サステナ第41号

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司会(河本英夫) それでは定刻にな りましたので始めさせていただきます。 私は東洋大学において国際哲学研究セ ンターのセンター長を務めさせていた だいておりますが、国際哲学研究セン ターの一部門としてエコ・フィロソフ ィ研究グループがあり、今日のこのシ ンポジウムは一般社団法人サステイナ ビリティ・サイエンス・コンソーシア ムとエコ・フィロソフィ研究グループ との共催であります。 文科省には私立大学戦略的研究基盤 形成支援事業というのがあり、東洋大 学のエコ・フィロソフィ研究は平成二 三年度に「エコ・フィロソフィの確立 と教育の研究」として選ばれ、五年間 にわたって支援をいただいてきました。 今年はその事業には各大学から一つし か応募できないということになり、大 学としては理系の企画を優先して進め るというのがごく普通のことで、哲学 がどんなに立派なことをしていても後 回しになってしまうというのが実情で す。国際哲学研究センターとしてはこ れから先いろいろな工夫が必要である と考えているところです。本日は本学 の松尾友矩常務にお越しいただいてい

■開会挨拶

まつお とものり

松尾友矩 東洋大学常務理事

本日のこの会は、一般社団法人サス テイナビリティ・サイエンス・コンソ ーシアムと東洋大学国際哲学研究セン ターの主催で開かれ、昨日はやはり同 じ主題で研究集会が開催されました。 東洋大学としましては、本学において 研究集会およびシンポジウムを開いて いただきましたことに感謝申し上げま す。

ますので、エコ・フィロソフィが真摯 に取り組んでいる様子を見ていただけ たらと思っています。 それでは、最初に松尾先生よりご挨 拶をいただきます。

東京大学ではサステイナビリティ学 連携研究機構において一〇年以上にわ たってサステイナビリティ・サイエン スという新しい超学的な学術の構築を 目指す活動を続けて、教育のレベルで も実践を進めておられることに敬意を 表するところです。そのなかに東洋大 学も加えていただいて、どのような分 野で参加するのがいいのかと議論した

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サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム公開シンポジウム

里山の思想

●主催:一般社団法人サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC) 東洋大学国際哲学研究センター( 「エコ・フィロソフィ」学際研究イニシアテ ィブ) ●日時:2016 年 6 月 4 日(土)13:00~17:00 ●会場:東洋大学 125 記念ホール 2


■司会者挨拶

かわもと ひでお

河本英夫 東洋大学文学部教授 東洋大学国際哲学研究センター長

松尾先生、どうもありがとうござい ました。次の基調講演の前に私から話 をするようにということで一〇分間ほ ど取ってありますので、少しだけ申し 上げたいと思います。 東洋大学が「エコ・フィロソフィ」 を提唱してこれで一〇年を超えました。 しかし、正直なところ、エコ関係の本 を作っても売れません。東洋大学では 四キャンパスを結んでテレビ授業でエ コ・フィロソフィの講義をしています が、相当に工夫しないと暗い授業にな っています。さらに、エコ・フィロソ フィを今後展開していく明確な見通し

が実はありません。売れない、暗い、 見通しがないという三重苦です。それ でどうやっていったらいいのか。 しかし、リスクは裏返せばチャンス だとよくいわれます。停滞しているの は、突破口がそのなかのどこかにある ということの示唆でもあります。 いくつか考えてみます。エコ・フィ ロソフィ、あるいはエコ関係の科学に おいては、基礎的な法則となるものが はっきりしていません。もちろん熱力 学の第二法則のようなものは効いてく るのですが、ニュートン力学のように 基礎的な法則があってその上に積み上

げていくというような形にはたぶんな りません。一方で問題は同心円的に領 域がどんどん広がっていきます。基礎 的な法則がはっきりしなくて問題が拡 大していくという状況のときに何が重 要になるかというと、 「展開可能性」で あろうと思います。 ある事例に対して一つのプログラム を作ったときに、そこからどれだけ展 開可能性が出てくるのか。ある国であ る問題の取り組み、次に別の国に行っ てデータを取ったときに、最初の国で 作ったプログラムと同じようにして展 開できるのかどうか。問題が同心円的 に拡大していくときに、このやり方な ら展開可能性があるというものを作っ ていけるのかということが問題解決の 糸口になるのではないかというイメー ジがあります。 第二に考慮しなければならないのは、 知識と行為が分かれないままに進めら れているということです。エコロジー

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ときに、 「諸学の基礎は哲学にあり」と いうのが東洋大学の建学の理念であり ますので、エコロジーに関する哲学を 担当できないかと考えました。 それで、 東洋大学からはエコ・フィロソフィを 提唱するということになりました。 私は日本語の「エコ」は、エコロジ ーよりも幅広い概念ではないかと思っ ています。環境問題にとって新しい哲 学が誕生することは非常に大事なこと で、東洋大学はエコ・フィロソフィを

生み出そうと努め、二〇一三年には本 日の司会である河本先生の編集による 『エコロジーをデザインする―エコ・ フィロソフィの挑戦』 (春秋社)という 本を刊行しました。デザインという言 葉は建築とか美術の分野でよく使いま すが、それを哲学者が使ったので私は 感激しました。エコロジーに哲学者が どういう役割で関わるのかというとき に、概念をデザインするのが哲学者で あるということがここに表されていま す。 人間は、単に知識があるだけでは、 行動しようとはしません。何か物事を 動かそうというときには、人間は納得 した上で行動します。エコに関しては 実際に行動をおこすということが大事 です。人が行動することによってエコ が社会のなかで実際に機能してくるか らです。哲学的にきちんと言葉や概念 をデザインし、 それで人々が納得して、 そして行動を起こすということが大切

なのです。そのような意味で哲学の役 割には大きなものがあるということを 訴えていきたいと思っています。 今日は哲学の面からは山田先生がお 話されますが、シンポジウム全体を通 じて哲学をキーワードに聞いていただ けるといいのではないかと思います。 最初に武内先生が「里山・里海連環に よる地域再生への展望」というタイト ルで基調講演をされますが、 「里海」と いうのは新しい概念ではないかと思い ます。 「里海」あるいは「里山」という 概念について理解を深め、納得して、 環境の保全あるいは改善のために行動 に移すというように進んでいけばと思 っています。 私の話はこれくらいにして、今日は 皆さまのお話をいろいろと聞かせてい ただこうと思っています。今日のシン ポジウムが実り多いものとなることを 期待しています。どうかよろしくお願 いいたします。

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ただ、正直言って人間の考えてきた 言語、それから数学の出来がエコにと っては良くないし、活用しにくいとい うやっかいな局面に直面していて、ア イデアを出してうまく改良したものを 作っていかないと、現在われわれが抱 えているような問題に対応できるよう な、データとモデルとが両立するよう な形にはなかなかなりにくいだろうと 考えていて、それが現在抱えている課 題の一つです。少し敷衍してみます。 生態系のような複雑な系は、一般に 線型性やそれらの複合では成立してい ないのです。ところが言語は、線型性 で成り立っていますし、数学の非線型 関数も、少し複雑化した線型性で成り 立っています。こうした言語や数学の モデルでは、複雑化した生態系を捉え ようとしたときには、影のような事態 しか捉えることができないという事態 に直面します。そうした影のような事 態から生態系の現実を訓練がまだまだ

不足している、という印象をもってい ます。 また身体のように個体化したものは、 そこから固有に環境を捉えて対応して います。 環境のなかに個体を配置して、 環境と個体との関係を捉えるという場 面と、環境内の個体から捉えた環境と の間には、構造的な隙間があります。 それをどのようにして埋めていくのか。 たとえば高齢者や障碍者の環境を考え ようとするときに、良かれと思って行 った環境設計が有効に機能してくれな いという問題もあります。 またさらに数年後、数十年後のモデ ル設計をやったとき、しばらくプロセ スが進行していくさいには、プロセス に応じて設計そのものを組み換えて行 かなければならない、という事態に直 面します。たとえばエネルギーのベス ト・ミックスのモデル設定は、現状で は数年で変化してしまう、という事態 があります。こうした原理的な問題を

含みながら、果敢にモデル設定をして いくような試みとして前に進むことが できればと願っています。 話したいことはたくさんありますが、 これ以上しゃべって後の先生方の妨害 をしてもいけませんから、これくらい にしておきます。 それでは、武内先生から基調講演を お願いしたいと思います。

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の研究をするとき、研究者はその環境 のなかに入り込みます。環境になかに 入って研究活動をすることで、その環 境に何かしら関与します。研究と行為 が分離しないままに進んでいくという ことをどのように有効に使っていくの かということが一つの特徴になるのだ ろうと考えています。 エコロジーの研究は、使える材料は たくさんあるのだけれど、相当に工夫

が必要な学問であると、一〇年間続け てきて感じています。そのときに、難 しいからといってあまり遠慮すること なく、どんどんさまざまなことを提言 して、議論していくのがいいのだろう という印象を持っています。そこから 生態系やシステムに関する新しい見方 が出てくる可能性が開かれていくので、 果敢に提言を行っていくことが必要で あろうと思います。 システムをどのように作っていくの かというときに、人間の身体に関わる ようなところでは、科学的に定式化で きていない部分があります。たとえば 重さの問題もその一つです。そのよう な問題があることはわかっていても、 どのようにしたらよいのかは、簡単に は出てきていません。エコ・フィロソ フィは、身体にとっての環境というテ ーマをずっといろいろな形で考えてき ました。身体というものは、すぐに弱 り、不健康にもなってしまいます。五

年、一〇年と経てば人間は必ず年を取 ります。昨日、武内先生に数年ぶりに お会いして、先生から挨拶してくださ っても、こちらはすぐには誰だかわか らないということがありました。成長 というか、衰弱というか、言葉は違っ ていても、年を取るということでは同 じです。高齢者になって、全体として の力は落ちていっても、なおかついき いきとしていられ、それを支える環境 があるという状態はきっと定式化でき るだろうという希望があります。 このようにいいますと、身体が重要 であることはわかったから、その一歩 先へと進んでほしいといわれます。こ ちらとして一歩という期待は大きすぎ ると思っていて、〇・二歩ぐらいしか 進めません。それでも、〇・二歩ぐら いずつでも進んでいれば、そのうちに ポンと一・五歩くらい進める局面がき っとくるのではないかと、願っている し希望も持っています。

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図①

目が循環型社会です。循環型社会は、 天然資源の大量消費、それに伴う資源 の枯渇という問題、逆に廃棄物が大変 に増えてしまうという問題を何とか解 決しようとする社会像です。リデュー ス、リユース、リサイクルの3Rが推 奨されています。そして三つ目が特に 今日お話をさせていただく自然共生社 会です。こちらは生物多様性の問題、 生態系の劣化の問題、そして人間と自 然がいかに共存していくのかという課 題を解決しようとする社会像です。 これらの三つの社会像を統合して持 続可能な社会を目指すべきではないか と私が提案して、二一世紀環境立国戦 略に含めていただきました。そして現 在ではこの考え方が日本の環境政策の 骨格である環境基本計画のなかにも取 り入れられています。 二〇〇七年というのは、二〇一〇年 に名古屋で開催された生物多様性条約 の第一〇回締約国会議(COP10)

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■基調講演

レジリエントな自然共生社会の実現を目指して 里山・里海連環による地域再生への展望

たけうち かずひこ

武内和彦

自然共生社会

国際連合大学上級副学長 東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構機構長

私は五年前の二〇一一年三月にこの 東洋大学で講演をすることになってい ました。しかし、その直前に東日本大 震災が発生し、残念ながら講演は見送 りになってしまいました。今日はその ときのために一生懸命考えたことを踏 まえて、よりバージョンアップしてお 話したいと思います。

今日のシンポジウムの主題である里 山について、私たちはさまざまな取り 組みを行っています。それらを総称す るのが「自然共生社会」という言葉で す(図①) 。この言葉は二〇〇七年に初 めて公式に使われ始めました。そのき っかけとなったのが二一世紀環境立国 戦略でした。中央環境審議会に特別部

会が設けられ、持続可能な社会をどう 考えたらいいのかという議論をしまし た。そのときに私は、持続可能な社会 を考えるに当たってとくに重要な社会 像が三つあると申し上げました。 一つは低炭素社会です。地球温暖化 の問題を何とか解決しようとする社会 像です。これについて二〇一五年冬の パリ協定締結で、脱炭素社会というと ころまで議論が踏み出しました。二つ

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図②

て、決して使うことを許さなかったの です。私は担当者の説得にほとんどこ ろびそうになったのですが、ある人か ら私の本を読んだという手紙をいただ き、「あなたの本には共生という言葉が 一カ所しか出てこない。それは、アマ ゾンにおけるインディオと自然との関 係を共生関係といっているところだけ だ」と、共生という言葉を使っていな いことを大変にほめてくださいました。 そこで、その手紙を国土庁の方に見せ て、「私はこういう読者を裏切ることが できない」と申し上げ、私が委員長を やっている間は「人と自然の共存」と いう表現を使い、共生という言葉は国 土計画では使わなかったのです。 ところが、そのような私の意図とは 別に、環境省では、自然と人との共生 というような言い方で共生という言葉 をさかんに使うようになりました。私 も当時から環境省との付き合いがいろ いろとあったものですから、 仕方なく、

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の数年前のことで、COP10に向け て、環境省としても国際的に何か発信 できるような取り組みができないかと いうことで、当時の自然環境局長等と いろいろとお話をして、それで国際的 に打って出ようということで提唱した のがSATOYAMAイニシアティブ です。ここで日本語の里山をそのまま SATOYAMAとして英語で初めて 公式に発信しました。 これには若干経緯があります。私た ちは、二〇〇三年にシュプリンガーと いう出版社から英語の本を出しました。 それは東大出版会から出した『里山の 環境学』を英語に訳して、かつ国際的 な視野を盛り込むということで企画し た本でした。私の研究室に客員教授と して四カ月ほど滞在していたロバー ト・ブラウンというカナダの研究者と 相談しながら英語化を進めました。そ のときに一番困ったのが里山を英語で 何と訳すのかでした。それでいろいろ

と考えていたときに、NHKのディレ クターの方とお酒を飲む機会があって、 イギリスのドキュメンタリー作家のア ッテンボローが滋賀の里山をBBC番 組で撮影し、SATOYAMAと題し て放映したということを聞いて、「あっ、 これだ」と思って、私もSATOYA MAで行くことにしました。SATO YAMAというタイトルで本が売れる かと心配しておりましたが、案の定売 れませんでした。それでも、SATO YAMAイニシアティブという取り組 みが最初あまり理解されなかったとき に、生物多様性条約の事務局の方に私 たちの本を見せたところ、こういうこ となら理解できると言ってくれて、正 式にSATOYAMAイニシアティブ を提案できるようになりました。 自然共生社会では、共生が重要なキ ーワードになっています。私は実は共 生という言葉が嫌いでした。私だけで はなくて生態学者には嫌う人が多くい

ました。なぜかというと、生態学にお いては、共生という言葉がきちんと学 問的に定義されているからです。ある 生物とある生物の間の関係で、お互い にメリットがあるのを相利共生といい、 片側だけにメリットがあるのが片利共 生といいます。そのように概念として きちんと整理されている言葉を、人と 自然との間の関係性を示す際に使うの はよくないのではないかと嫌ったので す。それともう一つ、建築家の黒川紀 章さんが共生の概念をご自分の主張と してあまり強調されるものですから、 それで嫌ったという面もあったことも 事実です。 吉良竜夫先生という有名な生態学者 がおられて、 私がその方の後を継いで、 国土審議会の「人と自然の小委員会」 の委員長を受けもったときに、当時の 国土庁の担当者は何とか私を説得して、 共生という言葉を使わせようとしまし た。吉良先生は共生という言葉を嫌っ

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図③

源の持続的な利用を促すこと。三番目 が遺伝子資源の公平な配分で、専門的

にはABS( Access to genetic )と呼 resources and Benefit Sharing ばれます。このうち、二番目の目的を 達成するための具体的な取り組みがほ とんどなかったので、SATOYAM Aイニシアティブは生物多様性条約に とっても重要です。 その後、SATOYAMAイニシア ティブの会合を世界各地で開いてきま した。今年になってからもカンボジア で会合を行い、来月末にはペルーで地 域会合が開かれ、私も参加します。ペ ルーのクスコ周辺の山岳地域ではジャ ガイモの栽培などの伝統的な農業がさ かんで、その実態も見学しながら、南 米における取り組みについて議論する ことになっています。

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「いわゆる環境省がいうところの共 生」というような言い回しをよくして いました。 ところが、ここ東洋大学で竹村学長 から、共生は黒川紀章さんが言い始め たのではなく、椎尾弁匡という仏教学 の先生が最初に言い始めたということ を伺いました。 (図②) 。椎尾弁匡は「き ょうせい」とはいわずに「ともいき」 といって、人と自然の関係もあるし、 人と人の間の関係もあって、お互いに 共に生きていこうという意味で使って いました。黒川さんは実は東海学園で 椎尾弁匡から教えを受けており、彼も その影響を受けて、 「共生の思想」を提 唱したのです。 共生には、 生き物にも、 あるいは生き物ではない国土のような ものにもそれぞれに魂が宿っていて、 それらがみな仏になっていくという仏 教の考えが背景にあることを私は知り ました。だとすると、 「共生」を生態学 ) 」と の用語である「共生( symbiosis

対応させるのがまずいということにな り、自然共生社会の英語は「 society in 」としたのです。 harmony with nature それによって、私は納得して共生とい う言葉を堂々と使うことができるよう になりました。

SATOYAMAイニシアティブの 展開 二〇一〇年の生物多様性条約のCO P10では非常に大きな成果がありま した(図③) 。その一つが愛知目標の採 択で、二〇二〇年までに実効性のある 行動を起こすことを求める20の個別 目標が掲げられました。生物多様性の 主流化、生態系を活かした経済社会の 構築、それを支えるパートナーシップ の強化などいろいろな目標があります。 そしてもう一つの大きな成果は、二〇 五〇年までの長期目標で、すべての 人々が自然と共生する世界の実現を目

指すというものです。この長期目標の 採択に当たっては若干異論もありまし た。東洋的な自然観によるもので、違 和感があるという批判が西欧先進国な どからあったのです。しかし、ありが たいことに開発途上国の人たち、とく にアフリカの人たちが積極的に支持し てくれたおかげで、正式な国際目標と なりました。 このときにSATOYAMAイニシ アティブも議論され、自由な貿易を促 すWTOの精神に反するから反対だと いう批判もありました。しかし、これ もやはり途上国の人たちから大事な取 り組みだと評価してもらい、最終的に この取り組みを推奨する決議が採択さ れました。それ以降、世界各地でSA TOYAMAイニシアティブの取り組 みを進めています。 生物多様性条約には、三つの大きな 目的があります。一番目が生物種の減 少を食い止めること。二番目が生物資

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って若干の回復傾向にあるが、依然と してもとの健全な状態にはもどってい ないといった結果が示されました。 このときに里山と並べて、里海とい う言葉が明確に定義されました。里山 というのは江戸時代からあった言葉で すが、現在のように本格的に使われる ようになったのは、四手井綱英という 森林生態学者が提唱してからです。四 手井さんは、農用林を分かりやすく表 現するために、 「山里」をひっくり返し て「里山」と表現したと論文に書いて います。里海はもっと最近の言葉で、 九州大学におられた柳哲雄さんが瀬戸 内海をイメージして提唱しました。里 山・里海の概念のポイントは、もちろ ん人と自然の共生ですが、人の手が加 わることでかえって自然が豊かになる ということが重要です。里海について は、人の手が加わった方が豊かになる という点について異議を唱える人もい たのですが、陸域における人と自然の

関係と、沿岸域における人と自然の関 係を、里山・里海として整理できると いうことでまとめました。 そして日本の社会がどちらの方向に 行くのだろうかを考え、ひとつの軸と して、グローバル化する方向かローカ ル化する方向か、 もう一つの軸として、 自然を尊重した社会を作るのか技術主 導型社会を作るのかを設定し、その組 み合わせで四つの将来像を描きました。 そして、それぞれの将来像のもとで、 里山・里海の自然がどうなっていくの かを評価したのです。このように、シ ナリオに基づく分析を評価体系のなか に組み込んだ成果として高く評価され ました。国際的な取り組みとして、生 物多様性・生態系サービスに関する科 学・政策の政府間プラットフォーム (I PBES)が進められていますが、そ こでも日本の里山・里海の生態系評価 は、その基礎的となる成果として評価 されています。

里山ランドスケープのこれから

里山は、狭義には薪炭林、農用林、 採草地などを指しますが、それに加え て畑や水田、河川、集落などを含めて 広くとらえたものを、私たちは里山ラ ンドスケープと呼んで、言葉の使い分 けをしています。私たちは、里山ラン ドスケープの過去・現在・将来の変化 を、おおまかにとりまとめました(図 ⑤) 。その基礎になっているのは社会・ 生態システムという考え方です。社 会・生態システムは、レジリエンス研 究の世界的拠点であるストックホル ム・レジリエンス・センターを中心に さかんに議論されている概念で、生態 システムと社会システムの関係を示す ものです。 この図に示すように、昔は狭い地域 で自給自足をせざるをえなかったので、 生態システムと社会システムは密接な 関係をもって結合していました。それ

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図④

里山と里海

私は国連大学にも属していますが、 国連大学ではCOP10の少し前に日 本の里山・里海のアセスメントを実施 しました(図④) 。この取り組みは、二 〇〇〇年から二〇〇五年に実施された ミレニアム生態系評価を受けて行われ たものです。ミレニアム生態系評価は 世界の生態系の現状を明らかにしよう としたものでした。その結果として、 最近五〇年間の生態系の劣化は、地球 史最大の生物多様性の減少をもたらし、 現在は地球史上最も顕著な生物種の絶 滅期であるといった結論が出されまし た。その成果を踏まえて、各地域でさ らに詳細な評価を行う取り組みが進展 しました。日本でも、二〇〇人以上の 研究者が参加して、日本の里山・里海 の過去五〇年間の生態系の変化を評価 しました。例えば、瀬戸内海の環境は 五〇年の間に急激に悪化し、最近にな

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に対して、高度経済成長、都市化、グ ローバル化が進むと、生態システムは 外からの持ち込み、あるいは外への持 ち出しが大きくなり、社会システムは 都市に人口が流出していき、両者の関 係は非常に希薄になりました。その結 果として、日本では耕作地や森林の放 棄が進みました。 このような状態から、 いかに生態システムと社会システムを もう一度つなげていけるのか、これが SATOYAMAイニシアティブの目 指す自然共生社会ということになりま す。 例えば、今後、急激な増大が見込ま れる再生可能エネルギーは、基本的に 地産地消型のエネルギーです。木材な どの生物資源がないとバイオマス利用 はできません。太陽光発電はその地域 の日照条件に左右されます。地熱は、 そのポテンシャルの高い場所でしか利 用できません。食料の地産地消にとど まらずエネルギーの地産地消もあわせ、

さまざまな人々の営みを含めて、もう 一度生態システムと社会システムを再 結合させることが求められています。 同時に、私たちはいま閉ざされた地域 に住んでいるのではありません。外部 の社会との間にネットワークが形成さ れていなければなりません。そして社 会・生態システムを担う主体も、従来 のように狭い地域の人たちだけではな く、外からもいろいろな人たちが入り 込んでくることを考えていくことが必 要です。そのようなことをまとめたの が図⑥です。いま日本の地方をどうす るのかが大きな課題になっていますが、 自然資本と生態系サービスを再評価し、 それを経済活動に活かしていくととも に、それを支える新しい地域管理の仕 組みづくりを考えていくということが 必要だと思います。 もう一つ重要なことは、昔の里山ラ ンドスケープでは、山林、畑、集落な どが機能的な関係をもっていたという

ことです (図⑦) 。 山林の樹木を伐採し、 炭にして集落で使う、山林の落ち葉を 堆肥にして畑で使うといった相互の連 関がありました。ランドスケープをシ ステムとして使っていく仕組みがあっ たのです。それに対して、生態システ ムと社会システムが分断された結果と して、山林、畑、集落、都市などの関 係性が断ち切られてしまいました。そ れゆえ、望ましい里山・里海づくりを 考えると、もう一度それらのつながり を再構築していくことが重要です。例 えば、都市の生物系廃棄物を農地に還 元する、山林のバイオマスを材やエネ ルギーとして集落や都市で利用すると いった、関係性の再構築が重要な課題 になると思います。 里山・里海のような人間・自然関係 の再構築を世界に発信していこうと、 SATOYAMAイニシアティブを始 めましたが、同時に学術的に何を対象 とするのかを明確にしなければならな

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図⑤

図⑥ 16


図⑧

と、自然が豊かでいいという評価は高 いが、残念ながら生計面では評価はあ まり高くありません。また、伝統的な 知識を記録することへの関心が低く、 それらが消えつつあります。こういう 評価を踏まえて、弱いところを強化す れば、地域のレジリエンスを高めるこ とができます。例えば生計について、 農業だけ、建設業だけを考えるのでは なくて、その両者を合わせて考えたら いいのではないか。例えば建設業は、 四月以降しばらくは急に暇になるそう です。なぜなら三月いっぱいで年度が 変わるからです。農業にとって四月、 五月は人の手が欲しいときで、建設業 の人たちの手があいているのです。う まく異業種間をつないでいくと、トー タルとして生計が成り立つような仕組 みができるのではないかと考えること ができます。このことは建設業の担い 手と農業の担い手が同じ土俵で話をし て初めてわかったことです。横につな

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図⑦

いということで、里山・里海のアセス メントでは、「社会生態学的生産ランド スケープ」を対象にすると明記しまし た。このことによって、世界で共通に 議論できるようになったのです。

里山・ 里海とレジリエンス

レジリエンスという概念もまた重要 です。国連大学では、国連開発計画な どと連携してレジリエンス指標を開発 しています(図⑧) 。ランドスケープの 多様性、 生物多様性、 イノベーション、 ガバナンスと社会的公平性、暮らしと 福利、 といった観点で、 現状はどうか、 どう変わっていくのかを評価し、より レジリアントな里山・里海づくりにつ なげていこうとしています。主に海外 でレジリエンス評価をしていますが、 最近能登半島の珠洲市でレジリエンス 評価を実施しました(図⑨) 。今日は細 かくは紹介しませんが、結果を見ます

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図⑩

ニューコモンズと呼び、その構築を目 指した取り組みを進めています (図⑩) 。 コモンズに関する世界的な研究拠点 はインディアナ大学で、最近亡くなら れた、ノーベル経済学賞受賞者のエレ ノア・オストロムが、資源の共同管理 のあり方について問題提起をしてしま した。私は最近、彼女の業績を引き継 ぐインディアナ大学のオストロム・ワ ークショップという研究施設を訪問し ましたが、そこで古いコモンズは資源 を特定した閉鎖的なものだが、新しい コモンズは外部に開かれたもので、さ まざまなステークホルダーが参加し、 ネットワーク型の資源管理になってい くのではないかというような議論をし ました。

佐渡市での実践

そのような考え方を地域で実践でき ないかということで、いま佐渡市と一

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図⑨

がることで、トータルな生計の向上を 考えうるのです。また伝統的な知識の 記録について、いまはソーシャルネッ トワークが発達しています。それらを 使って伝統的な知識を一緒に集めるこ とが考えられます。誰か一人が膨大な 時間を使って知識を記録するのではな く、日常的に多くの人々の知恵が蓄積 されて、それが一つの知識の体系を形 成するようになると期待されます。 このような考え方をさらに発展させ ていくと、従来のように一次産業・二 次産業・三次産業に識別するのではな く、さまざまな産業をつなげていくこ とになります。農林水産省は、それを 六次産業と呼んでいますが、 一次産業、 二次産業、三次産業を掛け算したもの です。生産と加工と流通を合わせ、さ らに観光という要素も入れて、地域を マネジメントする新しい仕組みを作っ ていくことが必要です。そのような新 しい地域管理の仕組みを、私たちは、

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図⑫

きなかったのは東日本大震災が発生し たからですが、そのころにCOP10 の成果を踏まえて生物多様性国家戦略 の見直しを行っていました。東日本大 震災によって、愛知目標への対応もさ ることながら、自然共生社会とは何か ということを再考しなければならなく なりました(図⑫) 。これまで、自然と の共生はもっぱら自然の恵みについて 議論し、一方で自然の脅威については 自然災害に対する防災・減災が議論さ れ、両者はこれまで切り離されていま した。しかし、日本の自然の恵みと脅 威は表裏一体の関係にあります。一方 だけをみて、一方はみないという都合 のいいことはできません。日常的な自 然の恵みを享受すると同時に、自然災 害を防止し、軽減するレジリエントな 社会づくりが重要だという観点を、国 家戦略のなかに含めることにしました。 その成果を二〇一二年にインドのハイ デラバードで開催された生物多様性条

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図⑪

緒に共同の取り組みを行っています (図⑪) 。里山・里海の新しい価値を創 造して、それを外に売っていこうとす る点では、佐渡にはすでに大きな実績 があります。佐渡市では、トキを野生 復帰させ、島で生息させるために、生 物多様性を豊かにする米栽培を奨励し ています。しかし、それだけではトキ には望ましいが、農家の人たちはメリ ットがありません。そこで、トキのた めになる農業を市が認証し、その認証 を得た米でとして売り出したところ、 非常によく売れるようになったのです。 以前は佐渡の米は余って困っていたの が、いまではむしろ足りない状況にな っています。そうした取り組みを他の 農産物や、林産物、海産物に広げる取 り組みを進めています。

自然共生圏と里山・ 里海の連環

さて、五年前に東洋大学にお邪魔で

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図⑮

約の第一一回締約国会議 (COP11) で公表したのです。 私たちは、この国家戦略で、生態系 と人々の暮らしが生態系サービスを通 じてお互いに結びつく共生関係を地域 づくりが重要だという観点から、「自然 共生圏」 という概念を提案しました (図 ⑬) 。 都市と農村が互いに有機的につな がるような地域づくりを推進していこ うと提案したのです。 震災後は、被災地で、里山と里海の 連環を目指すとともに、そのベースと しての安全・安心な地域づくりが重要 だという認識を深めていきました(図 ⑭) 。 その考え方を最近はさらに発展さ せるべく、今日は環境省の中井徳太郎 審議官がこられていますが、彼が中心 になって「つなげよう、支えよう、森 里川海プロジェクト」 を展開していて、 日本各地でキャンペーンを行っていま す。 森里川海は基本的につながっていま

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図⑬

図⑭

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図⑰

され、しかも地盤が沈下してしまいま した。それで彼らは、地元の関係者を 説得して、地盤が沈下して湿地になっ てしまったところはそのままにして、 そこを環境教育の場として活かすこと にしました。また、防潮堤はもとの高 さにまでしか戻さないことにしました。 そこでは森里川海運動と震災復興をつ なげる実践を行っているのです。

生態系を活かした防災・ 減災

私たちは、震災後に三陸復興国立公 園を創設して、いろいろなプロジェク トを展開してきました(図⑰) 。私は最 近まで中央環境審議会の自然環境部会 長の任にあって、三陸復興国立公園に 関しては中心的に関わりました。 また、 国立公園の取り組みではありませんが、 南三陸町では森林管理の国際認証と養 殖漁業の国際認証と両方を取って、森 の恵みと海の恵みに付加価値を付けて

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図⑯

す(図⑮) 。物質循環の面でもつながっ ていますし、景観的にもつながってい ます。そして何よりも本来は人がこの なかでつながっているはずなのです。 このつながりが分断されている状況を 何とかしようというのがその運動の趣 旨です。 このようなことを考えるきっかけに なったのが、気仙沼で山に木を植えて いるグループの活動です。そのリーダ ーは畠山重篤さんで、彼は「森は海の 恋人」を言い続けてきました(図⑯) 。 沿岸部で養殖をするには、上流部から くる川の水が汚染されていてはいけま せんし、上流から栄養分がこなければ なりません。 栄養分を確保するために、 畠山さんたちは上流部の山に広葉樹を 植える運動をしてきました。そのよう にしてきた場が、まさに東日本大震災 の津波で大きなダメージを受けたので す。畠山さんのご子息の信さんたちは 土地の低い地域に住んでいて、家は流

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図⑲

図⑳ 29


図⑱

いこうという取り組みをしています (図⑱) 。 世界的に注目される事例です。 国立公園の取り組みとしては、エコツ ーリズムや環境教育の場として、森川 海を繋ぐフィールドミュージアムを展 開することを提案し、いま実施に移そ うとしています(図⑲) 。 このような生態系を活かした防災・ 減災のさまざまな取り組みを世界に向 けて情報発信しています(図⑳) 。五年 に一回開催される世界国立公園会議に おいて、国立公園をはじめとする保護 区が防災・減災にとても有効であると いう主張をしました。また、仙台で開 催された国連防災世界会議では、生態 系を活用した防災・減災を訴え、会議 の取りまとめの提言でも取り上げてい ただきました。 熊本でも最近、地震の大きな災害が 生じました。熊本には風光明媚な阿蘇 の景観があり、温泉があり、そして草 原に赤牛が放牧されているという自然

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図㉒

は元の高さで結構、風光明媚な砂浜を 守りましょう」ということになりまし た。 そして、社会的なレジリエンスを高 めるために、人が逃げられるようにす る通路が作られました。それが写真の 階段です。この上には国民休暇村があ って、日常的にはそこへの園路として 使われ、災害時には田中浜からの避難 路になります。日常の自然の恵みの享 受と非日常の災害時の避難の共存が模 索され、その通りに実現したという事 例です。

環境・ 生命文明社会の創造

以上のように自然共生社会実現に向 けていろいろな取り組みを進めている 一方で、二〇一四年に私が中央環境審 議会会長として当時の石原伸晃環境大 臣に対して、日本再生に向けた新しい 豊かさの創造という意見具申を取りま

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図㉑

の恵みがあります。その一方で、阿蘇 地域は豪雨によるダメージを受け、今 回は震災でダメージを受けました。こ のような自然の脅威は自然の恵みと裏 腹の関係にあります(図㉑) 。図の右側 が気象学的な現象、左側が地学的な現 象です。このような大きな座標軸の上 で整理して自然との共生を考えていく ことが重要であると思っています。 生態系を活かした防災・減災の取り 組みの一例として気仙沼大島の防災・ 減災の例を紹介します(図㉒) 。この島 には、田中浜という風光明媚な海岸が あります。ここでも震災の後に巨大な 防潮堤を作るという話が出ました。防 潮堤の建設をやめるのは大変なことで、 住民全員の合意があって初めてやめる ことができるというのです。また、震 災復興のための特例としてアセスメン トがいらないという状況のなかで、こ の地域の住民はいろいろな話し合いを して、最終的には、 「この地域の防潮堤

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図㉔

ひ次期の環境基本計画の柱にしていた だきたいという願いを込めて提案しま した。

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最後になりますが、東洋大学の竹村 学長がお書きになったものの中に「娑 婆世界は既に仏国土である」という言

図㉕


図㉓

とめました(図㉓) 。そのなかで技術的 なイノベーションも大事だが、社会シ ステムのイノベーションや、さらには 個々人の価値観が変わるライフスタイ ルイノベーションが重要だということ を謳いました。そのうえで、これから の環境政策の柱として、環境と経済の 好循環の実現、地域経済循環の拡大、 健康で心豊かな暮らしの実現、ストッ クとしての国土の価値向上、あるべき 未来を支える技術の開発・普及、環境 外交の六つの基本戦略を挙げ、それら を総合して環境・生命文明社会の創造 を提案しました。一番下の支えとして 安全・安心な社会づくりがあって、そ の上に低炭素社会、循環型社会、自然 共生社会の三つの社会像を統合し、六 つの基本戦略によって、地域循環共生 圏の構築、森里川海の連環、新しい豊 かさの創造を進めて、新しい環境・生 命文明社会の創造に向かっていこうと いうものです(図㉔) 。この考え方をぜ

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ます。今日は京都から高林純示先生に きていただきました。高林先生はにお いに注目をされて、里山の生態の仕組 みを考えておられます。においが動物 や植物がコミュニケーションを取る媒 体になっているということなので、人 間社会のなかでにおいを活用していく ことにも示唆を与えて下さるようなお 話ではないかと思います。

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葉がありました(図㉕) 。この世もなか なか捨てたものではない、まだまだ人 間社会には希望があるということでは ないかと私は理解しました。これは、 サステイナビリティ学が持ち続けなけ ればいけない基本姿勢であると考えて います。

司会 武内先生、どうもありがとうご ざいました。 それでは、どなたかご質問があるで しょうか。 ――日本の自然の荒々しさがはっきり してきた現在の状況では、いまお話が あったように、里山のシステムと減 災・防災をもっともっと組み合わせて いくことが大事だと思います。ところ が、私が聞いたところでは、国土交通 省はレジリエンスを高めるということ を国土強靱化と訳しているようです。 国土強靱化では、巨大な防潮堤を建て

るという動きが相当に強くなっていて、 レジリエンスについて国のなかで矛盾 をきたすような言葉の使われ方をして いるわけで、そのような現状を武内先 生はどのように考えおられるのでしょ うか。

武内 大変難しいご質問をいただき ました。政府のなかで考え方が異なっ ていることには私も憂慮しています。 国土強靱化というエンジニアリング・ レジシリアンスか、自然との共生を目 指すエコロジカル・レジリアンスか、 そのどちらかというのでは必ずしもな くて、むしろメリハリを利かせて、こ こはエンジニアリング・レジリエンス でいかなければいけないし、ここはエ ンジニアリング・レジリエンスでいこ うということではないかと思います。 防災教育をきちんとしていた地域の子 どもたちは津波から逃げることができ たということもありますから、ソーシ

ャル・レジリエンスを組み合わせてい くことも大切だと思います。 しかし、震災後の対応は、残念なが ら適した場所で適したレジリエンスを 適用するのではなくて、巨大防潮堤を 作るか否かという問いになってしまっ ています。私たちは、巨大防潮堤では ない領域を増やす努力をしているわけ ですが、全体を調整する仕組みがなけ ればいけないと思っています。いかな るレジリエンスが適しているのかとい う施策上の調整が必要で、 少なくとも、 高台に人が移転したところに巨大防潮 堤が作られていくといった事態は避け るべきだと思います。

司会 たくさん課題があるお話でし たから、まだご質問があろうかと思い ますが、時間が限られていますので最 後の総合討論でご意見をいただければ と思います。 では、次のご講演に移りたいと思い

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います(図③) 。ただし、何にでも寄生 できる寄生蜂はいません。寄生できる

蜂がいます。種数でいったら地球は寄 生蜂の惑星だということもできます。

かおりで虫を呼ぶ

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今日のテーマはかおりです。植物は われわれにはわからない微妙なかおり

図②

相手は決まっていて、極端なことをい うと、昆虫の種数と同じぐらいの寄生

図①


■講演1

くと、アブラナ科のイヌガラシという 雑草が生えています。よく見て歩いて いると、たまに拡大写真のようなもの を見つけます。これはイヌガラシの葉 の上に形成されたコナガコマユバチの さなぎです。これを試験管に入れてお くと体長が二ミリほどのハチが出てき ます(図②) 。今日はこのコナガコマユ バチの話をします。 アブラナ科の重要害虫にコナガがい ます。コナガコマユバチはその天敵の

昆虫と植物の会話を解読する かおりの生態学

たかばやし じゅんじ

高林純示 京都大学生態学研究センター教授

今日のテーマになっている「里山の 思想」 という話は私にはできませんで、 私どもがやってきた里山での研究の話 をさせていただきます。

里山の寄生蜂 われわれの調査地は京都府美山町と いう里山です(図①) 。奥に見えている のがミズナの生産ハウスです。ミズナ はアブラナ科の植物です。あぜ道を歩

蜂です。ミズナハウスの周辺の里山に は、多種多様な害虫とその天敵が涵養 されています。コナガとコナガコマユ バチもそうです。 コナガコマユバチは寄生蜂といって 社会性をもたないハチです。単独で生 活し寄生によって次世代を残します。 すなわち、コナガ幼虫内に卵を産みつ け寄生し、最終的に幼虫を殺して次世 代のハチが誕生するわけです。 ほとんどの食植性昆虫には寄生蜂が

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ほどのコナガコマユバチも同じぐらい の感度で受容して、われわれには実感 をもって理解できない植物由来のかお りで植物と会話しているのです。 コナガに食べられたアブラナ科の植

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一〇日ぐらいたつと、コナガの幼虫か らハチの幼虫が出てきます。そしてさ きほど見ていいただいた白い繭を作り ます。 植物がコナガに食われて揮発性物質

図⑦

物は、微妙なかおりを出してコナガコ マユバチを呼び寄せます。呼び寄せら れたハチは植物上でコナガの幼虫を探 し、一瞬で卵を一個だけ産み付けます (図⑦) 。 ハチの卵はコナガの体で育ち、

図⑥


のブレンドで、植物に害を加える虫を 殺す寄生蜂を呼び寄せるという戦略を 進化させています。ボディーガードを 雇う戦略と呼ばれています。 かおりには、花のかおりとかお茶の かおりとか実感をもって理解できるか おりと、風かおる五月とか、都市のか

図③ おり、田舎のかおり、夜のかおり、麻 薬のかおりとか、実感をもって理解し にくいがいまそこにあるというかおり もあります(図④) 。麻薬探知犬は麻薬 のかおりをかぐと、 ワンとほえます (図 ⑤) 。 われわれにはまったくわからない かおりなので、麻薬探知犬の認識世界

図④

は一体どうなっているのか不思議です。 犬と昆虫を比べてみましょう (図⑥) 。 写真は蛾の雄のアンテナで、これで性 フェロモンを受容します。 犬の嗅覚は、 最大で人間の一〇〇〇万倍敏感だとい われています。蛾の性フェロモンの受 容感度もおそらく同じレベルです。先

図⑤

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の幼虫のなかで死んでしまいますので、 この区別は重要です。図⑩で青い楕円 で囲った部分です。 コナガの幼虫が食べたキャベツの葉

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れをかぎわけるのです。コナガコマユ バチは成虫羽化したとき生得的にこの においを区別できるような能力をもっ ています。

図⑪

のにおいと、モンシロチョウの幼虫が 食べたキャベツのにおいを分析すると よく似ています(図⑪) 。微妙なところ が違っていて、コナガコマユバチはそ 図⑩


を放出し、それかぎつけたコナガコマ ユバチがやってくるのは、植物と天敵 との会話だとみることができます。植 物の方は自分に害をなすコナガを寄生

図⑧ 蜂が殺してくれて、寄生蜂の方は効率 よく自分が寄生するコナガを発見でき るということで、お互いに共生的な関 係にあります(図⑧) 。

かおりを通した会話の実態

このような関係が実際にどうなって いるのかを調べるために、図⑨のよう な透明なアクリルケースで実験をしま す。装置の片側にコナガの幼虫に食わ れたキャベツを置きます。もう片側に 健全な株、 あるいははさみで切った株、 あるいは寄生できないモンシロチョウ の幼虫が食害した株を置きます。そし て、真ん中にコナガコマユバチを放し てどちらの株にランディングするかを 見ます。すると、ハチはコナガの幼虫 の食害を受けた株の方に有意に多くラ ンディングします(図⑩) 。はさみで切 ると青臭いかおりがしますが、そうい うかおりとコナガの幼虫が食べた植物 から出るかおりとをハチは区別します。 モンシロチョウの幼虫が食害した株と コナガが食害した株とも区別します。 モンシロチョウの幼虫にコナガコマユ バチが卵を産んでも、モンシロチョウ

図⑨

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図⑭

においに反応しません。 エンドウヒゲナガアブラムシが食害 したにおいと健全な植物のにおいとで ハチはどちらが好きかというと、エン ドウヒゲナガアブラムシが食べたにお いが好きだということが実験でわかり ます(図⑬上) 。しかし、マメアブラム シが食べた植物のにおいと、健全な植 物のにおいは区別できません (図⑬下) 。 においの成分は(図⑭) 、青色が健全 株、緑色が寄主エンドウヒゲナガアブ ラムシの食害した株、赤色が非寄主マ メアブラムシの食害した株で、一見し てかなり複雑ですが、これをハチは区 別します。植物は害虫の種に応じてに おいのブレンドを変えて、その害虫を 殺してくれる寄生蜂を呼んでいのです。 それはどうして可能なのかというと、 害虫が食害の際に付ける唾液成分等の 害虫による違いを植物が識別している と考えられています(図⑮) 。 一般に寄生蜂の大きさは二ミリか、

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図⑫

図⑬

中高生向きの授業などでやるのです が、四つのかおりの成分ビーズの混ぜ 合わせ実験では、四成分の比率でわれ われが感じるかおりが変わります。例 えば一対一対三対一〇の比率で瓶に入 れると、青リンゴのかおりになるとし ます。その比率が変われば、もう青リ ンゴになりません。ハチもおそらくブ レンドの違いを嗅ぎ分けて判断してい るのだと考えられます。 関東から北に生息しているエンドウ ヒゲナガアブラムシという害虫がいま す(図⑫) 。それに寄生する寄生蜂がい て、アブラムシの体内に卵を一つ産み 付けます。アブラムシも寄生蜂に刺さ れてはたまらないので、蹴って対抗し ます。結局それは全然役に立たなくて 寄生されてしまいます。この蜂も、ア ブラムシが食害した植物のにおいに誘 引されてきます。しかし植物の上に寄 生できないマメアブラムシが食害した 場合、この寄生蜂は、それが食害した

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植物があって、それを食べる害虫が いて、それを殺す寄生蜂がいる食物網 があるときには、その背後にあってそ れを支える層として、 かおりを介した。 図⑱

されています。

害虫の大発生を防ぐ

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美山町のミズナハウスは我々の調査 地の一つです(図⑳) 。ハウス内でコナ ガが大発生すると農薬を使わざるをえ ないことになります。コナガが大発生

図⑳

植物と天敵との会話があります (図⑲) このような会話は、五〇種以上の植物 と、七〇種類以上の植食性昆虫と、二 〇種類以上の天敵の組み合わせが報告 図⑲


それ以下で、その寄主となる幼虫は、 大の大人が集まって探してもなかなか 見つかりません。蜂がどれくらいの距 離から寄主が食害している植物に誘引 されるのか調べると、五〇メートルか ら七〇メートルということが野外実験 でわかっています(図⑯) 。最初の写真

図⑯

にあったミズナハウスでコナガが大発 生してにおいが出ていると、周辺で生 息しているコナガコマユバチは五〇メ ートルくらいの距離を移動し、ミズナ ハウスに入ってコナガに寄生すると考 えられます(図⑰) 。体長二ミリの蜂が 五〇メートル移動するというのはどの

図⑮

ぐらいのイメージかというと、身長一 六五センチのランナーが四二・一九五 キロ走るのに匹敵します。東京で四 二・一九五キロの半径を書くと図⑱の ようになり、ハチにとって50メート ルは、相当な距離であることがわかり ます。

図⑰

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ンドがコナガコマユバチを誘引するこ とがわかったので、それをフィルムに 封入して「天敵クール」と名づけまし た(図㉒) 。 天敵クールを温室の室内にぶら下げ ておくと、コナガコマユバチはどこか

した。 野外で自然に涵養されているコナガ の天敵コナガコマユバチを少し早めに 使わせてもらうことで、農薬を減らせ る可能性が見えてきました。ただ誘引 剤はそれだけで農薬に代替できるよう な技術ではないので、使うにしても環 境に優しい防除方法と組み合わせるこ とになると考えています(図㉓) 。

葉っぱが話す

『葉っぱのフレディ』は子ども向け の本で、二枚の葉っぱが生きることに ついて話をしながら枯れ葉になってい くという話です(図㉔) 。葉っぱが食わ れたら天敵を呼び寄せるにおいを出す というのは、葉っぱが天敵に向かって 話をしていると考えることができます。 さらに、そのにおいを利用して、隣の 健全な植物も、いまお隣さんは誰かに 食われているから前もって防衛をしよ

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らともなく誘引されてきて、ハウス内 のコナガ幼虫に寄生してコナガを殺し ます。自分自身は花蜜を食べて生きて いるので、温室内に給餌装置「天敵ゲ ンキ」を設けておきます。このように してやると、コナガの発生が下がりま 図㉓

図㉔


すると、少し遅れて寄生蜂が認められ ます。寄生蜂にはコナガコマユバチと コナガヒメコバチがいて、主力はコナ ガコマユバチです。寄生蜂をもっと早 くハウス内に誘引できたらいいので、

図㉑ いろいろな実験をしてコナガコマユバ チの能力を調べてみました。 その結果、 コナガが大発生しないためには、常時 数匹のコナガコマユバチがハウス内を パトロールしていればいいということ

がわかりました。毎日、無駄でもごく 少数の蜂を呼び寄せれば、いつ何時侵 入してくるかわからないコナガの大発 生を防げます。食害キャベツから出る においのなかで、図㉑の四成分のブレ

図㉒

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図㉖

図㉗ 49


う、という反応をします(図㉕) 。植物 と植物の間でもコミュニケーションが あるということです。これはいろいろ な植物で報告されています 。 このことを野外で調べようと考えま した。植物間コミュニケーションは、

図㉕

傷ついた植物と健全な植物の間で成立 します。傷つくのは害虫に食われた場 合もあれば、はさみで切られた場合も あります。はさみで切られた匂いを受 容しても、隣の健全な植物は防衛を始 めます。里山では、畑や田の回りを定 期的に草刈りするわけですが、その時 には傷ついた雑草特有のにおいが出ま す。そのにおいは作物にも当然届き、 作物は反応すると考えられます。人は 意図的ではないけれど草刈りで植物間 コミュニケーションを模擬しているこ とになります。 大豆畑で実験しました。大豆畑の後 ろにセイタカアワダチソウが生えてい たので、それを使いました。ネットに セイタカアワダチソウをざくざく切っ たものを詰め込んで、黒大豆の畑に複 数個置きます。これで大豆はセイタカ アワダチソウが草刈りされたときと同 じようなにおいを受容します。セイタ カアワダチソウを置かない大豆畑を対

象区として用います。七月に三週間連 続してにおいを暴露してあとは何もし ないで結果を調べます。対象区と処理 区を比べると、処理区の方で昆虫によ る食害の被害が下がります。 草刈りするだけで被害が減るならな かなか結構なことなので、味の方はど うかということで、対象区と処理区で とれた大豆を私が勤める京都大学生態 系センターの方々に食べてもらいまし た。二三対六で処理区の方が味が悪い と評価されました。次に、プロに見て もらおうと料理人にも食べてもらいま した。するとやはり処理区の方が味が 悪いと評価されました。このように感 じるのは種子の中の何かが変わってい るからで、調べてみるとイソフラボン という大豆に特徴的な物質が処理区で 増えていました。イソフラボンはえぐ みとか苦みの成分です。イソフラボン は機能性食品ですから増えること自体 はいいので、少し味が落ちてもいいの

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■講演2

海からながめる里山 やぎ のぶゆき

八木信行 東京大学大学院農学生命科学研究科准教授

今日は「海からながめる里山」とい うことで、おもに海を中心として生態 系サービスの話をいたします。

里海とは 最初に里海がどういうものか紹介し ます。北海道の東の野付半島が里海の いい例になると考えています。ここで はエビ打瀬船でエビ漁をしています (図①) 。 エビ打瀬船というのは帆掛け 船です。どうして動力船を使わないの かというと、海底のアマモがシマエビ

の生息域になっていて、アマモの生態 系を壊さずにエビを獲りたいからです (図②) 。 動力船を使うとパワーがあり すぎて、アマモがエビと一緒に網に入 ってしまいます。 ここでは禁漁区を設けて資源を管理 し、漁期は夏と秋の二回だけです。こ の半島のなかの湾はラムサール条約の 登録湿地になっています。漁業者の人 にヒアリングして、ラムサール条約の 登録地になって渡り鳥を保護しなけれ ばいけなくなったことをどう思うかと 聞いたところ、 「なかなかいい、サポー

トするよ」という話です。以前は散弾 銃をぶっ放して鳥を捕るような人がい たのですが、取り締まりが厳しくなっ てそういう人がいなくなり、海に鉛の 散弾が落ちなくなりました。鉛によっ て海が汚染されなくていいということ なのです。 ここで特徴的なのは陸で森を作って いることです。図③は野付漁協のホー ムページにある写真とテキストで、「昭 和六三年からお魚を殖やす植樹運動を 実施」と書いてあります。これには経 済的なインセンティブもあって、首都

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ではないかとは思っています。

フィトバイオーム 植物間のコミュニケーションはかな り短くはしょりましたけれど、食物網 は植物のかおりを介した植物と天敵の 会話で支えられ、さらにその下に植物 のかおりを介した植物と植物の会話が 支えているという三層構造が考えられ ます(図㉖) 。実際は、それらがさらに 複雑に入り組んで生態系を支えている と考えています。さまざまな情報シグ ナルを介して生物は結び付いていて、 その結びつきの総体をフィトバイオー ムと呼んでいます (図㉗) 。 図の緑、 青、 ピンク、アイボリーの雲のような広が りは、情報シグナルのイメージです。 われわれはフィトバイオームからさ まざまなサービスを受けていて、それ を生態系サービスと言います。 今回は、 われわれにはわからないような微量な

かおりがコナガコマユバチという生態 系サービスを動かしているのだという ことをご紹介しました。 里山において、 かおりのようなシグナル物質が駆動す るフィトバイオームを解析することで、 里山という社会の生態学的側面を解明 したいと考えています。また持続的農 業に活用できないと思っているところ です。

司会 ありがとうございました。 人間は視覚が発達してにおいに対す る感度が鈍くなってしまったという特 殊な事情があるのですが、生態系のな かでにおいという媒体はかなり重要で あるというお話でした。においの活用 として、例えば大震災などで狭い避難 所にたくさんの人が集められたときに、 少しは安堵できるようなにおいがある のではないかと思います。大学で、も しかすると学生の学習意欲が増すよう なにおいがあってもいいのではないか

と、夢物語のようなことを考えていま す。臭いを人間の能力を引き出す方に 活用することは、ほとんどこれからの 課題であるように思えます。 高林先生のお話にご質問があるかも しれませんが、時間の関係で、最後に 総合討論のときに質問などお寄せいた だければと思います。 それでは次は八木信行先生にお願い しているご講演です。八木先生は東大 の農学部の先生でその前は農林水産省 にお勤され、環境関係の国際会議に多 数出席されたご経験があり、また里海 についてのご著書があります。では八 木先生お願いします。

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図⑥

森と川と海の連関

おもしろいなと思った文献で、「多くの 米国人・英国人は、郊外における環境 保護を優先し、都会の環境に対して払 う関心は少ない。つまり、郊外の野生 動物などを人間から保護することには 熱心である。この根源は、環境が人間 と切り離された存在であることなどに

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基本法に循環型社会形成推進基本法が あり、その基本法に基づいた基本計画 が存在しています。そのような背景か ら、森と川と海の関係も、国民に理解 されやすいのだと思います。 ところが、外国では必ずしもそうで ありません(図⑥) 。これは私が読んで 図⑤

日本では、人間も外部環境の一部と して捉える考え方があります(図⑤) 。 そして、都市とその外部環境はつなが っていると考えています。江戸時代は 循環型社会でした。現在も、環境省の 図④


圏のコープと「海を守るふーどの森づ くり基本協定」を調印して、コープに エビを買ってもらっています。 このような例が全国にあって、二〇 一〇年に私の研究室で調べたところ一 〇〇〇カ所以上あることがわかりまし

図① た(図④) 。その三〇パーセントは漁業 者による自主的な管理の取り組みです。 漁協が管理しているのです。およその 数字をいいますと、全国には六〇〇〇 ぐらいの漁村といわれる地区があり、 二〇〇〇から三〇〇〇ぐらい漁港があ

り、一〇〇〇カ所ぐらい漁業協同組合 があります。海洋保護の事例が一〇〇 〇カ所以上あってもおかしくはありま せん。

図②

図③

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認めたらWTOで大変なことになるの ではないかと反対したようなのです。 ナイロビではこれでどうなるのかと、 皆さんは心配したのですが、その後で いろいろな交渉をしたのでしょう、C OP10で最後には円満にSATOY AMAイニシアティブが採択されまし

は無理ではないかと思われていて、金 曜日の昼ぐらいから交渉がまとまりそ うな雰囲気になり、そこから本腰を入 れて交渉モードになって、日付が変わ って土曜日の午前二時ごろに採択がさ れたのでした。 私はなぜオーストラリアなどと日本 とで考えが違うのかだろうかと考えま した(図⑩) 。左側が欧米で右側がアジ アやアフリカというイメージです。大 昔の狩猟採集の時代を想定すると、ア ジア・アフリカもヨーロッパもそのこ ろ人間は縄張りを集団管理していまし た。農耕が始まって土地の所有権が発 生しました。ゼロから新しい価値が発 生したのです。ルネッサンスになって ヨーロッパでは個人主義・自由主義が 出てきて、所有権、個人主義、自由主 義が基本的な価値観になりました。そ こから、環境保全も個人に所有権を持 たせてスチュワードシップを発揮させ るべきだという発想になったのだと思 図⑩

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た。名古屋議定書、愛知目標の採択直 後はスタンディングオベーションのよ うな状態になりました(図⑨) 。COP 10は二週間の日程で金曜日の午後に 終わる予定になっていたのですが、木 曜の夜まで、まだまだ名古屋議定書・ 愛知目標が決まらない、今年はこれで 図⑨


ある」と書いてあります。これはそれ までに私が感じていたことにかなり近 い指摘なので、共感しました。それで 私は、昔のヨーロッパの都市は城壁に 囲まれていたところが多かったので、 いまも都市と外の環境の間に透明な壁 があるようなことになっているのでは

図⑦ ないかと考えました。 私たちの大学のヨーロッパ系の留学 生に、この点についてどうなのか聞く と、 「これは古い考えです。二〇年前は そうだったかもしれないけれども、今 の若い人たちはこんなふうに思ってい ません」というような返事が返ってき

図⑧

ます。しかし、日本と外国との違いを 如実に感じたことがありました。二〇 一〇年名古屋で生物多様性条約締約国 会議のCOP10に際して日本が推進 しようとしたSATOYAMAイニシ アティブに反対する国がありました (図⑦) 。 COP10に先だって六月に ナイロビで技術会合があって、私も出 席したのですが、そこでオーストラリ アがSATOYAMAイニシアティブ に反対しました(図⑧) 。このころWT O交渉がうまく進んでいませんでした。 オーストラリアなどは農産物の関税を 撤廃しようとしていて、お米の関税も なくそうとしていました。日本は、農 業には多面的機能があり、経済的な価 値だけではなくて、生態系を維持して いるという機能も見なければいけない ということを主張していました。SA TOYAMAイニシアティブも、日本 のその主張の延長にあるとオーストラ リアは考えたらしくて、こんなものを

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回回転しているという意味です。つま り、海は回転が速くて次から次へと生 産されるので、獲りつくされずにいる ということになります。ここで重要な のは陸とのつながりです。陸から栄養 塩が流れてこないところでは回転が止 まってしまいます。 図⑫

まざまな価値があります。一九七〇年 代、八〇年代には、人間は魚などの資 源、市場で取引されているものの価値 にしか注目していませんでした。その 後、市場で取引されていないようなサ ービス、生態系サービスの価値も注目 されるようになりました(図⑬) 。生態 系サービスにどのようなものがあるか というと、大気成分の調整、気候の安 定化、土壌浸食の抑制、物質循環、エ コツーリズムなどいろいろあります。 こういうものに注目が集まってきたの が一九九〇年代ぐらいです。 二〇〇〇年代の最初に国連ミレニア ム生態系評価がありました(図⑭) 。こ のころから供給サービス、調整サービ ス、文化的サービス、基盤サービスと いろいろなサービスがあるということ がいわれるようになりました。 さらにその後はかなり加速して、単 なる生態系サービスという話だけでは なくて、付加価値がいろいろに加わっ

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海の価値とは? 次に話を少し変えて、価値の話に移 ります(図⑫) 。海の価値とは何か? これは沖縄の写真ですが、青いサンゴ がいたり、その上でレクリエーション をしたり、魚を獲ったりと、海にはさ 図⑬


います。スチュワードシップとは何か というと、これ日本語では理解しづら いコンセプトですが、誰か偉い人から 管理を託されているという意味です。 偉い人から管理を任されているので、 善良な管理をしなければならないとい う発想になります。アジアやアフリカ

図⑪

にはそういった発想はありません。ル ネッサンスをここに持ち出しているの は私のアイデアではなく、同じような ことを主張している人がいます。バー クレーのノルガード先生と話をしてい て、欧米とアジア・アフリカが違うの はヨーロッパにはルネッサンスがあっ たからではないかという議論になりま した。 陸上では農耕が始まって狩猟は衰退 しましたが、海ではいまも狩猟が続い ています。しかも商業ベースで大規模 にやられています。それはなぜかとい うと、海の方が陸よりも物質循環の回 転が速いからであると考えられます。 図⑪の数字は一九七五年のホィタッカ ーの本からの引用で、一次生産の量は 最新の論文と微妙に違うかもしれませ んが、大枠は基本的には変わりがあり ません。一年間に一平方メートル当た りどれだけの有機物を生産するのかと いうと、海も陸も一〇〇グラムないし

は数百グラムでそれほど大きくは異な るわけではありません。ところが、一 平方メートルの区画を切り取って、そ こに何グラムの生物がいるかというこ とになると、陸地には一二キロもいる のに海は一〇グラムしかいません。そ の違いは陸地には大きな木があること などが原因だろうと思われます。海で は生物は短期間で死んでしまいます。 海では植物プランクトンが光合成を します。それを動物プランクトンが丸 呑みし、その動物プランクトンを小型 の魚が丸呑みし、小型の魚を中型の魚 が丸呑みするという循環になります。 ところが陸地では、木が光合成をして も、キリンはその葉っぱしか食べない ので、回転が遅いのです。回転が遅い ために、陸で野生動物を商業的にどん どん捕ったらすぐに捕り尽くしてしま います。海の一次生産の量一五二を、 生物量の一〇で割ると一五・二になり ますが、これは海では一年で一五・二

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ミー紀要という雑誌に、つながりを重 視した価値体系で生態系を評価したら いいのではないかという論文が出まし た。つながりは英語ではリレーショナ ルバリューです。経済学で生態系を測 ると、生態系オフセットという発想が 出てきたりします。ある生態系を壊し

ても、その代わりに別の生態系を新し く作ったりリハビリテーションして維 持したりすることで、プラスマイナス ゼロにしましょうということです。二 酸化炭素の排出権を取り引きして環境 汚染を防ぎましょうというのと発想と して同じところからきています。 ところがつながりを重視すると、生 態系オフセットはナンセンスになりま す。カイ・チェン博士が出している例 は、例えばここにリンゴがあります。 それは、自分の娘が生まれたときに庭 に植えた木に初めてなったリンゴで、 それを今度食べようと思っていたとき に、誰かがもいで食べてしまって、 「あ っ、ごめんごめん。代わりにスーパー で買ってきたこのリンゴをあげるから、 オフセットでゼロにして」といわれて も、それは同じ価値を有するリンゴだ とはいえません。つながり重視すると いうのはそのような議論です。ものと 自然と人間のつながりを重視すれば、 図⑯

単なる交換ではよくないということに なります。 武内先生がおっしゃっていた気仙沼 の例がまさにつながりです。海と森と 川はつながっていると日本人は感じて います。上流の森をつぶしたけれど、 別のところで森を作ったので、オフセ ットしていいでしょうといわれても、 下流の気仙沼にいる漁業者は困るので す。つながりを重視し出すと、オフセ ットだとか交換ということにはなかな かならないと思います。 まとめとして、海から里山をながめ て気が付いたのは、つながりが重要だ ということです。つながりには二つあ ります。物質循環という自然側からみ た価値と、人間と生態系という人間側 から見た価値とがあります。価値の複 数性を重視する必要があるのです。I PBESやカイ・チェン博士の論文も そうなのですが、最近そういう方向が 注目を浴びているので、われわれも共

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た検討をいま行っています(図⑮) 。生 態系と生物多様性の経済学 (TEEB) です。二〇〇八年に生物多様性条約の COP9がドイツであって、この前後 に、 生態系の価値を経済的に評価して、 政策決定に役立てるべきという検討を しました。具体的にどういうことかと

図⑭ いうと、海には、観光の価値や魚の価 値などいろいろな価値があります。そ れらの価値について計算して、調整を しましょうという議論です。その二年 後に生物多様性条約COP10が名古 屋で開催され、SATOYAMAイニ シアティブが認められました。そして

生物多様性及び生態系サービスに関す る政府間科学・政策プラットフォーム (IPBES)が二〇一二年に設立さ れました。生物多様性のIPCCとい われています。ミレニアム生態系サー ビスは生物学者や生態学者が中心で、 TEEBは経済学者が中心であったの 対して、IPBESは両者を含め、し かも哲学の専門家や思想の専門家など も入って幅広い人材で議論をしていま す。私もこのなかの一員で、右側の写 真は小さな教室のようなところに五〇 人ぐらい集まって議論している専門家 会合の様子です。

ミレニアム生態系評価の後に、新し い動きが次から次へと出てきています。 そのキーワードを一言でいうと「つな がり」ではないかと思います(図⑯) 。 実際、二〇一六年二月も米国のアカデ

つながりを重視する

図⑮

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[

] ひでお)

■パネルディスカッション

司会

河本英夫 (かわもと パネリスト としあき)

[

]

東洋大学文学部教授、

山田利明 (やまだ

とくたろう)

東洋大学「 エコ・ フィロソフィ」 学際研究 イニシアティブ研究員

中井徳太郎 (なかい 環境省大臣官房審議官

じゅんじ)

武内和彦 (たけうちかずひこ) 高林純示 (たかばやし

河本 最後のパネルディスカッショ ンに入りたいと思います。その前に二 つ話題を提供していただきます。最初 は山田先生に風水の話をしていただき ます。

風水説と環境論

山田 今日は風水の話を少ししてお きたいと思います。 日本の里山は、今までお話があった ように、 人間の手の入った自然ですが、 中国の風水説による環境は、気という 実体のない概念に基づいた環境と定義 できるのではないかと思います。 風水説は現代社会においても、中国 あるいは韓国でかなり広く信じられて います。どういう論理に基づいて信じ られているのかというと、風水説の三 大要素は、風と水と気です(図①) 。風 と水は実体のあるものですが、では気 とは一体何かということになります。

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感できる国際社会の状況になってきて いるように感じています。

司会 どうもありがとうございまし た。八木先生から明快なお話を提供し ていただきました。それでは質問はあ りますか。 ――先ほど、海洋の方が物質循環が速 いということでしたが、海洋では重力 がないので植物は育ちやすいような感 じがします。ただ太陽光が深くまでは 入らないので光合成ができにくかった りするということもあると思います。 どのように考えたらいいのでしょうか。

八木 重力についてはよく分かりま せんが、確かに太陽光が届かない深海 は物質循環のスピードは遅いと思いま す。また海の表層でも生産性が高いと ころがあります。それは沿岸域で陸か ら栄養塩がきているところです。ある

いは湧昇流があって、海の底から栄養 塩が海の表面に出てきているところで す。そういう海の表層では光合成をす る植物プランクトンの発生が多くなっ ています。ところが、太平洋の真ん中 とか黒潮の真ん中は表層でもあまり生 産性は高くありません。そこでは栄養 塩がないからです。海の中でも、表層 と深海、また表層でも沿岸と沖合など でかなりの違いがあって、それらの集 合体としてさきほどの結果になってい るということです。

司会 八木先生は今日はお忙しくて これで帰られなければいけないという ことですので、ここでお話はいったん 終わりということになります。どうも ありがとうございました。

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れらは森林で覆われています。東側の 丘陵を青龍、西側の丘陵を白虎と言い ます。北側の主山の麓もずっと深い森 林に覆われています。そして、高い山 の西側に湧水があって、そこから南に 流れる水流がある土地が、風水学上の 良地とされます。このような場所は、 主山の下から良気が湧いて出て、そこ

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ことですが、三世紀ぐらいにそういう 考え方が出てきています。したがって 墓地に適した土地に、家を建ててみる とその家は福運に守られて繁栄します。 この繁栄ということについては、いく つかの要素があります(図⑤) 。 「福禄 寿」と普通いいますけれど、福とは子 宝に恵まれること、跡継ぎが沢山いる

図④

に墓を建てると死者は快適な死後をお くることができるというのです。 それが展開され、死者にとっていい 気をもった土地であるのならば、生き ている者にとってもいいだろうという 考え方が出てきます。正確に言うと、 快適な死後の生活を与えてくれた子孫 への感謝として、福運を与えるという 図③


空気とか大気であると考えてもいいの ですが、そう考えるといくつか大きな 問題が出てきます。 気は人体のなかもグルグル回ってい ます(図②) 。血液が体内を通る道が脈 で、気が体内を通るルートを絡と言い ます。人体をどう解剖しても、絡など というものは出てきません。気という ものは、実体のあるものとは別のもの として理解しなくてはならないという ことです。何かというのがわかってい ないものにあまりこだわっても意味が

ないので、ここでは景観ということに 焦点を当てて話を進めたいと思います。 初期の風水説は、墓地の選定に用い られました(図③) 。死んだ人をどうい う土地に葬るのがいいのかということ です。いい気があふれている土地に死 者を葬ると、死者は死後の世界で安楽 に暮らせます。死者が安楽に暮らせる

図①

と、子孫に福運を与えてくれます。そ のために良気の溢れている場所に死者 を葬りたいというのが風水説の出発点 です。 では具体的にどういうところがいい のかというと、 図④のような土地です。 北側に主山という割合に高い山があり、 西側と東側に小高い丘陵があって、そ

図②

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側に東山があります。山に囲まれてか なり深い森林があります。実際には東 側に鴨川が流れていて、西と東が入れ 替わっているのですが、京都の人たち は、こういう地形をもっているから一 〇〇〇年にわたって日本の王城の地と して栄えたとよくおっしゃいます。航 空写真を見ると地形のありさまがよく

分かります (図⑦) 。 日本的に考えると、 こういう土地はいわば盆地に近いので、 冬は寒くて夏は暑いという状態になり ます。 中国の研究者に聞いたことがありま す。「このようなところを人工的に作っ てみたらどうなるのか。そこには一〇 年か二〇年後にはきちんと気が湧いて くるのか」と。 「うーん」ってうなって、 「そうなるかもしれない」と答えまし た。気というものがどういうものなの か、大体それで理解できるのではない かと思います。 こういう土地の選択法は、いまも中 国社会でかなり一般的に行われている のですが、それにもまして韓国では、 あらゆる吉凶事を風水説で解釈するよ うな風潮があります。韓国の場合は建 物の建設や墓地の選択法として行われ ていますが、何か事故が起きると風水 説によって解釈する風潮があります。 風水説の一番の思想的な基盤として 図⑦

は、やはり気というものをどういうふ うに理解するのかというところにある のでしょう。気のもつ作用、あるいは 気のもつ力に支えられた一つの地理感 が、中国、韓国、古代の日本で一つの 環境論として信仰されていったという ことです。

河本 ありがとうございました。 日本には、半分は人の手が入り、半 分は自然状態で、ずっとそれで維持さ れている場所が全国にたくさんありま す。一番わかりやすいのが神社です。 日本全国に七万五〇〇〇カ所ぐらいの 神社があり、だいたいが風の通りがよ くて、水の流れもよくて、場所の喚起 力のようなものがあるようなところが 選ばれています。特に「一の宮」と称 するところはそういう場所が多いです。 これが寺院になると、極端な例が枯山 水で、人工化が進みます。人工化しな いというのが神社のよさで、できるだ

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ことで家の永続性を示します。禄とは 俸禄の禄、つまりお金であり富という ことになります。寿とは寿命、長寿で あるということです。良気をもった土 地とは、この三つを十分に満足させる 土地だということです。そして、そう いうところに家を建てる、あるいは都 市を造ると繁栄を極めるというような

図⑤ 考え方が出てきました。 もともと、気は体内を流れるバイタ ル・フォースとして理解されていまし た。漢方医学ではこの気の流れが滞る と病気になる。気の流れの要所要所に は、気を溜める気穴というツボがある と考えます。風水説ではこの気穴が良 地にあたります。つまり、大地を流れ

図⑥

る気も人体を流れる気も、まったく同 じ気であり、あらゆるものに生命を吹 き込む命の源泉ということになります。 実際に中国に行きますと、このよう な風水の良地とされるところは、景観 として非常に優れています。中国は揚 子江より南では、湧いてくる水はたい てい黄土が混じっていてなかなかいい 水がないのですが、このようなところ ではかなり澄んだ水が湧いたり、流れ ていたりします。ですから、風水説は 理論として作られたというよりも、経 験上のものではなかろうかと思われま す。中国人は、気という実際には存在 しないような概念に対してもいろいろ と理論的な説明をしています。 気のいいところに都市を築くと数千 年にわたって栄えるという考え方は日 本にもかなり大きな影響を与えていま す。 「千年王城の地」といわれる京都が まさにこの通りになっています (図⑥) 。 一番奥が比叡山で、西側に衣笠山、東

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図①

はもっと緻密な絵を使われるのですが、 わかりやすさということから水循環を 代表としたこの絵を私どもはよく使っ ています。 この物質循環がうまく調和がとれて いればいいのですが、いまはそうでは なくなっています。明治以降、とくに 戦後、里地・農村・山村から都市へと 人口が移動してバランスが崩れました。 農村・山村でも開発があって、循環が いろいろに分断されています。 それと同時に、もう一つの問題があ ります。 われわれは森里川海から日々、 きれいな空気、おいしい水、四季折々 の食材といったさまざまな生態系サー ビスを享受しているのですが、それは 森里川海の自然資本のストックをきち んと管理することによって得られるフ ローを頂戴しているということです。 金融でいうと、元本をきちんと積み立 てることで利息や配当が得られるとい うことです。近代、とくに戦後の人間

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けその土地の植生なり自然を活かしな がら、人間が集まるような場所をつく ったので、風水説とはまた違った選ば れ方があったのは事実だろうと思いま す。

山田 江戸を作るときには、勝堂上人 という人がいろいろと考えて、日光か ら江戸に向かってジェット噴流のよう に良気を送るのだということで、江戸 の北にあたる日光に東照宮を作ったと いう説があります。日光に行くと、金 谷ホテルの入り口の坂のところに、高 さ五〇メートルぐらいの岩山がありま す。そこを少し登ると、磐裂神社とい う小さな神社があります。大きな一枚 岩が真ん中で裂けているようになって います。その裂けた間から気がジェッ ト噴流のようにして江戸に向かってい るという信仰があるらしいです。日光 に行かれたら金谷ホテルの入り口にあ りますのでごらんになったらいいと思

います。

河本 どうもありがとうございまし た。それではもうひと方、中井先生お 願いします。 環境・ 生命文明社会と つなげよう、支えよう森里川海プロ ジェクト 中井 冒頭の基調講演で武内先生か ら、環境・生命文明社会について環境 審議会の意見具申が二〇一四年夏に出 されたというお話がありました。それ を具現化していくときの大きな一つの コンセプトとして「つなげよう、支え よう、森里川海プロジェクト」があり ます。いま国民運動展開中で、ここで はそのお話をさせていただきます。多 角的にいろいろな取り組みをし、その 際にシンプルにわかりやすくというこ とを心がけていますので、今日の話も

概念的にやや乱暴な部分もあろうかと 思います。 森里川海の循環系を図①のように描 いています。われわれ人間も含めて生 きとし生けるものは、森里川海の自然 の資本から生態系サービスを日々享受 することで生存が成り立っています。 端的にいって、人間も森里川海の連環 系のなかの一部で、みんなつながって います。武内先生からは、人間のかか わり方がもっとわかるような図にしな さいといわれていて、武内先生ご自身

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っています。すべてがリンクしている のです。 もしも、環境、経済、社会の問題が 同時に統合的に解かれた絵が想像でき なくて、そこに向かっていくというこ とがないままに、一つひとつの部分的 な問題解決をしようとしたら、たとえ ば環境にはいいけれど社会の方は悪く なるといったことになりかねません。 そこでトータルに環境、経済、社会が 調和した姿を、明日すぐにというのは 無理だけれども、二〇五〇年なり二一 〇〇年には実現できるような絵を描こ うということで、真に持続可能な循環 共生型社会の概念を提唱しました。そ れが環境・生命文明社会です。 環境・生命文明社会へのアプローチ として、環境政策上の三つの問題、す なわち温暖化、資源循環、自然との共 生に関して統合的に解決されるように ということから六つの基本戦略を立て ました。環境と経済が対立する時代は

もう終わって、環境をよりよくするこ とがグリーン経済として環境と経済の 好循環を生み出し、それが地域経済循 環の拡大につながります。そして健康 で心豊かな暮らしの実現をめざします。 さらにここが大事なところで、武内先 生がとくに強調しておられるのが、ス トックとしても国土価値の向上という ことを基本戦略に入れています。そし て、環境技術の開発・普及、環境外交 の展開も大きく打ち出しています。 温暖化については、二〇一五年一二 月のパリ協定で二一〇〇年までに世界 で二酸化炭素が増えない構造に変えよ うということなりました。これは革命 的ともいえる世界の認識転換です。日 本は、 第一次安倍内閣のときにG7で、 二〇五〇年までに先進国は二酸化炭素 の排出を八〇パーセント減らそうとい う提案をし、 閣議決定もされています。 これは努力目標として掲げるものでは なく、環境・生命文明社会の基本的な

エレメントとして真に八〇パーセント 減らすことが重要です。それが実現で きないと温暖化は食い止められないの です。本当に実現できるのかという検 証を二月にもう一度やり直しました (図③) 。 二酸化炭素の排出を減らすというこ とは、要するにエネルギーの使い方を 変えるということです。二〇五〇年の 段階でエネルギーの最終消費量を四割 減らし、減らして残ったものの九割を 二酸化炭素が出ない発電方式に変える ことで、八〇パーセント減が実現でき ます。非常に高いハードルです。環境・ 生命文明社会に向かっていくにはかな りのステップアップが必要で、いまか ら大きく変わっていかなければなりま せん。 そこのことをみんなで認識して、 みんなで目標に向かっていかなければ なりません。それで、国民運動を展開 するということになったのです。 環境・生命文明社会に向かっていく

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図②

社会の激しい変化によって、元本をき ちんと保っているから利息や配当が出 るというところが見失われてきている ということがあります。 「森里川海プロジェクト」の根本概 念は、武内先生からお話があった中央 環境審議会の意見具申です(図②) 。環 境に関して温暖化や生物多様性の減少 などのいろいろな問題があり、経済や 社会に関しても社会保障費の増大や国 家財政の赤字とか、人口減少・高齢化 で地方が消えるとか、自然災害など大 きな問題がいろいろあって、しかもそ れらが複合的に連関しています。たと えば、温暖化を防ぐために化石燃料の 使用を減らそうとすれば、中東からの 三〇兆円の石油の輸入が変わることに なって、それはまさしく経済の問題で す。人口減少と高齢化のなかで人が都 市に移住して森里川海が見捨てられる という流れのなかで、鳥獣被害が起こ

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図④

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図⑤


図③

アプローチはいろいろあります。自然 の生態系サービスを与えている森里川 海に着眼したところで国民運動を展開 しているのが今日お話するプロジェク トです(図④) 。その必要性としては、 人口動態ということを一つ押さえてお きたいと思います(図⑤) 。これまでの トレンドとして都市に人口が集中し、 今後もさらに続くと予測されています。 そのような状況があるなかで、森里川 海と人の関わり方の問題に取り組まな ければなりません。都市に人口が集ま ったことの裏腹として、従来の衣食住 やエネルギーを支える資源をローカル に回してきたという構図から、中東か ら三〇兆円もの石油を買わなければ支 えられないという構図になりました (図⑥) 。食物についても、肉をたくさ ん食べるようになった結果として、牛 や豚が食べる穀物をオーストラリアや 南米から大量に輸入するようになりま した。日本の食料の自給率は四〇パー

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図⑦

状態であることから、気候変動によっ て集中豪雨が増えるなどした影響によ って、災害が激甚化しています。そし て、子どもたちが自然の体験を経ない まま大人になるということも深刻な問 題です。 問題がたくさんあって未来がないと いうことではなくて、環境・生命文明 社会に向かってひとつひとつ可能のあ ることに取り組んでいく必要がありま す。まず人間の生存を支えるエネルギ ーについてみていくと、バイオマス、 風力、太陽光、水力など自然エネルギ ーのポテンシャルを環境省が試算した ものがあります(図⑧) 。現在使ってい る電力量の一・七倍のポテンシャルが あります。北海道や東北では、自然エ ネルギーで発電したもので地域の需要 をまかなった上で、余ったものを東京 などの都会に向けて出すことができま す。それを可能にするには、送電線の 整備とかいろいろなことが必要ですが、

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図⑥

セントという状況で、そのことは世界 中の農地を使って日本人が食べている ということを意味します。農地ではた くさんの水を使うので、われわれ日本 人は国内で水を使っているだけではな くて、海外でも水をたくさん使ってい ることになります。そのような水をバ ーチャルウォーターといい、世界の先 進国のなかで日本はとりわけたくさん のバーチャルウォーターを使っていま す。 そのようななかで、森里川海は危機 的な状況になっています(図⑦) 。端的 には資源の枯渇です。わかりやすい例 として、ニホンウナギは絶滅危惧種に なってしまいました。森林についてみ ると、戦後の拡大造林で針葉樹を中心 に植林したものが、経済的に合わない ということで、切って売ることも、間 伐もできない状況になっています。人 工林が増えたけれど、非常に不健全な 状態になっています。森林が不健全な

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図⑨

になっています。わかりやすく国民運 動を展開していくために、二つの目標 を掲げています(図⑪) 。第一に、 「森 里川海を豊かに保ち、その恵みを引き 出す」ということ、第二に、 「一人一人 が、森里川海の恵みを支える社会をつ くる」ということです。地域ごとに多 様な自然があるので、それぞれの地域 でやれるプログラムを提示し、地域ご とに異なるかたちでコミットするよう なことになります。 具体的な取り組みのアイデアはさま ざまです(図⑫) 。森林の健全化、生態 系を活用した災害対策、江戸前など地 域産食材の再生、トキやコウノトリを 自然に戻すことによって地域の農業の 再生を図る、風景の再生、自然エネル ギーも含めた産業の活性化、鳥獣害を 逆手に取って狩猟の文化を再構築する、 都市と農山村が交流して子どもたちに 自然の恵みを知ってもらう、ライフス タイルの転換といったようなことを、

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図⑧

マクロで見た場合にはそのようなこと ができるのです。具体的に地域で自然 エネルギーの活用に取り組んでいくと きに一つの助けになるのが地域経済循 環分析の手法です(図⑨) 。水俣市は毎 年約一〇〇〇億円のマネーのフローが あります。そのうちの八六億が九州電 力に払っているエネルギー代です。水 俣市に存在するバイオマスや水力で発 電すれば、その八六億を外に出さずに 地域のなかにとどめおくことが可能に なり、地域経済の活性化に使うことが できます。 以上のようなことを背景として、「つ なげよう、支えよう森里川海プロジェ クト」を国民運動として展開してきて いるところです(図⑩) 。二一〇四一二 月に勉強会形式で立ち上げ、二〇一五 年六月に中間取りまとめをしました。 全国フォーラムのようなかたちで約五 〇カ所、四〇〇〇人の方々の意見を聞 きながら、最終取りまとめをすること

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図⑫ 77


図⑩

図⑪ 76


図⑭

と同じように、一日一円ぐらいのお賽 銭を払う気でみんなでストックを増や すことをしませんかということを私ど もから申し上げているところです。 全国的にフォーラムやシンポジウム を開催し、いろいろなたくさんの意見 をいただいています(図⑭) 。今年は地 域ごとに具体的に見えるかたちにして いきたいと考えています。そして、全 国的にさらにこの概念を普及していこ うと考えています。わかりやすい話と しては、子どもの自然体験を増やすこ とをしたり、若い世代が真に安全・安 心・健全な食べ物を求めているという ことがありますから、そのマーケット があるということを見据えることをし たり、いろいろなことが考えられてい ます(図⑮) 。今後さまざまなアクショ ンをおこしていこうとしています(図 ⑯) 。 地域の協議会についてもだいぶ具体 的になってきていて、東近江市などで

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図⑬

それぞれ心ある地域で始めていこうと しています。実現に向けては、協議会 のようなものを立ち上げて、 行政の方、 専門家の方、NPO、企業、住民など いろいろな方に入っていただいてプロ グラムを作っていくということを全国 的に働きかけてきました(図⑬) 。 そのときにもちろんお金が必要です し、人手もいります。とくに森林整備 について財源がないというかねてから の問題があって、このプロジェクトで は森林整備についてある種の新しい税 のようなものをサポートしていこうと しています。ストックとフローの話で いいますと、いまの日本の森林は元本 割れになっているような状況です。気 候が変動して災害が多発する現状があ るわけですから、元本をみんなで積み 立て直す必要があると思います。日本 人は、災害がないようにと、神社・仏 閣で手を合わせて祈ってお賽銭を出す ということをよく行っています。それ

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図⑰

図⑱ 81


図⑮

図⑯ 80


真に生命体のメカニズムに 合ったものを 河本 それでは、これより全体討論に 移ります。お話をいただいた先生方か らでも、フロアからでも、何かご質問 やご意見があれば出していただきたい と思いますが、最初に松尾先生からコ メントが何かありましたら頂戴したい と思います。 松尾 中井さんのお話は非常に興味 深い取り組みであると思いました。そ

のなかでストックとフローの話に興味 を持ちました。経済指標でいうと、G DPなどはフローを見ているものなの で、ストックをどう評価してどのよう に経済指標に反映させるのかというの が大きな課題だと私は思っています。 環境でもやはりストックに着目すべき だということなので興味を持った次第 です。 それと、お賽銭の話をされていまし た。それはありうるのかもしれないと 思いました。何かいいことが起きるこ とを願って人はお賽銭をあげるのです が、それと同じようにして環境にお金 を出すということはあるかもしれませ ん。 一方で、マーケットは買う人がいて くれないと成立しません。日本のいま のデフレの状況は、買うものがなくな ってしまったというところからきてい るところがあると思います。いくらた くさん消費をしようとしても、二四時

間で使えるお金は案外限られていて、 食べるものでも一度に二食分は食べら れるわけではありません。地域経済の 活性化ということで新たなマーケット が成り立つ可能性はあるのでしょうか。 何を売るのか、何を求めて買いにくる 人がいるのか、そのあたりの見通しは 立つのでしょうか。

中井 この国民運動でかなり反響が あるのが若い世代の女性です。たとえ ば、東京に住んでいてお母さんになり かけたぐらいの女性たちが求めている のは、真に健康なものは何なのかとい うことです。私たちは日々何かを食べ ているわけですが、 良好な自然循環で、 農薬などを使わずに栽培されたものを 食べたい、とくに子どもたちにはそう いうものを食べさせたいと思っている 人がたくさんいます。化粧品なども自 然系のものを使いたいということもあ りますし、腸内フローラの話や、生き

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図⑲

は金融機関も入ってファンドを作って いくようなことが進められています (図⑰) 。 それらを先行事例として全国 的に展開して、五〇年、一〇〇年とい う視野で環境・生命文明社会の未来を 見つつ、やれることを足元からしっか りとやっていくということです (図⑱) 。 環境省のホームページで 「森里川海」 で見ていただきますと、いろいろな方 からご意見をいただけるようなかたち にもなっています(図⑲) 。ぜひご覧い ただければと思います。

河本 ありがとうございました。中井 先生へのご質問やご感想はこの後の全 体討論のなかでしていただければと思 います。

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見方には批判的になるだろうと私は思 うのですが、いかがでしょうか。持続 可能性というのはもともとは一八世紀 初期のドイツ森林学から出てきた言葉 です。森林学には、自分が死んだ後の 森林のあり方を絶えず考えるというこ とがあって、そこから持続可能性とい う概念が生まれてきたのです。ここに もやはり自然自体が第一次的な意味で の生産をしてくれているという考え方

があるのだと思います。 もう一つは、今日は四人の方々がそ れぞれの観点や立場からお話されたの ですが、 シンポジウムのタイトルが 「里 山の思想」なので、思想について語ら れることを期待してきたものですから、 「里山の思想」ということで一体何を 考えたらいいのか皆さんからお話いた だけないでしょうか。

武内 私からは一つ目の質問にお答 えしたいと思います。ストックをどう 管理して、フローをどう利用していく かについて、いままではどちらかとい うフローの方に注目してきました。し かも、経済的なもののフロー、人工物 的なもののフローを中心に考えてきま した。私たちはSATOYAMAイニ シアティブを展開するに当たって、い ろいろな資本を見ていかなければいけ ない、いろいろなサービスのフローを 見ていかなければいけないという観点

に立ち、とくに自然資本と生態系サー ビスを再評価するのが非常に大きな課 題であると考えています。 最近、私たちの仲間は「包括的な富」

) を提唱しています。 ( inclusive wealth 人間の福利を考えるときに、目先の物 資的な豊かさだけではなくて、健康だ とか、心の豊かさだとか、生きがいと かが非常に重要になってきていて、と くに日本の超高齢化社会では新しい豊 かさを求めていくべきといわれていま す。そうしてさまざまなサービスを享 受することの重要性をきちんと理解し て、サービスが適切に評価されるよう な社会的な仕組みを作っていくことが まず課題としてあります。そのための 指標になると考えられているのが「包 括的な富」です。 それと現実的な問題として、森林や 農地や海域のストックが劣化している ということがあります。とくに注目さ れているのは、海域の資源の略奪によ

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物として健全で健康であるというのは どういうことなのかを学びたいという 思いを抱いている人がたくさんいます。 森里川海の自然循環が健全だというこ とは、究極的には無農薬の農業につな がっていきますから、そういうものを 求めたいという人々は森里川海のプロ ジェクトに加わっていただけるのでは ないかと思っています。 マーケットについていいますと、お

金を出して買ってもらうようにすると いうことは環境省の目指していること では必ずしもありません。時間はかか るかもしれないけれど、経済の質の転 換ははかっていきたいと考えているの です。もう買うものはないでしょうと いうことではなくて、 真に安全なもの、 真に生命体のメカニズムに合ったもの でわれわれの衣食住を構成していくよ うにしたい、そういうものを求める声 が女性を中心として出てきていて、一 つの大きなうねりになる可能性があり ます。そのことと森里川海の自然循環 が健全になっていくこととが結び付い たらと思っているのです。 お賽銭の話は結構うけます。お賽銭 といっても税金と同じです、住民税と かに上乗せになりますよといっても、 それを森の整備に使って、子どもたち に世代に反映するのなら早くやった方 がいいという声は結構あります。

河本 既存の需要では満杯になって いても、新たな需要が作り出されて、 その部分からネットワークが動き続け るようになるという考えなのだろうと 思います。

ストックとフローをめぐって

――二つ質問していいでしょうか。一 つはいまの議論と直接関係することで、 もう一つはいささか大きな質問です。 ストックとフローという考え方につ いて武内先生にお尋ねしたいと思いま す。先生がご紹介になったSATOY AMAイニシアティブの考え方によれ ば、自然が行っている生産を第一次的 生産であると捉えることが極めて重要 だということになると思うのですが、 現在の主流の経済学ではそれを第一次 的な生産だとは決して捉えていません。 だから、里山の考え方で行くと、スト ックとフローで経済を考えようとする

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です。現在もやはりなにがしかのかた ちでクライシスな状況にあるのだと思 います。そう考えたら、里山というシ ンボリックな言葉を巡って、何を思想 としてつかみたいのかという議論が当 然あってしかるべきだと私は思うので す。

河本 そのような問い掛けをして議 論を進めていくのが哲学の一つのやり 方です。つまり、言葉の出現に伴って 現実が明確化されるというとこから斬 り込んで、思索を展開していくという ことを哲学はします。しかし、概念と して里山を捉えて問いを進めていくよ うなことは、哲学以外ではあまりしな いのが普通ではないかと思います。 中井 里山の思想というご質問に対 して少しコメントしますと、われわれ 人類の文明がどこに向かっていくのか、 どう変わっていくのかということを考

えるときに、思想的に緻密な議論も必 要ですし、それと同時に、お母さんの 立場からのものの見方のようなものも 必要だろうと思います。さきほどご紹 介したようないろいろな運動をしなが ら思うの、学術的に循環なり共生なり が何を意味するかという定義付けから 入っていきますと、それをみんなで共 有するということにはなかなかなりま せん。しかし、私の感じでは、循環と か共生とかいう言葉はかなり日本人に は響きます。食べ物を見るにしても、 ごみを見るにしても、世の中の経済活 動を見るにしても、それがいいのかど うかを一人ひとりが判断をするにあた って、 循環と共生が基軸としてあって、 それに沿ったものなのかどうかという ところで見ていくのが大事なポイント ではないかと感じています。つまり、 学問的な議論とはまた違うところでの 一般の人々の捉え方というのも大切な ことであると思うのです。

里山は世界のモデルになるのか

河本 日本の社会のなかでは循環と 共生が相当重要だということでしたが、 たとえば中国とかアメリカではどうな のでしょうか。森里川海のプロジェク トで行っていることは、中国ではモデ ルにはならない可能性があるでしょう か。 自然資本の条件が違うところでは、 別の組み立て方を考えていくことにな るのでしょうか。

中井 SATOYAMAイニシアテ ィブの議論をしたときに、アジアやア フリカでは共有できる素地みたいなも のがあっても、西洋とは対立する面も ありました。スケールが一〇倍大きい 中国で森里川海のプロジェクトがモデ ルになるかならないかというあたりは 今後の課題だと思います。まず日本と してできることを行っていくというこ とだと思います。それで終わりではな

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る海域のストックの減少です。私たち はこの四月から、環境省の地球環境研 究推進費の支援を受けて、ストックと フローの長期的・短期的な評価をして いくために、日本のこの分野の学者を 総動員したようなプロジェクトを始め たところです。 「自然資本・生態系サー ビスの自然的・社会的・経済的価値の 評価」というタイトルの五年間のプロ

ジェクトです。まさに里山と里海の両 方を対象としています。 生態系サービスに注目すると短期的 な見方になるのに対して、ストックに 注目すると長期的な見方になります。 結論としては、ストックは極めて重要 で、長期的にストックが持続的に維持 されるような生態系サービスを活かし た社会の仕組みづくりを考えるべきと 思います。

里山の思想をめぐって 河本 本日のタイトルに里山を掲げ たのは一つのスローガンといいますか、 それを手がかりとして、このように考 え方を進めることができるとか、現実 的にこのように展開できるとか、さま ざまに分岐していくことが可能だとい うことから、里山というテーマを設定 したと理解しています。ですから、さ きほどのご質問に答えていくこともも

ちろん可能ですけれども、里山の思想 が何かということに関して問いを突き 進めていくと今日ここまで議論されて きたところとは別のところに力点が行 ってしまうように思うのですがいかが でしょうか。

――それはわかります。 里山という言葉は、江戸時代初期・ 中期にすでにあったと武内先生はいわ れましたが、最近の日本中世史の研究 家によれば、室町時代ぐらいにさかの ぼれるらしいです。 大変興味深いのは、 里山もしくはそれに類似したウシロヤ マとかムカイヤマとかいう言葉は、山 林なり資源なりが非常にクライシスに あったときに生まれたらしいのです。 一九六〇年代に四出井さんが里山とい う言葉を再発見されたときも同じだっ たと思います。われわれが失いつつあ る身近な自然に気付いたときに、里山 という言葉が再び立ち上がってきたの

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て健全で豊かに生きているという状況 を獲得するために、お金という道具が 使われる部分もあるだろうし、お金が 使えない部分もあるわけです。貨幣換 算できないものを地域の自然はもとも と持っています。心のつながりといっ たことにもより目を向けていこうとい うことです。いまのお金で計算してい る国民経済の道具立てを否定するとい うことではないと思います。

高林 里山というものの構造を考え ますと、いまわれわれは都市に住んで いて、その周辺に田や畑があり、その 周りにドーナツ状に里山があって、そ の向こうに奥山があるというのが基本 的なイメージです。風水の話に奥山が ありましたが、多様性が一番高いのが 奥山で、里山はそこから多様性の供給 を受けています。畑や都市では鎮守の 杜のようなものがあって、それによっ て多様性が少し保たれています。都会 の方からみたら、里山が多様性の供給 源としてとても大事だということにな ります。 心の問題でいうと、里山にハイキン グに行くと、みんなが「ああ気持ちが いい」と思います。ところが、奥山に 入り込むと気持ちいいと思うかどうか は結構微妙で、 「怖いので早く帰りた い」と思う人もいます。ある程度人の 手の入った環境で、われわれはなぜか 気持ちいいと感じるようです。昔の里

山の写真を見るといまの里山とは印象 が全然違います。管理が行き届いてい て、今の雑然とした里山から見るとか えって変な感じがするくらいです。し かしこれが昔の里山の基本形でしょう。 最近は分析の技術が進み、植物上の 微生物を丸ごと解析できたりして、多 様性についてさらに詳細に理解できる ようになっています。われわれが最近 調査を始めた水田は長い間無施肥・無 農薬で、稲を刈り取った後は何もして いないのですが、それでも慣行のだい たい六、七割は収穫できるそうです。 何か土に秘密がありそうですが、未解 明です。昔は土のなかの土壌微生物が すごく多様だったのが、いまは肥料を たくさん投入して多様性が変化してい る可能性はあります。そういう多様性 に、人間がうまく自然と調和して生き ていくための鍵あるのではないかと考 えています。それが「里山の思想」だ といっていいのかどうわかりませんけ

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くて、アジアモンスーン地域では共有 できるものがあって運動を広げられる のではないかと思っています。日本で しっかりと具現化して、国際的にどう いう広がりを持ちうるのかを皆さんと 一緒に勉強させていただいて、知恵を 頂戴していきたいと思っています。仮 に日本でエネルギーを使わない、ごみ を出さない、それでみんなが健康で幸 せだということに一〇〇年後になって

いるとしたら、それが世界に広がらな いことはないと思います。

金銭では測れないもの 山田 さきほどのフローの話で、物質 的なフロー、あるいは金銭的なフロー はいろいろに考えられているのですが、 もう一つ精神的なものを無視しては里 山や自然は論じられないと思います。 しかし、精神的なものをフローとして とらえることができるのか、そこのと ころは十分に考えないといけないと思 います。 河本 その点について、さきほど質問 された方から何かコメントがあります か。 ――興味深いこととして、藻谷幸介さ んの『里山資本主義』 ( KADOKAWA ) という本が爆発的に売れました。NH

Kが提案して里山資本主義という言葉 を付けたらしいのですが、藻谷さんが いっているのは、マネー資本主義に対 して何かしらマネーによるのでは資本 主義があるということで、そこでは交 換や循環を考えています。いま山田先 生がおっしゃったように、金銭的なフ ローでは測れないようなことが重要に もなってきます。われわれが自然の恵 みというときには、単に腹を満たすも のだけを考えているわけではありませ ん。そういうものも含めて生態系サー ビスとして捉えていこうということな のですが、サービスという言葉も経済 学用語で、現在の主流の経済学の発想 法では捉らえきれないものが多様にあ るのだということを語っていかないと いけないということのなかに里山があ るのだと思います。

中井 経済がすべてお金かというと そうでもないと思います。生命体とし

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あるわけです。われわれは人間の立場 から共利共生を図るようなことをいう わけですけれども、自然の方からした ら人間のために働きたくないというこ とだってあるかもしれません。自然の 立場から見て、人間との共生というの をどういうふうに考えたらいいのかと いう議論ももしかすると必要なのかな と感じました。

河本 それも大きなテーマだと思い ますが、それを扱うとなるとメンバー を入れ替えて、もう一回シンポジウム を開かないと話が進まないかと……。 山田 今日は松尾常務もいらしてい るので、来年も予算を付けていただい て……。 河本 他に何かおっしゃりたいこと がありますか。

高林 先ほどの日本でやっているこ とが中国やほかの国ではどうなのかと いうことで一つ補足しておきたいと思 います。日本の里山の農業は、狭い土 地で少量多品目というのが特徴です。 海外でも、途上国では、少量多品目の 農業はよく見られる形態です。ですか ら、日本の里山という社会の生態学的 な理解は、少量多品目の農業生産シス テムの地域なら国が違ってもならどこ でも当てはめることができる考え方に なると思います。さらにその理解を突 き進めていけば、多様性と生き物の環 境適応能力との関係について、里山環 境との関係に限らず、さまざまな農業 生態系に当てはまる一般的な考え方が 見えてくるかもしれません。経済的な 問題とは別のレベルですけれども、そ うことはとても重要であり、基礎生態 学的な理解は深めていく必要があると 思います。

河本 どうもありがとうございます。 実をいいますと、私は中国地方に大 きな森林を持っていて、それをストッ クだといわれてもいまは正直言って困 るなというのが実情です。人手を入れ て何かしようとすると必ず赤字になっ てしまいます。森林を活用するといっ ても簡単ではありません。ここは中井 さんにもうひと踏ん張り頑張っていた だきたいというのが正直な私の思いで す。 本日はいろいろたくさんの内容のあ る議論ができたと思います。まだまだ いろいろなご指摘、考えておかなけれ ばならないことがあると思います。そ ろそろ時間がきましたので、SSCの シンポジウムはこれで終わりたいと思 います。長時間まことにありがとうご ざいました。

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れど。

里山・ 里海の価値をより高める 仲上健一 今回のタイトルが「里山の 思想」なので、思想的にもう少し深い 議論がいるのではないかというコメン トをいただきましたが、思想の議論は 結着がつくようなものではなくて、里 山をどのように考えるのかというのは なかなか簡単なものではないと思いま す。 私はいま沿岸域の経済価値評価に取 り組んでいます。なぜ沿岸域の環境、 つまり里海を守るのかということの一 つの背景として、日本の漁民がこの二 〇年間で約三分の一に減って、現在で は約一八万人だということがあります。 漁民だけではもはや海を守ることはで きません。地域住民、あるいは日本国 民が海をどのように考えるのかという ことがバックグラウンドとしてきちん

となければ、里海というものは成り立 たなくなってきています。 いまから二〇年前に瀬戸内海の経済 価値を評価した結果があって、約五〇 〇兆円した。同じ手法で私たちが行っ た結果がつい一週間前に出て、約二三 〇〇兆円です。これだけ違いがあるの は、国民が海の価値をどう捉えるのか かなり変化してきたからです。里山と か里海に対して中井さんが紹介された 国民運動をすることなどで、里山とか 里海の価値がより上がっていくことに なるでしょう。約二三〇〇兆円という 数字をGNPと比較するという発想で はなくて、里山・里海がより活用され て、海の価値がさらに上がって行くと いうことの議論が必要ではないかと思 っています。

河本 ここで正直なことをいいます と、今回のシンポジウムのタイトルは 「持続可能な地球」でも「持続可能な

環境」でもよかったのです。言葉の意 味は厳密に考えなくていいから 「里山」 を掲げたようではないかという意見が あって、それでこのようになったとい う事情があります。

山田 そういうことではあったので すが、大きな地球環境や、あるいは森 林をテーマにすると、自分たちの生活 圏から離れて、あまり具体性をもたな くなるのではないかと思って、身の周 りにある里山を出した方がいいのでは ないかと考えました。それと、人間と 自然が共生するという視点で考えるに は、里山は恰好のテーマであるという こともありました。 今日のお話は、里山にしてももっと 大きな自然にしても、人間がそれとど う関わっていくのかという議論であっ たと思います。しかし、立場を変えて みると、自然の側から人間とどう関わ って生きていくのかという問題も当然

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に終了しましたが、その後も、関係各 位のご努力により、二〇一〇年五月か らはSSCとして自主的に教育・研究 組織を維持してこられたことに、深く 敬意を表するものです。 東洋大学としましても、IR3S終 了後も「東洋大学エコ・フィロソフィ 学際研究イニシアティブ」 ( TIEPh ) を維持し、特に二〇一一年度に文部科 学省の私立大学戦略的研究基盤形成支 援事業に採択され、二〇一五年度まで 活発に活動してまいりました。環境問

題もしくはサステイナビリティ問題に、 人文学の分野から一〇年以上にわたり、 一貫として取り組んで来たことには、 大きな意義もあったのではないかと思 います。これも、IR3SもしくはS SCの熱心な活動に支えられてのこと であり、関係各位に厚く御礼申し上げ る次第です。 地球社会のサステイナビリティの問 題が、今日、依然としてきわめて重要 であることは、論を待たないことでし ょう。たとえば国連では、二一世紀に はいってから昨年二〇一五年までの一 五年間に達成すべき目標として、八つ のゴール、二一のターゲットからなる 「ミレニアム開発目標」 ( Millennium )を掲げ Development Goals; MDGs ていました。しかしその一五年間にお ける目標達成度は決して高くなく、依 然として諸問題が残されていることは いうまでもありません。そこで今年か

らの次の一五年間に達成すべき目標を、

として策定することが ポスト MDGs 必要となり、今年二〇一六年から二〇 三〇年までに達成すべき一七の持続可 能な開発目標と一六九項目のターゲッ ト等からなる、「私たちの世界を転換す る:持続可能な開発のための二〇三〇

ア ジ ェ ン ダ 」( Transforming Our World: 2030 Agenda for Sustainable )を採択したとのことで Development す。その内容は、やはり貧困と飢餓に 終止符を打つ、健康と福祉の確保、学 習機会の普遍的な提供、ジェンダーの 平等の実現、持続可能な経済成長、国 内および国家間の不平等の是正などで あり、また気候変動や環境保護にも取 組むとしています。 これらの諸問題を解決していくため には、まさに「サステイナビリティ学」 の構築がぜひとも必要なのだと思われ ます。その意味で、SSCの役割には 大変大きなものがあると言わざるをえ

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研究集会報告

第7 回

サステイナビリティ・サイエンス・ コンソーシアム研究集会

●主催:一般社団法人サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム(SSC)

東洋大学国際哲学研究センター( 「エコ・フィロソフィ」学際研究イニシアテ ●日時:2016 年 6 月 3 日(土)13:00~18:00 ィブ)

●会場:東洋大学 125 記念ホール

司会(山田利明) それでは定刻でご ざいますので、ただいまより一般社団 法人サステイナビリティ・サイエン ス・コンソーシアム(SSC)の研究

■開会挨拶

竹村牧男 たけむら まきお

東洋大学学長

本日は、一般社団法人サステイナビ リティ・サイエンス・コンソーシアム (SSC)の研究集会ということで、 東洋大学にようこそお集まりください ました。心より歓迎申し上げます。 このSSCの前身は、科学技術振興 調整費(戦略的研究拠点育成)に採択 された「サステイナビリティ学連携研 究機構」 (IR3S)で、私ども東洋大

集会を始めさせていただきます。 では、初めに本学の竹村学長より皆 さまにご挨拶させていただきます。

学も哲学方面を担当する協力機関とし て参加させていただいておりました。 IR3Sは、 「サステイナビリティ学」 という新たな学問体系を構築しようと いう、野心的な構想の下に活動してい たわけで、その追究は今日の地球社会 にとって実に重要なことだと思います。 科学技術振興調整費によるIR3Sは、 二〇〇五年度に始まり、二〇〇九年度

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■講演

)に取り組んでいます。 発目標( SDGs それも加えて生活環境、身近な環境問 題についてお話したいと思います。

きたいと思います。 「生活環境分野の国際協力と大学」 という題を付けましたが、現場での経 験を紹介して、それをどう大学の今後 に生かすかということを考える場にし たいと思います。国際共生社会研究セ ンターにも所属していて、そちらでは 先ほど学長が申しました持続可能な開

生活環境分野の国際協力と大学 きたわき ひでとし

北脇秀敏 東洋大学副学長・国際地域学部教授

皆さん、ようこそ東洋大学にお越し いただきました。ありがとうございま す。これよりお話をさせていただきま すのは、先生方がされているような高 度な研究とは真逆にあるといいますか、 泥の上を歩いていくような、身近な環 境問題のお話です。 本学の学祖以来、研究等で究めたこ とを、一般の人たち、実際の現場の人 たちに還元するというのが本学の一つ の大きな哲学でありますので、 今日は、 現場での経験、 アクト・ローカリー ( act )を中心にお話をさせていただ locally

途上国における問題

まず私の自己紹介になりますが、環 境・衛生が専門です(図①) 。一九八四 年にJICAの仕事でソウル市のゴミ 処理計画を作ったのを皮切りに、国際 協力をライフワークにしてきました。 これまでに民間のコンサルタント、世 界保健機関(WHO) 、ミャンマーなど でのNGO活動、それから大学で活動 してまいりまして、いろいろなところ

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ません。ぜひ皆様のご尽力により、新 しい文明原理の創造を果たしていかれ ますよう、期待しております。 東洋大学では、昨年度で、 TIEPh の 外部資金による運営が終了しましたが、 今年度も大学による予算措置でこの研 究組織を維持しています。今後も、共 生ないしエコ・フィロソフィ研究を推 進していくために、大型科研等に応募 して、研究活動のさらなる発展をめざ したいと思っています。 なお、二年前に、本学は文部科学省 の 「スーパーグローバル大学創成支援」 に採択されたことにより、遅ればせな がら、英語による授業も増やしており ます。そうしたことから、今後、大学 院におけるサステイナビリティ学教育 の面においても、開拓してまいりたい と思います。また、来年、本学は創立 一三〇周年を迎えますが、新設・再編 等により、三つの学部、五つの学科を

発足させます。中に国際学部グローバ ル・イノベーション学科を設置する予 定であり、グローバルな諸システムの 改革を追究してまいりますので、ここ でも、サステイナビリティの問題に取 り組むことになると考えます。そうい うわけで、今後とも、東洋大学のさま ざまな教育・研究活動を、どうぞよろ しくお願い申し上げます。 最後に、本日の研究集会が、実り豊 かでありますよう、お祈り申し上げま すとともに、SSCおよび参加各組織 の、ますますの発展を心より祈念申し 上げまして、歓迎および開会のあいさ つとさせていただきます。 どうもありがとうございました。

司会 本日のプログラムは、このあと 一時間ほどの講演があり、一〇分ほど 休憩を取ってから、五名の先生方に研 究報告をしていただきます。全体討論

を含めて終了するのが一八時過ぎとい うことになります。その後に、恒例に なっております懇親会を予定していま す。 それではこれより本学の北脇教授か ら「生活環境分野の国際協力と大学」 という題でお話をいただきます。

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人たちが考える環境問題は違った側面 があります。そのようなところを、感 染症の話も交えてお話をしたいと思い ます。 私はバングラデシュには三〇回ぐら い行きました。図③はダッカからマニ ゴンジにに行く途中の煉瓦工場です。 バングラデシュの国土の大半は泥が堆 図③

る工場は女性や子供が収入を得る場と なっていました(図④) 。最近では児童 労働が大きな社会問題になり、子供た ちが学校に行けるようにしようと、た とえば、 「フード・フォー・エデュケー ション」 というプログラムがあります。 学校の出席率が八五パーセント以上あ ると、その児童の親にひと月二〇キロ の米をあげるという仕組みです。その ようなこともあって、児童労働は減っ てきています。 一方で、最近では砕石機が導入され て、コツコツと煉瓦を砕いて少ない収 入を分け合うというのではなくて、機 械を買える大きな会社が仕事を独占し て骨材を作るようになってきています。 一握りの金持ちと大勢の失業者がいる という状況になって、ジニ係数が大き くなることが懸念されています。バン グラデシュで進んでいる建設ラッシュ の裏にはそのような貧富の差の拡大も あります。

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積してできた世界最大のデルタ地帯で、 石ころを見たことがない人がいるとい います。ビルを建てるために、遠くか ら石を運んできて骨材にしてコンクリ ートをつくるということもしてはいま すが、泥で煉瓦を焼き、その煉瓦を砕 いて骨材にするということを長年やっ ています。煉瓦を焼いたり砕いたりす 図④


でそれぞれ必要となるようなことを考 え、実践してきました。そのようなこ とから、途上国支援の哲学といったよ うなものもそろそろできてきたかなと 考えているところです。 環境問題の「三同時」ということは よくいわれていると思います(図②) 。 生活環境、公害問題、地球環境という

図①

三つのタイプの環境問題が一挙に同時 に出てきているのが途上国です。とく にここでフォーカスしたいのは健康問 題です。WHOでは健康が第一優先、 環境が第二優先と位置付けています。 環境は何のためにあるかというと、 人間の健康を守るためです。環境がよ いと逆に健康に悪いということも実は

図②

あります。 日本人にとっていい環境は、 たとえば蛍はいるけれど蚊がいないと いう身勝手な環境です。蛍がいるとこ ろには、 その餌になる巻き貝がいます。 開発途上国では、巻き貝が中間宿主と なる住血吸虫が生息しています。 日本でも昔は日本住血吸虫がいまし た。いまはなぜいなくなったかという と、農薬を使ったことで環境中の巻き 貝がいなくなったからです。住血吸虫 は人間が水の中に入ることで感染する 病気です。農業が機械化されて人が水 の中に入らなくなって感染がなくなり ました。そして、農業用水路がコンク リート三面張りの人工的なものになっ て、やはり巻き貝が住める環境ではな くなりました。その結果、蛍はいなく なり、日本住血吸虫もいなくなったの です。 このように、健康と環境がバッティ ングするような場がたくさんあります。 日本人が考える環境問題と、途上国の

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するようになったりとか、いろいろな 要因で代々木公園等でデング熱が感染 したのだろうと考えられています。地 球環境の変化によって病気の面でもい ろいろな変化が生じているのです。 図⑦のような水を運ぶシーンを、い ろいろなところでご覧になったことが あるかと思います。水を運ぶ距離が二 倍になれば、同じ時間で運べる水の量 は半分になります。一人が一日に必要 とする水は、生存のためには二リット ル、暑い気候では六リットルとされて います。ただし、六リットルの水では 顔を洗うことはできません。国連難民 高等弁務官事務所(UNHCR)は難 民キャンプで必要な水は一人一日一五 リットルだとしています。水から一定 以上の距離になると必要な水が手に入 らなくなります。都市部でも貧しい人 は水道の水にありつけなくて、漏水し た水を汲んだりしています(図⑧) 。水 売りから水道の一〇倍の価格の水を買

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事例もあります。日本で最近デング熱 がはやったのは記憶に新しいと思いま す。人の行き来がさかんになるグロー バル化によって、海外から帰ってきた 人がウィルスを日本に持ち込んだり、 温暖化によって蚊が発生しやすくなっ たり、環境のためを思って節水しよう と雨水をためて、その雨水で蚊が繁殖 図⑧

乗ってアフリカから脱出してパリの下 水道で越冬して、そして人を刺して病 気を感染させたのです。ハマダラカの 生息範囲がだんだんと北上しています。 温暖化のためです。 地球環境の変化によっていままで雨 が降らなかったところに降るようにな り、新たにマラリアが出てきたという 図⑦


二〇〇〇年からモンゴルのウランバ ートルでも仕事をしました。相手側か ら要請書を出してもらい、それを案件 にしてJICAの開発調査をするとい うことをしました。図⑤の写真は雲海 のように見えますが、冬のウランバー トルの大気汚染です。あと一〇〇万年 たつといい石炭になるといわれている

図⑤ 泥炭を燃やして暖を取っていて、それ によって大気が汚染されています。あ えて火力発電所を街の真ん中に作って、 その余熱を供給して街を温めるという ことをしています。ウランバートルで は大気汚染だけではなく、ゴミ処理の 問題などさまざまな環境問題がありま す。

図⑥

世界にはいろいろな環境問題があり ますが、ここからは私の専門でもある 水に関連する感染症を紹介していきま す。水によって運ばれる病気として、 コレラや腸チフスがあります、逆に水 がないことによっておこる皮膚病やト ラコーマがあります(図⑥) 。そして、 水のなかに宿主がいる病気として、た とえば、やっと絶滅宣言が出るか出な いかというメジナ虫症があります。写 真では手からメジナ虫が出てきていま すが、水供給がしっかりしていないた めにメジナ虫の幼虫であるミジンコを 飲んでしまうことによってこのような ことがおこります。さらに水のなかで 繁殖する媒介昆虫による病気として、 ハマダラカによるマラリアがあります。 最近パリでもマラリアが感染したと いう例が報告されています。マラリア はハマダラカに寄生するマラリア原虫 によって引き起こされる病気で、マラ リア原虫を体内にもった蚊が飛行機に

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ろいろな面から見ないと理解できない だろうということは、この挨拶の習慣 からだけでも想像ができます。 一枚の写真からいろいろなことがわ かります(図⑪) 。これはアジアモンス ーン地域の典型的な不法居住地域です。 ここには水供給はありますが、使った 水がそこらにたまっています。住民参 加で地面を掘ってその水を流せばいい のですが、それができていません。水 供給だけして排水処理をしないとこの ような状態になります。 上下水道の専門家と話をしていて、 川が汚いのは水道のせいであるという ことを言います。水道は健康にいいで す。しかし環境には悪いのです。水道 で供給した水は全部排水となってそこ らに流されます。川が汚れるのは水道 のせいです。第一優先である健康のた めに水道を供給し、第二優先である環 境をおろそかにした結果、つまり下水 が後になった結果として川が汚くなり

ます。 青年海外協力隊のトレーニングに関 わって、若者たちに、川の水が汚いの はいいことか悪いことかと問いかけま す。普通は川の水が汚いのは悪いこと だと言います。しかし、さきほどの写 真の近くの川の水はきれいです。なぜ かというと、生活空間に排水がたまっ ていて川には流れていかないので、川 の水はきれいなままでいられるのです。 住民参加で排水路を掘って汚い水を排 除すると、生活空間はきれいなります が、川の水は汚くなります。土が湿っ ていると、土の中から足を突き破って 入ってくる甲虫の感染があります。土 が乾けば甲虫はいなくなります。フィ ラリア症を媒介するような汚い水で育 つ蚊もいなくなります。排水をすると さまざまにいい点があります。 ペットボトルを捨てるときに、蓋を して捨てるか、蓋を取って捨てるか。 日本では蓋を取って捨てます。ペット

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たのではないか考えることができます。 これは一つの仮説ですが、風が吹け ば桶屋が儲かるといったような連鎖が、 衛生、健康、文化のつながりにはある のではないかと思います。途上国には それぞれの習慣や考え方があり、なぜ そうなのかということは、その国に行 っていろいろな文化や技術も含めてい 図⑪


わなければならないようなこともあり ます。 水が足らないと、皮膚の病気、目の 病気、しらみが媒介する病気になった りします。図⑨はスカビーで、ダニの ようなものが皮膚の下を這い回って、 いかにも大変そうな病気です。 病気の伝染ルートは六つに分類され

図⑨

ます(図⑩) 。人から人へ直接うつる、 水を経由する、土を経由する、牛や巻 き貝や蚊を経由するなどのルートがあ ります。 昨日、途上国の役所の方々を集めた 集団研修をJICAで行い、私も話を しました。挨拶するときに日本人はお 辞儀をし、東南アジアの人は手を合わ

図⑩

せ、西洋人は握手をします。その違い はなぜなのかという話をしました。い ろいろな説があろうと思いますが、私 の勝手な仮説では、東アジアでは屎尿 を農地に還元することが行われてきま した。これは仏教と関係があって、昔 の仏教は肉食を禁じていましたから、 牛を食べることはせず、田んぼを耕す 労働力として家族に近い存在でした。 食べるために牛を飼うと、たくさんの 牛がいてたくさんの糞が出ます。牛の 糞は肥料として使えます。牛が家族の 一員として一頭しかいなければその糞 では肥料をまかなえないので、仏教圏 では人の屎尿を肥料として使うように なりました。屎尿で汚れた手で握手を するとたとえば赤痢菌が手にうつる恐 れがあります。握手をして汚れた手で たばこを吸うと、赤痢菌には強い感染 力があるために病気がうつる危険があ ります。そのようなことから、日本や 東アジアでは握手をしないようになっ

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ますか。池のように見えるのは日本の 無償資金協力で作った下水処理場の下 水です。このとき私は下水処理場を設 計した会社にいたのですが、さすがに 住人が下水で洗濯をしたり体を洗った りすることは想定していなかったので、 まわりに柵は作っていませんでした。 ここにナマズが生息し、そのナマズを 網で捕って、市場に持って行って売っ ていました。市場で売るときにはどこ からきた魚かわかりませんし、バング ラデシュでは買い物をするのは男性で、 買ってきた魚を料理するのが女性です。 ですから、ここで捕れた魚がどういう ルートでどういう人に渡って、もしも どこかで病気を起こしても、それは非 常にわかりにくいのです。 このようなことから、WHOでは下 水で魚を育てるときの指針づくりもし ました。下水処理の技術、魚を育てる 指針、それを適用するための法制度、 ガバナンスなどすべのことが必要にな

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われわれ日本人は幸いといろいろな 国に行って仕事ができるので、いろい ろな事例を学んで、ある国の情報を別 の国に伝えるという情報をシェアする お手伝いをすることができます。よい 事例をシェアすることが大切です。 これはバングラデシュのダッカで昔 撮った写真です(図⑮) 。何だと思われ 図⑮

生がいて、イラク復興支援の資金を受 けていました。アンマンから出てくる 下水を処理してオリーブの灌漑に使っ ている事例を勉強しました。灌漑した ところは左下のようにオリーブがあり、 灌漑していないところは右下のような 状態です。これを学んで、イラクの下 水処理場をいま作っているところです。 図⑭


と蓋を分けた方がリサイクルにいいか らです。ところが途上国では蓋をして 捨てるように指導しているところが多 いです。なぜかというと、蓋を取った ペットボトルに雨水がたまると、熱帯 シマカがそこで繁殖して、デング熱が はやる恐れがあるからです。熱帯シマ カは小さな水たまりに卵を産む習性が

図⑫ あります。健康と環境の関係はバッテ ィングするところがあって、ごみを捨 てる作法も違ってきます。 この写真はパキスタンのカラチ市で す(図⑫) 。この川を流れる水は一〇〇 パーセント下水です。雨は滅多に降り ません。右の写真のようなところはレ ーンといって、レーンごとにコミュニ

図⑬

ティが形成され、レーンマネージャー という人がいます。いわば町内会長で す。そういう人たちから排水の改善プ ロジェクトを勉強させていただいきま した。 いまはシリアには入れませんが、シ リアのホムストラタキヤでゴミ処理計 画を作りました。そのときにワラタ川 を見てまいりました(図⑬) 。右上が水 源で、雪解け水が川になって流れ、途 中で農業用水として汲み上げたり、都 市部で排水が入ってきたり、また農業 用水として汲み上げて断流したり、ダ マスカスに至る途中で地下水が入った りしています。このような川の一生を 見ると、乾燥地域では水が非常に大事 だということがわかります。 水を安全に農業に使うということも 非常に大きな研究テーマです。WHO では排水を農業に利用する基準づくり をしました。その一つの例がヨルダン です(図⑭) 。研究室にはイラク人の学

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虫が手から出ているところです。この 傷口から破傷風菌による感染で筋肉の けいれんのために呼吸ができなくなっ たりします。出てきた虫は急に引っ張 ると切れてしまうので、巻き取り屋さ んで巻いてもらいます。 水を布で濾過をするとミジンコが捕 れます(図⑲) 。われわれの教え子が協 力隊員として現地に行って、このよう な対策を広めようとしているのですが、 話を聞くと、村人は濾過をして布にゴ ミがたまると、布を裏返してそのまま また濾過してしまいます。それでは何 にもなりません。病気の感染ルートが 図⑲

きちんと理解されていないのでこのよ うなことをしてしまうのです。彼らは お父さんもこの水を飲んでいた、おじ いさんもこの水を飲んでいた、でも病 気にならなかった、だから自分も大丈 夫だと、そういうロジックです。彼ら は顕微鏡をのぞいたことがなくて、小 さなミジンコのなかにいる虫が一メー トル近くになるということが理解でき ていないのです。 翻ってみれば、千円札に載っている 人物というと野口英世ですが、彼の最 後の言葉は「私にはわからない」とい うことだったそうです。彼は黄熱病の 図⑳

研究で亡くなったのですが、彼が持っ ていた光学顕微鏡ではウィルスが見え なかったので、だからいくら探しても なかったのです。わからないというこ とでは、あれだけ偉い人も途上国の人 も同じで、見えないものはないのと同 じです。 いまジュネーブ大学の先生が世界で 手洗い運動の活動をされています。バ クテリアが発見される前は、ヨーロッ パでは病院で出産した人の死亡率が非 常に高かったそうです。同じ病院のな かで医師が患者を診て、そのまま手を 洗わずに分娩に立ち会ったことから、 病院で子どもを産んだ女性の死亡率が 高かったのです。ヨーロッパですらそ うだったのです。発見されていないも のはわからない、わからなければいま まで通りで行こうとする、そういうこ とがあるのではないかと思います。 もう一つ最近大きな成果があったの は、河川盲目症(オンコセルカ症)で

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るのが途上国だと思います。

いろいろな国際協力 国際協力の事例を紹介します。WH

Oの最近の大きな功績が、先ほどのギ ニア虫症の撲滅です(図⑯) 。そろそろ 撲滅宣言が出ると思います。水の中に 入った人の足からギニア虫の幼虫が出 てきて、その幼虫がミジンコに食べら

図⑯

図⑰

れ、 ミジンコの中で幼虫が大きくなり、 そのミジンコを人が飲むと発病します。 図⑰の左が幼虫で、 右がミジンコです。 幼虫が食べられるとミジンコのなかで とぐろを巻いています。図⑱はギニア

図⑱

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エジプトは砂漠が多く、砂漠を緑化 するには水がいりますが、単に水をや るだけだと染み込んでしまいます。染 み込まないで止まるようにするには、 水を吸収するような堆肥が必要です。 ですから、一番堆肥が売れる国はエジ

プトなのです。 日本で堆肥を作っても、 農業の担い手に高齢者が多くて、手間 がかかることから使ってもらえません。 アレキサンドリアに世界銀行が作った ゴミ処理の工場があったのを、あまり に古いということで建て替えてコンポ

スト工場にしました。実は私はコンポ ストの研究で博士号をいただいたので、 それが役立ちました。ちなみに農業の 方法は、パイプの中に水を通して根本 だけにポタポタたらして湿らせるもの で、使う水の量は限られています。こ のようなところに堆肥を入れれば水が 保持されて少しの水でいい農業ができ ます。 以前は、農家の人がゴミの収集車の 運転手さんにチップをあげて、ゴミを 畑にぶちまけてもらい、そこからいら ないものを取り除いて、生ゴミだけを 畑に入れていました。それではあんま りだということで、ゴミ処理の工場が できたのです。 図㉓の右下にあるのはピジョンタワ ーというものです。鳩のシェルターで す。上に明かりが付いていて、夜の間 に天敵のフクロウに襲われないように 点灯します。ここに鳩がやってきて、 下に糞をしてくれて、年間五〇〇キロ 図㉓

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す(図⑳) 。河川のそばに目の見えない 人がいることから河川盲目症と名付け られています。ノーベル賞を受賞した 大村智先生が発見した特効薬のイベル メクチンによってかなりコントロール されるようなったのが非常に大きな進 歩です。黒バエ(ブユ) (図㉑)が人を 刺して血を吸うときに、マイクロフィ ラリアの幼虫を吸い込み、幼虫が黒バ エの体内で成長し、黒バエが人を刺し

図㉑

たときに人にまた移動します。その幼 虫が成長して目に入ると失明に至りま す。この病気も撲滅も可能ではないか と思います。 次は私がWHOにいて髪の毛がまだ たくさんあったころの写真です (図㉒) 。 国際社会ではいろいろな国の人が一体 となって仕事をしています。このとき

図㉒

の私のボスはブラジル人で、いまはサ ンパウロ大学で教えています。アメリ カ人、ブラジル人、フランス人、オラ ンダ人といろいろな国の人がいて、こ ういうメンバーで途上国の水と衛生に 取り組んでいました。最近のWHOは ワールド・ホスピタル・オーガナイゼ ーションと揶揄されるぐらいに医者ば かりになってしまって、これは何とか しなければいけないと常々考えている ところです。環境省も厚生労働省もエ ンジニアを大切にしてもらいたいと思 っています。

二国間援助機関

大学にきてからもいろいろなことを やってきたのですが、たとえばエジプ トのアレキサンドリアにコンポスト工 場を作る無償資金協力のお手伝いをし ました(図㉓) 。生ごみを発酵させて堆 肥にするのがコンポストです。

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ともあります(図㉖) 。その現場では、 監視塔の前で立ち止まらないと、上か ら機関銃で撃たれます。トランシーバ ーで日本語をしゃべると、英語かミャ ンマー語でしゃべれと怒られました。 そのようなところで、鉄筋を曲げてコ ンクリート管を作り、それを川のなか に並べて、 上をふさいで橋にしました。 図㉖

るのが有名ですが、一年五二週間のう ちで五〇週間は渡れるけれど、二週間 は水に沈んでしまって渡るのはあきら めるという、そういったレベルの橋で すと村人の住民参加で作ることができ ます。 図㉗は日本のリサイクル無償のはし りになったものです。日本では車はだ いたい一五年で入れ替えますが、中古 の車を途上国にもっていくシステムを 三〇年以上前にNGOが始めて、それ がJICAにも認められて、リサイク ル無償という制度になっています。 図㉘は国連のモーターボートでヤマ ハ製です。途上国で田舎に行くとドラ ム缶から一〇リットルのガソリンを抜 けば一カ月分の給料になります。抜い た後に一〇リットル菜種油を入れます。 そのようなガソリンで走らせると、ヤ マハの高性能エンジンはやられてしま います。それでガソリンを濾過してや るのですが、やはり時々故障します。

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橋ができれば人が行き来できるように なります。第二次世界大戦のころに作 られたような車がエンジンを載せ替え て走っていたりするわけですが、そう いうものが通れてものが運べるように なり、作ったものが売れて収入向上に なります。 日本で沈下橋というと四万十川にあ 図㉗


ぐらいたまって肥料になります。鳩の 卵は食べられ、 鳩の肉もおいしいので、 一石三鳥ということです。これも適正 技術の一例で、このような技術を見つ けて、他のところに持って行くという のもわれわれができることではないか と思います。 図㉔は思い出の写真なのでお見せし

図㉔ たいのですが、私の右側の人物はアレ キサンドリアの清掃局長さんです。こ のとき実は末期がんだったのです。病 の床から抜け出てきてわれわれと七時 間激論しました。彼は自分の最後の仕 事として日本から少しでも援助を獲得 しようと、 あっぱれな働きぶりでした。 最後はウィンウィンのところに落ち着

図㉕

きました。私は彼の家にまで行ったの ですが、 その後すぐに亡くなりました。 そのようなことがあってできたコンポ スト工場はいまも無事に動いています。 国際協力というのは、いろいろな人 にも会えて、大きな仕事もできる、非 常におもしろいものだという話を学生 に伝えて、だから一緒にやろうよと言 っています。 次はモザンビークの技術協力プロジ ェクトで、 右下の写真が家です (図㉕) 。 私がびっくりしたのは足の指が一〇本 揃っている人があまりいなくて、どこ か欠けている人が多いのです。非常に 大変なところです。そのようなところ ではお金を使わないですむ技術が大事 です。

NGO活動

NGOでの活動では、ミャンマーで バングラ難民の帰還事業に携わったこ

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ビジネスと国際協力

があふれていて、図㉚の左上にあるの は水を入れるコンテナです。工業材料 を入れるものとして中国から輸入した 容器を洗って再利用しているのです。 バングラデシュで、BOPビジネス をJICAの案件としていろいろと行 っています。ウォーターサーバーに紫 外線殺菌ランプを仕込んで水を消毒す るということを提案しました(図㉛) 。 いままではガスを使って煮沸して消毒 していましたが、三ワットぐらいの紫 外線ランプをつけておくと、子どもた ちが飲んでも安全なレベルにまで消毒 され、二酸化炭素の発生量も低く抑え られます。残念ながら他国の企業に邪 魔されるなどいろいろとあって、ビジ ネスにはまだつながっていない状態で す。 もう一つはカンボジアにおける殺菌 剤入り石けん液の普及です(図㉜) 。固 形石けんは、最初に使った人の手から 菌が石けんに移って感染の原因になり

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るけれども人口が少なく、ピラミッド の底辺にあたる人は購買意欲は低いけ れども人口が多いわけです。バングラ デシュの一番南側にものすごいマング ローブ林があり、そのすぐ近くに住ん でいる人たちは、ペットボトルはリサ イクルするのではなくて容器として売 っています。一方で、ダッカではもの 図㉛

最近、研究室でBOPビジネスに取 り組んでいます。 横軸に人口を取って、 世界の人たちを、下に貧しい人、上に 裕福な人を置くと、貧しい人ほど多い のでピラミッドに近いかたちの絵が描 けます。上の方の人には購買意欲はあ 図㉚


それがきっかけになってこの地域にN GOが進出したのです。向こう側がバ ングラデシュ、こちら側がミャンマー です。

ODAとNGOの連携 最近ではODAとNGOの連携、あ

図㉘ わせてオダンゴと言う人もいますが、 それがJICAでもだんだん浸透して きました。草の根の技術協力で、私も 一〇年ぐらいかかわってきました。ち ょっと汚いものをお見せして失礼しま す(図㉙) 。これは草の根技術協力の一 つで、小学校にトイレを作ろうという プロジェクトです。初等教育の拡大で

図㉙

学校の建物は建てるけれどトイレがな かったりします。男の子は外で用を足 しますが、女の子は恥ずかしいので、 学校にこなくなって、家にいて家事を 手伝い、そして早く結婚して早く子ど もを産んで人口が増えるということに なります。学校にトイレを増やすと女 の子がもどってきます。女性は中学校 を出ていれば先生になれます。男性は 高校を出ていると先生になれます。男 女で差を付けているのは、女性の地位 向上にもつながりますし、結婚年齢が 遅くなるので人口対策にもなります。 タイが人口対策に成功したのは、中 学校を出ていないと工場が採用しない ということがあって、みんなが中学校 に行って結婚年齢が遅くなったからで す。このように学歴も付くし地位も上 がるしお金も増えるしというウィンウ ィンのソリューションでないとうまく 回りません。

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きの写真で、手に持っているのはグワ バの葉です。グワバの葉にはタンニン が入っていて、ヒ素と鉄と反応して水 が真っ黒になります。濾過すると、鉄 とヒ素が取れて、グワバの葉を入れて も黒くなりません。濾過する前と後の 水を見せてどっちを飲みたいですかと 言って、濾過装置を使ってもらうよう

図㉟

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にします。心理学的なものと工学的な ものとが複合したような研究です。 次にアラル海です(図㉞) 。ここでは 綿を作るために川から水を取って灌漑 を行い、川が途中で消えてしまい、そ のためにアラル海が干上がってしまい ました。 白く見えているのは塩海です。 内モンゴルの其甘湖でも同じような 図㉞


ます。ですから、いまでは学校でも石 けんをぶら下げていないで、プッシュ 式の石けん液を使っています。石けん 液はワンウェイで出るだけなので菌は 付きません。家庭用のものでは、蓋を はずして石けん液の補充ができます。 しかし、補充するときに菌が入る恐れ があります。それで、病院で使ってい

図㉜ るものは、一度蓋を外すと二度と蓋を することができないようになっていま す。注射針でも同様に、一回押すと引 っ張れないようになっていて、リサイ クルができない注射器になっています。 使い捨てなので、環境と健康はここで もバッティングします。右下の写真は キッコーマンが作っているユミケスタ

次に、学術研究の紹介です。図㉝は 福士先生とバングラデシュに行ったと

研究活動

です。手を綿棒で拭いて、そのなかの ATP量を量ることによって手の汚れ を調べています。

図㉝

112


図㊶

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いろな方がまわりにいるのです。 フェアトレードを実践している人も います。バングラデシュで作ったもの がフェアトレードで日本で売られてい ます(図㊷) 。ミャンマーではNGOの 活動で、お針箱の会社から箱もらった り、文化服装学院からミシンをもらっ たり、アイロンもどこからかもらった りして生産しています(図㊸) 。 図㊳

図㊴

図㊵


ことが起こっています(図㉟) 。そうな った原因は何なのか、そのようなこと にならない節水型農業はどのようにし たらいいのかといった研究をしました。 ここでは、地下水をくみ上げて水田を 作るというかなり無茶なことをしてい ました。そのときは多くの収入が得ら

学生に向かってわれわれは国際協力 の大切さを伝えています。大学生にも できることがあります。例えば青年海 外協力隊です。最近では学部を休学し て協力隊に行き、戻ってきて卒業する という学生も多くなりました。本学か らは協力隊が始まったころからずっと 行っていて、今年もまだ途中ですがす でに五人が行っています(図㊱) 。これ は卒業生を含めての人数です。隊員の 内訳は図㊲のようになっています。私 は隊員の選考に関わっていて、非常に

学生ができる国際協力

れても、それが短い期間で終わってし まっていけません。小さな収入で長続 きした方がいいというのが環境経済学 の考え方で、そちらの方が正しいと思 います。ここの調査研究で博士論文を 書いた人は、いま向こうで砂漠化を防 止する仕事をしています。

図㊱

やる気のある人たちがたくさんいます。 出身学部では、社会学部以外にも文学 部も多く、日本語隊員などとして活躍 しています。 本学にはJICAボランティア入試 という制度があります(図㊳) 。青年海 外協力隊に行きながら大学院生になる というシステムです。その一人がバン グラデシュに二〇一六年三月までいた 高政君で、いま修士論文を書いていま す(図㊴) 。もう一人がパナマに行った 玉置君です。二人とも卒業後も国際協 力の仕事を続けていこうとしています。 シニアボランティアも活躍していま す(図㊵) 。この人は弓をやっていたの で、モンゴルでは弓を通じても文化交 流もしてきました。 さまざまな人がいます(図㊶) 。本学 の国際地域学部を卒業してから看護学 校に入って海外で仕事をしようとして いる人。現役の女子大生でシニアボラ ンティアに行った四〇歳代の人。いろ

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AITもかなり被害を受けています (図㊺) 。 AITの学生さんは本学でも 二人ほど受け入れて教育をしたことが あります。 このようにさまざまなシチュエーシ ョンで大学と国際協力のつながりがあ

た。本学の教育を通しての国際協力に ついてのいろいろなお話を伺いました。 では、休憩のあとで研究報告に移り たいと思います。

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ります。これからも行動は足元からを モットーに、いろいろな国で研究した こと等を応用していきたいと考えてい ます。

司会 どうもありがとうございまし 図㊺


図㊷

図㊸

途上国との絆

災害を通じて途上国との絆を強めて いる事例もあります。東日本大震災と スマトラの津波では類似点がいろいろ とあります(図㊹) 。タイの大洪水では

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図㊹


性の保全という意味です。滋賀県は都 道府県のなかで最初に生物多様性地域 戦略を作った県で、それを新たにリニ ューアルするとともに、国の方でも二 カ月前に琵琶湖再生法ができてバック アップされるという状況になっていま す。 図①

侵略的外来種が本当に生物多様性問 題として取り組まなければいけない課 題なのかということには議論があると 思います。地方自治体ベースでいいま すと、社会問題になると放置すること はできません。 侵略的外来種を相手に、 図②

たとえ勝つ見込みがなくても、防除と か駆除を進めて戦わなければいけない といった苦しい状況もあります。 侵略的外来種を巡る国内外の状況で は、予防措置を講じている国はわずか しかありません(図②) 。日本において は外来生物法を改正して規制の拡大・ 強化を進めています。それに対して、 二〇一四年の意識調査では、生物多様 性への認知度や意識は明らかに後退し ています。そのようなことは国や専門 家に任せるという傾向が顕著になって います。また、外来種問題の特徴とし て、日本は非常に地域性があって、地 域社会、地方自治体レベルで取り組ま なければいけないということがありま す。

琵琶湖の侵略的外来種

琵琶湖における水環境保全の考え方 としては、私が就職した一九九〇年代

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住明正 それでは定刻になりました ので、研究報告を進めてまいりたいと 思います。東洋大学はエコ・フィロソ フィを提唱して人文系に強いことから、 今回は主として健康や生態系に焦点を ■研究報告1

当てての発表です。 最初に、東洋大学の准教授の金子有 子さんから、「侵略的外来植物を巡るい くつかの話題提供」ということでお願 いします。

侵略的外来植物を巡るいくつかの話題提供 金子有子 かねこ ゆうこ

研究の背景として、侵略的外来種の 問題が生物多様性問題の重要課題の一

侵略的外来種の問題

すが、よろしくお願いします。

東洋大学「エコ・フィロソフィ」学際研究イニシアティブ研究員、 東洋大学文学部准教授

私は昨年から東洋大学にきまして、 英米文学科に所属していますが、自然 科学系の教員です。河本先生から何で もいいから真面目にしゃべるように言 われていて、 そのつもりでいますので、 ご関心があるかどうかわからないので

つになっています(図①) 。日本では外 来生物法が施行されて一一年間になり ます。しかし、根絶に成功した侵略的 外来種はまだ一種類もありません。 私は、琵琶湖のある滋賀県で二〇年 間公務員をしていました。研究職でし た。今日はその琵琶湖での話をさせて いただきます。琵琶湖で水環境保全と いうと、かつては単純に水質保全でし たが、現在では総合保全へと移ってい ます。総合保全は、生態系、生物多様

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思います。 研究目的としては三つのトピックが あります(図⑤) 。まずこの三種の侵入 定着状況です。二つ目として、一九八

〇年ぐらいから全国的に外来種が増え てきたのですが、琵琶湖でも同じよう に増えてきているのか検証するという ことがあります。三つ目はルドウィギ ア・グランディフロラには種の下のレ ベルの分類で二つの亜種があるのです が、琵琶湖に入ってきたのがどちらな

図⑥

図⑦

のか不明確なのをはっきりさせるとい うことです。 ちなみにこの三種は、二〇一五年に できた生態系被害防止外来種リストの 緊急対策外来種になっています (図⑥) 。 とくにオオバナミズキンバイ等、つま りルドウィギア・グランディフロラは 分布が限定的で、ものすごく悪さをし ているのは琵琶湖だけなので、琵琶湖 で叩けば根絶できるのではないかとい うことで緊急対策になっています。 ミズヒマワリは、花はまったくヒマ ワリに似ていなくて、葉っぱが似てい ます(図⑦) 。侵略的外来種の特徴とし て非常に再生能力が強いです。葉っぱ 一枚、断片一枚からでも再生するとい う能力に長けています。 ナガエツルノゲイトウは印旛沼で非 常に有名で、関東の皆さんもご存じか と思うのですが、水田の強害雑草です (図⑧) 。 世界的にもワーストに入るも ので、茎一本からでも再生する能力が

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頃は、「碧く美しいびわ湖をとりもどす ために」ということが県民のスローガ ンでした(図③) 。いまは「持続可能な 社会をめざして」という言葉が入って います。 侵略的外来種として、環境省では特

定外来生物を指定しています。植物は 一三種で、そのうちの九種が琵琶湖に あります(図④) 。水色のものが水生植 物で、いわゆる水域を生活史のどこか で利用するタイプの植物です。もとも と侵略的な生物には水生植物が多く、 琵琶湖にもたくさん定着しています。 非常に古くから定着しているものもあ

図③

図④

ります。特定外来生物にはなっていな いのですが、コナカダモ、オオカナダ モといったような蔓延しすぎてまった く制御できないようなのもいます。 今日は、二〇〇〇年代に入ってから 初めて記録されたナガエツルノゲイト ウ、ミズヒマワリ、ルドウィギア・グ ランディフロラを中心にお話したいと

図⑤

120


図⑩

図⑫

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活動もしていました。そのメンバーの 一人がミズヒマワリを発見し、発見し たその日から分布調査を始め、研究会 が中心となって手で駆除してきました。 見つけたのは二〇〇七年で、毎年半分 ぐらいずつに減らすことができました (図⑫) 。それにかかかった労力は、一

図⑪


あります。 オオバナミズキンバイは琵琶湖が最 初ではなかったのですが、琵琶湖で急 増したことで、国にお願いして特定外 来になったという経緯があります(図 ⑨) 。

図⑧ これら三つとも、水に浮いている状 態でも生活できますし、根っこが土の なかにあって上が水に浸かっていても 生きていけますし、湿性の陸地環境で も生きられるということで、非常に広 範囲に繁茂する植物です。

封じ込めに成功した事例

研究方法からお話します(図⑩) 。動 態を調べるには詳細な分布データが必 要です。琵琶湖はとても広く、東京都 の三分の一、文京区の六〇倍の広さが あります。琵琶湖の周囲二二〇キロを 毎日せっせと歩いて探索します。陸上 から見えないところは船に乗って探索 します。発見する都度GPSで場所を 測位し、調査日・種名・生育状況など を記録し、群落の面積を求めるという 地道な作業をします。それから地理情 報システム上で群落面積を計算したり、 データを加工して重ねたりといった分 析をしています。 ミズヒマワリは、初期に発見して初 期に対応したので、 封じ込めに成功し、 根絶に成功しました(図⑪) 。私は公務 員だったのですが、植物学者が集まる 近江ウェットランド研究会という同好 会みたいなものでいろいろなNPO活

図⑨

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年間で約四五倍、一年間で三・五倍ぐ らい増えています。ちなみにミズヒマ ワリは、他の例で年間に六倍から一一 倍増えるといわれていて、琵琶湖で試 算したときも年間六・三倍に増えると されました。 神上沼のナガエツルノゲイトウは二

ない沼ですが、二〇〇七年にはすでに 沼から流出して琵琶湖に飛んでいまし た(図⑯) 。そして、二〇〇八年、二〇 〇九年と分布が広がっていきました。 いったん琵琶湖の本湖に出てしまった ら、湖流が非常に激しいためにどんど ん広がって蔓延してしまいました。ナ ガエツルノゲイトウは彦根市が駆除に 乗り出すまでの四年間の遅れがあり、 そして県が着手したのが二〇一〇年で 六年間の遅れがあって、そのために延 焼を止められない状態になってしまい ました。 それでも地道に駆除を続けていて、 生育面積自体は一ヘクタール程度に抑 え込むことに成功してはいるのですが、 分布自体は拡大して、根絶はとても不 可能な状態になっています。 オオバナミズキンバイは二〇〇六年 に初めて発見されたのですが、特定外 来種ではなかったためにやはりリスク が認識されておらず、二〇一〇年まで

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〇〇七年にはすでにかなり蔓延してい ました。もともと生えていたのはチク ゴスズメノヒエで、それも侵略的外来 種なので、それに取って代わったとい うことです。二〇〇九年に彦根市が本 格駆除に乗り出しました(図⑮) 。神上 沼は内湖で、琵琶湖には直接開いてい 図⑮


年目から八〇人日、一〇〇人日、六〇 人日でした。 侵略的外来種ではよく火事にたとえ られ、 初期消火が非常に有効だけれど、

火が大きくなってしまってからではな かなか消せないといいます。琵琶湖の ミズヒマワリは、非常に初期に手を打 てば根絶が可能であるという事例です。 ニュージーランドは侵略的外来種の封 じ込めに成功している国で、それにな

図⑬

らったやり方をして、徹底した封じ込 めと監視を続け、少しでもあればすぐ に駆除するということをしました。行 政はこんなには迅速に動けないので、 ボランティアですべて頑張ったという ことです(図⑬) 。

ボランティアで頑張りきれなくて失 敗したというのがナガエツルノゲイト ウとオオバナミズキンバイです。ナガ エツルノゲイトウは、淀川水系で二〇 〇〇年に生育が確認され(図⑭) 、二〇 〇四年に私が勤めていた琵琶湖環境科 学研究センターが彦根市にある神上沼 で発見しました。当時は外来生物法が できる前で危険を認識していなかった ために放置されてしまいました。その 三年後の二〇〇七年にはすごく増えて いて、特定外来種にもなっていたこと から、駆除を始めようとしました。三

封じ込めに失敗した事例

図⑭

124


ナミズキンバイはヨーロッパでも先行 して侵略した例がありますが、スイス など初期消火に成功した国がいくつか あります。琵琶湖のミズヒマワリと同 じように初期に手作業で徹底的にやる ことで成功しています。頑張りさえす れば、非常に侵略的な生物種でも根絶 図⑰

は可能です。しかし、行政は問題がお きなければ動かないし、苦情のあると ころにしか対応しません。本来であれ ばいたちごっこになる前に未定着種の 新規侵入を監視する事業をしなければ いけないのですが、そこにはなかなか 人員や予算を割くことができません。

二〇年間の変遷

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以上の三種は二〇〇〇年代に侵入し て、先にチクゴスズメノヒエといった 他の侵略的外来種が定着していたとこ ろに入って置き換わったのですが、外 来種があまりいなかったであろう時代

図⑱


何もせずに放っておかれ、二〇一一年 になって大騒ぎになりました。赤野井 湾というところで非常に増えて、漁具 が倒されるなどの被害を漁師さんたち がマスコミにたくさん訴え、そのため

に県は駆除対策に一生懸命取り組むこ とになりました。そのときには小さな 火種があちこちに飛んでいたので、専 門家は、そちらの火種をつぶした方が いいと助言したのですが、県は苦情が

出ているところの駆除だけを行ったた めに、火種がさらに広がるということ になってしまいました。 結論としては、早期対応の重要性が 改めて認識されました(図⑰) 。オオバ

図⑯

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在来種群落は、非常に低い増加率、年 増加率は一を切って推移していること が示唆されました。また、一九九〇年 代以降はそれまで五年に一度くらいの 頻度で起きてきた洪水が起きておらず、 ヨシ植栽、養浜などで作られた人工護 岸が安定化して冠水しないことから、 外来種の侵入経路となり、生育場所を 提供しているということもわかってき ました。 最後に、駆除するときには戦う相手 の性質がわからないと効果的に戦えま せん。オオバナミズキンバイすなわち ルドウィギア・グランディフロラの亜 種の特定に取り組んでいます。これま で、琵琶湖にあるのは亜種の一つであ るオオバナミズキンバイだと同定され ていたのですが、どうも違うのではな いか、日本では鹿児島にしかないこと になっているもう一つの亜種のウスゲ オオバナミズキンバイではないか、染

色体を調べて確認することにしました。 結論としては、ウスゲオオバナミズキ ンバイだろうということが示唆されて います。ヨーロッパでスイスでは根絶 に成功したといったのは、ウスゲオオ バナミズキンバイなので、欧州の先駆 的な知見を琵琶湖でも活用できるので はないかと期待しています。 早期発見と初期対応の重要性はもち ろん環境省も強調していますが、実際 になされていないのは、文系用語では 「早期対応のパラドックス」というら しいです。 未定着種への予防的対策は、 世界的に見てもほぼ皆無です。それを しないと、蔓延した火事の消火に追わ れてしまいます。勝ち目がないとわか っていても、苦情があるとやらなけれ ばいけない。苦情があるところへの対 応に追われてしまって、まだそんなに 深刻ではない小規模なところをつぶし た方が長期的な根絶にとっては効率的 であるのに、やれないでいる場合も多

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人工的にヨシを植栽した場所を人工湖 岸としてくくっているのですが、そう いった場所が外来種の定着侵入の場に なっていることが顕著に表れています。 結論ですが、侵略的外来種群落はや はり在来種を駆逐して置き換わったこ とが示唆されました(図㉑) 。代表的な 図㉑


と比べてどのように変ってきたのかと いう長期変遷を調べました(図⑱) 。私 がいた琵琶湖環境科学研究センターで は、一九八〇年代には琵琶湖全周にわ たって徹底的に湖岸調査して植生図を

書いています。それと同じ方法で同じ ことを二〇年後に行って、GISデー タ化して、同じ場所がどう置き換わっ たのか解析しました。 その結果わかったのは、一九八〇年

図⑲

代から二〇〇〇年代にかけて、種数が 四七七種から五七〇種以上に増えてい ます。外来種が増えているということ です。さらに、チクゴスズメノヒエは 魚類の産卵床のために県が入れたとい う経緯もあるのですが、二〇年間でほ ぼ一〇〇倍、年増加率は一・二倍です (図⑲) 。 それに対して在来の優占種で あるツルヨシとかドクゼリといったよ うな群落は増加率が一を切っています。 増加率が一を少しでも切れば必ず減り ます。さらに近年になると、ウキヤガ ラ、マコモ、ヒメガマといった代表的 な湖岸の植物も非常に低い増加率にな っていて、十数年ぐらいで消失する可 能性があります。それに対して侵略的 外来種であるホテイアオイやハスは非 常に高い増加率です。琵琶湖ではハス も国内外来種です。 二〇年間にたくさんのものが入りま した。それらが多い場所が人工湖岸で す(図⑳) 。人工的に養浜した場所や、 図⑳

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逸出したのではないかと考えられてい ます。 ――外来植物に侵略されることによっ て、水辺の生態系は変わっているので しょうか。

金子 どちらが先かという問題はあ ります。洪水による撹乱がなくなって 生態系が変わったために外来種が定着 しやすくなったということもあるでし ょう。 外来種がマント状にはびこれば、 その下は日照が少なくなり、低酸素化 して生物相が変わるということはもち ろんあります。そうした環境に適応し たものたちが入ってくるということも あります。 ――水害がなくなってしまったという ことですが、大きな撹乱があるとすべ てがやり直しみたいになるのですか。

金子 洪水があれば滞留していたも のも下流に流されます。二〇〇九年、 二〇一一年に台風がきたときには、琵 琶湖からオオバナミズキンバイが流出 して部分的に一掃されるということも ありました。ただし、それ以降、瀬田 川でもオオバナミズキンバイが増えて います。

金子 これも外来種です。

――それは琵琶湖環境科学研究センタ ーが主体となってやろうとしていたの ですか。

住 ほかによろしいでしょうか。 では、続きまして、東洋大学文学部 の稲垣諭先生から 「健康と持続可能性」 ということでお話をいただきます。

――鹿児島にあった亜種というのは外 来種ではないのですか。

金子 私と近江ウェットランド研究 会や市民団体と一緒にやっていました。

見かけたら知らせるということをしま せんかという話が進んでいました。途 中で私がこちらにきてしまったので、 そのままになってしまいました。

――初期の封じ込めが外来生物をはび こらせるのを防ぐために大事だという ことでしたが、そうするためにはモニ タリングシステムが非常に大事かと思 います。最近はシチズンサイエンティ ストとかもいわれていますが、そうい った取り組みなどはあるのですか。

金子 滋賀銀行の頭取さんがオオバ ナミズキンバイに関心を持ってくださ り、商工会議所の人たちと一緒になっ て五〇種ぐらいの侵略的外来植物のリ ストを作って、湖岸を散歩してそれを

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くあります。コナカダモ、オオカナダ モもそうなのですが、大規模な外来種 の駆除は水質の浄化にかなり貢献して いるだろうと予想されますので、そう いった発想の転換も含めて今後の対応

を考えるのもいいのではないかと思っ ています。 最後に、大学にくる前はこのような 現場で日々戦っていました(図㉒) 。こ ういう現場はストレス発散にもなって、

図㉒

きれいになると非常に充実感があるの ですが、二カ月後には元の木阿弥とい うすごく絶望感にも満ちています。

住 どうもありがとうございました。 大変興味深い話だと思います。ご質 問・ご意見ありましたらどうぞ。

――いまご紹介をいただいた外来種は もともとどこから入ってきたのですか。

金子 ミズヒマワリは、水質浄化やビ オトープの工事をした際に混入して入 ってきたのだろうと推測されます。 ナガエツルノゲイトウについては、 農業用水路にするために一度水を全部 ポンプアップした後で、やはりビオト ープにしていろいろなものを入れてい るので、そのときにおそらく入ったの であろうと思われます。 オオバナミズキンバイについては、 園芸用の近縁種と誤同定されたものが

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一九五〇年代ぐらいから、とくに先 進国において感染症が大きく減りまし た。抗生物質が発見されたのが一九五 〇年で、それ以来、致死的な感染症は 減っているのですが、それに対して、 花粉症、クローン病、糖尿病、ぜんそ く、アトピー性皮膚炎などの慢性疾患

が非常に増えています。おそらく両者 はトレードオフの関係になっていて、 それはなぜなのだろうかというのが医 学系で大きな着目点になっています。 クローン病あるいは潰瘍性大腸炎と いう、何を食べても全部くだしてしま う、難病指定されている病気がありま す。それに対して、最近では便治療と いうことが注目されています。健康な 人の便を希釈したものをカテーテルで 投入する、あるいは寄生虫を体の中に 取り入れるということが治療法として 試みられているのです。 そのようなことも含めて、先進国で の健康の問題は、なお感染症に苦しん でいる途上国での健康の問題とは相当 に違いがあるのだろうと思います。 哲学の分野では、いくつかの健康に 関わる理論があります。例えば、そも そも健康というものの意味の内実は何 なのかという健康概念の意味論があり ます。逆に、疾病や障害の意味を問う 図①

こともあります。あるいは、人間の品 位や徳、幸福のような倫理的な規範と 健康はどうかかわるのかという問題も あります。あるいは人類とそれ以外の 生物における健康の差異があるのかと か、心と身体と健康の関係性、健康と 環境の関係など、いくつかの問題があ ります。 WHOが一九四八年に定めた健康の 定義があります(図①) 。 「健康とは、 身体的・精神的・社会的に完全に良好 な状態であり、単に病気あるいは虚弱 でないことではない」というのが定義 になっています。しかし、 「完全に良好 な状態」とは一体何なのだろうという のが決まらない理念的な定義になって います。 ここで非常に重要なポイントは、生 物学的・医学的な異常と正常によって は健康は決まらないということです。 医学部にいて非常に違和感があったの は、患者さんの健康を取り戻すという

133


■研究報告2

健康と持続可能性 いながき さとし

稲垣 諭

脳梗塞や脳卒中になると、さまざま な障害が出たりしてリハビリをするわ けですが、完全に治るということはほ とんどなくて、リハビリというのはな かなか大変です。人間に関わることな ので、医学的なエビデンスを取ること が難しい領域でもあります。とりわけ 大変なのは、 患者さんが学者の場合で、 あれこれ口を出してきて、うまくリハ

健康とは

東洋大学「エコ・フィロソフィ」学際研究イニシアティブ研究員、 東洋大学文学部准教授

私はこの東洋大学で研究助手をして いたころからサステイナビリティ学と の関わりをもつようになり、哲学と環 境問題をどのようにしてつなげていく かということを考えてきました。とり わけ障害者あるいは高齢者における環 境問題を考えようと思い、この三年間 は自治医科大学でリハビリテーション 医療などの問題における環境のことを 考えてきました。そしてこの四月にま た東洋大学にもどってきました。

ビリが進まないということがあります。 皆さんがもしもリハビリということに なったりしたら、それなりに専門家に 任せて進めていただければと思います。 最初に北脇先生のお話にもありまし たように、どのような環境で暮らして いるかで、健康ということ自体が変わ ってしまうということがあります。そ のようなことも含めて、健康問題につ いて考えてみたいと思っています。

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ってしまうのです。ですから、どのよ うな場所で暮らしているかということ が自ずと健康に影響を与えるのです。 空間と健康は、非常に切り離しがたい ものになっています。 健康について、皮膚や境界というポ イントから考えてみたいと思います

フンデルト・ヴァッサーはどのよう な皮膚に包まれているか、囲まれてい るかが大切だということで、五つ挙げ ています。一つ目は表皮です。生物学 的な境界線、皮膚病というものもそこ に含まれます。二つ目がどのような衣 服をまとっているかです。三つ目がど のような家に暮らしているのか。四つ 目がどのようなコミュニティに囲まれ ているのか。そして最後が地球です。 この五つの皮膚について考えなければ ならないというのです。今回は健康と 空間ということですので、ここについ て少し考えていきたいと思います。 レジリエンスということが、心理学 の分野でも着目されています(図④) 。 もともとレジリエンスというのは頑健 であることと脆弱であることのどちら でもなく、非常に強固である必要はな く、かといって脆弱ではなくて、壊れ てもいいのだけれど、壊れてももう一 度戻ってこられるかどうかということ 図④

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(図③) 。フンデルト・ヴァッサーとい うちょっと変わった建築家でありアー ティストがいました。日本人と結婚を していた時期もあって、自然との共生 ということを組み込んで、人間の皮 膚・境界について考え、宮崎駿にも影 響を与えたといわれています。 図③


ことが主眼であるのに、健康について の勉強をしていないことです。ほとん ど病気の勉強をしているのです。疾病 は種類がたくさんあって、相当に多様 で、勉強するのが大変です。その一方 で、健康についてはほとんどわかって いません。消極的には病気ではないこ

ここでは、健康という問題をエコ・ フィロソフィの立場から、 空間、 境界、 レジリエンスという三つの観点から考 えていきたいと思っています。 個人の健康は、基本的に、環境の健 全さと切り離すことができません(図 ②) 。 どれほど屈強な肉体をもっていて も、感染症に苦しめられるような場所 にいては健康とはいえません。ここで

空間と健康

とだということはできても、病気でな いから健康かというのは、医学部では なかなか扱われていない問題です。 ということで、暫定的ではあります が、 「健康は、医学的な事実を超えて、 当人が生活環境の中でどのような能力 を活用してきたのか、そして今後、発 見・開発・展開できるのかという潜在 能力のレパートリーを基準として特定 できる」 のではないかと考えています。

図②

も、環境の健全さということが決まら ないという問題があります。先進国の 環境は健全なのでしょうか。都市空間 や居住空間は、人間の健康や身体の能 力性を考えて設定されているのでしょ うか。 いろいろな医学的データや社会心理 学的なデータがあります。例えば、座 る時間が四時間増えるだけで心疾患の リスクが上がります。座る時間が三時 間増えると肺がんのリスクが上がりま す。糖尿病に関しても座る時間との相 関があります。ですから、会議をする ことは、人間の健康に資するものにな っていないのではないでしょうか。こ のような集会も座ってやらない方がい いのではないかと思うぐらいです。 家やあるいは学校の近くにファスト フード店が何店あるかということと肥 満度が相関するという話があります。 大学の周辺にファストフード店がたく さんあると、学生全体の肥満度が上が

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日本の介護施設には、病院の大部屋 のような多床室がいまだにたくさんあ ります(図⑦) 。高齢者が大部屋に入れ られると、他者との接触を避ける方向 になります。他人と目を合わせること や会話が減ります。これは実際にデー タが取られています。食事を自分でと

思います。 あるいは避難所、 監獄です。 つまり、 暮らすための場所ではなくて、 一時的に滞在して出ていくような場所 なのです。ですから、そのようなとこ ろにいるというだけで健康が損なわれ る可能性があるのです。 それに対して、千葉県に特別養護老 人施設「風の村」があるのですが、環 境設定の問題を考えた上で、集団の行 動を一律の空間的・時間的規則に従っ て管理するのではなく、いくつかの小 規模な機能空間を生活ユニットとして 設定し、少数の生活者が独立に暮らせ るようにデザインされています (図⑧) 。 一〇人以下の小さな生活ユニットを設 定し、そのユニットのなかで自由に空 間的にも時間的にも固有に単位化され た生活パターンを作っていいようにな っています。 このような生活ユニットのあり方を 何と比較すればいいのかと考えたとき に、ハイパーサイクルというものがあ

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るという自立的行為が減少します。自 分一人の部屋がなくなると、さまざま な健康面に影響が出てしまうのです。 だだっ広い部屋でみんなで食事を取 るような施設は、典型的にはどういう ところかというと、病院とかホテルと か、学校も少し似たところがあるかと 図⑥

図⑦


に着目しようというところから出てき た概念です。レジリエントなシステム こそが持続可能なシステムではないか と考えられます。 このレジリエンスが日本で着目され たのは、さまざまな震災を経てからの ことです。熊本の震災もそうですが、

図⑤ 災害によって、PTSDのようなさま ざまな精神疾患を抱える人たちがたく さん生じます。これまでは実際にPT SDにかかってしまい苦しんでいる人 に着目して、どのようなケアが必要な のかというところがポイントになって いました。その一方で、データを見み ると、六割から七割の人は日常に復帰 できています。日常にもどれた人たち には何かある種の強さのようなものが あるのでしょうか。最近では、復帰で きた人々がもっているしなやかさはど のようにして作られてきたのかという ことが着目されるようになってきまし た。 レジリエントということは生態系な どでも取り上げられていて、レジリエ ントな生態系な生態系にはいくつかの 特徴があるとされています(図⑤) 。こ うしたものが、人間が生きる環境のな かにどのようにして導入できるのかと いうことを考えてみることにします。

高齢者の環境設定

いくつかの事前を検討します。いま 日本国民の年齢の中間値は四六・五歳 ぐらいで、二〇二〇年には五〇歳にな るといわれています。高齢になって、 さまざまな障害を抱えて、自宅から別 の施設に移らなければならなくなった 場合に、 いろいろな問題が生じます (図 ⑥) 。自宅では、停電になってもどこに 何があるのかだいたいわかるような環 境にいたのに、突然まるでわからない 別の環境に移るわけです。若い人でも 引っ越しをすると、新しい環境になれ るまでそれなりにストレスがかかりま す。多くの高齢者用の施設には、天井 が高くて、だだっ広くて無機質なホー ルのようなところがあります。いまま でなじんできた生活空間のスケールか ら突然変わって、ここで暮らすという ことになるといろいろ問題が出てきま す。

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ットがやっていることの影響は受けた りもします。個別のユニット内の自立 性と、それらが連動している施設全体 の自立性とは異なる次元に属していて、 それぞれに現れる問題の質も対応策も 異なります。解離しそうなユニットの 回復や、ユニット間の連動の強化、あ

ートゾーンの個室があります。次にユ ニット内の居間のようなセミプライベ ートゾーンがあります。そしてユニッ ト間の交流場所としてセミパブリック ゾーンがあって、さらに、家族や一般 市民がきて、普通に入れるパブリック ゾーンがあります。 哲学者のベンヤミンは敷居という経 験を非常に重要視していました。ベン ヤミンが取り上げた敷居の経験では、 敷居を超えるという行為が経験の質を 変えるだけではなく、敷居をまたぐ主 体の振る舞いや態度、情動も変化させ ます。敷居は物理的境界ではなく、人 と人との相互のかかわりが作り上げる 本来は見えない経験の質的境界です。 たとえば、恋人の家の門、空港内の免 税領域、湖面・墓地・正月・婚姻・治 癒、これら全てが敷居という境界をま たぐというところに関係していて、そ れが固有な境界を産出しています。 私たちは、たとえば会議に出る際に 図⑫

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るいは距離化といった問題にどう対応 できるかが、施設を運営する側の問題 として出てくるのではないかと思われ ます。 もう一つ、この施設で非常に面白い のは、施設内をいくつかにゾーン化し ていることです(図⑫) 。まずプライベ 図⑪


ります(図⑨) 。ハイパーサイクルはノ ーベル化学賞を受賞したアイゲンが言 い出したもので、基本的には生物の代 謝機能等において、それぞれのサブユ ニットが機能的に閉じた化学反応サイ クルとして活動しつつも、他へも間接 的な影響を与えることで、全体性が形

図⑧ 作られるというものです(図⑩) 。そう いうシステムと生活空間のネットワー クの間に類似性が見られるのではない かと思います。 病院のようなところでは、食事をす る時間とか、あるいは何かをする時間 が規則的に決まっていて、いわば軍隊

図⑨

的な一律的な規則を強いられたりする わけです。 「風の村」では、規則はそれ ぞれのユニットで作って、それぞれの ユニットが独自に行えばいいようにな っていて、可能な限り、外部からの全 体性を強制することはないようになっ ています(図⑪) 。それでも、他のユニ

図⑩

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じ (クリーブ) 」 という概念があります。 切ると同時に、切断された相互の関係 を修復し、連結し、隣接させる働きが 「切り閉じ」です(図⑯) 。荒川は、切 って閉じるということ自体が集積され たものを「バイオスクリーヴ」と呼ん で、バイオスフィア(生命圏)に置き

りは切断され、そしてすぐに改めて回 復されます。この切断してまた接合さ れるという運動の方から生命を見てい こうと考えたのです。仮に呼吸が回復 されない場合、身体は硬直し、生命の 断念に近付くか、もしくは驚く、身構 える、潜水する、嚥下するという、呼 吸とは別の行為が実行されます。呼吸 が止まったことで、次の別の行為につ ながっていくということです。 そのような意味の切り閉じという概 念は、それを通じた経験の断片化を意 味します。それは、単に切断するだけ ではなくて、同時に次の経験の結合、 再組織化することに貢献するものとし て、切り閉じが大切なのだということ を荒川は言い続けていました。 実際に切り閉じが大切にされる建築 が三鷹にあります。天命反転住宅とい います(図⑰) 。周囲から切り取られた ような外観の変わった建物です。そこ で暮らすための使用マニュアルがあっ

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換えなければいけないと言っていまし た。 呼吸というのは、呼気と吸気が繰り 返される波のようなリズムの反復です。 呼気と吸気が入れ替わるその一瞬だけ、 大気とのかかわりに切れ目が生まれま す。つまりその瞬間、大気とのかかわ 図⑮

図⑯


はスーツを着用するけれど、家の近く のコンビニに行くときには大した服な んか着なくてもいい、化粧なんかしな くてもいいとか、どこかで境界を設定 しながら生活しています。それが敷居 です。 高齢者一人ひとりにとって,境界の

設定をして境界をまたぐということに どれだけ豊富なレパートリーがあるの かということが、健康に資するのでは ないかと考えられます(図⑬) 。敷居を またぐということのなかにはいろいろ な役割がおそらく入っているのだと思 います。

図⑬

もう一つの事例検討は実験的な領域 で、来るべき人間の健康です(図⑭) 。 それを考える際に大切なポイントとし て、一つは社会ネットワークの参与可 能性があります。いろいろな社会的な インフラを活用できるのかということ です。もう一つは、運動や動作を伴う 身体行為の可能性です。体にさまざま な障害を持ったり痛みを持ったりする と、社会ネットワークへの参与可能性 が制限されますので、二つは互いに関 係しています。 ここで着目したいのが、荒川修作と いうアーティストで建築家です (図⑮) 。 彼の建築のアイディアは何だったのか というと、生活するなかで身体の動か し方や身体の経験が変わってしまって、 経験の安定が恒常的に揺り動かされる、 そのような建築を作ってきました。荒 川の建築思想的タームの中に「切り閉

来るべき人間の健康

図⑭

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くなるといいます。外から中に入った のに、また外かみたいな感覚になる非 常に特殊な場所です。いまは訪れる人 がほとんどいなくて、維持費が相当掛 かっているそうです。 光の入り方とかも非常に工夫されて いて、実際に歩くのも結構大変です。

イパーサイクルの二重機能性を実行す るための最小条件で、そこでは敷居も そのつど立ち上がり、繰り返し引かれ 直すということがおきます。この住宅 で暮らすことでは、「人間は今後何にな り得るのか」ということだけが問題に なっています。新しい人間になる、新 しい人間が住む住宅とは何なのかとい うことが荒川の大きな課題だったので す。このままの人間ではいられなくな る住宅というのが「天命反転」という モチーフに込めた思いだったのです。 荒川のこのモデルからいえるのは、 人間の健康というのを、既知の健康の 余白を埋めるように狭隘化してはいけ ない、健康であることは状態というよ りは、そのつど自分の身体の経験と経 験の可動域の拡張とともに発見されて いくものだということです(図⑳) 。こ うした身体の使い方があったのか、こ のような事物とのかかわりがあったの か、このような人とのかかわりがあっ 図⑳

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風呂とかトイレやキッチンもあります が、この住宅にはもともと決められた 枠組みや区分け、使用の規則がありま せん。むしろ自分の身体を空間に添う ように作り直すなかで、自らの住処と 規則を発見していくのです。固有な境 界の設定と自生的な規則の出現が、ハ 図⑲


て、「部屋の内部と外部で切り閉じられ る大気との出会いと別れを大切にしな さい」という指示があります。 内部を見ると、床が凸凹していて、 歩くたびに身体のバランスが変わりま す。明らかに現在主流となっている、 障害物がなくて、できるだけ転ばない

ように配慮するというユニバーサルデ ザインの逆を行っています(図⑱) 。バ リアしかないといっても過言ではあり ません。荒川さんの設計は、転んでも いいのだ、転ぶことでもう一度身体に 着目できるというものになっています。 子どもが訪れると大喜びするようなと

図⑰

ころです。実際に三鷹もそうですが、 球形、円筒形、正方形、十字形といっ た多様な幾何図形をユニットとして組 み合わされた空間になっています。こ の家のなかでさまざまなものに触れて みる、目を閉じて感じてみる、体のバ ランスが変化し、あるいは音の聞こえ 方が変化する、そういったことから人 間の感覚の感度が高まるようなという ことが大きなポイントになっています。 ユニバーサルデザインに必須な直感的 な使用法も提示されず、そもそもどの ように使用すればいいかが決まらない ような家です。 アメリカのイーストハンプトンに切 り閉じを全面的に取り入れたバイオス クリーヴハウスというものも作られま した(図⑲) 。二年前ほど前に訪れまし たが、何のために作ったが本当にわか らないような家です。話によると、イ ヌが普通なら駆け回るはずなのに、バ イオスクリーヴハウスに入ると動かな

図⑱

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らかに絶対に住めないと思われたのか もしれませんが、実際に行ってみると なじんでくるのです。私の前半と後半 は話が違うようにみえても実は一つで あるように思っています。三鷹はすぐ 近くにありますので、ぜひ一度行かれ てみたら、感じ取っていただけるもの があるのではないかと思います。

住 荒川修作さんの話は、IR3Sが 発足以来、東洋大学で何回か聞かされ ていますが、何回聞いてもよく分から ないところがあります。いまちょっと 思ったのですが、それぞれの人の家の なかはいろいろものがあって、乱雑に なっています。建物自体は枠組みを提 供しているけれど、さすがに床は凸凹 ではないけれど、人は好き勝手にもの を置いて相当に散乱したりしています。 実際の生活というのは、個人個人がそ れぞれ自分で環境を作っているとは考 えられないのでしょうか。

稲垣 その通りだと思います。一人暮 らしの高齢者の方が孤独死とかといっ て亡くなった後にその家を片付けたり する場合に、ものがあふれていて足の 踏み場もないくらいになっていること があります。バリアだらけであるとい うことで荒川さんの家に似ていたりし ます。そのようななかで、おそらくそ の人の身体や生活のパターンが作られ ていったはずなので、その方がホテル のような介護施設に入ると、経験が混 乱して一挙に認知症が進んでしまうよ うなことがおきるのだと思います。も のをいろいろに置いて、その人の固有 な空間を作っていくのがおそらく普通 の人間の暮らし方なのだと思います。 ただ、ものがあふれるということに ついていうと、荒川さんのこの家のな かには、東京荒川事務所が実際にある のですが、収納がありません。どうし ているのかというと天井にハンモック

みたいなものをぶら下げてそこにもの を置くような仕組みになっています。

住 荒川さんが設計した住宅に、実際 に人が住んでいるのですか。

稲垣 最初は新築で売り出して、一億 円を超えていて、誰も買い手がなかっ たので、三鷹市と協力して今は賃貸で 月一八万ぐらいで住んでいる人がいま す。正確ではありませんが、アーティ ストの方で、 子どもさんが二人います。

住 他によろしいでしょうか。ではど うもありがとうございました。 では続きまして、東京大学サステイ ナビリティ学連携研究機構の福士先生 から「グローバルチェンジが健康に与 える影響―アジア都市の持続可能性を 考える」という題でお話をお願いしま す。

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たのかといった経験の進展に相関する ようにして健康は展開するのです。 荒川さんは天命反転ホテルというも のを作りたかったらしいです。デザイ ンまでしたのですが実現はしていませ ん。 こういったアーティストであり思想

住 大変興味深いお話をありがとう ございました。何かご質問・ご意見あ りますか。

家の思いを今後どう引き受けていくの か、とりわけ哲学の大きな課題になっ てくるわけです。どのような健康を獲 得できるのか、未来が試されるという ことです(図㉑) 。

図㉑

――私は都市工学という、機能を狭隘 に分節化するようなことを研究してき 、先生はここで、前半 たのですが(笑) は生活システムを再現することの必要 性を、後半は新たな空間で身体を再構 築することをお話されました。その二 つは向きが真逆であるような気がした のですが、それらは一体的に解釈でき るものなのでしょうか。

稲垣 それができるかという見通し は、つまりは荒川さんの建築をどのよ うに引き受けていくかという問題であ ると思います。 荒川さんの建築は、日本には三鷹の ほかにも、岐阜県養老町に養老天命反 転地というテーマパークがあります。 養老町には温泉があって、そのテーマ パークを多くの高齢者が訪れていて、 意外とすんなりと楽しんでいます。天 命反転住宅をパッと見て、皆さんは明

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図③

が、水、食料、健康といったテーマを 入れるとお客さんの数が増えるという 経験則があります。なかでも感染症は いろいろな方の興味をひきます。パニ ック映画でも、隕石のなかにウィルス が入っていたりとかいろいろと取り上

図④

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地域で地域的な感染症がみられ、時に は大きな世界的な流行になるものもあ ります。ペスト、SARS、鳥・豚・ ヒトインフルエンザ、 口蹄疫などです。 私たちはSSCでは何回も講演会、シ ンポジウムなどを企画しているのです

図②

皆さんは、病気にかかった経験がな い方はたぶん誰もいないと思います。 感染症の特性は、 多くの人間が経験し、 場合によっては死の危険性があります (図④) 。 ほとんどの人は死なないので すが、たまに死ぬ人がいます。多くの 図①


■研究報告3

グローバルチェンジが健康に与える影響 アジア都市の持続可能性を考える

ふくし けんすけ

福士謙介

これは私の学生のときに読んだ本の 一つ、カミュの『ペスト』の最初の言 葉です(図②) 。ペストが中心の物語で はありませんが、このような日常生活 の一つの事象から、大変恐ろしいペス トが紹介されていきます。ペストは、 ずっと以前からあった病気ですが、一 四世紀後半にヨーロッパで数千万人の 死者を出し、当時の人口の三割から六

感染症と病原微生物

東京大学サステイナビリティ学連携研究機構教授

今回の研究集会では健康がテーマで あると伺っていましたので、私も健康 の話をしよう、どちらかという途上国 が中心となる感染症の話をしようと考 えて今日の発表資料を準備しました。 私は土木工学出身で、東京大学に一 五年前にきて、IR3Sには設立時か ら所属し、現在SSCの理事もしてい ます(図①) 。一九九九年にアジア工科 大学に赴任したときから途上国の研究 をするようになりました。

割ぐらいが亡くなっています(図③) 。 ここに描かれているのは悪魔ではなく て医者です。このような防護の服を着 て、いろいろな地方を回ったのです。 このときの経験で、まったく見えない ものの恐怖というものがヨーロッパの 人々に植え付けられ、もしかしたら自 然に対する脅威というのがここで根本 から植え付けられたのではないかとも いわれています。

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というように、ヒトからヒトに直接う つる場合もありますが、社会全体のな かでは自然がかかわっている場合が結 構あります。 ヒトも昆虫も水も移動します。蚊は 生物学者がそんなに移動しないと言っ ているのですが、私たちのグループが 最近行っている研究では数キロメート ルは軽く移動することがわかってきま した。イタリアで蚊の遺伝子を調べ、 それがどう分布しているかみると、か なりの広範囲で蚊が移動していること がわかりました。水はかなり移動しま す。水はただ流れるだけではなく、船 のバラスト水などは世界中を旅します。 最も行動範囲が広いのは人間で、後で その事例を出します。 水を介して感染する病気を水系感染 症と呼んでいます(図⑦) 。例えば下痢 症、眼病、皮膚病などです。下痢症の 場合は糞便が新たな感染源となります。 糞便のなかには体内で増殖した病原微

生物が入っていますので、いくらそれ を浄水場できれいにしてもゼロにはな かなかなりにくく、それが感染源とな ります。直接糞便を触ることによって も感染します。 お台場が東京オリンピックのトライ アスロンの会場になるらしいのですが、 あそこではいま遊泳できないのにはそ れなりの理由があります。下水の吐き 口が近くにあって、大腸菌の濃度がな かなか下がらないのです。オリンピッ クまでにあそこで遊泳できるようにす るのはたぶん不可能です。東京都の下 水のシステム自体を全部変えなければ なりません。 先進国では、下水道、上水道ともに 水を処理してきれいにしています。そ こで感染のループを切っているわけで すが、途上国ではなかなかそうはなっ ていません。途上国の都市の地下部分 には糞便が少なからずたまっています。 下水管のなか、あるいは貯留槽(セプ

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に入ってその魚をヒトが食べるなど、 さまざまな経路があって人体に入って いきます。眠り病は、フィラリアがク ロバエに入ってヒトに入り、マラリア はハマダラ蚊からヒトに入ります。 病原微生物は、子どもが下痢をする と親も下痢する、家族の誰かが風邪に かかるとそのうち他の人も風邪をひく 図⑦


げられ、日常的に経験しながらその影 響がなかなかわからないものの一つで す。 感染症を起こすもとは病原微生物で す(図⑤) 。ある社長さんから病原微生 物と言われてもわからないと指摘され て、最近は「ばい菌」と言い直すこと にしています。病原微生物は、大きさ

図⑤

で分けると原生動物、細菌、ウィルス があって、 それぞれ生態系も違います。 体内、もしくはトラコーマなどですと 体表面に入って、それが増殖すること で感染します。体のなかは病原微生物 にとっては居心地がいいところ、自分 の子孫を増やせるところで、体のなか に入って増殖するというのが病原微生

図⑥

物の生存戦略の一つです。北脇先生が ご紹介された吸虫などは増殖しないで 体のなかにずっといます。たとえばラ オスの吸虫は、生の魚の塩辛みたいも ののなかにいて、それを食べることに よって人のおなかのなかに入り、それ がどんどんたまると太鼓腹になって、 最終的には死に至ります。 病原微生物のいろいろな流れがあり ます(図⑥) 。例えばヒトから下水に行 き、自然界に入って、水からまたヒト にもどります。ノロウィルスやコレラ などがその例です。この流れを完全に 断つのは難しいのですが、私のかかわ っているプロジェクトの一つでは、ノ ロウィルスが下水に入り、下水処理場 から川や海に出ていくという流れを研 究しているところでです。ノロウィル スが二枚貝に入り、その二枚貝を食べ ると下痢症になります。 吸虫は巻き貝を中間宿主として、そ れを人が食べる、あるいは巻き貝が魚

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す。この人たちから出た病原微生物が 川の水に入り、人々は川の水をさまざ まな用途に使っているので、病原微生 物に感染する危険にさらされています。 さらに気候変動によって洪水がおこる と、水は住居のあるところまで上がっ てきて、感染の危険がさらに高くなり

感染症のリスクアセスメント

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私たちは、感染症になる確率がどれ くらい高いかというリスクアセスメン トをおこなっています(図⑫) 。途上国 では下水道はあってもあまり多くあり ません。ジャカルタでは下水道の整備

図⑫

ます。 感染の経路はいろいろあって、川の 水を直接飲むことはなくても、釣りを したり水泳をしたり、食物を洗ったり したときに感染することがあります (図⑪) 。 図⑩

図⑪


ティックタンク)に糞便がたまってい ます。

図⑧はハーフナゲルさんの二〇〇四 年の論文からの引用です。上はニュー

社会のおける病原微生物の流れ

図⑧

ヨークから、下はロンドンから発信し て九〇日後に感染がどのように広がる かシミュレーションをした図です。ア メリカとヨーロッパの間の飛行機の移 動がやはり多くて、感染者の数が多く なることが予測されます。飛行機によ ってヒトは一日に何万キロも移動でき るので、病原微生物も遠く離れた国に もたらされてしまいます。多様で広範 囲な人間の移動が、より深刻で広範囲 な脆弱性を世界的に与えていることが うかがえます。 社会における病原微生物の流れを見 ると(図⑨) 、下水処理場と浄水場で病 原微生物は減少しますが、ヒトのなか では増殖します。もしも人のなかでの 増殖の程度が下水処理場や浄水場の減 少の程度よりも上がってしまうと、こ のシステムのなかで病原微生物が増え 続けることになってしまいます。 図⑩はベトナムのメコンデルタの下 流で違法に住んでいる人たちの住居で 図⑨

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人々の行動を分析すると(図⑭) 、水 のなかを歩いたり、水のなかで料理を したり(図⑮) 、水のなかで汚くなった ものを掃除したり、家具を一階から二 階に移動したり、子どもたちは水遊び をしたり(図⑯)と、さまざまです。 日本でも昔の方に聞くと「洪水遊び」

ナムの家庭で、ベトナムのフエは一年 のうち一週間程度水の中に浸かってし まいますので、日常的に洪水というの を経験しています。フィリピンのマニ ラでは海のかなり汚い水で子供たちが 遊んでいます(図⑰) 。 汚い水との接触によって感染し、さ

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図⑰

といって、水がくると遊んだというこ とがあったそうです。それらの行動は 病原微生物と触れる機会となります。 洪水のなかで料理をしていて、水につ かった足をかいたりしてから野菜をつ かむと、野菜に病原菌がある程度高い 濃度で付いてしまいます。写真はベト 図⑮

図⑯


率が二パーセントです。通常の途上国 の大都市では十数パーセントから高い ところで三〇パーセントぐらいです。 東京は九割以上整備されています。東 南アジアの国では、屎尿は各家庭の貯 留槽(セプティックタンク)に入るよ うになっていて、上澄みだけが外に流

図⑭

図⑬

れ出て、固形物は一定期間そこに貯め られます。非常によく設計されたセプ ティックタンクですと一〇年以上そこ に置いておけるのですが、最近は家が 小さくなってタンク自体も小さくなり、 年に一、二回引き抜きをしなければな らなくなっています。

図⑭

気候変動によって都市の洪水の頻度 が高くなってきています。さらにマス タープランの遅れによって、洪水は今 後もなくなることはないのではないか と思われます。マスタープランは作っ ても、途上国ではその通りには全然進 みません。お金がなかったり、もしく は思ったより都市化が急激に進んだり するためです。洪水になると、セプテ ィックタンクのなかや下水管のなかに ためられていた糞便が上がって洪水の なかに混ざり、下水とほぼ匹敵するぐ らいの病原性大腸菌の濃度になってし まうことが実際に観測されています。 これはバンコクに行ったときにうち の研究員の一人が撮った写真で (図⑬) 、 水はあふれていても大して深くなく、 サンダルばきの女性たちが水のなかを びちゃびちゃと歩いて横断しています。 ここの大腸菌の濃度は下水を一〇倍ぐ らい薄めた程度で、かなり汚いレベル です。

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ることがまだできていません。途上国 で得られるのは統計値だけで、そもそ もいろいろなところで数字が合わない のです。無理矢理合わせると嘘になっ てしまいますので、私はまだ科学のレ ベルでは統計値と合わせるまでにはい っていないのだと説明していいます。

実際の研究

IR3Sのなかでいま何をしている かというと、評価モデルを作って、最 終的には気候モデルなどと合わせて、 マスタープランが半分できたとき、あ るいは八割ぐらいできたときに感染者 数がどれぐらい減っていくか、もしく は増えていくかということを示せるよ うにしようとしています(図㉑) 。 ベトナムのフエはグエン王朝の首都 で、 ベトナム戦争の激戦区です (図㉒) 。 途上国の研究上の問題として、都市が 急速に変わってしまって、今年作った

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までには至りません。日本でもたとえ ばノロウィルスに関して、病院ではき た患者のノロウィルスをすべてチェッ クしているわけではありません。いま ある町で三つの小児科の先生の協力を 得て、患者の同意を得た上で糞便のウ ィルスを測っているところですが、日 本の五万人規模の都市でもモデルを作 図㉒

問を受けることがあります(図⑳) 。感 染したときに、病院に行く場合もあり ますし、薬を買う場合もありますし、 何もしないで寝ている場合もあります。 途上国では何もしないで寝る場合がか なり多いです。私たちは病院のデータ と、薬局のデータも合わせて見ている のですが、なかなか検証できるところ 図㉑


まざまな経路で家族のなかで感染が広 がります(図⑱) 。二次感染です。 現在の水系感染症のモデルが学術的 にどの程度まで進んでいるかというと、 洪水中の水がどれだけ感染リスクが高 いのか予測できるモデルはありません (図⑲) 。まして、ある洪水のイベント

図⑱ に対する感染者数を予測するモデルは ありません。疫学的に降雨から感染者 の数をブラックボックス的に予測する ことはできますが、それは感染のメカ ニズムを全く無視しているので、統計 学的には有意ではない方法です。水か らヒトに感染するモデルを開発して、

図⑲

気候変動によって洪水が多くなったり した場合に、都市構造をどのようにし たら感染症のリスクを低くできるかと いうことを研究する必要があります。 私たちがモデルを開発し、そのモデ ルから出てきた結果と、実際の保健デ ータと対照して検証したのかという質

図⑳

154


図㉕

図㉖

157

済的な発展は望めないので、洪水はあ る程度の制御が必要だと思います。 GPSも正確に測る必要があるので 大きなものを持って行って、学生を連 れて測定しています(図㉖) 。水質調査 もしています(図㉗) 。人間がどういう ふうに水が接触しているということは 結局町の人に聞くしかないので、アン ケート調査をしています(図㉘) 。飲み

図㉗


モデルが来年は町の構造が変わってし まってもう使えないということがあっ たりします。フエはユネスコの世界遺 産に登録されて、三階建て以上の建物 が建てられないという制約があり、そ

こで作ったモデルは多分一〇年ぐらい は大丈夫だろうと思って、一〇年ぐら い前に研究を始めた経緯があります。 フエの洪水は、日本の激烈な洪水と は違って、ゆっくりきてゆっくりなく なるので、さきほどの写真のように子 どもたちが水のなかで遊ぶことができ ます(図㉓) 。下水道はいま作っている

図㉓

図㉔

ところです。河川にはダムが二つあっ て、それを制御するよう東大の小池教 授が非常に頑張っています。それによ って洪水がなくなってしまうと私たち の研究ができなくなるのでちょっと困 ります。 センサーを二〇個ぐらい街に付けて、 いろいろなところで水位を取っていま す。洪水になると、町のレストランで 子供の背丈くらいまで水がきます(図 ㉔) 。日本の家屋と違って、断熱材がま ったく入っていませんので、水が引く と数時間後にすぐ営業ができるように なっています。洪水がどこまでくるの か、どの程度居続けるのかという予測 を、別途気候のモデルや表面流出の解 析モデルなどを使って行います。実際 に洪水がくると町は図㉕のようになり ます。船があって、洪水に対応できる ように町はなっています。それならそ れでいいではないかという人もいるの ですが、やはりこのようなことでは経

156


が下の地図のように増えます。 ジャカルタでも、少し以前に、気候 変動のA1F1シナリオを使った洪水 予測をしています(図㉝) 。地盤沈下が ない場合とある場合と二つの計算があ

って、工業化が激しい北西部では地盤 沈下の影響の方が気候変動の影響より も大きいという結果が出ています。下 痢症のリスクは図㉞のようになります。

モデルの課題

図㉛

159

こうしたモデルには多くの不確実性 があります(図㉟) 。人間はみんなが同

図㉚


水、氷、生野菜、うがい、シャワー、 洗濯、水遊び、魚釣り、外移動、家具 移動といろいろとあります。そういっ たいろいろなデータを全部採って、感 染モデルを作って、コンピュータシミ

ュレーションをします (図㉙) 。 例えば、 洪水が起きた一日目には、赤いところ で非常に感染の割合が高くなり (図㉚) 、 六日目には洪水は終わっているのです が、残り水、もしくは家庭内での二次

図㉘

感染が出てきます。二〇日間ぐらい計 算して、最終的に患者数は図㉛のよう になります。 マニラでも計算しました(図㉜) 。洪 水が上の地図のようになると、下痢症

図㉙

158


図㉞

161

図㊱

じ行動を取るわけではなく、行動の不 確実性があります。 微生物の濃度には、 それを調べるテクニック上の問題があ って、一〇倍ぐらいの差はあります。 洪水の規模・性質が不確実です。感染 に対する感受性が不確実です。健常者 に対する感受性しか考慮していないと いう問題があります。ウィルス感染症

図㉟


図㉜ 右:マニラ市の洪水マップ。左:マニラ市における洪水を起因とする水系 感染症の感染リスク。

図㉝ 160


動への適応があります。地盤沈下や土 地利用の無計画性などに適応していき ます。次に、気候変動への適応と緩和 です。国のインフラがほとんどない途 上国では気候変動適応と緩和は同時に 考えていかなければいけません。その ためにも多くの援助が必要です。国際 的な援助の場合に、とくに政治的な声 が大きい人が資金を持っていってしま うという側面がなきにしもあらずなの で、透明性、収益性、公共性が求めら れます。そのためには、科学者が学術 的にきちんとした客観的に透明性があ る形のモデルなどを活用して、その影 響を調べていくということが必要です。 サステイナビリティ学では一つのア クションがさまざまな対応につながる ということを考えていて、気候変動の 適応と緩和は、実はこの二つだけでは なくて、災害の問題、住居の問題、廃 棄物の問題、エネルギーや水の問題な どにも有効に働いてくる場合がありま す。国の発展に対してさまざまなイン フラの整備をするときには多面的に考 えていく必要があります。最終的には 高いレジリエンスを目標として、さま ざまなインフラの投資をしていくので す。 今日は感染症を中心にお話をしまし たが、感染症はそれだけで独立した問 題ではありません。多くのことを一緒 に考えていかなければなりません。多 くのことを考えることが、最終的には アジア都市のサステイナビリティにつ ながるのだと思います。

住 どうもありがとうございました。 何かご質問・コメント等あるでしょう か。 ――いまアジアの都市では道路の整備、 インフラの機能向上がどんどん進んで いますが、下水の整備、雨水の排除と いったことがどれぐらい考慮されてい

るのでしょうか。フィリピンを調査し たときに、道路のそばに雨水を排除す るほんの小さな穴しか開いていなくて、 その容量が足りないだけではなく、ご みが詰まっていたりして、町に降った 雨で洪水がおきて、トイレの水があふ れるということを聞きました。道路の 整備には経済的なメリットがはっきり していますが、下水・排水の整備も一 緒にしているのでしょうか。

福士 道路の整備に比べて雨水排除 や下水道は二番目、三番目に見られて います。雨水排除は下水道よりは優先 して進められています。下水道は数百 億円という非常に大きな投資を必要と するので、そこに至るまでのつなぎと して、たとえばジャカルタなどでは小 さな浄化槽を配置することがマスター プラン上で明記されています。ある程 度小さな投資で汚水が出てこないよう な方策が考えられているところです。

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は半分以上が不顕性感染といって症状 が出ないので、そういうことがカウン トに入っていません。 健康リスクは行動に依存します(図 ㊱) 。 危険なものを認識して避けること が大切であっても、見えないものはな かなか避けにくく、危険と認識しない

図㊲ 場合があります。また危険なものは常 に変化します。さっきまではきれいだ ったけど、いまはもうきれいではない ということがあります。感染してしま ってからその原因を突き止めるのは難 しいです。人間の記憶というのはあい まいで、皆さんも海外旅行にいってお

図㊳

なかが壊れたとときに、あれかと思う ものはあっても、ピンポイントでどの 食事かどの水かを示すのは難しいでし ょう。 感染症には気候変動が影響します (図㊲) 。 アジアモンスーン地域では都 市の洪水の頻度と程度は今後増大して いくといわれています。そして気候変 動に適応した都市インフラ整備、端的 にいうと、雨水排除と下水道整備を進 めていくことが必要です。一ついいこ ととして、さまざまな国際的な資金が あります。緑の気候基金、グローバル・ エンバイロンメント・ファシリティな どの資金援助の仕組みがありますので、 気候変動にかかわるような都市インフ ラ整備というのは、こういう機会を活 用してより推進されるような傾向にあ ります。 社会がもつ感染症に対するレジリエ ンスを高めていくために考えていくべ きことを挙げます(図㊳) 。まず社会変

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■研究報告4

陸と海のつながりを考慮した 亜熱帯島嶼環境の保全 やまの ひろや

山野博哉

私自身も温暖化の影響を研究をして きて、 実際にサンゴ礁を保全するには、

赤土の流出問題

じゃないの?」みたいに見られること もあったのですが、白化現象があって からは、私にとってそれは非常に悲し いことではあるのですが、地球環境と のかかわりが非常に強くなってサンゴ 礁の研究が広く認められるようになり ました。

国立環境研究所生物・生態系研究センターセンター長

私は一九九三年の卒論のころからず っとサンゴ礁の研究をしてきました。 一九九八年に全世界的に海水温が上が り、サンゴが大量死する白化現象がお こりました。白化現象は、共生してい る藻類が抜けてしまってサンゴが白く なり、そのあとでサンゴが死んでしま う事象です。このことをきっかけに、 地球温暖化と水温上昇についてさかん に議論されるようになりました。卒論 のころは、「何でこんな研究をしている の?」「サンゴ礁に遊びに行っているん

二酸化炭素の排出を減らしていく必要 があるのですが、その他のストレスを 減らしていくことも非常に重要だとい うことがだんだんとわかってきました。 ストレスの一つが陸域からの土砂や栄 養塩の流入です。 今日おもにご紹介するのが久米島で す(図①) 。久米島は那覇から飛行機で 一時間弱で行けるところで、サトウキ ビ畑が広がって、一見すると非常にの どかな光景の島です。雨が降ると畑か

165


――先ほど、モデルを作るけれどいろ いろな不確実な要素が介在してうまく いかないというお話がありました。一 番の壁になっているのはどういうこと でしょうか。

福士 ステップが非常にたくさんあ ることです。風が吹けば桶屋が儲かる ように、病原菌はいろいろなものを媒 介して感染していくので、一つひとつ のステップでエラーが生じて、それら を掛け合わせると、エラーが非常に大 きくなってしまいます。私がいま考え ているのは、疫学で出した最終的な被 害額・患者数を活用して、そこに至る までにどのような経路がメジャーなの かを調べて、それへの対策を検討する ことです。もしも、子どもによる感染 が非常に大きいのなら、子どもへの教 育が対策として非常に重要だというこ とになります。洪水で出てくる水が非

常に濃くて汚いことによるのなら、そ れをなるべく早く域内から排除してや る急勾配の雨水排除が重要だというこ とになります。 ――インフラ整備は重要ですが、お金 と時間もかかるので、仮に接触してし まっても感染・発症しないような予防 的なアプローチも大事ではないかと思 います。そういったことは可能なので しょうか。

福士 私のこの研究は、国際的資金を どのように活用していくのがよいのか を判断するために被害レベルを算出す るということで、感染者を減らすのは 最終目標としてはあっても、短期・中 期的には目標になっていません。つま り、これだけの被害があるので下水を 整備するお金を出してくださいと、科 学的にきちんと裏付けられたかたちで 言いたいというのが私のモチベーショ

ンです。気候変動の影響は農業や水や さまざまなところに及びますが、健康 についてはどちらかというとあまり科 学的に検討されていなくて、気候モデ ルとのカップリングがうまく行われて おらず、都市のモデルとのカップリン グもうまくいっていません。そこをや ろうとしているのです。

住 そろそろ時間ですので、これで質 疑を終わりたいと思います。 続きまして、国立環境研究所の山野 さんから、「陸と海のつながりを考慮し た亜熱帯島嶼環境の保全」ということ でお話をお願いします。

164


れぐらいのお金を掛けて農地に対策を 施せば生物多様性がどの程度保全され るのかという視点が欠けていましたの で、保全目標や赤土の流入量の閾値を 出すとともに、対策に一体いくらかか るのか、それを効率的に最適化するに はどうしたらいいのかということに取 り組みました。今日はその発表をさせ

ていただきます。 沖縄では、地球温暖化が問題なる以 前から、陸からの赤土の流出は問題に なっていました。沖縄県は一九七二年 に日本に復帰し、その前後から農地の 開発や工事がさかんに行われるように なりました。図②は石垣島です。米軍 が一九四五年に撮った写真と、現在の 図③

衛星画像を比べていただくと、農地が 非常に拡大していることがすぐにわか ると思います。農地がうまく管理がさ れていないと、サトウキビを刈り取っ た後の農地から土砂が流れて海が真赤 になってしまいます。写真は一九九〇 年代の非常にひどかったころのようす です。このころと比べるといまは多少 ましにはなっていますが、問題はまだ 続いています。 赤土をかぶるとサンゴ礁はどうなる か、 二枚の写真を見ていただきます (図 ③) 。 左は最近国立公園になった慶良間 のサンゴ礁で、赤土の影響がなく、非 常に健全な状態です。右は沖縄本島の 東村で、赤いのはパイナップル畑から 流れて出た土です。赤土をかぶってし まうとサンゴは窒息して死んでしまう か、死なないまでも回復力が大きく損 なわれてしまいます。 サンゴがどれくらい海底をおおって いるかというサンゴの被度を調べると、

167


図①

ら土が海に流れ出ます。赤いので赤土 と呼ばれています。赤土が流れ出ると 海岸の近くが真赤になり、サンゴが死 んでしまうことがあります。 温暖化はわれわれが頑張ってもすぐ には止められないのですが、赤土のよ うに陸域から流れ出るものに関しては、 住んでいる人たちの努力によって何と かなる話ですので、この問題に取り組 もうと考えました。先行研究では、ど

図②

166


力を保全できるということです。 一九七〇年代からこのようなひどい 状況が続いていましたので、沖縄県は 一九九五年に赤土等流出防止条例を作

農地からの流出を防ぐには

農地からどのようにして赤土が出る のか、サトウキビ畑を例に基本的なこ とを説明します(図⑥) 。サトウキビは 沖縄県の基幹作物です。サトウキビの 作付け形態として、春植え、株出し、 夏植えがあります。サトウキビは冬に 一番甘くなるので基本的には冬に刈り 取ります。その後ですぐに植えるのが 春植えです。刈り取った後をそのまま にしておいて、根っこの部分からまた 出していくのが株出しです。株出しの 場合は、裸地になりませんから赤土は 出ませんが、春植えの場合は、育つま での間に赤土が出てしまう可能性があ ります。夏植えは、春には植えずにし ばらく待って夏に植え、ひと冬越して 次の冬に刈り取るやり方です。 夏植えの場合は、冬に刈り取ってか ら裸地になっている間に梅雨がきたり、 台風がきたりして、赤土が流出する大

169

りました(図⑤) 。この条例によって、 工事現場から赤土を流すことに対して は罰則が設けられましたが、農地から の流入は依然として続いています。 図⑥

図⑦


図④

一九九八年の白化現象を境に大きく減 っています(図④) 。赤土の影響の少な いところでは、減ってもその後すっか り回復しています。赤土の流入のある ところでは全然回復していません。裏 を返せば、陸域で適切な対策をして土 砂流入を抑えてやると、サンゴの回復

図⑤

168


してWWFが、南西諸島全体でどこが 生物多様性が高いのか、固有性が高い のかという地図を作りました。西表島 はほぼ全島が固有性・多様性の高い場 所で、 久米島は地味な島ですけれども、 生物的には実は結構すごいところで、

世界でこの島だけにしかいない生き物 が五種類ほどいます。たとえばクメジ マボタルはこの島にしかいない固有種 です。 われわれが久米島を選んだのは、生 物多様性が高いというだけではなくて、 急激な土地改変があって問題が非常に 顕著であることと、行政的に久米島町 だけしかなくて、何か対策をするとき に行政と話がしやすいということもあ って、モデルケースになると考えたか らです。 久米島がいまどういう状況かといい ますと、今川という川があって、台風 の大雨の後には土砂で海岸も海も真赤 になります(図⑨) 。われわれは久米島 で研究プロジェクトを進めているので すが、残念なことにいまもこのような 状況です。 われわれの研究プロジェクトは国立 環境研究所の分野横断型研究として始 めたもので、生物センターの人間がい 図⑨

ろいろな生物を調べて生物多様性の評 価と保全目標の設定を行い、地域環境 計測センターの人間がどこからどれく らいの赤土が出ているのかを計算し、 社会センターの人間が環境経済学的な 視点からどれぐらいのコストを掛けて 対策を進めるのかということを出しま した。そして全体を総合して、保全・ 回復目標と対策コストの最適化を求め るということを行いました(図⑩) 。 久米島の歴史を少し振り返ります (図⑪) 。 久米島には一九六〇年代まで 米軍が駐留していました。いまは自衛 隊のレーダー基地が置かれています。 米軍が撮った写真を見ると、久米島の 名前の通り、昔は米がいっぱい作られ ていて、一九八〇年ごろも少し残って いました。沖縄の復帰前後から一面の サトウキビ畑に変わりました(図⑫) 。 いまはサトウキビが基幹作物で、 二月、 三月に刈り取って、製糖工場で砂糖に しています。

171


きな発生源になります。ですから、夏 植えの対策が非常に大切です。春植え に関しても、育っている間は赤土の発 生源になるので何らかの対策をしなけ

ればなりません。 どういった対策が考えられているか というと、一つが緑肥です(図⑦) 。写 真はヒマワリの例ですが、豆科の植物

久米島は生物多様性が豊かで、固有 性も非常に高い島で(図⑧) 。私も協力

久米島での研究

などを植えて、後からすき込んで肥料 にするというやり方です。こうすると 裸地にならずにすみます。もう一つは グリーンベルトで、畑の周囲に草を植 え、 赤土の流出をそこで食い止めます。 また、勾配修正というのは、土木的な 工事をして平らにして流出を防ぎます。 株出しも対策になります。マルチング は、葉ガラを敷いたりして土の面が出 ないようにします。 いくつかの対策があるのですが、こ こで考えなければいけないのは、どれ ぐらいのコストを掛けて、どの対策を どのように採れば全体として生物多様 性がどれくらい保全されるのかという ことです。こういった問題意識を持っ て久米島で研究を始めたわけです。

図⑧

170


昔のことを聞くために、各地域で八 〇歳ぐらいの方が毎月一回集まってお 茶会のようなことをしているところに お邪魔をして、かつてどういうことを やり、どういうものを食べていたかと

いうことを尋ねました(図⑬) 。それを もとに、土地利用を復元していきまし た。同時に、空中写真を集めて鳥瞰図 を作りました(図⑭) 。復帰後の七三年 から八四年にかけて農地の大幅な改変

図⑭

173

図⑪ 図⑫

図⑬


図⑩ 172


図⑮-2

くなってしまいました。 河口に赤土がどれぐらいたまってい るかコアを掘って調べました(図⑯) 。 ひどいところでは一メートル以上たま っていました。そのなかにマングロー ブの炭化物がはさまっているのが見つ かり、その年代を測定すると一九七〇 年から八〇年という値が出ました。ち ょうどそのころに土地改良が行われ、 赤土が流れ出てマングローブが埋まっ てしまったということが裏付けられた わけです。 いくつかの川で現在の生物と赤土の 状況を調査しました(図⑰) 。非常にき れいな川もあれば、赤土がいっぱい入 っている川もあります。その結果をま とめると、大まかな傾向としては予想 通りなのですが、赤土に汚染されたと ころではサンゴもいないし、固有種の クメジマボタルもいないし、その餌生 物のカワニナもいませんでした (図⑱) 。 それに対して、きれいな川ではちゃん

175


図⑮-1

があったことが見ておわかりになると 思います。 土地利用の変化を見ると、一九七六 年にはサトウキビ畑とパイナップル畑 があり、水田もまだちらほらあるとい う状況でした(図⑮) 。そのころに河口 で堆積率を調べたデータがあって、赤 土の流出堆積はほとんどありませんで した。その後、サトウキビのモノカル チャー化がだんだんと進みました。そ の背景としてキューバ危機があります。 キューバのサトウキビがアメリカにい かなくなって砂糖の値段が上がり、沖 縄でどんどん作ってくれということに なって、水田をやめてサトウキビが増 えていったのです。それとほぼ同時の タイミングで、沖縄は日本復帰し、土 地改良が行われました。傾斜地で工事 をしたり、畑を造成したりして赤土が たくさん出て、ほぼ全島の海岸が真赤 になってしまいました。ちなみにパイ ナップルは、貿易の自由化に伴ってな

174


図⑱

土砂流出モデルと赤土対策

177

どこから赤土が流れているのか、土 砂流出モデルを使って農地からの流出 量を算出しました(図⑲) 。沖縄県は沖

図⑲


と生息していました。全体的に統計解 析をすると、クメジマボタルがいて健 全なサンゴ礁があるところの赤土の堆 積量の閾値が出ます。これがすなわち

目標値になるわけです。現在と比べて 二分の一以下に赤土の流出を減らさな いといけないことがわかりました。

図⑯

図⑰

176


図㉔

179

図㉕


縄開発庁時代から農地の調査などを一 筆単位で細かく行ってきたので、そう いったデータを使って解析できます。 それとともに、河口域に濁度計や水位

計を置いてモニタリングを行いました (図⑳) 。そして、土砂流出モデルとし ては、対策の効果が反映できるような ものを使っています(図㉑) 。

図⑳

図㉑

図㉒

図㉓

178


ります (図㉖) 。 このデータを活用して、 全体的にどれぐらいの削減効果がある のか計算し、同時に、地域で実施をし ていただくことを考えて、地域の方々 がどういった対策だと受け入れていた

だけるかという対面式アンケート調査 を行いました(図㉗) 。アンケート調査 は、サトウキビ農家が集まって作付け 状況を製糖会社に報告する集まりがあ るので、そこにお邪魔させていただい て行いました。その結果を統計解析す ると、世帯内の農業従事者数が増える と夏植えの割合が減ります。裏を返す と、労働力が少ないと夏植えが増えま す。その背景としては、サトウキビを 刈った後ですぐに植えるのは大変だと いう生の声がありました(図㉘) 。少し 休んで夏植えにするというのが結構た くさんの意見としてありました。です から、理論上は、夏植えをなくして春 植えにするという対策は提案できても、 現実的には難しいということです。そ こで、全農地面積の四〇パーセントを 春植えにするというシミュレーション をしてみました(図㉙) 。 単純に赤土の流出の多い畑から対策 を実施していくと、どれくらいの費用

181

た(図㉕) 。 次に対策ですが、先ほど申し上げま したようにいくつかの対策があります。 それらの対策に人件費も込みでいくら かかるのかというデータが沖縄県にあ 図㉘

図㉙


サトウキビの刈り取り時には日々農 地の状況が変わるので、農地のモニタ リングもしっかり行わないといけませ ん(図㉒) 。それで、山の上にある携帯 電話のアンテナにカメラを取り付けさ

せてもらって、日々の環境監視をしま した(図㉓) 。カメラで撮影した画像の RGB値を解析して、緑が減ったタイ ミング、あるいは赤が増えたタイミン グがサトウキビを刈り取ったときだと

図㉖

判別する仕組みを考え、刈り取り日を 自動的に抽出することができるように なりました(図㉔) 。刈り取り日の情報 を入れると、対策の必要な農地がどこ にあるのか抽出できるようになりまし

図㉗

180


多様性を保全できるような赤土対策を 久米島町に提案ができたということで す。 いまは補助金があるのでそれをうま く使いましょうということで話を進め ていますが、実際には保全される生態 系がもたらす便益を評価して、補助金 なしでも回るような仕組みをつくらな いといけないと思っています。 それで、 生態系サービスの評価も始めていて、 観光資源としてサンゴ礁一ヘクタール あたり年にどれくらいの利益をもたら しているかということを調査しました (図㉛) 。 このようなことをベースにし て久米島町と一緒になって対策を進め ているところです。

これからの課題 こうして生物保全と地域管理に関す る一つの枠組みができましたので、別 の地域にも同じフレームを展開しよう

としているところです。実際に大宜味 村で進めています。 この研究からいくつか課題が出てき ました (図㉜) 。 評価手法の向上として、 空間構造を考慮していかければなりま せん。上流の畑から赤土が出ると川全 体がやられてしまいますが、下流の畑 からならやられるのは海だけなので、 何らかの重み付けが必要です。農家へ の説得材料として、赤土とともに肥料 も流れてしまうので、それによってど れぐらいの損をしているのかという話 もしたいと思っています。いまは土地 利用は固定した状態で評価しましたが、 長期的には土地利用を変えていくこと、 農作物の転換も見据えた提案をしてい きたいと考えています。そして生態系 サービスの便益を組み込んで、観光客 から入島税を負担をしていただいて、 それを基金にして対策に当てるような 仕組みに展開できないかと考えている ところです。

183

図㉜


でどれくらいの赤土が削減できるのか という結果が図㉚の破線のグラフです。 たくさん赤土が出ているけれども対策 に非常にお金がかかるようなところは

後回しにするとか、全体のバランスを みながら最適化を行うと、実線のよう になります。最初の削減目標は赤土の 流出を半分にするということでしたか

図㉚

ら、二七〇万円ぐらいかかることにな ります。そのことを久米島町に話まし たら、それくらいの予算はあるという ことでした。全体をうまく回せば生物

図㉛

182


■研究報告5

ムのプランテーションに転換してくの を目の当たりにしました。ボルネオ島 は世界的にも非常に生物多様性が高い 場所といわれていますが、開発が進む 状況を見て、多様性の保全について考 えてみたいと思い、環境研にきてから は保全の観点から研究を進めています。 ボルネオの農村地域の写真です(図 ①) 。 ここにはイバンと呼ばれる先住民 が住んでいて、中央にあるのは彼らの 伝統的な家屋であるロングハウスです。

ボルネオ熱帯林断片化景観における 集落保存林が生物多様性保全に果たす役割 たけうち やよい

竹内やよい 国立環境研究所生物・生態系センター研究員

私の専門は生態学で、修士課程から ボルネオの熱帯林で研究を行っていま す。国立環境研究所へ入所したのが三 年前ですが、それまでは基礎的な生態 学、とくに樹木の更新過程や、生物多 様性の維持機構などの研究を行ってき ました。修士・博士課程を通じてマレ ーシアの国立公園でフィールド調査を 行ってきたのですが、研究を進めてい く間に国立公園のまわりの景観がどん どん変わり、とくに森林がオイルパー

長屋形式で、ここでは二〇ぐらいの家 族が住んでいます。規模が大きい村で は一〇〇世帯になることもあります。 イバンの村は河川の近くに成立してお り、伝統的には河川が非常に重要な交 通手段になっていました。一方で開発 が進み、写真でも道路が見えています が、農村部でも伐採道路が開通したた め、現在では車での移動も可能になっ ています。

185


住 ありがとうございました。何かご 質問がありましたらどうぞ。 ――赤土の流出対策はいくつかあって、 それぞれで費用対効果が違うのではな いかと思うのですが、先ほどの最適化 をしたグラフでは費用対効果のいい順 に使っているということでしょうか。

山野 破線は単純に赤土をいっぱい 出している畑から対策していくという ものです。実線は費用対効果を考え、 地域全体を見渡してどこからやってい くのがいいのかという最適化をすると スリム化できるというものです。 ――アンケート調査をしたということ ですが、そもそもの問題意識として、 農家の方、漁業者の方、観光従事者の 方がどう感じておられるのかという聞 き取りはしたのでしょうか。

山野 赤土の流出は何十年も続いて いて、島の皆さんにはこれは問題であ るとの認識はあります。積極的に対策 をしなければいけないとおっしゃる方 もいれば、うちは関係ないと思ってお られる方もいたりと、濃淡さまざまで す。とくに高齢化した農家が非常に多 くて、そこまで手が回らないとおっし ゃいます。若い人手のあるところの農 家は対策に熱心だったりします。 住 土壌流出は、放っておいたら年々 地面がやせて、肥料がたくさん必要に なるとかの影響はないのですか。 山野 山に土がありますので、そこか ら持ってくる場合があります。 住 補助金が出ているということで したが、行政も具体的な対策をしてい るのですか。

山野 グリーンベルトに使う苗を役 場で育てたり、足場板というのを使っ て土を留めるのを助成したり、緑肥も 助成したりしています。どの畑で実施 するのがいいのかというところをわれ われが手助けしています。

住 どうもありがとうございました。 それでは最後の話は、国立環境研の 竹内やよいさんから、「ボルネオ熱帯林 断片化景観における集落保存林が生物 多様性保全に果たす役割」ということ でお願いします。

184


護地域は不足しています。たとえば私 が研究を行っているサラワク州の保護 地域は、二〇一四年の時点で国土の 六・七パーセントしかありませんでし た。生物多様性条約の愛知目標で陸域 図②

の一七パーセントを保護地域にすると いうことが掲げられているのですが、 その数字にほど遠い値です。 ボルネオの森林消失の駆動要因の一 つは商業伐採です(図③) 。伐採道路が

最初に作られ、大型の伐採用の重機が 通行できるようになって、木材が切り 出されます。また、ここ二〇年ぐらい で増え続けているのがアカシアとオイ ルパームのプランテーションです。ア カシアは紙やパルプの材料になるもの で、オイルパームは主に食用油の原料 です。熱帯林を皆伐し、その後にこれ らのプランテーションにする土地利用 の変化はグローバル市場の動向が反映 していて、サラワク州ではそのことが 顕著に見られます。 サラワク州におけるオイルパーム園 は、一九八九年には国土の〇・五パー セントしかありませんでした。その後 どんどん増え、現在では一〇パーセン ト以上になっています。一つ注目して いただきたいのが、誰がオイルパーム を植えているのかということです。企 業が最も多いのですが、最近は零細農 家でもオイルパーム園を経営している ことがよく見られるようになりました。 図③

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図① イバンの人たちは伝統的に焼畑農業 を営んでおり、村のまわりには焼畑後 の休閑林、二次林が広がっています。 この研究では、プラウと呼ばれる集落 保存林に注目しています。プラウは焼 畑景観のなかに残された森林です。

ボルネオ島の熱帯林の現状 最初に、この研究の背景として減少 する熱帯林と生物多様性の話をしたい と思います。熱帯林は、この地球上の 陸地面積の約七パーセントしかありま せん が-、地球上の生物種の約半数がこ の場所に生育しているといわれていま す。炭素の貯蔵地としても非常に重要 で、植物バイオマスの約六割がここに 存在しているといわれています。 一方で、熱帯林はどんどん減少して います。非常に大きな原因は開発など の人為的な攪乱です。 南米、 アフリカ、 東南アジアのすべての熱帯地域で森林

が減少しており、森林は断片化してい る状態になっています。それによって 懸念されるのが生物多様性の減少です。 今回お話をするボルネオ島は日本の ずっと南にあって、世界で三番目に大 きな島です。地上部のバイオマスはア マゾンの熱帯林よりも六〇パーセント 多いという報告もあり、生物多様性も 非常に高い場所と言われています。ボ ルネオ島にはマレーシア、ブルネイ、 インドネシアの三つの国があります。 私はマレーシア側のサラワク州で研究 を行っています。 ボルネオ島は、世界的にみて森林消 失率の高いところです(図②) 。一九五 〇年代はほぼ全域が森林でしたが、六 〇年間で半分に減っています。この高 い森林消失率が続くと、生物多様性も 減少することが危惧されています。哺 乳類で一三パーセント、鳥類で一六パ ーセントが二一〇〇年までに絶滅する だろうとの予測もあります。一方で保

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のかということをまず調べなければな りません。また、プラウは伝統的に先 住民の生活と非常に関係が深い森で、 地域住民の方のニーズがあるならば、 社会的な保全の意義もあると考え、こ

の研究の成果は、たとえば愛知目標や REDD+(途上国における森林減 少・森林劣化に由来する二酸化炭素の 排出を削減する仕組み)などの国際的 な枠組みのなかで掲げられている、先 住民・地域社会のニーズを考慮した保 全策にもつながると考えられます。 プラウは焼畑農業地のなかに残され た残存林です(図⑤) 。村には攪乱を最 小限にとどめるという取り決めがあっ て、プラウの状態は原生林に非常に近 いといわれています。一方で、現在で は周囲の開発が進んで、天然林とは空 間的に離れた状態にあります。プラウ の所有権は、慣習的に先住民に認めら れていることが多いのですが、違法に 伐採されて、提訴されるようなケース も出ています。 プラウからの人々に対しての生態系 サービスは非常に多様です(図⑥) 。た とえば、村の人々はプラウのなかの沢 に堰を設けて小さいダムを作り、そこ

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るための種子源となりうることなどが 示されています。 この研究では生物多様性保全の場と してプラウに注目したのですが、そも そもプラウに生物多様性は残っている

図⑤

図⑥


図④

プラウ――熱帯の里山

熱帯林がどんどん減っている状況の なかで、いまある生物多様性の保全に ついて考えたとき、私は先住民の土地 利用の一つとして昔からあるプラウと 呼ばれる森に注目しました。プラウは 熱帯のいわゆる里山のようなところで す(図④) 。先住民の人たちは伝統的に 焼畑農業を営んでいますが、焼畑農業 地のなかに小さな森を残しています。 それがプラウで、現地語で「島」を意 味します。周りを二次林に囲まれ島状 に残されている森ということです。 プラウは断片化した小さい森ですが、 断片林の生物多様性保全機能はこれま で研究されてきました。たとえば、断 片化していても生物の生息地を提供す る場所になること、景観レベルの森林 の連結性を上げて地域的な種多様性の 維持に寄与すること、焼畑農業の後に 休閑林となった場所を森林に回復させ

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フィールドで、長期モニタリングがさ れている植生プロットがあり、比較対 象のための原生林のデータとして使う ことができます。

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プラウ周辺の変遷 ランドサット衛星画像を用いて、調 査地の土地利用の変遷を調べました (図⑩) 。 ランドサット衛星は光学のセ

ンサーで、熱帯地域には不向きだとい われています。熱帯は常に雲に覆われ ていて、一年のうち三百六十何日かは ほとんど雲ばかりが写っていて、使え るデータは非常に限られているからで す。その中から比較的雲の少ない五時 期を選んで土地利用の解析をしました。 一番古いデータが一九七二年で、その 後、一九九〇年、二〇〇二年、二〇〇 九年、二〇一五年です。そのデータを 天然林、二次林、裸地、水面、雲、影 の六つのカテゴリーに分けて対話的教 師付き分類を行いました。ここでの天 然林とは、原生状態の森林と択抜を受 けた森林の両方を含みます。焼畑など の皆伐を経験した森林は含みません。 二次林は焼畑などによって皆伐をされ た後に成立した森林です。 一九七二年の段階では約八割が緑で 示された天然林でした。その後どんど ん黄色で示された二次林が増え、また 赤で示された裸地が増えていきます。 図⑨


から水道パイプを通して村まで引いて、 日常用水として使っています。また食 料などの生物資源を探す場としても重 要で、イノシシを捕ったり、木の実や 食べ物となる野菜を採ったりしていま す。他にも木材、ゴザや籠などを編む 材料として有用な植物であるラタンも 採集しています。

図⑦ 生物資源の伝統的な利用は非常に多 様です。どれぐらいの種を人々は使っ ているのか調べた先行研究があります (図⑦) 。食べ物で一〇〇種以上、薬や 工芸品、儀式などに使われるものを合 わせると二四〇種、二三〇種と非常に 多様な種を利用しています。

図⑧

プラウ研究の目的

研究の目的は図⑧の通りです。プラ ウが地域の生物多様性の保持に貢献す る場所なのか、そして、プラウが地域 住民への生態系サービスを供給してい るのかという二つの観点から研究を進 めて、最終的には開発が進む熱帯里山 の地域におけるプラウを利用した生物 多様性保全策を構築するということを 目標としています。今回は生物多様性 の保持の部分に焦点を当ててお話しま す。 調査地は、ボルネオ島のなかでも真 ん中あたりに位置するマレーシアのビ ンツル省です(図⑨) 。ジェラロン川の 一帯、一五キロ四方の場所を調べてい ます。ここでは五つの村が八個のプラ ウをもっています。この場所の利点の 一つは、一〇〇キロ先にランビルヒル ズ国立公園があることです。ここは、 世界的にも非常に有名な熱帯林の調査

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ラフはプラウの半径一キロ圏内の土地 利用の割合を示しています。この図か らプラウの周囲の天然林が全体よりも

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す。 対象とした八個のプラウにおいて、 それぞれで周囲の土地利用と変化がど

図⑬

速いスピードで減っていることが分か ります。プラウの周囲は開発されやす い場所であるということが読み取れま 図⑫


この裸地はオイルパーム園です。 土地利用の変化を時系列で見ます (図⑪) 。 この図は調査地の半径一〇キ ロ以内の土地利用の変遷を表していて、

最初は天然林が八割あったのですが、 いまでは五割ぐらいになっています。 一九七二年から一九九〇年の間に一度 大きく天然林が減ったのは、焼畑のた

図⑩

めの伐採によって二次林が増加したた めと考えられます。一方で裸地がどん どん増えていくのはオイルパーム開発 によものだと考えられます。折れ線グ

図⑪ 192


図⑮

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本庫でリストと照らし合わせながら調 べています。 プラウの種多様性が原生林と同等で あるのか、過去の伐採の影響がみられ るのかについて検討しました(図⑯) 。 八つのプラウに合計一六個のプロット を設けました。全積算で約四ヘクター ルです。合計で二五〇〇個体以上出現

図⑯


のように違うのかを示したのが図⑫で す。天然林の減り方はプラウによって ばらつきがあります。一九七二年から 九〇年にかけて減って、そのまま維持 しているものもあれば、直線的にどん どん減っているものもあります。

図⑭

プラウの周囲でどれぐらい減ってい るのか、三つのプラウに注目しました (図⑬) 。 黒いところがプラウの場所で、 一九七二年には黒い点は全て天然林の 一部でした。その後、まわりが二次林 化し、プラウの輪郭がはっきりしてき ます。それだけではなくて、最近では 線状の赤い部分がよく見られます。こ れは伐採道路です。つまり、プラウの 孤立化が進行しているということです。

プラウの生物多様性 次に、現在のプラウの生物多様性と 社会的な状況を調べました(図⑭) 。対 象としたのは五つの村が持っている八 つのプラウです。一番小さいプラウは 一〇ヘクタールしかなく、大きいもの は一二五ヘクタールあります。八つの プラウうち一つはケランガス・泥炭湿 地という植生のタイプで、その他は低 地・丘陵フタバガキ林と呼ばれるこの

地域で一般的な森林です。まず、プラ ウの履歴と利用について住民へのイン タビュー調査を行いました。各村とも 一つのプラウを水源として利用してい ました。また、現在プラウと呼ばれて いる森林でも過去に商業伐採を受けて いる場合がありました。最後の伐採は 古くて一九五〇年代、最近では二〇〇 七年です。先行研究では、プラウは攪 乱を受けていない森林であるとされて いましたが、実際には過去に商業伐採 を受けた森林を含んでいることがわか りました。 樹木の種多様性の調査のために、森 に植生プロットを設置しました (図⑮) 。 今回は五〇メートル四方の区画を設け、 そこに出現する胸高直径一〇センチ以 上全ての個体を記録しました。フィー ルド調査では種名とサイズを記録する のですが、非常に多様性の高い場所な ので、種名がわからないことがありま す。種の同定は、標本を持ち帰って標

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プラウの種多様性として、まず地域 内の多様性を表すα多様性を検討しま す(図⑱) 。サンプル数が増加すると、 見られる種数も上がっていくのですが、 その上がり方がどのように違うかとい

おさまっていて、原生林と同等の種多 様性があるということがわかります。 次にプラウそれぞれの種の構成がどの ように異なり、地域全体としてどれく らいの多様性があるのかということを 調べるために、β多様性を検討します (図⑲) 。 この図は横軸が累積プロット 数と縦軸が累積種数です。面積が大き い方のプラウから累積していったのが 赤のライン、小さい方のプラウから累 積していったのが黒のラインです。ど ちらもリニアに増加しています。これ は、プラウごとに全然違う種組成を持 っているために、プラウが一つ足され るごとにそのほぼプラウの種数でその まま足されていくという状況になって いるということです。つまり、どのプ ラウも非常に固有な種を持っていて、 それらプラウ全体で地域の種多様性に 貢献しているのです。 また、希少種・保護種について調べ ました(図⑳) 。IUCNのレッドリス

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うことを評価します。黄色のバックグ ラウンドが原生林のデータで、線の一 つひとつがプラウです。原生林のバッ クグラウンドのなかに植生の異なる一 つを除いくすべてのプラウがすっぽり 図⑲


し、五四〇種以上がみられました(図 ⑰) 。 グラフの左端が比較のため一〇〇 キロほど離れているランビルヒルズ国 立公園の原生林データを用いています。

1番から8番がプラウのデータで、数 字に丸の付いているのが過去に伐採を 受けたプラウです。この地域ではフタ バガキ科、トウダイグサ科、クスノキ

図⑰

科が多く、その三つのグループが優先 する林になっています。どのプラウも 同じような状態で、プラウの主要構成 種は原生林とあまり変わりません。

図⑱

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ストで絶滅危惧二類に指定されている マレーグマも含まれています。マレー グマのような大型哺乳類は天然林が生 育地となっており、プラウも大型哺乳 類にとって重要な場所であると考えて います。 図㉑

どん低下していて、とくにプラウ周辺 は開発されやすい場所であるというこ とがわかりました(図㉑) 。プラウの生 物多様性の現状は、原生林に匹敵する 種多様性があり、絶滅危惧種も多く含 むということがわかりました。そして 個々のプラウがそれぞれユニークな種 をもっていて、地域の種多様性に貢献 しているので、プラウ全体として地域 の種多様性の貯蔵地となっていること が示唆されました。 結論としては、生物多様性という観 点からみて、プラウを保全の対象とす るのは適切であるということがいえま す(図㉒) 。一方で、開発がどんどん進 行し、プラウの孤立化が進んでいるの で、早急な対策が必要です。プラウを 用いた保全策を実行に移すには、ステ ークホルダーと一緒に行うことが重要 で、とくに地域住民の保全へのインセ ンティブがどこにあるのかを理解する ことがカギとなります。

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プラウの保全に向けて ここまでの話をまとめます。四〇年 間でプラウを取り囲む景観がどのよう に変化してきたかを見ると、プランテ ーション開発によって天然林率がどん 図㉒


トもしくはサワラク州政府が指定して いる保護種はプラウに五四種ありまし た(図⑳) 。これは、サワラク州に生育 するIUCNのレッドリスト記載され ている種の十七パーセントをこのプロ

ットだけでカバーすることにもなりま す。 一つご紹介したいのはラミンと呼ば れる樹木です。ラミンは有用な木材と なる種で、かなり古くから国際市場で

図⑳

取引が行われていたので、個体数が減 少し、現在では保護指定種となってい ます。ワシントン条約でもこの種の木 材は取引が制限されています。一方、 プラウにはラミンの大木が残っていま す。先住民はラミンを木材としては使 いません。というのも、ラミンの樹液 は手に付くとかゆくなるので敬遠され ているからです。ラミンにとってプラ ウは安住の地となっているわけです。 つまり、希少種や絶滅危惧種の保全と いう観点からも、プラウは重要な役割 を果たすといえます。 現在、 動物の多様性も調べています。 動物の多様性を見るためにカメラトラ ップを林内に仕掛けていますが、この カメラには赤外線センサーが付いてい て、その前を動物が通ると自動的にス イッチがオンになる仕組みになってい ます。まだ置いてから五カ月しか経っ ていないのですが、見られた種は一一 種ありました。そのなかにはレッドリ

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――プラウは数ヘクタールぐらいのも あるので、まわりで農薬などを使って 水源が汚染されるようなことはないの でしょうか。

竹内 プラウが水資源としてなぜ大 事なのかといいますと、村の人々がこ れまで利用してきた大河川が濁ってい てるからです。村の前を大きな川が流 れているのですが、その上流部でプラ ンテーション開発が進み、土砂が流出 して川が濁ったような状態になってし まっています。それの代替水源として プラウが使われているのです。焼畑を して農薬を使って水が汚染されている という話はまだ聞いたことはないです。 ――プラウのなかには商業伐採をして いたところがいくつかあるということ ですが、その商業伐採の最後の伐採か らの時間や伐採した内容とかと多様性 との関係はあるのでしょうか。 それと、

伐採によって得た利益は先住民の間で 公のものになるのでしょうか。

竹内 私はそのように考えています。 現在のプラウは、過去に伐採はあった ものの低インパクトだったということ と、焼畑後の二次林に囲まれていると いう状況なので、生物多様性がまだ保 持されているのではないかと考えてい ます。オイルパームが増えると皆伐に なってしまうので、種子源がほとんど なくなって、プラウの多様性も低下す るのではないかと思います。

るが、皆伐だったらと戻らないと考え られるということでしょうか。

住 どうもありがとうございました。

竹内 商業伐採があった年代、伐採強 度と生物多様性の相関については少し 解析してみたのですが、明確な相関は 出ませんでした。現在のサンプル数が 少ないので、もしかしたら今後サンプ ル数が上がればその影響が検出できる かもしれないなと思っています。過去 の商業伐採は、実は択抜でかなり低イ ンパクトだったということを地元の人 は言っています。実際に大きな木も残 っているので、 矛盾はないと思います。 収益についてはいろいろなケースが ありますが、村の許可を得ずに違法伐 採をされたケースもあります。一方で 村の人が企業に売ったというケースも あって、その場合はある程度の収益は 確保されます。 住 択抜だから時間がたてば元に戻

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いま生態系サービスのニーズがどこ にあるかという社会調査を行っていま す。 まだ部分的な結果ではありますが、 生物資源は利用が減少している傾向が 見られました。その一方で水資源は重 要視されていて、水資源を守るために プラウを保全したいという人が増えて

います。こういった生態系サービスの ニーズの変化は、社会経済や開発など と非常に深い関わり合いがあって、社 会的な背景を考慮した研究をこれから 行っていこうと考えています。

住 どうもありがとうございました。 プラウのまわりに二次林があります ね。焼畑をする前のことを考えると、 プラウというものが別にあったわけで はなくて、最初は全部が原生林だった のを、 村の人がこの辺は焼畑にしよう、 ここは残そうというようなことでプラ ウが残ったと考えていいのでしょうか。 竹内 プラウは農業には不適当な土 地であったから残ったという理由が多 いです。 住 二次林の土地所有権は個人が持 っているのですか、村が持っているの ですか。

竹内 サラワクでは一九五八年以前に 開墾した人がその土地の所有権を持つ ことになっています。

――プラウの維持にはお金は掛からな いのですか。日本の二次林ですと間伐 しなければならないということがあり ますが。

竹内 間伐をする慣習はありません。 伝統的な利用法では金銭的なコストが かかることはありません。プラウがそ こにあるから生物資源を取りに行って 利用しているという状態です。コスト がかかっているものがあるとしたら、 水資源を利用している場合で、先ほど 少しご紹介しましたようにプラウの沢 に堰を作って水を村までパイプ引いて いるので、それには維持コストが掛か っています。

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わることによって新たな感染症が出て くる恐れがあるということです。実際 に新興感染症は年に一つぐらい報告さ れています。いまのところ重篤な病気 はエイズ以降はあまりありませんが、 たとえば人畜共通の病気が出てきた場 合に、生態系と人間は必ずしも切り離 されないということを認識し直さなけ ればならなくなります。エコヘルスと いう大きな分野がありますので、健康 と生態系・生物多様性の相互理解を深 めていければと思っています。

一般の人々の協力を得る 住 最初の発表で、早期に外来種植物 を取り除くことが大切だということで したが、そのためには相当な人手がい りますよね。外来種植物を発見して取 り除くということをボランティアです るような動きは進んでいるのでしょう か。

金子 どこでどれぐらいのことが行 われているかということを把握をした ことはないのですが、希少なものと外 来種の発見は表裏一体で、生き物の記 録をしている人たちはあちこちに大勢 いますので、外来植物を駆除するとい うこともいろいろと行われているので はないかと思います。 住 植物を見て、これは固有種でこれ は外来種だということが素人が見でわ かるものなのでしょうか。 金子 琵琶湖研究所では、出てきそう な外来種はあらかじめ特徴を出して、 絵合わせで分かるようにしていて、悩 んだら写真を送ってくださいというこ とをしていました。 住 写真を送ってもらったものを見 て判断するのは人力ですか?

金子 そうです。もちろんサラワクの ように生物種が多かったら対応できな いと思いますが……。

山野 ボランティアの活動というの はいくつか例があります。逆にいうと いくつかしかありません。外来種対策 の一つのアイディアとしては、外来生 物が感染症のベクターになるから対策 が必要だと訴えるという方法があると 思います。たとえば、アライグマがダ ニを媒介して人間に病気をもたらすと いうことがいわれています。健康に関 わることには人々も敏感で、行政のア クションも早くなりますので、そうい う戦略で外来種対策を進めるというの は一つあるかと思います。

住 持続可能な社会をつくっていく ということは、上からトップダウン的 にやっていけばいいという話ではなく

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■総合討論

住 それでは少し時間がありますの で、スピーカーの方は前にきていただ いて、 総合討論を行いたいと思います。 今日は主として生物多様性と健康の 話を考えてきたわけですが、何か最後 に聞いてみたいこと、議論してみたい ことがありましたらどうぞお願いしま す。 選択肢を増やす ――稲垣さんのお話は私にも身につま されるところがありました。いろいろ な施設で、効率的に最小コストで最適 管理をやろうとしていることへのアン チテーゼとして、千葉県の施設の例や 東京の建築家の試みがあるというお話 でしたが、ここ文京区のような都会と 地方では条件が違うでしょうし、人手 の問題などもあるでしょうから、アン

チテーゼが実際にどこまで展開できる のか、未来が本当に開けるのかといっ たあたりについてのお考えをお聞かせ いただけますでしょうか。 稲垣 とても難しい質問です。私が前 にいた自治医科大学は僻地医療を推進 していて、学費がかからない分、卒業 生は九年間は出身の都道府県に行って 働かなければいけないことになってい ます。山間部の診療所に行ったりする わけですが、人手が足りなくて、高齢 化が進み、過疎化がおきて、本当にじ り貧になっているようなところもあり ます。そのようなところで医療を充実 させようとしたら、そこの経済を動か すような仕組みも考えていかなければ ならないということがあります。具体 的な方法としては、観光客を呼ぶテー マパークみたいな発想以外の工夫がな かなか出てきません。ですから、都市 部と経済規模の小さな地域とでは分け

て考えなければいけないというのはあ ると思います。 荒川さんの建築の例を紹介しました が、みんながあのようなところに住め ばいいというよりは、あのようなもの も選択できるという話もあるというこ とで受け止めていただければと思いま す。岐阜にある養老天命反転地には皆 さんが見て、このような形も選択可能 ですよということで提示されています。 いまとは異なるものも選べるというこ とを出していくのも一つの目標として あると考えています。

相互理解を深める

福士 今日は健康と生態系・生物多様 性に関連する研究発表であったわけで すが、それらが連携する研究をこれま で進めてきていて、今後も進めていき たいと思っています。いまよくいわれ るのは、気候変動によって生態系が変

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私が読んだ本では、トレーサビリティ の記述のない木材を日本は多く使って いるとありましたが、ヨーロッパなど では不法伐採の木材は使っていないの でしょうか。

竹内 日本ではこれまで違法伐採の ものを使ってはいけないという法律は なかったのですが、 二〇一六年5月に、 G7の前に国会で、「合法伐採木材等の 流通及び利用の促進に関する法律」が 可決され、一年後に施行されることに なっていますので、企業は違法伐採さ れた木材を使うことができなくなりま す。ヨーロッパではトレーサビリティ の意識は高くて、森林認証制度という のが積極的に使われています。 ――そうしたことがうまく行くと、熱 帯では違法伐採がなくなり、その一方 で日本の林業も持ち直すというような ことを主張されている人がいるのです

が、その点はどうなのでしょうか。

竹内 日本の林業は人件費が高くて、 海外産の木材に押されている現状があ ると思います。国民の意識を上げるこ とが重要で、森林認証制度とかサステ イナブルなマネジメントをしている木 材を使うことが大切であるとの認識が 高まっていけば、持続的管理をしてい ることが付加価値となって、東南アジ アの森も日本の森もどちらもよくなっ ていくのではないかと思います。 自然に触れる機会 ――私は文京区でNPOをしているの ですが、文京区で小石川植物園とか不 忍池とかで植物を観察するイベントな どで、三〇人募集すると八〇人ぐらい 応募があるような状況で、専門の方に いろいろ説明してもらうと、子どもた ちが非常に喜びます。それに対して、

人工的に自然を作るビオトープなどは、 熱心な先生がいる間はいいけれど、そ の先生が転勤すると後はほったらかし ということになっているようです。ビ オトープで環境教育をするよりは、小 石川植物園や不忍池のようなところに 行く方が継続していいのではないかと 思っています。

金子 いいご指摘だと思います。人工 的に作っているという点では、小石川 植物園でもずいぶんと人が木を植えて います。人工的に作るときに、生態学 的な観点から作るか、教育的な面から 作るか、安全性を重視して作るかいろ いろあると思います。学校の先生は、 ビオトープを作るにしても既存の施設 を利用するにしてもなかなか面倒だと いうことがあるでしょうから、たとえ ば国立科学博物館は学校教育とタイア ップしていろいろなことをしていて、 ボランティアさんも一生懸命に活動し

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て、ボトムアップと言いますか、多く の人のボランティア的な協力がなけれ ばできません。多様性を守るのは大切 でも、誰かがやってくれるだろうとい うことでは守れませんから、一般の人 の活動が大切だということは生態系の 話だとわかりやすいのではないかと思 います。 その点で、みんなでビオトープを作 りましょうみたいな話がよくあるので すが、先ほどビオトープが生態系を乱 す汚染源になっているといった指摘が ありましたけれど、ビオトープという ものはどのように捉えたらいいのです か。

金子 なまの生き物と触れ合う機会 を持つことはとても大切です。学校教 育の場でビオトープを作って生き物と 触れ合うことが、人間と自然の関係性 の修復に寄与することはあると思いま す。ビオトープによって環境に多少の

負荷がかかるとしても教育効果という 面では大切なのではないかと思います。

山野 環境教育をされている方々に は、環境に負荷がかかるようなことで あっても、人々の意識を高めることが 重要だという捉え方をしていて人もい ます。そういう方々は非常に熱心です ので、われわれとしては、サステイナ ビリティの観点で対話を進めていくこ とが重要になってくると思っています。 お互いに情報交換し合って、協力し合 える隣人としてやっていければと考え ています。 住 久米島では行政が積極的である ということでしたが、それはもともと 行政に問題意識があったからなのです か。 山野 沖縄では赤土の問題は数十年 続いている問題で、どこの市町村も赤

土問題に取り組みますとアクションプ ランに書いています。これまで赤土の 影響がどれぐらい出ているというのは だいたいわかっていたのですが、対策 にどれぐらいお金をかけたらどれくら いの効果があるかというところはまだ ありませんでした。赤土は問題意識が 結構醸成されていたので対応しやすか ったと思います。

住 世界的に見て沖縄以外でも赤土 問題はあるのですか。

山野 グレートバリアリーフでも陸 から土が流れ込んで駄目になってしま うということはあります。久米島でし ていることに汎用性があるという意識 はあります。

森林の不法伐採と日本

――ボルネオの木材に関連してですが、

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ここで時間がきました。最後の討論 を終えたいと思います。五人のスピー カーのみなさまからは非常に興味深い 話題を提供していただきました。あり ■閉会挨拶

なかがみ けんいち

仲上健一

係者に改めてお礼を申し上げたいと思 がとうございました。それでは理事長 の仲上先生から閉会のご挨拶をお願い します。

一般社団法人サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム理事長

います。基調講演をしていただきまし た北脇秀敏先生には非常に示唆の富ん だご経験の深い話をいただきました。 また研究発表をされた皆さま、総合討 論の司会をしていただいた住明正先生、 どうもありがとうございました。本日 の講演の研究内容は環境、健康、生物 多様性と幅広く、まさにSSCにとっ て非常に重要なテーマを展開されたも

東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構客員教授

立命館大学特任教授

研究集会を終わるにあたりまして主 催団体のSSC理事長よりご挨拶申し 上げます。 本日は研究集会に最後までご熱心に ご参加いただきましてありがとうござ いました。本研究集会は、SSCと東 洋大学国際哲学研究センターとの共催 で行いました。研究集会をご準備いた だいた山田利明教授はじめ東洋大学関

のでした。 この東洋大学は、サステイナビリテ ィ学研究において独自の立場を一貫し て持ってこられました。 竹村牧男学長、 松尾友矩理事はじめ皆さまが熱心に研 究を展開され、ここの入り口に置かれ ておりますように多くの著作、報告書 が刊行され、多くの業績を残されてい ます。 皆さまにおかれましては、これから もSSCに対して、あるいはサステイ ナビリティ研究に対してご支援、ご協 力をいただきたいと思います。今日は 最後まで有難うございました。

山田 本日のご発表の予定はこれで 全部終了いたしました。明日は午後か ら「里山の思想」と題したシンポジウ ムが開催されることになっています。 本日と同様に多数の皆さまのご列席を お待ちしております。どうぞよろしく お願い申し上げます。

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ているので、そのようなところにプロ グラムを依頼するといいのではないか と思います。 ――ボランティアの説明よりは、やは り専門の方の説明のほうが子どもたち にとっていいようです。学校教育では 熱心な先生がやるだけではなくて、学 校全体として行っていくようなシステ ムに変えていく必要があると思います。

解けない問題に挑む 住 それはビオトープのみならず、日 本のシステムが近視眼的で、維持する ということをあまり考えていないと思 います。日本人は、あるものを作った らあとは壊れない、 何とかなると考え、 維持費というものを考えないマインド のようです。逆にいうと、そんなに維 持費がかかるものならやめましょうと 作ることをやめてしまいます。立ち上

げてしまえばあとは何とかなるという のは、右肩上がりの時代にはそれでよ かったのかもしれませんが、右肩下が りになってそれではすまなくなって、 みんながいま困っているのだと思いま す。 一〇年前に比べてみんなが関心をも つように変わってきたのが、老後や介 護や健康の問題です。日本が高齢社会 に向かって、サステイナブルの観点か らも切実な問題になってきたのだと思 います。その点で、稲垣先生の話は何 年も前から聞いていて、以前は全然ピ ンとこなかったのですが、今日は一番 よくわかりました。いまオープンサイ エンスとか、科学と社会との交流が非 常に強調されています。普通の人にわ かりやすい話をして、広めていくこと が大事だろうと思います。 人間の健康は非常に大きな根本的な 問題です。人は必ず死にます。生きて いれば必ずどこかにリスクがあります。

お金をどんどんかけてあるリスクをゼ ロに近づけていくことができるとして も、ほかのリスクが高まってしまえば 意味がありません。ある程度のリスク がある社会でしか定常的に維持できな いのではないかという気がします。や はりトータルに物事を考えないといけ ないのだと思います。 SSCは総合的に問題に取り組むと いうことを目指してスタートしたので すが、残念なことになかなかうまく進 展していきません。それはなぜかとい うと、問題が非常に難しいからです。 多くの研究者は解ける問題しか解かな くて、解けない問題には触らないとい うのを研究の原則としています。そう すると、解けない問題は、現役を終わ った年寄りが挑戦するということにな るのですが、解けない問題ではあるけ れども、頑張ってチャレンジしていこ うではないかという雰囲気を作ってい くことも大事ではないかと思います。

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痛がっている。葉先がかすかにぱらぱらと言い だしてみたり、あるいは、並んでいる葉のあい だへ、光線の面と、角度とを異にした他の葉の 列が影をうつし、重なりあい、また、弾きあう ように互いにゆずり合う。空は、軍艦の腹のよ うに灼けて、燻 (くす)ぶってそばへ寄りつくこ ともできないくらい、暑苦し曇天であった。 ニッパ(ヤシ)はマングローブ性のヤシで、河 の汽水域の最前線を覆います。ボートで河を登り 下りするとき、私などは暑さでボーッとして、虚 ろにニッパの茂みを見ているだけですが、金子光 晴は、 熱帯のうだるような暑苦しい曇天のなかに、 ニッパをまるで女人のように、青磁のように、会 話のように、葉の文様のように、描きます。河と ニッパと曇天が、金子光晴の中で熔け入る。なん ということのない、ニッパに、金子光晴は観入し ていきます。 これは、 日本が古代から培ってきた、 自然陥入法なのかもしれないとも思えます。金子 光晴はさらに続けて、生態学者のような描写をし ます。

その空のしたで、植物どもは、一属、一群か たまって互に進撃し、乗越え、蔓延 (はびこ)っ ていた。マングローブの枝を垂らしている近辺 には、蘆竹の姿はなかったし、ニッパ椰子の領 域にはまだ、 「猿喰わず」のたぐいは繁りあっ ていなかった。 油虫のからだのようになめっこいオイル椰 子、精悍で、くろぐろとしたサゴ椰子のむらが あるあたりには村落があり、二つ、三つの木の 風見がくるくる廻っている。えび色の亜鉛屋根 でアラビヤ風の円屋根を真似た回教礼拝堂が、 ゴムの林のあいだにみえかくれする。 さかのぼりゆくに従って、水は腥 (なまぐさ) さをあたりに発散する。

そして、熱帯森に精(霊)が流れ込んでくるのを 感じるのです。

森の樹木のさかんな精力は、私の肺や、その ほかの内蔵のふかいすみずみまで、ひゃっこい、 青い辛味になって、あおりこまれる。

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後記

一〇年にわたるエッセイも前号をもって完了し ましたが、長きに渉ったことと、前号に達した結 論めいたものがやや唐突だったことから、エッセ イの筋を整理して、後記にかえたいと思います。 また、エッセイは金子光晴の『ニッパヤシの歌』 に始まりましたが、 これを起点として、『源氏物語』 で終えるような基軸を当初には構想していました。 しかし、 『源氏物語』は結局出てきませんでしたの で、その辺の経緯も若干、述べておく必要があり ます。

I 金子光晴の自然感( 観) 熱帯泥炭地の研究をかれこれ三〇年近く続けて いますが、 金子光晴の一九二九年に発表された 『マ レー蘭印紀行』 (中公文庫)ほど、研究対象地の熱 帯泥炭地域を鮮やかに描いた文章を知りません。

我々の熱帯泥炭の研究調査地と同じマレーシヤ、 インドネシアの熱帯泥炭地を、金子光晴はヨーロ ッパへの渡航費を稼ぐために秘画を売りながら逡 巡しています。熱帯泥炭林にしみ入るような感覚 が『マレー蘭印紀行』には散見されます。例えば、 『マレー蘭印紀行』の「センブロン河」章の「セ ンブロン河」の項です。

十一月、雨季満水のころには、ニッパは水の おもてに、ペン先ぐらいの細葉の突先 (とつさき) を立てる。だが、乾季には、恥ずかしいところ までも剥ぎとられ、根まで乾れあがり、ひゞ入 った鉛色の泥中にのめずり込んだり、倒れたり ……大魚の胴骸 (どうがら)に似て半ばそのなか に埋まったりして。ふといやつの根元は肥えふ くれて、青磁の大花瓶を抱くようだ。その鋭い 葉が、穂先をそろえて二丈あまりも高く天を指 さす。とんがりの先にさわって、空がぴくぴく

大崎 満

おおさき みつる

北海道大学大学院教授

(専門は根圏環境制御学・植物栄養学)

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こに棲息する獣の目の光りを見、蛍のツリーに出 会い、夜の精霊達に会います。我々が夜の熱帯ジ ャングルを知るのは、調査でキャンプしている時 のみです。あるいは、夜の帰途とか。中部カリマ ンタンのカハヤン川で調査していて、スピードボ ートで帰る途中、ガソリン所用量の計算を間違え て、ガス欠で真夜中に漂流したことがあります。 あたりは漆黒の闇でした。その時に、金子光晴の 描いた、獣たちの眼の光り、蛍のツリー、不気味 な鳴き声、満天の星、思わずその美しさに呆然と なりました。しかし一緒にいた現地のダッヤック の研究者達は、ボートの天蓋を覆い、ヤッケを着 込んで、うつむいてなにやらぶつぶつ言っていま す。後から聞くと、ここは悪霊の住む地帯だった というのです。なんと、私が水に引きずり込まれ ないように、悪霊と戦ってくれていたのです。お かげで、私は夜のジャングルを堪能しました。金 子光晴も夜のジャングルに身をゆだねていたこと 自体、驚嘆すべきことです。どこまでも、自然の 奥深くに潜り込もうという、そんな詩人魂(感性 力)を感じます。金子光晴の詩とは、感性の塊の わけです。

水木しげるは、第二次世界大戦中、熱帯密林で の極限状態で「異なるもの」の存在を確信したと いっていますが、水木しげるの漫画で、熱帯の風 景が細密に描かれている画は、バリ島の細密画を 想わせると同時に、濃密な生命を感じさせます ( 『水木しげるの戦場──従軍短編集』(中公文庫) 。 密林の濃密な生命を水木しげるは感じ取ったに違 いないですし、 金子光晴もまた同様です。 まるで、 両人が、密林を愛でまわし、舐め廻し(視覚、聴 覚、嗅覚、触覚、味覚の感性を動員して自然の輪 郭を明らかにしていく)ている感じを強くうけま す。漠然とですが、これが、日本の古来から続く、 感性力や自然親和力ではないかと感じた次第です。 金子光晴が隠棲したバトパハの街は、二十年前 も金子光晴が描いたままの街(ただし古くなって はいたが)でしたが、そのまわりの森はすでに油 ヤシに置き換えられていました。

バトパハの街には、まず密林から放たれたころ の明るさがあった。井桁にぬけた街すじの、袋 小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆

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さらに、われわれが研究対象としている泥炭地と 泥炭水にふれます。

カユ・アピアピは、馬来語で、カユは木、ア ピは火、炎の木という意。 水にちかく枝を張るこの木をこのんで、夜に なると蛍があつまる。蛍火の明滅で、枝なりに 梢が燃えているようにみえるので、その名があ るのだという。

夜の密生林(ジャングル)を走る無数の流れ 星。交わるヘッドライト。 そいつは、眼なのだ。いきものたちが縦横無 、二つずつ並ん 尽に餌食をあさる炬火 (たいまつ) で疾走 (はし)る饑渇の業火なのだ。

アエル・イタム──馬来語で黒い水という意 味で、上流の水が灰汁のために黒くなっている ところから名称 (なづ)けられた地名である── までさかのぼってみれば、森はまだ、太古の まゝで、野獣どものたまらない臭 (くさ)さをは こんで彷徨 (さまよ)うている。疥癬で赤裸にな った野猪、虎、目ばかり光る黒豹、鰐や川蛇… …、針鼠、うそぶくコブラ、梢をぬって飛蜥蜴、 、一 鶏をのみこみカンポを襲う巨蠎 (にしきへび) 歩、森のはずれに歩を踏み入れるならば、そこ には、怖るべき黒水病の媒介者の悪性なマラリ ヤ蚊「アナフレス」が棲息しているのである。 気まぐれなものは、驟雨である。

これまでの熱帯ジャングルの紀行文等のほとん どでは、まるで餓鬼、悪魔、禽獣、魑魅魍魎の住 む魔界や地獄のように書かれてきていますが、金 子光晴は濃厚な生命の棲息場として感じ描いてい ます。特に、夜のジャングルは不気味ですが、そ

さらに、 「センブロン河」章の「カユ・アピアピ」 について。

日本の詩歌は、古来より花鳥風月や雪月花の日 本の四季を鮮やかに歌い込むことに秀でています が、この自然を読み込む感性力を、金子光晴は熱 帯泥炭地においても鮮やかに発揮します。「センブ ロン河」章の「夜」の項です。

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バンジャル・マシンをのぼり バトパハ河をくだる 両岸のニッパ椰子よ。 ながれる水のうへの 静思よ。 はてない伴侶よ。 文明のない、さびしい明るさが 文明の一漂流物、私をながめる。 胡椒 (こせう)や、ゴムの プランター達をながめたように。 「かへらないことが 最善だよ。 」 それは放浪の哲学。 ニッパは 女たちよりやさしい。 たばこをふかしてねそべつている どんな女たちよりも。

ニッパはみんな疲れたような姿態で、 だが、精悍なほど いきいきとして。 聡明で すこしの淫らさもなくて、 すさまじいほど清らかな 青い襟足をそろへて。

金子光晴の熱帯とは真逆の環境のアラスカのツ ンドラにおけるもう一人の感性力者、写真家星野 道夫にも惹かれます。意外にも二人の感性力は似 ている感じがします。 写真家星野道夫の多くの文章は、コアーのイメ ージがまず凝縮してあり、それに物語を紡いでい く、そんな感じがします。つまり、詩的感性が常 にコアーにある。星野道夫の文章は詩を潜めなが ら、詩と詩を繋ぐように展開していく感じです。 『ノーザンライツ』 (新潮文庫)にいたっては、冒 頭に詩的文が配置された章が多いです。

九月も半ばを過ぎると、フェアバンクスには 晩秋の気配が漂ってくる。太陽の沈まぬ光に満

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喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々でつゞいて いる。森や海からの風は、自由自在にこの街を 吹きぬけてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が 街をとりかこんで、うち負かされることなく 森ゝと繁っている。 「森ゝと繁っている」粗暴な精力をもつ自然(ジ ャングル)が半世紀後に文明に屈するとは金子光 晴は、夢にも思わなかったでしょう。わずか半世 紀後にはそこはすべてゴム園に替えられ、オイル パーム園が侵入し、強靱な生命力を持っていたは ずの熱帯ジャングルは脆くも消滅し、また消滅し つつあります。そこは泥炭地で、排水により脆く も生態系は崩壊し、一方、火災と微生物分解によ る二酸化炭素放出で地球規模の災害をもたらす、 正真の火焔地獄にかわりつつあります。その当時 から、文明との戦いの最前線におかれているニッ パ椰子を、金子光晴の「ニッパ椰子の唄」 ( 『女た ちのへのエレジー』( 『金子光晴詩集』 清岡卓行編、 岩波文庫) )で読んで、熱帯泥炭林への鎮魂としま しょう。

赤鏽 (あかさび)の水のおもてに ニッパ椰子が茂る。 満々と漲る水は、 天とおなじくらゐ 高い。 むしむしした白雲の映る ゆるい水襞 (みなひだ)から出て、 ニッパはあかるく 爪弾 (つまはじ)きしあう。 こころのまつすぐな ニッパよ。 漂泊の友よ。 なみだにぬれた 新鮮な睫毛 (まつげ)よ。 なげやりなニッパを、櫂 (かい)が おしわけてすすむ。 まる木舟の舷 (ふなばた)と並んで 川蛇がおよぐ。

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を見通したその力があったからだ。 目まぐるしく、そして加速度的に動き続ける 時代という渦の中で、きびしい冬を越した大地 から現れる芽のように、それはまだ見過ごして しまいそうな小ささかもしれないが、ぼくは新 しい力が生まれつつあることを確信し始めて いる。それは、ただ、〝昔はよかった〟という 過去に立ち戻ることではない。ノスタルジアか らは何も新しいものは生まれてこない。自然も、 人の暮らしも、決して同じ場所にとどまること なく、すべてのものが未来へ向かって動いてい る。 ( 「クリンギット族の寡黙な墓守」より) この「クリンギット族の寡黙な墓守」の章の〆 の文章がまたすばらしいです。 私たちは早春の森をさらに歩いて行った。あ たりは新しい生命の気配に満ちていた。 〝木も、岩も、風さえも、魂をもって、じっと 人間を見据えている〟 ぼくは、まるでひとつの生命体のような森の 中で、いつか聞いた、インディアンの神話の一

節を、ふと思い出していた。

〝木も、岩も、風さえも、魂をもって、じっと 人間を見据えている〟。これに、季語に早春の森 と場所(アラスカ、ツンドラ)を織り込むと、星 野道夫の和歌となります。もちろん和歌の形式に はなっていませんが、和歌の心そのものです。こ の『ノーザンライツ』には、金子光晴のように、 自然を愛で舐めなわし、その生命を感じ取るとと もに、一方、人の愚かさも鋭く書いています。例 えば、 「幻のアラスカ核実験場化計画」 。あるいは、 「心優しきベトナム帰還兵」 。

(前略)ウイリーはベトナム帰還兵だった。 より多くの黒人が、より危険な前線に送られ たように、エスキモーや極北のインディアンも また同じ運命をたどった。 「息子はおれの命の恩人なんだ」 かつてウイリーはそう言ったことがある。 ベトナム戦争で五万八一三二人の米兵が命 を落としたが、戦後、その三倍にも及ぶ約十五 万人のベトナム帰還兵が自殺していることは

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ちた夏は遠く去り、美しい秋色も色褪せた。そ れを悲しむにはまだ早い。来たるべき冬を待ち ながら、風に舞う落葉を眺め、カサカサと枯れ 葉を踏みしめる、不思議に穏やかな日々がまだ そこにある。満ち潮が押し寄せ、再び引いてゆ く前の、つかのまの海の静けさのようなとき。 人の一生にも、そんな季節があるだろうか。 ( 「ジニーとシリアの空」より) フェアバンクスの雪は、空から地上へと、梯 子を伝うようにいつもまっすぐ降りてくる。雪 の世界の美しさは、地上のあらゆるものを白い ベールに包みこむ不思議さかもしれない。人の 一生の中で、歳月もまた雪のように降り積もり、 辛い記憶をうっすらと覆いながら、過ぎ去った 昔を懐かしさへと美しく浄化させてゆく。もし そうでなければ、老いてゆくのは何と苦しいこ とだろう。 ( 「アラスカの空」より) 岩と氷の巨大な針峰、ムーストゥースから月 が昇ってきた。闇の中に沈んだマッキンレー山 もかすかに淡く浮かび上がっている。広大なル

ース氷河源流の雪原に夜の影が射し始めてい た。 ( 「マッキンレー山の思い出」より)

(前略)十二月のフェアバンクスの夜明けは 遠い。地平線にわずかに顔を見せるだけの太陽 が、じれったくなるほどなかなか昇って来ない。 が、長い長い夜をへて現れる太陽に、人々は生 かされているという温もりを心に感じ、忘れて いた人間の脆さに気づかされる。太陽が沈まぬ 夏の白夜より、闇黒の冬にどこか魅かれるのは、 私たちの心に、太陽を慈しむという遠い記憶が 戻ってくるからだろう。 ( 「未来を見通した不思 議な力」より)

(前略)新しい土地制度に参加しなかったグ ッチンインディアンの村を訪れた時、時代に取 り残されような静かなたたずまいの中に、浮か れていない、地に足のついた自信のようなもの を感じていた。なぜ、目先の豊かさではない、 何代も何代も先の子どもたちのための選択が できたのか。それは人々がもちえた〝何かがお かしい〟〝やっぱり止めようか〟という、未来

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考える時、一〇代の頃抱いた不思議な感覚を今 でも思い出す。それは現在の僕のものの感じ方、 考え方のベースにどこかで関わっているよう な気がしてならない。 あの頃、北海道の自然に憧れていた。アラス カどころではなく、当時の僕にとって北海道さ え遠い世界だった。北海道に関するさまざまな 本を読みあさっていた。 いつしかあることが気にかかり始めた。それ はヒグマのことだった。自分が生きていると同 じ国で、ヒグマが同時に生きていることが不思 議でならなかった。もうすこし詳しく言うと、 例えば満員電車に揺られながら学校に向かう 途中、東京の雑踏を歩いている時、ふとそのこ とが頭に浮かんでくるのである。今、この瞬間、 ヒグマが原野を歩いているのかと……。 よく考えれば、あたりまえの話である。北海 道にはまだたくさんの自然が残っているのだ から。だが、その時はそんなふうには思えなか った。自然とは、世界とは面白いものだと思っ た。それを今言葉にすると、すべてのものに平 等に同じ時間が流れている不思議さだったの だろう。

金子光晴や星野道夫の感性は、自然の隅々にま で入り込み、愛でまわし、舐めまわし(五感の視 覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚を駆使して自然を味 わう) 、極限の時間と悠久の時間を肌で感じます。 そこには精霊も生き、あらゆる自然が精霊の繋が りの中にいることを感じます。この金子光晴や星 野道夫の感性の真逆にいるのが、ヘンリー・ソロ ーです。 今福龍太は、ヘンリー・ソローがちょうど「歩 く、あるいは野生」の草稿を書いていた時期であ る一八五一年九月七日の日記に、つぎのような注 目すべき書きつけがあると、指摘します( 『ヘンリ 。 ー・ソロー 野生の学舎』みすず書房)

自然のなかに感知されるすべての神聖なもの の顕れを待ちかまえ、それについて書き記すこ と。私の仕事は、自然のなかに神を見いだすた めにいつも注意深くあることだ。神の隠れ家を 知り、自然のオラトリオ劇やオペラに立ちあう ことである。

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あまり知られていない。ウイリーもやがで精神 の一生の短さを知ることはないのかもしれま に破綻をきたし、首をつって自殺を図った。が、 せん。 ( 『旅をする木』文春文庫) その時、わずか七歳だった息子が父親の身体を アスペンやシラカバの葉が黄色に色づき、ツン 必死に下から支え続けたという。 ドラの絨毯がワイン色に染まると、短いアラス さらに、星野道夫の詩歌のように美しい文を列 カの秋が始まる。深緑のピークがたった一日の 挙しておきます。 ように、紅葉のピークも僅か一日である。 ( 『長 い旅の途上』文春文庫) 一夜のうちに、秋色がずっと進んでしまったの 「深緑のピークがたった一日のように、紅葉の です。北風が絵筆のように通り過ぎていったの ピークも僅か一日である。 」生命が一瞬にシン です。 ( 『旅をする木』文春文庫) クロし濃縮する。四季はあるが、春秋はまさに 北の自然の恵みは、南のそれとは少し違うので 瞬間である。四季の循環より、極限地での生命 す、それはきびしい環境の中で、凝縮され、あ のうねりを感じ、それは「無窮の彼方へ流れて っという間に散ってゆく、どこか緊張感をもっ ゆく時」となる。生命と時間の関係が極限の た自然の恵みです。 ( 『旅をする木』文春文庫) 「今」によって動かされる。 ( 『長い旅の途上』 文春文庫) 無窮の彼方へ流れてゆく時を、めぐる季節で確 また、星野道夫は鋭い感性と不思議な共有感覚 かに感じることができる。自然とは、何と粋な 『長い旅の途上』文春文庫) 。 はからいをするのだろと思います。一年に一度、 を有していました( 名残惜しく過ぎてゆくものに、この世で何度め 人間と自然との関わりって何なんだろうと ぐり合えるのか。その回数をかぞえるほど、人

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存とも呼ばれています。今福龍太は、このソロー であり、略奪者のそれであることが直ちに理解で の野生を哲学的に考察して、「野生とは自然状態に きます。インディオを虐殺した「野生の叫び」 、そ おいて存在する実在物であるというだけではない。 してその「野生の叫び」の根源的「実在 精 =神」 複合体を追求した文学が、アメリカに多いのもよ それは、むしろ求められることによって実体とな く理解できます。ヘミングウェイの『老人と海』 、 るようなある種の精神的・理念的なものも含み込 メルヴィルの『白鯨』 、フォークナーの『熊』など んだ、不思議な「実在 精 =神」複合体であること をソローの著書は暗示する。 」 といいます。 つまり、 はその典型です。 ハンティングというと文学になりますが、英語 今福龍太の説明からすると、ソローの野生である 圏の世俗では、ハンティングはゲームと呼ばれま 「実在 精 =神」複合体は、それはもうほとんど「実 存」とよんでもいいのではないでしょうか。続け す。 アフリカでイギリスが宗主国であった国では、 いまだにゲームがおこなわれ、ソローの「不意に )を引用して、ソ て、 『ウォーキング』 ( Walking ローの野生をさらに明らかにしてくれます。 ぞくっとするほど野生な喜び」を解き放っている のです。その獲物の肉はジビエなどという上品な 野性的なもののなかに世界は保存されている。 表現などしません。ゲームミートといいます。野 あらゆる樹木は野生を求めて細い根を伸ばす。 生を貪り食う。現在も生活のために狩猟する狩猟 都市はどんな対価を払っても野生を取り込も 民族や遊牧民族では、動物に対しては畏敬の念と うとする。人間は野生を求めて土地を耕し、航 尊厳を持って接します。しかし、ソローが思わず 海する。 漏らしてしまった、文明化した擬似狩猟民族は欲 求不満が昂じて「不意にぞくっとするほど野生な 喜び」に襲われます。これは、性的倒錯に近い。 ソローの性的倒錯に近い、文明によって封印され た「野生」を、哲学や思想に昇華しようとするか ここまで来ると、もうほとんで本末転倒してい ます。錯乱しています。ここから「野生が文明に 不可欠である」という主張はまさに植民者のそれ

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今福龍太は、 「それはある意味で、キリスト教の教 会や教義の枠組みからまったく自由になった、あ らたな自然「巡礼」という行為に向けての、ソロ ーの宣言のようなもの」であるといいます。つま りソローの「神」とは、キリスト教の神でも、ア ミニズムの神々でもない。それは、より根源的神 であるに違いなく、いわば西洋に繰り返し顕れる 「絶対神」といったもののようです。以下に、私 がヘンリー・ソローの『ウォールデン 森の生活』 や『メインの森』を読むときのなんともいえない いやな感じの源泉を、今福龍太はみごとに明らか にしてくれました (今福龍太のソローへの賞賛が、 そのままソローへの悪罵になってしまい申し訳あ りません) 。今福龍太の解説は実に素晴らしく、こ れまで漠然とした違和感しか感じなかったのです が、その違和感の根源を実に鮮やかに示してくれ ます。 ヘンリー・ソローにとって「神聖なもの」とは いったいなんであったか、今福龍太はそれも見事 に教えてくれます(私がほとんど読み飛ばしてし

まったところを) 。

『ウォールデン』の「より高次の法」の章の冒 頭にこんな挿話がある。湖で魚を釣っていたソ ローは、黄昏の森のなかを小屋にもどる途中で 一匹のウッドチャックが目の前を横切るのに 出くわす。そのときソローは不意にぞくっとす るほど「野生な」喜びにうたれ、その小動物を つかまえて生のままむさぼり食いたいという 強い衝動にかられる。ソローはこう書いている。 「私は別に空腹だったわけではないが、ウッド チャックが象徴する野性的なものに飢えてい たのだ」 、と。

これはもう、 「野生な喜び」は性欲と同じレベルと しかいいようがありません。これは神のエキスを 注入したくなった衝動でしょうか。アレン・ギン ズバークの表現をかりると、ウッドチャックにフ ァック(同化)したくなったような衝動です。あ るいは、サルトルがマロニエの根をみて、これま たファックしたくなった(それを身体が引き止め て、かわりに嘔吐した)ような野生で、それは実

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学生の頃、クラブの管理している山小屋「奥手 稲」 に、 冬期間に毎週土日に小屋番が入りますが、 小屋番と一緒に入り、一人だけ残り、一週間後に

Ⅱ 『 源氏物語』 の自然感( 観)

ドゥルーズの書物にスリップしたような厭な感じ 五感を通じて真理への通路を示している。ささ がしたからです。ここから、 「心(精神) 」ばかり やかな刺戟にほかならなかった。 でなく、 「自然」まで形而上化しようという、西洋 今福龍太の解説をここだけを読むと、正直、ソ の近現代文明(文化)の邪悪な退廃を確かに読み ローの虜になりそうになります。金子光晴にも星 取ることが出来ます。 今福龍太のソロー解説をさらにみてみましょう。 野道夫にもそのまま当てはまりそうでもあります。 しかし、違いは、ソローは「身体と言語的理性と ソローの思想的逍遙につきあうことは、魅惑的 直感の三者を統合」すべく視覚、聴覚、味覚、嗅 にみえてとても難しい。そこでは、身体と言語 覚、触覚という五感を駆使して、絶対者を感知し 的理性と直感の三者が統合されている。視覚、 ようとします。五感のそもそもの使い方が異なる 聴覚、味覚、嗅覚、触覚という五感はすべて等 のです。金子光晴も星野道夫もその感性を絶対者 しく重要性を持ち、しかも相互に互換可能とな の探査には向けていません。金子光晴と星野道夫 る。高次の法の言い換えとして、ソローがしば の感性は自然と自分(あるいは人)との相対的距 離への探査なのです。この差はとてつもなく大き く、とてつもなく大きな問題を孕んでいます。 すなわち「内 しば「霊感(ゲニウス) 」 genius なる精神性」とも呼んだ感覚は、ときに「ある 丘の中腹で食べた野生の苺が私の霊感を養っ てくれた」 ( 「より高次の法」 『ウォールデン』 ) というように、彼の舌を通じて胸のなかに静か に収まることもあった。彼はその野苺の繊細な 風味を、真の知性としてとりこんだ。(中略)そ して彼の学びも同じだった。彼が真に必要とし ていたのは、むさぼり食う知識ではなく、彼の

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ら、観念自体も倒錯してきます。ソローが自然に 求めているのは、文明に封印された「野生」の解 放で、それは、歪んだ淫乱な欲望です。 ポール・ヴァレリーの「神の醗酵の胤 (たね( )の 注入) 」やD・P・シュレーバーの「光線ないし神 の神経の絶えざる流入」やアレン・ギンズバーグ は「怪物か天使か、永遠におれをファックしにく る恋人」といった「神のエキスの注入」を妄想し て恍惚となる、それに近い淫乱な欲望が、ソロー にとっては「野生」の解放なのです。西洋の森林 に対する異様な心理反応をこれまで多く見てきた が(シュバルツバルトの魔女の森、熱帯密林等) 、 ソローの森林も、我々が感じ考えるような森林や 自然などではなく、西洋の抑圧された「野生」へ の偏愛なのです。ドゥルーズ&ガダリーが自然自 体を観念化しようという、そういう倒錯にも近い かも知れません。 さらに、今福龍太は引用で、ソローの野生の意 味を深めます。 「野生」 wild とは、 「意志をもつ」 to will の過 去分詞形である。つまり「野生の」馬とは「意

志ある」馬、みずから意を決した馬のことであ る。野生の馬は、けっして飼い馴らされず、自 分の意志をだれか他のものの意志に譲り渡す こともない。野生の人間もまたおなじである。

今福龍太の引用で『ウォールデン』をさらに見 てみます。

砂そのもののなかに、植物の葉の出現が予感さ れいるのである。大地が、内部にそうした理念 をはらみ、精を出して働いている以上、外部に おいて葉のなかに自己を表現しようとするの は少しも驚きではない。

今福龍太は、 「すなわち、植物だけでなく、大地 のすべての自然物のなかに、いわば「葉」になろ うとする「意志」があることを、ソローはここで 確信したのである。葉のかたちのなかに世界その もの、宇宙そのものの摂理を見ようとする指向性 こそ、ソローの「野生」概念を支えるもっとも本 質的ヴィジョンであった」と解説します。この文 を読んで、 私は一瞬めまいを感じました。 まるで、

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す。 「帚木」では、 帚木の心を知らでその原の道にあやなくまど ひぬるかな 「夕顔」では、 心あてにそれかとぞ見る白露の光添えたる夕 顔の花 寄りてこそそれかとも見め黄昏れにほのぼの 見つる花の夕顔 光ありと見し夕顔のうは露は黄昏時のそら目 なりけり 「末摘花」では、 なつかしき色ともなしに何にこの末摘花を袖 に触れけん 「榊」では、 神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへ て折れる榊ぞ 少女子があたりと思へば榊葉の香をなつかし みとめてこそ折れ 「花散里」では、 橘の香をなつかしみほととぎす花散る里を訪

ねてぞとふ 人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまと なりけれ です。

『源氏物語 中下巻』の章題には、木花での章 も多いですが、 「胡蝶」 、 「蛍」 、 「鈴虫」 、 「蜻蛉」と いった虫の章がでてきます。

「胡蝶」では、 花園の胡蝶をさへや下草に秋まつ虫はうとく 見るらん 「蛍」では、 鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには 消ゆるものかは 声はせで身をのみこがす蛍こそ言ふよりもま さる思ひなるらめ 「鈴虫」では、 大かたの秋をば憂しと知りにしを振り捨てが たき鈴虫の声 心もて草の宿りを厭へどもなほ鈴虫の声ぞふ りせぬ

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次の小屋番と帰ったことがあります。 「奥手稲」小 屋は、人里から離れ一五キロメートル四方に人が 住んでいません。一週間、人里から隔離された空 間に置かれたのは、 生涯を通してこの時だけです。 この時持っていって読んだのが、 『源氏物語』 (与 謝野晶子訳)です。 『源氏物語』とは〝気配〟の文 学だと強烈に感じました。人と人との関係(恋愛) というよりは、人と人との〝気配〟です。そして 人と自然との〝気配〟です。 人が周りに居なくなると、異常に感性が鋭くな ってきます。 五感が鋭くなるのです。 驚きました。 風がつくりだす音色は、万物に生命を吹き込む、 あるいは生命を奏でるそんな感覚になります。風 の向き、強さ、リズムで小屋自体が生きてくる。 風で山自体が呻くようになります。川端康成では ないですが、まるで「山の音」が聞こえてくるよ うです。それに、鳥のさえずりや小動物の微かな 鳴き声。しばれる(凍りつく)音まで、重低音で 空気に滲みてきます。夜は月までなにか奏でてい るような錯覚を催します。見渡す限りの白銀の世 界全体が息吹いている。これは、不思議な体験で した。

まわりに人が居ると、この感性(五感)が日常 の言葉に封じこめられ、封印されているのではな いでしょうか。自ら考え、感じているようで、言 葉によってすでに既成事実化したものを味わい、 判断している。 そこで読んだ『源氏物語』からは、言葉がまだ 若々しく、 感性を閉じ込めるほど成熟していない、 そういう時代の文化により紡がれた物語のような 感じが強くしました。それで、この一連のエッセ イでは、金子光晴を起点として『源氏物語』に繋 がる線を基線にして、その基線との距離を図りな がらいろいろエッセイを書き継ぐこと基本に据え たしだいです。

『源氏物語 上巻』の章題は、場所や空間の特 徴に関係ありますが、 「桐壺」から「帚木」 、 「空蝉」 、 「夕顔」 、 「若紫」 、 「末摘花」 、 「紅葉賀」 、 「花宴」 、 「葵」 、 「榊」 、 「花散里」にいたるまで、 「空蝉」 、 「若紫」以外、木花で章のイメージが出来あがり ます。章題が文中の歌に次のように文中に読み込 まれています。歌が文の芯になっていて、その芯 を別の歌が支えている、そんな構造を強く感じま

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記述もそこにはほとんどなく、光源氏の日常生 活を語る記述も──例えば食事に関わる具体 的な記述も、つまり光源氏の食べている様子や 食物の品数を語る記述などといったものも、あ の長い物語の中にほとんどなかったからであ る。 『今昔物語集』などが語る露骨な生活描写 に比して、そこにあるものは清楚というにはあ まりにも無機的で抽象的で、著しく実感を欠い た世界のように思われたのである。 高橋文時によると、 『源氏物語』は不思議な物語 です。現代的小説という観点から、するとプロッ トがまるでなっていない。 情景が書かれていない、 生活感覚がない。しかも、現代訳語で出版された 『源氏物語』を介して浮かび上がってくる光源氏 は、何と浮薄で、不面目で、あてにならぬ男であ る、といいます。そのためにかえって対者側の女 たちの真面目さや悲しみや苦渋が浮かび上がる。 私も基本的にそのように感じてきました。『源氏物 語』は光源氏を主人公とした普通の物語のように 読むと、まるでつまらぬ物語にしかすぎません。 光源氏は何にでも応用が利く、どんな条件にもあ

てはまる汎用モデルで、人というよりは着せ替え 人形として扱われている感じすら強くします。紫 式部は、光源氏でなく、女達を書きたかったに違 いありません。それを鮮やかに浮かび上がらせる ために、光源氏を適当に使い回した。

雑誌『新潮』 (二〇一六年六月号、新潮社)に、 さきに引用した村上春樹・柴田元幸訳の「アレン・ ギンズバーグ、五篇の詩」が載っていますが、こ の号に第四二回川端康成文学賞発表もあり、山田 詠美の受賞作「新鮮てるてる坊主」も載っていま す。ある意味では、山田詠美はギンズバーグなど とは対極にある(というか別次元にいる)作家と 感じていましたので、ちょっと不思議な偶然の取 り合わせを感じました。

自分のいる世界とかろうじて重なるもうひと つの別な世界が、たった今、目の前の裂け目 の向こうに広がったような気がした。共通の 言語をもちながら、まったく異なる成分で構 成される空間が、私の前に現れた感じ。

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「蜻蛉」では、 ありと見て手にはとられず見ればまた行くへ もしらず消えしかげろう です。 和歌に自然が濃厚に描かれています。といいま すか、五感が研ぎ澄まされている世界では、自然 のありとあらゆる物が人に働きかけてきます。そ れを感じ取り、自然との距離を図って暮らすのが 古のならいだったはずです。章題の木草花や虫と その和歌はその章の強いイメージ形成します。脇 の短歌と合わせて、一枚のイメージが結びます。 そして、 まわりに人がまったくいないと、 夜には、 自ずから瞑想のような状態になります。山小屋の 広い闇の中に、 『源氏物語』の章のイメージ像がく っきりと結びます。そんな鮮やかなイメージが喚 起し、闇に映えたのは初めてでした。その鮮やか さは、今でも時々甦ります。しかし不思議なこと に光源氏自身はその映像にはまったくでてきませ ん。 『源氏物語』なのに光源氏の影はまるで薄い。 最近、高橋文時の『源氏物語の時空と想像力』 (翰 林書房) を読んで、 それでいいのかとも思います。

観念の膜の向こうから当時の生活の実態が なかなか見えてこない。 『万葉集』ならばまだ そこに素朴な生活の様態が仄見えたりするが、 『源氏物語』の文章から見えてくるものは、生 活の実態といったようなものではない。そのこ とは『万葉集』の歌が多く直接的に現実を歌っ たものであり、 『源氏物語』が虚構の物語だか らといった程度の違いを意味しているわけで はない。 『源氏物語』にあっては、内容の虚構 性などといったレベルの問題とは別に、そもそ も文章というものが生活的な現実の再構築を 目指してはおらず、外部の写実的な描写などを 文章表現の当面の意図とはしていないと思わ れるからである。 私はかつてこの物語を読み始めたころ、この 物語の記述、描写を通して、当時の平安京の景 観や生活の実情を知ろうと努めたが、結果とし てほとんど効 (こう)なかった。光源氏の周囲を 取り囲んでいたはずの宮廷の建物の描写も、ま た光源氏が恋人を訪う道すがら眺め見たであ ろう羅城門を始めとする楼閣や大厦に関する

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問です。ここは、山田詠美が感じている、内部に 抱え込んでいる「異空間」である「自分のいる世 界とかろうじて重なるもうひとつの別な世界が、 たった今、目の前の裂け目の向こうに広がったよ うな気がした。共通の言語をもちながら、まった く異なる成分で構成される空間が、私の前に現れ た感じ。 」を『源氏物語』が抱え込んでいるといっ た方がよいかと思います。 人里離れた山小屋で、ひたすら与謝野源氏を読 み浸り、沈思黙考して瞑想状態になると、山小屋 の闇に、源氏物語の場面が鮮やかに浮かび上がっ てきます。あえていえば曼荼羅のような世界かも 知れません。人が周りにいないと、感性が研ぎ澄 まされてくる感じがします。そして、あらゆる感 覚は自然に溶け入っていく感じもします。自由に 自然の中を行きすらできます。今思うと、その瞑 想の世界には光源氏は全く出てきませんし、女達 の象も浮かびません。宮廷ではなく、それを取り 巻くかそけき風景 (風情) のみが鮮やか甦ります。 しかし、 『源氏物語』には、高橋文時がいうように 背景や情景はほとんど書かれていません。今から

思うと、 『源氏物語』は和歌を骨格に構成されてい たためではないかと思えてきます。和歌には、あ る意味で背景や情景が濃密に詠み込まれます。和 歌は、 現実界をもちろん基盤にしながら、 表象界、 抽象界(この時代にはほとんどない)へと広がっ ていきます。和歌は、現実界を抽出し、現実界の 骨格を明らかにしていきます。表象化が進むと、 あるいは、共通認識化がすすむと、そのモデル的 世界がえがきだされます。 和歌は、現実界を何度も何度も舐め廻して、一 本の糸(絹糸)を何本も何本もうみだして、それ を織りなして繭を作り出していくようなものかも しれません。 観念的真理の世界を紡ぐのではなく、 一回一回、現実界を舐め廻して感性的現実の世界 を紡いだものです。 『源氏物語』の和歌を抜き出し てきて、和歌単独として鑑賞してもあまり良いで きのようには思えません。しかし、 『源氏物語』の 内部では、和歌は生き生きしています。というよ りは、全体を取り仕切っている感じすらします。 『源氏物語』の各章の表題がそもそも、歌会のお 題のような感じすらします。 それで、わたしは『源氏物語』の経緯をこう考

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山田詠美はこの小説の中で、そう書いています。 「共通の言語をもちながら、まったく異なる成分 で構成される空間」を山田詠美の「異空間」とで も呼んでおきます。山田詠美のこれまでほぼ全て の小説で書かれている基本テーマが、この「異空 間」の記述であったと思います。山田詠美の小説 では、山田本人と思わしきワキの人物が、通常の 認識空間からははずれたシテの人物を見分け、か ぎわけ、その「異空間」にいる、シテの人物をじ っくり舐めていく(感覚的感性的に輪郭を探って いく) 、そんな感じがします。そして、それは山田 詠美の場合にはほとんど性愛の感触とリンクして いますが。山田詠美の学園物というとなにか奇異 におもわれるかもしれませんが、『ぼくは勉強がで きない』 (新潮文庫) 、 『放課後の音符』 (新潮文庫) 、 『蝶々の纏足・風葬の教室』 (新潮文庫)には基本 テーマ「異空間」の発見とその「異空間」の構造 がよく書かれています。 山田詠美の「異空間」は、あるいは川端康成の 「異空間」 (魔界)とどこか似た空間のような感じ も強くします。その意味で、この川端康成文学賞 は山田詠美に与えられるべくして与えられたよう な気もします。

さてもう一度、 高橋文時の記述に戻りましょう。 高橋文時は、 『源氏物語』の言葉や観念の形もまた 王朝文化の外側に広がる巨大な闇に拮抗して存在 していると思う、といってます。一つの例証とし て観念の具体的な形の現れとして、六条院という 人工楽園をあげることでできるといいます。

六条院はこの世ならぬ華麗さで、暗い闇や虚無 や、また他界というこの世ならぬ暗い量感に拮 抗して、観念に鎧われた人間存在の証となった はずであったが、その実、紫の上の病いや、女 三宮の密通や、御息所の死霊などによって内部 から腐臭を放ち出し、崩壊の微動を始め、破局 へと向かうのである。

人工楽園を描くことにより、「観念に鎧われた人間 存在」浮き彫りにするというのは、結果的にはそ う思えるのですが、しかし、果たして紫式部が「観 念に鎧われた人間存在」といった、西洋の先端的 哲学観念を持ち得ていたかというと、はなはだ疑

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首にしても、 「歌を詠むとも実に歌とも思わず」 (西行の言)の趣きで、素直、純真、月に話し かける言葉そのままの三十一文字 (みそひともじ) で、いわゆる「月を友とする」よりも月に親し く、月を見る我が月になり、我に見られる月が 我になり、自然に没入、自然と合一してゐます、 といいます。 川端康成は、矢代幸雄の「日本美術の特徴」の 一つを「雪月花の時、最も友を思ふ。 」を引用しな がら、 「自然に没入、自然と合一」の感性を次のよ うにつめます。 雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見 るにつけ、つまり四季折り折りの美に、自分が 触れ目覚める時、美にめぐりあふ幸ひを得た時 には、親しい友が切に思われ、このよろこびを 共にしたいと願ふ、つまり、美の感動が人なつ かしい思ひやりを強く誘い出すのです。この 「友」は、広く「人間」ともとれませう。また、 「雪、月、花」といふ四季の移りの折り折りの

美を表はす言葉は、日本においては山川草木、 森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも 含めての、美を現はす言葉とするのが伝統なの であります。

この「自然に没入、自然と合一」は、これまで内 観(法)と呼んできた感性のありようを、それを みごとに説明してくれているようです。

(冒頭の)この道元の歌も四季の美の歌で、古 来の日本人が春、夏、秋、冬に、第一に愛でる 自然の景物の代表を、ただ四つの無造作になら べただけの、月並み、常套、平凡、この上ない 思へば思へ、歌になってゐない歌と言へば言へ ます。しかし別の古人の似た歌の一つ、僧良寛 の辞世、 形見とて何か残さん春は花 山ほととぎす秋はもみぢ葉

これも道元の歌と同じように、ありきたりの事 柄とありふれた言葉を、ためらいもなく、と言

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えます。まず、お題があり、それを織り込んだ和 歌がたくさん作られ、そのなかから登場する女性 のイメージが徐々に芳醇し、最後にそれに合った 「着せ替え光源氏」を貼り付ける。少なくとも『源 氏物語』から和歌を取り去り、普通の文に入れ替 えると、 『源氏物語』は『源氏物語』でなくなりま す。それはまるで現代語訳した性愛小説にしか過 ぎなくなります。 人里離れた山小屋で、 『源氏物語』を読むとこう いうところに行き着いてしまいました。 もう一つ、 『源氏物語』には「歌垣」の長い文化が流れてい るような感じがしています。

Ⅲ 川端康成の異界 川端康成は、ノーベル賞受賞記念講演「美しい 日本の私」の冒頭で、道元禅師と明恵上人を順に 引用し( 『美しい日本の私 その序説』講談社現代 新書) 、 春は花夏ほととぎす秋は月

冬雪さえて冷 (すす)しかりけり 雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪や冷めたき さらに、明恵上人のこの歌に続けて、 山の端にわれも入りなむ月も入れ 夜な夜なごとにまた友とせむ 隈もなく澄める心の輝けば 我が光とや月思ふらむ

また、西行を桜の詩人ということがあるのに対 して、明恵を「月の歌人」と呼ぶ人もあるほど で、

あかあかやあかあかあかやあかあかや あかやあかあかあかあかや月

と、ただ感動の声をそのまま連ねた歌があった りしますが、夜半から暁までの「冬の月」の三

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また、色どれるにもあらず。我またこの虚空の 如くなる心の上において、種々の風情を色どる といへども更に蹤跡(しょうせき)なし。この歌即 ち是れ如来の真の形体なり。 川端康成は、 『美しい日本の私』のなかほどで、 「魔界」について述べます。 私も一休の書を二幅所蔵してゐます。その一幅 は、 「仏界入り易く、魔界入り難し。 」と一行書 きです。(中略)究極は真・善・美を目ざす芸術 家にも「魔界入り難し」の願い、恐れの、祈り に通ふ思ひが、表にあらはれ、あるひは裏にひ そむのは、運命の必然でありませう。そして「魔 界」なくして「仏界」はありません。そして「魔 界」に入る方がむずかしいのです。心弱くてで きることではありません。 川端康成は広島・長崎の原爆跡地を巡り、心ひ そかに強い衝撃を感じある決意を固めます。敗戦 で、戦が終わった時に、私の生涯も終わったと感 じ、絶望と厭世への思いに沈んでいた作家に、こ

の原爆跡地体験が、決定的な転回をもたらしたと いうのです(富岡幸一郎『川端康成 魔界の文学』 岩波書店) 。

《……私は強いショックを受けた。私は広島で 起死回生の思ひをしたと言つても、ひそかな自 分一人には誇張ではなかつたかもしれない。/ 私は、この思ひをよろこんだばかりではなかつ た。自らおどろきもし、自ら恥ぢもし、自ら疑 ひもした。自分の生きやうかあるいは仕事の奇 怪さをかえりみずにはゐられなかつた。私は広 島のショックを表に出すのがためらはれた。人 類の惨禍が私を鼓舞したのだ。二十万人の死が 私の生の思いを新たにしたのだ。(中略)私は広 島の原子爆弾の悲劇が書きたくなつたのだ。 (中 略)敗戦の惨めさのさなかで私は生きてゐたい と思ったように、広島のむごたらしさも私に生 きてゐたいと思わせた》 ( 『天授の子』昭和二五 年) そして、さらに。

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西行法師常に来りて物語りして言はく、我が歌 を読むは遙かに尋常に異なり、花、ほととぎす、 月、雪、すべて万物の興に向ひても、およそあ らゆる相これ虚妄なること、眼に遮り、耳に満 てり。また読み出すところの言句は皆これ真言 にあらずや。花を読むとも実に花と思ふことな く、月を詠ずれども実に月とも思はず。ただこ の如くして、縁に随ひ、興に随ひ、読みおくと ころなり。紅紅たなびけば虚空色どるに似たり。 白日かがやけば虚空明かなるに似たり。しかれ 明らかなるものにあらず。 ども、虚空は本(もと)

ふよりも、ことさらもとめて、連ねて重ねるう 語』を絶唱しているのですから、 『源氏物語』は「日 ちに、日本の真髄を伝へたのであります。まし 本においては山川草木、 森羅万象、 自然のすべて、 て、良寛の歌は辞世です。 そして人間感情をも含めての、美を現はす」物語 であるといっているのと同じです。たんなる恋愛 川端康成は、 『美しい日本の私』の〆の手前で、 『源 小説などではない。さらに、 『源氏物語』の賞賛に 氏物語』をとりあげます。 続けて、 「明恵は西行と歌の贈答をし、歌物語もし てゐます。 」として、 「日本、あるいは東洋の「虚 殊に『源氏物語』は古今を通じて、日本の最高 空」 、無はここにも言ひあてられてゐます。 」とも の小説で、現代にも及ぶ小説はまだなく、十世 述べています。 『源氏物語』は「虚空」をも内包し 紀に、このように近代的でもある長編小説が書 ていると読めます。 かれたのは、世界の奇蹟として、海外にも広く 『源氏物語』の後、日 知られてゐます。(中略) 本の小説はこの名作へのあこがれ、そして真似 や作り変へが、幾百年も続いたのでありました。 和歌は勿論、美術工芸から造園にまで『源氏物 語』は深く広く、美の糧となり続けたのであり ます。 川端康成は、なぜ『源氏物語』をこのように絶 唱するかは具体的に書いていませんが、「冬雪さえ て冷しかりけり」の歌の道元禅師や、 「われにとも なふ冬の月」の歌の明恵上人を枕にして、 『源氏物

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異界)が付け加えられて、異次元的世界が膨らみ 育ってきたような小説で、昭和二三年まで十四年 を要しています。舞台は越後の奥の鄙びた温泉場 で、 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であっ た」の冒頭の書き出しは、異界に入り込んだこと を鮮やかに描写します。ここは雪深く鄙びた越後 湯沢です。主人公島村は、東京の都会から突然、 雪深く鄙びた異界に投げ込まれる感じです。 一方、 島村は前年の新緑の季節に、国境の山々を登山し て、この温泉場へ下りてきていました。無為徒食 の島村は自然と自信に対する真面目さを失いがち なので、それを呼び戻すのによく一人で山歩きを します。つまり、この雪深く鄙びた温泉宿は、島 村にとっては、厳しい自然の中を単独行登山です ごした「自然界」と東京の人で溢れた「人間界」 にほとんどぎりぎりで両界をつないでいる 「異界」 なのです。山田詠美ふうにいうと、 「自分のいる世 界とかろうじて重なるもうひとつの別な世界が、 たった今、目の前の裂け目の向こうに広がったよ うな気がした。共通の言語をもちながら、まった く異なる成分で構成される空間が、私の前に現れ た感じ。 」で、 「自然界」からみても、 「人間界」か

らみても、 「異なる成分で構成される空間(界) 」 が雪深く鄙びた温泉です。しかも、雪により外界 からほとんど閉ざされています。そこは雪原に出 来た裂け目のようなものです。小説でなくとも、 こういう空間では、まるで違う感性が立ち上がっ てくるはずです。川端康成は、実際に感性が鋭く なってくる様子を『雪国』 (新潮文庫)で描いてい ます。

島村が朝寝の床で紅葉見の客の謡いを聞い た日に初雪は降った。もう今年も海や山は鳴っ たのだろうか。島村は一人旅の温泉で駒子と会 いつづけるうちに聴覚などが妙に鋭くなって 来ているのか、海や山の鳴る音を思ってみるだ けで、その遠鳴が耳の底を通るようだった。

川端康成は、 「自然界」と「人間界」を繋ぐ「異 界」に、さらに別の「異界」を重ねていきます。 これは、川端康成が魔界と呼んだもので、とくに 滅びの美学で関東震災の惨状が強く念頭に在った と思われます。富岡幸一郎はこういった経緯をじ つにうまく解説してくれます。

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《敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰 力にも火をつけて、悲劇に遭つた人々も寧ろあ つてゆくばかりである。私は戦後の世相なるも かるい興奮を見せてゐた》 ( 『文化生の頃』昭和 の、風俗なるものを信じない。現実なるものも 六年九月) あるひは信じない。/近代小説の根底の写実か 川端康成は、関東大震災、東京大空襲、広島・ らも私は離れてしまひそうである。もとからそ 長崎の原爆の惨状をつぶさにみています。『美しい うであつたろう》 ( 『哀愁』昭和二五年) 日本の私』にでてくる「魔界」はこのような惨状 富岡幸一郎によると、川端は関東大震災にも出 が心に作用してできた一種の「異界」です。私は、 会っていて、 「当時川端は、大震災を千駄木の下宿 山田詠美の異空間(自分のいる世界とかろうじて の二階で受けたが、すぐに上野や浅草の方へその 重なるもうひとつの別な世界が、たった今、目の 被害状況を見に出かけた。十二階の凌雲閣は、逆 前の裂け目の向こうに広がったような気がした。 巻く火に包まれていた。川端は燃え落ちるその塔 共通の言語をもちながら、まったく異なる成分で を、瓢箪池の岸の石に腰かけ、池の水に足を浸し 構成される空間が、私の前に現れた感じ。 )とどこ ながら眺めた。そして、翌日からは「ビスケット か似た空間に感じられます。ただ、壊滅的な空間 袋と水瓶を携へて」浅草の市内の端から端まで歩 に置かれた時、これまで閉じ込められていた世界 き、その惨状をつぶさに見て歩いた。 」そうです。 の箍が吹っ飛び、感性は解放されてむしろ生き生 きとしてきます。これが、川端康成の「魔界」の 《大正の大地震の後の数日間ほど、生き生きし 美なのです。 い思ひで暮らしたことはない。おそらく一生に 川端康成の『雪国』は、魔界というか、異界を 二度とあるまい。それは私が下宿住ひの学生で、 描いた、そんな小説です。そもそも、 『雪国』は、 体一つにげてさへゐればいいからではあつた 昭和九年に筆を執って以来、いろいろな章(別の が、あの地震と大火災との暴力は、人間の生活

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その火の子は天の河のなかにひろがり散っ て、島村はまた天の河へ掬い上げられてゆくよ うだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河 がさあっと流れ下りて来た。屋根を外れたポン プの水先が揺れて、水煙となって薄白いのも、 天の河の光が映るかのようだった。 そして、葉子の火中に投ぜられた場面。 あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるの を見た。 繭倉は芝居などにも使えるように、形ばかり の二階の客席がつけてある。二階と言っても低 い。その二階から落ちたので、地上までほんの 瞬間のはずだが、落ちる姿をはっきり眼で追え たほどの時間があったかのように見えた。人形 じみた、不思議な落ち方のせいかもしれない。 一目で失心していると分かった。下に落ちても 音はしなかった。水のかかった場所で、埃も立 たなかった。新しく燃え移ってゆく火と古い燃 えかすに起きる火との中程に落ちたのだった。

『雪国』 の〆で、 駒子が葉子を胸に抱えた場面で。

人垣が口々に声を上げて崩れ出し、どっと二 人を取りかこんだ。 「どいて、どいて頂戴。 」 駒子の叫びが島村に聞えた。 「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。 」 そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づ こうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする 男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を 上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村の なかへ流れ落ちるようであった。

長く引用しましたが、『雪国』 とは、 都会からも、 純粋な自然からも隔絶した、雪にうもれて時も人 も凍りついたような人工空間で、なぜか温泉の湯 だけが人の情の動力となっています。川端康成の 感性力が不思議な形で次々に噴出してきます。 川端康成にとって、異界とか魔界とかは、いろ いろな条件下で、日常的感性の錆が落ち、裸の感 性が先鋭化し、自然との距離を縮め、ほとんど自

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駒子という魅惑的な女の肉感を描くために は、葉子という彼女の分身のような、作品冒頭 の夜汽車の窓に映し出される、ほとんどその肉 体が消えた、透明な非在としての象徴はどうし ても必要であった。さらに大切なのは、この葉 子という純粋な女身は、島村と駒子の愛執を浄 化する蓮華の花として火中に投ぜられ、天から 地上へと落下してこなければならない。 その火事の様子ですが、それは『雪国』のなかで は最大の悲惨ですが、むしろ美しく描かれていま す。 「あら、繭倉だわ。繭倉だわ。あら、あら、 繭倉が焼けてるのよ。 」と、駒子は言い続けて 島村の肩に頬を押しつけた。 「繭倉よ、繭倉よ。 」 火は燃えさかって来るばかりだが、高みから 大きな夜空の下に見下すと、おもちゃの火事の ように静かだった。そのくせすさまじい炎の音 が聞こえそうな恐ろしさは伝わってきた。島村

は駒子を抱いた。 現場に駆けつける、途中で。

「天の河。きれいねえ。 」 駒子はつぶやくと、その空を見上げたまま、 また走り出した。 ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、 天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆく ようだった。天の河の明るさが島村を掬いあげ そうに近かった。旅の芭蕉が荒海の上に見たの は、このようにあざやかな天の河の大きさであ ったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こう として、直ぐそこに降りて来ている。恐ろしい 艶めかしさだ。島村は自分の小さい影が地上か ら逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河 にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでな く、ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見え るほど澄み渡り、しかも天の河の底なしの深さ が視線を吸い込んで行った。 さらに、火事場について。

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きる私に同じ疑いの目を向けることはできな い」という弁明によって、一人称を担う「私」 を三人称で参照し、その根拠を三人称現在形で 草される命題に求める。ここで根拠づけられて いるのは、三人称に基づく記述が保証される、 という前提のもとでの一人称主観である。そこ には、三人称が一人称を支える、という屈折し た反転が認められる。客観視される対象の三人 称記述を認め容れるなら、そこに表出された客 観を超越する、記述者としての一人称主観が必 然になる。同じ三人称に配されながら、主観は 客観を超越する。 デカルトの主観は、あくまでも三人称記述を 行使できるという前提に立った上での一人称 主観である。(中略)もっとも、デカルトの主観 には、それを僭称しさえすれば、三人称記述で 体裁を整えた勝手な意見にも客観性を強要で きる、という負の側面が秘されている。もちろ ん、その責めを負うのはデカルト自身ではなく、 それを僭称した側である。 ここで、デカルトの外部観測体は「三人称」で、

松野の内部観測体は「一人称」と要約して良いで しょう。この外部観測体の「三人称」と内部観測 体の「一人称」には、時間(時世)の素性が深く 関わってきます。

物理では、抽象を受ける以前の「持続する今」 ではなく、すでに抽象を受けた前後関係のみに 留意する無時制の時間を重視する。それに対し て、時間の最も素朴かつ具体的な姿である「持 続する今」 、履歴を参照することのできる「今」 に、明示的に着目し始めたのが生物である。そ の生物の一員には、言語を操るわれわれも含ま れる。しかも、言語のうちに現れる時制は「持 続する今」からの抽象であり、無時制の時間は 時制からのさらなる抽象であって、他の時制を 制して現在時制のみを特別視する。

簡略化する弊害を承知しつつ、頭の整理のために 次のように纏めてみます。

内部観測体は「一人称」で「持続する今」時制 (現在完了形を含む) : 「一人称「今」時制」

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然と融合し、自然が流れ込んできたり、自然に流 れ込んでいく、そういう「界」のことです。川端 康成は、日本の古代では、そういう感性が際立っ ていたと、確かに確信していたと思います。

Ⅳ 「 一人称「 今」 」 の文体 前回とりあげた、松野孝一郎の「内部観測」理 論 ( 『来たるべき内部観測 一人称の時間から生命 の歴史へ』講談社選書メチエ)は、今後、生命を 考えるうえで、極めて重要と思います。松野孝一 郎はこの問いかけから始めます。 われわれは久しく、経験科学の場で「時間」 と称される対象を受け容れるのを当然視して きた。しかし、時間に関連するものには、他に、 過去・現在・未来を識別する「時制」もあれば、 経験を可能とする現場に固有な「今」もある。 この「時制」と「今」のいずれも経験科学の守 備範囲のうちに含めるなら、これまで守られて きた禁制を破ることになるのか?あるいは、無

用 の 混 乱 を 新 たに 引き 起こ す 事 態に な る の か? この問いかけが、本書の出発点である。

そして、この経験を内部観測と定義します。

経験は間断のない観測から成り立つ。その観 測は経験世界の内部のみから生じて来る。経験 世界内に現れる個物はなんであれ、他の個物と 関係を持つとき、相手から受ける影響を特定で きる限りにおいて、その相手を固定する。しか も相手を固定する、とする観測はこの経験世界 の内で絶えることがない。何が何を観測しよう とも、その観測は後続する、果てしのない観測 を内蔵する。これを内部観測と言う。

この内部観測体はルネ・デカルト( 1596-1650 ) の主観とは異なり、デカルトの主観の核心は、主 観と称する一人称を三人称現在を用いて肯定する ところにあるといいます。

「あらゆることに疑いの目を向けることので

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す。 「一人称「今」 」の感性力は当然のことながら、 個人に属し、個人で機能します。そうすると、感 性力がつくほど集団から遊離し、あるいは集団を 支配し、カオスが生じてきます。それで、その対 応として、 人類が発明してきた方法は主に二つで、 (1)個人を信ぜず〝絶対的な主〟を想定して、 個人をそこに閉じ込める(従属させる) 「三人称無 時制」文法の社会・文化を構築するか(理性への 移行) 、 (2)個々人の感性力をシンクロさせて合 意形成型していく「一人称「今」 」文法の社会・文 化を構築する(感性の共有・標準化)のかです。 「一人称「今」 」文法の社会・文化では、自然から 多くの情報を得ますので人‐自然関係の感性力が 際立ってくるはずです。また人‐人関係の感性力 も。 「一人称「今」 」文法の文学があるとすると、そ れはどのようなものでしょうか。 「一人称「今」 」 文法の文学では、感性力こそが主役です。主機能 です。これまで、金子光晴‐『源氏物語』を感性 の基軸と定めて考えてきましたので、それをさら に過去に延長してみる(源泉をたどる)と、当然

のごとく『万葉集』にいきつきます。 『万葉集』を あらためて読んでみて、 「一人称「今」 」の最古の 文学書であると確信をし、それはもう「一人称 「今」 」の原典と言っても良いとも思いました。 『万葉集』とは、五感で世界を徹底的に舐め廻 した歌集ではないでしょうか。 『万葉集』は、自然 を舐め廻して、 「自然」 (人と自然が一体となって いるのを体感した世界)感が確立してきた、そん な感じが強くする歌集です。そして、個々の感性 (和歌)を束ねて、錬った「文化」の容器が『万 葉集』です。個々人の和歌は、個々人のヴォイド 空間を形成しますが、それらを束ねることによっ て、一本一本の和歌が織り込まれ、あるいは練り 込まれ、 「一人称「今」 」の文化のヴォイド空間を 鮮やかに構築したのが『万葉集』です。個々の感 性力の共有・共通化です。この感性力によるヴォ イド空間は極めて流動的ですが、決して消えるこ とはありません。 『万葉集』の容器(ヴォイド)を織りなす糸の 内容を植物に絞って見てみてみます。多彩な生態 空間が詠み込まれ、多彩な生活空間が見てとれま す。

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外部観測体は「三人称」で無時制(過去の時制 が現在、未来も規定する) : 「三人称無時制」 さすがにここまで単純化すると、語弊もあるで しょうが、デカルトの思考の本質、そして、西洋 哲学や社会・文化・芸術の基盤がよく見えてきま す。デカルトのこのがちがちの思考に対して、身 体が一人称として経験に関わるという見方が、初 期の現象学者であるエドムント・フッサールやモ ーリス・メルロ=ポンティにより提出されていま す。また、ジェームズ・J・ギブソンは「アフォ ーダンス」という考えで、 「行為者の内部環境のう ちにその外界との相互作用の仕方に変更を引き起 こす能動性が秘められているなら、外部環境のう ちにも当の行為者との相互作用の仕方に変更を引 き起こす能動性がある」ことを研究しました。デ カルト思想の修正が試みられます。しかし、デカ ルトの「三人称無時制」は多くの批判にさらされ ているには違いないのですが、といって、西洋で は、 「三人称無時制」に基づく、社会・文化・芸術 の基盤・根幹が揺らいだわけではありません。 生命原理を「一人称「今」時制」とすると、 「一

人称「今」時制」 (以下、単に「一人称「今」 」と 記述)の文化とはどのようなものになるでしょう か。 「一人称「今」 」の基本は、外部情報(刺戟) を自分で取り、それに基づいて判断するというこ とですから、感性力が問われます。感性は五感で ある、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の外部情報 (刺戟)に基づいてできる心の空間のようなもの です。港千尋は、 「心」は身体の他の部分と同じよ うに容器のようなものですが、物理的には何もな い空間(容器)で、この「心」の容器をヴォイド と呼びました ( 『ヴォイドへの旅 空虚の創造力に ついて』青土社) 。三木成夫も幼児の〝なめ廻し〟 の観察から、そういった身体感覚が〝生命記憶〟 となり、空間認識ができてくるといいます( 『内臓 とこころ』河出文庫) 。幼児の〝なめ廻し〟は、這 いずり廻りなめ廻り、そうやって昔は大地を味わ ってきたにちがいありません。生命原理の「一人 称「今」 」とは、外部情報(刺戟)の取得とその取 得情報に基づく速やかな判断と行動です。それを 文化として見ると、感性力です。感性力とは、五 感で自然界を探査し、その結果を内部観測体(心) に伝えることから、自然と人をつなぐ力のことで

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期頃)以降に増加する傾向があり、火災の頻度 が増加したと考えられる。縄文時代の微粒炭量 の増加が、人為的な火災によるものなのか、自 然発生した火災によるものなのかは、縄文時代 には文字史料が残されていないため、はっきり 認定することはできない。しかし、日本の温暖 湿潤な気候条件下で黒色土が形成されるよう な草原植生が長期間成立するには、何らかの圧 力が加えられる必要がある。黒色土に微粒炭が 多くふくまれること、黒色土の形成が始まった 時期と湖底堆積物中の微粒炭量が増加する時 期がよく似ていることを考慮すると、人の手が 加わることで成立・維持される半自然草原が誕 生したのは縄文時代である可能性が高い。 それでは、縄文時代のひとびとは何のために 草原を維持したのだろうか。(中略)縄文時代の 三内丸山遺跡周辺には草原と森林とがモザイ ク状に分布していたと考えられる。縄文遺跡か ら矢の先につける石鏃 (せきぞく)(石の矢じり) が大量に出土すること、諏訪地方や熊本県阿蘇 地方で少なくとも中世には始められていた御 狩 (みかり)神事が定期的な野焼きで維持された

草原でおこなわれていることから、弓矢を用い た狩猟には森林よりも開けた空間のある草原 の方が適しているのかもしれない。また、縄文 時代の集落遺跡の周辺では、黒色土におおわれ た陥し穴遺構がしばしば発掘される。集落周辺 にあるクリの実などを食べに集落周辺に出没 したイノシシを積極的に狩るため、あるいは食 害を防ぐために陥し穴で捕らえる、というよう なこともあったのだろうか。現在の日本の山間 地域に現れるイノシシやニホンジカの生態も 考慮すると、縄文時代のひとびとがつくり出し た草原、森林がモザイクのように分布する植生 景観は、これら動物の生息地となっていったの ではないだろうか。

また、岡本透は、 「今からほんの一〇〇年ほど前に は、現在からは想像ができないほどの広さの草原 的な景観が日本各地に広がっていた」 といいます。 このように頻繁に火入れをすることにより、「クロ ボク土」と呼ばれる黒土が生成されてきました。 山野井徹 ( 『日本の土 地質学が明かす黒土と縄文 文化』築地書館)はこの「クロボク土」の正体を

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山(辺) :もみじ、桜 野辺:萩、葛、茅、菅、すすき 庭屋敷:梅、橘、柳 低湿地:葦 海:藻 ちなみに中尾佐助の『花の文化史』 (岩波新書)に よれば、万葉集には約一六六種の植物が登場し、 その植物のなかに、ハギが一三八首、ウメ一一八 首,マツ八一首,モ(藻)七四首,タチバナ六六 首、スゲ四四首、ススキ四三首、サクラ四二首、 ヤナギ三九首、アズサ三三首で、なんとハギ(萩) が首位です。 『万葉集』が七世紀後半から八世紀後半にかけ て編まれ、時は奈良時代です。弥生時代(紀元前 三世紀中頃から、紀元後三世紀中頃まで)も古墳 時代(三世紀中頃から七世紀末頃まで)も過ぎた 奈良時代です。 『万葉集』を読んでいると、一体こ の歌集はいつの時代を詠んでいるのか分からなく なってきます。まず、水田、畑の歌は極めて少な いです。庶民の歌も含む歌集というわりには、水

田、畑の歌は極めて少なく、いったい庶民はなに を生業としているのでしょうか。庭屋敷では梅、 橘が貴族趣味で植えられていたのでしょうが、山 (辺)の桜は極めて少ないです。そして、野辺と 低湿に生える植物が圧倒的に多く頻出します。『万 葉集』全体を読むと、この風景は弥生時代どころ か、縄文時代の風情です。海を除くと、 『万葉集』 は野辺の歌集で、萩、葛、茅、菅、すすきが旺盛 に生育しています。野辺や野原を維持するために は頻繁な火入れが必要です。 日本列島では一万年にわたって草原が維持され てきたようです(須賀丈・岡本透・丑丸敦史『日 築地書館) 本列島草原一万年の旅 草地と日本人』 の岡本透「第二章 草原とひとびとの営みの歴史 ──堆積物と史料からひもとかれる「眺めのよか った」日本列島」より) 。

草原を維持するために、現在も日本各地で毎 年春先に野焼きがおこなわれているが、こうし た火災の発生の指標となるのが、先に述べた微 粒炭である。日本各地のさまざまな堆積物に含 まれる微粒炭の量は、約一万年前(縄文時代早

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)の形成を促進します。これも、土 土( Andosol 地を肥沃にします。 三番目の農耕については、最近の研究でそうと う進んでいたことが明らかになりつつあります。

に増え、民族の大移動が起き、一方、東南アジア 解により栄養が溶け出してきて、あるいは酒とし ではスンダ大陸(ボルネオ島、ジャワ島、スマト て栄養を取った可能性もあります。縄文土器は間 ラ島、フイリッピン島とインドシナ半島が繋がっ 違いなく、食資源にイノベーションをもたらしま た広大な大陸)が水没して、今の島嶼やインドシ した。 二番目の草原と黒色土形成も食資源生産の向上 ナ半島への民族大移動があり、未曾有の混乱期に と密接な関係にあります。森林(リグニン生産系) 突入していた時期でもあります。アジアに関しま に比べると、草原はセルロース生産系で昆虫から すと、北方と南方からほぼ同時期に大移動で順次 小大動物、さらには鳥に餌を供給します。縄文期 玉突き現象が起き、順次移動が起こり、避難民が 日本列島に一斉に波状的に押し寄せてきた時期で、 には難民・避難民が多数押し寄せたとすると、農 耕以前には草原のようなセルロース生産系を拡大 これらの避難民と原住民がさまざまに棲み分け融 する必要があります。定住農耕に移った奈良時代 合して住んできたのが縄文時代です。一万年にも においても、草原は重要な役割を果たしていたの わたる縄文時代について考古学的に明らかになっ でしょうし、日本列島ではその後も長きにわたり ている、イノベーションが三つあります。 (1)縄文土器 この草原セルロース生産生態の維持がなされまし た。特に、草原セルロース生産生態では、萩、葛、 藤といったマメ科の植物が多く見られ、これらは 窒素固定をし、長い目でみると土地を肥沃にしま す。茅、菅、すすきは、焼くと微粒炭になり黒色 (2)草原と黒色土( Andosol ) (3)農耕 一番目の縄文土器は一万年以上前に作成が始ま りました。これにより、食糧の貯蔵と煮炊きが可 能になりました。煮炊きにより、澱粉等の分解吸 収が著し高まり、栄養価が著しく向上します。あ るいは、ビールから推察すると、小粒・屑イネ、 雑穀やイネ科雑草の実も水につけておくと酵母分

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明かします。この山野井徹の本の序章です。 クロボク土はこのような一般的な表土の最 上部にあるが、最後にこの正体は何か?本書の 主題たる謎解きが展開される。まずは、クロボ ク土には共通して炭の粉、 「微粒炭」が含まれ ている事実が明かされる。この微粒炭が関与し て植物の分解過程にある可溶腐食を保持する ことで黒色クロボク土ができるという、新説が 提示される。 しかし、一万年前以降に限ってなぜ炭の粉が 大地に堆積するのか。この謎は、縄文文化の成 立と関連させて考察される。その結果、クロボ ク土は世界にも類を見ない「縄文文化の遺産」 であることが導かれる。 また、山野井徹は旧石器は必ず「赤土」から出 土し、縄文遺跡はほぼ「黒土」を伴うとも指摘し ます。クロボク土の名称は、畑などではクロボク 土を耕すと黒く、ボクボクとした軟らかな土とな ることから、農家の呼び名(方)が土壌名になっ たといわれています。 国際的な名称は日本語の 「暗

(アンドソル)です。 土」を音訳した Ando sols ただ、火山灰地にみられるので、火山灰由来の「火 山灰土」とみなされ(自然生成)て、残念なこと のその生成過程があまり研究されてきませんでし たし、いまだに人為生成に強く異議を唱える研究 者も多いです。クロボク土の微粒炭は、イネ科な どの草本を主体とした燃焼で生じたもので、森林 の燃焼によるものではありません。山野井徹は、 「クロボク土は縄文人の文化遺産、すなわち世界 を代表する 「人為土壌」 である。 」 と言い切ります。

『万葉集』は奈良時代の書物ですので、農耕が そうとう進んでいたはずです。しかしかかれてい るのは、陸域については、圧倒的に野辺や野原の 生態系です。それに海の歌も極めて多くあり、貴 族の館がなにやら細々とあるという不思議な景観 です。どうも『万葉集』は縄文的精神文化の香り がなにやら強く致します。改めて、縄文時代、縄 文文化とはなんであったか気になります。縄文時 代は、一万数千年前から始まりますが、ちょうど 温暖化が始まり氷河が溶けて、北方では森林草原 が急拡大してバイマス生産が急増し人口が爆発的

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れをピジン語という) を喋る親たちの次の世代が、 その言葉をいわば母国語、あるいは日常あらゆる 分野で用いる言語としてしまった、そういう状態 にある言語のことです。しかし、日本でクレオー ル語化が起きても、弥生時代以降と考えられます ので、縄文時代では多少類似のことが起きたかも 知れない程度しか言えません。 もう一つ、歌垣がおおきな貢献をした可能性が あります。工藤隆は、日本古代文学において〝う た〟の占める位置は、非常に大きいといいます ( 『歌垣と神話をさかのぼる―少数民族文化とし ての日本古代文学』新典社) 。 日本古代文学において〝うた〟の占める位 置は、非常に大きい。うた表現の結晶体である 『万葉集』はもちろん、 『古事記』 『日本書紀』 に一字一音で記載されているいわゆる記紀歌 謡や『風土記』歌謡の一部にも、ヤマト言(古 代日本列島語)のうた表現が伝えられている。 また、いわゆる〝神話〟も、もともとは声に 出してメロディー付きで歌われていたのであ るから、広い意味で神話もまた〝うた〟の領域

に入る。

歌垣は祭りの時に大規模に行われ、雲南では基 本的には男女の歌の掛け合いということになりま すが、古老が言い伝えを延々と歌うこともありま す。普段の宴会では、歌の掛け合いが延々と朝ま で続くこともあります。インドネシアのカリマン タンの鉄木でできたロングハウス(数家族が共同 生活している)でも、興が乗ってくると歌垣(歌 の掛け合い)が始まります。親子で歌垣をして、 親父が息子に歌で論破されて、息子がやんやの喝 采を得たり、夫婦で歌垣をして、だんだん夫婦げ んかになり、かみさんが怒って楽器を投げ出して 帰ってしまったり、村長と歌垣をして何か頼み込 んでいたり、歌垣は自分達を歌に乗せてさらけ出 し、仲間の共同意識を形成する場のようでした。 若い男女の歌垣はこういった場ではなく、別に設 けられるとのことです。 日本にも歌垣が入って来て、おそらく歌垣が異 民族、異言語間のコミュニケーションに貢献し、 共同意識の形成に貢献したと考えてみるのも一興 かと思います。歌垣で歌って、意識の共通化と、

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でしょう。北方草原の民族が北方から、東南アジ 例えば、ダイズですがこれまで弥生時代に中国大 ア島嶼部(東南アジア海域)の海洋民族が南方か 陸から稲作とともに渡ってきた作物と考えられて ら、そしてもう一つ南北から挟み撃ちに遭った東 いましたが、縄文人たちがおよそ六〇〇〇〜七〇 南アジア山岳部(雲南・ヒマラヤ・チベット)の 〇〇年前に栽培し始めたことが明らかとなってい 照葉樹林民族がおそらく揚子江をくだって中国南 ます(小畑弘己『タネをまく縄文人 最新科学が 覆す農耕の起源』吉川弘文館) 。稲作からして、縄 部から、押し寄せたはずです。これらまるで風俗 文時代に始まっています。菜畑(なばたけ)遺跡が、 習慣の異なる民族が、結果的には融合してしまい 唐津市街の西側に位置する低丘陵端にありますが、 ます。パッチ状にモザイク状に棲み分けるのでは ここから日本最古の水田跡が発見されており、こ なく、融合です。はっきり言うと結果的に征服民 れは二五〇〇~二六〇〇年前の縄文時代晩期後半 族は出現しなかったはずです。征服民族がいたな のものです。この遺跡は明らかに縄文遺跡で、地 ら、言語の起源も、神話の構成も単純であったろ 面を円形に掘り窪めた竪穴式住居が復元されてい うと思います。日本語の起源についてもインド・ ます。水田跡は、低丘陵端からの清水に水路つく ヨーロッパ語のような基本祖語がたちどころに確 り、畦畔や矢板列によって区画され、小型の四枚 定し、言語学者も日々なやむこともなかったはず の棚田となっていました。低湿地水田ではありま です。これも、結果から推察すると、島国だった せん。 ことと、広大な平地(あっても湿地で葦原で住め ない)がなかったことが大きな理由と思います。 一度に大量の征服民族が侵略することができなか ったことが結果的に推察されます。 言語の融合がいかに起きたかも興味深いところ ですが、例えば、クレオール語仮説があります。 クレオール語とは、 他国の言語のカタコト言葉 (こ 一万年にもわたる縄文時代で、文献的史料がな いので、推察するしかありませんが、文化的イノ ベーションが一つあります。 (4)融合文化 縄文時代に流れ込んできた民族は多彩を極めた

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有化がすすんだのではないでしょうか。これは、 融合文化に関するイノベーションです。そして、 それが段々形式化してきたのが和歌です。ですか ら、 『万葉集』はまだ縄文時代を引きずっているよ うな感じを与えるのかもしれません。 『万葉集』から『古今和歌集』に移行すると歌 の生態情景が一変します。 『万葉集』は奈良時代、 『古今和歌集』は平安時代の勅撰和歌集です。次 は取り上げられている植物の傾向です。 山(辺) :もみじ、桜 野辺:萩、葛、茅、菅、すすき、竹 庭屋敷:梅、橘、柳、山吹、女郎花、菊、藤袴、 忘れな草 低湿地:葦、稻 海:藻 『万葉集』の奈良時代から『古今和歌集』の平 安にかけて、日本の基本景観はそれほど大きな変 化はなかった(野辺がやはり重要であった)と思 われますが、詠み込まれる植物種には大きな変化

があり、文化的嗜好が大きく変化したと推察され ます。山から山辺では、もみじが相変わらず多く 詠み込まれますが、桜が梅(庭屋敷)に取って代 わって圧倒的存在になります。庭屋敷(路傍も含 む)では、山吹、女郎花、菊、藤袴、忘れな草と いた小型の花々に注意が向かいます。低湿地では 稻が少し増え、 海では藻が減ってきます。『万葉集』 では、縄文的嗜好を強く感じましたが、取り上げ られる植物だけから見ても『古今和歌集』では、 自然に対する文化的嗜好が少々こじんまりとし、 感性力が鈍りつつある気もします。

『新古今和歌集』 は鎌倉時代の勅撰和歌集です。 次は取り上げられている植物の傾向です。

山(辺) :もみじ、桜、松 野辺:萩、葛、茅、菅、すすき、竹、笹 庭屋敷:梅、橘、柳、山吹、女郎花、菊、藤袴、 忘れな草、菖蒲、朝顔、苔 低湿地:葦、稻 浜:松 海:藻

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美意識の芳醇がすすみ、段々、和歌の形式が出来 てきたと想像します。異民族、異言語間では議論 しても、そもそもコミュニケーションが成り立つ はずがありません。意味が分からなくても、歌い 合えば気が通じてきます。歌垣(もどき)を雲南 や東南アジアやカリマンタンで聞いていると、意 味は分からぬが身体動作も含めて、なんとなく気 が通じてきます。日本語で歌って、向こうはダヤ ック語で歌って、勝手なことを言い合っても何か が通じます。 縄文時代以来、一万年の試行錯誤の各種イノベ ーションの成果集が『万葉集』とみてはどうでし ょうか。とくに、和歌の形式自体がイノベーショ ンです。 歌垣での掛け合いがだんだん様式化して、 三十一文字の和歌の形式に近くなりながら歌い合 っていた。これは当然即興なので、 「今」ある状況 や情景を歌い込んで行く。これは「一人称「今」 」 の文法の確立でもあります。これは「三人称無時 制」(といってもせいぜい三人称過去) の忌避です。 あくまでも、感性力の即答勝負で、そうして共有・ 共通化した感性が社会・文化の規範となっていく。

つまり現代の概念でいくと、連続的(文化)イノ ベーションシステムを支えたのが、和歌というわ けです。とすると、歌っていた時代の和歌は、掛 け合いが基本でしょう。こうして、感性の合意形 成や感性の共通感覚化が促進したと考えます。

縄文時代とは、典型的な「一人称「今」 」の文化 であったといえます。つまり、自然と人を繋ぐ感 性力が極めて重要な社会であったでしょう。しか し、感性力は、個に閉じるとじつに危険きわまり ありません。個の感性力を信じて勝手に人が行動 することを想像して見てください。あるいは、部 族同士が自分達の感性力にのみ行動規範をみいだ そうとする。そうすると互いに相手が見えなくな ります。自然を相手に、しかも日本のように複雑 な(豊かな)自然を相手に、感性力は極限まで磨 く必要がありますが、しかし、感性力を磨くと同 時に、いかに共有化し、いかに標準化するかの問 題も重要です。しかも文字も無く。証明は出来ま せんが、結果からすると、縄文時代の人々は、歌 垣を歌い、即興でその感性力を披露し合ったに違 いありません。そうすることにより、感性力の共

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ます。 さらに歌人の目は、苔や根にまで向かい、あし の根、松が根、かや根の表現が出てきます。根が 和歌の題材となる精神世界とはいかなるものでし ょうか。 行末は今いく夜とかいはしろの岡のかや根に まくら結ばむ 式子内親王 松が根のをじまが磯のさ夜枕いたくな濡れそ あまの袖かは 式子内親王 沼ごとに袖ぞ濡れけるあやめ草こころに似た るねを求むとて 三条院女藏人左近 つれもなき人の心のうきにはふ葦の下根のね をこそはねけ 權中納言師峻 時鳥いつかと待ちし菖蒲草今日はいかなるね にか鳴くべき 前大納言公任

さらに言葉までが葉(言の葉)として表象化さ れます。

書きとむる言の葉のみぞみづぐきの流れてと まる形見なりける 按際使公通 言の葉の移ろふだにもあるものをいとど時雨 の降りまさるらむ 伊勢 かき流す言の葉をだに沈むなよ身こそかくて もやまがわの水 藤原行能 木枯の風にもみぢて人知れずうき言の葉のつ もる頃かな 小野小町

『新古今和歌集』 は生態学的目を通してみると、 むしろ生命力に溢れていて、弱々しさは微塵も見 られません。これまで、 『万葉集』 『古今和歌集』 では、 「草花」が主役でしたが、 『新古今和歌集』 では「草葉」が主役となります。禅の影響でしょ

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全般の描写が薄まり、なぜか「葉」が大きく取り 『新古今和歌集』は『古今和歌集』に比して、 上げられます。萩も花ではなく、萩の葉が注目さ 技巧的でひ弱になったという印象が強いようです れます。紅葉もこれまでなんとなく花のように扱 が、植物や生態からみると、随分と力強くなって われてきたのが、もみぢ葉と葉としてわざわざ分 きています。草や草原の記述が著しく増え、この けて記載します。また、これまで単に植物名を記 情景は『万葉集』にわりと似ているようですが、 載していたのが、わざわざそれに葉を付けて記載 『万葉集』ではまだ野辺ですが、 『新古今和歌集』 します。萩の葉、竹の葉、葛の葉、もみぢ葉、松 では草原となってきて、日本列島の景観がようや の葉、杉の葉、榊葉、蘆の葉、楢の葉、稲葉、ま く正確に詠まれるようになってきた感じがします。 きの葉、桐の葉、笹の葉、葉廣柏、篠の葉草、草 例えば、御狩野(新訂『新古今和歌集』 (佐佐木信 の葉、木の葉です。さらに、葉の付いている位置 綱校訂、岩波文庫) 。 まで細かく記載されて、 松のうは葉、 まきの下葉、 萩のすゑ葉、萩のうは葉、末葉のように記載され 御狩すと鳥だちの野をあさりつつ交野の野邊 ます。葉の老若の状態まで見入るようになり、朽 に今日も暮しつ 葉、かれ葉、青葉、青柳、冬の木の葉、落葉、葦 法性寺入道前關白太政大臣 の枯葉のように葉の生理状態にまで注意が向きま 御狩野はかつ降る雪にうづもれて鳥立も見え す。草原の歌が多く詠まれるにつれて、草の記載 ず草がくれつつ も豊かになり、下草、若草、草葉、草枕、菖蒲草、 前中納言匡房 道芝、ゆうかげ草、草結び、草分けて、忍草(シ ダ類) 、森の下草、萩の下草、壁に生ふなる草、夏 草のように、草も分別が進みます。水辺や磯部で も草の記載が出てきて、水草、浮草、もしほ(藻 鹽草) 、磯の草のように、水中まで草の探査が進み 桜は相変わらずの人気ですが、かなり表象化が 進んで単に「花」と詠まれるようにもなります。 「花」は桜です。これと対応するかのように、花

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芭蕉 おくのほそ道』(NHKテレビテキスト 1 00分 名著)で、芭蕉はこの旅で不易流行(み de ちのく)と「かるみ」 (日本海側へ抜けて大垣)と いう二つの重要な考え方をつかんだといいます。 芭蕉の旅はみちのくを訪ねたあと、今度は日 本海側へ抜けて大垣までつづきます。その間、 芭蕉は不易流行と「かるみ」という二つの重要 な考え方をつかむことになります。不易流行と は宇宙はたえず変化(流行)しながらも不変(不 易)であるという壮大な宇宙観です。また、 「か るみ」とはさまざまな嘆きに満ちた人生を微笑 をもって乗り越えてゆくというたくましい生 き方です。 『おくのほそ道』の旅の出発当初の目的は、 みちのくの歌枕を訪ねて心の世界の展開を試 みることだったのですが、その心の世界は帰り 道にさらなる展開をとげ、芭蕉は思いもしなか った旅みやげを二つも手にしたというわけで す。 芭蕉は一字一句に気を配り、 推敲に推敲を重ね、

緻密な構成をします。 そうすると、『おくのほそ道』 の構成からすると、〝おく〟を〝みちのく〟と解 釈するのは、あまりにも鈍感としかいいようがあ りません。 芭蕉が推敲に推敲を重ねていますので、 『おくのほそ道』の全行程が、 「おくのほそ道」で す。そうすると「おくのほそ道」とは、日本の文 化の『万葉集』から続く水脈の意味だと考えても いいかもしれません。道はたぶん、道元的な道で す。 芭蕉がなぜ「不易流行」と「かるみ」という、 あらたな概念、つまり、あらたなヴォイド空間を つかんだのでしょうか。 芭蕉はこの旅に当たって、 いろいろ調べてある程度予見的知識や考えをもっ ていたでしょう。その地の乾坤はその地の長い文 化伝統を背負っています。それは乾坤に染みこん でいて、ある意味では風土となっています。そこ の乾坤風土を、舐めまわし、しゃぶり尽くして、 『おくのほそ道』にいたるのです。それがどうし て可能になったかというと、 「一人称「今」 」の文 体での乾坤風土に対峙し、五感(視覚、聴覚、嗅 覚、触覚、味覚)を総動員して、今現前の乾坤を しゃぶりつくし、舐めつくしているからです。感

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うか、東 (あずま)への中心移動でしょうか。それ に、 根だとか苔だとかが意識に捉えられてきます。 よくわかりませんが、 「一人称「今」 」の観察眼が 自然の隅々にまで冴えわたってきたような気もし ます。四季は春夏秋冬で記述されてきましたが、 例えば「葉」においても、新緑、青葉、もみぢ葉、 かれ葉、落葉、朽葉で四季が描けます。 「一人称「今」 」の感性の世界が、 『万葉集』で 世界で初めてまとめられ、 『古今和歌集』や『新古 今和歌集』で洗練されたと思います。和歌では三 十一文字のなかに、 季節 (時間) 、 雪月花等 (空間) 、 人の関係(これら全てを含む環境世界を〝天地〟 あるいは〝乾坤〟ということにします)が「一人 称「今」 」の感性をもってコンパクトに詠み込まれ ます。それらを織り束ねて、 「一人称「今」 」の感 性を「文化」にしたのが、 『万葉集』 『古今和歌集』 『新古今和歌集』 といった歌集です。「一人称 「今」 」 の感性をさらにコンパクトに表現しようとしたの が、俳句と思います。文字を削り込むことによっ て、人と自然との緊密がむしろ高まります。自ず と、感性力が磨かれ高まります。

感性力が昂まるのは、極限状態が一番でしょう が、なぜなら、感性力とは錆び付いた日常の認識 を打ち破る力だからです。巨大な悲劇は、感性力 を解き放ちます。千日回峰のような苦行も、感性 力を昂めます。一方、禅のように心を空にするの も日常の呪縛から解き放たれ感性力がわき上がっ てくるでしょう。俳句とは、言葉をぎりぎりに削 り込むことによって、感性力を磨く文芸的手法と 考えられます。そしてこの俳句のぎりぎりの感性 力は「一人称「今」 」の文法を鮮やかに確立させま す。今、自然の中にいる自分の認識です。 「一人称「今」 」の俳句は松尾芭蕉によって完成 したと思います。特に、それは『おくのほそ道』 においてです。しかし、それにしても、 『おくのほ そ道』は奇妙な書物です。 『おくのほそ道』は芭蕉 がみちのくを旅した紀行文であると考えらえてい ますが、長谷川櫂は、 「この本は厳密な意味での旅 行記ではありません」と言います。というのは、 『おくのほそ道』は周到に構成され、文章を練っ て書かれた文学だからです。そうすると、 『おくの ほそ道』の〝おく〟を〝みちのく〟と読み替える のは奇異な感じがしてきます。長谷川櫂は『松尾

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ます( 『和歌とは何か』岩波新書) 。和歌は「演技 している」というのが作業仮設で、演技は、 「言い 換えれば、本当の気持ちを探し求める営み」のこ とで、そして「本当の気持ちを、間違いなく自分 のものだと引き受けようとする努力」のことであ るといいます。 その上で、「和歌は言葉による演技」 であるといいます。これはまさに、 「一人称「今」 」 の説明でもあります。 どうやら和歌とは、わが思いを、それと等価 な意味・イメージの言葉に置換して表現する、 という表現観では説明しきれぬものであるら しい。つまり、重要なのは「意味」 「内容」だ けではないということだ。和歌の言葉には、意 味やイメージの世界に閉じこもらず、直接に 人々のいる現実の世界に働きかける面がある。 働きかける力の源泉は言葉の「音」にある。 言葉の音であるから、正しくは「声」である。 その声が合わせられる。するとそこに儀礼的な 空間が生み出される。試しに、誰かと、どんな 言葉でもいいから、声を合わせて口に出してみ るとよい。たちどころに日常とは異なる空間が

出現することに驚くだろう。そして声を合わせ ている行為が、何かを演じているように思えて ならなくなるだろう。和歌のレトリックはとは、 実際に声を出さなくても、言葉でそれを可能に する装置なのである。

渡部泰明は序詞の機能から和歌にせまります。

A 時鳥鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ 恋もするかな B 夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋 は苦しきものそ C 海の底沖つ白波たつた山いつか越えなむ妹 があたり見む

序詞に該当するのは歌の前半部分の、A「時鳥鳴 くや五月のあやめ草」 、B「夏の野の茂みに咲ける 姫百合の」 、C「海の底沖つ白波」です。特徴とし ては二点あり、 (1)自然物や風景を描写するひと まとまりの語句であること、そして(2)一首で 作者が訴えかけたい内容とは、直接に関わらない 物であること、です。

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性の極限を駆動しているからです。 「不易流行」と か「かるみ」は、芭蕉が土地土地の乾坤の一滴(一 擲ではない) を搾り取ってきたもので、 芭蕉が別々 の精神世界を作りあげたわけではありません。 長谷川櫂は、芭蕉を日本文学の最高峰と位置づ けます。大げさなようですが、わたしもそのよう な気がします。 芭蕉は日本を代表する最大の詩人です。イギ リスは「シェークスピアの国」と呼ばれますが、 それにならえば日本は「芭蕉の国」です。ほか に何人か候補者は浮かぶけれど、紫式部も夏目 漱石も芭蕉には及ばない。 現代から日本文学史を振り返ると、古代から つづく文学の流れのちょうど半ばに芭蕉とい う巨大なダムがそびえているようにみえます。 それより前の文学はいったんこの芭蕉という ダムに流れこみ、その後また芭蕉から流れはじ める。芭蕉以後は『源氏物語』も西行の歌も芭 蕉がそのどこを選び、自分の俳句や文章にどう 生かしたかが重要になります。

芭蕉の感性は広角と望遠をそなえた、まるで近 代兵器のようです。『おくのほそ道』 は春に始まり、 秋で終えます。海辺と野辺(山や野原)は縄文( 『万 葉集』 )の原風景で、さりげなく日本の文化の基層 に触れます。鮮やかに時空の一篇を切り取ってき ます。気(心)は高みや広大な空間からから対象 に一気に陥入していきます。 『おくのほそ道』の冒 頭からの二句目と最後からの二句目に『おくのほ そ道』の『万葉集』 (縄文)的、真髄が鮮やかに詠 われています。

行春や鳥啼き魚の目は泪 (冒頭からの二句目) 浪の間や小貝にまじる萩の塵 (最後からの二句目)

Ⅴ 『 新万葉集』

渡部泰明は、和歌は一三〇〇年も続いている文 学形式で、その謎ときに取り組んで、 「歌の言葉と 人とが生きることの深い関わり」を読み解いてい

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も、そういう物理的な空間ではなく、複数の人 間が関係し合い、協調し合ったり反発し合った りする、能動的な意識に満たされた空間である。 もちろん、声を合わせる場なんて、普通の空間 とはいえない。いかにも特別な、日常を離れた 空間だ。役割意識に満ちた演技的な空間といっ てもよい。これを私は、儀礼的空間と呼んだ。 和歌的レトリックとは、儀礼的な空間を演出す る言葉なのであった。 渡部泰明は結論として、「和歌的レトリックとは、 儀礼的な空間を呼び起こす表現」であるといいま す。渡部泰明がいう「儀礼的な空間」とは、ある 程度形式化した日常活動そのもので、儀式とか宗 教的呪縛ではありません。ということは、和歌自 体が、儀礼的な空間を演出し、人々の共感覚や共 意識(ヴォイド空間という)の形成に貢献してい るということになります。和歌には声を合わせる (意識を合わせる)力があり、これはもともと歌 垣から出発したにちがいありません。歌垣が洗練 されて、和歌となった。当初、ほとんどが、送歌 と返歌よりなっていたのでしょうが、だんだんそ

れも独立して、 和歌となったのでしょう。 しかし、 その機能は変わっていない。和歌の基本はその場 (自然)の即興の描写とそれに自分の心をいかに 織り込ませるかです。そのためには、感性力が試 されます。

和歌が持っている「即興的景物」や「心物対応 構造」や「儀礼的空間」にしても、そもそもなぜ この機能を和歌が担って千年の長きにわたり継続 しているのか。それは和歌が、 「一人称「今」 」の 生命原理の文法を担っているからです。 「一人称 「今」 」の根本原理は、感性力です。感性力とは、 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感を駆使して 人‐自然関係や人‐人関係を理解する力です。し かし、感性力の発揮はその置かれた環境でまるで 異なります。瞬間瞬間にも刻々変化する。感性力 とはその相対的時空を一瞬で切り取る力です。和 歌とはその切り取りかたの形式で、そのようにし て切り取った和歌の集成が、また集団に動的規範 をあたえることになります。感性力とは相対的な 物で、絶えず流動し、たえず鍛えていかなければ なりません。ここが、西洋の理性(形而上)力と

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渡部泰明は序詞の発生について、土橋寛と鈴木 日出男を引用して考察します。 土橋寛: 「序詞は、心情の「表現形式」ではなく て、始めに即境的景物を提示し、それに寄せて(寄 せる方法はいろいろある)陳思する、という発想 上の約束ないし発想形式というべき性格のもの」 ( 『古代歌謡論』 )と規定している。序詞は、もと もと心情を表現するためにあったのではなく、「即 興的景物」 (歌の場や環境に関わりのある景物)と 心情とを結び付ける形で表現する、古代的な発想 に由来するというのである。 鈴木日出男:序詞だけでなく、古代の詩的表現 の基軸に「心物対応構造」──物(事物)と心(心 情)とが対応しながら表現されるあり方──が見 られ、これが後に、自然と心とを自在に行き来す るような、 『源氏物語』など独自性豊かな仮名散文 の発達にもつながっているのだと、文学史的展開 を見通した魅力的な見取り図を示している ( 『古代 和歌史論』 ) 。 渡部泰明は、どちらの論に従っても、物と心と

を対応させる表現は、かなり根源的な形式である らしいと考えます。渡部泰明は序詞以外にも和歌 的レトリック(修辞技法)であり、枕詞・掛詞・ 縁語・本歌取りについていろいろ考察し、和歌的 レトリックを総合して、三つにまとめます。

(1)和歌的レトリックの基本は言葉の二重性 にある。 (2)和歌的レトリックには、文脈と文脈とは 別の関係とが共存している。 (3)和歌的レトリックは、声を合わせること を言葉で装う表現である。

この(1) (2) (3)をまとめると、 「言葉の二重 性を生かして、 文脈と文脈以外の関係を共存させ、 まるで声を合わせているかのように装う」という ことになるといいます。

声を合わせるとは、他者と心を合わせるとい うことである。したがってそこには他者と共有 する空間が立ち現れることになるだろう。別に 人がいようといまいと空間は存在するけれど

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葉と葉のあいだから 「他」の動静をうかがった。 それがそもそもの はじまりであった。 身を沈めるとは、 葦の原に、 気とおき無辺の葦の原に、 雛鳥みたいに醜い裸身を一体、 あたうかぎり 低くしゃがみこませることである。 じっと卑屈に、 葉と葉のあいだから 「他」の顔色をうかがうことだ。 おののいてのぞき見ることである。 「他」からは見えぬ、 こちらからは見える、と 思いこむことだ。 あなた、 ああ、あなた、 「他」は入江である。 水銀のようにぬめる入江である。 すべての「他」の入江である。

葦の葉は、 風になびく葦の葉は、 示影針である。 群れ狂う示影針である。 うずくまるわたしの背に 時を映すおびただしい葉群は、 狂える影の長針である。 背にいくつも葉の影を負うて、 葉と葉のあいだから、 「他」を偸み見る、 おびえて偸み見る、 わたしは、 あなた、 ただの一度も わたしのひそむ葦の原と 「他」の入江の全景を 見晴るかすということを したことがないのではないか。 俯瞰ということを したことがないのではないか。 わたしはどすを呑んで低くしゃがみ、 葉と葉のあいだから

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まさに真逆の作用をします。 「一人称「今」 」の生命原理の文法は、 『万葉集』 の和歌から芭蕉の俳諧へと進化をとげました。「一 人称「今」 」の個人の感性を共有化するのに、松尾 芭蕉が連歌を重要視しました。この和歌と俳句の そもそも持っている生命力(感性力を磨き、共有 化する)を深く理解していたからだと思います。 連歌は和歌の上の句(五・七・五)と、下の句(七・ 七)を多数の人たちが交互に作り、ひとつの詩に なるように競い合って楽しみます。大岡信・岡野 弘彦・丸谷才一による『歌仙の愉しみ』 (岩波新書) を読むと、 『万葉集』からの和歌や俳句の太い水脈 が健全なのを確認できます。 和歌的レトリック パ(ターン化 と)は、 「一人称 「今」 」の感性力を磨くのと同時に感性力を共通・ 共有化するシステムと考えて良いでしょう。 また、 日本の各種伝統的芸能では基本的に、感性力を鍛 えると同時にそれをいかに共通・共有化するかと いう二面の統合より成り立っているはずです。さ もないと、 「一人称「今」 」の文化や社会は独善化

し暴走するでしょうから。 『万葉集』から芭蕉を経て、 「一人称「今」 」の 感性力は衰退しているように思えます。しかし、 「一人称「今」 」の感性力はむしろ、大災害や環境 破壊の悲劇で先鋭化します。小説ですが、川端康 成にそれを見ることができます。 「一人称「今」 」 の感性力の詩歌があまた日本を漂流しているよう な気もします。 この激動の時代にこそ、『新万葉集』 が必要なのかも知れません。この後記の最後に、 縄文的万葉集の流れ(自然を舐めなわしていると いう意味で)にあると感じる、二人の詩歌を取り 上げます。 『新万葉集』が編めるぐらいの、大きな 悲しみが日本には溢れ、多数漂流していて、 「一人 称「今」 」の指標で掬ってみる試みです。

辺見庸『詩文集 生首』 (毎日新聞社)より。 「夏至」 すぎこしかたの懶い夏、 葦の大群落に すっぽりと この身を沈めて、

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じつに低い姿勢で 葉と葉のあわいから じっとのぞきつづけている。 『石牟礼道子全句集 泣きなが原』 (藤原書店) より、一〇首のみ。 樹液のぼる空の洞 (うろ)より蛇の虹 薄原(すすきはら) 分けて舟来るひとつ目姫乗せて さくらさくらわが不知火はひかり凪 さあれ燎原(りょうげん) のおもむきなりや苔の花 地 (つち)の記憶あしのうらに来るなれど するすると葉裏 (はうら)原初へ還るなり

闇の中草の小径は花あかり 向きあえば仏もわれもひとりかな

二〇一七年三月一一日

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ささくれて折れし木の声ここに落つ 月落ちて地底の太鼓ひびきくる

連載 エッセイ


「他」の入江にただ見入り、 いつか勃然として立つはずの 水柱を合図に、 どすを腰にかまえて ジェイ・ブルーのどすをかまえて、 「他」のすべてに 斬りかかるはずである。 さては、斬りかかるはずであった。 老いたるひとりの狂(たぶ)れ人として、 気とおき無辺の葦の原に ついにおどりでて、 どすを片手に、 狂れ踊りを踊るあはずである。 さては、踊るはずであった。 だがしかし、幾千回の夏至、 幾万回の回帰線めぐりをめぐって、 あなた、 ああ、あなた、 疲れはもはや隠せないのだが、 入江の水錆び、葦の原の葉錆び、 どすの刃錆び、この身錆びても、 わたしはまだしゃがみつづけている。

葉と葉のあいだから、 とことわの虞犯者として、 「他」をうかがいつづけている。 海から入江に、 入江から葦の群落をぬって、 わたしの腰に流れよる 首のない屍体。 左手にどこまでも土手が延び 土手の横腹を波音が 砲声のようにゆする。 首のない屍体も、 錆びた水の面に震えている。 それらの漣を、 わたしは水に浸したふぐりに、 水垢だらけの金玉に、 いっそ心地よい徒労として 感じつつあるのだ。 げに、徒労こそさいわいである。 あなた、 ああ、あなた、 わたしは以来、 そうして「他」の入江を

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ういう快復の可能性のない人を、そのように しておくことが本当にその人のためになるの か。もちろん、そうなっても生きていたいと 云う人もいるだろう。食物を口から摂取でき なくなると、胃壁に穴をあけ直接水分や食物 を胃に流し込むこともある。こうした話を聞 いていると、やはり人間とは何だろうという 事を考えざるを得ない。 パスカルは 「人間とは考える葦である」( 『パ ンセ』 )という。一本一本の葦は弱々しく、強 い風が吹けば今にも折れそうだが、あちらに 靡きこちらに靡きながら群生して、その一生 を終える。人もまた同じようなものではある が、しかし人は考える力を持つ。この言葉に はパスカル自身の解釈も無く、しかも断片的 であり、何を言おうとしたのか全く不明であ るが、こう理解することもできる。では、考 える力を失った人は何なのか。 二日目に聞いた話は、八九歳の老人が家人 や近辺にいた知人に看取られながら、静かな 死を迎えられたという話であった。その顔に は全く苦痛の色はなく、正しく眠るような最

期の時であったと。この人とは亡くなる二カ 月ほど前に会って言葉を交わしたが、多少足 元が覚束ないかな、という程度のもので二カ 月後の死を予期させるものは何もなかった。 現在では、こうした時でさえ救急車を呼び、 病院に駆け込む。そうなると病院も脈がある 限り「もう駄目です」とは言えないから、強 心剤を打ち延命処置を施すことになる。 人は誰もが自然に死にたいという。この自 然に死ぬというのは、自分の力で生命を維持 できなくなった時に、 死が訪れることである。 私の母は養護施設に入っていたが、明け方近 くの巡回の際に、死亡しているのが見つかっ た。前日も普段通りに過ごしていたという。 眠りながら臨終の時を迎えたらしい。死顔の 安らかさは、何の苦痛も感ぜずに旅立ったこ とを示していた。不思議なことに、三十数年 前に死去した父の命日と同月同日、推定時刻 もほぼ同時刻であった。最期を看取れなかっ た悔いは残ったが、チューブにつながれた姿 を見るよりよほど慰められた。

連載 エッセイ

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家で死ぬ たまたま同じような話を二日続けて聞いた。 それが以前から少しずつ考えていた内容だっ たので、共感するところが少なくなかった。 その話というのは、家で死ぬということであ る。 私が子供の頃、と云っても昭和の二十年代 の後半から三十年代の初めのことになる。つ まり六十年ほど前の話であるが、人の死は身 近にあった。詳しい数字は知らないが、おそ らくその当時は、自宅で死を迎えるのはごく 普通の出来事であり、事故や重篤な病気で入 院していない限り、家で死ぬのはごくありふ れた出来事であった。年寄りや病人が食欲を 失い次第に衰弱してきて、家人は重湯やスー プを飲ませながらも手厚く看護してはいるが、 往診の医師も「そろそろですな」などと帰り 際の玄関先で小声で予告する。どういうわけ か深夜から明け方にかけて容態が変わること が多かった。それでも使いを出して医師に来

てもらい、親戚にも知らせて呼び寄せた。臨 終のときには、親族が枕元に集まり最後のお 別れをして、少しでも楽になるようにと手足 をさすっている。医師は脈をとりながら、懐 中電灯を出して瞳孔の拡散と終末呼吸を確か めてから、 「何時何分です」と死亡時刻を告げ る。大体どの家でもこんな風景があった。 ところが今は、殆どの人が病院で死を迎え るという。自宅で療養していても容態が変わ ると救急車を呼び、そのまま入院して終末を 迎えることになる。多くの場合それは延命治 療といわれる。快復の見込みのない状態の患 者に、人工呼吸器や点滴などを施して、数日 数週間、場合によっては数カ月、長ければ数 年の医療を施す。 最初に聞いたのは、この延命治療が患者に 与える苦痛についてである。人工呼吸器など は、殆ど意識が無くなってからの施療である から、苦痛は感じないという。それでは、そ

山田利明

やまだ としあき

東洋大学教授

(専門は中国哲学)

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誰しも経験するのではなかろうか。例外がある たが、 「そんなことをいう先生は、本当にほかの かも知れないが、一見、複雑に見える自然や社 教科の試験で、 どれほどの成績を取れるかい?」 会、人との関係などの構造を学び、その中に働 という強い不信を感じた。少なくとも自分の間 く因果をそれなりに理解して、未来を予測し、 近の大人、大学や女学校を卒業したと言ってい ちょっとかもしれないがその未来を少しだけ変 る両親や親類の中で、そのような知識を、今も え得ることを学ぶことは、 楽しいことであろう。 って身に着けている者がいるとは、とても思え 新聞に入学試験の試験問題と解答が掲載され なかった。ちなみに、現在の自分は、大学教員 る。私も、新聞購読料金を支払っていることで でありながら、新聞に掲載された問題を、満足 もあり、もったいないので、その試験問題を見 に 解く自信は皆無である。専門分野とかけ離れ ることもある。試験問題は、高校の教育課程を た教科では、中学で学習した知識も怪しいほど 逸脱していないという。なるほど、これが高校 に低下している。 そうした自身の知的能力の限界は、しっかり 生の持つべき教養への試験かと思うと、高校時 と自覚している私であるが、サステナブル社会 代に定期試験の際、抱いた教養水準への不信を の実現のためには、世界や地域の人口、化石燃 思い出す。各教科の教師は、試験終了後に採点 結果と成績を生徒に講評するので常であったが、 料一トンのエネルギー量と、一人当たりの年間 消費量、これを再生可能エネルギーで取得する どの教科の教師も、一様に、試験は身に着けて ための資源量などは、社会人の常識として、覚 欲しかった常識を問うたものであり、高校を卒 えていて欲しいと願っているのである。最近、 業した社会人は、皆、身に着けて卒業している 某国の大統領に就任した方の発言が、世界に と言う。こうした社会常識を身につけられてい 様々な波紋を投げかけている。一体、彼はこう ない生徒の努力不足をなじり、さらには教師の した社会常識を持っているのであろうか? 持 熱意が報われなかったと言って嘆くのである。 っていて欲しいとは思うが、自分のことを考え その時分、まだ捻くれておらず、可愛い高校生 ても、なかなかに難しい。 であったので、面と向かって言うことはなかっ

連載 エッセイ

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知っていて欲しいこと 二月は入試シーズンである。もう、盛りは過 ぎてしまったが、多くの受験生が日頃の成果を 試して頑張っている。テレビや新聞で、入学試 験のニュースを見聞きするたび、自分もまた入 試で大きなプレシャーを受けていた日々を思い 出す。特に大学院入試に合格し、これでもう入 学試験のプレシャーとは永久におさらばできる と安堵したことは、入試のシーズンが来るたび に思い出す。 今は、私自身が、試験を受けることはほぼな くなってしまった。しかし試験問題を作成した り、試験問題の適否を検討したりする機会は、 職業柄、多い。試験問題には、大きく分けて、 必要な知識、思考力を身に着けているか否かを 確認するための資格試験と、限られた定員に殺 到する応募者の知識、思考力の優劣を公平に評 価し、優れたものから選抜する二種類の試験が あるように思われる。幸いにも、私は前者の資 格試験に係ることが多い。後者の選抜試験は、 一度の試験で、下手をするとその人の一生の進

路に大きく影響すると本人が信じ込んでいる? あるいは信じ込まされている? 重大な試験で もあり、あまり関わりたくない試験である。後 者の試験には、試験監督として、試験会場で受 験者を監督する程度のかかわりで済んでいる。 我々平凡な庶民は、自身の能力に絶対の自信 などある筈もなく、 不安や疑問さえ抱いている。 こうした劣等感に悩む人の選抜試験に対する嫌 悪は、一生癒えない気がする。宿命であり、仕 方がないと頭で納得しても、気持ちとして、自 分の能力が有無も言わせず、明確に順序付けら れ、要不要に分別されるのは悲しい。心の傷と して残るのは当然である。 とは言え、試験につながる期間、すべてが辛 いわけではなかろう。試験は「いや」でも、試 験準備は苦痛ばかりではない。試験に備える勉 強も、学びの一環で、順位付けされる試験の苦 痛とは明らかに違う。自分がどれほど理解して いるかを、テスト問題で確かめ、より深くより 幅広く学び、 知識や思考力を身に着ける喜びは、

加藤信介

かとう しんすけ

(専門は都市・建築環境調整工学)

東京大学生産技術研究所教授

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なかのものであったと思われます。感情など も現代人とおそらくよく似ていたのでしょう。 ラスコー展を見ると、人類はこのころからど れほど進歩したのか、 疑わしくなってきます。 ラスコーの壁画を描いたのはアフリカから ヨーロッパに行ったホモサピエンスで、アジ ア側に行ったホモサピエンスは三万年以上前 に日本列島に到達しています。そのころから 琉球列島に人類遺跡が出現するようになるの で、海を渡ったのは間違いありません。国立 科学博物館では海部陽介氏を中心に「三万年 を進めてい 前の航海 徹底再現プロジェクト」 て、昨年は与那国島に自生するヒメガマとツ ル植物で草舟を作って、西表島を目指す実験 航海に挑みました。残念ながら強い海流に流 されて中断を余儀なくされましたが、なぜ失 敗したかを検証して、世界一速いといわれる 黒潮を旧石器時代の人類がいかにして渡った のか、謎を解明しようとしています。 日本列島に到達した人々は豊かな自然の恵 みを享受して、旧石器時代、縄文時代、弥生 時代と文明を発展させました。江戸時代には かつてない人口に到達して資源の有限性に直

面し、履いて捨てた草鞋も再利用するような 知恵を発達させました。それは地球の持続性 を第一に考えなければならない現代に通じる ものがあります。 日本には、国際的にすぐれた研究業績を顕 彰する五つの大きな賞があります。日本国際 賞、京都賞、ブループラネット賞、コスモス 国際賞、国際生物学賞です。受賞者は科学的 な飛躍を成し遂げた人が多いのですが、実践 家の受賞例もあります。たとえば持続可能な 農村コミュニティーの開発に大きく貢献して きたインドのベアフット・カレッジがブルー プラネット賞を受賞しています。このような 賞が人類の進歩の一つの証であるのならば、 地球の持続性に寄与した人がもっともっと選 ばれて、未来を拓いていく知恵が世界に広ま って行くようになってほしいと思います。 私たちは最新の成果からも古代人が残した ものからもたくさんのことを学べます。ラス コー展は終了しましたが、人類とは何かを問 うようなさまざまな展示を国立科学博物館で は今後も企画します。

連載 エッセイ

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人類は本当に進歩したのか 国立科学博物館の特別展 「世界遺産 ラスコ ー展――クロマニョン人が残した洞窟壁画」 は、二六万五〇〇〇人を超える来館者を迎え て二月一九日に閉幕しました。冬の特別展と しては異例ともいえる大きな数字になりまし たが、昨年十一月に開催したばかりの頃は一 日に千人にも満たない日もあって、それは逆 に少なすぎて心配でした。恐竜展や深海展な どであれば、必ず大勢の方、とくに子どもた ちが興味を持ちますが、ラスコーと聞いてす ぐにピンとくる人は日本人の一割もいなかっ たのでしょう。 監修者と共催の毎日新聞とTBSがいろい ろなかたちで広報したのがじわじわと効いて、 来館者が次第に増えました。最近では、博物 館に足を運ぶのを最終的に後押しするのは、 新聞、 テレビ、 ラジオなどからの情報よりも、 SNSを通じた情報の方が力があるようで、 「行ってみてよかった」というような声に触 れることで、 自分も行く気になるのでしょう。

しかし今回は、特別展会場がテレビドラマの 舞台として登場して、それが放送された翌日 から急に来館者が増えました。テレビの力は 侮れません。また新聞で監修者がラスコー洞 窟壁画の見どころ・見方を連載したことも、 大きな力を発揮しました。単に来館者を増や すというだけでなく、予備知識を得て来館す ると深く鑑賞することができるからです。 ラスコー展で印象的なのは、当時の人類の レベルの高さです。ラスコー洞窟に多数の動 物画を残したのは約二万年前のクロマニョン 人ですが、豊かな色彩といい、躍動感あふれ る描写といい、現代人と変わらないか、現代 人以上の芸術的センスといえるでしょう。ト ナカイの角やマンモスの牙に細かい模様を刻 むことができたのは、手先の器用さは相当な ものであったと思われます。糸を通す穴の開 いた縫い針が出土し、機能的に優れた衣服が 作られていたと推測されますし、多数の貝殻 をつけた頭飾りから、お洒落のセンスもなか

林 良博

はやし よしひろ

独立行政法人 国立科学博物館長

(専門はバイオセラピー)

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図 1 安田町中山地区での自然薯植え付け.

在」という形態のため、学内業務は主

にTV会議システムで行う。サテライ

トオフィスは、より地域に近い存在で

ある。このため筆者が何よりも嬉しい

のは、地域の方たちと近い場所で同じ

空気を吸い、語らうことで多くの時間

を共有し、地域を肌で感じ、気持をつ

なげることができることだ。

サテライトオフィス駐在の地域コー

ディネーターの最大の強みは、地域に

一番近い教員として、地域の多様な

方々(住民、行政、企業、団体等)と

「日常的」にコミュニケーションを図

り、そして「日常的」に知識や情報を

共有できる関係をつくりやすいことだ

ろう。高知で暮らし、責務を全うする

ようになり、丸三年が過ぎ、まさに「地

域を肌で感じる」ことが日々強くなっ

ていく。そしてそれがまだまだおぼろ

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忘れられた当たり前を探す¨ 目からウロコのフィールドワーク㉑

地域の散髪屋になるな 過疎高齢化の先にある世界に暮らす

あかいけ しんご

赤池慎吾

である。ゆずの収穫を迎えた秋、たわ

わに実った黄金色に輝くゆず畑に、

人々の賑やかな声がそこかしこに響き

わたる。家族総出で収穫が行われ、町

外に転出している人もこの時期だけは

ふるさとに帰ってくる。「収穫の頃は病

院に入院している患者すらいなくな

る」と言われるほど、誰も彼もが収穫

を手伝う。 一〇月頃から出荷量が増え、

一一月に最盛期を迎える頃には、ゆず

を満載した軽トラックが町中で列をな

し、搾汁工場から漂うゆずの香りに町

全体が包み込まれる。

筆者は高知大学で地域コーディネー

かつては林業で栄え、魚梁瀬森林鉄

は、現在では全国のゆず生産量の二

田町・北川村・馬路村を擁する同地域

安芸市にある「サテライトオフィス駐

地に赴任して丸三年が経った。勤務は

備事業)として、このゆずの香り立つ

高知大学地域連携推進センター特任講師 (専門は林政学)

道が駆け巡っていた高知県東部に位置

五%を占める「日本一のゆずの産地」

ター(文部科学省 地(知)の拠点整

する中芸地域。奈半利町・田野町・安

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図 2 「森林鉄道と暮らし」のフィールドワーク.

もたった一日だけという限られた時間

の方と一緒に活動する。年数回のそれ

け、草引き(除草) 、収穫、販売を地域

つ増えてきた。一年を通して、植え付

自然薯栽培に携わる地域の方も少しず

この三年間で栽培面積は五倍に拡大し、

地域課題を学ぶ、というものである。

然薯の栽培を行い、その活動を通して

一〇〇名の学生が地域の特産である自

ツアーの目的は、一年間で計四回延べ

しばらくすると表情が緩み、二時間話

ていただく。聞き取りをはじめてから

間の中でその方の「記憶」を言葉にし

こと、趣味や思い出話など限られた時

カメラで撮影し、家族のこと、仕事の

きた人々だ。約二時間にわたりビデオ

いずれも中芸地域で生まれ、暮らして

最年長一〇二歳から最年少七一歳まで

協力を得てリスト化した約六〇名は、

ルドワークを進めている。地域団体の

フィールドワークを進める中で感じ

題が尽きることは無い。 地域の方も増えてきた。さらに、二つ

ることは、どの方も個人個人の「つな

ではあるが、学生の来町を待ちかねる の学生団体が立ち上がり、地域の方と

だ。時間をかけて暮らしの中で築いて

がり」を良く覚えており、その「つな さらにもうひとつ、これも三年前か

きた人と人のつながりはとても強固で、

学生との自然薯のようなねばりのある

ら人文社会科学部教員と共に「森林鉄

まったく色あせることはない。地元の

がり」を今でも大切にされていること

道と暮らし」をテーマにして、地域の

人の 「記憶」 から見えてくる地域の姿、

関係ができつつある。

人々の「記憶」を「記録」するフィー

269


うとすればするほど上滑りな感覚に陥

死にこの感覚を、文字や言葉で伝えよ

言葉にできない非言語的な感覚だ。必

かるという形容があてはまる。これは

まさに「肌感覚」 、そう、身に染みてわ

純な構造で理解しないと言うことだ。

決めごとをメリット・デメリットの単

かってきた。地域の人たちは、地域の

自分は散髪屋(イケメンでは無いこと

く)で教えてくれた。いつのまにか、

学もそれと一緒だよ」と宴席(おきゃ

ったら、真剣に悩むだろう。地域と大

が好きな男だったり親友からの言葉だ

もためらうだろ。でもよ、その女の子

と思うか。それが散髪屋のイケメンで

カットが似合うよ』といって髪を切る

ず知らずの人間が女の子に『ショート

続的な仕組みづくりが求められている。

域に還元できる形にしていくまでの継

とのマッチング、そしてその成果を地

現地関係者との調整、学内外の研究者

対して、 地域と顔の見える関係を築き、

ーターには、一つひとつの地域課題に

れない。だからこそ、地域コーディネ

付くことなく終わってしまうのかもし

術が効果的であったとしても地域に根

る限りにおいては、例えその知識や技

献が知識や技術の一時的提供にとどま

る。

は自覚しているが)になっていたので

筆者が担当する高知県東部だけで年

る。地域のとある方が、 「おまえな、見

この感覚に気づくのに時間がかかっ

はと、ハッとさせられた。その言葉は

間六〇件近くの地域課題や相談事が持

げながらであるが、どういうことかわ

たのは、これまで全国各地でフィール

筆者の体の奥深くに、抜けない棘のよ 地域の方の心を動かすには、筆者個

ドワークをするなかで、筆者が地域を とに原因があるだろう。自分自身がい

人と地域の方一人ひとりとがどういう

三年前から大学の正課外教育を通じ

ち込まれる。そのなかのいくつかが、

つのまにか当たり前と思っていること、

つながりを持っているかということが

て、安田町中山地区で「ワンデイボラ

うに突き刺さった。

つまり地域をメリット・デメリットの

重要だ。地域は大学に対して継続的な

ンティアバスツアー」を始めた。この

理解したつもりになっていたというこ

価値判断で合理的に動くものとして扱

つながりを求めている。大学の地域貢

てきている。

地域と大学との継続的な仕組みになっ

おうとしていたのかもしれないと感じ

268


図 4 地域で開催したシンポジウム.

た、同年一〇月から二ヶ月間、高知市

さらに中芸地域の歴史・文化や自然

後の「私達」に残せるもの。一〇〇年

人々の中に継がれているのだ。それが

を次世代が受け継ぎ、地域外に発信す

内で「高知の森林鉄道∞」展示会を開

「文化」なのだと思う。話を聞く中で

る取り組みも始まっている。二〇一六

後の 「私達」 がさらに紡いでいく歴史。

一〇〇年という単位は地域では決して

年八月、 「魚梁瀬森林鉄道」日本遺産推

催し、 多くの来場者で会場は賑わった。

長くないと思える。筆者はそれを強く

進協議会が中芸五町村連携で立ち上が

なぜ、一〇〇年なのか。地域はこれま

意識しながら聞き取りを進めている。

った。林業からゆず産業に変化した中

森林鉄道と共にあった人々の暮らしを

加えて少しずつではあるが、フィー

芸地域の人々の営みを「森林鉄道から

でも何百年も歴史を刻んでいる。確実

ルドワークの成果を地域に還元する取

日本一のゆずロードへ」というストー

見つめ直すキッカケになったのではな

り組みも始まっている。二〇一六年三

リーで紡ぎ、日本遺産認定を目指して

に一〇〇年前も、 二〇〇年前も、「私達」

月、安田町中山地区で開催したシンポ

いる。筆者は、ストーリー部会の部会

いかと思う。

ジウムには、地域内外からおよそ一四

長として人文社会科学部教員らと共に

がいた。 そしてその歴史は脈々と流れ、

〇名の方に来場いただいた。パネル展

協議会に参画している。

中芸地域でのこれまでの三年間を振

示や研究報告は、地域の方に向けてわ かりやすく伝えることを心がけた。ま

271


図 3 学生と魚梁瀬森林鉄道を散策.

そこには一人ひとりの表情がはっきり

とあり、人と人とのつながりによって

地域が形作られていることを再確認で きる。

筆者らが 「映像」 にこだわったのは、

地域の方の「記憶」を次の世代に直接

語る仕組みをつくりたいと考えたから

だ。地域の方が直接語る「映像」には、

文字や写真にはないインパクトがある。

さらにはデジタルアーカイブ化など活

用の汎用性もひろがる。一方、懸念す

ることもある。長い人生からみたら、

このわずか二時間の 「映像」 だけでは、

地域でどう生きてきたのか、記憶の背

景にある人間関係や生き方が不用意に、

いや意図しないまま切り取られてしま

う怖さも感じている。しかし、それで

も 「映像」 の持つ資料的価値は今日的、

いや未来への希望であろう。一〇〇年

270


図 6 学生団体と地域づくりの打ち合わせ(著者左から 2 番目).

大マイナス一八・九%、最小マイナス

五・三%)という数値がはじきだされ

てしまった。産業振興や移住対策も成

果を挙げるには当分時間がかかりそう

だということが、明らかになってしま った。

一〇〇年と前述したが、 直近の五年、

一〇年先の地域の姿はどうなっている

だろうか。地域の「記憶」を受け止め

て、さらに次世代に受け継いでいく人

はいるのだろうかと不安に駆られるこ

とがある。自分は地域の散髪屋になっ

ていないだろうか。地域の方一人ひと

りとのつながりを大切にし、地域と大

学が共に成長し、大げさでなく一〇〇

年後の私達へ繋げることができる地域

コーディネーターであり続けたい。

273


図 5 日本遺産推進協議会での住民ワークショップ.

り返ると、ワンデイボランティアバス

ツアーのような大学(学生・教員)と

顔の見える関係が構築されてきた上に、

フィールドワークといった調査研究が

実践され、その過程で大学と地域の方

が地域の価値を再発見する中で日本遺

産推進協議会の立ち上げのような自発

的な取り組みにつながった。研究者個

人の取り組みだけでは限界が有り、大

学と地域の方が協働で地域課題の解決

に取り組むプロセスに携わることがで

きるのも、地域コーディネーターの役

割であり醍醐味だと感じている。

こうした連携が進む中、二〇一六年

一〇月、少し残念なニュースが飛び込

んできた。平成二七年度国勢調査の速

報値だ。中芸五町村の総人口は一万七

七一人(二〇一〇年比マイナス一〇五

五人) 、減少率はマイナス九・九%(最

272


て親子クッキングなど色々トライ。 親子でできる冬のおやつ、スノーボ ールクッキーは大成功。材料を全部 ボールかビニール袋に入れて 混ぜ て焼くだけという超簡単レシピ。素 材にはちょっとこだわるけど、そこ まで高価でも面倒でもない。分量は 多少適当でも作れるし、洗い物も少 なく、とてもおいしい!(これ大事) そう、主婦は一石多鳥、オトクな ことが好きなのである。

【第 41 号】

(親子サステナ

文・構成 平松 あい)


でも、なるべく簡単にできないか…?と作り方

ザには思わず目がいってしまう。同じメニュー

だけでOK とっても簡単!といった生活のワ

ではなかろうか。ゆえに、時短レシピや、これ

の働くママさんは、それこそてんやわんやなの

ろ、なんやかやと忙しいのである。子育て世代

は自分を含め案外そうでもない。 実際のとこ

余裕のあるイメージであったが、私のまわりで

家庭の主婦というと、なんとなくのんびりと

にもよいものを求め、嗅ぎつける知恵にたけて

えよう。簡単で素早くて安全で環境にもよく体

においては、主婦はなかなかお目が高い、とい

イフ!、これこそ最高ではないか?このあたり

全・環境を意識する、「ファスト&スロー」ラ

強い。スピーディでありながら中身は安心・安

べく安全でいいものを与えたいという思いは

かなかいかないものだ。しかし子どもにはなる

ありたいものの、ゆっくり、ゆったり、とはな

き)がはやり始めてから久しいが、心は豊かに

時短、簡単、一石多鳥

を検索して み たりもす る。

る大量生産・高速型の食文化やライフスタイル

ド、スローライフ(ファストフードに代表され

だ、子どもにもやらせちゃえーということで、

いっぱーい!という場面に直面しながら、そう

わが家でも、時間がなーい、なのにやること

いる。

に対し、伝統農業や有機農法、地産地消などを

子どもとの時間に料理タイムをドッキングし

環境系の お 仕事をして いると、 ス ロー フー

大切にするゆったりした暮らしを推奨する動


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