倫理委員会とま でいかなくても、少なくとも政府から 独立してものをいえる機関として日本 学術会議があります。日本学術会議に はいろいろな委員会があって、その一 つに高レベル放射性廃棄物の処分に関 するフォローアップ検討委員会があり ます(図⑬) 。その委員長は私の友人の 今田高俊さんという社会学者です。そ

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射性廃棄物を埋めたところで、もしも 昭和新山みたいなものが地上に噴出し たら、日本は壊滅しかねません。先ほ どドイツの高速増殖炉が頓挫したカル カーが遊園地になっている話をしまし たが、放射性廃棄物の中間貯蔵地のゴ アレーベンという所は、日本の六ヶ所 村のような感じの貧しい地域でした。 そこが中間貯蔵地となって、フランス 図⑬

政策は倫理的によいのでしょうか。う かがってみたいと思います。 質問の第四は、一番重要な高レベル 放射性廃棄物処分問題です (図⑫) 。「核 のごみ」という言い方がよくされます が、私はミスリーディングな言い方だ と思います。ごみだったら埋めればい いだけの話ですが、核廃棄物は、単な るごみではありません。高レベルの放 図⑫


という訳です。しかしドイツでは、少 しぐらい電力料金が上がっても我慢す るから大丈夫だという世論の後押しで 脱原発が推進されているのです。それ どころか、緑の党の一部には、電気料 金が上がるのは賛成だ、それによって エネルギーの使用量が減るからだと、 日本では信じられないようなことを言 う論客もいます。

図⑩ しかし今日はあえてミランダさんに、 電力料金の高騰を三重苦の一つとして 質問しましょう。 質問したい三重苦の二つ目は、先ほ どミランダさんもいっていたように石 炭、褐炭の比率の高さです。褐炭は露 天で採掘できてコストがあまりかかり ません。それをいつやめるのか、その 時期を巡って議論が交わされています。

図⑪

熊谷徹さんというミュンヘン在住の優 れたジャーナリストがいて、日本のメ ディアに数々の記事を書いていますが、 最近の熊谷さんの記事によれば、ドイ ツでは、石炭を買うと損になり、再生 可能エネルギーの方が安いというシス テム作りが開始され、石炭会社がどん どん経営路線を変えているそうです。 石炭部門から別な部門をつくるという 路線変更です。 三重苦の三つ目が、ロシアからの天 然ガス輸入です。ウクライナ問題もあ って、天然ガスに依存するのは危険で はないかという疑問も起こっています が、これに対してミランダさんはどう お考えでしょうか。 質問の第三は、ドイツでのシェール ガス使用についてです(図⑪) 。二〇一 四年にドイツは七年間にわたってシェ ールガスの採掘を禁じました。地下水 が汚染される懸念があるからです。採 掘はしないけれど、輸入はするという

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ロシアからの天然ガスの輸入は難し い問題です。ドイツはロシアの天然ガ スにかなり依存しています。ところが ロシアとの関係はいま非常に摩擦的で す。だからこそ、もっと頑張って自然 エネルギーを増やさなければいけない とドイツでは考えています。 シェールガスは、ドイツでは掘り出 さないことにしています。ドイツ人は 二酸化炭素を地中に埋めるCCSも駄 目と判断しています。土地を掘るのが 好きではないのでしょう。もしシェー ルガスを輸入するとすればロシアから になるでしょう。ロシアはそのうちシ ェールガスを出すと思います。アメリ カからは石炭を輸入しています。アメ リカはシェールガスを自分で使って、 日本に輸出しています。アメリカでは 使っていない石炭をドイツに輸出して います。ドイツの石炭問題のもう一つ の局面です。 脱原発を決めた二〇一一年に、放射

性廃棄物の処理の問題を解決しなけれ ばならない、二〇三二年までにどこに 処分するか決めなければならないとい うことを定めました。二〇三二年は遠 い将来だから、いまの政治家は決めな くていいということであったのです。 私は学者として、原子力をやめて自然 エネルギーにした方がいいと思うなら ば、放射性廃棄物をどうするかを考え る責任があると思っていて、廃棄物を どうするのかを検討する委員会に入っ ています。いまは放射性廃棄物をもっ ている二十何カ国の政策を研究してい るところです。それらを見ると、どう すればいいのかわかっている国は一つ もありません。一番進んでいるのはフ ィンランドで、結構進んでいますが、 まだまだたくさん答えられない問題が 残っています。ドイツでは廃棄物処理 場をどこにつくるのかは、これからの 大きな課題になります。 廃炉について言えば、平均して一六

年間かかります。 以上で、よろしいでしょうか。

田村 ありがとうございました。ぽん ぽんと答えていただきました。予定の 時間となりましたので、皆さんがお聞 きになりたかったことはほぼ含まれて いると判断してこれでいったん終わり たいと思います。山脇先生、ミランダ さん、どうもありがとうございます。 ちょっとだけ休憩をはさませてもら いたいと思います。 三時からこちらで、 今度は参加型ワークショップを行いま す。先ほど引いてもらったくじの番号 をよく覚えておいてください。それで はこれから場面転換をしますのでよろ しくお願いします。

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の委員会は、高レベル放射性物質の暫 定保管を提言しています。廃棄物を原 則として五〇年間地上で監視可能な状 態で保管し、乾式除熱という空気で熱 を冷ます方法が望ましいという提言で す。そして最終処分場については、熟 議の上での国民的合意が望ましいとし ています。しかし、まだ国民的議論が 始まっていない混沌としたなかにあっ

図⑭ て、政府は高レベル放射性廃棄物の最 終処分場を公募しようとしています。 かつて、高知県の東洋町が名乗り出よ うとしましたが、当時の橋本県知事が 怒って認めず、 それは立ち消えました。 今後も自ら立候補する町はないような 気がします。 ミランダさんにはもっともっとお聞 きしたいことがあるのですが、これく らいにしておきます。 最後に来月(六月)二八日に六ヶ所 村にそれほど遠くない八戸市で核廃棄 物処分問題をめぐり、先に名前をあげ た今田高俊教授や鈴木達治郎教授と共 に本格的なシンポジウムを開きますの で、 その宣伝をさせていただきます (図 ⑭) 。実際のところ、六ヶ所村村民のほ とんどが再処理工場をこのまま続けた いと考えています。原発マネーが魅力 だからです。 実際この問題の背後には、 むつ小川原開発が反故にされるなど、 下北半島住民が国から受けてきた差別

の問題があります。 時間があればもっと話したいところ ですが、 今日はコメント役に徹します。 いまの質問に答えられる範囲で結構で すので、ミランダ先生からお答えをい ただければと思います。

シュラーズ それでは短くお答えし ます。 値段の話からすれば、ドイツ人がい うのは、自然エネルギーを入れると必 ずコストは高くなります。それは地球 温暖化の問題を考えると仕方のないこ とです。次の世代に対する責任がある のだから、子どもたちのために大学の 学費を支払うのと同じように、高いコ ストを支払う責任があると考えていま す。 しかし、省エネをやればやるほど全 体のコストが削減されます。そのバラ ンスでそれほど高くなるわけではあり ません。

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●グループのルール 学生が必ず一名は各グループに 属します。 学生がまとめ役を務めてくださ い。

各グループに紙とペンが配られ、四 つのステップで討論が進められました。

●ステップ1 グループ討論(1回目) 次のテーマで討論が行われまし た。 皆さんのグループでは、次のいず れがベストだと考えますか? ①原発はすべて廃炉にする。 ②原発を最低限再稼働する。 ③原発を震災前のレベルまで再稼 働する。 ④その他

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■参加型討論

進行 いとう てつじ

伊藤哲司 茨城大学地球変動適応科学研究機関(ICAS)機関長/人文学部教授

シンポジウムの参加者全員が,くじによって決められ た 21 のグループに分かれて会場内に座りました。大学 教員,学生,一般の方々が一緒に入ってそれぞれ 5 名 ほどのグループを構成しました。

最初に、伊藤教授より討論の原則が 提示されました。

●討論の原則

今日は、全員がまった く対等で

す。みんなが平等に討論すること

が大事です!

自分とは異なる意見にも、しっか

り耳を傾けてください。

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他のグループの取材がひとまず終わ ったところで、次のステップに移りま した。

●ステップ3

グループ討論(2回目) :まとめ

グループとしての選択を番号で紙

に書きました。

④を選択した場合は、その内容を

書きました。①~③についても、そ

れを選択した理由を簡潔に書きま

した。

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三〇分ほど経過したところで、次の ステップに移りました。

●ステップ2 ワールド・カフェ(

é f a C d l r o W

伊藤教授より次の指示が提示さ れました。 リーダー以外のみなさんは、他の グループに行って、そこでの議論を 取材してきてください。 リーダーは、他のグループからの 取材を受け入れ、自分のグループの 議論を説明して下さい。

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●ステップ4 結果発表

伊藤 それでは、学生リーダーの皆さ んは最終結論が見えるように前に出し てください。①を選んだのが一二グル ープ、②が六グループ、③がなくて、 ④は三グループです。本当は全員に話 を聞きたいのですが、時間が限られて いるので、④を選んだグループに聞い てみましょうか。

グループA 放射性廃棄物の汚染に 伴う諸問題や、事故が起きた場合の危 険性などを考えると感情的にはやめた いというのが確かに強くあるのですが、 かといっていま原子力発電を完全にや めてしまうことによって、経済に与え る影響が大きいのではないか、電力が まかなえなくなったらどうなるのか、 もしものことがあったら対応できなく なってしまうのではないか、そういっ たことを考えると、一概にやめるとい うことはできないのではないか。かと いってやめないで続けていくこともで きないだろう。ということで、どちら とも付かない意見があって、結論とし ては、いまここではデータが足りない ので、短時間の間に決定することはで きないのではないかということになり ました。 グループB 僕の班では、①の意見と ②の意見の対立が激しくて、僕は個人

的には②なんですけど、①の方の意見 を聞いているとそうだなと思うところ が多くて、②だと言って押し切ること もできませんでした。それで、無理に まとめる必要もないのではないかと、 ④ということになりました。

グループC 僕は個人的には①だと 思うのですけれど、②にもメリットが あるので、 ④ということになりました。 現状としては電力に何かしら事故がお きた場合に原発なしでは余裕がないの だろうということで、保険として原発 はいまは稼動させて次第に変えていく

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グループのまとめ役が選択を記した 紙をもって前に出て、次のステップに 移りました。

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田村 ありがとうございました。 ミランダさんと山脇先生には特定の グループには所属しないで、会場内を ずっとまわっていただいたのですが、 一言ずつ感想をいただきたいと思いま す。

シュラーズ 楽しかったです。こうい うグループ討論は一〇年くらい前から さかんに行われるようになっています。 議論をするにはとても使いやすい方法 だと思います。 私はいろいろなグループの議論を見 て、何かの判断をして最後の決定をす

るということよりも、そこにいたるプ ロセスの方が大切だと思いました。結 論としては①と②がたくさんありまし たが、①と②の間はそれほど大きく開 いていなかったと思います。私が見た なかでは、①の原子力をやめたいとい うグループでは、いつまでにやめるの かという話が結構出ていました。②を 選らんだグループのなかでは、原子力 はたぶん経済的にはしばらくまだ必要 だけれども、できればやめたいという 人が結構いました。ですから、①と② の差はそれほど大きくなかったかもし れません。 日本がどのような選択をするのかは わかりませんが、こういう議論を積み 重ねていくことが民主主義では一番大 切なことだと思います。 私はドイツにいて、ドイツでもこう いう議論がまだまだ必要だと思ってい ます。ドイツでは石炭の問題とか、町 のレベルでどれぐらい自然エネルギー

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のがベターなのかなというところです。

伊藤 ありがとうございました。では ②を選んだグループで発言したい人は いますか。 グループD 私たちは②を選びまし た。ただしというのが三つあります。 その一は、私たちがいま使っている電 力使用量をすぐに減らすことができれ ば原発は止められます。その二は、政 府からの原発の補助金はやめて、電力 会社にそれを委ねます。その三は、原 発の補助金を自然エネルギーの方に回 せば、 自然エネルギー利権が生まれて、 原子力利権は崩壊すると考えます。

伊藤 ①を選んだグループはたくさ んいるのですがどうでしょうか。 グループE ①を選んだ最初の理由 は、核廃棄物の処理が日本では地震が 多いのでまず難しいということがあり ます。また、現状でも石油やガスを増 やして電力は何とかまかなえているの だから、いますぐに原発を動かさなけ ればいけないということはないので、 廃炉にしていくべきだということがあ ります。それと、電力を作る方法はも

っとシンプルにした方がいいというこ とが出ました。

伊藤 まだまだ各グループの声を聞 きたいところですが、そろそろ予定の 時間を過ぎようとしていますので、締 めくくりに入っていきたいと思います。 グループのまとめ役の皆さんは席にも どってください。皆さんに拍手をお願 いします。では、ここで司会を田村先 生に戻します。

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今日はここにうちの学長もいらっし ゃっていますので、 せっかくですから、 急に振って恐縮ですが、一言コメント をいただければと思います。

三村 本日は茨城大学とサステイナ ビリティ・サイエンス・コンソーシア ム、それに国立環境研究所の共催でこ のようなシンポジウムを企画したとこ ろ、たくさんの市民の方々、そして学 生の方々に参加していただきました。 とりわけ、この参加型討論は、いろい ろなことを考えさせられる実りの多い、 いい取り組みであったと思います。

茨城大学は、サステイナビリティ学 にここ一〇年取り組んでまいりました。 サステイナビリティ・サイエンス・コ ンソーシアムの一員として毎年いろい ろなところで開かれているシンポジウ ムに参加しています。昨日はサステイ ナビリティ・サイエンス・コンソーシ アムの会員を対象とした研究集会を本 学で行いました。本日の午前中には、 サステイナビリティ学入門という講義 を行い、茨城大学の学生には、午後こ のシンポジウムに出ることも授業の一 環であるということで合わせてやらせ ていただきました。 ミランダ・シュラーズ先生にはたく さんの情報の詰まった、非常に示唆に 富む講演をしていただきわれわれ全員 考えるところが多かったと思います。 山脇先生からは非常に的確な、皆さん が知りたいと思っている質問をしてい ただきました。それらがあったからこ そ、その後の参加型討論がこのように

盛り上がったのだと思います。 今日講演をしていただいたお二人の 先生、それから参加して一緒に考えて いただいた皆さんにお礼を申し上げた いと思います。本日はどうもありがと うございました。

田村 ありがとうございました。 最後に主催者一つである国立環境研 究所の住理事長からご挨拶をいただい て閉会にしたいと思います。

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を作るのか、大きな会社がどれぐらい の規模の自然エネルギーパークを作る のか、コストがどうなるのかなど、さ まざまな議論が必要だと思っています。 エネルギー転換、エネルギー革命をす るには、いまだけではなくて、何十年 もかけて議論する必要があると思いま す。 皆さんもこれからもまたたくさんた くさん議論してください。頑張ってく ださい。ありがとうございました。

山脇 ここで私の専門が何かといい

ますと、公共哲学です。公共哲学とい う学問は、マイケル・サンデル教授の 「ハーバード白熱教室」で急に有名に なりましたが、彼は一五年ほど前にハ ーバード大学で会ったときには日本で はほとんど知られていませんでした。 テレビであのような対話型討議をする ことで急に日本でも有名人になったの ですが、今日の参加型議論の方が、一 方的に仕切る形のサンデル教授の講義 よりも、よほどみんなが参加している なと感じました。 私は今日の議論には介入せずに見守 っていたのですが、皆様は予想通り① と②の間ぐらいで話をしていて、③は ほとんどありませんでした。③という 意見があっても言わなかったのか、あ るいはそういう意見の人は、この場に 来ないということなのかもしれません。 私は、 今日のような討論のあり方を、 小学校の道徳とか公民にもどんどん取 り入れていけばいいと私は思っていま

す。それは、小学校での道徳教育につ いていまの政権が考えているのとはお そらく違うでしょう。道徳とかモラル とか倫理とかいうテーマは、本当に価 値にかかわる問題で、これをしてはい けないとか禁止するようなことに限定 されません。ドイツでは、学校の授業 でディスカッションの時間が日本より もずっとたくさんあるので、それを参 考にすべきでしょう。 いずれにせよ、こういうかたちの議 論の場といいますか、少し難しい言葉 でいいますと公共空間をもっともっと 作り、小学校・中学校の授業でも作っ て議論をさかんにしていくようになれ ば、今よりずっと日本はいい国になる と思います。そういう点で今日は、私 にとって、とても刺激的で感動的でし た。どうもありがとうございます。

田村 どうもありがとうございまし た。

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ほどにものをいい」とかいって、しゃ べらなくてもわかるはずだと思ってい るところがありますが、やはりしゃべ らないとわからないんです。自分の意 見をきちんと述べて相手の意見をきち んと聞くという、言葉によるキャッチ ボールをすることが大事です。学生の 皆さんも、今日の討論のようなことを お友達ともいろいろやっていただけれ ばと思います。 サステイナビリティは、将来どのよ うな社会を作っていくか、部分的に考 えていたのではだめで、全体をみてい かなければいけないというのが基本的 なコンセプトとしてあります。将来の 日本、将来の世界を考えつつ、学生さ んはそれぞれの道を突き進んでいただ ければと思います。 たかだか七〇年前には日本は焼け野 原でした。 私の家もそうでしたけれど、 戦争で全財産を失って、まるっきり何 もなかった家がたくさんありました。

その一方で、戦争の影響が少なかった 人たちもいました。戦後の始まりの時 点で差があったのです。その差を埋め ながら戦後の日本の社会を作ってきた のでした。 東日本大震災と福島原発の事故です べてを失ってしまった方々がいます。 社会に大きな格差が生じています。戦 後の歩みを踏まえれば、その差も埋め られないことはないと思います。 二〇~三〇年前はガソリンがぶ飲み のアメ車が日本でもはやっていました。 本当に燃費が悪い車がかっこいいと思 われていた時代があったのです。いま はそのようなことをいう人はほとんど いません。社会的なマインドが明らか に変わったのです。 ですから、いまでは不可能のように 思っていても、潮目が変わり、流れが 変わればゴロッと変化するということ は現実におきるのです。学生の皆さん には、そういうことを心しながら、未

来に向けて頑張っていただきたいと思 います。 今日はシンポジウムにご参加くださ いましてありがとうございました。

田村 どうもありがとうございまし た。 今日はここには自治体の首長をされ ている方ですとか、あるいは各機関の 長のような方がこられていますが、誰 が偉いかというようなことではなくて、 対話型ということで、お互いにさりげ ない関係で話をするということで、こ ういう会を設定させてもらいました。 この試みがうまく行ったかどうかはわ かりませんが、ここから始めて、今後 またこういったいろいろな催しを企画 していきたいと思っています。どうぞ 今後ともよろしくお願いいたします。 本日はどうもありがとうございまし た。これにて終わりにさせていただき ます。

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■閉会挨拶

すみ あきまさ

住 明正

ないということが結構多いのも事実で す。そういう点で、実態を知るという のは非常に大切です。とくに学生さん は、データを自分で探すという習慣を 付けることが大事だと思います。ドイ ツではこうであると、本当に両極端の ような報道がされています。そういう 報道だけですと、実際はどうなのか、 全然わからなくなってしまいます。ネ ットにはありとあらゆること、さまざ まな意見が載っています。とにかくい ろいろな情報があります。どれが着実 なデータであるのか、どういう考え方 がいいのか、自分できちんと考えて判

サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC)理事 国立環境研究所理事長

皆さんでの討論には私も参加させて いただきました。ちょっと時間が足り なかったようにも感じましたが、これ から議論を深めていくきっかけになる 実り多い討論であったと思います。 国立環境研では、地球温暖化の将来 シナリオというのを一生懸命に作って います。そのときに、産業界から、全 然実態がわかっていないといった批判 が出されます。いまはそんな古い技術 は使っていないとかいろいろなことが いわれます。そういう指摘はその通り なのだろうとは思いますが、産業界の 人々は必ずしも情報を出してくれてい

断していく必要があると思います。 対話力といいますか、話す力が大事 だと思っています。日本人は、ともす れば金を出しているやつが偉いという ような風潮に戦後はなっているようで す。 世界ではそんなことはありません。 お金をたくさんもっている人が出すと いうだけのことで、お金を出すことと その人間の偉さとは関係がありません。 大事なのは、将来どういう社会を作っ ていくのかというようなことに、的確 な見通しをもっているかどうかです。 そういう点で、話し合うということ は本当に大切です。日本では「目は口

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三村学長のリーダーシップのもとに、 この茨城大学においてサステイナビリ ティ学がさらに発展していくことを祈 念いたします。 今年(二〇一五年)はサステイナビ リティ学にとって重要な年です。九月 にミレニアム開発目標(MDGs)を 継承する持続可能な開発目標(SDG s)が国連本部で決議されます。SD Gsの大きな特徴は、従来のMDGs が開発途上国を対象にしていたのに対 して、気候変動、水の問題、都市の問 題等を含めて、先進国をも対象とした 課題として展開されることになります。 すべての国がこの目標に対して関心を もって行動をする必要があるというこ とです。残念ながら日本では、SDG sの議論がまだ具体的に展開されてお らず、私どもとしては、国内での展開 を考えていかなければいけないと思っ ています。 もう一つは、一二月にパリで開催さ

れる気候変動枠組条約の締約国会議C OP21です。これは、これまでの京 都議定書のような仕組みとは違い、そ れぞれの国が高い目標を掲げて、その 総和として地球全体として排出削減を 進めていくという新しいスタイルでの 合意を目指しているものです。アメリ カ合衆国も中国も参加するという枠組 みになっています。わが国はエネルギ ーミックスのあり方についての議論が なかなか進んでおらず、そのために目 標の策定が非常に遅れていますが、最 近になって収束しつつあるという状況 に至っています。これからの気候変動 の緩和と適応を考えていく上で、この 合意の履行は非常に重要な課題です。 学術面では「フューチャーアース」 の取り組みが始まりました。これまで の地球環境研究が物理系、化学系、生 物系、人文社会系等でそれぞれに行わ れてきたものを束ねて、統合的に推進 しようというものです。五つの国が分

散型の事務局を担うことになり、その なかに日本も含まれています。日本は 学術会議が大変な努力をして誘致しま して、事務の実質的な部分を東京大学 のIR3Sが分担することになり、い ま福士さんを中心に鋭意作業を進めて いるところです。 いくつか申し上げましたように、国 際的にも非常に重要な時期にきている なかで、サステイナビリティ学の推進 のために、私どもが今後ともいっそう しっかりとした取り組みをしていく必 要があるのは言うまでもありません。 今日、明日と、研究集会、公開シンポ ジウムがありますが、活発な議論が行 われ、それを実践に移す取り組みが活 発になり、それを支えるためにSSC が十分に機能していくことを願いまし て、 開会の挨拶とさせていただきます。 本日はどうぞよろしくお願いいたしま す。

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SSC 研究集会

第6 回

サステイナビリティ・サイエンス・ コンソーシアム研究集会 ●主催:茨城大学

●日時:2015 年 5 月 22 日(金)13:30~17:00

一般社団法人サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC) ●会場:茨城大学水戸キャンパス図書館 3F ライブラリーホール

司会 最初に武内和彦先生からご挨 拶をいただきます。よろしくお願いい ■開会挨拶

武内和彦 たけうち かずひこ

たします。

のお話をさせていただきました。茨城 大学地球変動適応科学研究機関(IC AS)がその後も順調に発展している ことを大変うれしく思います。 このSSCの研究集会は五つの大学 を中心に、皆さま方に開催をお願いし てきました。茨城大学にも、三村先生 にぜひ定年退職される前に一度開催し てくださいとお願いをしていました。 ところが、三村先生は定年退職どころ か学長になられたということで、われ われ一同大変うれしく思っています。

国際連合大学上級副学長 東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)機構長

私は一般社団法人サステイナビリテ ィ・サイエンス・コンソーシアム(S SC)の企画運営委員長をおおせつか っています。本日は、茨城大学の諸先 生はじめ、皆さま方のご尽力によって SSCの研究集会をこの場で開催でき ますことを大変ありがたく思います。 茨城大学には、ずいぶん前にSSCの 前理事長の小宮山宏先生と一緒にお邪 魔をさせていただきました。そのとき に小宮山先生がサステイナビリティ学 についての講義をされ、私もその関連

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図①

図② 61


司会 ありがとうございました。 それでは早速プログラムに入ってい きたいと思います。 研究集会の前半は、 茨城大学以外からお越しいただいた大 楽先生、古田先生、福士先生のお三人 にご発表をいただきます。ディスカッ ションの時間はプログラムには書いて ありませんが、ご質問等があればぜひ お受けしたいと思っています。前半の ■講演1

気候変動適応と防災 だいらく こうじ

大楽浩司

後は少し休憩を入れて、後半で茨城大 学の学長の三村先生、人文学部の原口 先生、工学部の村上先生に茨城大学あ るいは茨城の地元の活動についてのお 話をしていただきます。 では、最初のご発表は防災科学技術 研究所の大楽浩司先生です。どうぞよ ろしくお願いいたします。

に関してお話をさせていただきます。

防災科学技術研究所社会防災システム研究領域主任研究員

私は水循環や気象学をバックグラン ドにして、防災に関する研究を行って います。本日は、気候変動適応と防災

気候変動適応研究の流れ

最初に、気候変動に関わるリスクが どのようして生じてくるのかという図 を見ていただきます(図①) 。一方に気 候に関する自然の変動や人間の影響に よる変動があり、他方に社会経済に関 する変化があって、気候に関するハザ ード、人間社会への曝露、それから脆 弱性ということが合わさってリスクが 生じます。気候と社会経済が相互に影 響を及ぼし合って災害に関わるリスク が生じるのです。気候だけではありま せんし、社会経済だけでもなくて、両 方が合わさってリスクを生じるという ことです。 人間活動に起因する気候変動の影響 に非常に大きな関心が向けられていま す(図②) 。気候システムが暖かくなっ てきているのは疑いようがありません。 また、気候システムに人間活動が影響 しているのは明らかであるというのが

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図③

図④ 63


科学コミュニティの総意として明確に 述べられています。しかし、適応の科 学的基礎がいまだに不十分であるため に、自然科学ベースの知見と政策との 間には大きなギャップがあるという現 実があります。体系的な科学的知見の 構築が非常に急務となっています。 気候変動に関するアプローチとして、 一般的にトップダウンアプローチとボ トムアップアプローチの二種類があり ます。トップダウンアプローチは気候 モデルによる正確な予測に基づいて影 響評価を行います。これまではこのア プローチが主流で、全球気候モデル、 地域気候モデル、または統計的手法に よるダウンスケーリングによって将来 の全球・地域における気候変動の潜在 的な影響を評価してきました。 一方で、 ボトムアップアプローチは、水や食料 やエネルギーや生態系などの潜在的な 脆弱性を評価します。この場合、気候 変動は多くの要因の一つとして考えま す。ハザードよりはリスク評価とか防 災に重点を置いて、脆弱性を軽減させ る適応・緩和策の評価に注目します。 トップダウンアプローチがおもに正確 な予測を求めるのに対して、ボトムア ップアプローチは正確な予測ではなく て、 あり得るシナリオに対して頑健に、 しなやかに適応する戦略を考えるとい うところで方向性が少し異なっていま す。 日本では、二〇一〇年から二〇一五 三月まで、三村先生をヘッドにして、 RECCAという気候変動適応研究推 進プログラムが文科省で推進されてき ました(図③) 。全体としては、気候変 動適応に関する研究水準の大幅な底上 げをし、適応策検討への科学的知見を 提供し、気候変動に強い社会の実現に 貢献することを目的として行われてき ました。水領域、都市領域、農林漁業 領域で一二課題があり、私はそのうち の一つを担当しました。

一二の課題ごとにそれぞれが市区町 村などと一緒になって、科学的知見を 実際に社会に実装することに向けての 取り組みました(図④) 。私は東京都市 圏を対象に研究を行いました。今日は そのことをお話させていただきます。 RECCAにはたくさんの活動があり、 気候変動適応には非常に多様なアプロ ーチがありますので、その一つとして 参考にしていただければと思います。 東京の土地利用変化を見ますと(図 ⑤) 、 一八八八年は真ん中にある赤いと ころが都市で、そのほかは農地や森林 といった土地利用でした。 一九一四年、 そして戦後の一九四六年、高度経済成 長期の一九七五年と、都市がどんどん 拡大し、農地や森林が減っていきまし た。 気候変動のあるなしにかかわらず、 人間活動によってシステムの大きな変 化がありました。 そういった背景のもとで、低炭素化 を進めて気候変動に適応した社会をつ

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図⑥

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かな局所/地域スケールの情報を導く 手法です(図⑦) 。全球スケールの粗い シミュレーションなり観測データから、 より詳細なスケールでのシミュレーシ ョンをし、あるいはデータを導くとい うことです。これには大きく二つのア

図⑦


図⑤

くるために、大都市圏、特に東京都市 圏を対象として、自治体の適応戦略の 策定・検討に資する科学的知見を提供 するシミュレーション技術の開発を行 ってきました(図⑥) 。研究の課題とし ては、地域気候シミュレーション技術 の開発と、風水害脆弱性評価に基づく 適応シミュレーション技術の開発とい う、それぞれ相互作用するようなプロ ジェクトを提案して、気候変動に適応 した持続可能な大都市圏のあり方の検 討に貢献するべく取り組んできました。 今日は五年間取り組んできたもののま とめをご紹介できればと思います。

将来気候の予測

先ほどダウンスケーリングという言 葉だけを出しましたが、ダウンスケー リングは、より格子間隔の粗いモデル や客観解析データのような比較的粗い シミュレーションデータから、より細

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図⑪

複数のモデルを使ってマルチモデルア ンサンブル実験をしています(図⑨) 。 モデルの癖とか特性によって出てくる 結果がどうしても違ってきますので、 できるだけモデル間の違い、主要な要 因による不確実性の幅を捉えるために アンサンブル実験を最適化します。 三つの地域気候モデル、気象庁気象 研のモデル(NHRCM) 、私のところ のモデル(N‐RAMS) 、筑波大学の モデル(T‐WRF)で、過去の気候 の再現実験を行って、それぞれのモデ ルの性能について調べました(図⑩) 。 日本を七地域に分割して、左側は平均 降水量、右側は非常に強い降水に対し て、実際の観測と比べてどの程度正し く再現できたかを評価した図です。左 側の図ではどのモデルも観測に比べて 〇から三〇パーセントぐらいの違いで よく再現できていますが、非常に強い 雨に関してはどのモデルも過小評価気 味になっています。

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プローチがあります(図⑧) 。一つは力 学的ダウンスケーリングで、もう一つ が経験的/統計的ダウンスケーリング です。力学的アプローチは地域気候モ デル、あるいは格子間隔が変わるよう な全球大気モデル、または非常に高解

図⑧ 像度の全球大気モデルを用います。こ れには非常に多大な計算資源を必要と します。一方で、経験的/統計的なダ ウンスケーリングは、大きなスケール の大気変数と局所/地域スケールの変 数の間の統計的な関係から推計すると

図⑨

いうアプローチです。現時点では、全 球気候モデルをダウンスケーリングす るツールとしては、地域気候モデルと 統計的モデルが用いられることが多い という状況です。 実際の研究例を少しご紹介します。

図⑩

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図⑫

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図⑬


この三つのモデルで、日本列島にお ける夏の降水量の将来変化をシミュレ ーションしました(図⑪) 。左下にある のが境界条件として用いた粗い全球気 候モデルの結果で、日本周辺で降水量 が若干増えそうかなというぐらいのも やっとした傾向は見られますが、どこ でどれぐらい増えるかといったことま ではわかりません。それを三つのモデ ルでダウンスケーリングしますと、ど の地域でどれぐらい雨が強くなりそう かといったおおよその傾向を見て取る ことができるようになります。三つの モデルで答えが若干違うのですが、ど のモデルでも一致しているのは、現在 も降水量が多い西日本とか太平洋側、 とくに山岳地域の西側と南側で降水量 が増加しそうだということです。こう いった変化の傾向は全球気候モデルで は不明瞭ですので、これがダウンスケ ーリングの付加価値を示していること になります。

夏季の降水の変化を地形ごとに見て みます(図⑫) 。三〇〇メートルごとに 標高を分けて降水の変化を見ますと、 山の高いところよりも、むしろ平地や 低いところで降水の増加傾向が見られ ます。日本では、人の生活圏の多くが 標高の低いところに存在していますの で、将来の人間社会への影響が懸念さ れます。どのモデルでも山岳の西側と 南側で増加する傾向がありますが、こ れは簡単に言いますと、太平洋高気圧 が強くなって気温が上がり、水温も上 がって水蒸気が増加し、気流が山にぶ つかって生じる地形性の降水が強化さ れることによって降水量が増えるとい うことです。ただし、この結果は全球 気候モデルの一つの結果を境界条件に してシミュレーションしたものですの で、もとのモデルが違ってくればこの 結果も変わってくるというものです。 そこで、親モデルとして複数の全球 気候モデルを用い、異なる境界条件で

シミュレーションをしてアンサンブル を増やしていきます。図⑬は、極端降 水の気温変化の依存性を調べたもので す。上の図は、横軸が気温で、縦軸が 降水強度です。一般的に気温が高けれ ば高いほど、大気中に含むことができ る蒸気量が増加しますので、いったん 降ったときの降水強度は強くなりやす いという傾向があります。線形とまで は言いませんが、気温が高くなると降 水強度は強くなります。 ただし、よく見ると、一九℃から二 〇℃ぐらいで降水強度がピークを迎え ている折れ線もあります。観測でも同 じ傾向を示します。ある一定以上に気 温が上がると降水は減るのは次のよう に考えることができます。高い気温に なると、空気塊が飽和するのに必要な 水蒸気量が増えるので、飽和するのに 必要なだけの水蒸気量の供給が不十分 ですと、水蒸気が凝結しなくて雲の形 成が抑制されて降水が減少するという

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分布を推定して議論するというような ことになっていくと考えられています。

水害のリスク評価 それで実際に私のところでも、確率

的な水害のリスク評価を行いました (図⑯) 。気候変動、人口変化、土地利 用変化、資産価値・分布の変化が水害 リスクにおぼす相対的な影響を確率的 に評価する手法を開発しました。最初 に申し上げましたように、気候が変動 するだけではなくて、人間社会も変化 しますので、それらの影響を相対的に 評価して、気候変動の適応とか緩和の 議論に貢献したいと考えています。 最初に、水害GISデータベースの 構築を行いました(図⑰) 。国土交通省 河川局が「水害統計」というデータを 発行しています。基本的に新しいデー タは電子化されているのですが、二〇 〇九年以前は紙ベースものしかなく、 それだと解析が難しいので、データの 電子化をしました。電子化と口で言う のは簡単なのですが、これが非常にや っかいで、例えば「土」と「七」の文 字の違いとかいったものが出てきます。 印刷のミスなのか、記入した人のミス

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これから気候変動による影響評価な どをしていくときに、一〇〇とか二〇 〇のアンサンブル情報をいろいろな人 が使っていくというのは、あまり現実 的ではありませんので、図⑮のような かたちで、現在気候と将来気候の確率 図⑯

図⑰


ことになります。気温が上がれば上が るほど極端な降水が増えるというわけ ではなくて、どこかで抑制がかかるの です。 図⑬の左下の図は、横軸が右に行く

図⑭ ほど強い降水強度の雨で、縦軸は変化 量を示しています。 青が現在の気候で、 赤が将来の気候です。左の方の比較的 マイルドな降水強度に関しては、将来 変化の増加率は小さいのですが、非常

に強い降水強度ほど将来強く大きく変 化しやすいことを示唆しています。温 暖化による変化は、将来五〇年後、一 〇〇年後にならないと顕著にならない という話もあるのですが、非常に強い 降水に関しては、ある程度早い段階か らその変化が見え始める可能性がある ということを示唆しています。 計算機資源がどんどん増加するのに 伴って、アンサンブル実験がどんどん 増えてきています。 そのことによって、 アンサンブル実験を比較してその性能 を評価して議論するというところから、 たくさんのアンサンブル実験から確率 分布を推定していくという段階へと研 究が進みつつあります。図⑭はそのイ メージ図で、左側が現在の気候モデル によるアンサンブル実験の頻度分布で、 中央がある温度以上に気温が増加する 確率を推定したもので、将来変化のシ ナリオは右側のような確率マップで表 されるようになります。

図⑮

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図⑲

害リスクの時間変化を一〇年ごとに示 したものです。データは一九六〇年か らあるのですが、インフレの修正とか 評価単価のデータの整理が過去のもの はされていないので、一九八七年以降 に関して解析を行っています。資産価 値は、評価単価を平成一七年相当に補 正しているという前提で出してありま す。横軸が被害額、縦軸が年超過確率 で、図の右上の方ほど水害リスクが高 いことを示しています。各都県別にグ ラフがありますが、一九八〇年代、九 〇年代、二〇〇〇年代とどの県におい ても水害リスクが増加しています。そ の中身をもう少しみると、罹災率、い わゆるハザードのおきやすさは減って いるけれども、平均損傷率、ダメージ のおきやすさは増加傾向にあります。 これはどうしてなのかいろいろ調べた のですが、端的にいいますと要は資産 の増加と集中化がおきているというこ とを示唆しています。

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図⑱

なのかわかりませんが、こんな町はな いとかの不整合がたくさん生じます。 紙ベースからの電子化は、スキャニン グすればある程度までは簡単にできる ことではあっても、研究に使えるよう にクオリティチェックをして整理する には、 相当に人手と手間がかかります。 こうしてできたデータベースは、東京 都市圏版についてはDIASと私の研 究所のホームページで公開しています。 次に、水害脆弱性評価モデルを構築 しました(図⑱) 。いま申し上げた水害 統計に、国勢調査とか工業統計・商業 統計といったデータを合わせて、罹災 率と平均損傷率の頻度分布を作りまし た。その頻度分布を最もよく表現でき るような分布関数の推定を行って、モ ンテカルロシミュレーションで一万年 分のデータを生成し、それで水害リス クカーブを作成するといった統計モデ ルの構築を行いました。 図⑲は過去の東京都市圏における水

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図㉑

として、例えば電気自動車、太陽エネ ルギー、蓄電池の普及を考えたり、臨 海都市にコンパクトシティを作ったり して低炭素化はしますが、適応策はあ りません。そして、左下では適応策と して、高台等の浸水率の低いところに コンパクトシティを作るようなことは しますが、緩和策はありません。右下 は、緩和策・適応策の両方とも考える シナリオで、臨海地域ではなくて、高 台のようなところに電気自動車とか太 陽光発電とか蓄電池等の導入を図った まちづくりをしていくといったことを 考えます。 次に、社会経済シナリオを考えます が、図㉒はその一例で人口分布の変化 のシミュレーションです。基本的に政 府のこれまでの情報をもとにしたシミ ュレーションで、多くの場合に人口は 減少します。左から、何もしないシナ リオ (BAU) 、 緩和策を行うシナリオ、 そして適応策と緩和策を行うシナリオ

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図⑳

そのことを図で示します(図⑳) 。こ れは東京における平均損傷率と資産価 値の変化を表したものです。上は一九 九〇年と一九八〇年の違い、下が二〇 〇〇年と一九九〇年の違いです。中小 河川付近で平均損傷率が増加していて、 資産価値もまた中小河川付近で増加し ています。気候変動のあるなしにかか わらず、人間社会が資産を集中化する と、当然その地域における水害リスク は増加します。しかも、われわれはよ り水害に脆弱な地域への資産の集中化 をしているために、気候変動があろう がなかろうが、トータルとしてその地 域の水害リスクは増加しているのです。 このようなリスク評価にもとづいて 適応策、緩和策をどう考えるかという ことを共同研究しているのですが、シ ナリオの考え方として図㉑のように整 理してみました。左上は、緩和策を考 えない、適応策も考えない、何もしな いというシナリオです。右上は緩和策

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図㉓

るということを示唆しています。二一 〇〇年には気候変動の影響によって水 害リスクが増加する可能性があります が、適応/緩和策を考えると、他のシ ナリオに比べて単に人口減少による水 害リスクの減少以上に水害リスクを減 らすことができますので、将来気候変 動によって水害リスクが増加しても、 それを相殺するようなことが可能であ るのかもしれません。つまり、うまく 都市シナリオとかを考えていくと、効 率的に適応できる可能性がありうると いうことです。 とはいっても話は単純ではありませ ん。水害リスクと不動産価値の関係を 示した図があります(図㉔) 。これは横 浜市の地図にマンションの分布を記し たもので、赤い丸は地価が上昇したマ ンションです。青く塗ったところは南 海トラフ地震を想定した浸水域です。 この図を見ると、南海トラフ地震によ る浸水リスクが高いところはマンショ

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図㉒

です。三つのシナリオで基本的に人口 の総数や世帯数は変わりませんが、そ の分布が変わってきます。緩和策の場 合は沿岸地域に若干人が集まってきま す。適応/緩和策をすると、水害リス クの高いところを避けてまちづくりを するので、そのようなところの人が減 ります。床面積を見ると、BAUと緩 和策はそれほど大きく変わりませんが、 適応/緩和策では、水害リスクの大き いところは人が住みにくくなるような インセンティブを与えるので、だいぶ 分布が変わってきます。 こうしたシナリオをもとにして先ほ どの水害リスク評価を行ってみますと 図㉓のようになります。赤い線が二〇 〇〇年現在のリスクカーブで、青の線 が二〇五〇年、緑の線が二一〇〇年で す。緩和策、適応/緩和策を考えたシ ナリオでリスク評価をすると、気候変 動があろうがなかろうが、二〇五〇年 代には人口が減るので水害リスクは減

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図㉕

と、水害リスクの高いところで土地の 供給可能面積を減らすと、全体として 使える土地面積が減るために、戸建て 住宅が減って集合住宅・マンションが 増え、それに伴って太陽光発電量が減 るので、トータルとしては二酸化炭素 の排出量が若干増えるからです。単純 に適応とか緩和をそれぞれに考えるの ではなく、複数のいろいろなインデッ クス、メトリックから考えていく意味 は大きいだろうと思います。

今後の課題

課題はいろいろあります(図㉖) 。適 応策の展開を支える理論的基礎の体系 性、網羅性が不十分です。 基盤的な情報はできつつあるのです が、その情報を適切に扱うための手 法・知見がまだ十分ではありません。 ステークホルダーが容易に利用できる ようには整備されていません。いろい

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図㉔

ンの資産価値が上昇しているというこ とになっています。実際にそういう関 係があるということではなくて、不動 産の資産価値は、自然災害のリスクを ほとんど考慮していないということを 示唆しています。具体的には臨海部に 近いとか、眺望がいいといったことが アメニティとしての価値を高めて不動 産価格を上げているのです。このこと は、水害リスクを減らすには、公的な 何らかの対策が必要になるということ を示唆していると言っていいのかもし れません。 研究成果の紹介としてはこれが最後 になりますが、 太陽光発電の導入とか、 分散化、コンパクトシティなどを分析 した一例を示します(図㉕) 。緩和シナ リオの場合には二酸化炭素の排出量は 削減されますが、適応策を考えた場合 には、かえって二酸化炭素の排出量が 多くなってしまうという分析結果があ ります。それはどういうことかという

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図㉗

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図㉘


ろな適応などを考える地域社会シナリ オも整備が不十分でまだまだ問題があ ります。これからいろいろなデータベ ースが増えていくわけですが、大規模

データベースシステムを用いたシナリ オ情報利用法はわれわれ研究者の側で もまだ成熟していません。 適応策の汎用性に関しても課題があ ります。例えば、物流・生産チェーン には高い相互依存性があって、国内の みで適応策を検討しても、もしもタイ で洪水があったらいろいろな企業が影 響を受けるといったことがあります。 適応策をローカルに検討してもどこま で通用できるのかという議論はあると 思います。 国内の研究・実務者ネットワークの 形成と人材育成もまだこれからです。 また、高度化する影響・適用評価手 法のパッケージ化、そしてそれを自治 体、 ステークホルダー、 シンクタンク、 あるいは発展途上国の方々に伝えると いうことは、十分に成熟していないの が現状です。 今後、こういった気候変動適応科学 のコミュニティを支えるために、気候

図㉖

シナリオとか社会経済シナリオ、情報 利用システムがうまく連携していくよ うなところを目指していきたいと考え ています(図㉗) 。 今年の夏には適応計画の策定が予定 されていますし、「国土のグランドデザ イン二〇五〇」で示されたような多極 ネットワーク型コンパクトシティも国 の方針としていま議論されています (図㉘) 。気候変動とは関係なしに、空 家等対策の推進に関する特別措置法と か改正都市再生特別措置法で、コンパ クトシティを支援するような政策が実 際に動いているということもあります ので、そういった具体的な施策に、気 候変動や環境問題も含めたかたちで、 自治体の立地適正化計画等の作成の支 援ツール等を開発していきたいと考え ています。複合都市災害を考慮したよ うなトータルとしてのレジリエンス指 標の開発と評価もしていき、データ整 備、モデル分析などいろいろなものを

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ありがとうございます。ほか

日本にはさまざまな統計データなり情 報があるので、リスクモデルを構築し やすいけれど、海外だとデータもなけ ればモデルも未整備で、リスク管理と いうような概念もあまりないような状 況だということで、企業としては、紛 争のリスクは考えても、自然災害リス クまではほとんど検討されていないで、 経営判断で進出していっているようで す。保険系の会社では、ある程度基本 的なモデルが固まれば、自然災害リス クに関してもコンサルティング業務で 受注したりするようなニーズはあると 伺っています。研究者の側でも、国外 にも汎用性のある基盤データとかツー ルを開発して、企業の実情に応じてあ まり公に出したくないような手持ちの データを使って企業自身が分析するの に資するようなことがあってもいいの かなと思っています。

司会

にありますか。なければ私から一点伺 ってもいいでしょうか。先ほど横浜市 の浸水が予想されている地域のマンシ ョンの価格の図がありましたけれど、 こういったデータは出してほしくない という関係者もいるのかもしれないと 思うのですが、リスクに関係するデー タを社会的にどのように扱ったらいい かということについてコメントをいた だけたらと思います。

大楽 こういったプロジェクトをや っていくなかで、国交省や農水省の 方々のお話を伺う機会があるのですが、 リスクをもっと世の中に知ってもらお うと、いろいろと議論をした上でデー タを社会に出すのだけれども、出して みて意外とインパクトがないらしいと いうようなことを聞いています。地震 のハザードマップとかもだれでも見ら れるようになっているのですが、実際 にそれが不動産取得のときの意思決定

につながっているかというと、そうで もないらしいです。マンションを買う ときには、不動産業者が、重要事項説 明書を説明して、土砂災害とか水害リ スクの説明もするようになっているの ですが、それを皆さんが聞いて、じゃ あこのマンションを買うのはやめたと いうことになるかのというと、環境と か利便性とかの方で判断するようです。 自然災害のリスクも含めて総合的に評 価するようなもっとわかりやすいツー ルみたいなものがあってもいいのかな と思っています。

時間がまいりましたのでこ 司会 れで大楽先生のご発表を終わりにした いと思います。どうもありがとうござ いました。 それでは続きまして、東京大学大学 院総合文化研究科客員教授の古田元夫 先生にご発表をお願いします。

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共同実施して、気候変動リスク管理を 支援していければいいと思っています。

司会 ありがとうございました。それ では、ご質問なりコメントがあればお 願いします。 ――二点ほどあります。 緩和策ですが、 二酸化炭素を都市部で減らせばそこで は緩和策になるとしても、もしも地方 でいっぱい排出されていたならば、空 はつながっていますから、全体として は対策にならないと思います。そこは どのようになっているのでしょうか。 それともう一つ、緩和策のなかに森林 や樹木を増やすということは入ってい るのでしょうか。

大楽 二つ目の方からお答えします と、このモデルで考えている緩和策に は森林とか樹木は算入していません。 あくまでも都市部での床面積あたりの

排出量等を見て集計しています。もち ろんいまのモデルに生態系モデル、森 林モデル、農地モデルを合わせるとい う話はあるのですが、まだそういった 連携までは至っていないというのが現 状です。 都市と地方との関係ですが、地域で 適応/緩和策を議論していくのが重要 という認識が深まってきているのです が、緩和にしても適応策にしても地域 だけでやっていけるのかという議論は 当然あると思います。国際的にもその ような議論があることは私も承知して いるのですが、いまできることからや っていこうという前向きの姿勢といい ますか、少なくとも後ろ向きではない 姿勢で進めていこうということで考え ています。先ほど武内先生がおっしゃ ったように、国際的な動きもあります ので、これからの進展に期待したいと 思いますし、私たちも努力を続けてい きたいと思っています。

司会 ありがとうございます。ほかに いかがでしょうか。

――貴重なご講演ありがとうございま した。 一つ教えていただきたいのですが、 国内のみでの適応策を検討するのでは 不十分だとのご指摘がありましたよう に、企業活動を考えたときに、例えば タイで洪水があった場合には、そこか らは調達できなくなりますから、グロ ーバルに調達先を探さなければいけま せん。グローバルな視点でレジリエン スな都市を考えていくためには、日本 はどのように関係を海外と作っていっ たらいいのか、方向性だけでも教えて いただければと思います。

大楽 大変貴重なご指摘をありがと うございます。損害保険会社の方など と議論をしたときに聞きましたのは、

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その際にベトナム政府から国際水準の 大学を日本の支援でベトナムに作って ほしいという提案がなされました。外 国の支援でベトナムに国際水準の大学 を作るということは、ベトナムでは国 際大学構想と呼ばれていて、日本に先

行する事例として越仏大学や越独大学 などがあります。高等教育の分野で見 ますと、現在ベトナムから日本にきて いる留学生の数は、日本語学校の研修 生を入れた計算で、中国に次いで第二 位を占めています。ベトナムは日本に 対する注目度が高い国です。 二〇〇九年にベトナム側から最初の 提案があってからしばらくは日本の大 学側からの積極的な反応のない時期が ありました。そのころに、日本とベト ナムとの交流を発展させようと、財界 の方々が中心になって日越経済フォー ラムという民間団体が発足しました。 そこに大阪大学の副学長をしておられ た本間正明先生が関与しておられ、本 間先生は、日越大学は将来の日越関係 のシンボルになりうる事業で、その話 が宙に浮いているのはいかがなものか と考えられて、経済フォーラムのなか に大学部会というものを発足させまし た。私がこの話に関わるようになった 図①

のは、 この大学部会ができてからです。 経済フォーラムの大学部会で議論し て、日越大学に関する基本的な考え方 が固まってきました。ベトナムに新し いセンター・オブ・エクセレンスを作 るのと同時に現地の社会的ニーズに応 える実践的な人材を養成するというこ とを重視する必要があるだろうという こと、従来の日本の大学との交流・協 力の実績を重視してその延長に構想を 考えたいということ、そして、しっか りとしたベトナム側のパートナーが必 要であろうということです。 ベトナム側にしっかりとしたパート ナーを求めるということではベトナム 国家大学ハノイ校(VNU)がいいの ではないかと考えました(図②) 。VN Uはベトナムを代表する総合大学で、 日本の大学との交流の実績も多くあり、 ベトナムの教育省の管轄の大学ではな くて首相府が直轄をしていることから 動きやすいという面があるだろうとい

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■講演2

るのは大きな構想の一部で、まずはサ ステイナビリティ学を看板に掲げた大 学院を作ろうではないかということに なっています。 日越大学構想のなかで、 サステイナビリティ学が日越双方の協 力の最初の出発点として浮上したのは なぜかということについて、今日はお 話をさせていただきたいと思います。 私自身はベトナムの現代の歴史や社 会・政治を研究している地域研究者で、 サステイナビリティ学ということに関 しては理解が一知半解な部分があろう

日越大学構想における サステイナビリティ学の役割 ふるた もとお

古田元夫 東京大学大学院総合文化研究科客員教授

私は「日越大学構想におけるサステ イナビリティ学の役割」ということで お話をさせていただきます。これだけ ですと一体何の話が出てくるのかと思 われる方もおられるかと存じます。 まず日越大学構想というのは、日本 の複数の大学が、この茨城大学も参加 されていますが、協力してベトナムに 大学を作ろうという構想です。両国政 府間の合意で計画が進んでいて、大学 は二〇一六年秋にスタートしようとい う話になっています。そのときに始ま

かと思います。ご専門の方から見てお かしいと思われるところがありました ら、遠慮なくご指摘を賜れればと思い ます。 ハノイの近郊のホアラックというと ころに、ちょうど日本でいうと筑波学 園都市構想のようなハイテクパークを 作ろうという構想が進んでいます。そ の一角に日越大学も置かれる予定で、 二〇一四年一二月二〇日に起工式が行 われました。この起工式をもって本当 に作られるのだなという実感が湧いた という次第です。

経緯と基本的構想

日越大学構想がどういう経緯で進ん できたのかといいますと(図①) 、最初 の提案が出てきたのは、二〇〇九年に 第一回の日越学長会議がハノイで開催 されたときでした。日本からは六〇を 超える大学の代表が参加したのですが、

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点を考えようということになりました。 ただし、六〇〇〇人規模の大学を作 るための財政的な見通しが立ったわけ ではありません。それで、まずはサス テイナビリティ学を掲げた修士課程の 大学院大学を二〇一六年秋に作ろうと

いうことに、この基礎調査を通じてま とまりました。この構想に関心を示し てくださる日本側の大学がコンソーシ アムを組むことになり、ここに名を挙 げている大学が加わってくださること になりました。 このような流れを受けて、二〇一四 年三月にチョン・タン・サンというベ トナムの国家主席が来日をされた際に、 両国政府間で共同声明が発表され、そ のなかに日越大学の計画も明記され、 政府間の合意というかたちになりまし た(図④) 。これを受けて二〇一四年七 月にベトナム政府はVNUを構成する 大学としての日越大学の設置を認可し ました。そして、二〇一六年秋の発足 の大学院に関しては、人材派遣、資材 供与をJICAの技術協力のスキーム で行うことになり、二〇一五年一月に ベトナム側と正式な契約が結ばれまし た。計画としては、二〇一六年秋に大 学院を立ち上げると同時に、将来の大 図④

規模な構想の可能性を検討するフィー ジビリティスタディを行って、財政的 な見通しに関しても考えることになっ ています。 日越友好議員連盟の自民党の関係者 が中心となって、推進議員懇話会も作 られ、自民党の総務会長の二階俊博さ んが名誉会長で、文科大臣を務めた経 験のある河村和夫さんが会長です。官 邸には世耕弘成官房副長官を責任者と するタスクフォースも発足しました。 このような話が出てくるベトナムの 大学事情をお話します(図⑤) 。二一世 紀に入ってベトナムでは高等教育が急 速に拡大して、高等専門学校の生徒も 含めると、同世代の青年の約四分の一 が高等教育機関に進学するようになり ました。ただし、質的な面では大きな 課題を抱えていて、ベトナムのトップ クラスの大学でも、いわゆる世界ラン キングや、東南アジアという範囲での ランキングはあまり芳しくありません。

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うことも考えました。 二〇一一年一〇月にVNUの執行部 が日本にこられたときに、パートナー になってもらえないかという話をしま した。これに対しては、VNUの執行 部は非常に前向きでした。そうこうし

ているうちに、元日越友好議員連盟の 会長で、自民党の幹事長も務めたこと のある武部勤さんがこの構想の話を聞 かれて、日越友好という角度からぜひ 実現をする必要があるだろうというこ とで精力的に動いてくださるようにな

図②

りました。武部氏という有力な政治家 の関与を得てからこの構想は急速に日 越両国間の政府の合意へと進んでいく ことになりました。 二〇一三年には日本のJICAがフ ィージビリティ・スタディ(FS)に 先立つ基礎調査を実施し(図③) 、将来 的には六〇〇〇人規模の総合大学をV NUの傘下に作ってはどうかという構 想をまとめました。VNUはかつての 東京帝国大学によく似た構造をもって います。東京帝国大学は帝国大学のな かに法科大学校とか理科大学校とかの 大学校がありましたが、VNUもユニ バーシティの傘下にユニバーシティを もてるという構造になっていて、VN Uを構成するユニバーシティの一つと して日越大学を考えてみようというこ とになりました。VNUには先ほどお 話をしたホアラックにキャンパスを移 転させる計画がありましたので、その ホアラックキャンパスに日越大学の拠

図③

86


私ども日本側の考え方として、ベト ナムの従来の大学のあり方を変える一 つの起爆剤にこの日越大学がなればと いうことがあります(図⑦) 。ベトナム はソ連の影響を受けて単科大学が多く、 尖った専門性に応じて大学が編成され

るという考え方を採ってきました。尖 った専門性を重視する大学ではなくて、 むしろ広い視野、日本的にいえば教養 を重視する大学を作りたいということ が第一点としてあります。第二に、研 究と教育が分離されているような教育 の場ではなくて、研究と教育が結合さ れる大学を作ろうということです。ベ トナムはかつての科挙試験があった国 で、エリートは現場に出たがらない傾 向が強くあるのですが、第三に、現場 を重視するエリートを養成する場にし たいと考えています。産学連携という のは、ベトナムでもその必要性が叫ば れるようになっていますが、まだ本格 的には実施されていません。第四に、 産学連携の推進の場になることを考え ています。第五に、従来のベトナムの 大学ではあまり重きを置かれていなか った学生の課外活動なども重視する大 学にしたいということもあります。 図⑦

なぜサステイナビリティ学なのか?

そのような大学院の看板になぜサス テイナビリティが取り上げられたのか ということの背景として、今日お集ま りの方には釈迦に説法なのであまり詳 しく申し上げませんが、ベトナムは気 候変動等の影響を最も受けやすい国と してしばしば取り上げられることがあ ります(図⑧) 。とくに海面上昇がおこ ると、ベトナムの最も豊かな穀倉地帯 であるメコンデルタを始め、非常に多 くの地域が深刻な影響を受けると予測 されています。これがベトナムでサス テイナビリティに関心が向く一つの大 きな要因としてあります。 二番目に、経済の発展モデルでサス テイナビリティが重視されるようにな ってきています。ベトナムでは一九九 〇年代以降、国際的な孤立を克服する 過程で比較的順調な経済成長が続き、 二〇〇八年には国民一人あたりのGD

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パートナーとして考えているVNUも、 二〇一五年二月に出たある調査の世界 ランキングでは八九四位、東南アジア でも二〇位という状況です。ベトナム の大学はかつてのソ連型のモデルで作 られていて、研究と教育が分離して、

大学の機能として研究がそれほど重視 されてこなかったことがいまも尾を引 いてランキングが低いのだろうと思わ れます。こうしたことを背景にして、 ベトナムでは国際的水準の大学を作り たいという話が出てきているのです。

図⑤

ベトナム側と協議を重ねて、日越大 学の基本的な考え方としてまとまって いますのは、日系企業等ベトナムの現 地の社会的ニーズに応える実践的人材 養成を重視するけれども、基本はベト ナムの新しいセンター・オブ・エクセ レンスを作るのだということはきちん と押さえておくということです (図⑥) 。 そして、日本の大学の分校を作ろうと いう話ではなくて、あくまでもベトナ ムの大学を作るということです。日本 が協力をすることで、ベトナムにいま までなかった大学を作るのです。日本 側の協力体制としては、オールジャパ ンで大学・政府・民間の力を結集する ようにして、日越関係の象徴的な事業 にしたいと考えています。日越大学の 構想は決して日本とベトナムだけで閉 じるものではありません。アジアと世 界に開かれた事業にしたいということ も基本的な考え方として確認されてい ます。

図⑥

88


党の最新の党大会であります二〇一一 年一月に行われた第一一回党大会では、 二〇二〇年までにベトナムを現代的な 工業国にするために年平均七~八パー セントの経済成長を追求するというこ とが打ち出されたのですが、同時に経

境保全と公害防止といったことが強調 されています(図⑪) 。当面の重点施策 としては、市場システムの整備、競争 的環境の整備、 それと同時に人材育成、 とくに高度人材の育成ということが強 調され、ここでサステイナビリティと 大学教育が結び付いてきます。 サステイナビリティ学が看板になる もう一つの背景として、VNUが近年 重点的な課題としてサステイナビリテ ィを取り上げてきていて、その面での 日本との交流の実績があるということ もあります(図⑫) 。一九九五年にVN Uを構成する自然科学大学のなかに環 境学部が作られ、同じ年に自然資源と 環境に関する研究センターも設置され ています。一昨年までVNUの学長を しておられたマイ・チョン・ニュアン 先生がこの分野での国際交流を推進し てこられ、東大が関係するものだけで も、二〇〇〇年に始まった「ベトナム における都市の安定的な水供給」です 図⑫

91

済発展モデルの転換の必要性がうたわ れて、急速な発展と持続可能な発展の 結合が重要だということが強調されま した。持続可能な発展としては、経済 の面では安定成長、社会の面では貧困 の削減と格差の是正、環境の面では環 図⑪


Pが一〇〇〇ドルを超え、現在では約 二二〇〇ドルに達しています(図⑨) 。 いわゆる最貧国から中進国になったと いわれています。ただし、安価な労働 力と投資資金と資源の拡大による従来 の発展モデルには限界が出てきていて、

このままで行くと、いわゆる中進国の 罠に陥って、それ以上の成長ができな くなってしまうのではないかという懸 念があります。成長モデルの転換の必 要性が現在ベトナムでは強調されてい て、一九九八年ごろから共産党や政府

図⑧

の発展戦略に関する文書のなかでサス テイナビリティ、持続性が強調される ようになってきました(図⑩) 。二〇〇 四年八月には「ベトナムにおける持続 的発展戦略の方向性」という首相決定 の文書が出ていますし、ベトナム共産

図⑨

90 図⑩


けないという話です。 それともう一つ、皆様のサステイナ ビリティ・サイエンス・コンソーシア ムのご尽力の大きいところで、サステ イナビリティ学を看板にしますと、日 本の非常に多くの大学のご協力をいた

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サステイナビリティ学大学院の内容

大学院の中身としてどのようなこと を考えているのかといいますと、六つ のプログラムで構成します(図⑮) 。地 域研究、公共政策、企業管理、環境技 術、ナノテク、社会基盤です。二〇一 六年にこの六つのプログラムを立ち上 げようということになっています。気 候変動などに関してもプログラムを作 りたいという要望がありますので、一 ~二年遅らせて作ることをいま考えて います。 各プログラムの一学年は一〇人から 二〇人で、 基本的な教育言語は英語で、 日本側の派遣教員とVNU側の教育ス タッフが半々ぐらいで授業を担当しま す(図⑯) 。将来的にはベトナムの他の 研究機関・教育機関におられる優秀な 専門家も結集するようなかたちにして いくことが考えられています。カリキ ュラム構造は日本と単位の数え方はほ 図⑯

だけるということがあります(図⑭) 。 このことが、サステイナビリティ学で 大学院を作ろうという話になったかな り大きな理由かと思います。

図⑮


とか、二〇一一年四月にハノイで行わ れたサステイナビリティ・サイエンス に関する国際会議など、実績がたくさ んあります。 また、日本側からサステイナビリテ ィを積極的に提案してきた背景として

は、従来のベトナムの大学教育の一つ の弱点を克服して広い視野をもった人 材を養成するということを本格的に進 めて、文理融合型の大学を作るという ことになると、サステイナビリティ学 が絶好の看板になるであろうというこ

図⑬

とがあります(図⑬) 。サステイナビリ ティ学を正面から取り上げた大学院は、 世界的に見ても先進的な試みになるの ではないかということで提案をしまし た。大学院はサステイナビリティ学、 学部はリベラルアーツカレッジ的な色 彩をもったものにしようと考えていま す。 実はかつてVNUができたときに、 東京大学のように、大学に入学した全 学生が入る教養学部を作るという計画 が一時実現したことがあります。とこ ろが、日本の教養部の弱点をもっと拡 大して作られたような面があって、専 任の教員二〇人で一万人近い学生の教 養課程を全部まかなうというかなり無 謀なものでした。私は当時は東京大学 教養学部の助教授で、これは大変だと いうので、当時の教養学部長にハノイ に行っていただいたりしたのですが、 残念ながらこの計画を支える力はなく て、 教養大学はつぶれてしまいました。 今度はつぶれないものを作らないとい

図⑭

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行っていただいて、一学期分一五コマ の授業をしていただくことを考えてい ます(図⑲) 。四~五日という短期集中 講義や、日本からのEレクチャー、そ れから必ずしも現地に行かなくても個 別研究指導は日本からでもできるであ

して行くことになっていますが、その 他の一年未満の専門家の派遣、VJU の学生・教員の日本での研修受け入れ などに関しては、プログラムごとに幹 事校を置いて、そこが責任を持つかた ちでやろうということになっています (図⑳) 。 幹事校の布陣はいまはこのよ うになっていますが、例えば地域研究 の分野では、茨城大学もご協力をいた だけるという意思を示していただいて いますので、幹事校である東大からお 願いをして茨城大学の先生に行ってい ただくことも考えられています。幹事 校だけでなく広い協力体制で進めて行 くということです。 最後にベトナム側がどんなことを考 えているかという一例とし、環境技術 の分野の専門科目についてVNU側か らの提案をご紹介します(図㉑) 。これ はいま日本側と協議をしている途中の ものですので、ベトナム側の持ってい るイメージを知っていただくご参考と 図⑳

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ろうとか、修士課程二カ年のなかで分 野によっては日本の大学にきて実習を していただくこともあるだろうとか、 いろいろなことを組み合わせて協力し ていきたいと考えています。 長期派遣の専門家はJICAと契約 図⑲


ぼ同じと考えていただいていいのです が、修士課程の単位数は日本よりはる かに多くて六四単位です。VNUの共 通科目として、社会主義国ですのです べての分野の大学院に哲学が必須で課 せられているなど一四単位あります。

VJU(日越大学)のサステイナビリ ティに関する共通科目をぜひ置きたい ということで、いまベトナム側と協議 をしているものが六単位あります。 実際にどういうカリキュラムにする のかという話になると、ベトナム側と

図⑰

日本側の発想の相違のようなものが浮 き彫りになってくる面があります(図 ⑰) 。ベトナム側が日本の最先端技術、 尖った専門性を求めているのに対して、 日本側は尖った専門家を育成するため にも、幅広い視野の涵養が重要だとい うことで、サステイナビリティ学大学 院としての統合性がほしいと主張して います。この議論はどのようなかたち でVJUの共通科目を作るのかという ところで具体的に表れてくると思いま す。日本側の提案としては、サステイ ナビリティ学の基礎論のようなものを 置き、情報学にその地域の色彩をかぶ せたようなものを設けて必須の共通科 目としてはどうかということなのです が、これはまだ協議中です(図⑱) 。 日本側の協力の仕方としては、各プ ログラム最低一名、できれば二名程度 の長期派遣の専門家を教育体制のコア に据えて、 短期派遣として、 一単位分、 できれば二カ月、難しければ一カ月間

図⑱

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思います。

古田 ベトナム政府からホアラック にハイテクパークを作る計画が提示さ れたのは、日越大学の話が出るよりも 前で、安倍さんが最初に総理大臣にな った時期のことです。当時、日本とベ トナムは戦略的パートナーシップの関 係にあるということをうたおうという 交渉が両国政府の間で進んでいました。 ところが、当時はまだベトナムと中国 の間で戦略的パートナーシップの合意 ができていなかったので、中国を差し 置いて日本を先にするのはどうだろか と、 ベトナム側には躊躇がありました。 その躊躇を取り払うために、日本側は ベトナム政府が考えている大きな三つ の計画に対してODAによる支援を約 束しました。そのうちの一つがホアラ ックのハイテクパークで、あとは南北 横断・縦断の高速道路と新幹線でした。 そのような経緯がありますので、ハ

ノイ国家大学のホアラックへの移転は、 国家大学の中から大学の意思として出 てきたというよりは、政府からそうし なさいと話がおりてきたのであろうと 推測しています。実際に、国家大学の 先生方や学生さんの話を聞くと、あん なタヌキが住んでいるようなところに は行きたくないという感じです。すご くいい自動車道路はできているのです が、公共交通はまだ整備されていなく て、ごく先端的な企業や研究機関が移 っているだけで、本格的なハイテクパ ークとしての様相にはまだなっていま せん。そういうことからしますと、日 越大学をホアラックに作ることを起爆 剤として、国家大学のホアラック移転 を一挙に進めたいという意思がおそら く国家大学の執行部にはあるのだろう と想像しています。 ただし、今のところは日越大学の管 理棟ができているだけですので、すぐ にそこで教育を実施するという条件に

はなっていません。サステイナビリテ ィ学の大学院の当初のスタートはハノ イ市内にあるVNUのキャンパス、な いしはその隣接施設を使ってというこ とになろうかと考えているところです。

司会 どうもありがとうございまし た。 続きまして、フューチャーアース構 想について、東京大学の福士先生から お願いします。フューチャーアースに は本学も東大と一緒に参画させていた だくことになっています。

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してご紹介させていただきます。

司会 ありがとうございました。 日越大学に関しては、茨城大学も協 力校として参加する予定になっていま す。このような動きがサステイナビリ

ティ学の中で出てきているということ は今日初めて聞かれた方も多いかと思 いますが、何かご質問がありますでし ょうか。 ――私はベトナムには何回も行きまし

たが、ホアラックはかつては何もなか ったところです。なぜホアラックが選 ばれたのか、ハノイの中心にあるハノ イ国家大学の先生方はホアラックに移 動することにどのような印象を持って おられるのか、教えていただければと

図㉑

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ICSU (国際科学会議) 、 ISSC (国 際社会科学協議会)などの国際組織で す。ベルモントフォーラムは研究を推 進するための資金団体です。 評議会の下に、科学者代表で組織さ れる科学委員会と、そのほかの関係者 図①

図②

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■講演3

フューチャーアースと社会実装 ふくし けんすけ

福士謙介

フューチャーアースがとくに強調し ているのが科学と社会のつながりで、 とりわけ社会実装を推進するというこ とをうたっています(図①) 。その意味 でステークホルダーとの連携を大変に 重視しているプログラムです。また、 イノベーションを推進して、経済発展 と科学の共進化、そして世界的な危機 の回避を目指しています。 このあたりのことに関して、SSC の前理事長の小宮山宏先生は、研究者

フューチャーアースのこれまで

東京大学サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)教授

今日はフューチャーアース( Future )について少々お話させていた Earth だきます。フューチャーアースについ ては、皆さまはお聞きになったことが あると思いますし、さまざまな資料や ホームページなどで紹介がありますの で、フューチャーアース自体の解説に 関してはほとんど割愛させていただい て、サステイナビリティ学がどのよう にフューチャーアースに関わっている かということを中心に述べさせていた だきたいと思います。

は大変自分勝手な存在で、研究費を取 ったらあとは社会に対して何もしない というような批判をかねてからされて いて、その反省に立って、私たちは社 会と科学の連携に関して研究するだけ ではなくて、社会実装の方も実際に進 めるような研究もしてまいりました。 その経験もあって、フューチャーアー スがこのような方向性で舵を切ったの は大変いいことだと思っています。科 学者の意識改革がなされ、異分野間の 連携によって新分野が創出されるとい うことが期待できます。 フューチャーアースの運営体制は多 重構造になっていてわかりにくいので すが、一番上に評議会があって、これ がフューチャーアースの最高意思決定 機関です(図②) 。評議会はフューチャ ーアースを支える国際組織の代表で構 成されます。ベルモントフォーラム、 国連大学、ユネスコ、UNEP(国連 環境計画) 、WMO(世界気象機関) 、

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等研究所サステイナビリティ学連携研 究機構(IR3S)のなかに置かれる ことになりました。先々週この合同事 務局の日本ハブのディレクターとして

春日文子東京大学客員教授が選出され ました。なぜIR3Sなのかというこ とでは、カナダ、フランス、日本、ス ウェーデン、アメリカの五カ国が共同 でフューチャーアースの準備に当たっ てきたころからIR3Sに関係する 人々が関与してきたという経緯があり ます。

フューチャーアースにおける 国際合同事務局の役割 フューチャーアースは何をしている のか、とくに事務局は何をしているの かといいますと、いまはおもにコアプ ロジェクトのメンテナンスをしていま す(図④) 。フューチャーアースの前身 といえるようなさまざまプロジェクト、 IHDP(地球環境変化の人間的側面 に関する国際研究計画) 、IGBP(地 球圏・生物圏国際共同研究計画) 、DI VERSITAS(生物多様性科学国

際共同研究計画)がもっているプロジ ェクトの管理・運営です。コアプロジ ェクトは一つひとつが非常に大きなも ので、 そこの不満を聞き、 科学委員会、 関与委員会からの指示を伝え、さらに さまざまな合意文書を作ってマネジメ ントをしていくという非常に疲れる仕 事を事務局はしています。それらのプ ロジェクトをそのまま継続しただけで は、フューチャーアースとしての役割 がなくなってしまいますので、フュー チャーアースとして要望を満たせるよ うに変化させたり、ときには二つのプ ロジェクトを一つにまとめたり、もし くはフューチャーアースには入れない といった決断をします。いまはそのよ うな選別をしているところです。 フューチャーアースはさまざまな文 書を出していて、いずれもダウンロー ドが可能です(図⑤) 。二〇一三年一一 月にイニシャルデザインを出して、フ ューチャーアースの考え方を提案しま

101

図⑤


で組織される関与委員会があります。 特に関与委員会があるのが特徴的で、 ステークホルダーの関与を重要視する ということです。財界人やNGOの代 表者などさまざまな方が関与委員会の

図③ メンバーとして選出されています。二 つの委員会のメンバーは基本的に国か ら推薦することになっていて、日本か らは関与委員会にトヨタの環境部部長 の長谷川雅世さん(現NPO法人国際

図④

環境経済研究所主席研究員)が、科学 委員会に総合地球環境学研究所(地球 研)の安成哲三所長が入っています。 このような上部の決定機関を支える ものとして国際事務局があります(図 ③) 。 事務局には五カ国が名乗りをあげ てプレゼンテーションをして競ったの ですが、どこを落とすのも忍びがたい ということで、 競合から協調に変えて、 五カ国が共同で事務局を運営するとい うプロポーザルをして、二〇一四年七 月に採択決定を受けて、先ほど武内先 生からもご紹介がありましたように、 日本が国際事務局の一つとなっていま す。国際事務局の中に地域事務局が四 つ置かれています。アフリカがまだ具 体的になっていませんが、アジアのハ ブは地球研に置かれています。 国際合同事務局に応募したのは日本 学術会議だったのですが、学術会議は 事務局になるには柔軟性に欠けるとい うことで、実際の事務局は東京大学高

100


民、政府、企業などに入ってもらいま す。コデザイン、コプロダクション、 コデリバリーといっていますが、ステ ークホルダーが参加することによって、 すべてに責任をもってステークホルダ

ーが使えるような科学の結果を出して いくようにします。科学者も、ステー クホルダーと話すことで新たな気付き があり、イノベーションが推進できる という利点も期待できます(図⑦) 。も ちろんすべての研究にステークホルダ ーが入るというわけではなくて、気候 モデルの研究のように純粋に研究者が 進めるというものもあります。 ステークホルダーが最初から入るこ とで社会実装、問題解決、社会システ ムのイノベーションが推進できるので はないかと考えているわけですが、ス テークホルダーが使う言語はやはり現 地の言語になることがほとんどだと思 います。ですから、例えばベトナムで 進められた研究をインドネシアでも活 用できるようにするにはどうしたらい いのかというと、一つには英語を使う ということがあるのかもしれません。 しかし、英語ではやはり現地のコミュ ニケーション自体が非常に難しくなり 図⑦

ますし、ベトナムでの成果をベトナム 語から英語に直すと、そのときにかな りの情報がなくなってしまうというこ ともあります。日本のさまざまな会社 や大学のホームページを見てもわかり ますように、 英語のページがあっても、 実際には日本語のページの方がずっと 充実しています。英語になると内容が 簡単なものになってしまい、そこで理 解のギャップが生じます。ベトナムで の研究成果をインドネシアでも活用で きるようにするには国際事務局の役割 が大きいと思っています。 国際事務局は単にコアプロジェクト を管理するだけではなくて、多くのサ イエンスオフィサーを配置して、研究 の成果だけではなくて、研究を行って いる過程も収集して、それを整理・構 造化、さらにはマニュアル化という言 葉が適切かわかりませんが、経験を使 える情報に変えていくということも大 切な仕事であると考えています。

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した。二〇一四年一一月にビジョン二 〇二五を出して、二〇二五年までの目 標を非常に簡単な形で示しました。二 〇一四年一二月に科学委員会と関与委 員会の合同会議がブエノスアイレスで あり、ストラテジック・リサーチ・ア ジェンダ(SRA)が出されました。 その表紙の写真に、なぜか渋谷のスク ランブル交差点が選ばれています。S RAでは主たる研究課題が六二示され ています。非常に多くの課題が掲げら れているために、三六〇度全方向に広 がっているだけではないか、本当に意 味があるのかといった意見もあります。 これはまだフューチャーアースそのも のが固まっていない時点で出された提 案なので、すべてを入れるしかなかっ たというのが前事務局長の話です。今 後、 来月ウィーンで開かれる合同会議、 一一月に日本で開かれる合同委員会を 経て、順位付けがされるようになって いくことを事務局としては望んでいま 図⑥

す。 どのような研究をやるかということ では、最初に申しましたように、研究 が社会のものになるということが重要 です(図⑥) 。例えばエネルギー・水・ 食料の安全保障戦略に役立てるという ことです。いままでは地球システムの 研究と社会のニーズへの対応はばらば らになされていた面があったのですが、 フューチャーアースでは地球システム の理解と社会のニーズを調和させてい きます。プロジェクトの構想段階から 地球システムの科学と社会のニーズを 連携させていきます。研究に社会的・ 政治的・規範的な価値が付加されて、 行動へとつながることが重要だと考え ています。 そのようなことをするために、国際 事務局としてどのようなガバナンスが 必要であると考えているのかといいま すと、プロジェクトの計画段階からさ まざまなステークホルダー、地元の住

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から資金調達を行っていくようになり ます。ステークホルダーの方がアクシ ョンの選定の最初から関与しています と、地元からの資金調整のハードルが ある程度低くなります。資金を得て最 終的に社会実装していくわけです。

このようなプロセスすべてで使える 情報を、情報基盤プラットフォームと して集めていきたいと考えています。 これまで研究者は通常は、長中期シナ リオを策定する段階で諮問委員会など に入るとか、アクションの基本的なと ころをつくるとか、それを可視化する といったようなところで関わってきて いたのですが、これからは資金調達と か地元調整、さらにはステークホルダ ーとの話し合いにまで入っていくよう になります。そこまで腹を決めて研究 者がやらないと、なかなか物事が進ま ないというのがわかってきています。 ステークホルダーとの話し合いは、 今までは「すり合わせ」と言い表して いたところがあって、関係者とお酒を 飲んだりして行われてきた面もあるの ですが、前理事長の小宮山先生は、お 酒が飲めなくてもできなくてはいけな い、どの人がキー・パーソンなのか、 どういうところに導入障壁があるのか 図⑨

が的確にわかるようにならなければい けないと言っておられますので、それ を目指しているところです。 ある技術システムが社会に実装され ているときに、その技術システムはさ まざまな要素技術の知識ストックが複 合されてできています(図⑨) 。知識ス トックの組み合わせを変えると新しい 要素技術が出てきて、それによって技 術システムが変わります。それがイノ ベーションです。そのようなことは今 までは、いわば山勘によって行われて きたのですが、新しいマニュアル、も しくはモデルを作ることによって、イ ノベーションが起きてくるようになる のではないかということをサステイナ ビリティ学では考えています。 研究者として非常に欠けているので はないかと思うのがビジネスとの連携 です。うすうす思っているのは、ビジ ネスにならないと社会は変わらないの

ではないかということです 図(⑩ 。)政

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図⑧

イノベーションをどのようにして 創出するのか

イノベーションをどのようにして創 出していくのか、もう少しわかりやす く私がいま取り組んでいる仕事の一つ を例にしてお示しします(図⑧) 。 将来に向けてどのような社会をつく っていくのか、国や自治体には長中期 のシナリオがあります。そのなかに、 例えばバイオマスプラントを作るとか 薪ストーブを導入するとか一つひとつ のアクションがあります。それらのア クションを可視化して、研究者や地元 の方、自治体関係者、政府関係者にわ かりやすいかたちで提示して、そのな かから有望なプロジェクトを選定して いきます。そのときに、そのアクショ ンにはどのような経済的なインセンテ ィブがあるのか評価します。この評価 によって、地元の理解を得て、信金と か民間のファンド、もしくは公的資金

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図⑪

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まな気候関連のファンドがあって、例 えばグリーン気候基金はいまお金を集 めている途中で、一兆円集まったと聞 いています(図⑫) 。二〇二〇年までに 一〇兆円集める予定です。そのほかに もさまざまな資金があって、二〇五〇 年ごろには途上国だけで年間四〇兆か

図⑫


府は非常に強い力をもっていますが、 民主主義社会では企業がこれをやりた いと思わないかぎりは、社会のなかで 実際に行われるようにはなっていきま せん。 途上国で都市開発をしますと、それ

図⑩

によって都市の人口が増加して、いろ いろな開発が行われるようになります。 現在の都市開発の要件として、 低炭素、 そして自然共生というのがあると思い ます。それは高効率、長寿命、再生可 能な技術によって達成されます。低炭 素社会は自立的なエネルギーを意味し ますから、どの国にとってもいいこと です。自然共生社会はゆくゆくは必ず 目指さなければならないものですから、 開発段階から入れておくべきです。先 ほど大楽先生が適応について話されま したが、適応と開発はセットで考えて いくべきでしょう。インドネシアなど では実際に開発計画のなかで適応を考 えるようになってきています。 途上国で開発のための資金が投入さ れる場合に、まずは自国の資金が投入 され、それに加えてさまざまな先進国 の資金が入ってくることが予測されま す。資金とともに先進国から技術も入 ってきます。日本が非常に得意とする

高効率技術、もしくは長寿命のインフ ラの技術、さらに再生可能な技術を入 れていくということは、非常に大きな ビジネスチャンスとなります。高効率 と長寿命では日本は技術的な優位性が あり、またコンセプト的な優位性もあ ります。

フューチャーアースにおける 日本のリーダーシップ

ビジネスとの連携も視野に入れて、 気候変動の適応と緩和をレビューする 研究を、文科省から資金をいただいて 茨城大学と東京大学とで進めています (図⑪) 。 これは大きなプロジェクトの 推進につなげようという研究で、ベト ナムを中心とした気候変動の適応に関 する現場の知、現場の経験などを生か して適応計画を策定していくための調 査をしていきます。 資金のことをお話しますと、さまざ

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要です。日本は他の先進国に比べてア ジアの国に対する圧倒的な優位性があ ります。ただしグローバルマーケット にまだ十分に対応していないところも ありますので、今後の伸びしろが大変 にあると捉えていいのではないかと思 います。 アジアは炭素の排出が非常に多いと ころです。フューチャーアースを基盤 にして、社会実装のいい実例を日本が 作っていける大きな可能性があります。 産業界と自治体が連携し、そこに学術 も連携して大いに展開していくことを 期待しているところです。

司会 ありがとうございました。何か ご質問があるでしょうか。 ――研究成果の社会実装をステークホ ルダーとともに取り組んでいくという のは私も一般論としては賛成なのです が、実際に研究者がどこまで社会実装

に入っていけるのかというところでは、 なかなか研究になりにくいということ もあって、難しいところもあるのでは ないかと懸念します。研究者が意欲的 に取り組んだとしても、研究資金が切 れると研究としてはそこで終わる可能 性があって、持続可能かどうかという 問題にもなります。それらの点につい て先生のご意見を伺えればと思います。

福士 先日フューチャーアースの会 議があったときにも、いまおっしゃっ たことを懸念する意見が出ていました。 私が佐渡でやっている研究でも、地元 に入り込んでいくと、なかなか抜け出 ることが難しくなります。佐渡の人た ちには、私は外部の人間であるという ことを繰り返し強調していて、研究が 終わったら私はいなくなるので、地元 でやれる人を捜して、事業の持続可能 性を保っていってくださいと申し上げ ています。

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ています。技術力、科学力、ビジネス モデル、資金力、人材、組織力、そし て高い倫理性、これらの総合力で日本 は非常に高い水準にあります。日本は 何だかんだ言っても非常にまじめな国 です。しかし、まじめだけではビジネ スになりません。攻めて行く姿勢が必 図⑭


ら六〇兆円の気候関連の支出が予測さ れています。開発には、必ず気候変動 への適応を考えなければなりません。 日本も一兆円を超えるようなお金を開 発のために使うことになっていますの で、気候変動の緩和と適応は当然責務

として考えいかなければならないと思 います。 日本には低炭素社会を目指す二国間 クレジット制度(ジョイント・クレジ ティング・メカニズム) (図⑬)があっ て、建設業とか自治体・大学・コンサ ルなどがコンソーシアムを組んで、途 上国で都市全体が低炭素になるような プロジェクトを進めています。SSC が昨年会宝産業とともに行ったプロジ ェクトがその一例で、ベトナムに技術 を提供しています。環境省や経産省か ら設備補助が五〇パーセント出ますの で、途上国にとって魅力があります。 脱炭素社会は高効率で高い自律性が期 待されますので、エネルギーや資源の 少ない国にとって大変大切なことです。 二国間クレジット制度は炭素クレジ ットを得ることが目的としてあるわけ ですが、日本の利点を活かした海外事 業が展開できるのも大切なことです。 先ほども言いましたように高効率、長

図⑬

寿命は日本の利点です。また、海外事 業を展開することで、技術の継承がで きるということがあります。例えばダ ムを作るということは国内ではもうほ とんどありませんし、橋を作ることも なくなってきていますし、水道事業も 維持更新だけとなっています。さまざ まな技術、経験を活かせる場が国内で は少なくなってきているのです。国内 だけでは技術者がいなくなるばかりか、 技術そのものの継承さえできなくなっ てきているのです。海外で事業を展開 することで技術の力が継承されていく ことが期待できます。そのようなこと に熱心に取り組んでいる自治体もあり ます。 フューチャーアースにおける日本の リーダーシップは、産業界と自治体の 連携から始まるということを申し上げ ています(図⑭) 。学術の世界のことを あまり言わずにいて恐縮ですが、とく にこのことを強調しておきたいと思っ

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■講演4

:

今日は皆さんは茨城県のほぼ中央の 水戸におられます。茨城大学のキャン パスは三つあって、水戸から三五キロ

茨城大学とサステイナビリティ学

(IR3S)が設立されたときから、 そのチームに入れていただいて、さま ざまな形での取り組みを進めてきまし た。過去一〇年間どのようなことが行 われてきたのか、その一端をここでご 紹介したいと思います。

サステイナビリティ学の課題と適応科学 茨城大学の挑戦 三村信男 みむら のぶお

茨城大学長

今日は遠方からも茨城大学にたくさ んお集まりをいただき、大変ありがた く思います。一年ほど前に来年の五月 にはぜひ茨城大学がホストをしてくだ さいと言われまして、こうして皆さん にきていただいてうれしく思っていま す。せっかくの機会ですので、茨城大 学でサステイナビリティ学がどのよう に教育され、研究されているかについ てお話したいと思います。 本学は二〇〇五年に東京大学の主導 でサステイナビリティ学連携研究機構

ぐらい北の日立市に工学部、水戸から 南にもう少し離れた霞ヶ浦の横の阿見 町に農学部、そしてこの水戸に人文・ 教育・理学部の三学部があります(図 ①) 。学部の学生、大学院生を合わせて 八三〇〇人の中規模な国立大学です。 その茨城大学に二〇〇六年に地球変 動適応科学研究機関(ICAS)が設 立されました(図②) 。ここが茨城大学 におけるサステイナビリティ学の研究 教育の拠点です。茨城大学には五つの 学部があって、キャンパスが三つに分 かれていますから、物理的な障壁もあ れば学問の障壁もあるという二重三重 の壁があったのですが、このICAS にすべての学部、学内の主要な研究セ ンターから参加していただいた結果、 その壁がすごく低くなりました。いろ いろな分野の人が討論して、一緒に教 育や研究に取り組める環境ができてき たというのが、茨城大学にとって、こ のサステイナビリティ学を推進した非

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研究成果があがりにくいということ は、サステイナビリティ学を一〇年前 に始めたときから非常に懸念されてい ました。いまは論文によって研究者を 評 価す る 時代で す 。論 文は 同業 者 )が評価するシステムになって ( peer います。いま私がここでお示しした社 会実装は社会によって評価されるもの です。科学のモードが異なるのです。 若手研究者が地元に入ってステークホ ルダーと話しながら地域を変えたけれ ども論文にはならなかったというよう なときに、どのように評価するのか。 それは、私たち中堅、あるいはシニア の先生方の仕事で、いますぐ取り組ま なければいけない課題だと思っていま す。

司会 ほかにないでしょうか。 ――ビジネスにならないと社会が変わ らないというのはまさにその通りだと

思うのですが、 もう一つの側面として、 政策にならないと社会が変わらないと いうところもあるかと思います。フュ ーチャーアースという名前がついてい て、グローバルな観点からのプロジェ クトではあっても、実際には国の単位 で進められていくのであろうと思いま す。どのようにして国の政策を使って いこうとお考えなのでしょうか。

福士 国の政策と科学の関係は非常 に大切ですし、ビジネスを展開する上 で国の政策、制度は非常に関係してき ます。先ほどお示しした二国間クレジ ット制度は日本の政府の制度で、それ を活用してビジネスへの展開を図ろう とするもので、温暖化対策税としては 全体として年間三〇〇〇億円弱の資金 があります。この制度が本当に効果的 なものなのか、企業や官庁の幹部とと もに勉強会を立ち上げて、ビジネスと して展開していくのにより良い制度へ

と変えていく努力をしています。その 程度ではまだ場当たり的だという批判 もあるかもしれません。より長期的な 視野に立つガバナンスを別途考えてい かなければならないのかもしれません。 今後検討していきたいと思っています。

司会 どうもありがとうございまし た。 ちょうど時間になりましたので、こ こで一〇分間の休憩をはさんで、後半 は茨城大学側のプレゼンテーションを 中心に行いたいと思っています。 * * *

司会 それでは研究会の後半を始め たいと思います。茨城の地元の話が多 くなりますが、前半で紹介された国際 的な展開とは決して別ものではないと いうことを最初に申し上げておきます。 では、学長の三村先生、よろしくお 願いします。

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したりということで現在に至っていま す。 ICASの研究部門は四つあって、 それに加えて教育部門があるという構 成になっています(図③) 。ICASの

生活圏適応計画、そして人文学部で新 しい安全・安心社会をいかに作ってい くかということの研究を進めてきまし た。東南アジアなどでもグローバル化 のなかで社会的な格差が広がり、また 国の間の格差も広がるというようなコ ンフリクトのなかで安全・安心社会を どのようにして作っていくのかという ことは大きな課題です。こうした研究 を進めているちょうどさなかに、東日 本大震災がおこり、後で原口先生から お話がありますように福島からの避難 者の支援であるとか、村上先生から発 表があります液状化の対策といった震 災対策にも取り組むようになりました。 先ほど福士先生のフューチャーアー スのお話のなかでも、コデザインとか トランスディシプリナリーとか、研究 者のコミュニティと社会とのつながり をどのようにするのかといった話が出 ましたが、ICASの活動でも学内で 学問間の壁を超えるトランスバウンダ

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取り組むテーマは気候変動とそれに対 する適応ということであったので、工 学部を中心にした防災・適応技術、農 学部を中心にした適応型農業、工学 部・人文学部・教育学部を中心にした 図③


図①

常に大きな効果だったと思っています。 大学院のサステイナビリティ教育を始 めたり、文科省や環境省から研究資金 をいただいたり、あるいは東日本大震 災があって復興支援などの取り組みを

図②

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図⑤

炭素の排出が少なくて、あまり温暖化 が進まない経路を世界がたどるならば 産業革命前から二℃前後の上昇にとど まります。二酸化炭素がもっと多く出 て、大気中の濃度が現在の四〇〇PP Mから九七〇PPMになると、場合に

図⑥

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リーをしなければなりませんでしたし、 その後になって、震災の避難者の方た ちと話をするようになると、それこそ トランスディシプリナリーをしなけれ ばなりませんでした。われわれは以前

から「対話の構造をつくる」というこ とを言っていて、さまざまな相手と対 話して障壁を乗り越える研究スタイル を取ろうとしてきました。そのことが 震災のときに大いに活きたのでした。

図④

気候変動適応に関する研究

ICASの研究の一つのテーマが気 候変動の適応です。皆さんもよくご存 じの通り、気候変動の問題はIPCC (気候変動に関する政府間パネル)が 中心になって報告していますが、二〇 一四年にIPCCの第五次報告書が出 ました(図④) 。第一ワーキンググルー プが科学的基礎、第二ワーキンググル ープが影響・適応・脆弱性、第三ワー キンググループが緩和に関する報告書 を出し、三つのグループのまとめの報 告書が統合報告書として出されました。 IPCCの報告書が何を明らかにし たか簡単にご紹介します。第一ワーキ ンググループの示した将来予測があり ます(図⑤) 。横軸が年代で縦軸が世界 の平均気温です。二〇一〇年の時点ま での過去一〇〇年間で〇・八度ぐらい 上がってきました。今後、もしも

と書いてあるような、二酸化 RCP2.6

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と出ています(図⑧) 。詳しく言い始め ると長くなるのでこの図を見ていただ くだけにします。 気候変動に対する対策には、緩和策 と言って二酸化炭素などの温室効果ガ スの排出を削減して濃度を安定化させ るものと、悪影響に対して例えば堤防 を作ったり、あるいは森林の保全をし たりする適応策があります(図⑨) 。 先ほどの福士先生のお話にもありま したように、これから適応策への投資 が世界で数十兆円にのぼるといわれて いますけれど、適応策はどの程度に有 効なのでしょうか。逆にいうと、今の 開発と比べて、どの程度の適応策を今 後打てるのかという見通しが重要です。 図⑩は非常に概念的な図ですが、過去 から現在までは、気候は年々の変動は ありながらも、ある程度同じ状態であ ったので、災害をおこす外力もほぼ同 じ程度でした。昔は人間の防災力、適 応能力が低かったので、ちょっとした

117

図⑧


図⑦

よっては四℃を超えるような気温上昇 があります。図⑤のブルーの範囲内で 気温が安定化するのは非常に難しいと いま言われていて、赤いところに行く 可能性があります。どこに落ち着くの かということはこれからの社会の努力 によります。気温の上昇にあわせて、 海面上昇も今世紀末に四〇センチぐら いになり、場合によっては八〇センチ 以上になると言われています(図⑥) 。 二酸化炭酸がどれぐらいたまるとど の程度温暖化が進むのかということを 示した図⑦は、今回の新しいわかりや すいグラフです。現在までに累積の排 出量は二兆トンぐらいになっています。 世界の平均気温の上昇が二℃を超える のは累積で三兆トンぐらいだろうとさ れています。あと一兆トンしか出せな いのは大変大きな問題です。いまのペ ースでは二〇年ぐらいで超えるといわ れています。 気候変動の影響は世界中でいろいろ

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担があります。 適応策を強めることが可能なのであ れば、 二酸化炭素の排出を減らすとか、 新しいエネルギーシステムを開発する とか、そういった緩和策はお金がかか 図⑪

って大変ですから、適応策ですべてま かなったらいいではないかという議論 も前にはありました。使えるお金には 限界があるので、適応能力はいくらで も伸ばせるわけではありません。です

から、対策の基本的な考え方は、適応 策によって被害を最小限に食い止めら れる範囲内に収められるように緩和策 を行うということだと思います。そう いう意味で緩和策と適応策はリンクし ていて、気候変動のリスクを管理する 上で相補的な役割を果たすのです。 わが国の現状を振り返りますと、 三・一一の地震・津波、原発事故があ ってから、自然災害に強い強靱な社会 を作るということが大きな政策になっ ています(図⑪) 。そのことと気候変動 適応型社会とは、実は重なる部分が大 きいのです。 サステイナビリティ学連携研究機構 を始めたときにみんなで議論したのは、 現代社会は地球規模の三つの制約に直 面しているということでした(図⑫) 。 日本などを除けば人口が増加していて、 やがて養いきれなくなるまでに人口が 増えてしまう人口制約。エネルギー資 源が枯渇する資源制約。環境が悪化す 図⑫

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災害でも大変な被害を受けました。い ろいろな努力をして災害外力と適応能 力とのギャップをだんだんと小さくし てきたのがいまの日本の状態です。将 来、気候変動によって災害外力がどん

図⑨

どん増えていく一方で、人口が減少し たり、あるいは財政余力が少なくなっ てインフラの整備が進まないようなこ とになったりすると、将来的にはギャ ップがまた広がる可能性があります。

そのときに災害外力が強くなりすぎて はいけないので、それを抑えようとい うのが温暖化を抑える緩和策で、人間 の側の準備を強くしようというのが適 応策です。両者にはこのような役割分

図⑩

118


て、例えば自動車会社に就職するとい うことでした。これは専攻重視のI型 教育です(図⑬) 。先進国に追いつくキ ャッチアップをするようなときに専門 家を育成するのには非常に有効な教育

視野を持ち、その一方で、問題を解く ための専門的なツールを持っているの がT型人材です。そういうT型人材を 教育することを考えたのですが、それ だけではサステナ教育の理念としては 何かが足りないということになりまし た。 相撲の世界では「心・技・体」と言 っています。大学では「体」ではなく て「知」だろうというので、 「心・技・ 知」を言い出しました(図⑮) 。 「技」 は学術のスキル、 「知」は知識、それに 「心」も重要です。社会や地球のため に貢献しようとするマインドです。そ ういう「心・技・知」のT型教育をや ろうと考えて学部と大学院で始めまし た。 学部ではサステイナビリティ学入門、 大学院ではサステイナビリティ学教育 プログラムをスタートさせました(図 ⑯) 。全学横断型で、どの学部、どの研 究科に入ってもサステイナビリティ学 図⑯

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方法だったのですが、さきほどから言 っているような複合的な問題を解くの には十分ではないというので、T型人 材教育のコンセプトを考えました(図 ⑭) 。 いろいろな問題がわかる俯瞰的な 図⑮


る環境制約。この三つの制約を何とか 打開しようというのが地球規模の課題 です。一方、日本を見ると、高齢化と 需要の減少によって経済的な活力を失 うという社会経済的な制約があります。

この日本の課題と地球規模の課題をい っぺんに解くには、グリーンエコノミ ーで環境対策をやることによって新し い産業を興して、日本の中での需要の 減少を補って経済的な活力を復活させ

図⑬

サステイナビリティ学を始めるとき に、サステナ教育を一生懸命にやって いこうと考えました。 日本の伝統的な教育は、専門教育へ の強い傾斜がありました。例えば茨城 大学の工学部に入って機械工学科で勉 強するというのは、茨城大学に入学す るというよりは、機械工学科に入学し て、機械工学をずっと勉強して卒業し

茨城大学のサステナ教育

るという方向がありうるのではないか という議論をしてきました。その後、 震災を経験して、外的な災害に強い安 全・安心な社会を作るという課題が出 てきて、それも含めた複雑な絡み合い をどのように解決するのかという視点 が重要なってきました。気候変動の適 応を考えることは、この解決に対して 大きく寄与するというのがわれわれの いまの認識です。

図⑭

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話しているんです。 私も最初の海外実践演習に出ました が、目の前でみるみる学生さんが変わ っていくのがわかって、すごいなと思 いました。非常に強い教育力のある演 習です。そのおかげで、評判が評判を 呼んで、茨城大学がこのプログラムを

始めた最初から、SSCの共同教育プ ログラムの修了者の数が他の大学と比 べて最も多い状態を継続しています (図⑱) 。去年は少し減ったのですが、 今年はまた二五人ぐらいにもどってい ます。SSCからは立派な修了証をい ただいていて、茨城大学が一番たくさ んなので大変有り難く学生に授与して います。学生は学位記とSSCの修了 認定書を両方もらって卒業します。 二〇一四年九月に私は学長を拝命し ました。大学改革が進むなかで茨城大 学の教育を変えていかなければならな いのですが、そのための予行演習をこ のサステイナビリティ教育で十分にし てきたと感じています。 茨城大学が育成する人材像を考えま した(図⑲) 。茨城大学に入った学生さ んは、どの学部に入っても程度の違い はあっても必ず五つの能力を身に付け てほしいと思っています。①世界の俯 瞰的理解、②専門分野の学力、③課題 図⑳

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す。一週間ちょっとたったところで、 自分たちの課題とその解決策を英語と タイ語のポスターにして、村の人たち の前でプレゼンテーションをします (図⑰) 。村人は英語ができず、日本人 の学生はもちろんタイ語はしゃべれま せん。それでも、ニコニコ笑いながら 図⑲


を学ぶことができます。大学院のサス テイナビリティ学教育プログラムを取 ったら必ず五大学の連携授業と地球シ ステムなどの俯瞰的な講義、それに海 外実践演習に出ることになります。 海外実践演習では、タイに行き、茨

城大学の学生一五人ぐらいとタイの連 携校の学生二〇人ぐらいを四つぐらい のチームに分けて、雨漏りがして蚊が ブンブン飛んでいるような田舎の家に 一〇日間ぐらい泊まって共同作業をし ます。学生は最初のうちはもじもじし

図⑰

ているのだけれど、二、三日するとみ んな一生懸命に課題に取り組むように なります。ウミガメの保護とか水田の 復活とかエコツーリズムとか廃棄物の 処理とか、そういうテーマを合同チー ムで勉強して、一緒に調査にも行きま

図⑱

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た数年してから現地に行きますと、彼 らは「リビング・ウィズ・グローバル・ ウォーミング」 、つまり「地球温暖化と 共に生きる」ということを言い出して いました。将来環境が変化するのなら ば、自分たちの国をそれに合わせてど のように作り直して、社会を維持して いけばいいのかという発想での議論を 始めていたのです。 それは世の中ではまだ地球温暖化の 適応という言葉が広がっていなかった ころで、当時は温暖化対策といったら 二酸化炭素の排出削減一辺倒でした。 南太平洋の島では別の対策が必要であ るということで、適応の概念を明確に していったのです。それはまさに「対 話の構造」で出てきたもので、われわ れが調べたものが現地の人たちに衝撃 を与えて、現地の人たちがワークショ ップをやって、そのなかから自分たち の道を見つけていくことをしたという 流れでした。

後で原口先生や村上先生からお話が ありますが、茨城県内においても「対 話の構造」を作る研究アプローチを開 拓してきました。 教育面では、俯瞰講義と実習演習を 組み合わせたサステイナビリティ学の 教育を展開してきたことが、現在の茨 城大学の教育改革の大きなバックボー ンになっています。 そしてICASは分野間の壁を低く することに貢献しました。この一〇年 ぐらいの間に学部間の壁を超えて研究 者同士のつながりができて、いろいろ なことができるようになりました。 また、今日の前半にお話があったフ ューチャーアースや日本ベトナム大学 の設立に関して、東京大学から声を掛 けていただいたり、われわれも手を挙 げたりして、一緒にやらせていただい ていて国際化の面でも貢献し、同時に 地域連携の面でも継続して貢献をして いきています。

以上で、茨城大学がサステイナビリ ティ学をどのように進めてきたかのご 紹介をさせていただきました。

司会 ありがとうございました。ご質 問はいかがでしょうか。

――いま国の方では日本の大学を三つ ぐらいにカテゴライズして、そのひと つは地域貢献型という言い方がされて いるのですが、私はそれは非常に問題 ではないかと思っています。学長とし てそのことにどのように取り組んでい かれようとしているかお聞きしたいと 思います。

三村 いっぺんに現下の核心を突か れたような気がします。 学長としては、 実践的・現実的な選択と、長期的・挑 戦的な構えの両方を合わせ持っていな ければいけないと考えています。いま ご質問にあった三類型というのは、類

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解決能力・ミュニケーション力、④社 会人として社会の持続可能な発展に貢 献する姿勢、それから地域の大学です から、⑤どこの地域に住もうともその 地域の活性化に貢献する志向性です。 新しい教育の展開は図⑳に示したよ

駆け足でご紹介しましたように、茨 城大学では気候変動を中心にサステイ ナビリティ学の研究を推進してきまし た(図㉑) 。国内での研究もあれば、ベ トナムやインドネシア、南太平洋の諸 国を対象にした研究もあります。その なかで、われわれが非常に強く思った のは「対話の構造」づくりです。関係 者と話をして、そのなかで研究者が果 たす役割を果たしていくということで す。 個人的な経験を申し上げますと、私 は一九九二年ごろから一〇年間ぐらい、 ツバルだとかフィジー、サモアだとか の南太平洋の島国を調査して温暖化の

対話の構造

うなことであるのですが、どれもサス テイナビリティ教育で経験を積んでき たことで、その経験を組み合わせて大 学の教育改革を進めているところです。

図㉑

影響評価をしました。まさに目の前で 海岸が浸食されてどんどんなくなって いくのがわかりました。温暖化によっ て海面上昇が大きくなると、この国は 脆弱でやがては住めなくなるといった ことを現地で言うと、みんなが衝撃を 受けました。そして、われわれは温暖 化には〇・〇一パーセントもコントリ ビュートしていないのだけれども、そ の結果としてわれわれの国の将来がそ のようになるというのならば、われわ れはどのような希望を持って生きれば いいのか、何をやってもしょうがない のではないかと現地の人に言われて私 たちは衝撃を受けました。地球環境の 変化の影響を一生懸命に勉強してきて も、そういう話を聞いても自分たちに は生きる力が全然出てこないといった ことなってしまったのは役に立ちませ ん。どうしたらそういう国の将来を作 ることができるようになるのだろかと 考えるようになりました。それからま

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学研究科に入って、各研究科に所属し ながらサステイナビリティについても 学びます。各学科で専門のことを勉強 して修士や博士の学位を取るだけであ ればI型ということになります。それ に加えて横断型のT型にしたのがミソ で、どこの学科に所属していてもほか の分野のことまで視野に入るようにな ります。 社会に出た後で、課題を解決するに はどういう条件がなければいけないの か考えますと、第一に、自分が対象と している世界にどういう問題があるか ということをちゃんと把握しなければ なりません。第二に、さらに重要なの ですが、どの問題を解いたらもっとも 本質的な解決につながるのかという判 断をしなければいけません。第三に、 その問題を解こうとしたときに、自分 の専門とする分野でどこまで解き進む ことができるのかという先の見通しが 持てなければなりません。第四に、そ れを解くための方法をちゃんと持って いなければなりません。もしも、自分 の専門分野のことしか意識になかった ならば、最初の課題を設定するところ からして成り立たないことになってし まいます。それが成り立つようにする のが分野横断型の教育です。 ですから、社会への売り込み方は比 較的簡単で、われわれの学生は、例え ば農学研究科の学生なら農学のしっか りとした知識や分析能力やツールを持 っていますと、そしてそれだけではな くて、広い視野で問題を選ぶことがで きて、しかも専門が違う人たちと一緒 にうまく働けますと、そのようにアピ ールしています。 面白いのは、サステイナビリティ教 育を受けた卒業生の同窓会ができてい ることです。その人たちに、サステイ ナビリティを学んでよかったか、今の 仕事に役に立っているかということを 聞きますと、七割ぐらいがイエスと答

えます。ですから、サステイナビリテ ィ学研究科は作らなかったのですが、 それもかえってよかったのかなと思っ ています。

――ありがとうございました。ぜひう ちの会社にもきてほしいと思います。

司会 まだ質問がいろいろあるかも しれませんが、時間の都合があります ので、ここで切りたいと思います。ど うもありがとうございました。 続いて原口人文学部教授からご報告 していただきます。

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型一は、地域に貢献する大学で、ある 分野では全国的・世界的な強みを持っ ている大学。類型二は、地域よりは全 国的・世界的な強みを持っている大学。 これは例えば芸大とか鹿屋体育大学と か、大学自体がそのような性格を持っ た限られた大学です。類型三は、世界 で闘う大学で、 例えば東大がそうです。 この三類型でいきますと、茨城大学の 選択としては、もともとの大学の性格 もあって、いきなり世界を目指します という威勢のいいことも言えませんの で、類型一ということになります。 言い忘れましたが、これは大学を類 型化するのが目的だというのではなく て、そのような枠組みをはめることに よって、国が大学に予算を出す出し方 を変えようと言っているのです。類型 三は競争力があるのだから、国からあ まり支援しなくても競争的資金をどん どん取ってくださいと。類型一は地域 に貢献するといっても、企業からの寄 付などもそうはないだろうから、国か らの支援は少し手厚くしなければなら ないだろうと。そういう考え方の違い もあるわけです。 茨城大学としては類型一を選ぶとし ても、すべて地域の課題を研究する訳 ではありません。地域の問題と世界の 問題は非常に密接に結び付いています ので、世界の問題に取り組むことによ って、地域の問題への取り組みも豊か になっていくわけです。類型一を選ん でも、内実としては世界のことも考え るし、学問の深い本質のこともきちん と考えなければいけないのです。大学 としては、とにかく実力を養い、実績 を積んでいくことで、その先にまた別 の展開もありうるのではないかと思っ ています。

――サステイナビリティ学というのは 新しい学問で、私自身は環境学という ような学問が走り始めた最初の世代で、

そういう学部の一期生として卒業した のですが、就職するときに企業に採用 してもらえるのか不安がありました。 実際にいま企業で働いていて、本当に T型のような人材が求められていると 感じているのですが、新しい学問であ るだけに、これからの社会を作ってい ける人材だということを社会にアピー ルしていく必要があるでしょうし、ア ピールしてほしいと思っています。ど んどんアピールしていただけると企業 の方も採りやすいのではないかなと思 っているのですが、いま企業の方たち に向けてどういうアピールをされてい るのでしょうか。

三村 そこがサステイナビリティ学 の一つのポイントだと思っています。 茨城大学ではサステイナビリティ学科 やサステイナビリティ学部を作らない で、大学院についていいますと、学生 は理工学研究科や農学研究科や人文科

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いたり(図④) 、マスコミの方に情報発 信をしていただきたいというお母さん の声がありましたので、二〇一二年九 月にマスコミの方と被災者とで座談会 を開催したり、あるいは学生による学

プを行いました。子どもたちとのふれ あいを行ったということです。初期に おいては、放射線の影響が子どもに出 やすいということがありますので、お 子さんを持つご家族の支援を重点的に

図②

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習支援、リフレッシュキャンプ等を行 ってきました(図⑤) 。学習支援では、 学生が朝から晩まで一週間、子どもた ちの勉強をみまして、リフレッシュキ ャンプでは、県内で二泊三日のキャン 図①


■講演5

広域避難サポートにおける 地域との協働

広域避難を支える地域資源のネットワーク化 はらぐち やよい

原口弥生 茨城大学人文学部教授

私の専門は環境社会学で文系なので すが、ICASに所属して理系の先生 方とも交流させていただいて、そのこ とが私の研究上でも非常に役に立って います。今日は震災後、多くの方が被 災地から、 特に福島県からなのですが、 茨城県にも避難されていて、その生活 再建を支える活動を行っていますので、 それについての報告をします。

東日本大震災、原発事故の後に茨城 県内にたくさんの方が避難されました。 二〇一五年五月一四日時点で、三六一 九人の方が岩手・宮城・福島県からこ られています(図①) 。一番多いのは福 島県です。茨城県内で一番たくさん受 け入れているのがつくば市です。初期 に大規模な避難所があったためです。 特徴的なのは北茨城市で、他の自治体 では人数が減っているのですが、ここ

だけは増えています。北茨城市のすぐ 北に福島県いわき市があって、いわき 市に戻りたいという方は多いのですが、 住宅事情が飽和状況で福島県内でアパ ートなどが借りられないということが あって、北茨城市、あるいは日立市に いらしているという状況になっていま す。避難者数の推移は図②をご覧にな ってください。 私自身の活動としては、同僚と一緒 に茨城県内の放射能の問題だとかいろ いろなことに取り組んできましたが、 一番大きな柱だったのが「福島乳幼児 妊産婦ニーズ対応プロジェクト茨城拠 点」です(図③) 。他県でも群馬、栃木、 新潟、東京の国立大学の女性教員がそ れぞれ拠点を立ち上げてネットワーク を作っていたのですが、茨城県では茨 城大学が事務局となって、茨城キリス ト教大学の先生とか弁護士さんとかN POにご協力をいただきながら活動し てきました。お母さん方の交流会を開

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行いました。 研究室を中心としたこのような活動 だけではなくて、大学からの発信とい うことで、学部や研究所を主催者とす るいろいろなイベントも開催してきま した(図⑥) 。二〇一二年に「原発事故

図⑦

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ミナーを開いて多くの方に参加してい ただきました。この法律は議員立法で したので、二〇一三年六月には、これ にかかわった国会議員の方に茨城大学 にきていただいて記念講演会を行いま した。また、 「原子力損害賠償」の枠組 図⑥

子ども・被災者支援法」という新しい 法律ができて、この法律によって特に 自主避難者への支援が重点的になされ るのではないかという期待が高まった のですが、新しい法律でみんながまだ 知らないということで、 「支援法」のセ 図⑤


図③

図④

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の七~八割の方が、住民票をまだ被災 元、つまり福島県に置いているという ことです。二年経って二度目の調査で もその数はほとんど変わっていません。 茨城県で定住を考えているという項目

ですと、その数が倍ぐらいに増えてい たりするのですが、住民票は移してい ないのです。広島県でも同じようなア ンケートがありますが、そこでは逆に 七~八割の方が住民票を移しています。 遠方の避難者は自主避難の方が多いの でそうなるのですが、茨城県にこられ ている方の多くは浜通り地域の原発立 地市町村周辺の方で、住民票をみんな が移してしまうと地域の存続が難しく なるとか、あるいは、自分のアイデン ティティを保つために住民票をもとの ままにしているとか、そういう理由だ ということです。 もう一つは、被災者の方にはいろい ろな被害がありますが、非常に心に残 るのが精神的な不調です。ご家族のな かで震災後の精神的な不調によって治 療・通院されている方はいらっしゃい ますかとお尋ねすると、四一パーセン トの方がご家族がそういう状況である と答えています。主観的に自分は不調 図⑨

だというのではなくて、実際に通院と か治療をしている方が大勢いるという ことです。年齢別に見ると、高齢の方 ほどより精神的な不調を抱えている方 が多いということが明らかになりまし た。

地域社会のセーフティネットとの結合

茨城大学では研究をしつつ実践活動 を進め、二〇一四年四月からは避難者 ネットワークの「ふうあいねっと」の 事務局を大学内に置いています (図⑨) 。 「ふうあいねっと」は、二〇一二年五 月に設立され、当事者の団体と茨城県 内で支援活動をしている三〇の団体が 加盟しています。加盟団体はいろいろ なNPO、社協、弁護士会、大学など で、福島県、茨城県と情報交換をし、 かつ県内すべての市町村にもご協力を いただきながら活動を行っています (図⑩) 。 茨城県とはメインは防災危機

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図⑧

みがあるのですが、非常に複雑で難し いのと相談する機会がなかなかないと いうことで、茨城県弁護士会と共同で いままでに五回の説明会を開催しまし た。弁護士さんはみなさんボランタリ ーできてくださっています。このよう な活動はマスコミで報道もしていただ いています(図⑦) 。 このような実践活動も大切ですが、 大学ですので、やはり研究ということ でも貢献したいということで、茨城県 で生活されている広域避難者のアンケ ート調査を二〇一二年と一四年に二回 にわたって行いました。茨城大学では 平成二四年度から復興支援プロジェク ト事業というものが立ち上がっていて、 それに採択していただいたたものに科 研費を合わせて研究を実施しました。 それによっていろいろなことがわかっ たのですが、 二つだけご報告します (図 ⑧) 。 一つは、茨城県で生活される避難者

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図⑫

地域社会にもともとある地域資源、地 域サポートネットワークとどのように つなげていくのかということが課題で あると考えています(図⑫) 。地域社会 には自治体、社会福祉協議会、民生委 員など社会をサポートする仕組みがあ りますので、そことどのようにつない でいくのかということです。 たとえば、 各市町村では、災害時に援護や支援を 必要とする高齢者や障害者を対象に災 害時要援護者・要支援者リストを作成 しています。 先ほど言いましたように、 茨城にいらしている福島県の方たちの 多くは住民票がそこの市町村にないた めに、災害時要援護者・要支援者リス トには入っていません。茨城大学CO C円卓会議を通して水戸市に協力して いただいてリストへの組み込みを検討 をしているところです。 福島県外に避難されている方は、復 興政策からこぼれおちて支援の手が薄 くなっています。自助グループ・支援 図⑬

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管理課になりますが、災害公営住宅に 関しては住宅課、子どものことは教育 委員会というように、いろいろな部署 とかかわりを持っています。

図⑩ 「ふうあいねっと」の活動内容とし ては、まず情報提供ということで、 「ふ うあいおたより」という情報誌を発行 しています(図⑪) 。昨年度は四回発行

し、今年度も四回出す予定です。県内 のすべての避難者の方に、市町村を通 じて配付しています。情報誌の発行の ほかには、各団体が行う交流会、視察 研修、訪問活動などがあります。それ らの活動は、孤立を防止し、いろいろ な人との関係を作っていただきたいと いうことを目的として行っています。 先ほど三村先生からも何が課題であ るかを見つけることが大切だというこ とを言われましたが、いま私たちが一 番の課題であると考えているのは、交 流会などに出てこられない方へのアプ ローチです。精神的な不調を訴えてお られる方でも、交流会などに出てこら れる方はまだいいのです。参加されな い方に対してどのように働きかけてい ったらいいのかということが課題とな っています。 「ふうあいねっ」はいろいろな支援 活動をしている団体が集まったネット ワークなのですが、 次の段階としては、 図⑪

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■講演6

被災地の一つとして、液状化ばかりで なく斜面の崩壊など地盤に関わる被害 がありました。 最初に見ていただきたいのがこのグ ラフです(図①) 。これは何を表したグ ラフでしょうか。 いきなり訳が分からない質問をする なって怒られるかもしれませんが、U 市とH市とあるのは、あまり具体的な 名前を挙げるのはどうかと思いまして、 U市は千葉県の液状化被害の大きかっ た市、H市は茨城県の液状化被害の大 きかった市です。両市ともに液状化の

液状化災害における地域との協働 むらかみ さとし

村上 哲 茨城大学工学部准教授

地域との協働ということでは、今日 これからお話しする液状化災害だけで なく、廃棄物の問題、農業の問題、そ の他いろいろな問題が地域にはあって、 茨城大学はさまざまな切り口で関わり を持っています。ここでは液状化を一 つの切り口として、私が経験したこと 紹介していきたいと思っています。

液状化対策にかかる費用の問題 私の専門は土木で、そのなかでも地 盤工学です。茨城県も東日本大震災の

被害を受けて、現在も対策に取り組ん でいます。このグラフは何かといいま すと、 同じ面積の土地の価格に対して、 液状化の対策にかかる費用の比率を表 したものです。U市では土地の価格が 一平米あたり三〇万円ぐらいで、一つ の戸建ての敷地面積が一〇〇平米だと すると三〇〇〇万円です。一方、H市 は非常に安くて一〇〇平米で二〇〇万 円です。現在言われている液状化の対 策費用はピンからキリまでありますが、 大体一〇〇平米で三〇〇万円程度とい われています。U市では三〇〇〇万円 の土地に三〇〇万円をかけるのなら一 割ぐらいですから、液状化対策をして も土地の値段はそれほど上がりません。 H市では二〇〇万円の土地に三〇〇万 円をつぎ込むのはどうだろうかという ことになると、だったら液状化しない 土地に引っ越した方がいいという考え も出てくるでしょう。 液状化の被害を抑えようと思ったら

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なり違ってきました。活動がすごく活 発なのは当事者による団体です。支援 する側、支援される側ということでは やはり距離がありますので、支援され る側が自分たちでやるということがす ごく大事であると思います。 当事者団体でどのような人がリーダ ーになっているのかといいますと、も ともとの地域で何らかのまとめ役をし ていた方であるとか、企業のなかで 「長」がつくような役割をしている方 であるとか、団体でもまちづくりでも 積極的に関与されてきたような方が避 難先でもリーダーになっています。言 われてみれば当たり前のことですが、 そういう方たちが避難先でもコミュニ ティを作ろうと懸命に動かれていると いうことです。

団体の立ち上げから始まって、自分た ちなりのネットワークを作ってきまし た(図⑬) 。大学としてはアクション・ リサーチによる分析と政策提言を行っ てきましたが、今年の挑戦としては、 地域社会が持つセーフティネットとの 結合を目指しているところです。

――こういう地域の活動をするときに、 キー・パーソンとなるような人、私た ちは「地べたにはいつくばる人」とい うような言い方をしているのですが、 そういう人たちはどのようなところか ら出てきやすいのでしょうか。

――外にある資源と内部とをつなげよ うとする心のある人がキー・パーソン になるのかなあ思って先生のお話を伺

司会 ありがとうございました。非常 に具体的な取り組みをお話いただきま したが、ご質問はいかがですか。

原口 「ふうあいねっと」には三〇団 体あると言いましたが、四年経つ間に 支援団体と当事者団体とでは様子がか

っていました。

原口 その通りだと思います。外から の資源ということでいいますと、被災 地にはものすごい資源が投入されてい るのですが、県外避難者に投入される 資源は非常に少ないのです。 ですから、 避難した先の地域にある資源を発掘し て当事者団体につなげていくことが大 事だと思っています。

司会 ありがとうございました。 それでは続きまして工学部の村上先 生にご報告をお願いします。

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方の液状化現象についての報告書をま とめました(図③) 。そのなかに、茨城 県で調査した結果も入れて、行政の方 に情報として提供しました。 茨城大学は復興支援プロジェクト事 業というのを設けましたので、単年度 図④

するような形でデータベース化してウ ェブで公開するという取り組みもしま した。 これらは大学だからできることです が、地域との協働というよりは、どち らかというと一方的に情報を発信する ものでした。自治体、あるいは地域の 人たちと情報共有しながら、よりいい ものにして、地域に貢献していかなけ ればいけないと考えています。 自治体との協働では、液状化等によ り地震災害の被害を受けた地域の対策 検討委員会の委員として、ひたちなか 市、東海村、神栖市、鹿島市で活動し てきました(図④) 。ほかの先生方もい ろいろな委員会、市町村で活動してい ます。 茨城大学には戦略的地域連携プロジ ェクトというのがあって、私はこれに 応募して、大学のサポートを得てひた ちなか市と東海村とともに地域の課題 について取り組んでいます。ひたちな

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単位でいくつかの申請をして、災害を 調査した結果を集約したり、あるいは 問題として取り出して解決するという 研究を行いました。茨城県に関する液 状化の被災事例について、自分たちの 研究だけではなくて、他の研究も集約 図③


もちろん対策をすればいいのです。し かし対策をするにはお金がかかります。 戸建住宅では三〇〇万というのが一つ のキーとなる数字で、個人の収入にも よりますし、市がそれをサポートする としても、それだけの財源が市にある

図① 震災以降、大学としてどのような地

大学からの発信と地域との協働

のかどうかというところも関わってき ます。

図②

域との連携をしてきたかといいますと、 まず茨城県内の地盤災害の被災調査を 行いました(図②) 。いろいろな調査の 結果、学会等を通じて茨城県の状況を 報告しました。まだ余震が続いていま したから、調査をしながら二次災害の 危険のありそうなところについては、 自治体等に報告するという活動もしま した。 茨城大学は東日本震災調査団を結成 し、そのなかで地盤災害のグループと して活動しました。調査団は二〇一一 年四月に中間報告会をし、二〇一一年 八月に報告書を出しました。茨城県の 被害の現状はあまり知られていません でしたので、それがわかるような発信 しました。 液状化は茨城県だけではなくて、千 葉県、埼玉県など関東全域で観測され ていましたので、国土交通省関東地方 整備局が音頭を取って、地盤工学会関 東支部がサポーターに回って、関東地

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すればいいので、技術的には液状化し ない地盤を作ることは可能です。しか し、それには三〇〇万円かかりますと いわれて、地震がいつくるのかわから ないのにそれだけつぎ込めますかとい 図⑦

うのは対策のネックになります。対策 にかかる費用とのバランスが非常に難 しいのです。 工学部にいる人間としては、液状化 のメカニズムを考えて(図⑧) 、それを 図⑧

抑える対策を考えるということになり ます(図⑨) 。液状化の対策方法はいろ いろなものがありますが、何をするか によってコストがかなり違ってきます。 図⑩は地盤工学会の関東支部が出した チャートで、横軸が液状化対策費用で 縦軸が施工面積です。戸建て住宅です と右上の欄が当てはまりますが、一平 米あたり五万円から一〇万円と、非常 に高い負担であるというのが実情です。 国のサポートとしては、市街地液状 化対策事業があります(図⑪) 。費用の 半分を国が負担し、半分を地方公共団 体が負担します。国や地方自治体が負 担するといっても、やはり税金ですか ら、最終的には国民の負担です。茨城 県のなかでこの対策事業に名乗りをあ げたのは、ひたちなか市、稲敷市、神 栖市、潮来市、鹿嶋市の五市で、震災 で液状化がみられた地域のうちの一部 の市だけでした。その五市でも、ひた ちなか市と稲敷市は検討はしたけれど

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か市では地域で使ってもらえるような 液状化対策はないか検討して取り組ん でいます。 地域との協働として、地域の団体や 企業との連携もあります(図⑤) 。一つ は茨城県の弁護士会から声を掛けてい

図⑤

ただいて、液状化被害相談会に専門家 の一人として協力させていただきまし た。地元企業との協働では、コストを 抑えた液状化対策があるのではないか と、その効果を実験的に調べる取り組 みを始めています。最近の言葉として

図⑥

「企業市民」というのがあって、企業 の責務の一つとして地域にどれだけ貢 献していけるのかということがいわれ ています。地元のことを一生懸命考え るのはやはり地元の企業であるという ところがありますので、地元の企業と タイアップして、よりよい液状化対策 の技術を発展させていきたいと考えて います。

液状化の被害と対策

液状化の被害で私たちの暮らしに一 番関わりがあるのはやはり建物の被害 です(図⑥) 。液状化によって家が傾い たり、家のまわりが沈下したりします が、それによっていきなり人が亡くな ったりするわけではありません。液状 化によって建物の傾くと、見た目が悪 いだけではなくて、健康的な被害も出 てきます(図⑦) 。 被害を抑えるためには液状化対策を

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図⑪

も住民の合意が得られずに事業を断念 しています。進めようとしているとこ ろでも、この対策には期限の壁があっ て、断念しないといけなくなるところ もあるかもしれません。県外では浦安 市では進められていますが、我孫子市 は断念しています。断念したところで は液状化対策がうまく進められずに、 液状化する地盤がそのまま放置されて、 そこに住んでいくしかないというのが 現状です。 戸建て住宅の対策で費用がもしも三 〇〇万円から五〇万円ぐらいに抑えら れたらかなり事情が違ってくるでしょ う。そのような技術が、茨城県の実情 に応じて求められていますので、開発 できないのかといま考えているところ です。 液状化の可能性のある地盤に対して どのように対応していくのか整理しま す(図⑫) 。一つは液状化しないように する防止策です。何もしないで被害が

143


図⑨

図⑩ 142


が安いために、なかなか対策費用が出 しずらいのです。対策費用の問題が解 決できれば、液状化に対して悩まなく てすむようなまちづくりができるので、 図⑬

そのために地域内で連携して研究等を 進めていきたいと思っています (図⑬) 。 一方で、茨城県と同様の事情をもつ 地域は、日本の至るところにあるでし ょうし、世界の地震がおこるようなと ころにもあるでしょう。そのような地 域との連携もしていけるようになるの ではないかと考えています。茨城県と いう小さな地域での活動であっても、 それを戦略的にやることによって、ほ かの地域の災害適応力の向上につなが っていくのではないかと思います。そ のようなリージョナル・ストラテジー を考えながら、まずは茨城県を何とか したいというところでいまは進めてい ます。

司会 ありがとうございました。ご質 問はいかがでしょうか。 ――液状化対策の費用を五〇万円ぐら にとおっしゃっていましたが、具体的

な技術としてはどのようなことをイメ ージしているのでしょうか。

村上 それは企業秘密で……。液状化 する地盤にも、 表層が液状化するとか、 あるいは深いところまで液状化すると かいろいろあります。表層が液状化す るようなところについては、簡易なや り方で低コストでやれそうだというの があって、それが実際に効くかどうか 開発しようとしています。深いところ まで液状化層があるところでは、表層 の改良だけでは間に合わないので、発 想の転換をして、下が液状化しても家 がズドンとめり込んだりしないような 仕組みを作ったらどうかということで、 一つはシートを敷くことを考えていま す。深いところの液状化で沈下自体は 起きてしまうのですが、何もしないよ りは小さな変異で抑えられて、その後 の修復はコストが少なくてすむのでは ないかということです。

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図⑫

出てから事後修復するというのもある でしょう。事後の修復は一〇〇平米あ たりやはり三〇〇万円ぐらいかかりま す。そして、事前に何も手を打たない のではなくてある程度の低減策を施し て、不幸にも地震がきたら、軽微な被 害を受けるけれども、何もしなかった ときよりは少ない修復費用で事後修復 がでるということで、トータルのコス トを下げられるかもしれません。 ただ、 現在の技術力では、低減策にどれだけ 効果があるのかというところまでは予 測できないので、何とか評価できるよ うにしたいと思っているところです。

茨城から世界へ

最後に、液状化災害という切り口で 地域との協働を考えますと、茨城県の 地域的な問題の一つとして土地の値段 があります。千葉県などと比べて土地

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■閉会挨拶

なかがみ けんいち

仲上健一

動のご報告とともに、茨城大学での教 育のあり方についてお話いただきまし た。三村先生はIR3SおよびSSC の活動に大きく貢献され、SSCの第 一回の設立記念シンポジウムでは「気 候変動への賢い対応とサステイナビリ ティ学」というテーマで講演をしてい ただきました。茨城大学の学長になら れて、先生のリーダーシップのもと大 学が発展していくことを大いに期待し ています。また、原口先生、村上先生 からは茨城大学が地域に持続的に貢献 しておられるという実例をご紹介いた だいて非常に感銘を受けました。 研究集会の前半では、大楽先生、古

サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム理事長

本日は研究集会に最後までご参加い ただきありがとうございます。 この研究集会をご準備いただいた三 村学長様はじめ茨城大学の関係者の皆 さまに厚くお礼申し上げます。 SSCの研究集会はこれで六回にな ります。今回はぜひ茨城大学での開催 をお願いしたいということで、二月一 六日に打ち合わせにまいりました。そ のときに茨城大学の特色を出してほし いということを申し上げたのですが、 今日の研究集会、そして明日のシンポ ジウムも茨城大学らしさが大いに発揮 されるかたちになったと思います。 三村学長様からは、ご専門の気候変

田先生、福士先生からサステイナビリ ティ学の新しい方向性を指し示してい ただきました。大楽先生からは気候変 動にどのように対応するのか、古田先 生からはベトナムにサステイナビリテ ィ学の大学院ができるというご紹介、 福士先生からはフューチャーアースに ついてお話いただきました。発表され た皆さまにお礼申し上げます。 もっともっと議論をしたところです が、お時間の関係でここまでといたし ます。本日はどうもありがとうござい ました。 。

司会 ありがとうございました。それ ではこれでSSC研究集会を終わりに いたします。

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――もともと水田だったり湿地だった りする地域は、地下水位が相対的に高 い地域ですから、たとえばポンプで水 をくみ上げて地下水位を下げるという 対策もあるかと思うのですが、それは ずっとお金が掛かって持続可能な方法 ではないということになるのでしょう か。

村上 強制的にポンプで地下水をく み上げて水位を下げる工法は、そのポ ンプが稼働しなくなれば地下水は戻り ますので、その設備が使える期間だけ 有効な方策であると認識しています。 五〇年後、一〇〇年後にポンプが機能 しなくなればまた液状化が起こるよう になります。ただ、ポンプで水をくみ 上げることで、五〇年なり一〇〇年な りの猶予ができると考えることもでき ます。その間に革新的な技術、あるい は低コストの技術が出てきたら、家を

建て替えるときにその技術を使うとい う選択が可能になるでしょう。 ――いろいろな統計で、茨城県の多く の地域で、二〇年後、三〇年後には人 口が十数パーセント減少するという予 測がされています。高齢化と人口の減 少が進むと、液状化対策のようなこと に社会がどれだけコストを負担をして いけるのか気がかりですが、そのよう な社会情勢の変化についてはどのよう にお考えでしょうか。

村上 非常に難しいご質問です。人口 が減少していったときにどうなるのか というのは、基本的に茨城県を将来ど のようにしたいのかという大きな問題 につながってきます。コンパクトシテ ィのように人口を集約したまちづくり をするというような話もありますけれ ど、集約するときに液状化しないとこ ろを選べば、液状化対策はしないです

むのでコスト面ではいいわけです。し かし、それが豊かな暮らしかどうかと いうのはまた別の話です。海べりの地 域で潮風が当たっているのが幸せだと いう人は、液状化が起きるから引っ越 せと言われても難しいと思います。た だ単にコストだけを考えればいいとい うのではなくて、何が幸せな暮らしで あるのか、あるいは現存のインフラが どのようになっていくのかなど、いろ いろなことを兼ね合わせながら将来の 在り方を考えていかなければいけない と思います。

司会 どうもありがとうございまし た。 時間となりましたので、最後に仲上 SSC理事長から閉会のご挨拶をいた だきたいと思います。

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図③

図②

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図①


見学会報告

水戸歴史地理学案内

浅尾修一郎

あさお しゅういちろう

サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム事務局長

サステイナビリティ・サイエンス・ コンソーシアム(SSC)の総会に合 わせて「水戸歴史地理学案内」と題す る見学会が二〇一五年五月二三日に行 われた。 仲上健一SSC理事長、住明正国立 環境研究所理事長、本年度のSSC総 会とそれに合わせて開催された公開講 演会等の催しを担当校としてお引き受 けいただいた茨城大学の三村信男学長 をはじめとする見学会参加者は午前九 時三〇分に水戸駅改札口前に集合した。 先ず引率いただく小野寺淳茨城大学 教授から、ご自身が作成された現在の 水戸市の地図の上に江戸時代の地図を 重ね合わせた力作「古地図と歩こう! 水戸の城下町マップ 幕末版」 (図①) をもとに見学ルートの概要説明を伺っ た。

水戸駅から城址へ 当日は少し暑いながらもお天気も良

く絶好の水戸歴史散歩の日となった。 集合場所の地上二階にある水戸駅改札 口から水戸黄門様、格さん・助さんの 像(図②)の横を通り、階段で一般道 路に降りた。駅から東方に少し歩いて 水戸光圀生誕地に建てられた義公祠堂 (別名水戸黄門神社) (図③)にお参り し、右にお堀の跡を走る水郡線の線路 を見ながら城跡に向かって坂道を登っ て棚町坂下門に至った(図④) 。 水戸城は残念ながら現在残っていな いが、千波湖と那珂川の間の小高い山 の上に、自然の理を巧みに利用して築 城された。水戸第三高校などの学校に なっている城址(二之丸跡)を左に見 ながら山の上の突き当たりの三叉路に 至った。右に曲がって堀跡の線路の上 にかかった本城橋を越えれば薬医門と 現在水戸第一高校になっている御本所 であるが、 今回は御本所跡は見学せず、 左折して現在は残っていない彰考館跡 に建てられた「大日本史編纂之地」の

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図⑦

図⑨

博物館と市立中央図書館の前を過ぎて 左折し、吉田松陰が藤田東湖や会沢正 志斎(弘道館初代教授頭取)に教えを 請うために水戸留学の際に滞在したと いう南町の留学地跡に建てられた、吉 田松陰直筆の詩の石碑(図⑨)を見学 した。

町人地のいまに残る街並み この後、町人地に入った。大工町の 大通りを昔の町家の趣がよく残ってい る間口が狭く奥行きの長い現在は飲食 店になっているお店の前を過ぎて、表 通りから古い街並みの雰囲気が残る、 鰻料理を扱う高級な料亭や飲食店が立 ち並ぶ裏通りを案内いただいた後、表 通りに戻って見学会が終了した。 通常二時間半のコースを二時間でま わる駆け足での見学であったが、小野 寺先生の学問的素養に根ざした丁寧な ご説明を伺いながら、水戸の歴史を堪 能した見学会であった。

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建てであった建物に四階部分が増築さ れていたのが、耐震補強と建設当初の 建物への復元を兼ねた工事の結果建設 当初の姿に戻されたとのことであった。 さらに堀跡にかかった橋を渡り、今 は市街となっている武家地に入った。 芸術通りを県公館を左に見て、右側に 水戸第二高等学校、さらに進んで市立 図⑧


記念碑(図⑤)の前で小野寺先生の説 明を伺い、水戸城跡二の丸展示館を見 学した。 展示館を管理されている方が、 小野寺先生に、ご本人とは知らないよ うで小野寺先生作成の地図が手に入ら なくて困っていると嘆いていたのは傑

図④ 作であった。

弘道館から武家地へ 大手門跡の前にある堀跡に架かった 大手橋を渡り、追手口から弘道館の敷 地に入って、東日本大震災で被害を受

けたが修理も完了した旧弘道館に着い た(図⑥) 。残念ながら時間の制約もあ り旧弘道館の見学は叶わなかったが、 隣接する、一つ一つの木に名前がつけ られたたくさんの梅の銘木が見事な弘 道館公園(図⑦)の中を散策して、映 画やテレビロケなどにも使われること も多いという立派な煉瓦張りの歴史的 建造物である三の丸庁舎(旧茨城県庁 舎) (図⑧)に至った。建設当初は三階

図⑤

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図⑥


経・礼記・春秋) 、下着に五経の本文と注釈を 細字で書いたものも残されているから、持ち 込んだものもいたのであろう。豆本類は手書 きではなく版本のものもある。つまり商品化 されていたわけで、特別のルートがあったの であろう。会場内に入れば比較的自由に時間 を過ごせたから、利用価値は高い。 科挙の本試験は科試から始まり、郷試・挙 人覆試・会試・会試覆試・殿試と続く。試験 と次の試験の間はほぼ一年。しかも試験官は 同じ人物ではないし、地方会場から中央会場 へと移るに従って、受験生も増える。おまけ にそれまでの滞留者が入るから、多いときに は数万人が受験することになる。本人と確認 する術はないから替え玉も紛れ込む。 会試の合格者は、原則として殿試で落ちる ことはない。つまり晴れて科挙試験に及第し て進士になるわけであるが、この殿試は皇帝 自ら主催する最終試験であるため、失態は許 されない。しかも会試まで替え玉を使って昇 りつめてきたものもいる可能性がある。殿試 は宮殿で行われるから、同じ会場を使って雰

囲気になれさせ、より重要なこととして、本 人であるか否かの首実検を兼ねるため会試覆 試という試験を行う。したがってこの試験は いわば名目だけのもので、落第するものはい ない。もしこれに落第するものがあれば、替 え玉がばれたもの、よほど行動が奇矯なもの に限られた。こうして早くても四十歳前後で 漸く目的を達することになる。 こう見てくると、厳正なはずの科挙試験も 一皮剥けば、ありとあらゆる不正が行われて いたことが分かる。特に替え玉受験に関して の対策が多いのは、実際にそれだけ多くの実 例があったと考えてよい。しかし、科挙試験 に合格するほどの実力をもっているのなら、 自分自身が応試すれば良いと思うのだが、官 界に身を投ずることを潔しとせず、野にあっ て富豪の親から大金をせしめ、自由な暮らし を楽しむというもの一つ生き方かもしれない。 十八世紀フランスでは、中国の思想や制度 に関心が向けられ、この科挙試験は、今に残 る大学入学資格試験のバカロレアとして伝わ ると聞いたことがある。

連載 エッセイ

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不正受験 入学試験の季節になると、きまって不正な 受験のニュースが流れる。いつだったか、女 装して娘になり替わって受験した父親がいた。 これが母親だったらどうなっていたか、ちょ っと分からない それで思い出したのが科挙試験のことであ る。隋代から清朝末までおよそ一三〇〇年間 にわたって行われた官吏登用試験である。そ の内容については変遷があるので、終末に近 い清朝期のことについて書いてみる。この時 代になると県や府にも学校が設置され、そこ に入学しないと科挙試験に応ずることができ なくなっていた。大体この段階では十三歳前 後の生徒(童生)が主であるが、中には四、 五十歳近い童生もいた。これは戸籍がないか ら本人が十三歳と主張すれば、怪しいと思っ ても否定できない。仕方がないから髭だけは 剃らせたという。県試・府試といわれる試験 は、この県学・府学に入るための入試で、こ

こに入った童生はさらに院試を受けて合格し たものが、科挙の本試験の最初の段階である 科試を受ける。 さてさすがに本試験は厳正で、回収された 答案は、試験当日に割り当てられた座席番号 だけを残し、出身地・氏名は全て糊づけされ て、誰の答案か全く分からなくなってから採 点されるが、その前に筆生によって答案は、 朱で写される。採点に回されるのはこの朱書 の方である。これは筆跡によって受験者が誰 であるのか分からなくするためで、試験官と 受験者との贈収賄を防止する方法であった。 ところがその裏をかく方法があった。何行目 の何字目にこの字を書く、と決めておくので ある。しかもこの段階では一会場で数千人が 受けるから替え玉も可能である。 試験会場 (貢 院)の入場に際しては、厳重な検査が行われ るが、手のひらに入る豆本大の四書(大学・ 中庸・論語・孟子)や五経(尚書・詩経・易

山田利明

やまだ としあき

東洋大学教授

(専門は中国哲学)

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国民的な努力が、原油価格の低減を招いたと いう解説を遺憾ながら聞いたことがない。 様々な分野でライフサイクルコストの評価を 行う時、化石燃料使用のコストが小さく、コ スト面から化石燃料使用低減の動機づけを行 うことが難しいと度々感じてきた。化石燃料 使用の削減努力がまだ道半ばであるとするな ら、今ここでの原油安は、更に化石燃料使用 削減努力の動機づけを挫く。 今は、ただ、原油価格ひいては化石燃料使 用量に対する、化石燃料使用削減の努力の感 度が米国の金利政策や世界の金融資産のポー トフォリオ政策に比べて、驚くほど低いと実 感させられるだけである。我が国は、日々、 省エネルギー、 化石燃料使用の低減に努力し、 生産や工学に携わる者も省エネルギー、省資 源に努力しているが、まだまだその感度は小 さい。化石燃料使用の一層の削減は、感度の 大きな商品市場や金融市場での、強力な政策 の実現を望むしかない。 暴言を承知で言えば、 今、直ちに効果があるものは、化石燃料使用 に関する機会均等、 結果均等の基本的な人権、 平等精神にのっとり、化石燃料の生産者、生

産国や、その消費国、消費者に目の出るよう な炭素税を課し、化石燃料の生産や消費を十 分に行っていない人々、できない国々に、取 り立てた炭素税を配分する施策ではなかろう か。 ところで、サステナブル社会は、一種、悪 平等が猛威を振るう共産社会ではないかとい う恐怖を覚える。化石燃料を湯水のように使 う人々と、使用する権利や機会が実質的に与 えられず、健康を害し、与えられた寿命も全 うできず、快楽も味わえない人々がいる不条 理の解消の向こうにあるものは、誰もが化石 燃料を、均等に使用する社会であるのであろ うか。多様な文化の存在を認め、多様な考え 方、出生した国や地方、家族など、あらゆる 違いを尊重する社会で、均等を実現すること は難しい。人類の文化の発展は愚行の許容に あると思う。芸術や科学の発展が、親方の教 えを逸脱する弟子の愚行から生じてきたとす るなら、化石燃料を浪費する愚行も、その愚 行を凌駕する高い代償を支払えば許される自 由な社会を望む。

連載 エッセイ

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感度解析と愚行 感度解析という言葉を偶に聞くことがある かもしれない。何事であろうと制御を志す分 野では、感度解析は当たり前に行われる。工 学的な感度解析は、一種の微分である。着目 する現象の全体像に対し、現象に寄与するパ ラメータがわずかに変ったときの全体像の変 化を調べる。感度が分かれば、調節可能なパ ラメータの制御により現象を希望する形に導 く。 サステナブル社会の目標は、有限な資源の 利用を再生可能な範囲にとどめ、現存する 我々の生活権、資源の利用権を、未来に生ま れて来る我々の子孫にも等しく保証すること である。ところで今、資源の利用の権利は、 機会均等にも結果均等にも、平等に分配され ていない。資源は、地球上に偏在し、国境や 過去の開発経緯による契約により守られ、低 コストで利用できる人々もいれば、できない 人々もいる。実体として多くの資源を期待で きない土地でも、国の安全保障に関する重要 な資源として、その領有を武力や威圧で排他

的に確保する国もある。すなわち生活権や資 源の利用権は、今は存在もしない子孫に保証 するどころか、現存する人々にも、実質、等 しく保証されていない。現実に、生活権や資 源の利用権が保障されず、健康を害し、命を 失う無数の難民がいる。今人々は、達成不可 能にも思える、神話とも思える、平等な生活 権、資源利用権の目標を目指し、サステナブ ル社会への前進を続けている。 二〇一六年の今、地球上の有限な資源で将 来、その枯渇が憂慮されている原油が異常と もいえる安値で、産油国が窮しているという ニュースが寄せられる。過去、米国の異常な 金利安などで投資先を失った資金が、原油な どの商品市場に流入し原油の高騰を招いてい たものが、米国の先行き金利高観測で商品市 場から引き揚げ、更には原油資源国が原油価 格の低落に伴う所得低減を原油増産で補う動 きと相まって、一層の原油価格の低落を招い ているという解説を聞く。 しかし、化石燃料の使用を削減するための

加藤信介

かとう しんすけ

(専門は都市・建築環境調整工学)

東京大学生産技術研究所教授

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本国内だけでなく、海外からもくるようにな ったのです。 「たま」は二〇一五年六月に亡く なり、現在は、三毛猫の「ニタマ」が「たま Ⅱ世駅長」を襲名して活躍しています。 日本各地には通称「猫島」といわれるネコ のたくさんいる島があります。そのひとつ宮 城県田代島では、ネコが大漁の守護神になっ ていて猫神社があります。男たちが漁から帰 ってくると、奥さんたちとともに多数のネコ が船を出迎えます。犬は持ち込み禁止です。 東日本大震災ではカキの養殖が津波被害を受 けましたが、復興のために「にゃんこ・ザ・ プロジェクト」を立ち上げて支援を募ったと ころ、三カ月で目標額を達成したそうです。 イギリスのケンブリッジ大学には大学ネコ (カレッジキャット)がいます。ケンブリッ ジ大学に女性のための最初のカレッジができ た一八六九年よりずっと昔から、大学の住民 としてきちんと認定された大学ネコがいまし た。イヌは立ち入り禁止で、ネコだけが歓迎 されていました。その理由は、イヌは権力に おもねるが、ネコはむしろそっぽをむくので

大学にふさわしいというのです。 先進国では、ほとんどの国でイヌよりもネ コが多く飼われています。日本では、二〇一 五年の犬猫飼育実態調査によると、イヌは約 九九二万頭、ネコは約九八七万頭で、イヌは 減少傾向にあり、その差が縮まっています。 先進国でネコが多くなるのは、現代の忙しい 都会の生活にはネコが合っているからなので しょう。イヌは常に飼い主の顔を見ていて、 散歩にも連れて行かなければなりませんから、 飼い主にとって負担に感じることもあります。 ネコのように自由にしてくれると気が楽なの です。 岩合さんのネコの写真集には、ネコ好きに はたまらないネコの表情が写されています。 いい写真が撮れるのは、彼がネコを溺愛する タイプではないからでしょう。彼は、こちら の要求で近づかないのが、ネコと親しくなる 秘訣であると言います。ネコの方で近づいて きたくなるのを待って受け入れるのです。都 会人とってはそのような付き合い方がいいの かもしれません。

連載 エッセイ

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喜ばれるといった傾向があるようですが、ネ コも働いてこなかったわけではなく、昔から 招き猫とか看板猫ということでは活躍してい ました。町に煙草屋さんがあったころは、よ くネコが飼われていてなんとなくそれにひか れて買いに行くといったことがありました。 和歌山県の貴志川駅にはネコの駅長さんが います。貴志川駅を通る貴志川線はかつては 赤字続きで、当時運営していた南海電鉄は路 線廃止を表明し、新たに和歌山電鉄が設立さ れて運営を引き継ぐことになりました。その ときに三毛猫の「たま」の小屋が立ち退きを 迫られ、困った飼い主が和歌山電鉄の社長に 「たま」を駅の中にすまわせてもらえないか と相談しました。それをきっかけに「たま」 は駅長に任命され、絶大な働きをすることに なりました。駅長就任前の二〇〇五年の貴志 川線の乗降客は一九二万人で減り続けていた のが、二〇一三年には二二四万人にまで増加 しました。駅長ネコに会いに行く観光客が日

看板猫、カレッジキャット、ネコ駅長、猫島…… 最近のテレビで、イヌとネコとどちらの出 番が多いのか、印象としては、ネコが台頭し てきていると感じています。 動物写真家の岩合光昭さんが世界各地のネ コの暮らしを訪ね歩く『岩合光昭の世界ネコ 歩き』 (NHKBSプレミアム)が毎月一回放 送され、写真集も三冊出版され、合計で二〇 万部以上売れているそうです。コマーシャル (ソフトバンク)では、ふてぶてしい感じの 「ふてニャン」がおまわりさんや整体師にな って、ユーモラスな演技を披露しています。 イヌでは、ヒーロー犬として紹介されるの が目につきます。9・ テロ事件で貿易セン タービルが崩れ落ちたときに三〇〇頭を越え る救助犬が活躍したようすが放送されました ( 「世界まる見え!」 (日テレ、二〇一五年八 月三日) ) 。救助犬は一八人を発見し、最後の 一人は倒壊から二七時間後だったそうです。 イヌは人間のために献身的に働くところが 感動を呼び、逆にネコは自由に行動するのが 11

林 良博

はやし よしひろ

独立行政法人 国立科学博物館長

(専門はバイオセラピー)

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仰天してしまいました。冒頭の歌詞にあるように、黒 人へのリンチの歌だったのです。 デーヴィッド・マーゴリックは、 「ひとたびホリデイ がこの歌をレパートリーに加えると、この歌の持つ独 特の哀しみがホリデイ自身に乗り移ったかのように思 われた。とりわけ、彼女の肉体が衰えるにつれ、この 歌は新たな鬼気せまる雰囲気をはなっていった」と記 述しています。ホリデイは失恋の痛みや孤独を歌う歌 手ですが、 「奇妙な果実」の公民権的なしかもグロテス クな歌を歌うのは、実に「奇妙」なことですが、それ を全身で受け止め、感性へと融合していった、前代未 聞の歌手のような気がします。 「奇妙な果実」の社会的 メッセージをあまり強調せずに、さらりとしかし確実 にその核心を捉えて、哀悼歌のように歌えるのは、ビ リー・ホリデイ以外には、浅川マキだけのような気が

(専門は根圏環境制御学・植物栄養学)

かたができるのは沖山秀子(二〇一一年三月二一日逝 去)ぐらいかも知れません。沖山秀子は映画「神々の 深き欲望」でデビューし、あくの強い演技をしていま すが、私生活においては、不倫、恐喝未遂、自殺未遂、 精神病院の入退院とまるで狂ったように生きて、まる で自分の生命力を制御できないほどの過剰な生命力に 自ら翻弄されたような感じがします。晩年に、ビリー・

』をリ ホリデイをカバーしたアルバム『 Summertime リースしていますが、この中の "I'm A Fool To Want は、まるでホリデイが背後で歌っているような錯 You" 覚すら起こさせます。これは〝生命〟の歌だと強く感 じます。ジャズの起源は諸説ありますが、私は、ジャ ズは形式的には自由な黒人の哀歌だと感じています。 その意味でいうと、ビリー・ホリデイこそが一つの形 式を作りあげたといってもよいでしょう。

武満徹は、 「黒人哲学者サイラス・モズレー氏は、 〈ジ ャズはリズムでもなく、またメロディーでもない、ジ ャズは次第に発展していくという形式でもない。ジャ ズは、演奏者が歌の途中、いかなる瞬間にでも感じた ものを表現しようとする個人の自由というものであり、 演奏されている間に想像もつかないほどの悲しみの底

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します( 『ブルー・スプリット・ブルース』 EMI Music ) 。浅川マキのなにがビリー・ホリデイに Japan INC. 通底していたのかがいつも不思議でなりません。 ビリー・ホリデイの "I'm A Fool To Want You" は愛の 歌といってもほとんど絶望の歌のように聴こえます。 〝生〟そのものを絞り出すような絶望です。この歌も 多くの歌手にカバーされていますが、このような歌い

北海道大学大学院教授


奇妙な果実

南部の木々 南部の木々は 奇妙な果実をつける 血が葉をぬらし 根もとにしたたる 黒いからだが 南部のそよ風にゆれる 奇妙な果実は ポプラの木からぶらさがっている すてきな南部の のどかな風景 飛びでた眼球 ゆがんだ口 マグノリアの花の香りは甘く、 みずみずしい するとふいに鼻をつく 焼けた肉の臭い! ここにあるのは カラスがついばむ果実 雨にうたれ 風にさらされ 陽差しに腐って 木から落ちる ここにあるのは 奇妙で苦い作物

デーヴィッド・マーゴリック『ビリー・ホリデ イと《奇妙な果実》―〝20世紀最高の歌〟 の物語』 (小村公次訳、大月書店)より

ビリー・ ホリデイの「 奇妙な果実」

ビリー・ホリデイがのちに語ったように、一九三九 年初頭のある夜、カフェ・ソサエティと呼ばれていた ニューヨークのナイトクラブで、はじめて『奇妙な果 実』を歌い、アメリカ音楽の歴史を変えてしまったと いわれています(デーヴィッド・マーゴリック『ビリ ー・ホリデイと《奇妙な果実》― 〝20世紀最高の 歌〟の物語』 (小村公次訳、大月書店) 。 ジャズを聴き始めた学生の頃、ビリー・ホリデイも よく聴いていましたが、 『奇妙な果実』については、意 味もわからず聴いていて、はて、 「奇妙な果実」とはい ったい何という果実だろうと思って、歌詞を読んで、

大崎 満

おおさき みつる

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聴いた歌は、生活の中に入り込んで、生活そのものの リズムを作っています。当然、人に聴かせる芸のため のものではありません。何らかのコミュニケーション を基盤にしている感じで、人と自然(八百万の神) 、人 と人、肉体と心(精神?)の交歓のようなものでしょ うか。また、歌うときの発声の様式が文明化した歌と は著しく異なり、全身で音をたたき出している、そん な感じがします。全身でリズムを取っています。たと えば、横隔膜が震え、肺が震え、喉が震え、舌が震え、 唇が震え、人が大気と共鳴しているような声(音)で す。そして、体の筋肉がすべて小刻みに振動していま す。精神と肉体が共鳴している感じすらします。太鼓 と足踏みで、大地まで共鳴してくる感じもします(こ れは感じだけ) 。つまり、歌というよりは、振動を作り 出している感じです。振動の仕方を複雑にコントロー ルできるでしょうから、例えば、 「あー」といっても、 複雑なスペクトルをもった「あー」で、それだけで人 の区別は付くでしょうし、それだけで簡単な会話がな りたっているかも知れません。これは、基本的に自然 とも共鳴するためではないでしょうか。共鳴の揺らぎ が、自然からのメッセージとなって還ってくる事もあ るでしょう。そもそも〝自然の音〟を聞き分けること

は、死活問題の筈です。耳で聞く音もそうですが、高 周波を全身で聴くのも重要で、そういう意味では、身 体自体を共鳴させる筋肉の動きも重要かも知れません。 アフリカの音楽といっているものは、西洋の音楽に対 して、〝自然との共鳴〟と考えるとよいと思います。 つまり、〝自然との共鳴〟は〝西洋の音楽(人工的に 作られた平均律)〟にとって、ノイズの塊ということ になりますが。

、 この辺の事情を、武満徹は「東の音・西の音──さ

、り 、の文化について」 わ で、 西洋音楽の歴史を考えると、 たいへん大雑把な言いようになりますが、およそ四〇 〇年ほど前に、 平均律というスタンダードが確立して、 それが力強い普遍性をかちとったと述べています(小 沼純一編『武満徹 エッセイ選──言葉の海へ』ちく ま学芸文庫) 。それに合わせて楽器まで改良され、創ら れてきます。武満徹は「それはとりもなおさず近代化 ということであり、また機能主義というものです。だ が、すべてを便利に、機能的なものにして行こうとす る際に、多くの大事なものが切り捨てられていったの も事実といいます」と述べます。ということは、別の 言い方をすると、〝平均律〟に合わない、乗らない音

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からつくりだされる感情なのだ〉と語っている」と書 いています(小沼純一編『武満徹 エッセイ選──言 葉の海へ』ちくま学芸文庫) 。さらに、武満徹は「 The ──ジャズ試論 一」 (同書)で以下のように述べて try います。 奴隷として新大陸に運ばれた黒人たちは、南北戦争 の終結で人権を得たのだが、白人の人種差別、偏見 は現在もさしておとろえたとは思われない。こうし た環境で彼らはいかに生きたか。(中略)少し感傷的 な言い方をすれば、全く弱者の立場に追いやられた 民族にとっては、うたうこと以外に何もなかったの である。彼らを捉えて遁れさせない深いあきらめの 底から、突如呪縛にかかったもののように、彼らは することで這いずり出る。それは、天の配剤に cry! 対する屈従であるよりも、むしろ反抗である。生に 対する激しい執着が、彼らをしてジャズさせたのだ。 ジャズは黒人の歌・音楽であったとして、そうする と、アフリカの音楽はジャズの起源なのでしょうか。 川田順造は、アフリカの音楽について、的確に描写し ています(武満徹・川田順造『音・ことば・人間』 (岩

波同時代ライブラリー) 。

声の歌、太鼓の音は、このサバンナの人たちの生活 では、それこそ全身の躍動、それも私などからみる と大層複雑なリズム(リズムのことをモシ語では 「ナ・キェンドレ」つまり「足の動き」と表現しま すが、それはステップなどというものではなく、実 際その「足の動きは」は、私には目も口もあいてら れない砂埃と、一種の地響きと、首、肩から腰にか けての肉体のうねりと切り離しては思いだせない ものです)での全身の躍動である踊りと結びついて いることが多いのですが、こうした音とからだの躍 動との融合、それから生まれるある種の恍惚感、そ うしたものの渾然とした全体を指す「デーム」とい うことばはあっても、これはまた、日本語やヨーロ ッパ諸語にはなさそうな、総合された概念です。

アフリカのザンビアの田舎で、日曜日なので教会に 行った帰りに、 バスで帰還した一行に出くわしました。 バスから大音声が聞こえ、そして川岸の堤を行列しな がら、野外でも声がよく通り、かなり遠方まで歌声と いうか、声が通ってきます。アフリカの各地の田舎で

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ジャズが、アフリカ黒人の文化を基盤に発達してき たとすると、今でも残るアフリカ音楽(音)の〝自然 との共鳴〟( space )とは著しく異なるもので、〝西 洋の音楽(人工的に作られた平均律)〟によりもとも とのアフリカ様式の音楽(音)は徹底的に破壊されて きたように思われます。ビリー・ホリデイの歌は、そ のような、〝自然との共鳴〟が破壊され、社会的にも 抑圧され、アフリカ文化自体も吊されて「奇妙な果実」 となった、そんな悲鳴みたいな歌です。それは、ジャ ズとしてジャンルが確立した現代ジャズ(ビー・バッ プ以降) からはほとんど消えうせてしまったものです。

太平洋戦争の「 奇妙な果樹」 国際稲研究所(IRRI)はフイリッピンのルソン 島南部、マニラから約七〇キロメートルのロス・バニ ョスにあります。ここでプロジェクトを行っている間 は頻繁に訪問していました。IRRIから山手に、I RRIの居住地、フイリッピン大学ロス・バニョス校 (UPLB)やフイリッピンの軍隊の基地などがあり ます。ロス・バニョスには、アメリカの警備隊の基地 がありましたが、日本の占領中には、第十六師団が駐

屯しました。終戦後、そこは米軍の捕虜収容所・戦犯 刑務所に転用されました。ここの山手で、山下奉文が 処刑されたと、 何人から聞き、 仕事が早めに終わると、 IRRIゲストハウスの裏山を徘徊しましたが、それ らしい場所を見つけることができませんでしたが、そ れもそのはずです。福田和也は「(ロス・バニョスの) にぎやかな界隈を抜けて、山側に登っていく街道に、 山下が処刑された場所があった」と記述しています 。 ( 『山下奉文 昭和の悲劇』文藝春秋)

蚊柱がわきたつ、 足場のわるい斜面を降りていった。 赤土むきだしになった、滑りやすい踊り場で、ガイ ドの中村さんが、咥 (くわ)え煙草の土木作業員たち に尋ねている。おかしいですねえ、たしかにここな んですけれど。 降りきったところにから荒れた植生が続いている。 ここですね、ここに間違いありません、このマンゴ の木です。ここで、首を吊られたのです、と中村さ んは声を出した。

マッカーサーは、マンゴーの樹に山下奉文の「奇妙 な果実」を生 (な)らしたのです。これは、マッカーサ

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はノイズということになるはずです。こうして、西洋 では自然界の自然の音は、ノイズとして処理されてき たはずです。自然に耳を貸さない。都市には自然が無 いから、 あるいは都市から自然を排除したから、 もう、 自然の情報に脅えて暮らす必要がなくなったというこ とでしょうか。 武満徹(武満徹・川田順造と同上)は、日本人の 、聴く〟と表現してい 〝自然の音〟との接し方を〝音に ます。 常々(私は) 、邦楽の演奏家と接している中で、日本 人は音によって表現 (あらわ)そうとするより、音に 聴きだそうとすることを重んじているのではない か、と感じることがあります。私のこの観察はある いは誤りであるかもしれません。だが、中国音楽等 との比較において考えるときその感を強めます。 「さわり」という美的観念や「一音成仏」というよ うな思惟を生みだしているのは、日本人が、音によ って表現 (あらわ)すのではなく、音本然の貌 (すがた) を聴くことに重きを置いたからではないか、と考え ます。(中略)

、聴 音に聴く──(私は)自分でも意識せずに、音を

、聴く、と書いてしまったのです くと言わずに、音に が、例えば先程の野沢喜左衛門の音色が手を傷めて から冴え深まったというのは、技巧的な手(指)の 回りは手の怪我のために失われたが、そのために返 って一音に対する没入は尋常のものではなく、喜左 衛門はその一音に、その瞬間の現実の全相を余すこ となく聴きだそうとしたのだと思います。これも 度々譬 (たとえ)にもちだすことですが、法竹の海童 道祖は、その修行のひとつとして、早朝庭へ降りて 無作為に発した一音を途絶えること無く四時間あ まり吹定(すいじょう)しつづけるそうです。そうする と変化の無い(筈の)その一音は、時間の推移に伴 って無限の変化として感じられるようになる。 表現というものが、自己と、それをとりまく他、現 実との関わりであるならば、喜左衛門や海童道祖の 例は、寧ろかなり積極的な表現であると言えるよう に思います。日本の伝統音楽を聴くと、日本人は、 音色に対して鋭敏な耳を所有していたことが分か ります。

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降伏文書、軍刀が展示されているそうです。

ベトナムの「 奇妙な果実」

東条でなく、もちろん天皇でもなく、山下なのだ。 ベトナムのホー・チ・ミン市、旧サイゴン市にはベ アメリカ陸軍の未来を担う俊英たちは、 日々山下を、 トナム戦争に関する各種のメモリアルがありますが、 先人たちが苦闘の末倒した、強敵の象徴として眺め その一つの戦争証跡博物館を訪れて、一つのパネルに る。 釘づけになってしまいました。戦慄が走りました。む ごい写真もこれでもかと展示されていますが、そうい 山下奉文が、ヒットラーやムッソリーニと同格で扱 ったものではありません。米軍が、落とした爆弾地点 われていることに、驚きを禁じ得えません。それほど をすべて、プロットした地図です。北も南もベトナム のにっくき敵であったということの証ですが、 それは、 が真っ黒になっています。しかも、カンボジアとラオ マレーの虎による「大航海時代以来の、ヨーロッパの スにまで大きく食い込んでいる。たった一枚の図です アジア支配を全面的に崩壊させる一撃であった」にた が、これまでベトナム戦争について漠然と持っていた いする復讐で、いかに歴史的にも大きな意味を持って 像が、完全に吹き飛んでしまいました。さらに、隣の いたかを示しています。そのことから、太平洋戦争と パネルには、枯葉剤散布地点をプロットした地図があ は、もちろん色々の理由があるにせよ、アメリカにと ります。枯葉剤散布地点地図は、爆弾投下地点地図に っては西部劇の延長だったのではないかと疑わせます。 較べると、 隙間はあるものの、 全土にわたっています。 マレーの虎の一撃が、カウボーイか騎兵隊魂を呼び覚 これは、あとから知る、 「一九六五年から一九七二年ま まし、東京大空襲と広島・長崎の原爆投下による非戦 でのあいだに、米軍と南ベトナム軍の航空機は東南ア 闘員の無差別殺戮に走らせた一因のような気がします。 ジアで三四〇万回出撃したが、その大多数は南ベトナ ムで実施されたのだ」と、 「七〇〇〇万リットル以上の 除草剤──もっとも悪名高いのはエージェント・オレ ンジだ──を農村部に散布した。毒性の強い枯葉剤を

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ーのリンチです。福田和也によると、山下奉文の命運 は以下のごとく推移しました(同書) 。

(中略)

一九四五年九月二日、ポツダム宣言を日本政府が受 諾してから二週間以上たった後、山下奉文と、武藤 章以下の幕僚はフイリッピンのプログ山中の陣地 から、キアンガンまで降りてきた。(中略) 翌日、山下はバギオに連行され、降伏調印式に臨ん だ。 調印式会場には、マッカーサーの指示で、英軍のパ ーシバル元帥と、コレヒドールで本間比軍司令官に 降伏したウェンライト中将も参列していた。 意図的な屈辱としかいい様がない。 山下が、調印に使った万年筆は、パーシバルに贈ら れた。 マニラに護送された山下は、十月九日に戦犯容疑者 として起訴された。フイリッピン各地で部下たちが 起こしたとされるいくつかの事件に関する容疑で、 山下自身には何の覚えもない事ばかりであった。 山下は、敗戦という最大の屈辱だけではすまず、さ らに、さらに最悪の階梯を降りていくことになる。

山下奉文は、なぜ、ここまでマッカーサーのひどい 遺恨をかうことになったのか。以下、引き続き、福田 和也によります。

(山下奉文は)二・二六事件直前まで安藤大尉以下の 首謀者たちと頻繁に連絡を取り、勃発後も青年将校 たちに有利な解決を模索して、天皇の震怒 (しんど) を買った。 以後、半ば追放の身となった。大陸を転々とし、航 空総監に任命されようやく帰国を許されるが、すぐ に第二次大戦中のドイツに派遣され、緒戦の戦況を 検分し、帰国後マレー方面軍司令官になる。 上陸用舟艇を活用した敵背後遮断という、戦史を画 する作戦によってマレー半島のイギリス軍を駆逐 し、数倍の敵がこもるシンガポールを攻略した。 大航海時代以来の、ヨーロッパのアジア支配を全面 的に崩壊させる一撃であった。

さらに、福田和也によると、アメリカのウエストポ イント士官学校には、ヒットラーの写真、ムッソリー ニの写真と指揮刀と勲章と並べて、山下奉文の写真と

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最近(二〇一三年アメリカ刊行) 、先に引用したニッ ク・タースの本が出版され、地上でも、戦闘(兵士同 士の戦い)というより、非戦闘員も含めた完全殲滅作 戦が、執拗に行われた実態が初めて明らかにされまし た。この他に、ナパーム弾、機銃掃射、砲撃をくわえ ると、米軍はベトナムでいったい何をしたのでしょう か。ベトナム戦争は、じつは戦争(軍同士の戦い)で はなく、生態系も含めた、文字通り「動くものはすべ て殺す」完全殲滅作戦(索敵殲滅作戦:サーチ・アン ド・デストロイ) であったことが明らかになりました。 以下に、ニック・タースの本から引用・要約しながら その実態を見てみよう。 近年では、入念な調査や分析や公式の推計がおこな われる都度、民間人の推定死亡数が大幅に増加して きている。二〇〇八年には、ハーヴァード大学医学 大学院とワシントン大学保険指標評価研究所の研 究チームが調査を実施し、戦時の死者数について、 これまででもっとも精度の高い分析を行った。そし て、戦闘員、非戦闘員を合わせた戦没者総数は、三 八〇万人と見るのが合理的であろうとの結論を下

した。調査方法にさまざまな限界があったことを考 えれば、この瞠目すべき数値でさえ実際よりかなり 少ない可能性は否めないだろう。それでもこの分析 結果は、一九九五年、ベトナム政府が公式に発表し た推計値──アメリカの戦争介入時の推定死者総 数を三〇〇万人以上、うち民間人死者数を二〇〇万 人とする──の妥当性を裏付けている。 (中略)民間人負傷者の総数については、ギュンタ ー・レヴィーが、南ベトナム軍の犠牲者データを調 べて重傷者の数が戦死者数の二・六四倍であったこ とを割り出し、この比率を使ったアプローチを試み ている。この比率は、民間人に適応するにはあまり にも低すぎるだろう。しかしそれでも、民間人死者 数二〇〇万人というベトナム政府による推計値に この倍率をかけてみると、五三〇万人が負傷したこ とになり、民間人犠牲者の総数が七三〇万人となる。 しかも南ベトナム各地の病院に残る入院記録によ れば、こうした負傷者のおよそ三分の一が女性で、 およそ四分の一が一三歳の未満の子供なのだ。 これらのとてつもない数値は何を意味するのだろう か。一般のアメリカ人は、ミライ事件を例外的な、 特異なできごとと認識している。そのため、ベトナ

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浴びたベトナム人は四八〇万人にものぼるという」と いう事実(ニック・タース『動くものはすべて殺せ― ―アメリカ兵はベトナムで何をしたか』布施由紀子翻 訳、みすず書房)を、図にしたものだと思えばよいで しょう。 カオ・ダイレによると、散布主剤であったエージェ

が開始され、 Rhizopora 種のマングローブ単林が造成 されました。ホー・チ・ミン市大学の Lê Thuyên Xuân 教授とここのマングロー林の試験地の視察にいきまし た。小さな川を何本もわたり、泥をこぎ、根に足を取 られ、一キロメートル行くだけで全身から汗が噴きだ すほどの、大変な行軍です(粘土層が厚く、今まで歩 いたマングローブ林の中でも最悪でした) 。 ベトコンが ここに逃げ込んだら米兵は全く手も足も出なかったで しょう。重装備でここに入り込んだら、足が抜けなく なり、身動きがとれなくなります。まさに、恐怖の密 林です。

それを使ったということは、やはり、生態系を含めた ジェノサイドを意図していたことは明らかです。 ベトナム戦争で、 米軍が悪戦苦闘したのは低湿地で、 特にマングローブ林で、執拗に枯れ葉剤オレンジを撒 き、ナパーム弾を撃ち込みました。完全に消滅させら れたマングローブ林が、ホー・チ・ミン市の南東に四

域( Can Gio Mangrove Biosphere Reserve )に指定 され、そのうちマングローブ植栽地は三万五〇〇〇ヘ クタールにおよびます。戦後すぐマングローブの植林

にあ 〇キロメートルのサイゴン川の河口の Can Gio ります。現在、七万ヘクタールがマングローブ保全地

ント・オレンジは有機塩素系除草剤 2,4,5 ‐ と ‐ T 2,4 の混合液で、 ‐ の中には高濃度のダイオキシ D 2,4,5 T ンが不純物として混入していました ( 『ベトナム戦争に おけるエージェント・オレンジ――歴史と影響』尾崎 望(翻訳) 、文理閣) 。枯葉剤そのものは散布後まもな く環境中で分解してゆきますが、ダイオキシンだけは 残ります。作戦のターゲットはマングローブや内陸の 熱帯雨林だけではなく、解放勢力への食糧補給を絶つ ために田園地帯へも散布し、収穫前の作物を枯らし、 土壌も水も汚染されました。直接に枯葉剤を浴びただ けでなく、間接的にも汚染水を飲み続け、汚染穀物も 食べ続けて、人体の中に入って脂肪組織に蓄積したダ イオキシンは容易に排出されず、被害は次世代にまで 及ぶこととなったわけです。米軍が化学兵器として研 究してきたものなので、エージェント・オレンジの毒 性(効果)については、詳細を知っていたはずです。

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この呼称は、ベトナム戦争では、はじめから終わり までずっと使われつづけた。

触れていません。 共産主義に対する防衛? それなら、 戦争をすればいいのでは? そもそも、この狂気の完 全殲滅作戦の実態がほとんど知られてこなかったせい で、その疑問すら問われることはなかったのです。 その多少の手掛かりは、フランシス・F・コッポラ

監督の『地獄の黙示録』 ( Apocalypse Now )にある気 がします。シナリオはジョセフ・コンラッドの小説『闇 の奥』を下敷きとしていますが、コッポラは撮影が始 まってその最後まで脚本の結末が書けず、重要な部分 の脚本なしに、撮影が進んでいくまことに不思議な映 画です。また、その後もコッポラ自身の再編集による 『特別完全版』 (二〇〇一年)が公開されたりで、筋書 自体が迷走を繰り返していました。それは、コッポラ 自身が、ベトナム戦争の理由が分からぬせいだと撮影 中にいっています。

ニック・タースによると、戦争特派員だったフラン シス・フィッツジェラルドは、その代表的著書、 『湖の

『 地獄の黙示録』 の「 奇妙な果実」

立花隆によると、 「エンディングにしても、当初のプ ランでは、 いかにも戦争映画のクライマックスらしく、 ベトコンとカーツの山岳民族軍の間で、ものすごい大 戦闘が繰り広げられ、カーツ砦があたかもインドシナ 戦争のディエンビエンフー陥落のごとく滅び去る場面 をラストにした。その最後のところで、カーツがあの

火』 (原題 Fire in the Lake で未訳書)のなかで、米軍 がベトナムでおこなった爆撃や砲撃について、「第二次 世界大戦中、ナチス・ドイツ占領下のフランスやイタ リアに入った米軍指揮官が同じことをしたとはとうて い思えない」と、痛烈に批判したといいます。このこ とからも、ベトナム戦争とはなんだったかという問い 対して、一言で言うと「西部劇の延長」という答えに なります。

ベトナム戦争は、戦争ではなく、生態系も含めた、 文字通り「動くものはすべて殺す」完全殲滅作戦(索 敵殲滅作戦:サーチ・アンド・デストロイ)であった ことは理解できました。でも、なぜ、米国が、このよ うな狂気の完全殲滅作戦を膨大な費用をかけて実施し たのかについては、ニック・タースの本でもほとんど

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ベトナムに関して、この統計志向の戦争運営者たち が何よりも重点を置いたのは、〝転換点(クロスオ ーバポイント)〟に到達することだった。つまり、 米軍がどんどん敵を殺していけば、いつかは敵の兵 員補給能力が追いつかなくなる。その瞬間を待て、 というわけだ。そうすれば、共産主義勢力に率いら れた軍隊はおのずと戦闘の継続を断念するだろう ──それが唯一、合理的な対応だ。 一九六〇年代前半から一九七〇年代前半まで終始一 貫して、南はメコンデルタ地方から北は非武装地帯 にいたるまで、ありとあらゆる戦場でボディカウン トが強調され、兵士たちが同じようなプレッシャー

ム戦争中にほかの民間人が死亡した話を聞いても、 なんとなく過失によるものだとか、 (戦争後によく 使われるになった表現を使えば)〝副次的損害〟に すぎないとか考えがちだ。しかしわたしの見るとこ ろ、南ベトナムの非戦闘員を無差別に殺害したこと は──戦争の全期間を通じ、来る日も来る日も、毎 月、毎年、延々と民間人を殺しつづけたことは── 偶発的な事故でも予想不能な災難でもなかったの である。

ベトナム農村部を納骨堂に変える一助となった根深 い人種差別主義は、いたるところで聞かれた〝グー ク〟という一語に集約される。この通称が軍のスラ ングに加わったのは、二〇世紀のはじめにフイリッ ピンで起きた武力衝突(一八八九年‐一九一三年の 米比戦争)のさいに、不気味なまでにベトナム戦争 と似通った作戦が実行された時のことだったとさ れる。米軍兵が先住民の敵を〝グーグー〟と呼ぶよ うになったのだ。この蔑称が〝グーク〟へと変化し、 数十年のあいだにハイチやニカラグアや韓国の、フ イリピン先住民とは似ても似つかぬ敵に使われる ようになったあと、また東南アジアに戻ってきた。

を経験していた。(中略) 事実上は殺人ノルマだったこの数値の達成や超過達 成は、ベトナムでの任務に大きく影響をおよぼした。 ボディカウントの不足は、あまり快適な毎日を送れ なくなることを意味した。空輸(エアリフト)でも 冷遇される。基地のヘリコプターで送迎してもらう ことはできず、暑いさなか、身を危険にさらして、 どこに何が潜んでいるかわからない土地を延々と 歩くはめになる。

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撮影全記録』 (岡山徹訳、小学館文庫)等を参照しなが ら、カーツ大佐の骨格を明らかにしていきます。カー ツ大佐のイメージ作りに役立ったと思われるのが、第 二次世界大戦の英雄、マッカーサー将軍です。 最高位の将官のコマンドが劇的に断たれた例として、 一九五一年のトルーマン大統領によるマッカーサ ー将軍の解任がある。マッカーサーは連合国軍総司 令官として、日本占領の最高指導者になるとともに、 一九五〇年朝鮮戦争が勃発すると、その最高指導者 にもなった。共産中国軍の介入後、情勢を盛り返し、 中国軍を追って中朝国境の鴨緑江にいたり、これを 渡って中国に攻め込もうとした。それに対して、ト ルーマン大統領以下アメリカの政治中枢がストッ プをかけるが、マッカーサーはいうことをきこうと しない。通信連絡がうまくいかないことを口実に独 自行動をとり、本当に中国侵攻作戦を実施しようと していた。おまけに、中国侵攻にあたっては、核兵 器の使用準備をととのえていたといわれる。 ことそこまでいたったところで、トルーマン大統領 は、マッカーサー将軍の解任命令を発動して、一挙 に、彼のコマンドを断ったのである。(中略)

コッポラとマーロン・ブラントが、カーツ大佐を考 えるのにいちばん参考になるのは、パットン将軍と マッカーサー将軍だというくだりがある。パットン は、 「糞いまいましい模範的な兵隊」だったために、 最後は上層部の命令に屈して、ベルリン侵攻をひか える。現実にはマッカーサーも最後は命令に従った。 しかしもし、トルーマン大統領の命令に従わなかっ たマッカーサーが、中国に勝手に進行して独立国を 築いてしまったとしたらどうか。それがカーツのや ったこと(カンボジアに独自に進行してそこに独立 国を築く)だというわけだ。

ウェストモーランドがベトナム行きを命じられ、サ イゴンに向かう前、彼は引退したダグラス・マッカー サー元帥に会い、この新しい任務について話をしたと いいます(ニック・タース同上) 。ウェストモーランド の回顧録によれば、マッカーサーは「いつも火砲を十 二分に用意しておけと助言した。東洋人は「非常に砲 撃をこわがる」からだそうだ」 、そして、ベトナムでも 〝焦土作戦〟をとってはどうかと提案したといいます。 一九六五年九月、ウェストモーランドはマッカーサー の助言を実行すべく、ベトナム軍事援助司令部(MA

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巨大な寺院の壁の上にまたがって、アラモ砦陥落時の )"とうそぶく。 『地獄の黙示録』のこの the morning. シーンが、ベトナム完全殲滅作戦の理由のすべてを語 デビー・クロケット風に派手に戦って死んでいく。そ っていると、私には思えます。 して、死ぬときに、 「我々は現代の『神々の黄昏』の時 さらに、映画の冒頭は、ドアーズの「ジ・エンド」 代に、神兵となって戦うのだ。いまこそ、新しい黙示 をBGMに、ベトナム戦争を象徴する兵器であるナパ =この映画の英語タイトル)が 録( Apocalypse Now 伝えられる」と叫び、それに対して、ベトコン側が(以 ーム弾が全てを焼き払うかのような映像シーンが流れ 」 ( 『解説「地獄の黙示録」 』文春文庫) 。当初シナ ます。そして、ウィラードがカーツ殺しに至るシーン 後略) リオのこのエンディングだと、まさに、ベトナム戦争 で流れているのも、やはり「ジ・エンド」で、 『特別完 とはインデオ虐殺の延長で、西部劇であることが鮮明 全版』では、カーツの砦がナパーム弾によって焼き払 になり、遙かにインパクトが強かったはずですが、興 われます。 ナパーム弾こそは、 ベトナム戦争の象徴で、 行的にはやはり問題があるのでしょう。 この茸雲こそベトナム戦争での「奇妙な果実」なので しかし、実は、この映画は導入部で、 「なぜ、アメリ す。 カ合衆国がベトナムで完全殲滅作戦を実施したのか」 コッポラはエンディングで苦労しますが、『地獄の黙 という問いにたいする核心的回答を提示していると私 示録』の筋は実に単純で、陸軍空挺士官のウィラード は思います。キルゴア中佐率いる部隊がワーグナーの 大尉は、サイゴンのホテルに滞在中、軍上層部に呼び 「ワルキューレの騎行」をオープンリールで鳴らしな 出され、元グリーンベレー隊長のカーツ大佐の暗殺指 がら、九機の武装したヘリで、ベトコンの拠点と目し 令を受ける。カーツは、軍の命令を無視して暴走し、 た村落を攻撃していくシーンなどは、まさに騎兵隊の カンボジアのジャングルの中に独立王国を築いていた 突撃ラッパです。それも、キルゴア中佐がサーフィン 楽しむためだけの軍事行動です。 後方支援で戦闘機が、 というものです。 立花隆はさきの本で、 「地獄の黙示録」ができるまで ナパーム弾を撃ち込む。キルゴア中佐は「朝のナパー エレノア夫人の 『 「地獄の黙示録」 ム弾の臭いは格別だ」 ( "I love the smell of napalm, in のすべてを記録した、

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らだ……。 これも杭に生 (な)った「奇妙な果実」にちがいあり ません。しかし、〝密林の魔境〟が、クルツ( 『地獄の 黙示録』ではカーツで、表記の違い)をその〝魔境の 闇〟に呑み込んでいったためで、この「奇妙な果実」 は〝密林の魔境〟の産物ともいえます。〝密林の魔 境〟でクルツの精神が崩れていった。そういう意味で は、 『闇の奥』の主役は〝密林〟で、西欧における森林 との長い戦いの末の森林観をそれにみることができま す。それは、森林観というよりも、むしろ自然観とい ってもよいかもしれませんが。コンラッドは『闇の奥』 で、〝密林の魔境〟を執拗に描いていますし、〝魔 境〟という単語も頻出します。以下に、コンラッドの 〝魔境〟とはどのようなものかみてみます。 樹の幹と大枝と葉と小枝と蔓草が繁茂し絡み合って 作りあげている巨大な植物の壁が、月光の中でじっ としている。それはまるで声なき生物が襲来したよ うに、あるいは植物の大波が高々と盛りあがり、波 頭を絶頂まで押しあげ、今まさに入り江に崩れ落ち て、われわれちっぽけな人間を一人残らず抹殺しよ

うとしているように見えた。

あの河をさかのぼるのは、世界の一番初めの時代へ 戻るのに似ていた。地上で植物が氾濫し、巨大な森 林が王として君臨していた時代のことだ。がらんと した広い河面、大いなる沈黙、入り込めそうにもな い密林。大気は熱く、ねっとりと濃く、重く、澱ん でいた。陽の輝きには歓びはなかった。物の影一つ ない河の流れは長く延びて、遠い陰鬱な暗がりの中 へと入り込んでいた。

森は仮面のように動かず──監獄の閉ざされた扉の ように重く──秘密の知識を隠し、辛抱強く何かを 待ち受けながら、沈黙でこちらを拒絶しているよう に見えた。

『闇の奥』の〝魔境〟はコンゴ河岸の密林ですが、

テムズ河の上流においても、 (space) 〝魔境〟は広がっ ていたといいます。

河の北に広がるエセックス地方の湿原を覆う靄は光 沢のある薄絹のようで、その薄絹は内陸の樹の繁っ

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CV)指令第五二五 三-号を出し、何百万人ものベトナ ム人を獲物に見立てた狩猟シーズンの開幕を宣言しま した。

『 闇の奥』 の「 奇妙な果実」 カーツの王国では、そのあたりに、生首がゴロゴロ という状況なども、「闇の奥」 の描写からきています (立 花隆同上) 。 「闇の奥」と「地獄の黙示録」の最大のち がいは、 「闇の奥」のカーツが、ただひたすら、象牙を もっと集めたいという物質的欲望にかりたてられて、 酷悪な行動を積み重ねていったのに対して、「地獄の黙 示録」のカーツは、物質的欲望はないが戦争目的をと ことん追求したい、それもより合理的に達したいとい う欲望に突き動かされてそうしたということです。カ ーツは戦争欲求の権化なのだといってもよいでしょう。 コンラッド『闇の奥』 (黒原敏行訳、光文社古典新訳 文庫)では、生首がゴロゴロという状況を次のように 書いています。 遠くからその杭を見た時、飾りに感心したと話した だろう。全体に廃墟みたいな感じなのにそこだけ目

立っているとね。それが今、急に間近に見えた時、 俺は殴りかかられたみたいに頭をうしろへ引いた よ。それから杭を一本一本よく見たら、思い違いを していたのがわかった。先っぽの丸いものは飾りじ ゃなくて、象徴のようなものだったんだ。(中略)杭 の先の首が建物のほうを向いているのでなかった ら、もっと迫力があっただろう。(中略)あれが示し ていたのは、いろいろ欲望を満たすにあたってクル ツに自制心が欠けていたこと、彼には何か欠けてい るものがあったことだけだ──欠けていたのはほ んのちょっとしたものなのだが、それがどうしても 必要になった時、彼の雄弁をもってしても手に入ら なかったんだ。この欠落を彼自身が知っていたかど うかは何とも言えない。たぶん自覚したのは──最 後の最後になってからだったろう。だが魔境は早い うちから彼に眼をつけ、不埒な進入への怖ろしい報 復を彼に対して行なったんだ。思うに魔界はクルツ 自身について本人でも知らなかったこと、この大い なる孤独と語り合うまで考えてもみたこともなか ったことを、囁いた──そしてその囁きは抗(あらが) いがたいほど魅力的なものだった。それは彼の中で 音高くこだました。なぜなら彼の芯は虚ろだったか

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れています。グリーンマンとは、オークの葉の髯(ひげ) をはやした人面像のことで、ケルトやゲルマンの樹木 信仰に由来し、もっとも立派なグリーンマンがここの 尖塔に刻まれています(W・アンダーソン『グリーン マン』河出書房新社) 。このゴシック様式の教会はキリ スト教会ですから、ケルトやゲルマンの樹木信仰を称 賛するためのものではありません。アンダーソンは、 グリーンマンは北方と南方の境界地域の都市に多く見 られ、これらの都市では魔女狩りがもっとも激しかっ たところとほぼ一致し、共通の地下水脈が存在すると 推定しています。フライブルグも、魔女狩りが峻烈を 極めた都市です。そうすると、ゴシック教会とは、古 きゲルマンの郷愁と森林信仰のために聖堂の中に森の 意匠を取り込んだというより、むしろ、キリスト教が 森林信仰を壊滅した象徴として、つまり、自然支配を 確立したシンボルとしてゴシック大聖堂が建てられた と考えられます。いま考えると「大聖堂尖塔のグリー ンマン」こそ、 「奇妙な果実」の起源なのかも知れませ ん。 コンラッドは、テムズ河の上流においても、 (space) 〝魔境〟は広がっているとすら書いています。人間が

植林し、手を入れた森林、その延長として自然が、文 明の光を浴びた、いわば〝神境〟ということになるわ

けです。美学的言葉でいえば、〝景観( landscape) 〟 です。 手つかずの自然がなぜ魔境なのか、 マーロウは、 ローマ人の植民地経営をとりあげて、ずばり核心的理 由を述べます。それは、〝効率〟にあるといいきりま す。

われわれなら必ずしもそんな心境にはならないだろ うな。われわれを救ってくれるのは効率──効率を 追求する懸命の努力だ。ローマ人は大した連中じゃ なかった。とても植民地経営者とは言えなかった。 ただ搾り取るだけ。それに尽きたんじゃないかと思 う。彼らは征服者であって、征服するには腕力があ れば足りた。腕力なんて別に自慢するほどのものじ ゃない。たまたま相手が弱いからこっちが勝つだけ のことだ。とにかく手にいれたいものを分捕(ぶんど) る。要するに強盗、要するに残虐な大殺戮。彼らは それを闇雲 (やみくも)にやった──闇と渡り合うの にふさわしいやり方さ。征服というのはほとんどの 場合、われわれとは膚の色が違い、鼻がちょっとだ け低い連中から土地を巻きあげることで、見て気持

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た高台から流れ落ちて、半透明のひだを岸辺の低地 に垂らしていた。ただ西の河上のほうに垂れ込めた 薄闇だけが、太陽が近づいてくるのに対して腹を立 てているかのように、刻一刻と陰気な暗さを増して きた。 さて、コンラッドの描く〝魔境〟は河岸の密林です が、これは河畔林です。コンゴ川の流れるコンゴ盆地 には、低湿地や泥炭地の森林が存在し、樹高は四〇メ ートル近くもあります。この熱帯林内は、直射日光が 当たらず、熱帯でもひんやりと涼しく、下草もほとん どなく、食糧も乏しく猛獣もほとんどいません。ボル ネオ島の熱帯森林のなかでは、 静寂が支配しています。 時折、オラウンターの声や、鳥の声や、夕方になると 虫の声が聞こえてきますが、宇宙の深淵から湧いてく るような音で、森林に一度共鳴して深みを増している 感じすらします。 また、 ボルネオ島の熱帯泥炭森林で、 十人抱えほどもあるフタバガキの大木に出会うと、ま さに宇宙樹とまがうほどの樹の精霊を感じます。熱帯 (雨)林は、〝魔境〟どころか、まことに幽玄の世界 です。この熱帯森林に対して、河畔林は日当たりが良 く、植物が入り乱れて繁茂しており、棘の多い蔓や灌

木も多く、ここに踏み入るにはまことに難儀です。ボ ルネオ島でも、昔は川から遡るしかなく、舟から観察 した河畔林をもって、熱帯雨林とは低木の密林が特徴 であるような記載が、 初期の頃の探検録に見られます。 コンラッドは河畔林をもって〝魔境の密林〟として描 いていますので、恐らく、河畔林の先の熱帯森林には 足を踏み入れてはいないと推察されます。また、アン ドレ・ジッドは一九二五年七月〜二六年二月にフラン ス領赤道アフリカ地方を旅行し、日記風に『コンゴ紀 行』 (河盛好蔵訳、岩波文庫)に書いていますが、ここ にもコンラッドと同じような河畔林の記述が頻繁に出 てきますが、やはり、森林の内部に足を運んだ形跡は ありません。

ライン川の東側沿いにある南ドイツ地域は、昔は、 オーク(ブナ科コナラ属、カシ)を主体とする落葉広 葉樹帯だったのですが、多くは伐採されて針葉樹林に 転換されていきます。以前にも書きましたが、オーク 信仰(ドルイド教)が強かったと考えられる、ドイツ のフライブルグに、壮麗な尖塔をもつゴシック様式の ミュンスター大聖堂があります。その内部は深い森の 世界を模し、大聖堂の尖塔には、グリーンマンが刻ま

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い美しい一冊の詩集を書き残すために…… 『原民喜詩集』はそうした作品集です。民喜は、妻 と死別した翌年、郷里の広島に疎開し、八月六日朝八 時一五分、爆心地から一・二キロメートルの幟町の生 家、兄信嗣宅にて原子爆弾に被爆します。そして、民 喜は一九五一年三月一三日の夜、東京・西荻窪と吉祥 寺の間の線路に身を横たえて亡くなりました。しかし むしろ、民喜は、被爆によって、不条理な無数の死に よって、生きながらえたともいえます。 『原民喜全詩集』の『原爆小景』に地獄絵が記録さ れます。 真夏ノ夜ノ河原ノミヅガ 真夏ノ夜ノ 河原ノミヅガ 血ニ染メラレテ ミチアフレ 声ノカギリヲ チカラノアリツタケヲ オ母サン オカアサン

断末魔ノカミツク声 ソノ声ガ コチラノ堤ヲノボラウトシテ ムカフノ岸ニ ニゲウセテユキ 焼ケタ樹木ハ 焼ケタ樹木ハ マダ マダ痙攣ノアトヲトドメ 空ヲ ヒツカカウトシテヰル アノ日 トツゼン 空ニ マヒアガツタ 竜巻ノナカノ火箭 ミドリイロノ空ニ樹ハトビチツタ ヨドホシ 街ハモエテヰタガ 河岸ノ樹モキラキラ 火ノ玉ヲカカゲテヰタ

原民喜は『夏の花』を遺書として書いたといいます ( 『原民喜戦後全小説』 、講談社文芸文庫) 。それは、な ぜか美しい散文です。

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もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲し

若松英輔は『原民全喜詩集』 (岩波文庫)の解説で次 のように書きます。 「 「遙かな旅」と題する小説で民喜 は、妻を喪った男が手記を書き続ける姿を描き出して いる。一九四四年、民喜の妻貞恵は、病のために亡く なる。彼女は文字通りの意味において民喜の伴侶だっ た。彼は、内気を通り越したような性格で、人とうま く言葉をかわすことができない。貞恵は民喜の口にな り、耳になった。彼女は民喜と世界をつなぐ窓だった。 (中略)妻亡きあと彼は、半身を奪われたように生き ねばならなかった。むしろ、書くことで彼はどうにか いのちをこの世につなぎ止めている。さらに次のよう な一節もある」 。

ヒロシマの「 奇妙な果実」

ちのいいものじゃない。その醜悪さを償えるものは、 アを思い起こします。ユートピア国とは自然を改変し 理念だけだ。背後にある理念。きれい事の建前じゃ て〝効率〟化した社会で、その周辺の〝非効率〟的未 ない。一つの理念。その理念に対する無私の信念。 開社会(デストピア)を攻撃して奴隷化し開発を進め その雨にひざまずき、頭 (こうべ)を垂れ、供物を捧 るのがユートピア国の使命(あるいは理念)であると げるような何か…… まで書いていました。 〝効率〟と〝理念〟が文明で、それに基づく〝闇〟 の開発は植民地経営として立派なものだと述べていま す。〝効率〟と〝理念〟がないのは単なる征服で、 〝闇〟から略奪するだけで大殺戮をともなうといいま す。 原生森林に対して、西欧が持つトラウマや恐怖心を 理解しないと、コンラッド『闇の奥』は理解し得ない ものです。原生森林は音楽にたとえると雑音で、人間 が制御した(植林した)森林(たとえば針葉樹)こそ 音楽(人工的に作られた平均律)と呼べるものでしょ う。そもそも西洋音楽とは、自然の音を排除したもの で、極端に言うと自然の音は雑音とみなされます。西 洋は理念として、そこまで自然を否定している文化だ というのをつくづくと知る必要があります。光と闇は 文明と未開に対置された対概念なのです。この図式か ら、われわれは、あらためてトマス・モアのユートピ

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ほとんど総ての物から 感受の合図が来る。 向きを変える毎に 追憶を吹き起す風が来る。 何気なく見逃がして過ぎた一日が やがて自分へのはっきりした贈りものに成って 蘇る。 いつも頭に浮かぶリルケの詩の一節を繰返して いた。

より、もっと遙かなところから流れて来て、遙かな ところへ流れてゆくもののようだった。その中に身 を置いておれば、何の不安も苦悩もなく、静かな宇 宙のなかに溶け去ることもできそうだ。だが、それ にしても何かかなしく心に沁みるものがあるのは どうしたわけなのだろう。 (人間の心に爽やかなも のが立ちかえってくるのだろうか。 )(中略)

いる規律自体が解体し、「静かな宇宙にのなかに溶け去 る」リルケの世界へと、魂がばらけていきます。妻の 死と原爆被爆が彼を一気にこの地点に運んでいきます。 普通なら一生をかけて、じわりと辿る一つの筋を、一 瞬で過ぎて行く感じです。『原爆以後』 のなかだけでも、 それが起きています。以下に、傷ましいですが、美し い散文のそれを辿ってみます。

「鎮魂歌」 〈更にもう一つの声が〉

「火の踵」 ……音楽爆弾。 突如、その言葉が通り過ぎると、冷やりとした一瞬 がすぎ、眼の前の雑沓はまた動きだしていた。彼の 体も二三歩動きはじめた。だが、脳裏を横切った閃 光は、遙か遠方で無限に拡大してゆくらしく、それ を想っただけでも耐られなく頭が火照る。体全体が 熱と光りのくるめきに、つん裂かれそうになった。 いけない、いけない、と彼は努めて平静を粧い、雑 沓の中を進んだ。が、爆発しそうなものは爪さきま で走り廻った。

『原爆以後』では、精神が崩れていくというよりは、 自然の中に溶け込んでいくという感じがします。そし て、音の感覚が鋭くなってくるというか、これまでと 全く異なる音世界が開けてきます。怨霊も、原民喜に 托してしゃべりだす、そんな感じがします。すでに社 会的枠組みが原民喜の中で解体し、自分自身を縛って

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「夏の花」より。 私は厠にいたため一命を拾った。八月六日の朝、私 は八時頃床を離れた。前の晩二回も空襲警報が出、 何事のなかったので、夜明け前には服を全部脱いで、 久振りに寝巻き着替えて睡った。其れで、起き出し た時もパンツ一つであった。妹はこの姿をみると、 朝寝したことをぷつぷつ難じていたが、私は黙って 便所へ這い入った。 それから何秒後のことかははっきりしないが、 突然、 私の頭上に一撃が加えられ、目の前に暗闇がすべり 、わ 、あ 、と喚き、頭に手をやって 墜ちた。私は思わずう 立ち上がった。嵐のようなものの墜落する音のほか は真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けよう 、わ 、あ 、 とすると、縁側があった。その時まで、私はう という自分の声を、ざあーというもの音の中にはっ きり耳にきき、目が見えないので悶えていた。しか し、縁側に出ると、間もなく薄ら明かりの中に破壊 された家屋が浮び出し、気持ちもはっきりして来た。 「夢と人生」より。 夢のことを書く。お前と死別れて間もなく、僕はこ

んな約束をお前にした。その時から僕は何も書いて いない夢に関するノートを持ち歩いているのだ。僕 は羅災後、あの寒村のあばら屋の二階で石油箱を机 にして、一度そのノートに書きかけたことがある。 が、原子爆弾の悲劇を直接この眼で見てきた僕にと っては、あの奇怪な屍体の群が僕の中で揺れ動き、 どうしても、すっきりした気持ちになれなかった。 そうだ、僕はあの無数の死を目撃しながら、絶えず 心に叫びつづけていたのだ。これらは「死」ではな い、このように慌しい無造作な死が「死」と云える だろうか、と。それに較べれば、お前の死はもっと 重々しく、一つの纏まりのある世界として、とにか く、静かな屋根の下でゆっくり営まれたのだ。僕は 今でもお前があの土地の静かな屋根の下で、 「死」 を見詰めながら憩っているのではないかとおもえ る。あそこでは時間はもう永久に停止したままゆっ くり流れている……。

「美しき死の岸に」より。 それは沖から吹きよせてくる季節の信号なのだろう か。夏から秋へ移るひそかな兆なら彼は毎年見て知 っていた。だが、さきほどの風は、まるでこの地球

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僕は僕に飛びついても云う。 ……僕にはある。 僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがあるの だ。僕にはある。僕にはある。僕には一つの嘆きが ある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆き がある。 一つの嘆きは無数の嘆きと結びつく。無数の嘆きは 一つの嘆きと鳴りひびく。僕は僕に鳴りひびく。鳴 りひびく。鳴りひびく。 嘆きは僕と結びつく。僕は結びつく。僕は無数と結 びつく。鳴りひびく。無数の嘆きは鳴りひびく。鳴 りひびく。一つの嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。 一つの嘆きは無数のように。結びつく、一つの嘆き は無数のように。一つのように、無数のように。鳴 りひびく。結びつく。嘆きは嘆きに鳴りひびく。嘆 きのかなた、嘆きのかなた、嘆きのかなたまで、鳴 りひびき、結びつき、一つのように、無数のように ……。 一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕を つらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕を つらぬくものは僕をつらぬけ。嘆きよ、嘆きよ、僕 をつらぬけ。……戻ってきた、戻ってきた、僕の歌

ごえが僕にまた戻ってきた。これは僕の錯乱だろう か。これは僕の無限回転だろうか。だが、戻って来 るようだ、戻ってくるようだ。何かが今しきりに戻 ってくるようだ。僕のなかに僕のすべてが……。僕 はだんだん爽やかに人心地がついてくるようだ。僕 が生活している場がどうやらわかってくるようだ。 僕は群衆のなかをさまよい歩いてばかりいるので はないようだ。僕は頭のなかをうろつき歩いてばか りいるのでもないようだ。久しい以前から、僕は踏 みはずした、ふらふらの宇宙にばかりいるのでもな いようだ。久しい以前から、既に久しい以前から、 鎮魂歌を書こうと思っているようなのだ。鎮魂歌を、 鎮魂歌を、僕のなかに戻ってくる鎮魂歌を……。

原民喜は『原爆以後』の「火の子供」 〈一九四九年 神 田〉で、ジャズのギターの音を聞きます。なにか、ジ ャズの原点に出会ったような、不思議な文章です。

雑沓の人混のなかを歩いていると、あちこちから洩 れてくる雑音のなかに、奇妙に哀しい調子をもった ジャズのギターの音がある。ふと気がつくと、僕の すぐ眼の前を老人が一人妙に哀しい調子で歩いて

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……わたしはあのとき殺されかかったのだが、ふと 奇跡的に助かって、ふとリズムを発見したような気 がした。リズムはわたしのなかから湧きだすと、わ たしの外にあるものがすべてリズムに化してゆく ので、わたしは一秒ごとに熱狂しながら、一秒ごと に冷却してゆくような装置になった。わたしは地上 に落ちていたヴァイオリンを拾いあげると、それを 弾きながら歩いてみたが、わたしの霊感は緊張しな がら遅緩し、痙攣しながら流動し、どこへどう伸び てゆくのかわからなくなる。わたしは詩のことを考 えてみる。わたしにとって詩は、 (詩はわななく指 で、みだれ、みだれ、細かい文字の、こころのうず き)だが、わたしにとって詩は、 (詩は情緒のなか へ崩れ墜ちることではない、きびしい稜角をよじの ぼろうとする意志だ)わたしは人波のなかをはてし なくはてしなくさまよっているようだ。わたしが発 見したとおもったのは衝動だったのかしら、わたし をさまよわせているのは痙攣なのだろうか。まだわ たしは原始時代の無数の痕跡のなかで迷い歩いて いるようだった。

〈更にもう一つの声が〉 声はつぎつぎに僕に話しかける。雑沓のなかから、 群衆のなかから、頭のなかから、僕のなかから。ど の声もどの声も僕のまわりを歩きまわる。どの声も どの声も救いはないのか、救いはないのかと繰り返 している。その声は低くゆるく群盲のように僕を押 してくる。押してくる。押してくる。そうだ、僕は 何年間押されとおしているのか。僕は僕をもっとは っきりたしかめたい。しかし、僕はもう僕を何度も 何度もたしかめたはずだ。今の今、僕のなかには何 があるのか。救いか? 救いはないのか救いはない のかと僕は僕に回転しているのか。回転して押され ているのか。それが僕の救いか。違う。絶対に違う。 僕は僕にきっぱりと今云う。僕は僕に飛びついても 云う。 ……救いはない。 僕は突離された人間だ。 還るところを失った人間だ。 突離された人間に救いはない。還るところを失った 人間に救いはない。 では、僕はこれで全部終わったのか。僕のなかには もう何もないのか。僕は回転しなくてもいいのか。 僕は存在しなくてもいいのか。違う。それも違う。

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デイヴィッド・フィンケルは『帰還兵はなぜ自殺す るのか』 (古屋美登里、亜紀書房)で、五人の兵士とそ の家族を追ったノンフイクションを書いていますが、 「彼らは爆弾の破裂による後遺症と、敵兵を殺したこ とによる精神的打撃によって自尊心を失い、 悪夢を見、 怒りを抑えきれず、眠れず、薬物やアルコールに依存 し、鬱病を発症し、自傷行為に走り、ついには自殺を 考えるようになる」と述べています。 ひとつの戦争から別の戦争へと、二百万人のアメリ カ人がイラクとアフガニスタンの戦争に派遣され た。そして帰還したいま、その大半の者は、自分た ちは精神的にも肉体的にも健康だと述べる。彼らは 前へと進む。彼らの戦争は遠ざかっていく。戦争体 験などものともしない者もいる。しかしその一方で、 戦争から逃れられない者もいる。調査によれば、二 〇〇万人の帰還兵のうち二〇パーセントから三〇 パーセントにあたる人々が、心的外傷後ストレス障 害(PTSD)──ある種の恐怖を味わうことで誘 発される精神的な障害──や、外傷性脳損傷(TB I)──外部から強烈な衝撃を与えられた脳が頭蓋 の内側とぶつかり、心理的な障害を引き起こす──

を負っている。気鬱、不安、悪夢、記憶障害、人格 変化、自殺願望。どの戦争にも必ず「戦争の後」が あり、イラクとアフガニスタンの戦争にも戦争の後 がある。それが生み出したのは、精神的な障害を負 った五〇万の元兵士だった。

立花隆(同上)は、 『地獄の黙示録』の撮影で、麻薬 づけの戦争の実感を出すために、 撮影現場でも麻薬 (マ リファナ、スピードなど)が平気で用いられていたこ とを、撮影に参加した役者たちが、後にあけすけにし ゃべっていると書いています。このようにアメリカ兵 を麻薬づけにしてしまうことは、ベトコン側の意図的 戦術であり、実際それは見事に成功したというわけで す。アメリカが救いがたい麻薬汚染国家になってしま い、いまでもそこから抜け出せないのは、ベトナム戦 争がアメリカ社会に残した最も深刻な後遺症です。ま た、LSDを飲むと、音と光の感覚入力が全く狂って しまって、現実がサイケデリックな幻覚と化してしま うそうです。彼( 『地獄の黙示録』でのランス)には、 戦場がディズニーランドのような光りのショーとしか 見えない。「ディズニーランドより美しいところがここ にある」と感じてしまうのです。

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いるのだ。老人の肩から縄でぶらさげている小さな 荷物の包みは、ギターのおとにつれてチンチンチン と小刻みに揺れ動いている。視ると、老人の足はび っこなのだ。彼は自分ではもうどんなに哀しい後姿 を持っているかさえ気づかないのだろう。ジャズの 音に踊らされて地上を飛び歩くような奇妙な哀し い切ない恰好は無数の泣号のなかから湧いて出た 一つの幻かもしれない。何処か涯しらぬところへ押 流されてゆくように、何処か涯しらぬところへ人を 誘うように、その姿は次第に人混みのなかに紛れて ゆく。 キャロライン・アレキサンダーのレポート「爆風の (ナショナル・ジオグラ 衝撃 見えない傷と闘う兵士」 フィック日本語版 二〇一五年二月号)は、かなり衝 撃的な記事です。イランやアフガニスタンに従軍した 数十万もの米軍兵士が、爆風の衝撃で脳を損傷し、認 知能力や心の障害に苦悩しているという記事です。爆 風により引き起こされる脳損傷の大きな要因は、頭蓋 内部の圧力の上昇と脳の振動であり、爆風による高圧 の波が頭蓋に当たった瞬間に、脳がその影響を受ける ことが分かっています。脳内の圧力は爆発から数ミリ

秒後には正常に戻りますが、脳の振動はその後何百ミ リ秒も続くことがあるといいます。メリーランド州に ある米国防総省の中核的な研究機関、国立イントレピ

)では、 ッド・センター・オブ・エクセレンス( NICoE 外傷性脳損傷や心的外傷後ストレス障害(PTSD) の治療に、芸術療法として、仮面を制作する課題を兵 士に与え、隠れた感情を表に出すことで症状の改善を 目指しています。 多くの仮面に共通して見られるのは、 死(頭蓋骨など)や、自分の感情を表現できないこと (縫い合わされた口、 猿ぐつわ、 固く閉ざした唇など) 、 肉体的な痛み(顔の傷) 、愛国心(星条旗)といった主 題です。この仮面の写真をみて、驚くのは、内観的心 象を引き出すのでもなければ、外観的模倣でもなく、 何かが崩れたとしかいいようがないものです。心は心 象 (ボイド空間) により形成されていると仮定すると、 爆風で心象(ボイド空間)が歪んだとしかいいようが ない。衝撃的なのは、これらの仮面を、現代芸術とし て、 メトロポリタン美術館、 ニューヨーク近代美術館、 グッゲンハイム美術館、ホイットニー美術館などに展 示しても全く遜色がないと、私には思えることです。 戦争により、その後遺症(爆風とヤク)としてアメリ の現代芸術は、大衆化したのかもしれません。

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ックでした。しかも今、なぜ、 freedom を絶叫しない のキャッチフレーズ といけないのか。明るい freedom がタイムズスクエア(ヤンキースピリッツの巣)の闇 を感じさせてくれました。 それから、一抹の寂しさとしてレイ・チャールズか らはすっかりビリー・ホリデイが抜け落ちていること です。つまり、声が楽器化しているのではないかと思 われます。ライブではミキシングもあまりないせいで しょうか、楽器はこれまであくまで歌のバックミュー ジックだったはずですが、 これがフロントに出てきて、 その大音響に合わせるように、声自体が楽器化し、デ ジタル化して対応しているとしかいいようがありませ ん。声が電子テクノロジーにのるほど精密化してきた ということでしょうか。ジャズのノイズが完全に消滅 したということでしょうか。

「 雨の木」 の首吊り男 武満徹は、音楽家ですが、文才もあるというか、大 変な思索家でもあります。そのエッセイの中には散文 詩のような美しい文章で溢れていて、特に、樹にたい する思い入れには素晴らしいものがあります(小沼純

一編『武満徹 エッセイ選──言葉の海へ』ちくま学 芸文庫) 。

あらゆる存在をつらぬいているひとつの空間、リル

)と呼んだ不可 ケが世界内部空間( Weltinnerraum 視の空間があり、樹は、その存在を人間 (ひと)に予 感させる唯一のものであると言ってよいように思 う。樹は動かない。ただその不動性を、仏陀のよう に、自分の腕や掌、指だけで表わす。

リルケやルドン。エマーソンやソロー。世阿弥や芭 蕉。私たちは地上の樹と同数の名を挙げて、人間や 樹との相互の歓ばしい関係 (かかわり)を証すことが できた。或る時代までは人間と樹との親和力は失わ れていず、樹は、人間の内面に育ち、画家や詩人は また樹の内部に立って、充分な地下水を汲みあげる ことができた。人間の孤独は荒地に立つ一本の樹に 照応しえた。

ぼくたちの内部を鳥たちが飛び交う。 ぼくが伸びようと意志して外部を見る。 すると、ぼくの内部には一本の樹が生えている。

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ニューヨークで、現代美術を展示する美術館をめぐ ると、このような、ヤクのもとで作成したと思われる 作品で溢れかえっています。ポラックの絵が絶大な人 気のようです(人だかりが絶えないので)が、これも ヤクによる作品と私は疑っていますが、美術館教室で この絵を小学生になにやら教えているのには、ゾッと させるものがあります。なぜかというと、アメリカの 芸術というのは、自然の完全否定の上に成り立ってい る、技術崇拝芸術(そもそも芸術とよべるのか?)だ からです。 原民喜は、原爆被爆で、 「目の前に暗闇がすべり墜ち た」 「わたしはあのとき殺されかかったのだが、ふと奇 跡的に助かって、ふとリズムを発見したような気がし た」と述べています。むしろ、束縛が外れ、より根源 的な心象にもどっていったのではないでしょうか。そ れは、自然によって形成されてきた心象です。人工的 に作られた「平均律」の世界だと、一部毀れただけで、 全てが毀れてしまいます(例えば、ドの音が崩れただ けで平均律全体が成り立たなくなる) 。あるいは、 「平 均律」が伸び縮みするのかも知れません。たぶん、外 観 (外部) 的規範で作られた全てのものは一部損傷で、

全面崩壊してしまうのではないかと思います。特に、 実態のない高次概念、理性とか、自由だとか、平等と か、博愛だとか、外部から規定された概念は、諸々の 単語(事象)の積み重ねだとすると、一か所崩れると 全面崩壊する可能性があります。

タイムズスクエアのど真ん中にあるB・B・キング・ ブルース・クラブで、レイ・チャールズ・ロビンソン のライブを聴きました。 彼は盲目の黒人ピアニストで、 「ソウルの神様」と呼ばれています。R&B、ジャズ、 ゴスペル、黒人霊歌を歌い、自らのルーツを遡りなが ら自らの魂を歌うという「ソウルミュージック」の形 をつくりあげました。ライブは大変素晴らしかったの ですが、そして、彼には他意はないと思うのですが、

エ ン デ ィン グ に freedomを絶叫して いました。 はもちろん良い言葉にちがいありませんが、 freedom のために、いったい アメリカ合衆国の掲げる freedom これまで何百万人が虐殺されたのでしょうか。ちょう どこの原稿を書き始めていたときなので、アメリカ合

を絶叫するとはショ freedom

衆国の freedom の裏には blood がこびりついている嫌 な感じがしていました。レイ・チャールズが、エンデ ィングで政治色の強い

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という感情 grief

れはその当時四十五だった私に近い年齢の時、アル コール中毒のもたらした事故で死んだ作家でした。 日本でも訳されている小説として『活火山の下で (アンダー・ザ・ボルケイノ) 』という長編があり ましたが、この作品でかれは、深く傷ついているイ ンテリの男、メキシコにいる外交官と、その恋人で、 自分の愛する男が傷つきやすい人間であるために、 やはり傷つかざるをえない女性を書く。男性はそれ こそ野犬が撲り殺されるように滅び、女性は悲嘆の うちに沈んでいくという小説でした。それはもとも と私がメキシコで暮らしたことがきっかけでめぐ りあった小説ですが、自分自身アルコール依存症じ ゃないかと感じていたこともあり、感情的にも私は ラウリーがとても好きになった。とくに人間として の存在の根本に深い悲しみをもって生きるという こと、ラウリーの英語をでいえば の重さを手渡された。

「雨の木(レイン・ツリー) 」の連作は、メキシコが 契機となったのはたしかでしょう。そして、 『 「雨の木」 の首吊り男』はメキシコが舞台です。

パーティのなかばでつむぎ糸絵画(ヤーン・ペイン テイング)を贈られる。(中略)この中央の樹木は、 天と地を媒介する宇宙樹なのであろう。僕はそれに 強くひきつけられる。なぜなら僕もまた、 「雨の木 (レイン・ツリー) 」を呼んでいる宇宙樹を思い描 いてきたからだ。 「雨の木(レイン・ツリー) 」は僕 にとって様ざまな役割をもつものだが、ついには僕 がどうにもいきつづけがたく考える時、その大きい 樹木の根方で首を吊り、宇宙のなかに原子として還 元される。そのための樹木でもある。この樹木の葉 は、指の腹ほどの大きさで、なかが窪んでおり、そ こに雨滴をためこむから、いったん雨があがったの ちも、こまかな水のしたたりをつづけている。その 葉の茂みの下は、穏やかな心で首を吊るのにふさわ しい環境であるまいか? それに加えて、このつむ ぎ糸絵画(ヤーン・ペインテイング)のように生涯 の師匠(パトロン)が立ち合ってくれるとしたら、 当の自分は行きづまって死を選ぶしかないのであ るにしても、やはり幸福なことであろう……

大江健三郎のもらったフィチヨル・インディアンの つむぎ糸絵画(ヤーン・ペインテイング)は、 「絵のな

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リルケが後期の詩集でうたったような、外と内との 合一。対象に肉迫することで獲得される内面の充実 は、失われようとしている。人間と謂う、 「自己中 心的で、異常な存在」が、いつか知らぬ間 (ま)に身 に付いてしまった、自然に対して優位であろうとす る意識が、内面の自壊作用を招き、私たちの内部で、 樹は、いま立ち枯れに瀕している。 リルケの「世界内部空間」や「外と内との合一」を、 原民喜も強くとらえていました。 『原民喜詩集』と『夏 の花』はリルケの世界です。原民喜は、最後の最後に、 リルケの詩句の世界へと自ら溶け込でいったのです。 大江健三郎は短編『 「雨の木(レイン・ツリー) 」を 聴く女たち』 (新潮文庫)を書きますが、それが短編連 作に繋がって行きます。そのいきさつを自ら語ってい 、聞き手・構成 ます( 『大江健三郎 作家自身を語る』 尾崎真理子、新潮社) 。 私は二十代半ばから短編小説の書き手として仕事を 始めました。そのうち長編小説に移行して、ずっと

長編を書き続けていました。四十代半ばで『同時代 ゲーム』を発表した。それでひとつ総合したけれど、 読者に本当に受けとめられたか、不安が残りました。 それもあって、もう一度短編に戻ってみたいと思っ た。しかし長編小説からひとつひとつ独立した短編 を発表していく生活に戻るのは、こちらにも漠然と した不安がありました。長編だと一年か二年、その 作品のスタイルのなかで仕事をするんだから、ある 種の安定感はあります。しかし、ともかくひとつの 短編を書きました。そうすると、自然に次の短編に つながっていった。そこで短編連作にしよう、とい うことになった。 「雨の木(レイン・ツリー) 」連作 ではそうでした。そのうち、自分がいままで書かな かった性格の人物を書いていることに気がついた んです。ヴァルネラブルというか、傷つきやすいタ イプの、破滅していく男、高安カッチャンが中心に いるんですが、その男性を励ます、そしてその男性 の犠牲になりさえする女性を併せて書くことにな った。そのような女性像がやはり自然に現われてき たように思います。 直接のきっかけとして、そのころイギリスの作家マ ルカム・ラウリーを読んでいたこともあります。か

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思想は生 (な)らないでしょう。 「雨の木」は自然と人 を結びつけているのですから。 「雨の木」が「奇妙な涙」 を流しているような感じがしてきます。 最後に、原民喜の絶筆ではないですが、遺書にそえ られていた詩句「碑銘」を、 「奇妙な果実」に散った人々 に鎮魂歌としてささげます。 「遙かなる旅」で民喜は、 「花」に亡き妻の幻を見ると記しています。彼の生涯 は、恨みではなく、 「一輪の花の幻」を見ることに収斂 していきました。

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遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻 『魔のひととき』の「碑銘」より

連載 エッセイ


かばまであざやかな青のつむぎ糸で埋められている。 それを背景にやはりあざやかな赤でふちどりした、単 純なかたちの人物がふたりむかいあっている。片方は まっすぐ背をのばしているが老年の師匠(パトロン) のようであり、片方の若い弟子のような人物は、極端 に首をうなだれている。両者の間を大きな樹木が区切 り、かれらの頭上には太陽と月があって、それらもみ な幻覚作用を介して描かれるようなおそろしいあざや かさのオレンジ、紫、グリーン、白である」です。 『 「雨の木」の首吊り男』の男は、大江健三郎自身で とい す。作家マルカム・ラウリーを自分に重ね、 grief う感情の重さによって、 「雨の木」 (宇宙樹)を通して 天と地につながる感覚を注入された男です。

いろいろな「奇妙な果実」をみてきましたが、 「奇妙 な果実」を生みだすメカニズムには、怖ろしいほどの 共通要因が潜んでいることに気がつきます。それは、 〝効率〟です。ほぼ同義語で〝機能〟といってもよい かも知れません。これらは機械文明の最も核心的な思 想です。理性や悟性やもろもろの理念や思想を凌駕し ています。機械文明は〝未開や自然の否定〟を定石と

します。コンラッドが示した未開の否定こそが、暴力・ ジェノサイドへの信仰といった「闇の奥」へと誘 (いざ な)っていくものです。効率とは文明で、非効率とは 未開という法則が固定され、未開地に対する異常な恐 怖心をコンラッドの『闇の奥』にみてとれます。 『 「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』から深 い感銘を受けた武満徹は『雨の木(レイン・ツリー) 』 『雨の木(レイン・ツリー)素描』という曲を作りま した。ロス・バニョスのIRRI研究所から山手にあ るIRRIゲストハウスに通じる道に、一キロメート ルほどの立派な「雨の木」の並木があります。さらに、 その道を進み、山のほうに登っていくと、奇妙な果実 をつけたマンゴーの木が生えているはずです。夕方、 研究所から帰るとき、決まって「雨の木」の並木あた りで夕立が来ます。傘はあるのですが、 「雨の木」の下 でしばらく、雨宿りをします。ここの「雨の木」は、 幹がごつごつしていて、あるいは激戦地であったこと から銃弾を浴びたせいかもしれません。この夕立の豪 雨の中、 「雨の木」並木で、ボーッとするのもいいもの

ですが、武満徹の『雨の木(レイン・ツリー) 』 ( Rain 武満徹:ピアノ作品集 )を聴く Noriko Ogawa Tree のもいいものです。 「雨の木」には、 「奇妙な果実」の

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それぞれの森から生活に必要な様々な 資源を得ることが可能になっているの です。それは村の家族と寝食をともに し、たくさんの話をし、一緒に畑仕事 をしながら見えてきたもので、S村で のフィールドワークは私の研究には欠 かせません。

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子を思い出さないわけにはいきません。 そんな想いを知ってか知らずか、村の お母さんたちは「子供を置いてきて寂 しくないの」と尋ねてきます。 「もちろ ん寂しい」と答えながら、子供を置い て海外に来るなんて冷たい薄情な母親 と思われているのだろうな、と後ろめ

図 2 森の中で赤く色づくコーヒーの実.

でも自分自身が子供を持った後で、 村での滞在が気持ちの面で別物になっ ていることを思い知らされました。村 では家族みんなの温かな視線に包まれ ながら子どもたちが元気に走り回り、 のびのびと育っています。そんな姿か ら、寂しい思いをしているだろう我が

図1 村でお世話になっている夫妻と筆者.


忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク⑱

まります──。 多くの子育て中の女性フィールドワ ーカーにとって、フィールドに出るこ とは容易ではないでしょう。家族を日 本において、もしくは家族を連れて海

母がパナマでフィールドワーク!

ふじさわ なつほ

藤澤奈都穂 東京大学農学生命科学研究科博士課程 (専門は熱帯農業)

夫の胸に抱かれながらも必死でこち らに両腕を伸ばし泣きじゃくる一歳の 我が子に手を振りながら、出国審査に 向かう私。 「あぁ、人生の幸せとは何な のだろう」と繰り返し考える日々が始

外に長期滞在というのは、多くの家庭 にとっては困難なはずです。家族の全 面的な協力の下そのような「家庭面」 の障壁を乗り越えフィールドに行くこ とができている私はとてもラッキーで す。けれど、やはり幼い子供をおいて 出かけることは想像以上に辛いことで した。 フィールドワークの行先はパナマの S村。私はこれまで「人々が森を利用 しながらも維持していく方法を模索す ること」 を目的とし、 パナマで森の樹々 を日よけとして利用しながらコーヒー を栽培する「日陰農法」の調査を行っ てきました。その中で村の人々によっ て昔から行われてきた焼畑農業とコー ヒーを栽培する森は互いに良い影響を 与え合いながら村の生活を支えてきた 様子がわかってきました。焼畑にとっ てもコーヒーにとっても「森」は必要 です。それぞれの農法により村内には 異なった性質の森が維持され、人々は

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単身で町に出稼ぎに出ることも多いの です。 フリアナおばあちゃんの家は、そん な出稼ぎのお母さん三人とその子ども たちの温かな受け皿です。 二人の娘と、 村に住む息子の奥さんの出稼ぎを支え ているのです。長女のマリアは、娘を 治安の悪いパナマシティの学校ではな く落ち着いた環境の村の中学校に通わ せるため、フリアナおばあちゃんに預 けています。月に一度、村に戻ったマ リアは、ふっくらとした腕に娘をギュ ッと抱きしめて、 「寂しいけど、娘が高 校生になったらシティに呼び寄せる の」と話していました。トマサは発達 障害と診断された子供にかかる検診費 等を稼ぐために出稼ぎに出ました。母 親がまだまだ恋しい幼い息子のために、 毎週末たくさんのおもちゃやお菓子を 持って帰っていました。小学校に上が る年に、発達障害は認められないとい う診断を受けたため、すぐに村に戻っ て今は両親の家事の手伝いをしながら 暮らしています。奥さんが出稼ぎに出 ているエディルベルトさんは農業にも 熱心で、毎日三人の子どもたちの世話 をしながら畑にも出かけます。お母さ んがいなくなるたびに泣き出し、母か らの電話を毎日楽しみに待っていた次 男のロニーも妹ができ少し強くなりま した。 毎日学校が終わると子どもたちはお ばあちゃんの家に集まり一緒に遊びま す。フリアナおばあちゃんとアレハン ドロおじいちゃんはいつも子どもたち に甘いコーヒーを淹れ、おやつや夕飯 を作り、時にお使いを頼み、出稼ぎに 出ていかなければならない親の代わり になって、安心感に包まれた日々の生 活を作っているのです。 クリスマス休暇になると村には人が あふれます。出稼ぎや、都市で就職・ 就学した人々が一斉に帰省するからで す。 村はどんな生活スタイルの人々も、

また都会の生活になじめずに帰ってく る人々も受け入れ、幸せを与える懐の 深さを持っていると感じます。状況は それぞれだけど、互いに深い愛情を抱 きながらも離れ離れになって頑張って いる村の親子の姿は大切なことを私に 教えてくれた気がします。それは、自 分のフィールドワーク人生に後ろめた さを感じるのではなく、この状況の中 で自分たちらしい「親子」としての歩 み方や愛情のつなぎ方を精いっぱい作 っていくこと、そして親や兄弟、近所 や友達、 そういった身近な人々と共に、 子供がさみしさを紛らわしながら過ご せるような「私も子供も安心して帰る ことができる場所」を作っていくこと が大事なのだ、ということでした。子 育てと研究の両立を支援する「制度」 や研究者としての「覚悟」とはまた別 の研究の環境づくりの一つとして。

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たさも感じていました。そんななか、 村の中に子供と離れて生活することを 選ばざるをえないお母さんたちの姿が あることに気づいたのです。 そこから、 子育てフィールドワークのヒントも見 えてきました。 村では近年、 若い世代が高学歴化し、

農業を幼いころから手伝うことも少な くなったといいます。村の中学卒業後 は、村外の高校・大学に進学し、都市 に出稼ぎに行くのが一般的になってい ます。また急激な食料価格の上昇と生 活の変化から現金の必要性が高まり、 家族の一員が出稼ぎに行くことも珍し

図 3 トウモロコシを植えた斜面の焼畑と、そこから望む村.たくさんの 家々は木の下に隠れている.

くありません。その後、結婚や出産を 機に村に戻ってくるケースも多いので すが、村でも薬や食料品等の出費は避 けられません。特に若いシングルマザ ーである場合は、親世代も娘と孫を十 分養えるほどの余裕がないこともあり、 お母さんは幼い子供を祖父母に預け、

図 4 フリアナおばあちゃんと家族.

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「ともだち」

谷川俊太郎・文 和田誠・絵(玉

(

川大学出版部)一二〇〇円 税抜

)

(

)

﹁ ともだちって﹂みんながいっちゃ

ったあとでもまっていてくれるひ

と。すきなものちがっても、 ﹁ ともだ

ちはともだち﹂ 。

ページにひとことずつ。でも、友

達ってすばらしい、と⼼にひびいて

くる本。後半、 ﹁あったことがなくて

も﹂ 、と写真と共に続く⾔葉は、深く

少し重い。⼤事だけど最近こういう

平松 あい)

内容の本は少ないと思う。ロングセ

文・構成

ラー。

(こどもサステナ

1ねんせいの まえに・・・ こんなえほん

「1ねん1くみの1にち」 川島敏生・著(アリス館)一六〇〇円 税抜 登 校↓ 朝 の 会↓ 国 語↓ ⽣ 活↓ 休 み 時 間↓ 算 数 ↓体育↓給⾷・・・↓下校までの教室の様⼦を、 写真で⾒せてくれる本。⼦どもたちの吹き出しの コメントが個性的で⾃由で、思わず笑ってしまい ます。想像しながら⼊学を楽しみに待てそう。

0歳からの こども サステナ にまなぶ

2016 春の号


ライフステージ

大人になると、あまり明確な区切りというものが

ないが、個人の変化としては、就職、結婚、出産、 ・ ・ ・

などがあるだろうか。ライフステ

ージの区分は様々あるが、厚生労働省では、幼年期

子育て、退職

と思っていたら、今や夏がランドセル販売の旬ら

ラ ンドセルは一年生になる直前に 買うものだ しい。完全に出遅れた感があったが、わが息子も

~ 歳 、)青年期 (15 ~ 24 歳 、) (0 歳 4 、)少年期 ~ (5 14 ~ 44 歳 、)中年期 (45 ~ 64 歳 、)高年期 (65 壮年期 (25

とうとう幼児を卒業(卒園、か)。早いものだ。

い。子どもが身近にいなければあまりぴんとこな

生」と呼ぶ。専門学校生は、「生徒」となるらし

は「児童」、中学校・高校では「生徒」、大学で「学

教育に関わって改めて知ったことだが、小学校で

ど も に合わ せて 気持ち を 新 たに 前向 き に いき た い

を終えれば新たなスタートということで、ここは子

を卒業したらもう壮年なのか

なってきている。自分は壮年か。というか、大学院

歳~ と)出ていた。近年、高齢者という言い方はマ イナスイメージがつきまとうため、あまり使わなく

自分が子どもの頃は全く気にしておらず、学校

いのではないだろうか。

・ ・ ・

ものだ。しかし、どうも年を経るにつれ一年が速い。

複雑な気分。一つ

また、 「初等教育」は小学校、 「中等教育」は中

一年の計は元旦にアリといったが、一ヶ月ごとに一

ちなみに最近ランドセルは、海外ではオシャレで

学校・高校、 「高等教育」は大学での教育を指す。 あり、昔、受験を見越して高校の授業についても

機能的なバッグとして大人にも人気のようだ。

年の始まりのように初心に帰る必要があるかも。

こんなに熱心に取り上げるのか…と思ったが、大

大学で 高等教育に関わる会議だのセミナーだの

学のカリキュラムのことだった。完全な勘違い。

・ ・ ・

そこまでは初心に帰らなくてもいいな。


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