ASAHI ART SQUARE
Research Journal Issue 01
アサヒ・アートスクエア
スクエア[広場]
RESEARCH JOURNAL ISSUE 01 [リサーチ・ジャーナル]
Square
はじめに
Research Journal Issue 01
Foreword
スクエア[広場]
アートの 「現場」から立ち上げる、 リサーチと議論のためのプラットフォーム アサヒ・アートスクエアはこれまで、 「未来・市民・地域」 をキーワードに、 美術、 音楽、 演劇、 ダンス、 ファッション、 建築など、 あらゆるジャンルの 表現の発表の場、創作の場、 また交流拠点として様々な活動を展開 してきました。 アサヒ・アートスクエアリサーチ・ジャーナル[Asahi Art Square Research Journal ]は、 そうした 「アートの現場」で生まれる問題意識や課題を、
多角的な視点から考え、多くの方々と共有し議論するためのプラット フォームです。 毎号テーマを設定し、 表現者、 研究者、 プロデューサーやディレクター、 キュレーターなど、様々な書き手にご寄稿いただきます。 ますます多様 化しつつあるアート、 アーティストの実践や、 アートスペースの可能性に ついて考察するための、 発想の手がかりをアーカイブしていきます。 ─ [広場] 創刊号のテーマは、 「スクエア 」 としました。アサヒ・アートスクエ
アは美術館やギャラリー、劇場、 ライブハウスといったある機能に特化 した文化施設と違い、パーティースペースを転用したアートスペースで す。幅広い活動に応えられるこの空間が、人々が集い対話し、多様 な活動や文化、価値観が育まれる場になることを目指しています。今 号ではアーティストや研究者たちの論考やインタビューを通して、 アサ ヒ・アートスクエアという場の可能性を、 その名称に含まれる 「スクエア [広場] 」 という視点から考えます。
─
2013年夏、市民が抗議行動を繰り広げたイスタンブールのタクシム 広場に偶然居合わせた写真家の港千尋さんは、 現地の写真とともに、 [広場] 「バランスの空間」 「判断の空間」 という視座から 「スクエア 」 を
読み解きます。朝市などの日常の経済が営まれる空間は、瞬く間に市 民による判断と要求のための空間になる。高度に情報化された現代 においても、 広場はその力を失ってはいないと、 港さんは言います。 ─ 演劇の可能性を拡張する試みとして、ツアーや社会実験的なプロ ジェクトを現実の都市空間で様々に展開してきた高山明さんは、 これ までの活動において、一貫して 「スクエア[広場]」 をテーマにしてきたと
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Foreword
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語ります。 「演劇と広場が交わるところ」に立ち、広場を通して演劇を、 演劇を通して広場をそれぞれ拡張しようと試みた自身の 2 つのプロ ジェクトから、 両者の現代的な可能性を提示します。 ─ 元『ダムタイプ』 のメンバーで、現在は「共有空間」 の開発をテーマに 活動を続ける美術家の小山田徹さんは、人々が交流し、多様性が生 み出される場が成立するには、 その場の獲得感が重要だと言います。 自ら獲得したという思いは、 その場に対しての愛を生み、主体的な関わ りを促します。90 年代から現在まで続く小山田さんの 「共有空間」の [広場] 実践のなかに、獲得する 「スクエア 」 の手がかりを探ります。
─ この10 年間、 アサヒ ・アートスクエアを拠点に、 日本のパフォーマンス シーンを牽引してきた 「吾妻橋ダンスクロッシング」。あらゆるジャン (クロス) ルの最先端パフォーマンスを “X” させるこの実験的なイベント [広場] をキュレーションしてきた、桜井圭介さんが、 「スクエア 」で展開
したこの10 年間の試行錯誤を振り返ります。 ─ 大阪・釜ヶ崎の戦後誌や、現代都市における社会的・空間的排除に ついて研究してきた原口剛さんは、 「スクエア[広場] 」 とは、所与のもの ではなく、生成する過程、 プロセスなのだと言います。寄せ場・釜ヶ崎 の1960 -70 年代をひも解きながら、みずからの力で広場を生みだそ うとする民衆的な行為に 「スクエア」生成の条件を見いだします。 ─ 日本のクリエイティブ・コモンズ、 フリーカルチャー運動の発展に尽力 してきたドミニク・チェンさんは、情報システム、ネットワークの技術や 議論を参照しながら、創造活動とコミュニケーションを表裏一体のも のとして捉える 「場の思考」を提起します。表現することや考えること、 また自己そのものを「場=結節点」 として開くこと。他者との間により多 くのコミュニケーションが生起することを重視するその姿勢は、 「スク [広場] エア 」 というものが、思考や生き方の新たなモデルとなりうること
を示します。 ─ [広場] 本ジャーナルが「スクエア 」の現代的な可能性を考える機会と
なり、お読みになったみなさんの生きる現場においても、新たな視座を 拓くものになっていましたら幸いです。
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CHIHIRO MINATO AKIRA TAKAYAMA TORU KOYAMADA KEISUKE SAKURAI MASASHI NOMURA TAKESHI HARAGUCHI DOMINICK CHEN ERIKA YONEZAWA 港千尋│広場の足跡
高山明│広場と演劇の交わるところで
小山田徹│広場によせて
桜井圭介│インタビュー│吾妻橋ダンスクロッシングの10 年とこれから[聞き手:野村政之]
原口剛│〈スクエア〉生成の過程と条件 ─ 寄せ場・釜ヶ崎からの視点
ドミニク・チェン│「場」の思考
ヨネザワエリカ│エリアガイド「ちょっとそこまで」01│墨東百物語 ─ 墨田区北部のアート拠点ご紹介奇談
Asahi Art Square Research Journal Issue 01 │アサヒ・アートスクエアリサーチジャーナル 01 Square│スクエア [広場] 編集・発行:アサヒ・アートスクエア│発行日:2013年11月30日│デザイン:木村稔将 アサヒ・アートスクエア│ Asahi Art Square │〒130 - 0001 東京都墨田区吾妻橋 1-23-1 スーパードライホール 4F
Tel: 090 -9118 -5171│ E-mail: aas@arts-npo.org │ http://asahiartsquare.org/
©Asahi Art Square, 2013
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[キーワード] 広場 群衆 祝祭性 キャパシティ
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港千尋│ Chihiro Minato[写真家] 多摩美術大学情報デザイン学科教授。1960 年神奈川県生まれ。記憶とイメージをテーマに広範な活動を 続けている。オックスフォード大学ウォルフソン・カレッジ研究員(2002)、第52 回ベネチア・ビエンナーレ日 『マルチメディア・グランプリ』 本館コミッショナー(2007)などを歴任。主な受賞歴に『コニカプラザ奨励賞』 』台北ビエンナーレ 2012)モン 『サントリー学芸賞』 『 伊奈信男賞』 など。最近の展覧会に 『 Gourd Meuseum( (2013) など。近著に『ヴォイドへの ゴル、ウランバートルでモンゴルと日本の作家による共同展『風景考』 (靑土社 2012『 ) 芸術回帰論』 (平凡社 2012) などがある。 旅』
記憶
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港千尋│Chihiro Minato
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グーグルの地図は便利なだけでなく、面白い。特に目的がなくても眺 めているだけで、いろいろなことに気づかされる。世界の土地が連続 して眺められるようになったことで、 それまでの「世界地図」では見えな かったような現実が、 地図のほうから読み取れるようになった。 たとえば欧米の町ならどこでも通りの名前で検索できるが、 日本の町 になるとそうはいかない。地名はあっても、固有名のない道路がほとん どだから、 事情を知らない外国人は面食らう。 そうした違いは町の造りそのものにも表れている。欧米をはじめ、 アジ アの大都市には必ずと言っていいほど、町の中心になる広場がある。 歴史上の重要人物や独立記念日の日付などが広場の名前になり、 そうでない場合は共和制広場などと呼ばれていたりする。地理にその 都市や国の歴史が介入しているのが普通である。 日本にはこうした名称の広場はほとんど存在しない。共和制広場がな いのは当然だが、政治家をはじめ歴史上の日付が名前となっている 広場も見当たらない。東京で広場といえば、 まずは皇居前広場である。 全国的には駅前広場が一般的だろう。 それらは 「新宿西口前広場」 のように、駅名と改札口のセットで呼ばれている場合が多い。広場の 名に具体的な歴史が刻まれていることはあまりないと言っていいだろう。
判 断の空 間 それはとりもなおさず、 それぞれの都市の歴史に由来する違いであり、 特に市民がどのような歴史をたどってきたかを表している。 この点で は、 「広い場所」 という言葉よりも、 「四角」つまり幾何学的な意味をもつ 「スクエア」のほうが分かりやすい。フランス語の「定規」 と同じ語源 を持つこの言葉は、 そこが広いというだけの、漠然とした空間ではなく 計画と設計をとおして作られた場所であることを示している。スクエア は建築の一部である。 それはさまざまな意味で、 「はかる」空間でもある。はかるための場 所 ─こんどは日本語のほうが表しやすい。 ヨーロッパの村や町では多 くの広場に市が立つ。深夜、人気のない広場を横切ってホテルに到 着した旅行者が、 翌朝窓を開けてみると、広場を埋め尽くす朝市の賑 わいに驚かされることがある。賑わいのなかでは、 目方を計る人がいて、 金額を確かめる人がいる。新鮮な野菜が並び、 その土地独特の色彩 があふれる。田舎の村では昔ながらの天秤が健在だったりすることもあ
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る。 さまざまな秤によって、均衡のとれた交換を成り立たせるため、計り、 測り、 推し量る。 こうした広場とは、 バランスの空間だと言えるだろう。 バランスが取れているときは市場も活気づき、村や町全体の雰囲気 もいい。だがバランスが崩れ、不均衡が続くようになると雰囲気も悪く なり、逆の方向へ物事が動き出す。不満を募らせた人々は広場に向 かい、集会を開くようになる。市民はそこで、物事が正当に行われるこ とを求める。たとえばモノや金が正当に分配されることを欲し、分配の 責任者に均衡を取り戻すことを要求するのである。 あるいは為政者の ほうが市民に対して、 そのための決定を「諮る」 こともある。 いずれにしても個々人が、 それぞれの考えの中に公約数を見出して、 それを集団の意見として表せるのは、 その村や町で最大の人数を収 容できるような空間、 すなわち広場以外にはない。 こうして、 昨日まで日 常の経済が営まれてきた空間は、今度は市民による判断と要求のた めの空間になるわけである。 その町や都市の中心となる広場に指導者や政治家の名、 あるいは 独立や革命といった歴史的な日付がつけられているのは、ひとことで 言えばそれが「判断の空間」だったということを示している。市民が、 そ こで正当な分配が行われているかどうかを秤にかけて判断するだけ でなく、均衡を取る能力があるかどうかを諮る空間でもあった。それら の判断の積み重ねが歴史を作ってきた─という認識がなければ、 こ うした名称が定着することはなかっただろう。
群 衆の力
広場をその固有名との関係で見たとき、以上のように日本の地図が 欧米とは大きく異なる歴史を背景にしていることは明らかだろう。日本 の広場に付けられた名のうちで、印象的なもののひとつに 「お祭り広 場」がある。1970 年の大阪万博に設置された中心の広場の名称だ が、一時的な存在にもかかわらず、 「太陽の塔」 とともに記憶に残って いる。日本では、広場が何よりもイベント性や祝祭性と強く結びついて いる。判断の空間というよりは、 出来事の空間といったほうがいいが、 も ともと前者は後者と別のものではない。 カレンダーの特定の日に広場は祝祭の空間になる。ほとんどの場合、 それは長い年月にわたって続いてきたもので、 その意味ではすべての 広場は、一年のうちに何日かは「お祭り広場」になるのである。 もし万
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国博覧会の「万国」が、 それぞれの祝祭を交替で演じるなら、 その広 場は恒久的なお祭りの空間になるだろう。 まさにそれが、大阪万博に おける 「お祭り広場」だった。 踊り、歌い、歓声をあげるとき、人は一体感を得る。広場に集まる人間 は多ければ多いほどよい。そのほうが盛り上がるからだ。 ここでわたし たちは、 「力」には二種類の異なる性質があることを思い出す。ひとつ は、通常力といった場合に意味する、強度である。出力も権力も強さ 弱さによって、はかられる。だが力にはこれとは異なる一面がある。そ れはキャパシティという言葉で表され、通常はどれだけ「許容」できる かによって、はかられる。 「お祭り広場」 をはじめとして、 イベント会場に 使われるスタジアムやホールは、 それ自体は力を持たないが、 その許 容の限度が、 潜在的な力として考えられる。 祝祭に集まる人間が多ければ多いほどよいのは、 まさにそれがキャパ シティとしての力を生み出すからだ。広場の本質のひとつは、 このキャ パシティである。スタジアムやホールと違って、広場には決まった座席 あらかじめ決め 数がない。広さによって入ることのできる限度はあるが、 られた人数はあるわけでもない。祝祭にとって重要なのは、はっきりとし た限度ではなく、 「どんどん増える」 ことのほうにある。増加しながら、空 間を緊密にしてゆくことが、 その場を盛り上げてゆく。その先に得られる のが一体感で、 ひとたび広場がこの一体感を得ると、キャパシティは パワーに転化する。文化を問わず、人々が「祭りのパワー」 と表現する のは、 緊密な状態におけるこの一体感にほかならない。 同じことが集会やデモについても言えるだろう。1989 年にベルリンの壁 の崩壊をきっかけに起きた、 旧東欧諸国の革命を中心に扱った写真集 を、 わたしは 『明日、 広場で』 と題して公刊したことがある。広場の群衆は、 昨日まで朝市で普通に買い物をしていたふつうの市民である。 そのふつ うの市民が広場に集まり、 その数を次第に増してゆき、 広場から溢れ市 内の路上に拡大してゆく様子を内側から見つめながら、 わたしはキャパ シティがパワーに転化する瞬間の驚くべき 「力」 を知ったのだった。 ブリコラージュの 風 景
それから四半世紀近く経ち、 ベルリンはもとより世界の都市は大きく変 わった。景観の変化もそうだが、 おそらくそれ以上に見えない部分を支え る条件が変わった。高度に情報化された世の中で、 かつて広場を歩
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いていたときには決して見られなかったような情景 ─ 相手が目の前に いないのに喋っている市民の姿がふつうになった。携帯電話の惑星規 模での普及は、 確実に広場の光景を変えているのではないかと思う。 だが広場そのものは、判断の空間として、祝祭の空間として、 その力を 失ってはいない。2013 年の初夏、わたしはそのことをトルコの首都イ スタンブールで目撃することになった。5 月から6 月にかけてトルコ全 土に拡大した抗議行動である。新市街の中心にあるタクシム広場は ビジネスと観光の拠点として、 また公共交通の乗り換え地点として、 イ スタンブールでももっとも賑やかな場所だが、 そこを市民が埋め尽くす デモが連日開かれていたのである。 報じられたとおり、 それは隣接する 「ゲジ公園」 の再開発に反対する集 会から始まったものだった。公園は市内でも数少ない緑地のひとつで、 その意味では最後の 「市民公園」 としての憩いの場所を提供していた。 そこにショッピングモールを建設しようという政権側の計画に、 真っ向か ら反対したのがほかならぬイスタンブール市民だったのである。 ゲジ公園の一角はすでに無残に破壊され、巨大な工事現場へと姿 を変えていた。だが滞在中わたしは、 その工事現場と広場とが、毎日 姿を変えてゆくのに驚いた。公園を占拠している人々と広場に集まる 人々が、 その環境をさまざまに変えてゆく。それは「パフォーマンス」や 「インスタレーション」 としか言いようのないもので、 あり合わせのもの を工夫して作ってゆくという意味では、 「ブリコラージュ」である。創意 にあふれたインスタレーションは、広場に祝祭性を醸し出し、夜になる と子供連れ、 家族連れの姿も見られるようになった。 タクシム広場に集まった市民が要求したのも、 やはり均衡であろう。や みくもな再開発は、市民の目には幸せな日常生活に不均衡をもたら すように映ったのにちがいない。広場が交換と判断の均衡に必要な 空間だとすれば、公園は心の均衡を保つのに必要不可欠な場所だ からである。それは必ずしも、現在だけにかかわることではない。市民 にとっては子供のころ親に手を引かれて遊んだ場所であり、友人や 恋人と語らった場所である。過去もまた心の秤を支えている。記憶の 心の秤もその支点を失ってしまうだろう。 場所がなくなれば、 完全に解決したわけではないものの、ゲジ公園は破壊だけは免れ た。広場はそのための、本来の役割を果たしたようである。わたしがそ こで出会った人々も、明日また広場で、 と手を振り、 それぞれの家路へ と向かったことだろう。
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広場と演劇の交わるところで
[キーワード] 広場 演劇 パフォーマンス 都市 コミュニティ
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高山明│ Akira Takayama[演劇ユニットPort B 主宰/演出家] (はとバスツアー) 『サンシャイン 62 』、 『東京/オリンピック』 、 『個 1969 年生まれ。演劇ユニットPort B 主宰。 (2014 年よりフランクフルト、サンパウロ、 『完全避難マニュアル 東京版』 室都市』 シリーズ(東京、京都、ウィーン)、 ニューヨークにて展開)、 (現在も継続中)、 (福島 ─ エピローグ?) 『国民投票プロジェクト』 『 光のないⅡ 』 、 『東京ヘテ
ロトピア』など、ツアーや社会実験的なプロジェクトを現実の都市空間で展開させる手法は、演劇の可能 『一般社団法人 Port(ポルト)観光リ 性を拡張する試みとして国内外で注目を集めている。2013 年 9 月に サーチセンター』 を設立し、観光事業にも活動範囲を広げている。対談集に 『はじまりの対話 ─ Port B (現代詩手帖特集版/思潮社)がある。 国民投票プロジェクト』
東京
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広場と演劇の交わるところで
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どれくらいの人が集まっているのだろうか。広場は聴衆で埋め尽くさ れ、 スポットライトに照らし出された鳩山由紀夫氏が最後の選挙演説 をしている。異様な熱気に、 この場所から時代が変わるかもしれない、 (反対側の池袋駅東口前では時の首相である麻生 という期待が膨らんだ。 太郎氏が演説をしていたらしい)。2009 年 8 月 29 日、 池袋西口公園の光
景である。選挙戦最後の演説はこの広場で行われ、翌日の衆議院 議員総選挙で民主党が政権交代を果たした。 「広場」 と聞いてまず 私の頭に浮かんだのは、 あの日の池袋西口公園だった。 ただその時はじめて広場に関心をもったというわけではなく、 私は一貫 して広場をテーマにしてきたと言ってよい。むしろだからこそあの場にい たのだし、広場の見せた普段とは全く別の顔に、改めて興奮を覚えて いたように思う。私がなぜ池袋西口公園にいたかと言えば、数ヶ月後 に始まる 『個室都市 東京』 という公演の準備のためだった。 まず場所 を知らなければ話にならないということで、24 時間× 7 日間、 月曜日か ら日曜日まで、時間や曜日ごとに変わっていく広場の地勢図をひたす ら観察していた。 『 個室都市 東京』 は 『フェスティバル/トーキョー』 と いう演劇祭への参加作品で、 そのメイン会場が池袋西口公園(この 広場内にある東京芸術劇場がメインの劇場だったという意味でそうなのだが) で
あるため、 この広場の広場性それ自体をテーマにしようと考えた企画
池袋西口公園[ 8月29日] の様子
であった。 どんな作品だったか、 簡単に説明したい。
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池袋西口公園の真ん中に 「個室ビデオ店」 を一週間仮設する。 も ちろん本物の個室ビデオ店ではなく、 その機能を模倣した個室ビデ オ店のイミテーションで、店内の構造からシステムまですべて本物に 倣った。観客は陳列された DVDを選び、個室ブースで好きなだけ鑑 賞できる。 ドリンクバー飲み放題。カップヌードルなどの軽食もとれる。 ラ ンチのデリバリーもあった。24 時間営業だから 「宿泊」 も可能。つまり 個室ビデオ店という、遊びや暇つぶしだけでなく、食や住を済ます避 (性欲処理の場という側面 難所としても機能する空間を作ったわけである は扱えなかったが) 。ただ DVD の内容は本物と異なっていて、池袋西口
公園内で 30 個の同じ質問を投げかける一問一答インタビューを行 い、 それを一人につき一枚の DVD にする。陳列台に並んだ DVD は
300 枚以上になった。暇をつぶす老人、通路代わりに使う学生やサラ リーマン、 たむろする外国人、 そこで暮らす路上生活者、 ナンパする人 にされる人、 ダンスの練習をする若者たち、劇場に舞台を見に来る人 たち……等々、池袋西口公園には多種多様な人たちが行き交い、 集い、常になにかが起きている。 「ひろびろとひらけた場所。 また、町の 中で、集会・遊歩などができるように広くあけてある場所。 」 というのが広 辞苑による広場の定義だが、池袋西口公園は、集会や遊歩の場とし てはもちろん、飲み食い、おしゃべり、鑑賞、観察、 出会い、避難、 そして
[2009] 『個室都市 東京』
生活の場として、多様な人々を受け入れる場所になっている。 こんなに
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広場らしい広場はなかなかないと思う。選挙活動の最終地に選ばれ るだけのことはある。そこに渦巻く声を拾い集め、閲覧可能にするととも に、 内と外という境界線を持つ建造物をインストールしたことで、 しかもそ れが池袋西口公園そのものを抽象化した 「個室ビデオ店」であったこ とで、店の内にいても外にいても、 そこが「広場」であるということが再発 見される仕組みになっていた。 もう一つ、私が意識したのは目の前にそ びえる東京芸術劇場である。その中で上演されている演劇を否定す るつもりは全くないが、舞台の上で行われることだけが演劇なのではな い。 『 個室都市 東京』 もまた演劇であり、 さらに池袋西口公園という広 場それ自体が演劇なのである。言ってみれば「個室ビデオ店」 は広場 を異化し、広場=演劇であることに気づかせるための仕掛けであった。 広場で繰り広げられる人間模様がドラマ=演劇である、 というような話 ではなく、広場こそが本質的に演劇なのである。それを理解するには ギリシャ時代まで遡らねばならない。
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広場と演劇の交わるところで
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シアター、 テアーター、 テアトル、 テアトロ……、日本で「演劇」 と呼ば れるものの起源は、ギリシャ語の「テアトロン」である。 この語はもともと 古代ギリシャ劇場のある部分を指していた。今の感覚で考えれば舞 台ということになりそうだが、実はそうではない。テアトロンとは客席を 意味する言葉だったのである。観客のいる客席が演劇を意味する語 として残り、いまだにその語が演劇一般を指している。私はそのことの 意味を重く受け止めたいと思う。つまり演劇とは客席であり、客席で 観客が見たり、聞いたりすることが演劇の本質なのだと。舞台上で行 われることはきっかけに過ぎず、 それを受容した観客がなにを考え、 ど んな議論をし、 どのように市民の意志を決定していくか、 そこに重点が 置かれていたわけである。その意味で、演劇は政治的なイベントで あった。女性や奴隷は排除され、観客は成人男性の「市民」のみで あったが、彼らは「市民」の義務として、お金をもらって、仕事として、演 劇を見に行った。見に行ったというのは正確ではない。参加したと言う イベントを共有し、 そのイベントをネ べきだろう。劇場という場に集まり、 タにコミュニケーション空間を作る。 これが演劇であるならば、 「演劇」 より 「芝居」 と言うほうがテアトロンの語感に近いかも知れない。人々 が集い、芝に居る。 これが芝でなく広場であっても十分成り立つに違 いない。受動的に舞台を受け入れるだけの場というイメージで固まっ てしまった 「客席」 より、 「広場」 といった方がその語感をうまく言い表す ように思う。 というより、発想を逆転させて演劇を捉え直すべきなのだ ろう。つまり、人々が広場に集い、 そこでなにかを見たり、聞いたり、考え たり、議論したりするコミュニケーション空間が演劇なのだと。極端に 言ってしまえば、演劇とは「広場」を作る活動なのである。広場こそが 本質的に演劇である、 と書いた意味はここにあったし、 この考えは私が やってきた演劇活動の根本につながっている。人がどのように集まり、 どんなコミュニケーションを行い、 いかなるコミュニティを作っていくか。 そのための環境作りが、つまり広場をどうデザインしていくかが、私に とっては演出であった。 ─ 広場をデザインすると書いたが、 『 個室都市 東京』 の例を見れば明 らかなように、池袋西口公園は誰かにデザインされた広場で、私は すでにそこにある広場の広場性を顕在化してみせたに過ぎない。広 場は異化されたかも知れないが、 その可能性は拡張されてはいな い。広場という概念も更新されてはいないだろう。 もっと言えば、池袋
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広場と演劇の交わるところで
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西口公園という広場から演劇を捉え直し、演劇の可能性を拡張して もらったと言ったほうが正確だと思う。では逆に、演劇から広場を捉え 直し、広場の可能性を拡張したり、 その概念を更新したりすることがで きるのだろうか。 この問いに挑戦した別のプロジェクトを紹介したい。 翌年 2010 年の秋に作った 『完全避難マニュアル 東京編』 である。 ─ 『完全避難マニュアル 東京版』 の入り口はインターネット上[http:// hinan-manual.com] にあった。特設ウェブサイトを訪問すると自動的に
アンケートが始まるようになっている。 「目的なく山手線を一周したこと がありますか?」、 「待ち合わせでは人を待つ方ですか、待たせる方で すか?」などのアンケートに答えていくと、 「あなたに相応しい避難所は 大塚駅です」 といった診断結果が出る。そのページに飛ぶと大塚駅 から避難所までの地図がダウンロードできるようになっているが、行く 先がどんな場所なのかは分からない。地図のナビゲーションに従い 実際に訪ねてみると、 普通に生活していたらなかなか接することのない コミュニティとの出会いが待っている。大塚駅の場合はイスラム教の モスクであった。ほかに座禅の道場、路上生活者のコミュニティ、星
[2010] 『完全避難マニュアル 東京版』
炊き出し、 プラネタリウム、 埠頭、 若者たちのシェアハ 占い、 手相占い、
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[2010] 『完全避難マニュアル 東京版』
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高山明│Akira Takayama
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ウス、 いろんな世代が同居するコレクティブハウス、バックパッカーの 集うゲストハウスなどなど、正確なダイアグラムを刻み、東京を1時間 で一周する山手線的な時間からこぼれてしまったような時間を生きる 場やコミュニティが選ばれた。山手線 29 駅すべてにこうした 「避難 所」を設け、参加者は好きな時に好きなだけ「避難所」を訪ねること ができる。誤解のないよう説明を加えておくと、一般的な意味で都市 生活から取り残された人たちを「避難民」 と呼び、 そうした人たちが作 るコミュニティを「避難所」 と名付けたわけではない。私たち参加者 が避難させてもらえるような場所を「避難所」に設定し、画一化され た山手線的時間に従わなくても、 むしろ従わない方が、豊かに生きて いけるかも知れないというモデルの数々が「避難所」だったのである。 実際このプロジェクトに参加してくれた 「観客」は自らを「避難民」 と 呼んだ。参加者は「避難所」 を訪ね、誰かに出会い、 なにかを見聞き する観客であると同時に、 「避難」の身振りを演じる “パフォーマー” で あった。 こうした 「避難所」一つ一つが広場的な性格を持っていたこ とは間違いないが、 さらに注目すべきは参加者の “パフォーマンス” に よって編まれていく29 の「避難所」のネットワークである。一つ一つは 多様で、共通点など全くないように見える場所やコミュニティが、 「避 難」 という身振りで繋げられると、 「避難所」 というネットワークになり、 あ る種の「広場」を作っていったのだ。その「広場」を俯瞰で描写する のは難しいが、ツイッターや Facebook などのソーシャルネットワーク を通して、 それはある程度可視化されていたように思う。タイムライン 上に並んでいく膨大な呟きは、東京という都市にできた 「避難民」た ちのネットワークをリアルタイムで表現していた。彼らもそのことを意識 し、 ソーシャルネットワーク上でコミュニティを作り、現実の都市のなか にコミュニティを拡大していった。あるいはその往復運動のなかでコ ミュニティが作られていったのかも知れない。一ヶ月の公演期間の終 わりに、私は「避難民」たちに招かれたのだが、 そこは彼らが新たに 設置した 30 番目の「避難所」であった。 ─ 物理的に広場を作ることだけが広場のデザインではない。池袋西 口公園のように実体をもった広場だけが広場ではなく、 『 完全避難 マニュアル 東京版』 のように演劇から広場を捉え直すことで、 また、 参加者の動きによって広場が作り替えられることで、 その可能性は広 がったのではないかと思う。少なくとも 「広場をデザインする」新しい手
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広場と演劇の交わるところで
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高山明│Akira Takayama
スクエア[広場]
法を発見した、 と自分では思っている。それはともかく、 インターネットが これだけ発達し、 ヴァーチャルな空間のいたるところに広場やコミュニ ティが無限に増殖していく時代に、物理的な広場だけにこだわってい る訳にはいかないし、 ましてや劇場という特権的な場だけに広場/演 劇を閉じ込めるのは反動的ですらある。だからと言ってヴァーチャル な広場さえあれば事足りると考えるのも極端に過ぎるだろう。現実に 都市はあり、様々なコミュニティは物理的空間との関係のなかで存在 している。そのことを無視した出会いや集いやコミュニケーションはど うしたって貧しいものにならざるをえない。 リアルとヴァーチャルを行き 来するような 「広場」が求められている。それはレイヤーとして現実の 都市に出現する 「広場」だ。 この「広場」は、参加者によって作り替え られ、更新されていく “パフォーマティブ” な 「広場」である。 「広場」が 都市を舞台に “パフォーマンス” する、 これが究極のイメージだが、 この イメージには未来の展開への密かな期待が込められている。それが 演劇であるというフィクショナルな枠組みは、 「広場」の出現を促し、 そ の “パフォーマンス” を助けるであろう。やがて、時間の経過とともに演 劇という枠組みが忘れられ、 「広場」が実在する都市の機能になった とき、ついに 「広場」は「嘘から出た誠」になる。 “パフォーマンス” の真 価が問われるのはそれからだ。
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広場によせて
[キーワード] 共有空間
dumb type 焚火
Research Journal Issue 01 スクエア[広場]
小山田徹│ Toru Koyamada[美術家] 京都市立芸術大学彫刻専攻准教授。1961 年鹿児島に生まれる。京都市立芸術大学日本画科卒業。84 年、大学在学中に友人たちとパフォーマンスグループ「ダムタイプ」を結成。ダムタイプの活動と平行し 「ウィークエンド て 90 年から、さまざまな共有空間の開発を始め、コミュニティセンター「アートスケープ」 カフェ」などの企画をおこなうほか、コミュニティカフェである「Bazaar Cafe」の立ち上げに参加。日本 洞窟学会会員。
女川 チビ火 京都芸大
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広場によせて
Research Journal Issue 01
小山田徹│Toru Koyamada
スクエア[広場]
広 場 によせて 「広場」 という言葉には、何にでも利用出来るワクワクする感覚と、禁 止行為などのルールの設定や気持ちの悪い価値観の強要などのゲ ンナリする感覚とが共存しています。多分に、 自立的に自発的に出来 た 「広場」 と制度が用意した 「広場」 の差だと思うのですが、 ともかく 私達の生活には「広場」的な隙間が様々な意味で必要で、 その場 で多くの人々の交流がなされ、多様性が生み出されています。では、 どうしたらワクワクする 「広場」になるのでしょうか? 私が思うに 「獲得 感」が重要なのだと思うのです。自らがその「広場」を獲得したという 感じが、 その場に対しての愛を生み、主体的な関わりを促します。愛 のない 「広場」 は荒れる。 しかし、過剰な愛だけでは時として排他的な 場になりやすい。多様性が派生する場はどの様に発生しどの様に持 続しどのように変化するのでしょうか? 私は長年この問いにとらわれ、 様々な場の試みを行い、現在も奮闘しています。以下は、終わりの無 いこの問いへの煩悶のメモです。 コミュニティセンター兼 d u m b t y p e 制 作 事 務 所 私は 1981年に京都市立芸術大学でアングラ劇団「座・カルマ」に 入団し、1984 年に 「dumb type theater」 を多くのメンバー達と旗揚 げ、後に 「dumb type」 と改名して、パフォーマンスの公演を数多く 行ってきました。様々なメディアを駆使し、人間とテクノロジーとの関係 から現代社会の様々な考察をパフォーマンスという表現で行ってきま した。ダムタイプは 10 名を超えるメンバー達が合議性で分野のヒエ ラルキーなしで、半ば「アイデア責任」 という、良きアイデアを出した人 間が責任をもって現実化する、 という方法で作品を作り上げていまし た。その集団制のユニークさと作品の先進性が評価され、80 年代の 終わりから90 年代初頭には海外の様々なフェスティバルから招待さ れる集団となっていました。 そんな状態の1992 年、デンマークのコペンハーゲンで、現地のアー ティストグループ「Hotel Pro Forma」 とのコラボレーション企画 『 THE ENIGMA OF THE LATE AFTERNOON 』を行ってい たメンバー達の元に、体調を崩して日本に居残った中心メンバーの 古橋悌二から一枚のファックスが届きました。その手紙には、自らの
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広場によせて
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小山田徹│Toru Koyamada
スクエア[広場]
HIV 感染とその経緯、心境、今後の決意が書かれていました。突然 のカミングアウトに私達は大きく動揺し、少なくとも私は、AIDS に関 しての知識もとぼしくて、古橋がすぐにでも死ぬのではないかと思い、 とても悲しみました。動揺の中、デンマークの滞在を終えて帰国して、
dumb type のオフィスに帰って古橋と対峙した時から大きく私達の 人生が変わり、 動き始めたのです。 オフィスに待っていた古橋はニコニコとして座っていました。対して私 達はどのような態度で古橋と会えばいいのか解らないままでした。オ フィスには同じ日に古橋からの手紙を受け取った周辺の友人達が
20 名程集まっており、多くの人々が悲しみ、一人ではいられないので 皆で集まっていたのでした。その日から毎日、30人を超える人々が夜 を徹して狭いオフィスに集まり悲しみながらも様々な話を繰り返す日々 が始まったのです。
AIDSという病の事や、 それを巡る社会問題、 セクシャリティの事など、 数少ない知識を持ち寄っては様々に話し合いました。自分たちの知識 では足りないとなると、 既にアメリカなどで AIDS 治療の実践経験のあ
dumb type『 pH 』
dumb type『 S/N 』
dumb type『 PLEASURE LIFE 』
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広場によせて
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小山田徹│Toru Koyamada
スクエア[広場]
る看護師さんなどに来てもらい話を聞くなど、勉強会もはじまりました。 又、ジェンダーやセクシャリティを巡る議論も活発になり、様々な活 動家や団体との交流も始まりました。同時に dumb type は新作パ フォーマンス S/N の制作を始め、狭いオフィスは様々なタイプの人々 が出入りするコミュニティセンター兼 dumb type 制作事務所という 様相を呈しました。その様な環境の中での S/N 制作は、 メンバー以 外の人々の意見や関与も深まり、以前の dumb type の作品制作と は違うものとなっていったのです。
Art -Scape しかし、半年後、空間の狭さと人々の活動の活性化がアンバランスと なり、新しい空間の必要性が検討され始めました。その時、 ある方か ら京都大学東側の古い日本家屋を「文化的な事に使用するなら家 賃はいらない、地代だけでいい。」 というありがたい申し出があり、新た な場の開発がスタートしました。その頃、dumb type のオフィスにほ ぼ毎日滞在していた人々の内、小山田徹(私、dumb type メンバー) 、泊 博雅(dumb type メンバー) 、遠藤寿美子(アートスペース無門館代表) 、松 尾恵(voice gallery 主催) 、鬼束哲郎(京都産業大学教授) 、南拓也(美 術家) の6 人が共同出資で借りる事を決め、オフィスで行われていた
様々な活動をそちらに移動する事となりました。 新しい空間の名前は「Art-Scape」 と決め、6 人のメンバーが運営委 員として共同出資で経済的に支え、各自がプロデューサーとして、 それ ぞれが企画する活動を場に持ち込み、 オフィスとして使用する事となり
第10回国際エイズ会議横浜 関連企画「LOVE +」
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広場によせて
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小山田徹│Toru Koyamada
スクエア[広場]
ました。それに関わる人々の出入りはもちろん、可能なかぎり外に開か れた場として機能する事を目指しました。小山田が管理人として常駐 し、二階に宿泊スペースを作り、5、6 人の宿泊も出来る様にしました。 そこでは、AIDS 関連の活動だけではなく、演劇、美術の企画もプロ デュースされ、様々な物が混ざる場となっていったのです。そこの場
s Diary Project、APP(Art Poster で始まった主な企画は、Women’ Project) 、Omnibus Project 、Love+(ラブ・ポジティブ) 、などがありまし
た。他にも、様々な人々の京都での宿泊の場として機能し、国内外か ら多くのゲストが来京し、滞在しながら企画に参加したりしました。又、 多様なミーティングの場としても利用され、 クローズドの会議や公開の 集まりなどに空間を提供することになりました。 この場では国際 AIDS 会議への参加や独自のイベントの開催など先鋭的な社会活動と芸 術表現の緩やかな交わりが試みられ、90 年代半ばの京都の重要な 場所になっていました。
Weekend café ところが、Art-Scape 内の活動の専門性が高まってくると、本来、様々 な人々に開かれた場であった場所の敷居が高くなり、特別な人々し か出入りしない場に変容し始めたのです。疑似家族的な集団制の 悪い面が見え始め、外部に別の形の場と機会が必要になり、94 年に 自主運営のカフェを立ち上げる事になりました。場所は京都大学の 近くの寮の敷地内にある築 100 年を超す古い洋館の一部屋。デッド スペースになっていた空間を寮生達の協力の元、掃除し改装、簡単
Weekend Café
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広場によせて
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小山田徹│Toru Koyamada
スクエア[広場]
なしつらえで、 二週間に一度、 土曜日にオールナイトの Weekend café という名のカフェを開催しました。非営利のカフェなので、パーティの 延長みたいなシステムで、 原価で飲み物が買えて、 持ち込み OK、 但 し持ち込んだ物はシェアが原則。カウンター業務は簡単なので誰で もマスターが出来ます。企画がスタートすると、京都大学の隣という好 条件もあって、広報しなくてもすぐに 200人程度が集まるカフェになり、 様々な立場の人々が交わる便利で楽しい場となりました。多くの人々 がマスターとしてカウンターサイドに立つようになり、 スタッフとお客の区 別がなく、誰もが準備から片付けまで出来る自立的な場になっていっ たのです。週末の京都に来るゲスト達はこのカフェに連れて行かれ、 様々な人々に出会うことが出来、多様な情報が集まり得る事が出来
Bazaar café フライヤー
る便利な場所でした。それは我々の経験する初めてのコミュニティカ フェでした。 カフェなので、誰でも入りやすく、又、様々な分野の人々が居たので多 様な世界に通ずる窓として機能していました。 このような環境の中で、
dumb typeのS/ N project やArt-Scapeの様々な活動は広がりを 持ち活性化していきました。95 年にメンバーの古橋の死の時や阪神 淡路大震災等もこのカフェを通して皆が緩やかに繋がりながら問題 や痛みを共有していったのです。96 年にカフェの建物が歴史的建 造物に指定されるのを機にカフェは終了。3 年間の短い期間でした が、 その濃密な時間は、関わった人々に 「場の獲得の喜び」の意識を 強く残し、 その後の人々の活動に大きな影響を与えました。
Bazaar cafe
共有空間の獲得
92 年から97 年まで様々な活動が Art-Scape 周辺で展開し、数多く の人々がこの場で交わりました。97 年に Art-Scape はある種の役割 を終え解散する事になりました。私にとってこの場所はプライベートと パブリックの融合した混沌とした場でしたが、 ここでの生活を通して
dumb typeの表現活動とは違う別の地平を見いだしたのです。それ は、 「共有空間の獲得」 という事です。
92 年当初、私達、少なくとも私は、AIDS を巡る様々な問題の解決を 目的に活動を行っていました。色々な事は解決できるのだと信じて行 動を起こそうとしていました。 しかし、95 年の阪神淡路大震災やオウム 事件、古橋の死を境に、解決への強固な信念は時として暴力的なも
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小山田徹│Toru Koyamada
スクエア[広場]
のに変わる可能性があると思い始めたのです。 もちろん、解決すべき 問題は多々あり、即効性が必要な事ごともあります。 しかし、大きな論 の一つの回答が全ての解決になるのかという疑念が大きくなったの です。特に阪神淡路大震災の後には、AIDS を巡る様々な問題と同 根の社会問題や個人の問題を多く発見し、 その事の解消には時間 をかけた対話が不可欠であり、新しい対話の方法や対話の場の創
Weekend café で行ったカフェは、 造が必要だと思いました。特に、 そ の思いをさらに深めてくれました。 自立的な、 人々が出会う場、 それがう まく機能すれば、場があるだけで多様な関係性が派生し、多様な活 動が始まり、多様な問題に向かって行ける。多様性が維持される為 には多様な関係性がなければならい。多様な関係性をどのように創 るのか? 私にとっての「共有空間の獲得」 という事はこの様に始まり、 今に至っています。
Weekend café Project はその後、98 年にコミュニティカフェ 「Bazaar Café」へと発展し、 より社会に開いた場としての試みを続け、今現在も 様々な人の手により運営が継続しています。
Bazaar Cafe 制作風景
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小山田徹│Toru Koyamada
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新 たな関 係 性 の 回 路
1 銀月アパートメント12 号室:京都市左 京区にある古い洋館アパートの一室をゲス トルームに改装。宿泊を通じてのコミュニ
「Bazaar Café」のオープンに際し、セルフビルドで多くの人々と施工 をし、手作りで空間を作る経験をとおして、 自らが空間を作る喜びとそ の効能を発見し、以降、様々な空間を多くの人々と改装し新しい機能 を創り出す事が活動の中心になっていきました。人は、ペンキを一カ 所でも塗ると、 そこの空間に愛着を持ち、お客さんである関係性を超 えた繋がりを作りはじめます。関わり方の始まりの部分に様々に重要 なポイントを発見したのです。そして、過去の人々の生活の中で作ら れていた様々な習慣や制度や空間などが、実は新たな関係性の回 路作りに適合する中で形作られてきたのだと思うようになりました。食 事を作る事、様々な小規模な労働のあり方、住まい方、商売、祭り等
ティへの入口の創造を試みる。 │2 手遊び (てすさび) カフェ[宮城県・女川町] :京都市
立芸術大学の教員や学生と共に、手芸や
DIY など手仕事をしながら過ごすカフェを 運営。気軽に集り、会話の生まれるこうした 場が近隣コミュニティの関係を深めることに つながればと考えている。│ 3 共有アトリエ 「T-ROOM」│ 4 芸大小屋:京都市立 芸術大学の敷地内に授業の一貫として、 学生と共に小屋を施工。 ここを拠点にライブ ラリー、保存食づくり、 お弁当屋さんなど、学 生たちによる自発的な活動が様々に生まれ ている。 │5 洞窟の魅力にはまり、 「Com-
pass Caving Unit」 というグループを立ち 上げ、 洞窟探検と測量、 作図にいそしんでい
の中にある共同作業の意味。さらに、身の回りにある物で必要な物
る。 │ 6 麦味噌づくり:小山田家に伝わる自
を生み出す「ブリコラージュ」な能力。簡単に作れる場。様々な時代
家製の麦味噌づくりのワークショップを、一 般参加者も募って開催している。
の多くの先輩達によるこれらの発明は、現在の私達が失いつつある 何かを体現したものでした。保存食を作る事。共同作業小屋を持つ 事。市場を開く事。屋台を作る事。洋服を自分で作る事。家は自分 で直す事。保育を共同で行う事。野山で食材を採る事。歩く事。祭 りを主催する事。暗闇を恐れる事。星を見る事。気候を予測出来る 事。そして、火を焚ける事。思いつくままに取りあえず挙げたこれら少し の事だけでも、 それらに内在している他者との関係性の広がりは驚く べきものです。そして、 その殆どを現代の私達は失いつつあるのです。
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小山田徹│Toru Koyamada
スクエア[広場]
洋裁教室と喫茶をやっているパートナーとの生活が始まったのを機 会に、私は、 とりあえず、 それらの一つずつをやって見る事にしました。 親を招いて保存食(味噌や漬け物)を学ぶ会を始め、共同アトリエを 開設、セミプロ施工集団を始め、多くの知り合いの店を作り、共同保 育を試み、散歩をし、屋台をつくり、小規模ながら市場を開き、子供と 石や植物を採集し、洞窟探検をし、 そして、焚き火をしました。現代人 のヘナチョコな私は多くの方々に助けを乞いながらやるしかないので す。手探りで進める中、活動を通して人の関係の多様な広がりを実 感し、 喜びを確信しました。 その中のいくつかはプロジェクトとなり、 様々 な場で展開されています。 『共有の空間をつくる実験「ちっちゃい火」 [大阪大学豊中キャン を囲む(通称ちび火)』
焚 き火
パス浪高庭園]
特に、焚き火は最近の重要なプロジェクトとなっています。焚き火は世 界最古、最小、最強の共有空間だと最近では思っています。焚き火さ えあれば、様々な事が繋がると。3 .11の震災の際も、多くの人々が焚き 火で生き延びたと聞いています。震災直後から避難所生活の間も多 くの場所で焚き火が行われ、人々の復興の原動力になったと。 しかし、 仮設住宅での個別居住が始まると、焚き火は禁止行為になり、途端
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女川常夜灯「迎え火プロジェクト」 [宮城県・女川町]
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広場によせて
Research Journal Issue 01
小山田徹│Toru Koyamada
スクエア[広場]
に人々の意思疎通が悪くなったそうです。その様な声を聞き、宮城県 女川町で住民の方々と 「迎え火」のプロジェクトをはじめました。毎年
8月13日に一斉にそれぞれの家族が、 グループが、個人が小さな焚き 火を行う企画です。少しでも焚き火の風景と機会を残し、対話の数を 増やしたいとの思いです。 本当に焚き火は不思議です。見知らぬ人とでも焚き火を前にすると自 己紹介なしでもすぐに話し始めます。子供の勝手に遊びます。食べ物 もおいしく、 シエァーも当たり前に起こります。自立的な場がすぐに出来 る感じです。 どうやら大きな焚き火よりも複数の小さな焚き火の方が穏 やかに人々が集う事が出来るようです。 私は「共有空間の獲得」 という事をテーマに様々な試みを行って来ま したが、 ワークショップなどの企画イベントという枠では未だに居心地 が悪い感じなのです。出来れば古来の焚き火の様に、生活の中にし み込んだ出来事としての場の存在みたいな事が沢山出来ないかなと 思っています。私達一人一人の生活の中に多様な出来事が起こり、
女川常夜灯「迎え火プロジェクト」 [宮城県・女川町]
多様にそれらが繋がり、無理をせず喜びの交歓がなされる状況を創 り出したい。 その事が多様な価値観が保証される社会を作る事になる と思っているのです。美術はその為にあると。
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「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」
[キーワード] 広場 ダンス 演劇 パフォーマンス 東京 吾妻橋ダンスクロッシング
Research Journal Issue 01 スクエア[広場]
桜井圭介[吾妻橋ダンスクロッシング キュレーター] 聞き手:野村政之[アサヒ・アートスクエア運営委員/こまばアゴラ劇場・劇団青年団制作] 桜井圭介│ Keisuke Sakurai[音楽家/ダンス批評/ 吾妻橋ダンスクロッシング主宰]
1960 年生まれ。批評活動、そして吾妻橋ダンスクロッシング、清澄白河 SNAC のキュレーションを始め、 さまざまな方法でダンスにかかわり続ける。音楽家としても、遊園地再生事業団、ミクニヤナイハラ、ほう ほう堂、地点、砂連尾理+寺田みさこ等、舞台作品での協働も多い。著書に 『西麻布ダンス教室』 『ダンシ ング・オールナイト』。http://azumabashi-dx.net ─ 野村政之│Masashi Nomura[こまばアゴラ劇場・劇団青年団]
1978 年生まれ。劇団活動∼公共ホール勤務を経て、2007 年よりこまばアゴラ劇場・劇団青年団に在籍。 アサヒ・アートスクエア運営委員、桜美林大学非常勤講師、舞台芸術制作者オープンネットワーク事務局
Square [2009]、 などを務めるほか、若手演出家の舞台公演に様々な形で参加。主な参加作品:ままごと 『わが星』
[2010] (以上、 ドラマトゥルク) 、TPAM in Yokohama 蓮沼執太×山田亮太『タイム』 サンプル『自慢の息子』
[2012] (プロデュース) [2010]、岡崎藝術座 、平田オリザ+石黒浩研究室(大阪大学)ロボット版『森の奥』 『(飲め [2013] (以上、制作)など。 ない人のための) ブラックコーヒー』
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│I NTERVIEW│ 「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」 桜井圭介│Keisuke Sakurai × 野村政之│Masashi Nomura
Research Journal Issue 01 スクエア[広場]
この10 年間、 アサヒ・アートスクエアという 「広場」 を拠点に、 日本のパ フォーマンスシーンを牽引してきた「吾妻橋ダンスクロッシング」。あら ゆるジャンルの最先端パフォーマンスを “X( ”クロス) させるこの実験的 なイベントをキュレーションしてきた、桜井圭介さんが「これまでの 10 年とこれから」を、静かに、 そして熱く語った20000 字インタビュー。 [収録:アサヒ・アートスクエア ロングパーティー「フラムドールのある家」2013 年
8 月24日/テキスト+構成:野村政之]
─ 野村 ─ 吾妻橋ダンスクロッシング(吾妻橋 DX)は、2004 年 7 月
の初回から、先週 8 月 17 日の「吾妻橋ダンスクロッシング ファイナ ル!」 まで、10 年間に渡ってほぼ毎年、1 -2 回開催されました。毎回
8, 9 組のアーティストやグループが 10 -20 分のパフォーマンスを行う ショーケース型のイベントが 12 回、 単独公演や派生型のイベントも含 めると約 20 回開催して、私が集計してみたところではのべ 132 組が (小浜正寛) 参加。最多出場はボクデス の11 回、ほかにも康本雅子さ
ん、チェルフィッチュなど、 またダンスや演劇だけではなく、音楽家や 現代アートのアーティストまで幅広く、バラエティに富んだアーティスト が参加していました。先週の 「ファイナル!」では総集編というか普段 の2 回分のボリュームでしたね。
2 枚組コンピレーションアルバムっていう感じね。 桜井 ─そう、 野村 ─ DISC1、DISC2 で合計 19 組がパフォーマンスとインスタ
レーションを行って、 フードも合わせると20 組が参加して最後を飾りま した。終えて1 週間経ちますが、10 年間の吾妻橋 DX が終わった現 在のご感想としてはいかがですか? 桜井 ─まだ実感が湧いてきてないんですけど、 とりあえず、 「終わっ (笑) た……」 という感じですねぇ…… 疲れた
野村 ─ 毎回いつも終わったら 「出しきった」 みたいな感じなんですか? 桜井─いつも 「あそこはこうしておけばよかったな」 と、後悔とか反省
はけっこうありますよね。今回もいっぱいあるんだけども、いつもは 3 日 間 4 ステージくらいやるので期間中に微調整したりして消化するところ が、今回は初日が楽日で 1 日限りだったので「あれ?あっという間に 終わっちゃった!」ってね、 そういう感じはしてますね。 野村 ─ 今日は、終わったばかりのタイミングではありますが、10 年
間の吾妻橋 DX を振り返りながら、 いろいろなことをお話できればと思 います。
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│I NTERVIEW│ 「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」 桜井圭介│Keisuke Sakurai × 野村政之│Masashi Nomura
桜井 ─ はい、 よろしくお願いします。 野村 ─まず、 ざっくりした質問をいくつか用意してますのでそれを
お伺いしていきます。
Research Journal Issue 01 スクエア[広場]
[1]Chim ↑ Pom 『スーパー☆ラット』
Chim ↑ Pom は卯 城 竜太・林 靖高・エリ イ ・岡田将孝・稲岡求・水野俊紀の当時 20 代の 6 名 が、2005 年に東 京で 結 成した アーティスト集団。時代のリアルに反射神 経で反応し、現代社会に全力で介入した
1 0 年 間 でもっとも印 象 に残っているパフォーマンス
強い社会的メッセージを持つ作品を次々と (2006) 発表。 『スーパー☆ラット』 は渋谷セ
ンター街に生息するクマネズミを捕獲し剥
野村 ─ なかなか選びにくいとは思うんですが、 いかがでしょうか。 桜井 ─ 100 以上のパフォーマンスがあって、 どれも印象深いという
2007 年にやってもらっ 感じなんですけど。 あえて1 つ選ぶとするならば、
製化。 さらに黄色に染めシッポをギザギザ にすることで「リアル・ピカチュウ」 を捏造せ んとしたもの。 [2]チェルフィッチュ『クーラー』 演劇作家:岡田利規によって創作され、 「ト
た、Chim ↑ Pom の 『スーパー☆ラット』 っていう、例の「リアルピカ
ヨタ・コレオフラフィーアワード2005」 のファ
チュー」の作品[1 ]。 これはインスタレーションで……だからパフォー
イナリストに選出されたダンス作品。受賞と
マンスじゃないんですよ。 これは後の話にも出てくると思いますが、 「 『ダ
わいのない会話に付随する身体の動きから
ンスクロッシング』 といいながら、ダンスあんまりないよね」 とか「ダンス じゃないじゃん」 とかいうことを常に言われてきて、 そのこととも繋がるん
はならなかったものの、派遣社員 2 人のた 構成される本作を、 ダンス作品として評価 するかどうかが当時話題となった。
だけども、 この作品はそもそもパフォーミング・アーツじゃない、 ライブパ フォーマンスじゃないわけですよ。にもかかわらず、 やってもらってよかっ たし、 自分にとっても吾妻橋 DX 全体にとっても、重要な位置を占める ような作品だったなと思います。 野村 ─どういうところが、吾妻橋 DXというものとクロスしたと思って
らっしゃるんですか? 桜井 ─ 吾妻橋 DX には「グルーヴィーな身体」 をダンスだけじゃ
なくてあらゆる表現の中に見ていく、 という基本的なスタンスがあって。 そういう意味で、 とにかくこの 『スーパー☆ラット』 は「踊って」いる、っ ていうね。 「この表現は 『ダンス』 じゃん!」 って言ってもいいな、 と思っ たんですね。インスタレーションを吾妻橋 DXという公演の中でや るようになったのは Chim ↑ Pom のこの作品が最初だったんです よ。 この前まではインスタレーション展示ってことは無かったんです。
Chim ↑ Pom のこの展示をきっかけに、 インスタレーション展示を毎 回やってもらう、 ということになっていったんですね。 野村 ─ 吾妻橋 DXという企画自体にショックというか、転回をもた
らした作品だと。 桜井─ そうですね。 そう思う。
2 つ挙げるとどうですか。 野村 ─ あえてもう1 つ、
Chim↑Pom「スーパー☆ラット」展示風景
桜井 ─えーと、……チェルフィッチュにダンス作品として委嘱をし
2007 ©Chim ↑ Pom / Courtesy of
[2 ]の後に、 た 『ティッシュ』 という作品。 『クーラー』 その続編みたいな、
photo: *******
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MUJIN-TO Production, Tokyo
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│I NTERVIEW│ 「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」 桜井圭介│Keisuke Sakurai × 野村政之│Masashi Nomura
あの方法論でもう一つなにか、 ということでティッシュ配りの話なんです
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[3]コドモ身体
2000 年代前半のダンスに関する批評の
けどね。街角で武富士のティッシュを配る。その配る手付きがダンス
中で桜井圭介さんが多用したキーワード。
(笑) じゃん、 という 。
参考:桜井圭介「 『コドモ身体』 ということ」
野村 ─ なるほど。
kodomobody.html
http://www.t3 .rim.or.jp/~sakurah/
桜井─ そして、武富士といえば、 ジャズダンスの CM があるでしょ。
それで「私は今日はティッシュ配り担当で、私は踊り担当」みたいな どうでもいい話なんだけど(笑)、話のクダラナさと動きの挙動り具合で かなりグルーヴィなパフォーマンスになってると思いました。それから、 こ の 10 年間の後半は何度も参加してもらっていた飴屋法水さんに、最 初にお願いしてやってもらった 『顔に味噌』 という作品。いろいろな在日 外国人のひとたちをフィーチャリングした作品で、 これもすごくよかった ですね。 野村 ─ すごくいろんな種類の外国の人の自己紹介を交えたパ
フォーマンスでしたね。 桜井 ─ 「自分のことを語る」 ということ、 それと宮澤賢治の 『よだか
の星』 を絡めたパフォーマンスでした。プロの俳優ではない人や日本 語がちゃんと喋れない外国人によるパフォーマンスなんだけど、 そこに (ダンスにおける) は僕が吾妻橋を始めたころに盛んに言ってた 「コドモ [3] 身体」 と同質のものがあると思いました。
それから、 もう一つだけ。やっぱこれも全然ダンスじゃないんだけど、遠 藤一郎は後期吾妻橋 DX の重要なパフォーマーですね。美術家で ある遠藤くんのパフォーマンスは普段はライブ・ペインティングなんだ けど、吾妻橋 DX ではまずその武器を自分から手放しちゃう。 1年目は それでも壁に水で描いてたけど、3 年目の今年の3月の時はもう完全 に 「エア」で。そこにはほんとうに 「なにもない」のかもしれない。それくら い「徒手空拳」 そのもののようなパフォーマンスでした。いいのか悪い (笑) のか、 僕にも判断出来ない 。
出したかったけど出 せなかった! 野村 ─ 僕、今回このトークセッションに当たって、全ての吾妻橋
DX の参加アーティストを集計してみたり、桜井さんがパフォーマンス について書かれているテキストを読みなおしたりしてみたんですけど、 「この人、出ていてもいいのに出てないな?」 と思ったり、各回のライン ナップから感じられる “揺れ” が面白いなと感じたところがあったんで
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チェルフィッチュ 『ティッシュ』2005年
photo:石塚元太郎
飴屋法水『顔に味噌』2009年
photo:濱田良平
遠藤一郎『元気いっぱい』2010年
photo:横田徹
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す。だとしたら、 桜井さんが出したいと思ったけど、 結果的に出せなかっ たアーティストも居たんじゃないか、ぜひ聞いてみたいなと思ったんで すが。 桜井─まず、 オファーをしてすごく出てもらいたかったんだけど、 いろ
いろなタイミングとか先方の都合で残念ながら実現しなかった、 そうい うケースだと…金森穣さん[4 ]ですね。 野村 ─え !そうなんですね。 桜井 ─ 絶対こういう人が吾妻橋 DX に居るのがいいことだな、 と
思って、2005 年とかわりと早い時期にオファーしたんです。実現しな かった一番残念なアーティストですね。 野村 ─ そんなことがあったんですね…。
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[4]金森穣
10 代で渡欧し、スイス・ローザンヌのルード ラ・バレエ学校でモーリス・ベジャールに師 事。 その後、 ネザーランド・ダンス・シアターで ダンサーとして活躍。帰国後、2004 年から 新潟市民芸術文化会館「りゅーとぴあ」舞 踊部門芸術監督に就任し、国内唯一の公 立劇場専属舞踊団である 「Noism」 を設 立。新潟を拠点に国内外各地で活動を 行っている。 [5]手塚夏子
1996 年よりソロ活動を開始し、既存のテク ニックによらない独自のダンススタイルの追 求を続けている振付家・ダンサー。 代表作に 「私的解剖実験」シリーズ(2001 年─)など がある。
(新 桜井─ちょうど金森さんが日本に帰ってきて、新潟のりゅーとぴあ 潟市民芸術文化会館) の芸術監督(舞踊部門)になった頃で。僕らが吾
妻橋を中心としてやろうとしていた、 日本型コンテンポラリーダンスとは 全く違う、 ヨーロッパの正統的な/グローバル・スタンダードな最先端 の表現ということをやってきた人が、 日本に帰ってきて活動を始めた、 と。だから水と油みたいなものなんだけれど、 あのころ金森さんの方も 黒田育世に作品を委嘱することを始めてたので、 こういうのがミックス するというか、出逢うことが日本のダンスシーンにとって絶対的に重要 だと思ったんですね。振り返ってみると非常に残念だったなと。 野村 ─もし金森さんが出てたら、僕自身としては吾妻橋 DX のイ
メージ、 色合いが変わるなと思いますね。 桜井─うん、 「合流する」 ということがあったらよかったな、 と思います
ね。金森さんのほうもその後「我が道を行く」 という感じになっていくの で、 「もしそういうことが起こってたら」ていう 「歴史の if」 じゃないですけ ど、 そんなことを思いますね。 野村 ─まさに 「歴史の if」ですね……。ほかにはどうですか。 桜井 ─ 自分の問題として、吾妻橋 DX をこういうショーケースの
フォーマットにしちゃったので、なかなかこのフォーマットの中にはうまく はめられない、僕がお呼びして 「自信が持てない」 と思った人が何人 かいて、 一番その中で大きな存在としては、 手塚夏子[5]ですね。 野村 ─ はい、 そうですよね。 桜井─ 手塚夏子のような表現がダンスシーンのなかで非常に重
要だということは間違いないんだけども、 その表現をこの並びのなかに 入れていくということの自信がいつもなくて。
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野村 ─ 桜井さんの自信がなかったということなんですか? 桜井─ そう。 うまくはめられる自信があって、 アーティストのほうもこの
フォーマットに入ってくることにちゃんと価値を見いだせるようなプログラ ミングができればいいんだけれども、 それができなかった。僕も一度、 「やってみるか」 っていうことにして、本人もやるといったんだけれども、 そ の後話し合いをするなかで「やっぱりやめる」 ってなったことがあって。
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[6]神村恵
2000 年よりオランダに滞 在、帰 国 後の 2004 年よりソロ活動、2006 年より 「神村恵 カンパニー」 としても活動を行っている振付 家・ダンサー。 [7]SNAC
Chim ↑ Pom など作家のマネジメントの ほか幅広い活動を行っている 「無人島プロ ダクション」 と 「吾妻橋ダンスクロッシング」
それはやっぱり僕が「いつもと違うアプローチでやるべきだ」 と手塚に
が共同でプロデュースする小規模なアート
言って、 そこは手塚も同意したんだけれども、 「どういうアプローチがい
スペース。展示やトークセッションのほか、 ダ
いのか」 というところで、 非常に大雑把に言ってしまうと 「もっとPOP にや
ンスや演劇の公演も行われている。http://
snac.in/
ろうよ」みたいにオーダーしたのね。 「やっていることは同じなんだけれ ども、POP にコーティングする」 というか「見え方を POP に」 というよう なことを言った段階で、 「あー、やっぱ無理!」 という感じになっちゃったと いうね…。 野村 ─ 手塚夏子さんのダンスというのは、 とても吾妻橋的な部分
を持っていると思うので、 「何で出なかったんだろうな」 と思ったし、 いま のお話は、本質的に 「吾妻橋 DXとは何なのか」 ということに関わって いるような感じがしますね。 桜井 ─ ほんとうにそう。あとは神村恵[6]。神村さんもうまい具合に
プログラムできないな、 と思って。まあ清澄白河で SNAC[7]始めた のも、 そういう部分を補完したいと思ったから、 というのもあるんですね。 吾妻橋では出来ないアプローチを実験する場所という、ね。神村さん のソロもシリーズで継続中だし。 野村 ─ ちなみに、吾妻橋 DX では、基本的に桜井さんの側のサ
ジェスチョンがあって、 それを受けてアーティストがやる、 という形で続 いてきたということなんでしょうか? 桜井─ 全ての人にそういうふうにしたというわけではないんだけれど
も、なるべくそういう関わり合いのなかで参加してもらいたいというのは ありましたね。特に、 自分にとって大事な人ほど自分が二の足を踏むと いうことは、 けっこうあったかもしれないですね。 「ここに出るということが、 逆にマイナスになっちゃうということがあるのは嫌だな」 とは、 いつも思っ ていましたね。
一 番 大 変 だったのは × × 年 桜井─ 10 年やったんですけども、後半に行くに従ってどんどん苦
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しくなっていった感じで。だから、2007 年の 3 月に前半の総決算みた いな感じで「The Very Best of AZUMABASHI」 という公演をやっ たんですけども、なぜその時にベスト盤みたいなものを作ろうと思った かというと、だんだんこの後やばくなっていくというふうな予感があって、 「今までのなかのものをもう一回ちゃんと見せたい」 「充実した時間の 果実をそこで一回やりたい」 というふうになった。 これの後がどんどん 大変になっていったという感じはありますね。 野村 ─ 「苦しくなるな」 という予感、 というのはどういうところから出て
きたんですか? 桜井 ─それは、 僕の個人的な問題でもあるんだけれども、段々と自
分がいいと思うダンスが……。2004 年のときは、 ジャンルとしてもちゃ んとダンスの人がラインナップされていて、 そのなかにダンスじゃない表 現も混ぜていく、 ということだったんだけど、 ある時からダンス以外のパ フォーマンスのほうが面白くなってきちゃって。自分的には、 ダンスをもっ と面白くラインナップしたいと思っていたんだけれども、 それがうまくでき ない感じがしてきて……、ぶっちゃけダンスが面白くなくなってきちゃった という、 ある意味非常に個人的な問題が出てきたということですね。 僕は、ダンスは好きなので、 ジャンルとして大事なので、 そのダンスが 「こんなに面白いんですよ」 ということが言いたいんだけれども、 それ が言えるような感じじゃなくなってきちゃった、 という。 野村 ─ それがラインナップにも現れているんですね。 「ダンスだ
け」から 「ダンスに他のジャンルの表現も加える」になって、 そして 「い ろんな表現があってそのなかにダンスがある」になる、 という流れが、
10 年間のなかにあったと。 桜井 ─ だって、 なんで吾妻橋 DX を始めたのかといえば、2004 年
当時、 「今ダンスがすごく面白いからガーッと打ち出していきたい」 と思っ たから、 なんですね。その上で「ダンスが他のいろんな表現と接続可 能であるということも証明したい」 と思った。 そういうことなんですよね。
2 0 0 4 年=吾 妻 橋 D X の 始まり 野村 ─ここからはいくつかの年で切って、 時系列に沿ってそれぞれ
のタイミングで振り返っていきたいと思うんですけれども。今少しお話が
2004 年の 7 月に、最初の吾妻橋 DX が開催される ありましたが、 まず、 わけですが、 その時に考えていたのはどんなことだったんでしょうか。
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桜井─ ほんとに、 これはまさに今、 日本の新しいダンスが雨後の筍
のように出てきて、 それがすごく新しい、面白いと思った。自分がダンス を見始めてからそれまでのことを考えても、 こんなに面白くなっているこ とはなかった、 というくらい面白かったので、 「閉じたところではなくもっと いろんなところに開かれた形で見せていきたいな」 というふうに思った んですね。だから、 自分の何かをするということではなくて、 そこに在る 人達を広く見せたい、 ということだったんです。 野村 ─ 僕の個人的な話をすると、2004 年というと、演劇やりながら
絶望のどん底に居たというか、 「今このときに演劇やってるって何がある んだろう?」 というような焦燥感があったときで、一方で「ダンスのほうは どうも盛り上がっているっぽいぞ」 と。まだそのときは僕自身、演劇とダ ンスを別のものだと分けて考えていたので、 ダンスに注目していくという
「吾妻橋ダンスクロッシング 2004」 フライヤー
「The Very Best of AZUMABASHI」 フライヤー
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こともなかったわけですけど。
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[8]ウィリアム・フォーサイス
1949 年アメリカ生まれ。フランクフルト・バ
と同時に、2004 年はチェルフィッチュが『三月の 5 日間』 を発表した
レエ団芸術監督を務めた後、 ザ・フォーサイ
年で、 ここからある意味「演劇の新しい時代が始まった」 という認識
ス・カンパニーを結成。 ドイツ・ ドレスデンを
があって。それが後から知っていくと、チェルフィッチュは 2000 年代
ダンスの先導的振付家の一人。
始めのコンテンポラリーダンスの豊かさというものをすごく吸収して、 それを自分たちの作品として結実していたんだな、 ということがあるわ けですよね。 僕自身はその時代のダンスに実際立ち会っていなくて、 よく知らな いんですけど「コンテンポラリーダンスのシーンがかつてなく面白 かった」 ということは桜井さんの目から見てどういうふうなことだったん ですか? 桜井─ それは、 「90 年代の日本のダンスがどうだったか」 ということ
拠点に世界的に活躍するコンテンポラリー [9]ローザス
1983 年結成。振付家のアンヌ・テレサ・ ドゥ・ ケースマイケルが芸術監督を務めるベル ギーを代表するダンスカンパニー。 [10]Nibroll
1997年結成。振付家・矢内原美邦を中心 に、映像作家、音楽家、美術作家とともに、 舞台作品を発表するダンス・カンパニー。 吾妻橋 DX には、矢内原と映像作家・高橋 啓祐による美術ユニット 「Off-nibroll」で の参加と合わせて4 回参加している。
との比較で考えると、基本的に 「欧米のダンスをある種フォロー/模 倣していく」 というようなスタンスが強かったわけです。 もちろんコンテ ンポラリーダンスは同時代ダンスなので、共有する部分もあると思う んだけれども、 基本的には、 客観的に見るとまず、 フォーサイス[8] とか、 ローザス[9] とか、 そういう画期的な欧米のダンスというものがあって、 そこに追いついていく、っていうふうな感じだったと思うんですよね。 ところが 2000 年代になって出てきたことというのは、そういうある種の ワールド・スタンダードとか欧米的なダンスの概念からはみ出していく ような、 まったく独自の方法でダンスというものが沸き起こっていった、 と いう感じがして。それは自分でもびっくりしたし、 「そうか、 こういうやり方 をすれば日本の新しいダンスというものが出てくるんだな」 というふうに 思ったんですよね。 野村 ─ 桜井さんが日本の新しいコンテンポラリーダンスとの出逢
いというといつぐらい、例えばどんな人によって目を開かれたということに なるんですか? 桜井 ─それはもうやっぱりNibroll[10 ]です!2000 年頃。いきなり
出てきて、 アッと驚いたという。 野村 ─ それで日本のコンテンポラリーダンスを見ていったら、続々
と新しい表現、 面白い切り口が見えてきたということですか。 桜井 ─ 2004 年の時点で、 ものすごく豊かな、豊穣な感じになって
るなと思ったんですね。それで、 もちろん僕の中では、 その中にチェル フィッチュも入っているんです。 野村 ─ なるほど。 「吾妻橋ダンスクロッシング ファイナル!」のチラ
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Nibroll(矢内原美邦) 『チョコレート』 2004 年 photo:横田徹
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シのテキストに沿わせると、 その頃のダンスは「なんじゃこりゃ?こんな の見たこと無い」 という表現、 ということですよね。僕の印象では、 ファイ ナルの今回まで、 この「なんじゃこりゃ?こんなの見たこと無い」 というとこ
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[11 ]小沢康夫 コンテンポラリーダンス、現代美術、現代 演劇、 メディアアート、音楽など既存のジャ ンルにとらわれない独自の視点で企画プ ロデュースを行うプロデューサー。日本パ
ろに関して、吾妻橋 DX のキュレーションは一貫してこだわっている、 と
フォーマンス /アート研究所代表。
いう感じがします。 それが、 今は「ダンス」 という領域を超えちゃっている
[12 ]CINRA のインタビュー 原宿
というわけですね。 桜井─ そう。必ずしもダンスではない。 野村 ─ でも2004 年の頃は、 ダンスということのなかではあったとい
「ラフォーレ原宿でパフォーマンスの祭典 (2012 /12 /13) 小沢康夫×桜井圭介対談」
h t t p : / / w w w. c i n r a . n e t / interview/2012 /12 /13 /000000 .php
うことなんですね。 桜井 ─ そう。だから自分のなかでも、 いろんな表現があるなかで
「今ダンス来てるじゃない?」 「今はダンスでしょ」 というふうに思ってた んですね。
2 0 0 7 年 =「 T h e Ve r y B e s t o f A Z U M A B A S H I 」と 「HARAJUKU PERFORMANCE +」
3月に「The Very Best of AZUMA野村 ─ 次は2007 年ですが、 BASHI」が開催されて、12 月に第 1 回目の「HARAJUKU PERFORMANCE + 」が桜井さんのキュレーションで開催されていま す。2005, 6 年は年に2 回吾妻橋 DX が開催されてるんですけども、
2007 年はこの内の1 回が原宿で開催されたというような感じで、現在 「HARAJUKU PERFORMANCE +」は小沢康夫さん[11 ]がキュ レーションをされていますが、 第 1 回目は桜井さんだった。
CINRA.NET に掲載されている対談[12 ]で、小沢さんが、 このとき桜 井さんに「吾妻橋 DX に対して原宿っぽいものをやってくれないか、 と 依頼した」 という話と 「吾妻橋が『 X 』だから、原宿は 『+』でいいじゃ ないか、 という話があってこういう名前になった」 という逸話を語られて いました。あと先ほどの Chim ↑ Pom のインスタレーションのことも含 めて、 この年がすごく転機になっていくタイミングなんですよね。 桜井 ─ そう思いますね。2004 年からの吾 妻 橋 DXというのは
2000 年の始めからの流れでやっていて、2000 年代前半にものすご い勢いでコンテンポラリーダンスがそれなりの成果をおさめたと思う んだけれども、 その後ですよね…。 野村 ─ ちなみにこのとき、 「原宿っぽいもの」 と 「吾妻橋っぽいもの」
というのは桜井さんの中ではあったんですか?
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「HARAJUKU PERFORMANCE+」 フライヤー
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桜井 ─(笑) それはなくて、 自分のなかではある種、派生していくとい
うか。僕、地名でタイトルつけるの好きなわけですよ。 『 西麻布ダンス [13 ] 教室』 とかね。 これはラフォーレ原宿が会場なので、ふつうに 「原
宿ダンスクロッシング」でもよかったわけだけれども、 ラフォーレのほ
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[13] 『西麻布ダンス教室』 桜 井 圭 介/押 切 伸 一/いとうせいこう著 (1994 年刊) 。欧米の先進的なダンス∼日
本の舞踏までさまざまなダンスの見方を提 示する、 桜井圭介さんの講義をまとめた本。
うが同じ名前だとちょっと……ということだったので、 「HARAJUKU
PERFORMANCE +」 とつけた。でも基本的には「吾妻橋的なるも の」 をいろんなところに広げていく、 という気持ちだったですね。 た だ、今 から 振り返 ると 「 ダ ン スクロッシ ン グ」じゃなくて 「PERFORMANCE +」にしたというのは、やはりもうその時にすでに 「ダンスだけだと賄えない」 という自覚はあったのかもしれない。 野村 ─ ……なるほど! 桜井 ─このときに、 ダンスが 6 割のダンス以外のパフォーマンスが
4 割くらいになったと思うし。 野村 ─ そうかそうか。 「パフォーマンス」 というふうにするともっと
広く…… 桜井─もっと広がりがある。 野村 ─ そうですね。演劇も入るし、 パフォーマンスアートも入るし、 サ
ウンドアートも入るかもしれないという。 桜井 ─「HARAJUKU PERFORMANCE +」 やったら逆にフィー
ドバックして吾妻橋も 「AZUMABASHI PERFORMANCE +」に 変えちゃってもいいかなと思ったりもしたんだけど(笑) 野村 ─ たしかに、2008 年以降、実態としてはそうだったかもしれな
い。……皮肉なもんですね。要は 2009, 10 年の吾妻橋 DX に添え て桜井さんが書いたり言ったりされているものを読むと、 「ダンス」 って いうことにものすごく縛られていくというか、悩んでいて、2009 年吾妻橋
DX のチラシでは「ダンス」のところに罰点がうってある。 (笑) 桜井─ そう。 それは……、 そうでした
野村 ─ そういう悩みに陥っていくというタイミング。 桜井─ そうですね。 野村 ─この頃、ダンスシーンの状況というのをどう認識されてた
んですか? たとえば「ファイナル」のちらしに書かれているテキストだと 「いわゆる定型に陥っていった」 と書かれているんですが。 桜井 ─えーと…… 2000 年代前半のダンスに対する僕の理解で
は、 とにかく 「『いわゆるダンス』 というものからダンス自体が限りなく逸 脱していくことによってダンスが更新されていく」 というふうな好循環が
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あったと思っています。つまり、 「いわゆるダンス」 というか、人が「こうい うものがダンスだろう」 と見ているような表現、様式、 スタイルから 「逸 脱していく」 ということを引き受けながらダンスを更新していく、 ということ があったと思うんですよね。それが段々と 「ダンスってダンスだよね」
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[14 ] トヨタ・コレオグラフィーアワード 若手振付家の登竜門といえるアワード。公 募からファイナリストに選出された数組が、 一般公開の最終審査会で作品を上演し、 (グランプリ) 「次代を担う振付家賞」 と 「オー
ディエンス賞」が決定される。
みたいなトートロジーというか、 「こんなことやってたらダンスじゃなくなる よ」 っていうことで、 「ちゃんと踊ろうよ」 ということになっていった、 というよう な僕の印象があるのね。 「普通のダンスでちゃんと踊るというのが大 事です」 ということになっていった印象ですね。それは僕はあまり賛同 できないと。そうじゃないでしょ、 と。 だからスタイルとしてのダンスということに固執していくと、 そうなっていく のかなぁと。それはある種の復古主義というか反動というか、 そういう感 じがすごくしたんですよ。 野村 ─ 僕も2000 年代後半、 この頃になると演劇を中心にして、 ダ
ンスもちらちら見ていました。印象としてですが、 ある種の「ダンスとは 何か」シンドロームにかかっちゃって考え過ぎちゃってる感じのものと、 「ダンスってこういうものですよね」 というのに分かれていて、例えば突 出して 「ダンス」から逸脱していたとしても、 それを受け取れないというよ うなことがあったと思ってるんです。 「ダンスとは何か」を通って、逸脱していくことは大事なんだろうと思う んですけど、桜井さん的にはどういうものをもっとも 「ダンス的」だと考え ていたんですか? 桜井 ─「ダンス」 と言うならば、 そこには「グルーヴ」がないといけな
いな、 とは思うのね。つまり当時「踊らないダンス」 ということで「頭でっ かちだ」 という批判が起こって、たしかにその批判には一理あるんだけ れども、 そこに 「グルーヴ」 さえあれば、 「ダンスだ」 っていうふうに言える というところはあると思う。そこのところは非常に難しいね。 「ダンスのこと を考えるダンス」 「メタダンス」は重要だと思う。ただ、 そこにグルーヴ がないと 「ああ、頭でっかちなダンスね」 ということになってしまうと思うん ですよ。 野村 ─このあたりの話と関連して思い浮かぶのが「トヨタ・コレオ [14 ] グラフィーアワード」 の推移のことなんですが、2002 年から2006
年まで毎年開催だったアワードが、2007 年に 1 年休みがあって、
2008 年からは 2 年に一回の開催になり、審査の方向性も変わってい きます。ダンスの状況として関連が強くあるんだろうと思うんですが、 ど うですか。
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桜井 ─これは色んな場所で何度も言ってることですが、2005 年
に 『クーラー』で岡田利規がファイナリストにノミネートされましたが、 受賞には到らなかった。 もし、 トヨタアワードが彼にグランプリを出し ていたら日本のダンス・シーンは今とは違う状況になっていたと思う わけです。僕から見ると、 それまでなんだかんだ言ってもダンスシー ンを牽引していく役割を担っていたトヨタアワードが決定的に日和っ たということですね。 トヨタアワードは「 2000 年代の日本独自のダン スの勃興の最大の果実であるチェルフィッチュ」を選ばない、 という 選択をしたんです。
2 0 1 1 年 = 震 災をどう受 け 止めたか 野村 ─ 次は 2011 年。 「この10 年間」 という意味でここは聞いてお
きたいと思いました。 震災が起きて、僕自身も自分の活動を反芻するタイミングにならざる を得なかったし、実際、住む場所を変えたり、 というようなリアクション を起こしたアーティストも居た中で、桜井さん自身は吾妻橋 DX、ない しはご自身のアートに対する考え方として、 どういうふうに受け止めて、 吾妻橋 DX でどういうふうに表現されたんでしょうか。 桜井 ─ 2011年の地震が起こった時に、公演の予定は決まってた
んですね。地震が起こった後に 「やるのか?」 「やるべきなのか?」 という ことは考えましたね。それで「震災の後にやるとしたらどういうふうなこと ができるのか」 ということは考えたんですよ。 当時のパブリシティの中で文章にも書きましたけど、 まず自分自身が、 震災の後の表現の可能性と不可能性みたいなことはすごく考えて。 僕も音楽をつくっているし、 自分自身が表現者の端くれであるという気 持ちはあるので、 そういうときに何ができるかということは考えました。そ れで、表現者としての自分というのはそのとき、 「震災とか原発事故に 対する応答というのは出来ない。ちょっと無理」 と思ったんですよ。夏 の TPAM in 横浜のサマーセッションのときに宮沢章夫さんと三田格 さんのトークのモデレーターをやったんですけれども、 それを企画した 時思ったのは、 自分が今外に向かって意識的に行なっていること、 つま り 「表現」 として、何をしてるのかと考えたら基本的には「デモに行く」 と いうことだなと。 とにかく 「デモに行く」 ということが自分にとってすごく大 事な行為だったんですよね。だから 「〈表現〉 としてのデモ」 というセッ
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ションをやったんです。つまり、 アーティストが何ができるか、 といった ら、デモに行ったりとか、被災地にボランティアに行ったりとか、普通の 人と同じ条件でやる、 そういうことしかないんじゃないの?というくらいに 思ったんです。 それで、吾妻橋 DX を 2011 年にやるのかやらないのか、 どういう表現 が可能かとかいろいろ考えて、 その結果として、殊更に反原発とかそう いうような批評的なスタンスの公演としてやるとか、 そのためにそういう 表現をする人たちを集めてやる、 ということはしたくなかったんです。 「い つもの吾妻橋/ 2011 年の震災の前の吾妻橋 DX で、 自分がここで やっていることは何なのか/自分が観たいパフォーマンスが何なのか」 ということを今一度見直そうと。 加えて、震災後の世の中の「空気」 というものを考えた時に、僕が一 番嫌だったのはなんだったかというと、 自粛とか、ふざけたことをしたり することを戒めるような同調圧力があったこと。つまり、 「こういうときに歌 舞音曲は不謹慎である」 というような空気がありましたよね。それは昭 和天皇が崩御したときもそうだった。 「こういう非常時にふざけたことを やってるとは何事か」 というような空気があったんです。 もうとにかくテ レビつけてもテレビ東京だけがふざけたことをやっている、他はみん な同じという。だから、 そういう空気に対する違和感というのは自分に とって大事で、やっぱりふざけたくなっちゃう。それはある種の心と体の 反動だと思うんですけど、 「こういうときだからふざけたい」 というふうに 思ったんですね。それで「じゃあ、いつもの吾妻橋 DX でやればいい んだ」 と思ってプログラムを組みましたし、実際「吾妻橋的な人がライ ンナップされたなぁ」 と思ったんですよ。 ……ところが、蓋を明けてみると、 いわゆる震災後の日本人の様々な 症例や症候としてのパフォーマンスが出てきた。 「こんなことになると思 わなかった」 というような……やっぱり2011 年ならではのパフォーマ ンスがすごくありましたよね。 その中の一番大きなものは、□□□の三浦康嗣くんの「スカイツリー 合唱団」 というのがあって、 野村 ─ 僕はそれに出演していました。 ) 桜井 ─そうだった。普通のきれいな合唱曲(『合唱曲 スカイツリー』
を彼が作ってきて。 「ダンスクロッシングの中に合唱かよ」 というのはま あいいんですよ。それは全然どうでもよくて、要は、 そのきれいな歌の 内容が、 「放射線の雨が降る」 っていう非常に辛い歌詞で。僕はやっ
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てもらってもよかったと思ってるけど、 「こういうものが出てきちゃったよ」 と。賛否両論だったけれども。 野村 ─ なるほど。桜井さんの意図とは別に、 そういう、震災のものを
受け取った表現が作品としては出てきちゃった、 と。 桜井 ─そうそう。 野村 ─ ベクトルがあっちゃこっちゃいってるようなそういう感じの公演
「吾妻橋ダンスクロッシング 2011」 フライヤー
になったと。 桜井 ─そう。 野村 ─ちなみに、三浦康嗣さんの 『合唱曲 スカイツリー』 には、僕
は企画段階から相談にのっていました。主に僕が提案したのは「舞 台上で合唱する」と 「三浦さんは作詞・作曲をする」 というところです ね。 それでしばらく何にも連絡がなくて、 本番があと10 日くらいになった ときに突然、 「練習やります」 ということで連絡がきて、行ってみたらその 「放射線の雨が降る」 という歌詞の歌だった。 「放射線」 というのは、単に原子力のそれというだけではなくて、 「放射 線/環状線」 という東京の都市の道路の構造みたいなことでもあるん ですけど。 桜井─ あと、2010 年に 「車 AB」 という三浦くんと快快の篠田千明
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スカイツリー合唱団 2011年
photo:聡明堂
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のユニットがやった 『スカイツリー』 という作品があって、 それのスピン オフという意味もあった。 野村 ─ たしかその 「1 年の時間の経過を出したい」みたいなこと
は三浦さんの意志にあったと思いますけどね。だから、僕は曲と歌詞 を知って、合唱団で十数人が出演するというときに 「それぞれの人が この歌詞を歌うっていうのが納得できるのかな?」 という不安みたいな ものが、最後まで、 あったといえばありました。桜井さんのキュレーショ ンと各アーティストの作品の関係と同じで、 「三浦さんはそういう曲を 書いたけど、 じゃあみんな歌うの?」 というジレンマは、2011 年のそれ だなと思う。 桜井 ─ 基本的には自分がすべてをコントロールするつもりでやっ
ているわけではないので、いつでもそういうことは起こるんだけれども、 ほんとに思ってもみない形でポロっと出てきちゃったなぁ、 という感じで。 自分でもそれをどういうふうに評価していいのかということが未だにわ からない。その後、三浦くんがスカイツリー合唱団をよそでやるときに 行って、 自分も合唱団の一員になって歌ったりしたけれども、 自分でも 咀嚼できないくらいのもので、いいとか悪いとかではなく、出るべくして 出てきた表現だなと思いますね。
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車 AB(三浦康嗣×篠田千明) 『スカイツリー』2010 年 photo:横田徹
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「グ ルーヴィーな身 体 」 「 最 先 端の表 現 」 野村 ─ 続いて別の角度から、吾妻橋 DX のキュレーションについ
て考えてみたいと思います。吾妻橋 DX のほぼすべてのチラシ、パブ リシティのキャッチコピーとして毎回「グルーヴィーな身体」 と 「最先端 の表現」 というワードが打ち出されていて、先ほども 「ダンスにはグルー ヴがなければ」 ということを仰っていました。 この 2 つのキーワードにつ いて、吾妻橋 DX が終結した今の時点からから見返してみて、桜井さ んがどう語られるのか、 というのを聞いてみたいんですけど。 桜井 ─「グルーヴィーな身体」 の「グルーヴィーである」 ということは、
ふつうにリテラル(字義通り)に 「生き生きとした身体」あるいは「血沸き 肉踊る身体」 「ノリノリの身体」 とか、 そういうことでいいと思うんですけ れども。ある種の motion が emotion を引き起こす、 そういうものとし ての身体ということは「ダンス」 というからには手放せない、 ということで すね。そして、 そういうものはダンスだけではなくて、舞台表現/身体を 使った表現にはあって、 そこを観たいということです。 野村 ─「パフォーマーの motion が、オーディエンスの emotion
を引き起こす」 ということですね。 桜井 ─そうですそうです。 それをなるべく拡大解釈してきた、 というと
ころはあります。先ほども言ったけど、ジャンルとしてのダンスというのは 自分にとっては大事なんだけど、 それ以上に大事なのは、 「ダンス的 な表現、 ダンス的な身体というものがあらゆるところにあるんだ」 というと ころですね。 野村 ─「ダンス的」 というのと 「グルーヴィー」 というのは同じこと、 と。 桜井 ─そうです。で、 これは「音楽的な身体」 という言い方もできま
す。自分の中ではそのへん全部イコールで繋がってるんですけども。 野村 ─それと 「逸脱」 ということがすごく繋がってるのかなと思い
ますが。 桜井 ─ 音楽用語で言うと、 「グルーヴ」 とは何か、 ということは厳密
に言える。つまり、 まずビートとかカウントがありますよね。そこに規則正 しく正確に刻まれていくものがあって、 その上にメロディとかフレーズが 乗っていて、 これが突っ込んだり、 もたったり、 とか揺れるでしょ。 ここにグ ルーヴが生まれる、 とそういうことなんですね。 野村 ─ 突っ込んだり、 もたったりして 「よい」、 ということですね。 桜井 ─ はい。音楽もそれによって成り立ってると思ってるから。規則
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正しくではなくて、 規則正しいビートの上に、 いろいろなうねりがある。 野村 ─ だから、 「ふざけてもいい」みたいなことですよね。 桜井 ─うん、 「ふざけてもいい」。軍隊行進曲ではないので。規則
正しく歩くための音楽ではないので。 野村 ─ なるほど。 「吾妻橋ダンスクロッシング ファイナル!」 のチラ
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[15 ]風営法の問題
1948年に売買春防止の目的で制定された (風俗営業等の規制及び業務の適正 風営法 化等に関する法律) を根拠に、 クラブやライブ
ハウスなどにおけるダンスを規制する動きが
s Dance 署名 近年高まっている。詳細:Let’ 推進委員会 http://www.letsdance.jp/
シ裏面にある木村覚さんのテキストが非常に内容が濃くて興味深 かったんですけど、 タイトルにも 「ふざけることの不可能性」 と書いてあ るように、 「ふざけられること」みたいなことが桜井さんにとっては非常に 重要なんだなと感じています。 (笑)。 桜井 ─はい、ふざけられなかったら生きている意味が無い あ
まりにも窮屈でそれは無理、 ということですね。 野村 ─その表明がダンスとしてできればいいのではないか、 という
ことですね。 桜井 ─うん。だから今、風営法の問題[15]がありますよね。ダンス
を自由に、 いつでもどこでも踊る自由というのは絶対必要だし、学校で 教えられてやるようなものじゃないんですよ。だから僕は、風営法の話 と、学校の体育教育の中でダンスが組み込まれていくというのが、表 裏一体のセットになっていると思っていて、 そういうのはちょっと許しがた いんです。 野村 ─ ……で、 「最先端の表現」 ということなんですけれども。僕
の認識だと、 この10 年間、表現が多様化していった結果、 「最先端」 というような言い方がだんだん難しくなっているような印象があるんで すけど、 どうですか。 桜井 ─これもね、 こんなものはただのキャッチコピーだと思ってもらっ
てもいいんだけれども、 自分の話でいうと、 「深い表現」 というものにプラ イオリティを置くか、 「見たこともないものに出逢いたい」 ということにプラ イオリティを置くか。 どっちも大事なんだけれども、 自分にとってどっちが 大事かっていうと、 「見たこともないもの」を観たいんだよね。何か深め ていくとか円熟していくとか、自分が見つけた方法を極めていくことの 大事さというのはもちろんあるんだけれども、 それよりも日々新鮮な気持 ちで生きていきたいな、 というのが強いんです。 野村 ─ ……ということは「見たことない」 = 「 最先端」 ということなん
ですか。 桜井 ─そういうことです。そして、 そういうことは、古びていくとか、消
費されてしまうということはもちろんあるんだけれども、でも、 そのとき輝い
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ているものはそこにあるだろう、 というふうなことなんですね。 野村 ─ 先ほどの手塚夏子さんの話とちょっと交差したかな、 と思っ
たんですけど。手塚さんの表現って、何がしかの意味で非常に深め られたものだというふうにも見れると思うんですけど、 それをそのままや るんではなくて、 それに対して 「吾妻橋ではもうちょっとPOP に」 という、 言ってしまえば乱暴なオーダーを出して、 (笑) 桜井 ─ ふふふ、 そうそう
野村 ─「見たことがないものとして、 そのパフォーマーの良さが表出
しないかな」 というようなトライを桜井さんが仕掛けたいんだな、 という ことで。 桜井 ─ 要するに、 いろんなことを極めていこうとするとデリケートに
なっていく。繊細なところに入っていって、 ちょっとしたことで良さが損な われていく、 という危険性がありますよね。それでいうと、吾妻橋 DX の ようなフォーマットというのは乱暴ですから、 そういうパフォーマンスには そぐわないのかもしれないとは思うよね。でも、 その乱暴なフォーマットと か雑な環境のなかでもできる強度、 というのは必要だとは思っていま す。 「繊細さ=ひ弱さ」 ということではよくないのではないかと。 「 ガラパゴ ス」と「 国 際 性 」 野村 ─ 先の CINRA.NET でのインタビューのなかで、桜井さん
が「日本のガラパゴス性が面白いんだ」 ということを仰っていて、国際 的なアーティストが評価されたり、 フェスティバル /トーキョーが始まっ たり、国際的なプラットホームが増えているなかで、 「ガラパゴスがい い」 という断言はすごくユニークだなと思ったんです。 桜井 ─「ガラパゴス」 ってどういうことかというと、 「他のところでは見
られないようなヘンな形でいろんなものが繁茂していく」 ということです よね。理想をいえばそういうふうな形で、 グローバル・スタンダードとか にとらわれないで勝手にいろんなことをやってる面白いものが出てきて、 それを他の国の人たちが見て、 「面白い!」 ということで国際的に流通 していくということがあれば、 それが一番面白いと思います。 「向こうの フォーマットに合わせたんで、 これ売れるんじゃないですか」 というのは あまりよくないな、 ということですね。 野村 ─そういうことなんですよね。そもそも僕が疑問をもったのは
「ガラパゴスなものが面白い」 と言いながら、チェルフィッチュにしろ、
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contact Gonzo にしろ、吾妻橋 DX でピックアップされたものが海外 でも上演機会があるということになっている点だったんですが。 桜井 ─それはすごくよかったですよ。向こうに合わせたわけではな
いものが、 出て行って評価されるというのが、 やっぱりいいですよ。 この 1 0 年 間 で 変 化したこと変 化しなかったこと 桜井 ─ 自分に関しては「ダンスを盛り上げていく」 というような気
持ちがあったんだけれども、段々と必ずしもそうではなくて、 「面白いこ とのほうが大事だ」 ということになっていったので、ダンスについてはス タンスが変わりましたね。それでも 「グルーヴが大事」 ということだけ は変わらなかったんだけれども、 それも2011 年以降は、 「楽しければ いいのか?」 ということを日常的に考えるようになっちゃったので、ほんと にノーテンキなものを称揚するっていうことが、 自分でもちょっと辛いとこ ろがあって。自分が分裂してるよね。本当はふざけ倒したいんだけど も、ふざけることのエネルギーとか、本当にふざけ倒すっていうことが 一番大事なのかどうかというのは、すぐにわかんなくなっちゃいますよ ね。だから、震災以降はほんとに 「よくわかりません」 という感じです ね。全然自信をもって 「こっちのほうでやっていくんだ」 という感じはなく なっちゃってるんで。 野村 ─ 吾妻橋 DX やっていたこの 10 年間というタームでの、 ダン
スの状況はどうですか。 桜井 ─ ダンスの状況は、ほんとに 2004 年の感じの状況とは様
変わりして、 ちょっと違う状況になってますよね。さっきも言ったように、 いわゆる 「ダンス」回帰っていうか「ダンスは踊ってなんぼでしょ」 っ ていうね。 野村 ─ たとえば、 テクニック重視ということですか? 桜井 ─そういう面もあるし、 「ほんとに小さな動きにもそこにダンスは
ある」みたいな話ではなくなってきて大味になっていく、 ていうかね。わ かりやすくなっていっているとも言えるし、 誰が見てもダンス、 という溌溂と したダンスがメジャーな位置にあるんじゃないですかね。わかりやす いとか、 親しみやすいとか。 野村 ─これは何なんですかね。演劇に照らして考えると、 ある意味
「物語回帰」 というか 「演劇っぽい演劇」 でいい、 というような気持ちとい うのは、僕自身、 震災の前後から持っていて。今聞いていて 「そういうこと
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と軌を一にしてるのかな」 というのも思いましたけれども、 僕自身、 なんでそ れがそうなのかについては掘り下げられてなくて、 分裂はしてますね。 桜井 ─ああなるほど。 それ、僕の場合、 ダンスだと、繊細なダンスと
かストイックなダンスに惹かれるってところはありますね最近。それこそ お能とか上方舞とか。泣けるダンス(笑)。 「 N E O 吾 妻 橋 ダンスクロッシング 」を 考えてみる 野村 ─ ……と、 ここまででだいたい振り返りはお終いということ
で、 ここから先は会場の方から感想などもいただきながら、 それを種に、 「NEO 吾妻橋ダンスクロッシング」を考えて、なにかいいアイディア があったら頂きたいと思っています。 まず先立ってひとつお伺いすると、桜井さんは開催側ですけど、 ここで あえて客観的に 「吾妻橋 DX の役割」 って何だったと思いますか。 桜井 ─うーん、 間違いなくいえるのは、 「クロッシング」 は、 かなりでき
たと思います。つまり、 いろんな表現が一堂に会して、 同じ平面に並んだ ものを受け取ってもらう、っていうことですね。普通にいえば、 「ジャンル の垣根を壊す」 というか。演劇の人にはダンスも見てもらいたいし、 ダン スの人も演劇面白いよ、っていうそういうクロッシングはかなりできたと 思いますね。ジャンルに籠るということじゃなく、 お客さんがいろんなものを 同じ 「表現」 として受け取るというふうなことがいいんじゃないかなぁ、 と思っ ているので、 そういうことはかなりできたんじゃないかと思いますね。 野村 ─ 本当はダンスとか演劇ってもの自体が曖昧なものなのに、
ダンスのお客さんならダンスしか観ないし、演劇のお客さんなら演劇 しか観ない、 というふうに、 その人たちが「ダンス」 「演劇」 と決めたもの しか観ない、 という 「観客の分断」を混ぜこぜにしながら、表現も更新 していくということがやりたかったし、 それはできたと。 桜井 ─ できた。ただ、当初の目的のうちのひとつの 「ダンスを盛り (笑) 上げていく」 っていうことは頓挫しましたね。
野村 ─ ダンスを盛り上げていくことに今後も、桜井さんの関心があ
るんでしょうか。 桜井 ─ いや、 こだわりはものすごくあるね。ダンス、だって俺好き
だから。 野村 ─ ダンスにこだわりはありつつも、盛り上げていくことはできな
いだろうと?
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桜井 ─ 無理矢理盛り上げるというのは本末転倒なので。2004 年
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[16]ジョン・ケージ的な同時多発フォーマ
に始めた時は、 「こんなに状況が面白いから、 これを転がしていけば
ンス
もっと大変なことになるんじゃないか」みたいな山師的な発想だったけ
た 『停電 EXPO 』 。出演は梅田哲也、神村
ど、今はそうはなっていないから、無理矢理盛り上げるというのはなか
太。 「注目の若手アーティストたちによる、光
なか辛いものがありますね。
と音と映像、身体とメディアをめぐる実験的
野村 ─ 仮に、僕が次の吾妻橋 DX を提案するとしたら、 ここ数年
り方を問う( 」告知より)
2009 年 10 月に横浜の新港ピアで行われ 恵、contact Gonzo、捩子ぴじん、堀尾寛
パフォーマンス。21 世紀の映像と芸術のあ
(アサヒ ・アートスク の様子からして思っていたことでもあるんですけど、 ここ エア) の空間でやるということが一つの枷になっているのかなと。一つの
空間に舞台と客席を作ってしまって、ショーケースという形で同じ舞台 の上に乗っけていくということだと収まりきらないくらいに、桜井さんの取 り上げたいものが「流出」 しちゃってるというか。そういう感じがあるから、 「空間を考え直したほうがいいのかな」 と思っていたんですけど、 あん まりそういう感じでもないんですか? 桜井 ─ たとえば小沢康夫さんが横浜でジョン・ケージ的な同時
多発的なパフォーマンスをやったの[16 ] とかはものすごく面白かった んだけども、 あれは会場がものすごく大きいからできるんだよね。同じ 大きな会場の中のパフォーマンスが緩い形で繋がってるのか繋がっ ていないのかわからない状態で、 しかも一日中やっているというのは、 可能性がありますよね。ショーケースの、同じ時間に集まって客席も組 んで、 というやり方はかなり制約があるとは思いますね。 野村 ─ 桜井さん自身は、吾妻橋 DX をやりながら制約とは思って
なかったんですか? 桜井 ─ 思ってたところはあるよ。ただそれはマンパワーとか物理的
な問題で。最低 8 組くらいは並べたいので、 そのときに一組 15 分に なってくるわけですよね。でも何日もやるんだったら、1 日 2 組で 1 時間 ずつの作品とかもできるわけだよね。そういう形ではなく圧縮してやっ てきたので、違う形でということだったら、 いろいろ可能性はあると思うん ですよね。短いものがいい、 というのは必ずしもそうではないし、一堂に 会するということでなくて毎日日替わりでやるということもあるだろうし。 野村 ─ やり方はいろいろある、 とすると、桜井さんの展望が重要に
なってきますね。 (笑) 桜井 ─それは、 ない。だから困ってる 。だから1 回リセットすると
いうことになってるんだけどね。 このやり方はちょっと限界という感じで、 ど ういう違ったやり方がいいのか、 というのを考えなきゃいけない、 というこ となんですね。
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野村 ─もしオーディエンスの皆様から何かあれば、 いただけると話
が広がるかなと思いますがいかがでしょうか。 (笑) 桜井─ ぜひ、 知恵を授けてほしいのです。
会場① ─今日よかったと思うのは、 ダンスというものに対して、桜井
さんが今なぜ憂鬱か、 というと 「ダンスが好きだからなんだ」 ということ が伺えたことでした。好きだから、 こだわってるから憂鬱にならざるを得 ない、 と。個人的には「べつにダンスってことにこだわらなくていいじゃ ん」 とも思うんですが、桜井さんはたぶんそこを煩悶されていくんだろ うなと思いました。 そこでひとつあるのは、吾妻橋 DX に来ていたお客さんも 「なんとなくイ ケてるっぽいから観に来よう」 という人がいると思うんですけど、吾妻橋
DX が「グルーヴィー」 ということを打ち出すなかで、 そのお客さん達に どのくらい「グルーヴィー」 ということが伝わっていたのかというと、 ちょっと 疑問に思うところがありますよね。まあこれは、批評家の問題でもある んですけど、 このチラシに木村さんが書かれているようなことを、 もっと 言っていったほうがいいんじゃないか、 と。なので桜井さんは「ダンス (笑) 批評家をやめた」 とか言わないで 、ダンス批評家として 「グルー
ヴィー」 ということを言いつづけていく、 ということをやっていってほしいと 思います。 先週の「ファイナル!」でも、観て、 その場ではよくわからないものがある わけです。その場で面白いか面白くないかでいうと正直あまり面白く ないんですけど、 それが蓄積していくなかで、 「豊穣さ」につながる部 分というのがあるとも思います。なので、 その場の瞬間反射的な面白さ とかを追求する必要はそこまではないし、ショーケースだったら8 本と かうちで 1 本でも面白いのがあればそれでいい、みたいなところがある と思うんです。 そういう意味で、ダンスに限らず、パフォーマンス全般のことで最近す ごく危機感があるのが、パフォーマンスを記述するボキャブラリーが 煮詰まっているんじゃないか、 ということです。書くということのなかで、 も のすごく摘み取られていく。その部分で「ボキャブラリーを豊かにして いく」 ということは、大変だと思うんですけど、桜井さんにぜひやっていっ てほしいと思いました。 桜井 ─ありがとうございます。たしかに、 とりあえずお客さんの満足
度みたいなことは、 プレッシャーとしてはここ何年かありました。そうする
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と、自分のラインナップもガーッとショーアップしたものに走りがちで、 そ
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[17]フィリップ・スタルク
1949 年パリ生まれのデザイナー。建築・イ
こをもっとゆったりとしたものに、みたいなことが大事だっていうことはわ
ンテリア・プロダクトデザインなど様々な分
かってても、 つい迂回しちゃう、 という感じが自分の中でもあって。 「こうい
野を手がけている。アサヒ ・アートスクエアが
うフォーマットじゃないものをやりたい」 っていうのはそういうことなんです
デザインした。
ね。 うん。 会場② ─フォーマットということに関連してお聞きしたいんですが、
含まれるスーパードライホールはスタルクが [18]したまちコメディ映画祭
2008 年から毎年秋に開催されている国際 コメディ映画祭。
桜井さんが手塚さんをキュレーションされて 「POP な形で」 というと き、 あるいはこれまで 10 年間の吾妻橋 DX における 「POP」 というの はどの程度のことを設定していたんでしょうか。 [17 ] というのは、 アサヒ ・アートスクエアは、 フィリップ・スタルク が設計し
た個性的な建物で、 ある種のハイソサエティ/ハイカルチャーな匂い があって、言ってみれば、人によっては敷居が高い感じの場所である のは確かだと思います。 「ガラパゴス化させる」 ということでいうと、吾 妻橋 DX は 10 年に渡って、見事にこの独特の空間の中で特殊な進 化をしてきた成果があると思うんですが、一方で、 より広い POPさとい うことでいうと、 この外にはあまり出て行かなかった。KENTARO!! の (2010 年) 水上バスパフォーマンス や、河童次郎の「河童橋ダンスク (2007 年) ロッシング」 が外に出てみたというのはあるけれども、 どうしても
この黒い建物の中に入ってしまうという感じがあって、野村さんがさっき 仰ったようなことは、私も同じような感想があります。 ここは外に広い空 間があるし、 できるんじゃないかなと。 あと、ショーケースでやるときに、 もちろんキュレーターとして桜井さんが 選んだということで一定以上の質や評価が与えられているんですが、 一方で、 コンペティションのような形を作って、かたくるしくなく、ふざけ ながらも、お客さんを含めて巻き込んでいくというのもいいんじゃない か。隅田川花火大会みたいに、毎年一回そういうのがあったらいいと 思います。 あと 「POP」のことについての雑感として言うと、10 年間のチラシをぱっ と見て、最初の数年間は五月女ケイ子さんのイラストが使われてま すよね。そのテイストは今、台東区でいとうせいこうさんが総合プロ [18] デューサーを務める 「したまちコメディ映画祭」 のほうに受け継が
れている。あちら側は、台東区のバックアップを受けながらですが、ボ ランティアスタッフとか、 コミュニティを巻き込んでいく感じがあります。 こういうことを参考にして、ガラパゴスでありながらも 「面白いものあるか ら寄っといで」みたいな感じができると面白いのかな、 と思ったんです
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がいかがでしょうか。 桜井 ─それでいうと、僕個人の能力のキャパシティとか人徳の問 (笑) 題があって……、一人じゃ無理なんだなおそらく 。今も 「実行
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[19]プロジェクトFUKUSHIMA!
2011 年 3 月の東日本大震災と福島第一 原子力発電所事故を受け、同年 5 月、遠 藤ミチロウ、大友良英、和合亮一ら福島出 身/在住の音楽家、詩人を中心に、 「福島
委員会」 とは名乗っているんだけれども、本当の意味での実行委員
の今」 を発信していくべく立ちあげられた企
制みたいな感じの体制にして、いろんなところに伸ばしていくことがあ
画。http://www.pj-fukushima.jp
るべきなんだろうな、 とは思いますね。自分がリーチできる範囲がこの くらいしかない、 というのが僕の場合の限界。 もちろん、 「プロジェクト [19 ] FUKUSHIMA!」 とか、寺山修司の 『ノック』みたいなことをやり
たいとは思うよね。 でも、 そういうことをやるためには、 そういう組織を作っ ていかなきゃいけないから、だから、僕自身が開かれて行かないと次 の10 年はできないですね(笑) 野村 ─「POP」 について、 もう少し言うとどうでしょうか。 桜井 ─「POP」 というのは「大衆的」 ということではなくて、 いわゆる
「POPミュージック」の「POP」 ということなんだけれども、わかりやすい とか親しみやすいということは、俺はやっぱり自分の限界でできない。 やりたくない。だからもうそこですでに限界を見えているといえばそうな んだけど(笑) 野村 ─ある意味矛盾してるということですね。 桜井 ─万人受けということは全く考えてなくて、でも 「わかるやつに
はわかればいい」みたなのもすごく嫌なので、そういうつもりも全然ない んだけれども。 野村 ─ ちょうど時間が来ました。 今日のお話をお聞きしていて、 やっ
ぱり、やってきたことの成果や可能性はまだまだあるなかで、やろうとし てることに対して、いまこの企画を構成している形やチーム体制の点 で耐用年数が来た、 ということでしかないのかな、 というのは強く感じま す。吾妻橋 DXのようなことにはもっとやれることがあると思うし、ただ電 池切れというだけで、桜井さんには、一回充電して頂いて、 もう一回存 分に放電してもらえればいいんじゃないかな、 と。 桜井 ─ 充電します。……はい、 頑張ります。 野村 ─ 前向きに、 吾妻橋 DX の次の形を待ちつつ、 今日のお話は
これで終わりたいと思います。 どうもありがとうございました。 桜井 ─どうもありがとうございました。
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〈スクエア〉生成の過程と条件 ─ 寄せ場・釜ヶ崎からの視点
[キーワード] 釜ヶ崎 寄せ場 暴動
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原口剛│Takeshi Haraguchi[神戸大学人文学研究科・准教授] 専門は社会地理学・都市論。1976 年、千葉県生まれ、鹿児島育ち。2000 年より大阪市立大学大学院で地 理学を学び、大阪・釜ヶ崎の戦後誌や、現代都市における社会的・空間的排除について研究してきた。主 (共編著、洛北出版、2011 年) (共著、ミネルヴァ書房、2010 年)な 、 『 ホームレス・スタディーズ』 著に 『釜ヶ崎のススメ』
ど。2012 年 10 月より現職。
夏祭り 共有地
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〈スクエア〉 生成の過程と条件 ─ 寄せ場・釜ヶ崎からの視点 原口剛│Takeshi Haraguchi
1 ─ 共 有 地としての 釜ヶ崎
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[1 ]たとえば、 もっとも信頼される人口統計 データのひとつは国勢調査であるが、 それ は人びとが一定の地に定着していることを
大阪都心の南端に、 釜ヶ崎と呼ばれるエリアがある。繁華街・ ミナミの
したがって、 釜ヶ 前提として設計されている。
さらに南側に位置し、 日本一の高層ビルをうたう 「あべのハルカス」
崎のみならず全国各地の現場や飯場を
に沸く天王寺駅からは JR 環状線でたったひと駅、100 周年記念で にぎわう新世界とは環状線を挟んで隣接する一帯だ。 この地に足を
転々とする日雇い労働者の総数は、国勢 調査ですら正確に把握できるものではな い。1970 年代を例にとって単純化して考え ると、釜ヶ崎には当時約 200 軒のドヤがあ
踏み入れれば、 目に入る風景や臭い、音の景色はがらりと変わり、 まる
り、各々が 100 室程度を有していたから、 そ
で異世界に身を置いたような感覚をおぼえることだろう。
となる。だがこのほかに新旧の労働者人口
このエリアの伝統的な住人は、 日雇い労働者である。 ここに住まう日
としては、一定のあいだ飯場などに滞在し
雇い労働者は、2 万人とも3 万人ともいわれてきた。だが、正確な人
ている労働者や、公園や路上で野宿する
数は誰にもわからない[ 1 ]。確かにいえるのは、膨大な日雇い労働者
あるいは、地域としてその人口を捉えようと
が労働と生活を営んだ地帯である、 ということだ。一帯には「ホテル」
ろん考慮に入れなければならない。
の収用可能総人数はおおよそ20,000 人
労働者などを数え入れなければならない。 するならば、定着して暮す地域住民を、 もち
の看板と屋号を掲げた建物が建ち並んでいる。長年のあいだ、 日雇
│図 1│釜ヶ崎の位置(原口剛ほか編『釜ヶ崎 11頁より) のススメ』洛北出版、2011年、
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〈スクエア〉 生成の過程と条件 ─ 寄せ場・釜ヶ崎からの視点 原口剛│Takeshi Haraguchi
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い労働者の住処として機能してきた建物である。旅館業法では「簡
1980 年代後半のドヤの建替えは、関 [2]
(宿を 易宿所」に分類されるが、 日雇い労働者は自身の住処を「ドヤ」
ターフロント開発をはじめとする大規模都
西国際空港の建設、 都心の再開発、 ウォー
ひっくり返した俗称) と呼んでいる。
市開発が繰り広げられるなか、釜ヶ崎の日
まちを歩いてみると、荷物預かり所やコインロッカーがあちらこちらに点
雇い労働市場への需要が激増した時期 に対応して起こった。
在していることに気づく。 この何気ない風景は、 じつは日雇い労働者の 労働と生活について、多くのことを物語っている。釜ヶ崎の日雇い労働 者は、 主として建設労働に携わってきた。かれらは全国各地の現場を 転々とする、 流動を常とする労働者である。現場が遠隔地ならば、 しば らくのあいだ飯場に入ることになる。飯場でも宿泊費が賃金から差し 引かれるのだから、仮に月極めのアパートで定住したならば、飯場代 とアパートの家賃とを二重に支払う算段になってしまう。だから、釜ヶ 崎の居所が日払いのドヤであるのは理にかなっている。そして、旅先 には持っていけないような大切なものは、預かり所やコインロッカーに 預けておくのである。 労働者の居所であるドヤの外観も、 また多くのことを物語っている。 釜ヶ崎のドヤには戦後に全面建替えの時期が二度あった。その結
釜ヶ崎に点在するコインロッカー
果、釜ヶ崎には 3 種類のドヤが存在する。戦災直後のドヤは、木造 二階建てで労働者が雑魚寝する様式が主流だった。 しかしながら、
1960 年代後半に第一の建替えの波がおとずれた。この時期のドヤ は、 「カンオケ式」 という呼称が示すように、人間ひとりがやっと横にな れる室内空間を凝集させた様式へと塗り替えられた。第二の波がお
1980 年代後半である[2]。 とずれたのは、 この時期の建替えによって、
1960 年代初頭のドヤの内部
ドヤは三畳半ほどの広さをもった個室に変わり、現在はこのタイプの ドヤが主流である。 現存する3 種類のドヤは、岩に刻まれた地層のように、 それぞれの時 代の政治・経済的状況の層を表わしている。1960 年代後半に起き た第一の建替えの波は、高度経済成長の真っただ中で生じた。 この 時期の大阪は、1970 年の日本万国博覧会の開催に向け熱狂の渦 中にあった。問題は、 いったい誰がこの労働を担うのか、 ということであ
第 1 次の建替えを経たドヤの構造(西山卯 三 『日本のすまい (参) 』勁草書房、1980 年、431 頁より)
る。70 年万博の期日までに、なんとしても万博会場を建設し終え、都 市を改造しなければならない。 それに足る労働力が、 圧倒的に不足し ていたのである。 このとき、足元にある釜ヶ崎に目が向けられた。大阪 には、炭鉱の閉山や農業の機械化により地元で食い扶持を失った 若い単身の労働者が、 職を求めて続々と流入しつつある。200 軒を超 えるドヤを擁する釜ヶ崎にかれらを起居させるならば、必要なときに・
現存する数少ない第 1 次建替え時のドヤ
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〈スクエア〉 生成の過程と条件 ─ 寄せ場・釜ヶ崎からの視点 原口剛│Takeshi Haraguchi
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必要なだけの労働力を確保できる大規模な労働力の貯蔵地を創り だすことができるだろう─かくして、 釜ヶ崎を日雇労働力の供給地に 特化した空間へと改造しようとする対策が、政府主導のもとで始動さ れた。 じっさい、1960 年代までは、 まちには貧しいながらも日々の生活 を営む家族や女性、子どもの姿があふれかえっていた。 しかしながら、
1960 年代に繰り広げられた対策のなかで家族や子どもは釜ヶ崎か ら分散させられ、かわりに単身の男性労働者の流入が促進された。 その一環としてドヤは全面的に建替えられ、 「カンオケ式」へと変えら れていったのである。カプセルホテルの原型となる 「カプセル住宅」 を黒川記章が披露したのは 1970 年万博会場においてのことだった が、 その会場建設の過程のなかで、釜ヶ崎ではその先駆けともいうべ き形態の宿が、 設計者不在のまま産み落とされたわけだ。 このように釜ヶ崎の成り立ちを少し振り返っただけでも、次のことははっ きりとわかるだろう。釜ヶ崎とは決して自然発生的に生み出されたので はなく、資本の要請によって創られたまちである。 また、労働者は勝手 気ままに集まったのではなく、必要とされる労働力として用立てられ、 集められたのである。日雇労働市場としての釜ヶ崎は、 東京の山谷や 横浜の寿町、名古屋の笹島と並んで「寄せ場」 とも呼ばれる。 この呼 称は、寄せ集められた労働者の地という釜ヶ崎の性質を、的確に表 わしている。 けれども、 「寄せ場」はときに 「寄り場」 と言い換えられることもある。 「寄 り場」 とは、寄せ集められた労働者たちが、 その地を自分たちの土地 として、寄り集まるべき拠点として意味づけるときに用いられる言葉だ。
1960年代初頭の釜ヶ崎、 こどものいる風景
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〈スクエア〉 生成の過程と条件 ─ 寄せ場・釜ヶ崎からの視点 原口剛│Takeshi Haraguchi
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述べたように、万博開催に向けて釜ヶ崎のドヤは、人間ひとりがやっと
[3]寺島珠雄編著 『釜ヶ崎語彙集 1972 -
寝起きできるサイズの内部空間へと塗り替えられた。 このことは、 ドヤ
[4] というのも、 だいたいの場合そのような議
2013 年、 120 頁。 1973 』、新宿書房、
内部での生活機能が就寝だけに特化されることをも意味する。だか
論は、 土地が私的に所有されることをあらか
ら、食べる・飲む・語りあうといった機能は、 ドヤの外側で、 つまり食堂や
じめ前提としてしまっている。地球上の永い
立ち飲み屋、路上や公園など、 まちのいたるところに広がらざるを得な
有地/公有地に分割しうるという観念じたい
い。たとえば、はやくも1960 年代から釜ヶ崎界隈で日雇い労働者とし
歴史の視点にたつならば、都市空間を私 が、 そもそも不自然だと考えるべきだろう。
て生活していた詩人の寺島珠雄は 『釜ヶ崎語彙集 1972 -1973 』 の なかで、 次のように叙述している。 住む、 というのは寝るだけではない。食うこと呑むこと、 またくつろぎ憩うことなども住 むないしは暮らすことのなかみだ。そして労働者はドヤの一畳のあまりのスペース に住んでいるのではなく釜ヶ崎に住んでいる。釜ヶ崎で酒を呑み飯を食い仲間と しゃべり喫茶店や三角公園でテレビを眺めなどする。要するに現在一般化した 住居様式でならダイニングキッチンや居間の役割を、労働者は釜ヶ崎という範 囲の町に果たさせているのだ。果たさせる以外の方法がないのだ。だから釜ヶ崎 は一つの町であるが、労働者にとっては仕事場から帰りついた住み処という性格 が認識されている。 ドヤはそのうちの単なる寝室にすぎない。酔いすぎた者が寝 [3] 室以外でも眠るのはむしろ自然なので、 そう咎めだてする必要はない。
いわばまち全体が、 リビングでありダイニングであり、社交場であり井 戸端である─そのような状態が生み出されたわけだ。 このような空 間の性質とは、 プライベートなのかパブリックなのかと考えたところで、 さほど意味がないように思われる[4 ]。ただ確実にいえるのは、群れを なす労働者たちが、釜ヶ崎と呼ばれる土地を共有していたという事実 である。 この意味で、 釜ヶ崎とは労働者たちの共有地なのだ。
2 ─ 暴 動の時 空 間 戦後釜ヶ崎のあゆみを書き記すうえで、暴動について書くのを避ける ことはできないし、避けてはならない。暴動については、 これまであまり に語られ過ぎてきてしまった側面と、 あまりにも語られなかった側面と がある。語られ過ぎてしまった側面、 というのは、以下のような事態だ。
1961 年 8 月に起こった第 1 次暴動に端を発し、2008 年の第 24 次暴 動にまで連なる一連の暴動をめぐっては、新聞記事から研究論文に いたるまで、 さまざまなメディアを媒介として、数多くの言葉が積み重
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ねられてきた。暴動を「やけくそな暴力」や「狂気」 として描き出す者も いれば、 その原因を推定したうえで再発を防ぐ改良手段を提言する
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[5]清凉信康「釜ガ崎 ─その未組織の エネルギー」『 、別冊 新日本文学2』 、1961
169 頁。 年、
者もいた。 これらすべての言説は、治療されるべき都市の社会病理と みなす空間認識や、 「危険なところ」 という場所イメージを、釜ヶ崎に 対して塗り重ねていった。 このイメージは、私たちが釜ヶ崎を理解する ことを妨げる壁として、 いまだに分厚く存在しつづけている。 これらのありきたりなイメージを脇に置いて、次のように問うてみよう。 「暴動」 と呼ばれる集合的行為をよくよく観察するならば、 そこに釜ヶ 崎に住まう日雇い労働者たちの理性や道徳を見出すことができるの ではないか、 と。いざこのような問いにたつとき、膨大に積み重ねられ たはずの新聞記事やルポルタージュや学術論文は、 まったく役に立 たないことに気づく。 というのも、暴動になんらかの理性を見出そうとい う発想など、 端からそれらの眼中にはないのだ。 だが、大手メディアや学術論文があれやこれやと暴動を「解説」する かたわらで、 ひっそりとではあるが、鋭い観察眼をもって暴動を書き記 した著述家がたしかに存在していた。幸いなことに、私たちはかれら の書き記した文章を手掛かりとして、暴動の内実を違う角度からうか がい知ることができる。以下では、 清凉信康なる人物が記録した文章 「釜ガ崎─その未組織のエネルギー」を手がかりとしながら、第 1 次暴動の再現を試みてみよう。
1961 年 8 月。ひとりの日雇労働者が、釜ヶ崎の道路上でタクシーに 轢かれ殺された。警察官はこの事故現場にやってきたものの、倒れ た労働者にムシロをかけたまま立ち去り、数十分間にわたって放置し てしまった。釜ヶ崎の住人に対する差別意識を凝縮させたともいえる この処遇に対する怒りは、 あっという間にまちじゅうに広がり、五日間に わたる暴動が勃発したのである。その口火を切ったのは、石を投げる 行為であった。
だれかがはじめて石を投げた。 これは英雄と呼んでいい行為だろう。二人めが 投げた。 これは勇気と呼んでいい。三人めが投げた。 これは野次馬。その後の 無数の投石は政治。 この地帯の住人は自らの感情を政治に転じて押し広めて いった。そこにはかれらが長年つちかってきたあらゆる集団行動への経験と創意 性が凝縮されていた。何に向けて行為することがこの場合最も有効であるかとい う問に対して、かれらに考えさせる必要は何もなかったほど、 日常性としてかれら [5] の体内にひそんでいた。
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こうして、派出所へと投石の雨あられが向けられた。すぐさまこの事態 に対し警機動隊が動員され、圧倒的な権威を誇示することによって事
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169 頁。 [6] 同、 169 頁。 [7] 同、
態は収拾されるかのように思われた。 ところが、 この対応によって暴動 の熱量は、 いっそう高次の段階へと高められていった。暴動に加わる 労働者の数は、飛躍的に増大した。それだけでなく、暴動そのものも、 石を投げる行為から火を放つ行為へと、 質的に転換したのである。
かれらは動員された警官そのもの、警官が表出する権力そのものに向けて悪罵 を投げた。闘いの次元は変った。集まったすべての人がこのことを感じとったとき、 その量は飛躍的に増加した。 これら住人の行動をシンボライズするためには原 生人的な感覚が頭をもたげてくる。聖火と呼ぼうが、狼火と呼ぼうが質的に変り ない。 この場合住人の希求する行為をさまたげるものに向けられるのは、 その初 歩的な意味において当然だった。機動隊という権力像と対峙している気高い住 人たちに対して、 けちな私欲を優先させようとしたタクシーにはじめての火が向け [6] られたとしても、 それは当然といわなければならないだろう。
このように書き残された記録から、私たちは暴動と呼ばれる集合的行 為が刻一刻と展開していくさまをありありと知ることができる。のみなら ず、 あたかも無秩序であるかのようにみえる暴動のうちには、 じつのとこ ろ釜ヶ崎の日雇い労働者独自の自律的な共同性や集合性が発露 されていたことを知るところとなる。 この書き手は、新聞が「暴徒化」 という表現を乱用するのとは対照的 に、暴動という行為のなかに一定の倫理が作用していることを決して 見逃さなかった。 「火が火を呼び、 とりあえず東田派出所を燃やせと 要求する一群があったとしても、 それは暴徒ではない。その証拠を望 むなら隣家に類焼するのを防いだのはだれであるかをあげるだけ で充分だろう。それは火を放った当人たちであったことは明らかであ [7] 日雇い労働者たちが抗議するべき敵は、 あくまで警察であり、 る」。
それが代表する権威そのものであった。そのような視点にたつならば、 警察が編さんした資料ですら、有益な手がかりとなる。図 2 は、大阪 (つ 府警編さんの資料をもとに、 日雇い労働者の「主たる蝟集場所」 まり、労働者たちが寄り集まって抗議していた場所) を地図化したものである。
これをみれば、 日雇い労働者が寄り集まる場所が警察署や派出所 の周囲であったこと、 つまり暴動とはなにより警察に対する抗議行動で あったことは、 一目瞭然だろう。
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さらにこの書き手にとって、暴動という非日常は、釜ヶ崎の日常と地続き の出来事として、 その日常が爆発した出来事として捉えられるべきもの であった。彼はこう述べる。 「無駄なことにはかかわらない日々、 それが 釜ガ崎の掟のようである。 もっとも現代的な人間感情のようにエゴイ
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167 -168 頁。 [8] 同、 [9] ただし、労働者たちが共有していたの は釜ヶ崎という土地だけではない。流動を 常とする労働者たちは、山谷や寿町、笹島 などの他の寄せ場を流浪して生きてきた。そ のように考えるならば、労働者たちが群れを
ズムである。それでいて心やさしい住人たちである。信用する自己とそ
なして共有していた土地とは、各都市の片
の自己にかかわりのある他人との強烈な共生感を突出させる生活感
な地勢であったというべきかもしれない。 この
情と、いっさいの権力を信用しない敵愾心が、 この緑地帯の住人の 全生活をささえている強みである。八月一日のでき事はそのことを立
隅にありながら群島のように連なる流動的 点については、稿を改めていずれ論じること としたい。
[8] 証したささやかな動乱であった」。
釜ヶ崎の日雇い労働者が共有する心性。それは、エゴイズムであり、 共生感であり、 そして権力に対する敵愾心なのだという。釜ヶ崎の日 雇労働者は、故郷から遠く切り離され、家族や地域共同体から引き 剥がされ、ただならぬ紆余曲折を経てこの地へと辿りついた。差別さ れた苛酷な労働環境のなか、身体ひとつで生き延びるために、エゴ イズムこそ自身が依るべき心性であることは、なんら不思議ではない。 それゆえ、釜ヶ崎の日雇労働者を語る言説には、 「疎外」や「社会解 体」、 「自暴自棄」 といった用語がつきものであった。 しかし、 それぞれ が似たような境遇をもち、同じような労働環境に置かれた者たちは、 [9] 釜ヶ崎という一片の土地を共有していた。 その条件こそが、エゴイ
ストでありながら、集団的でもあるという労働者の心性を生みだす素 地となった。暴動は、 そのようにして形成された労働者の共同性が、 一挙に発露した出来事だったのである。
│図 2 │第 1 次暴動の 「主たる蝟集場所」 (原口剛ほか編『 釜ヶ崎のススメ』洛北出版、
2011年、242頁より)
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3 ─「 我らまつろわぬ 民 、ここに自らを祭らむ 」
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[10 ]夏祭りが開催されるきっかけとなった のは、相撲であった。前年の 1971 年 12 月
10 日、三角公園では、行政に越年対策を
三角公園は、釜ヶ崎のもっとも象徴的な公園である。 この公園を舞台 として、毎年 8 月 13 日から15 日のお盆の時期には釜ヶ崎夏祭りが
要求するための決起集会が開催された。 しかし、寒さゆえに参加者はあまり集まらず、 集会は早めに切り上げられる羽目になった。
開催される。 お盆の時期、 というのが重要だ。 一般の人びとであれば、
ひまを持て余した越冬対策実行委員会の
この時期は故郷に帰省して家族や親戚一同集まりともに時間を過ご
ると、相撲には続々と労働者が集まり、行司
すだろう。 しかし釜ヶ崎の住人の多数は、故郷に帰りたくても帰れない
をかってでる者、見物料としてカンパを出す
人びとである。むろんこの時期には建設現場が休業になるという事情
年の越冬闘争では文化や体育の場を設
も大きいが、故郷に帰るに帰れない釜ヶ崎の住人たちは、似たような 境遇をもち、同じ土地を生きているという共同性を拠り所として寄り集
メンバーは、 なんとなしに相撲を始めた。す
者まで現われた。 この経験を踏まえて、 その け、 ソフトボールや相撲、 のど自慢大会やも ちつき大会を企画してみた。のど自慢大会 には 100 人近い労働者が入れ替わり立ち
まり、夏祭りの輪に加わるのである。祭りでは、 ステージ上での演奏や
替わり歌を披露し、 数百人の労働者が聞き
相撲大会[10]など、 さまざまな催しが行われるが、なかでもやぐらを中
から、実行委員会は、労働者が自分たち自
心にみなが参加する盆踊りは祭りのクライマックスであるといえる。耳
身の文化を共有する場の重要性をはっきり
慣れた炭坑節も、 ここ釜ヶ崎においては、住人の出自を想起させずに はいられない。
入るという活況が生まれた。 このような経験
認識した。 こうして、8 月のお盆の時期に三 角公園を会場として夏祭りを開催しよう、 とい う提起がなされたのである。
現在では地域恒例の行事として定着している夏祭りであるが、 その第
1 回が開催されたのは 1972 年である。釜ヶ崎にとって72 年は、転回 点ともいうべき重要な年だ。1960 年代後半から70 年代初頭にかけ、 学園紛争を闘った若手活動家たちが、 闘争の末に釜ヶ崎へと流入し ていた。若手活動家の情熱と労働者の文化とが混じり合い、緊張を 孕んだ化学反応を引き起こしたことで、釜ヶ崎の政治文化が爆発的 に開花したのである。夏祭りの開催もまた、 まちのいたるところで繰り広 げられた闘争の一環として勝ち取られたものにほかならない。 まずは、釜ヶ崎の政治文化が展開する画期となった出来事、鈴木組 闘争と呼ばれる闘争について記しておこう。鈴木組とは、ヤクザ組織 が経営し、 日雇い労働者を調達することをなりわいとする、違法な手 配師組織だ。 釜ヶ崎のような日雇労働市場・寄せ場とは、 言わば公認 されたブラック・マーケットである。上述した釜ヶ崎対策のなかで、万 博会場建設をはじめとする一連の都市改造工事を完了させるため
釜ヶ崎夏祭りの光景
に、政府公認の日雇い労働市場が建造された。万博と同じ年、1970 年に完成した 「あいりん総合センター」がそれである。 この巨大な建 造物は、不思議なことに一階部分が空洞になっている。 じつはこの空 洞部分がもっとも重要なのであり、早朝になると労働者を求める求人 業者と、 その日の仕事を求める労働者が集まり、 この場で労働力の売 り買いが行われる。その光景は魚市場さながらの文字通り 「市場(い
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あいりん総合センター
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ちば) 」であり、人間の身体が労働力商品として売りに出される様が露
骨に繰り広げられる。さらに、 このような労働力の売り買いは当時の法 律によって禁止されていたにもかかわらず、政府お墨付きの例外的 市場として公認されたのである。 この例外状態ゆえ、 そこにはヤクザ が介入するグレーゾーンが生み出され、条件違反や労働者に対す る暴力やリンチが跡を絶たなかった。
1972 年 5 月 26 日、 このセンターで何人かの日雇い労働者が鈴木建
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[11] 暴力的な飯場や現場から命からがら 逃げ出す実践は、労働者の日常用語で「ト ンコ」 と呼ばれる。 この言葉がもつ歴史性に ついて、寺島珠雄は次のように解説してい る。 「トンコの語源はわからない。朝鮮人労 働者の多かった戦中戦前の炭坑では、 ト マンカスあるいはトマンカッソというのがトン コと同じ意味で使われ、 それは朝鮮語だっ たと理解されていたが当否を確認していな ( 寺島、 『 釜ヶ崎語彙集』 、前掲、76 頁) い」 。 こ
の解説を踏まえるならば、 「トンコ」 と呼ばれ
設の求人に応募し、 その日の仕事に向かおうとした。だが、建設事務
る実践は、炭鉱や港湾の労働世界に共通
所に到着すると、求人で提示されていた条件とは違うことが分かった
する都市下層の日常的実践であると考えら
(求人条件には「市内」 と書かれており、当然「大阪市内」であるはずのところ、実
れる。 また、 その語源を辿れば朝鮮人労働
際の現場は奈良「市内」であった) 。 このことを知って労働者たちは抗議し、 [11] うち数名は就労を拒否して現場から逃げ出した。 この労働者の
者の記憶に連なる可能性が示唆されてい る。興味深いことに、 この点は、筑豊の炭鉱 労働世界の用語「ケツワリ」 を解説した上 野英信による次の指摘とも重なり合う。 「ケツ
必死の抗議行動に対し、 鈴木組は報復の意味で労働者を拉致し、 リ
ワリとは逃亡・脱走の意であり、動詞としては
ンチを繰り広げたのであった。
ワリ坑夫といえば脱走坑夫のことになる。よ
と、 ここまでの経緯は─にわかには信じがたいかもしれないが─寄
く尻割という漢字が宛てられるけれど、 これ
せ場では日常茶飯事のことがらにすぎない。違うのは、 ここからの展開 である。一連の報復リンチに対し、活動家たちはセンターにおいて抗 議行動を繰り広げた。そこに、鈴木組組長を筆頭にして木刀を手に した十数人の組員が、 いっせいに殴りかかってきた。 しかし、 まわりを取 り巻くのは大勢の日雇い労働者である。かれら労働者がいざその気 になれば、 ヤクザ組織であろうがかなうはずもなかった。 じっさい、 日雇 い労働者たちは組長をつかまえて、労働者が取り巻くなかでリンチを 加えたことを謝罪させたのであった。 この出来事に、 日雇い労働者たちは沸き立った。日雇い労働者が泣
ケツをワルというふうに用いられている。ケツ
はバケツを馬穴と書くのと同じく、 まったくの 宛字にすぎない。 もともと脱走を意味する朝 鮮語の 『ケッチョガリ』 の転訛であることは明 らかだ。係員のことをヤンバンといったり、飯 をくえというところをパンモグラといったり、炭 鉱で日常用語と化した朝鮮語がすこぶる 多いが、 これはすでに明治時代からかなり 多くの朝鮮人移民が流れこんできているた めである。たとえそれが不幸な出会いである にせよ、地の底における日本人と朝鮮人と (上野英信 『地 の結びつきは歴史的に深い」 の底の笑い話』 、岩波書店、1967 年、108 -109 頁) 。 このように、釜ヶ崎の日雇い労働者が
何気なく用いる語彙のひとつひとつは、 そこ
き寝入りさせられる寄せ場は、一転して労働者の自治空間へと転じ
から 「地の底」 の世界が顔をのぞかせるよう
たのである。その勢いのままに、翌 6 月には「暴力手配師追放釜ヶ崎
な、 奥深い歴史性を有している。
共闘会議(釜共闘) 」が結成。釜共闘は、結成されるや否や、労働者 の自治空間を釜ヶ崎のまちなかへと拡大させようとした。そのエネル ギーが向かった先が、 三角公園だったのだ。 この当時、三角公園で夏祭りを開催するということは、 とてつもない一 大事だった。 というのも、当時の三角公園はヤクザが仕切る賭場と化 していたのである。まして8 月のお盆の時期は、各地の現場から労働 者がお金をもって釜ヶ崎に帰ってくるのだから、 またとない稼ぎ時であ る。そんな場で夏祭りを開催するということは、ヤクザから公園を奪い 返し、真っ向から喧嘩を売ることを意味した。開催された当初の夏祭
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[12 ]寺島珠雄 『釜ヶ崎暴動略誌』 、未公 刊、執筆年不明。上記 『釜ヶ崎語彙集』 と 同時期の 1970年代初頭に執筆されたもの と推察される。
左:釜共闘のポスター 右: 『労務者渡世』 の表紙
りには、ヤクザや右翼からの襲撃、警察による弾圧によって幾度とな く潰されかけた。 とくに労働者たちがみずからの手で建設するやぐら は、 祭りの象徴であった。やぐらが破壊されるのを防ぐために、 主催者 たちは徹夜でやぐらを囲み、守りきったのだという。そのような熾烈な 攻防を経て、 夏祭りは生み出されたのである。 重要な点は、72 年を起点とする夏祭りなどの数々の政治文化とは、 (前節 暴動の文化の延長線上においてこそ展開した、 ということである で暴動について書かなければならなかった理由も、 この点にある) 。 この祭りがも
つ意味を考えるために、 ここでもういちど第 1 次暴動の時空間へと立 ち戻ってみたい。寺島珠雄は、 『 釜ヶ崎暴動略誌』 と題する未公刊の 手稿のなかで、 暴動について次のように書き記している。
釜ヶ崎の労働者がどれもどのエネルギーを日本の産業に安く吸いとられている かは、一々例証するまでもない明白な事実である。つまりエネルギーは潜在して いるのではなく顕在しているが、 それを巧妙にまた冷酷に他人のためだけ消費 させられていたということだ。暴動は、 もうそれじゃイヤだ、 イヤなんだ!と怒ったわ めき声である。わめき声であるがゆえに、 それは発作的であったり意味不明で あったりしているが、 しかしわめくことを誰が押しとどめ得るか。……「鈴木組事 件」等をふくめて暴動の跡をたどって行くことによってわめき声が主張のある叫び [12 ] に推移しつつあることが理解されるに相違ない。
第 1 次暴動以来、1960 年代に暴動は数多く起こりつづけた。けれど も、 きわめて少数の著述家をのぞいて、暴動の声に耳を傾ける者は
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誰もいなかった。 それゆえ暴動は、 発作的で、 意味不明な 「わめき声」 でありつづけなければならなかった。 釜ヶ崎の住人たちは、 それでも繰 り返し 「わめき」つづけた。そしてようやく1970 年代、暴動に感応する 者たち─当時の反乱する若者たち─ がぞくぞくと現われたのであ る。72 年の鈴木組闘争は、 その画期であった。暴動には言葉が与え られ、 「わめき声」はついに 「主張のある叫び」になった。 「我らまつろわぬ民、 ここに自らを祭らむ」。 この言葉は、第 1 回の夏祭
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[13 ] このような表現文化のひとつとして、 雑誌 『労務者渡世』 が挙げられる。 これは労働 者による、 労働者のためのミニコミ誌であり、
1974 年の創刊号から1985 年の第 38 号ま で発刊された。地域内の 5 カ所の委託店 舗において500 部が販売され、 毎号ほぼ売 り切れていたのだという。各号の特集として取 り上げられるのは、 「めし」 「ふろ」 といった労働 者の日常文化であり、 また、 労働者が投稿し た詩歌が掲載されるなど、 労働者の声を表 現する媒体でもあった。
りのスローガンである。いまでも暴動について話を聞くと、 あたかもそ
[14 ] この時期に生み出された政治文化の
れが祭りであったかのように振り返る労働者に出会うことが多い。そ
なかでも重要な実践のひとつは、 越冬闘争
の語りの意味するところを、 この短いスローガンは教えてくれる。 「まつ
い労働者にとっては、現場がいっせい休業
である。年末年始の時期は、釜ヶ崎の日雇
ろわぬ民」 とは、服従を拒否する者、 という意味である。それは、警察
期間に入り仕事が途絶える失業の季節とし
に代表される権威への服従の拒否を表わすだろうし、 また、 「あるべ
てある。真冬の寒さは確実に身体を蝕み、 こ
き」 とされる家族像や市民像から切り離され、身体ひとつで生きる者
を奪われる。冬を越すということが労働者に
の心性をも表わしているといえるだろう。暴動とは、 そのような者たちが
の時期に何人もの野宿労働者が路上で命 とっては生命をかけた闘いなのであり、 それ が越冬闘争と呼ばれる所以である。野宿す
自分たちの集合性を爆発させ、 「自らを祭」 ることによって、一時的に
る労働者が公園に集い、 食やテントや焚火
であれ自律的な時空間を切り開く集合的行為であった。72 年に起
第 1 回が開始された。 とくに世界的恐慌が
源をもつ釜ヶ崎の政治文化は、 「わめき声」に言葉を与え、 そうして多 [13 ] 彩な表現文化を生みだしていった。 このような表現行為のなかで
こそ、暴動という形態ですでに発露されていた集合的行為のエネル ギーは、夏祭りをはじめとする一連の政治的実践の文化[14 ]へと接 続され、 発展していったのである。
1970 年冬に を分かち合うこの取り組みは、 襲うなかで日雇いの仕事が急減した1970 年代半ばに、 この取り組みはますます重要な ものとなった。 さらに、 この時期には越冬闘争 に対する弾圧と公園からの強制排除が繰り 広げられ、 それがこの取り組みの闘争的な 性格をいっそう強めた。釜共闘の中心メン バーであった船本洲治が、 このような闘争の なかで生み出した次の言葉は、 公共空間の
4 ─〈 スクエア 〉の条 件:釜ヶ崎 からの 視 点
占拠の積極的意味を表明した先駆である といえる。 「 七二年五月二八日の対鈴木組 闘争から、 その後不屈に闘い抜かれた現場
釜ヶ崎とは、創りだされた空間である。そこは、1970 年万博の開催 をはじめとする都市再編のなかで、単身日雇い労働力の供給地とし て生み出された地である。 しかし、釜ヶ崎は日雇い労働者の共有地 でもある。資本の要請に従って寄せ集められた労働者たちは、辿り ついたその地を寄り集まるべきおのれの空間へと塗り替え、暴動から 夏祭りへといたる政治文化を開花させていった。強要された地であ 自分たち自身の「寄り場」へと反転させるこの過程に る 「寄せ場」を、 見出されるのは、みずからの力で広場を生みだそうとする民衆的行 為である。 これを、 〈スクエア〉 の生成過程であると捉えよう。近年のカ イロのタハリール広場、ニューヨークのズコッティ公園、 イスタンブー
闘争の中から生み出された戦闘的青年労 働者の組織釜共闘が、 ただ単に青年労働 者の利益のために闘うだけではなく、 資本に よって労働力商品としての価値を否定され た病人、老人、資本の自己増殖の過程で 廃人にされたアル中たちを引き受けようとし たこと、否、彼らが参加できる形で共に闘お うとしたこと、 そして、 敵と対決し、 打ち勝つため に衣食住総体の労働者階級の問題を解 決しようとしたこと、 これが越冬闘争の意味で ( 全国日雇労働組合協議会編 『黙って野 ある」 、 れんが書房 たれ死ぬな─船本洲治遺稿集』
1985 年、 137 -138 頁) 新社、 。 このような歴史的
1990 年代以降の 経緯をもつ越冬闘争は、 公共空間における野宿労働者の占拠=テン ト村闘争として受け継がれ、 いまなお重要な
ルのタスキム広場/ゲジ公園における蜂起のなかに、釜ヶ崎におい
実践として繰り広げられている。
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て積み重ねられた実践が地球規模で再演されているような感覚を 覚えるとするならば、おそらくそれは錯覚ではない。私たちがそこに垣 間見るのは、全 ─ 世界に共通する 〈スクエア〉生成の民衆的素地の 一端なのだから。 それでは、 〈スクエア〉 とはなにか。 これまで述べた釜ヶ崎での事例を 振り返るならば、 その生成の条件として欠かせないいくつかの点を挙
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[15 ]警察のほかにたびたび暴動の標的 となったもうひとつの対象は、パチンコ屋で あった。パチンコ屋が暴動の標的となった 理由についての寺島珠雄の見解はこうであ る。 「切っても切れぬ、 というように労働者と結 びついているのが、仕事、 ドヤ、 めし屋、立ち 呑み屋、 パチンコ屋だが、 なかでもいつも憎 まれているのはパチンコ屋。 それは 『あんな もの世の中から無くしたらいいのや』 という類
げることができるだろう。
の、 やめられない自分への怒りもこめた恨み
まず、 〈スクエア〉 とは過程である。60 年代の暴動から70 年代への祭
になっていて、暴動の度にパチンコ屋が攻
りへといたる経緯のなかに私たちがみたのは、生成と変化の過程で
151 頁) 崎語彙集』 、 前掲、 。 この類推が正しい
ある。それは、単身で故郷から切り離され身体ひとつで生き延びる気 高いエゴイストたる労働者たちが集団と化し、暴動という行為のなか に自分たちの集団性を開花させる過程であった。そして、 そのような 暴動のわめき声が、やがて主張のある叫びへと転化され、 また夏祭り という実践が生み出される過程であった。 このようにみるならば、 〈スク エア〉 とは設計されうるようなものではない。むしろ 〈スクエア〉生成の 端緒を切り開くのは、設計されて在ることを拒絶する態度だ。 このとき 思い起こされるべきは、 「やられたらやりかえせ」や「黙って野たれ死
(寺島、 『釜ヶ 撃を受けるのはそのためである」
とするならば、 パチンコ屋を攻撃する際の労 働者の心性は、 警察署を攻撃する際の 「権 力に対する敵愾心」 とはやや異なるのであろ う。 そこに発露されているのは、酒をやめたく (「アル中」 ) てもやめられぬアルコール依存 と
同様のもがきや苦しみであり、 依存から脱却 したいという切なる希求であろう。 またパチン コ屋を標的とした暴動に表明された 「恨み」 とは、 やめられぬ自分に対する怒りであると同 時に、 アルコールやギャンブルの依存へ自 分たちを追いやる巧妙な社会の仕掛けに 対する怒りであるといえるだろう。
ぬな」 といった、1970 年代に釜共闘が編み出したスローガンである。 釜ヶ崎の住人たちが黙って泣き寝入りする存在であることをやめ、 やら れっぱなしの存在であることをやめ、みずからの力でなにものかになろ うとするとき、 その希求は暴動という表現形態をとった。それゆえ寺島 珠雄は、 暴動の渦のなかに 「もうそれじゃイヤだ、 イヤなんだ!と怒った わめき声」を聞き取ったのであった。暴動が設計や秩序を拒絶する 叫びであったことは、 なにより、権威を象徴する警察こそがかれらの攻 [15 ] 撃対象だったという事実が端的に物語っている。
それゆえ、暴動とは政治的な過程であった。石を投げる、火を放つと いう行為は、単なる破壊ではなくそれ自体が創造の行為だった。か れらはなにを創造したのか。のちの夏祭りのスローガン「我らまつろわ ぬ民、 ここに自らを祭らむ」が表わすように、かれらが創造したのはみ ずからの自律的な時空間であった。 このときかれらは、電車の線路に 敷き詰められた石をかき集め投石の武器として用い、 またそれによっ て電車の運行を遮断させた。都市機能を麻痺させることによって、か れらは自分たち自身の自律的空間を出現せしめたのであった。 と、 ここ で忘れてはならないのは、かれらが建設業や港湾運送業といった都 市基幹産業に欠かせない労働力として寄せ集められ、活用される存
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〈スクエア〉 生成の過程と条件 ─ 寄せ場・釜ヶ崎からの視点 原口剛│Takeshi Haraguchi
在であったということである。かれらにとって都市とは、 自分たちの手が 作り上げた作品であるのに、 ひたすら他人の便益のためだけに使用 されるインフラである。都市機能を麻痺させることで、かれらは自身の 作品を自分たちの手に、一時的にであれ取り戻したのであった。 これ
Research Journal Issue 01 スクエア[広場]
1980 年代以降消費を軸として都市 [16 ] 空間を新たに商品化する 「テーマパーク 化」の動向が台頭するとともに、野宿生活 者や都市下層への排除は激化していっ た。釜ヶ崎の界隈に関しては、関西国際空 港のオープンを目前にした 1990 年、阿倍
ら一連の実践に一貫しているのは、権威の拒絶や不服従という態度
野再開発エリアに隣接する天王寺公園
である。それを見落としてしまったならば、暴動は「騒ぎ」にしかみえな
が大規模に改装され、全面がフェンスで
いし、夏祭りはただの賑やかしにしかみえなくなってしまうだろう。 〈スク
の目的は「大阪の南玄関」 としての天王寺
エア〉 もまた然りである。政治的過程であることを欠いたままそれが構
「明るい」 イメージを阻害する日雇い労働
想されてしまったならば、一転してそれは、 むしろテーマパークに近いよ [16 ] うな疑似的空間と化してしまうだろう。
最後に、 これら一連の過程を作動させた根底的な条件として、土地 の共有という事実がある。万単位の労働者は、 それぞれが似たような 生い立ちを抱え、労働現場で搾取されながらも、釜ヶ崎という一片の 土地を共有していた。食堂で、立ち飲み屋で、路上で、公園で、 かれ らはともに語らい、 そうして労働者は群れとなった。だから、 タクシーに 轢き殺された労働者に対する警察の処遇は、ただひとりの労働者に
囲われた有料公園に変貌させられた。そ のイメージを向上させること、言いかえれば 者や野宿生活者を追い出すことにあった。 このように公園を改造する際にモデルとし て参照されたのは、1983 年に開業された 東京ディズニーランドである。ディズニーラ ンドをモデルとすることで、公共空間を消 費空間として再定義しようとする試みが、天 王寺公園を実験台として行われたわけだ。 そしてこの実験の「成果」 として、野宿労働 者は公園から一掃された。 この事例からあ きらかなように、テーマパークは民衆(とりわ け都市下層民衆) の 〈スクエア〉 とは、質的に
異なるどころか、敵対的なものですらある。
対する処遇ではなく、 「われわれ釜ヶ崎の住人」に対する処遇であっ
それは、 「 多様性」を謳いながら、 〈スクエ
たのだ。労働者の身体をつたって怒りは瞬く間にまちじゅうに広がり、
ア〉が有する民衆性や雑多性、重層性を
そうして暴動が起こされた。かような共有地性とともに指摘しておかな
まつわる用語から政治性や対抗性、敵対
(アンリ ・ルフェーブ ければならない要素は、釜ヶ崎が有する 「中心性」
性を取り除いてしまったなら、 その帰結として
ル) であり、つまり、寄り集まるべき地としての性質である。清凉信康が
暴動の火を「狼火」 と表現したことは、 この点を的確に示しているといえ
一掃するような仕掛けである。 〈スクエア〉 に
民衆性の排除という真逆の事態を引き起こ してしまいかねないという点は、 よくよく注意 しなければならないだろう。
よう。暴動の火は寄り集まるべき地を示す狼火となり、やがてこの火に 若者たちが次々と引き寄せられていった。そうして1970 年代初頭の 釜ヶ崎には多種多様な政治文化が生み出され、暴動は夏祭りへと 発展したのだった。 ところで、 ここに書き記した年代誌は、現在となっては時代錯誤に感じ られるかもしれない。1990 年代以降、寄せ場としての釜ヶ崎の機能 は縮小しつづけ、釜ヶ崎は生活保護を受給しながら定住する 〈福祉 のまち〉へと変わりつつあるからだ。隣接する阿倍野再開発エリアに 目を転じれば、 釜ヶ崎を見下ろすかのように 「あべのハルカス」がそそ りたっている姿が否応なしに目に入る。開発の波はぎりぎり阿倍野区 と西成区とを分かつ上町断層の際でとどまっているが、堰が切られた ならば、 またたく間に釜ヶ崎は塗り替えられてしまうかもしれない。そう なってしまったなら、 「釜ヶ崎」 という地名や、 その名のもとで積み重ねら
三角公園から 「あべのハルカス」 をのぞむ
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〈スクエア〉 生成の過程と条件 ─ 寄せ場・釜ヶ崎からの視点 原口剛│Takeshi Haraguchi
れてきた記憶もまた、一掃されてしまうのではないか。そのような危惧
Research Journal Issue 01 スクエア[広場]
[17 ] この現代的変容を象徴する凄惨な 事件が、2008 年に起こった。この年の 10
を抱かずにはいられない状況にある。
月、 ミナミのビデオ試写室で起こった火災
その反面では、 「社会の総寄せ場化」 というフレーズが物語るように、
により、室内で 15 人が命を落とした。犠牲
かつて釜ヶ崎に例外化されていた労働や生活の状況は、いまや社
ず、身元がすぐに判明しなかったことから、
会のいたるところに遍在している。かつて寄せ場労働者がそうであっ
このビデオ試写室が「宿」 として利用され
たように、重層的な下請け構造の最末端で安価な労働力として酷使
者のうち数名が身分証明を所持しておら
ている実態が明らかとなった。 このとき想起 されるのは、1970 年代に釜ヶ崎のドヤで
され、不要となれば容易く首を切られる労働者で溢れかえっている。
多発した火災である。 「カンオケ式」へと
けれども、かつての寄せ場労働者とは異なり、かれらには寄り集まるべ
させたドヤは、中央部分が空洞となった巨
き場が与えられることはない。かつては、必要なときに必要なだけの労
大な煙突のような構造となり、ひとたび火
働力をかき集められる環境を生みだすために、労働者を万単位で
きつくした。それに加えて、警察の指導によ
一定の地に集住させておくことが必要であったが、情報技術の発展
り部屋から寝具が盗まれないようドヤの窓
は、 そのような手間のいっさいを不必要なものにした。労働者が肌身 離さず持ち運ぶ携帯電話にアクセスし、 「寄せ集める」のではなく 「呼 び出す」だけで、 その場しのぎの労働力は確保できてしまうのだから。 いわばモバイル寄せ場なのである。 携帯電話は、 また、かつてのドヤと同じような機能を担っているのが、たとえばネット [17 ]だが、 カフェやビデオ試写室のような、新たな消費空間である。
ひとりひとりを薄い壁で区切ったその室内は、釜ヶ崎の喧騒とは正反
改装されたのちに、内部に小部屋を密集
災が起きればあっという間に建物全体を焼
には鉄格子がはめられ、宿泊する労働者 は火災が起こった際の逃げ場を失った。 これらのことから、70 年代のドヤ火災で何 人もの労働者が命を奪われたのである。
2008 年のビデオ試写室の火災において も、入口が一カ所しかない構造によって、 多数の犠牲者が生み出されてしまった。い わば、1970 年代の釜ヶ崎におけるドヤの 悲劇が、かたちを変えて現代都市の只中 で再現されたのである。
225頁。 [18]寺島、 『釜ヶ崎語彙集』 、 前掲、
対に、 いつも静まり返っている。各室の個人はインターネットで遠い誰 かに接続されていながら、隣室に住まう者同士の接触は厳密に禁じ られている。そもそも、都市に点在するインターネットカフェが、 ドヤ街 のような 「街」 を形成することはない。 〈私〉 は 〈私〉 であることを果てしな く強いられ、 群れとなることを許されない。 かたや都市には、 いまや監視カメラがいたるところに設置されている。 釜ヶ崎は、 日本で最初に路上に監視カメラが設置された地域でも あった。次頁の写真をみると 「防犯カメラ設置区域」 との表記が眼に 入るが、 それが釜ヶ崎に設置された経緯を踏まえるならば、 「防犯カ メラ」すなわち 「人びとの身を守るカメラ」ではなく、正しくは「監視カ メラ」 と表記すべきである。監視カメラは、暴動を封じ込めることを第 一の目的として、 日雇い労働者が路上で寄り集まることを監視するべ く、1966 年に設置された。 このカメラは、 「いつでも頭上や背後から [18 ] 民衆一般を監視する仕掛け」 なのである。監視カメラだけではな
い。野宿生活者が寝ころべないように仕切りを設けたベンチや、出入 りを禁止するゲートは、 もはやありふれた光景と化してしまった。創造 性やイノベーションというフレーズが流行り言葉になるのとは裏腹に、
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〈スクエア〉 生成の過程と条件 ─ 寄せ場・釜ヶ崎からの視点 原口剛│Takeshi Haraguchi
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「防犯カメラ設置区域」 の標識
都市の地表上に巷の人びとが(暴動がそうであったように)創造性を表明 しうる余地はますます狭められ、封じられつつある。 これら列挙した事 実は、 「社会の総寄せ場化」があらゆる場所に浸透しつつある事態を 示すのみならず、 本稿で述べた意味での 〈スクエア〉 の条件がどれほ ど奪われているのかをも示している。 だが、忘れてはならない。 〈スクエア〉 とは、所与のものではなく生成す る過程なのである。設計された都市環境は、 それを自分たちのため の空間として活用することができたならば、 〈スクエア〉 の条件へと反転 させることができる。たとえば情報技術は、たしかにモバイル寄せ場と して機能している一方で、人びとが権威に異議を唱えるべく寄り集ま るためのツールとして用いられうる。堅固に管理された現代の都市空 間であっても、 よくよくみるならば、 〈スクエア〉 の素材になりうる要素が あちらこちらに転がっているのかもしれない。それに気づくためには、 〈ス クエア〉 の生成とは、 自分たちが強いられた存在であることを拒絶し、 別のなにものかになるべく群れと化し、おのれの空間を生みだす創造 的行為であることを知ることが、 なによりも必要だ。 この教訓を、釜ヶ崎 の年代誌は繰り返し私たちに教えてくれるのである。
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「場」 の思考
[キーワード] 場 情報システム 文化 継承 コミュニケーション 創造
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ドミニク・チェン│Dominick Chen[情報生態論]
1981 年、東京生まれ、フランス国籍。博士(東京大学、学際情報学)。2003 年カリフォルニア大学ロサンゼル ス校(UCLA)デザイン/メディアアーツ学科卒業、2006 年東京大学大学院学際情報学府修士課程修了、
2013 年 3 月同大学院博士課程修了。メディアアートセンター NTT InterCommunication Center 研究員 として 2004 年より日本におけるクリエイティブ・コモンズの立ち上げに参加し、2007 年よりNPO 法人ク リエイティブ・コモンズ・ジャパン(現・コモンスフィア)理事。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを採用した 多数のプロジェクトの立案・企画・支援に従事してきた。2008 年 4 月に株式会社ディヴィデュアルを設立 し、ウェブ・コミュニティ 「リグレト」やソーシャル Q&A サービス「MON-DOU」等のサービスやアプリケー ションの企画・開発に携わる他、タイピング記録ソフトウェア『タイプトレース』 のウェブへの発展形の提案 で、情報処理推進機構の 2008 年度未踏 IT人材発掘・育成事業でスーパークリエータ認定。また、2007 年と 2008 年の Ars Electronica Festival, Digital Community 部門の International Advisory Board を (青土社、2013) 、 『オープン 努める。著書に『インターネットを生命化する ─プロクロニズムの思想と実践』
Square (カドカワ・ミニッツブック、2013)、 化する創造の時代 ─ 著作権を拡張するクリエイティブ・コモンズの方法論』
(フィル 『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック─クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』 ムアート社、2012 年) 。編著に 『 SITE/ZERO
(メディアデザイン研 vol.3 情報生態論 ─ いきるためのメディア』
(春秋社、2010) 究所、2008) 。共著に『いきるためのメディア─ 知覚・環境・社会の改編に向けて』 、 『 Coded
(Springer, 2011) (INAX 出版、2011)、 、 『設計の設計』 Cultures - New Creative Practices out of Diversity 』
その他論文多数。
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「場」 の思考 ドミニク・チェン│Dominick Chen
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インターネットの世界においては、場をつくることはコミュニケーション の方法をつくることと同義である。それが PC からアクセスするウェブ サービスであっても、 もしくはスマホから開くアプリであっても、ネットを 介して人と人が情報を取り交わすシステムを作る場合には、 そのシス テム特有の「文体」 を帯びることになる。 ─ ここでいう文体とはどういうことか。情報システムの文体とは、システム の操作と体験を通じて感受される情動や感覚の総体としてイメージし ている。たとえばある本を読む時には、 ミクロにはその作者固有の節 回し、 リズム、言葉使い、マクロには論理的な構造、などが読書体験 に影響する。読者は、本の文体によって、 そして文体の中で、 自らの思 考や情動を自らの内に生成する。 文体とはだから、意味内容を相手に届けるための表現としてのインタ (interface) フェースであるといえる。 インタフェース とは異質なものをつ
なげるための媒介、境界面を意味する。私たちが日々接している表現 や情報には全てインタフェースが備わっているのであり、 その設計如 何によって私たちの中で生起する情報は異なってくる。 同じように、情報システムのインタフェースもまた、システム設計者の 思想や世界観が、意識的にせよ無意思にせよ、色濃く反映される。 その表面を眺めるだけでも、実に様々な要素によってシステムの文体 が構成されていることが分かる。 まず目につくのは、 グラフィックデザイ ン等の表面的なルック&フィール、画面から画面へ遷移する流れ、 その流れの整合性。 さらに、おもてには表れない、不可視だが体験を左右するシステムの 質というものもある。 システムを作動させるプログラミングコードは数式 と同じように短く、簡潔に記述されているほどシステムはエラーを起こ さず、素早く作動する。コードがどのように書かれているかによって、体 験のリズムやテンポは変わる。実際に同じシステムであっても、 それ を支えるコードが異なれば、 全く違う体験がもたらされるのだ。 ─ インターネット接続が常態化している現在の情報システムの主流に おいては、 さらに多くの要素が複雑に絡み合う。情報システムはユー ザーが操作する端末にインストールされるアプリケーションと、 そのア プリケーションを介して生成される情報を格納するデータベースや集 計的な情報処理を行うプログラムが配置されるサーバー、 それぞれ
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「場」 の思考 ドミニク・チェン│Dominick Chen
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の性能や仕様によって、 システム全体の体験が変化する。 ここまでは技術的な要件について語ってきたが、 それは言葉の執筆に 例えるならば文章の技巧的な操作に相当する事柄である。 しかし、情 報システムが文章と大きく異なるのは、 システムを介して利用者同士 が直接対話や交換を行えることだ。システムが提供するコミュニケー ションの様式によって、ユーザー同士の対話から生まれる個々の情報 の形式が決定され、全体のコミュニケーションの集積の在り方が左 右される。 コミュニケーションの集積とは、システム固有の文化と呼んでも良い。 例えば、Twitterというシステムを介して産み出されるコミュニケーショ ンの集積と、Facebook におけるそれが大きく異なるのは読者にも同 意されることだろう。そして、 インターネットの隠語で特定のシステムの 利用者を「住民」 と呼ぶように、情報システムを使うことは異なる場を 生きることと表現できる。 両者の差異を少しブレークダウンしてみれば、Twitter における高い 匿名性とFacebook における実名性に始まり、相互関係の自由度 (フォロー制と友だち申請制) 、 タイムラインの表示方法(時間順と評価値 順) 、情報の評価方法(お気に入り/リツイートといいね!/シェア)、 といった要
素を書き出すことができる。 ─ こうしたコンセプトと実装方法の違いによって、二つの情報システムを 利用する過程で短期的、 そして中長期的に生成されるリアリティが大 きく異なってくる。それは初期にシステムを構想し、設計した人間たち の思想や世界観が反映された結果でもあるし、同時にシステムが多 くのユーザーの長期的な利用を通じて集まった諸々のフィードバック を反映した結果でもある。 インターネットを介して多くのユーザーが集まる情報システムは、初期 の設計から変化し、成長していく。それは Twitter におけるリツイート のようにユーザーたちが育む自生的な文化が新しい機能として実装さ れるという形をとる場合もあれば、当初は実装されたがユーザーによる 利用が少なかったり、不評であったために取り外された機能のような 場合も多々ある。 このように情報システムはユーザーの行動や反応を基に弾力的に変 化していくという特性を持っている。 しかし、 それはユーザーの総体が 設計を直接的に決定しているわけではなく、様々なフィードバックを観
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「場」 の思考 ドミニク・チェン│Dominick Chen
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察しながら最終的には設計者や運営者が多々ある可能性の中から 一つの選択肢を決定するというプロセスを要する。 ここで、 よりよい選択肢を選ぶために、情報システムの運営において は試行錯誤が前提となっている。A/B テストという手法がよく採られる が、 これは二つや複数の改善案を異なるユーザーの母集団に向けて 実装し、実際にどのように利用されるかということを比較するデータを 記録し、 案の優劣を比較して、 決定するというものだ。 ─ 一般的には、 ここまで述べてきた情報システムのつくり方は、 いわゆる 芸術における 「作品」 とは異なる、 「商品」の開発という文脈で捉えら れる。作品はその創造自体が目的であるが、商品は収益をあげること が目的となる、 という点で大きく異なる。 しかし、果たして 「作品」 と 「商 品」はどれほど本質的に異なるものなのだろうか。 ここで美術業界の商業性の議論を深く掘り下げることはしない。また 工業製品や情報商品をアートの文脈に配置する潮流についても踏 み込まない。何がアート作品で何がそうでないのか、 という類いの話 はいくらでも操作可能な記号論的なゲームに過ぎない。むしろ筆者 が考えたいのは、一般的には限りなく商品的に見られる情報システ ムも、 それ自体の創造を目的としてつくられるものとして捉えられるという 視点である。 冒頭で述べたように、情報システムにも、芸術作品と同様に、文体が
同一の作品=コミュニケーションにおける、 バージョンという時間的断面としての場 原作:Vincent Driessen、 和訳:筆者、 製図:戸塚泰雄 出典:http://nvie.com/posts/
a-successful-git-branching-model/ (CC:表示 ─ 継承)
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「場」 の思考 ドミニク・チェン│Dominick Chen
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帯びる。本やインスタレーションや楽曲やパフォーマンスと対峙する 時に、 アーティストが企図するコンセプトや作品の意味内容が一方 的に伝達されるわけではなく、鑑賞者の身体と心によってリアルタイ ムに意味や価値が生成されるように、情報システムの利用を通して も同様にユーザーの心・身の中で新たな価値が産み出される。 ただ、 これまで情報システムは主に効率の側面から議論されてきたこ とも事実である。速いこと、安定していること、分かりやすく快適であるこ とが追求され、遅いこと、不確実であること、謎の残ることは極端に忌 避されてきたといえる。 しかし、速過ぎること、分かりやす過ぎることを問 題として対象化する議論もまた可能だし、情報文化をさらに熟成させ る上でも必要なのではないか、 と筆者は考える。 ─ 逆に、 芸術という名の下で創造される作品もまた、 情報システムと同じ ように、ユーザー(鑑賞者)によるフィードバックなしには、 その生成プロ セスの本質には迫れないのではないだろうか。 ここでいうフィードバッ クとは、作品の鑑賞体験を通して得られた情動や思考の出力であり、 それは批評(それは単なる感想のつぶやきかも知れないし、専門家による分析 的論考かも知れない) から派生作品の生成までを含む。
このように考えると、 一つの作品というものも、 多くの鑑賞者という名のユー ザーを束ねるひとつの場として捉えることができる。作品、 つまり具現的に 表現されたアイデアによって/の中で、 鑑賞者は自らの内に、 そして他者 と共に、 コミュニケーションを生成する。 コミュニケーションとはすなわち 生成された思考や価値を何らかの形で出力したものである。 作品との対峙を通して生起するコミュニケーションの大半は、記録さ れることのないまま、 流れて消失してしまう。 しかし、 思考の断片であった り、感想の言い合いといった儚いコミュニケーションのなかには、刹那 を生き延び、長いあいだ持続する情動や思考がある。あたかも種を 植え付けられたように、 脳内に取り付いて反復して止まないイメージ、 リ フレイン、 言葉がある。 ある表現がある個体の心身に着床し、 あたかも受胎するかのように脈 動を始めること、 それをラテン語圏では conceptionという。概念を意 味するコンセプトという言葉はだから、 もともと 「産み出される何か」を 意味しているが、 ある概念なり情動が生まれるきっかけとなった表現そ れ自体もまた、 別の表現に起因して生起したものだとすれば? ─
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情報システムの世界、特にインターネットの文化においては、 プログ ラムコードは共有財として異なる集団、企業、 コミュニティを介して交 換されることが多い。多い、 と書くのは、反対にブラックボックスになっ ていて、誰も手を出すことができないソフトウェアも少なくなく存在する からだ。 とはいえ、 もともと大学の理系研究者の集まりが構築してきたイ ンターネットは、 公共的であることを志向して設計されてきた。
70 年代、 ソフトウェアのコードは当たり前のように研究者、開発者間 で共有され、お互いの書いたコードを利活用しながら新しいコードが どんどんつくられてきた。その自由な風潮を抑制したのが、80 年代に 入って企業がコードの著作権を主張する風潮が広まったことだった。 この商業主義を嫌った一部の人間たちが、誰にも権利を独占させ (オペレー ることのできない法的なライセンスを付した基本ソフトウェア ションシステム) を開発し始めた。
そして90 年代に入って1 人の若者が自分の作った核となるソフトウェ アと融合させ、今日最も普及しているオペレーションシステム Linux が数百から数千人の貢献によって育まれてきた。今日、Linuxとその 変種たちはサーバーからスマートフォンまで、 ありとあらゆる場面で私 たちの情報社会を支える情報システムに成長した。
Linux は、オープンソース、つまりコードを開示し、誰でも閲覧したり、 コ ピーして手を加えたり、 もしくは公式の開発に参加する機会を与える 開かれた形式で運用されている。 このソフトウェアの生態系は今日、
作品=コミュニケーションの場と場としての作 品=コミュニケーション 『インターネットを生命化する─プロクロ (青土社 , 2013) ニズムの思想と実践』 より
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Linux 以外にも数万のソフトウェアがインターネットを介してコードを 共有しあい、 自由な改良と派生を許し合いながら、 成長している。 ─ このインターネットが保護してきた自由度はコードに止まらず、 文章、 画 像、映像、楽曲といったいわゆる作品に対しても付与されるようになっ た。著作権に代表される知的財産権という制度は、作品を制作した 人間にではなく、権利を主張した人間に対して、社会のなかでどのよ うに作品が使われるべきかということを決定させる力を与えた。 しかし、本来的に創造行為がコミュニケーションであり、起源を辿るこ とさえ難しいほどに複雑な相互作用の関係ネットワークが張り巡らさ れているのであれば、 ある表現がどのように使われるべきか、 ということ を法的拘束力を背景に抑圧するということは、文化全体を萎縮させ る倒錯的な動きであるといえる。 ソフトウェアは、大聖堂のように理路整然と明確な指揮系統のもと建 設されるのではなく、活気のある市場のようにガヤガヤと多種多様な 人間が対話しながら作られていく方がうまく行くという有名な話がある が、同様のことは文化という大きな場の運営施策に対しても当てはま るだろう。 今日、個人のアーティストやクリエイターから企業に至るまで、実に多様 な主体たちが自らの創作物をインターネットで広く公開し、 その利用を あらかじめ許諾することで、多くの参加者が集う場を設ける試みを行っ
Linux OS の系統発生図 http://linuxhelp.blogspot.com
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ている。 それは情報システムがもたらした真新しい状況としではなく、本 来的な文化の力学に揺り戻す動きとして捉えなければならない。 ─ 私たちは今日、情報システムとネットワークの技術や議論を参考にし て、場を創造するための形式について議論が行えるようになった。そ れは現実の場と情報的な場の技術的な差異を認めつつも、 コミュニ ケーションと創造という視点をもとに同一の基準でつなげようとする試 みでもある。 そこには旧い価値を復活させる手だても見て取れるだろう し、 未知の状況を作り出す可能性を標榜することもできる。 知識や情報が、 コンピュータにデータをダウンロードするように一方的 に与えられるものではなく、受け取る人間の解釈や再構築によって変
Wikipedia における記事の編集履歴の
質したり派生する、 ということは 20 世紀後半の様々な学問領域におい
可視化例
(F.B. Viégas, M. Wattenb erg, K.
て論じられてきたことだし、 そのような議論を介さずとも多くの人が首肯
Dave :“ Studying Cooperation and
することだろうと思う。 しかし、21 世紀初頭の現在、 そのことはまだ一般
Conf lict b etween Authors with
的に膾炙しているとは言いがたいことも事実だ。 私たちの社会においては、 コミュニケーション行為は理解の容易さと いう 「最大公約数に理解される」 こと、つまり効率性の次元に還元さ
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history flow Visualizations, ”CHI 2004 , Vienna, Austria (24 -29 April, 2004 ) URL: http://alumni.media.mit. edu/~fviegas/papers/history_flow.pdf, 最終アクセス 2013 年 1 月 18 日 )
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「場」 の思考 ドミニク・チェン│Dominick Chen
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れている。それはインターネット以降、社会内を流通する情報量が 飛躍的に増大したことに対する反動として、複雑さを縮減しようとする 動きとして理解することができる。社会全体で通用するような共通の 文脈というものが消失し、多様化するコミュニティを貫通する共通言 語の構築が困難な現在の社会において、必要最低限の単純さをコ ミュニケーションに付することは一種の情報リテラシーなのだとさえい えるだろう。 単純さ、分かりやすさ、速度が優先されることで生まれた、 というよりは 可視化され、顕在化した価値とは、 コミュニケーションのスケーラビリ ティである。スケーラビリティとは通常、 ある情報システムがどれだけ 大量のユーザーと、付随する情報量を処理できるように拡張できるか ということを指す用語だ。 ここでは、 あるコミュニケーションの表現単位 がどのような人間に届き、価値の有意な生成を産み出せるかという意 味を付与したい。 ─ この時、 気をつけなければいけないのは、 量を質と取り違えることだ。 あ る印象派の画家は「印象を持続させなければならない」 と語ったとい う。自らの表現が刹那を生き延び、次のコミュニケーションが生まれ る契機となることを企図すること。 このように表現行為を捉えることは、 表現を「場」 として捉える思考であるといえる。 ある表現行為がより多くの人に体験された、 という事実よりも、 より多く のコミュニケーションを生起した、 ということの方が場の思考において は重要なのである。表現行為を場として捉えるということは、 その表現 がどれだけ介入をアフォードし、 その自由な変形と混合を誘発するか という特性を見据えることに他ならない。 コミュニケーション方法を提供する情報システムの場合には、 このこと は数量的には測量しやすい。情報システムを介してどれほどの人間 が、 どれほどのコミュニケーション内容を交わしたかということを時系 列に沿って記録し、分析することができるからだ。インターネットの場 合、 さらに他の情報システムとの相互作用を測ることも可能だ。 よりミクロな次元に目を向けると、情報システムの中で発生した単体 のコミュニケーション行為(それは文章かも知れないし、楽曲かも知れない) をひとつの場として見た時に、 そこからどのような広がりが生まれたか ということを計測することもできる。例えば文章間の接続は引用やリン ク、 楽曲や映像間の接続は共通の素材の有無を見ればいい。
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「場」 の思考 ドミニク・チェン│Dominick Chen
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場の結節点としての作品=コミュニケーショ ン単位の階層構造 『インターネットを生命化する∼プロクロニ ズムの思想と実践』 (青土社 , 2013) より
こうした相互作用の連鎖を筆者は継承関係と呼んでいる。 そして情報 システムにおける創造的なコミュニケーションの継承関係は測量でき、 その精度も段階的に向上させることができるとして、 そこで浮き上がってく るより本質的な関心とは、 デジタルな世界だけではなく、 物理的な時空 間におけるコミュニケーションも同様に捕捉できるかということだ。 たとえば私たちが日々口述で交わす言葉やフレーズの切れ端も微小な 場として、 その時々のコミュニケーションの連鎖に関わっている。当然、 儚 く消失する情報量がほとんどだろうが、 どこかで聞いた何気ない一言が 長い時間を経た後に脳裏をよぎって再生される、 ということもある。 とすると、 ひとりの人間個体の中で、記憶された事象と現在の思考が リアルタイムに相互作用するコミュニケーション形態をも考えなけれ ばならないだろう。 この意味において、 ひとりの人間として話し、書くとい う他者に向けての表現もひとつの場であるし、考え、思い出すという内 省的な行為もまた自己の中で作動する場であると言える。 ─ この発想に沿って言えば、 生きるということそのものを、 自己をひとつの場 として認識して行動する様式として捉えることも可能になるだろう。する と自他を隔てる境界線は固定的なものではなく、流動的に生成され、 変化し続けるものとして見えてくる。自己という場の中にどのようなプロ セスを配置し、 そこからどのようなコミュニケーションを作動させるか。 ─ この思考法を管理とか制御という一方向的な、指示と命令の語彙 フィールドに属する観念で呼んではならない。それは反応の観測と試
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行錯誤を前提とする、対象との対話として捉えなければならない。自 己や個体というものは、 より大きな場の中にある小さい場として、 さらに 小さい場を生成しながら異なる場と影響を与えあい、 かろうじてその同 一性を認められるものなのだ。 ここでいう同一性は、個性や特徴、 または冒頭で述べたような文体を 含む言葉だ。 ここまで考えてきた私たちにとって、 ある個体をその瞬間 的な特徴量で定義することの限界は自明だろう。むしろ私たちはその 個体が、 どのようなコミュニケーションを他者と共に産出してきて、 また これから生もうとするのかという時間的な累積と志向性をこそ測らなけ ればならない。 繰り返しになるが、 そのための基礎的な方法論を私たちは情報シス テムの領域から学び、今日私たちが文化や芸術と呼ぶ領域に対し て応用することができる。そして個々の表現間の継承関係を捕捉する 方法論を構築した時、 私たちはより透明で豊穣な歴史を手にすること になるだろう。 あるいは歴史という言葉を参照体系と呼び換えてもいい。参照体系と いう言葉からは、 ある表現が文化全体の時系列の中のどこに位置づ けられるかということを指し示すデータベースをイメージしている。参照 体系の構築は、 これまでは膨大な知識を持つ専門家による観察や 記述にのみ頼ってきたが、情報システムを活用すれば少なくない部 分を自動化できるだろう。 ─ このビジョンは、歴史構築と認識をめぐる認知コストの経済的な向上 をもたらすことが考えられるが、 それを手段として捉えるならば、実現さ れるべき目的とは、個々の表現の文体を構成する複雑なプロセスの ネットワークにより肉迫する方法論を手に入れることだ。 あらゆる情報がフラットにアクセス可能になっている現在、 そうした個々 の情報の時間的来歴をも認識可能な形にしなければ、場の思考は 形而上学的なものに止まるだろう。文化という観点から振り返ってみ れば、古来より 図書館、教会寺院、博物館、美術館といった様々な 文化制度(cultural institution)が世界中の表現物を採集し、保管し、 分類してきた。 現代に遺された文献資料を根気よく解読し、 より正確な歴史像を編 み続ける研究者の努力をより直接的に、 より効率的に現在の表現行 為の総体にフィードバックさせる方法を考え、実践することが現代の
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「場」 の思考 ドミニク・チェン│Dominick Chen
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文化制度の担い手が見出せる 「大きな課題」だろう。それは個々のコ ミュニケーション主体が何を産み出したかという記録を、微小なレベ ルから捕捉して認識可能なかたちで記述することによって、 さらなるコ ミュニケーションの産出の動機を作り出せるからだ。それこそがつくる 場をつくるという、文化制度が歴史的に特権的に孕んできたメタレベ ルの命題に他ならない。
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アサヒ・アートスクエア エリアガイド
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「ちょっとそこまで」
ルート01
墨田は怪談・奇談の類が江戸の時代より語り継 がれています。スクエアのある本所や少し離れた 向島。京島に八広に鐘ヶ淵。百では足りない場
墨東百物語 ─ 墨田区北部のアート拠点 ご紹介奇談 アサヒ ・アートスクエアの位置する東東京、 墨田・浅草エリアの魅力を、 地元目線でご紹介する 「ちょっとそこまで」 。
所や出来事に、墨田を歩けば出会うでしょう。 まち 歩きに出かける前にこの 「墨東百物語」 をご覧く ださい。限られた文字数では全てを紹介できま せんが、 少しでもこの不思議に満ちた素敵な墨田 を知っていただければ幸いでございます。 猫の話
祖母から二十歳を過ぎた猫は妖怪になると聞い たことがあります。確かに年とった猫の目を見てい
第1回は「墨東」 と呼ばれる
ると動物を見ているのではなく、意思疎通ができ
墨田区の北エリアを、
る他の何かを見ているような気がします。 さて、墨
ライターのヨネザワエリカさんがご案内します。
田区は猫が多い。 まちを歩いてふと視線を感じる
アサヒ ・ アートスクエアにいらっしゃる際は、
と、人ではなく猫であることがほとんどです。猫にま
「ちょっとそこまで」 足をのばして、 まちも一緒にお楽しみください。
つわる話を二つほど。 ─ [墨東百物語:其ノ十八話│猫又と開かずの扉]
その昔ソース工 場として使われていた建 物に 二十四歳の猫が住んでいる。年寄りの言い伝え が正しければ既にこいつは妖怪・猫又である。怪 しげな妖術を使って人を脅かしていたとしても不 思議ではない。一階にガラス扉の部屋があり、 そ こで現代美術の展示が行われているので芸術 に慣れていない人は妖術の類と勘違いする人が いるかもしれない。 ─ さて、建物を見上げると二階の辺りに錆びた扉 が見える。 しかしそこまで登る階段がない。建物 の中から扉を開ければ空なのだ。脚が長いか 羽が生えているか、つまり人間以外の何かでな ルートマップはこちらをご覧下さい。
http://asahiartsquare.org/ja/access/
ければ使えるはずもない。誰が開ける扉なのか さっぱりわからない。 この建物は SOURCE Factoryと看板が立ってい
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ヨネザワエリカ│Erika Yonezawa
る。 どう考えても怪しい建物に人が寄り付くはずもな
い気にもなるが、 しかし、人の言葉で返されてしまう
いと思われがちだが、 どういう訳か寂れるでもなく賑
かもしれないと思うと迂闊に声もかけられない。触
わっている。集まってくる人が果たして本当に人なの
らぬ神に祟りなし。
か妖怪変化の類なのか、 誰もさっぱりわからない。
そこだけ赤い色をした扉が目立つ。開いたところを見たことがない。
http://goo.gl/maps/OnZ0 G http://sourcefactory.web.fc2 .com/
[墨東百物語:其ノ五十三話│夜の猫]
飼い猫でない猫は人が近づくと逃げるのが常。 と ころが墨田の猫にその常識は通用しない。東武 曳舟駅から水戸街道に出て歩くと鳩の街通り商 店街が見つかる。長さ二百メートル幅二メートル の細長い通りには寿司や呉服や花屋に美容室 など昔からある商店に加え、最近では新しく店舗 を構えた若者やアトリエを開いた芸術家の姿が ちらほら見える。人通りが増えたらしい。 ─ そんな賑わいや活気なんざ私たちには関係ござ いません、 と言いたげに商店街を猫が歩くのだ。
ふと気がつくと、 私を見ている猫がいる。
http://goo.gl/maps/UMB0 j http://hatonomachi-doori.com/
近寄っても逃げず、 それどころかじっと睨んでくる。 まるで夜の酒盛りの話のネタにしようと企んでい
墨東美女奇談
るかのようだ。
怪談に登場する美女といえば男にとり憑く幽霊
商店街の夜は早く、 日が落ちる頃にはお店のほと
や動物の変化した姿というのが定石です。墨
んどが閉店している。帰宅する人は数えるほどし
田にも美女にまつわる話がありますがそれは怪
かいないこの通りは夜になると猫の世界に変わっ
談というよりは奇談の類。
てしまう。夜に何をしているのか、猫に聞いてみた
─
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ヨネザワエリカ│Erika Yonezawa
[墨東百物語:其ノ九十│黄色い箱を持った美女]
減ったが、 少なくとも六ヶ所の銭湯に湯怪がいる。
東武曳舟駅近くのふじ公園にピンク色の柱が一
─
本だけある。 東武小村井駅近くの宮元児童遊園
さて、 この湯怪は解体された曳舟湯が変化した
にピンク色の滑り台がある。 どちらもピンク色は柱
ものらしい。そして母がいると言われている。湯怪
と滑り台しかなく、 そして数字が書かれている。
の話を銭湯の主人に聞くと必ず女の名前を口
─
にするという。
さて、公園にピンク色が見られるようになった同じ 頃、飲食店のカップやお皿に数字が焼き付けら れ和菓子屋では数字の焼き印が押されたどら焼 きが売られるようになり、 そして黄色い箱を持った 美女の噂が流れだした。数字のある場所には必 ず黄色い箱を持って歩く美女の姿が見られたとい うのだ。 ここ一年ほどはその噂も落ち着いたように 思えるがまた現れないとは限らない。 銭湯の窓辺に龍の湯怪が何かを守るかのように鎮座する。 [田中湯]
http://goo.gl/maps/4 LW5 w
[みまつ湯]
http://goo.gl/maps/EksRx
[三徳湯]
http://goo.gl/maps/KH5 vY
[グランド湯]
http://goo.gl/maps/Z3 QLJ
[おかめ湯]
http://goo.gl/maps/5 PUqn
[薬師湯]
http://goo.gl/maps/Ofg3 X
https://www.facebook.com/hikifuneyukai
幻の話
人の記憶は曖昧だから些細な出来事でも数カ 何かを祝福するかのようなピンク色が突如としてあらわれた。 [ふじ公園]
http://goo.gl/maps/UB6 rX
[宮元児童遊園] http://goo.gl/maps/1 SN9 e
http://www.kyococo.com/category/works/lat-long-project/
月先で思い出せば奇談になりかねません。例え ば顔が思い出せないカフェの主人は記憶の上 ではのっぺらぼうだとか、話の辻褄が合わないな ら妖怪のせいにしてしまおう、 なんてよくある話。 さて
[墨東百物語:其ノ二│妖怪の母]
「墨東百物語」 にも似たような理由で奇談となる
曳舟湯という古い銭湯が解体される頃から墨田
話があります。 さてこれは本当に曖昧な記憶なの
の銭湯に妖怪が現れるようになった。妖怪変化
か妖怪の仕業なのか。
の類は人目に触れない珍しいものと相場が決まっ
─
ているが銭湯の妖怪どもは全く様子が違ってい
[墨東百物語:其ノ八│一夜限りの旗祭り]
た。隠れるわけでもなく浴槽や番台の傍、天井
墨田区八広の道は人を惑わす。 それはまるで妖
に堂々と鎮座している。人は口々に 「あれは妖怪
怪変化の悪戯か。いつしかこんな噂が流れるよう
ではなく湯怪だ」 と言うようになった。最近は数が
になった。 「大量にあった旗がパッと無くなっていや
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ヨネザワエリカ│Erika Yonezawa
がる。 」 「旗に書かれた文字を読んでも意味がさっ
入り口はとても重厚な扉で塞がれていて、簡単に
ぱりだ。 あれは人間の言葉じゃねえな。 」 「それみろ
は開けられない。深呼吸でもして気持ちを落ち着
やっぱり妖怪だ。 あの旗は百鬼夜行かお化けの
かせ、手や腕や体全体に力を込めて引っ張らな
運動会の証拠に違いねえ。 」 「ところであの旗は人
ければ到底開けられない。やっと開けることができ
間が作ったと聞いたが。 」 「聞いた聞いた、 近くの子
たとしても何か見えるのかといえば、 そうでもない。
どもや年寄りが旗を作ったと言っていたぞ。 」 「あん
真っ白な壁に囲まれた何も無い部屋しか見えな
な大量の旗を一人や二人で作れるわけがねえ!」
い人もいれば、他では見ることのできない現代美
─
術の展示の世界に吸い込まれ戻れなくなる人も
一年ほど前、大通りから少し入った四丁目あたり
いると聞く。
の路地や家々が、赤や青や黄色の旗で色とりど
─
りに飾られた。yahiro 8という場所が飾り付けの
そしてまた重い扉の閉まる音が近くの駐車場にあ
中心になっていたからあそこは妖怪の寝床かと
るお稲荷さんにまで響く。 「ガチャン」
疑われたが、 まさか、住人は近所でも有名な人 の良いデザイナーと踊り子の夫婦。妖怪のはず があるわけない。 同じ頃、近くの銭湯の窓辺に龍が出るようになっ た。おそらく妖怪どもが龍神様のお祭りをしていた んだろうと、 噂は次第に落ち着いていった。
墨田で最も大きなアートスペースといっても過言ではない。
http://goo.gl/maps/m5 ozs http://www.c-a-f.jp/
[墨東百物語:其ノ四十八│本の少ないこすみ図書]
無いはずのものがそこに在るなんてのは怪談奇 噂の旗は 2012 年の秋ごろに掲げられていた。数少ない証拠写真だ。
談によくあるが、 こすみ図書は在るはずのものが
http://goo.gl/maps/G0 ZSW
無い。鳩の街通り商店街に面した大きなガラス
http://yahiro8 .seesaa.net/
扉から覗くと見えるのは幾つかの本棚とそこに置 かれた数冊の本だけ。図書と聞いて想像する程
[墨東百物語:其ノ十五│重い扉]
の量がそこに在るようには見えない。
東向島駅から高架沿いを歩くと左に 「美」 と大き
─
くて四角い看板を掲げた現代美術製作所と言
ところで、本には書いた人の魂や大切に読む人
われる工場がある。元はゴム手袋工場というその
の魂が込められているという。本に印刷された文
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ヨネザワエリカ│Erika Yonezawa
字はかつて生きていた物語や思考が耐久性を
して園芸の出来栄えが良い。送られた本人も最
得るために一時的に死んでいると考えてもおかし
初は不思議に思って訝しがっていたが、 どうやら
くない。 もしかするとこすみ図書には本から飛び
褒められている事に気づくと自慢気に近所に話
出た魂や物語や思考が生きて飛び交っているの
すようになった。
ではないか。 そう考えた人が多いのだろう。驚いたことに人の出 入りが多い。夜の遅くまで灯りが付いて賑やかに 話す声まで聞こえるという。 さて、 ガラス扉を開けた ら何が見えるのか。
ここから眺めていても本があるようには見えない。
軒先に所狭しと並べられた芸術的な路地園芸。
http://goo.gl/maps/PGaWv
http://goo.gl/maps/X7 rsE
http://kosumitosyo.blogspot.jp/
http://sumidart.exblog.jp/
ふってわいた幸福
[墨東百物語:其ノ十二│増える友人]
身に覚えのないことで褒められた経験はあります
筑波の山から若い学生が数名、墨田にやってき
か。大抵昔の付き合いや何気なく助けた人や動
た。文花にちょうど良い家を見つけ 「あをば荘」 と
物の縁からつながるものでしょう。湧いてでてきた
名付けて住み着いた。あをば荘は古く部屋の中
幸運にまつわる奇談を二つ。
はボロボロだったから、少し年上の知人にお願い
─
をして改装をしてもらった。 もちろん、学生たちは手
[墨東百物語:其ノ五│金の植木鉢トロフィー]
伝った。汗だくで作業をしている学生を見た隣近
明治通りと水戸街道の間に家がたいそう密集し
所の住人が飲み物や西瓜のお裾分けをするよう
た京島という場所がある。庭が無いから路地に
になった。学生たちは素直に喜び自分たちなりの
はみ出した園芸がとても盛んなのだが、数年ほど
お返しをした。
前から金の植木鉢トロフィーを送られる家が出て
─
きた。年に一度しか送られないが、 その家は共通
さて思っていたよりもあをば荘の完成が延びてし
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ヨネザワエリカ│Erika Yonezawa
まったので、知人の友人が手伝いに来たが、 そ れでも進まないので知人の友人の友人が手伝 いに来た。なんとか出来上がったあをば荘でお 祭りを開いた学生たちは、知人も知人の友人も 知人の友人の友人も招いた。祭りには知人の友 人の友人の、 さらにまた友人や知人が次から次 へと足を運び、 あをば荘の前の道路にまで人が あふれた。 数名でやってきた学生たちは半年も経たずにた くさんの友人と墨田の暮らしを楽しむことになっ
毎月のように新しくイベントが行われ、 新しい友人が増えている。
http://goo.gl/maps/kAWyg http://awobasoh.com/
た。 これは墨田でよくある話。
ヨネザワエリカ│Erika Yonezawa
1979年熊本生まれ大阪育ち。広告会社などを経て東京を中心にライターとして活動している。墨田区では鳩の 町通り商店街、墨東まち見世、すみだ川ものコト市などへ関わる。ファッションと美術とおいしいものをこよなく愛する さすらいライター。
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