4面
極夜のムルマンスク オーロラの下、コラ 半島で暮らす人々
カラマーゾフの兄弟
ソルジェニーツィンが過去を 再現し、時代を語ったとすれ ば、ソローキンは 未 来を 扱
い、時代に耳を澄ましている。 ソローキン文学を作家のゲニ
トルバチク山がお目覚め
﹃カ いえるで しょう。 正 に のが、ロシアの 文 化 に 根 源 に息 づいている 最 なさの感 覚を裏 返した アは知 恵ではわからな レーションの高揚の中で 紀夫、大江健三郎も
文化
広 がりに拍 車 をかけて 正しました。 イナミズムを体 現 する
と、 激 情 的な精 神のダ
ス キ ー 文 学への関 心の すべき 箇 所 を すべて修 を 志 向 す る 日 本 文 化
いるのかもしれません。 日本ではなぜロシア ロシア文化です。 ﹁ カ ラ マ ー ゾ フ の 兄 文学が根強い人気を保 ドストエフスキ ー 文 弟﹂を翻訳してどうい ち続けていますか。 学の読 者 は、 それらの
ロシースカヤ・ ガゼ
タ紙︵ロシア新聞︶と毎
日新聞社は、日本とロ シアの多 分 野にわたる 協 力 関 係について率 直 に意見交換する﹁日露 フォーラム﹂ を今月 日、東京で開催する。
︻会場︼ホテル・グラ
6時。
代田区︶
ンドパレス︵東京都千
︻主催︼毎日新聞社、
ロシースカヤ・ ガゼ
タ紙
︻後 援︼日 本 = 外 務
こ の フォ ー ラ ム は、 意見交換の場となる。 さらに、﹁資源開発﹂ 社の代 表やアレクサン 元、 亀 山 郁 夫 東 京 外 省、 経 済 産 業 省、 日 日本での昨年 月の総 特 別 講 演 は ビ ク ト ﹁技術﹂ ﹁インフラ﹂ ﹁文 ドル・パノフ元 駐日 大 国 語 大 学 学 長 や 各 方 本経済団体連合会︵経 選 挙 の 結 果、 安 倍 晋 ル・イシャエフ・ロシア 化・スポーツ﹂の四つの 使、 ニコライ・シソー 面で活 躍している有 識 団連︶など。ロシア=
今月 日、東京で開催
﹁日 露フォーラム﹂
翻 訳に対 して、一部 あ り、ロシアの文 化 に 高の価 値 だと 信 じてい ものといえるでしょう。 い﹂。 言い換えれば、ロ のみ 理 解できるという ラマーゾフの兄弟﹄を高 日 本 文 学 のエッセ ンス 3・ 以降、日本人の チュッチェフの詩が思 シ ア 文 学 は、 精 神 的 こと だと 思いま す。 辻 いイ ンス ピ レ ー ション を体 現 する作 家たちで 心のな かに広 がる一種 から厳しい批 判を受 け ないものが日 本 文 化に ます。 全 体 的な力の憧 の終 末 観 も ドストエフ たのは事 実です。 修 正 ある。 限 りない繊 細 さ れは、 個 人の生のはか い 浮 か び ま す。﹁ロ シ ボルテー ジとインスピ 原、 村上以外に三島由 で経 験 してきた 作 家と す。 ︵8面に続く︶
つあるように思えます。 か。
はロシアの現代作家である。
日 本の文 化にないも 二つの要 素 が 融 合 した う反応がありました
世 界 を 経 験できるので
す。ロシア文学の魅力は 牲 のテ ーマで す。 これ
﹁ケノーシス﹂、 自 己 犠 こ そ が、ロシア 精 神 の マリインスキー劇場で上 演されたオペラ ﹁カラマーゾ フの兄弟﹂ ︵作曲・スメルコ フ、演出・バルハトフ︶ の一 場面 =ナタリア・ラージナ撮影
28
ShutterStock/ LegionMedia 撮影
2面
サンクトペテルブルク 栄華の陰で皇帝暗殺 7面 など暗い過去
人間心理突きつける 亀山郁夫氏訳の﹁カラマーゾフの兄弟﹂が古典としては珍しくベスト セラーになり、 年初からは同名のテレビドラマが放映中。日本におけ 味深いものだ。﹁ロシア﹂と同意語とさえ比せられる﹁ドストエフスキー﹂
るカラマーゾフおよびドストエフスキー・ブームはロシアからみても興
キー文学の登場人物の中に自分の心理、 情感、 魂を見いだす。ドスト
シェリポフ監督が「ハムレット」を 日本で映画化
三 政 権 が 発 足 し て 以 極 東 発 展 相 兼 極 東 連 分 科 会に分かれ、 突っ エフ・モスクワ大 学 物 者がパネリストとして 外 務 省、 経 済 開 発 貿 来、 初の日 本とロシア 邦 管 区 大 統 領 全 権 代 易省、ロシア商工会議 込 ん だ 討 論 を 行 う 予 理 学 部 長、 宇 宙 飛 行 参加する。 の 政 治 家・ 経 済 人・ 表 と 森 喜 朗 元 首 相 が 定だ。 士の向井千秋氏、茶道 ︻ 日 時 ︼ 2 月 日 所、 在日ロシア大使館 分 科 会にはロスナノ 裏 千 家 の 千 玄 室 前 家 ︵木︶ 午 前 時 ∼ 午 後 など 有識者による本格的な 行う。
に攻 撃 を 受 けていまし べき かと、 常 に考 えて た。 私に抵 抗 するよう やまないことでしょう。
れました。 して、 この国 では、 他 すぐに真 実は明かさ にどのよ うな 公 的 な 対 れるでしょう。 私 は 常 応 が求 められてしかる
の発言をあなたが批判 はロ シ ア 国 民 と し て、 している手紙が公表さ 父 親として、 納 税 者と
と確信しています。 政府当局が劇場組織 全体に及ぶ問題を解決 昨 年、 ト ッ プ ダ ン で き る か ど う か で す。 サーのツィスカリゼ氏 未 解 決になった ら、 私
いるかのようでした。 にしか下せません。 この劇 場に不 名 誉を もたらす行 為に関 与し 犯人逮捕に向けた当 ていたのは2 人 や3 人 局の姿勢をどうみてい ではな く、 グルー プだ ますか?
幹部が我々に打撃を与 このよ うな 犯 行は精 神 えることをた く らんで が極めて病んだ孤 独 者
リー クが 起 きていまし で す。 特 徴 が一つあ り た。 劇場経営陣の最高 ます。それは孤独です。
周りで、 個 人の評 判を 顔にかけた人ではなく、 傷つけ る よ う な 陰 謀、 それを指 示した人の顔
バレエ監 督 就 任 直 後 襲撃者が誰か想像が か ら、 劇 場 内 で 決 ま つきますか? りの悪いことが 起 きて 私は自分が似顔絵を いること は 感 じ とって 描いているところ を 想 いました。 自 分の身の 像します。 硫 酸を私の
いたと述べています。
劇場で争いの企てに関 サ ーに 金 を 支 払ってい 心があったグループが たに違いありません。
インタビューで、この に舞 台 裏で誰 かがダン
2006年
の影 響は文 学 だけにとどまらない。 さまざまな国 民が、ドストエフス
写真提供:strana.ru
ロシア舞台芸術アカデミー 卒業
エフスキーの小説群は人間性の研究なのだ。︻リュドミラ・サラスキナ︼
ス氏が分析する。
ボリショイの暗闘
硫酸被害の監督語る モスクワのボリショイ あった ものの、 監 督 に たからといって、私のこ 劇 場 バレエ団の芸 術 監 硫 酸をかけるという前 とを 知る人 た ちが私に 督 セ ル ゲイ・ フィー リ 代未聞の事件は劇場関 背 を 向 けることがない ン氏︵ ︶が1月 日深 係 者 だ けでな くバレエ よ う 望 んでいま す。 私 フィー リ ン氏 はモス すべて 上 演 さ れること
夜、 マス クを か ぶった ファンに衝撃を与えた。 た ちのバレエの新 作 が 男 に 硫 酸 を か け ら れ、
顔などに全治6 カ月以 クワの病 院で手 術を受 もお約束できます。
も仕事を続ける勇敢な ︻アンナ・ネムツォワ︼ 闘士と言っています。
フィー リ ン監 督 と、 こ タビューに応じた。
上のやけどを負った。 けた後、 追加治療のた 同 バレエ団では、 思 めドイツに向 か う 前に 友人たちは、あなた い切った 改 革 を 目 指 す ﹁ロシアNOW﹂のイン のことを入院中でさえ れに反 対 する トップダ
1991年
日本読者の想像力
ビジネス
ンサー らの対 立 が続い 胸 に 手 を 当 てて 自 ていたといわれる。 顔のほとんどが損傷 問 す る こ と が あ り ま 世 界 屈 指のバレエ団 されたのですか? す。﹁セルゲイ、つらい
か?﹂。 あ あ、 痛いよ。
ボリショイ・バレエ学校卒業
日 本 人 は、 ドストエ かむ人 間 心 理の確かで は ドストエフスキ ー 文
︵8面に続く︶
短信
ゆえに配 役や演 出をめ 私 の 頭 が 少 し は げ か?﹂と。それはつらい ぐる 争いはこれまでも て、 目 が 見 えな くなっ よ。﹁ セ ル ゲ イ、 痛 い
服するのか?﹂。もちろ
﹁この 困 難 を お 前 は 克
す ぎ ないので す。 しか
ん。これは一つの試練に
関して無頓着だったこと
し、 自 分の身の安 全に は反省しています。 ボリショイ劇場のイ クサノフ総裁は雑誌の
モスクワ大学芸術学部卒業
28
WWW.ROSHIANOW.JP
ボリショイ・バレエ団の芸 術監督に就任
日本、ロシア沿海州への投資検討 12
もっと読む www.roshianow.jp/41171
2011年
日本の実業界はロシア沿海州における新規の 巨大事業に投資する可能性を検討している。と りわけ高い関心が、液化天然ガス(LNG)工場の 建設プロジェクト、沿海州ハサン地区の穀物ター ミナル、日本市場への大豆輸出に集まっている。 ウラジオストクで開かれたセルゲイ・シドロフ 沿海州副知事と伊藤忠商事の小林洋一代表取 締役の会談で述べられた。 伊藤忠は国際ガス・石油プロジェクト「サハリ ン 1」に取り組むサハリン石油採掘社の筆頭株 主である。【ロシアの声】 ボリショイ劇場で新作発 表会見を行うフィーリン 氏 ︵中央︶=タス通信撮影
1988年
28
モスクワ生まれ
読者の皆様、「ロシアNOW」 へようこそ。 同紙はロシアを紹介する日本語版の毎日新聞への折り込みです 。7月、1月を除 く毎月第2木曜日に発行されます。「ロシアNOW」チームの目標はロシア発の興味 ある記事をお届けし、ロシア理解の一助になることにあります。 2007 年以来、ロシア最大の日刊紙ロシースカヤ・ガゼッタ(ロシア新聞)は世界の 主要新聞に折り込まれる月刊付録を制作してきました。ロシアは現在、政治から文化 に至るまで変化の過程にあります。日本語版ウェブサイト roshianow.jp は追加の記事 や多様なコンテンツが毎日更新されます。ご意見・ご感想をお待ちしております。
ダンサーを引退し、モスク ワ音楽劇場バレエ団の芸術 監督に就任
ロシアNOW 電子版でお勧め
ロシア人民芸術家(2001 年)の称号のほか数多くの賞 を受賞している。1994 年には 『眠れる森の美女』のデジレ 王子役でバレエのオスカーと 言われるブノワ賞、2004 年 に『明るい小川』での演技で ゴールデン・マスク賞を受賞。 1988 年からボリショイ・バレ エ団に所属し、ほぼすべての 主要な役を演じた。
ロシア情報をお届けします
カムチャツカのトルバチク山が噴火し たため、観光客を乗せた今シーズンの 冬のヘリコプターツアーが大ヒットして いる。予測によると、噴火はずっと後の はずだった。複合火山であるトルバチク 山のうちの一つであるプロスキー(なだ らかな)トルバチク山の山腹に二つの巨 大な亀裂が入り、溶岩が噴出した。
2008年
ロシアのチェチェン出身のイナル・シェリポ フ映画監督は「ハムレット」の映画化を日本で 行おうとしている。日本人俳優らが採用される が、ハムレットの母親役はロシア系フランス人 女優のマリナ・ブラディさんが出演に快諾する ものと見られている。映画は日本語で撮影され る。シェリポフ監督は、「ハムレット」は日本人 の精神性に沿っていると考えている。 【タス通信】
セルゲイ・フィーリン
10
1970年
フスキー理解において、 清浄な水源に向かうよ 学との類 似 性が指 摘さ ド ス トエフス キ ーの
第一次 世 界 大 戦と同 小説とその登場人物を
世紀の 年 を読んできた。
すでに1 0 0 年の歴 史 うに、ドストエフスキー れている。 を誇る。 代 から読み始 め、この 古典作家の創作を、 自 時 代の新しい日 本 文 学 愛 する日 本 人の﹁ドス スキーの時 代﹂ とも名 の偉大な古典作家を評
分と血のつながる文 学 の発展期は﹁ドストエフ トエフスキー愛﹂は、こ として受け止めた。 過 去 1 世 紀にわたっ づけ られる。ロシア文 価し、 読み返す理由が て日本が体験した大変 学 全 般、 中でもドスト あることを、 あ らため
動の影 響のもとで、 日 エフスキ ーの創 作 を 愛 て確認するものである。 本の読 者は想 像 力をつ した芥川龍之介の作品
文 則 といった 作 家 た ち
﹁文 化 を 補 完 ﹂ ﹁ カ ラマ ー ゾ フの 兄 ますか。
山郁夫・東京外国語大 作 家の多 くが、 確 実に 罪とは何か、 罰とは何
驚くべきことですし、 です。 弟﹂ を翻 訳し、 最 新の ドストエフスキー・ブー 素 晴 ら し いこ と で す。 ドス トエフス キ ーの ムの立 役 者 となった 亀 現 代の日 本を代 表 する 文 学 が 提 出 する 問 題、 ドストエフスキ ー を 意 か、 あ るいは、 マゾヒ
17
讃岐うどんの「丸 亀 製 麺 」 が モ スク ワに1 号 店を開 い た。日系外食チェー ン の ロ シア 進 出 は 初めて。マクドナル ド など先 行 組と競 争が激化しそうだ。
アクーニン:カラマー ゾフに引かれる訳は 8面
ロシアと日本の共同作業と関係 強化について話し合う建設的対話 継続のために私はフォーラムに参 加します。両者の協力がうまくい くためには何よりも信頼が大切で す。信頼できないプロジェクトや 地域あるいは国に投資しようとい う人はいません。フォーラムにお ける私たちの課題は極東をオープ ンにしてその可能性を紹介するこ とです。日本はロシアに投資する 用意があると思います。私たちは そうした投資は可能であり有利で あることをパートナーに確信して いただきたいと思っています。
ウラジーミル・ソローキン
2006 年 の ロシア 文 化フェス ティバル以来、日露の文化交流・ 平和友好に微力ながら関わってい ます。日本・ロシアフォーラムを 通して、歴史ある、そして若い国 ロシアの魅力を日本の方々に知っ てもらいたいと願っています。
モスクワで 讃岐うどん ロシア連邦極東発展 相兼極東連邦管区大 統領全権代表
11
Distributed with The Mainichi Shimbun
ビクトル・ イシャエフ氏
日本の自動車メーカー日産が「インフィニ ティ」の商標をめぐり、ロシアの機器製造会社 3社(サン、コンピューリンク、ユスト・コンサ ルティング)の商標使用権を期間満了日前に停 止するようモスクワ市仲裁裁判所に求めた。サ ンのクロチキン社長は「2008 年からロシア国内 での『インフィニティ』専用使用権が当社にある。 当社だけがこの名称で、例えばインクをロシア 国内で販売できるそう」 と語った。【cnews.ru】
文化と芸術の力によって、そし てお互いへの尊敬の念によって政 治を変え、政治を超え、わかりあ える「時」をともに創造したい。本 フォーラムが、将来における真の 友情のためのささやかな里程とな ることを切に願っています。
学学長に聞いた。
私の一言
ソルジェニーツィンとの対比 でソローキン文学を読む 女優
2013年 (平成25年) 2月14日 (木曜日)
識 して小 説 を 書いてい ズ ム の 本 質、 自 己 犠
ビジネス・技術・文化・スポーツを 接点に両国関係を話し合う
日産がロシアの会社を提訴 東京外国語大学学長 ロシア文学者
10
日本でのカラマーゾ ます。 村上春樹、 辻原 牲、 黙 過 といった 問 題 フ︵ドストエフスキー︶ 登、 高 村 薫、 平 野 啓一 が 現 代の日 本 人 にとっ
フォーラム
42
亀山郁夫氏
20
ブームをどう感じてい 郎、鹿島田真紀、中村 て痛 切 な 響 きを 帯 びつ
日本 ロシア
オピ ニ オン ( 5 面 )
栗原小巻氏
DISTRIBUTED WITH THE MAINICHI SHIMBUN
www.roshianow.jp SECTION SPONSORED BY ROSSIYSKAYA GAZETA, RUSSIA
ロシア NOW 2013年(平成25年)2月14日(木)
1
丸亀製麺が1号店 日本の﹁トリドール﹂が運営するもので、日系の 外食チェーン店がロシアに本格展開するのは初め てという。 トリドールのコンサルティングを担当 している米国の総合不動産会社 ﹁ジョーンズ・ラ
いる。
チキン味 %
回っており、ホワイト
の が 決 ま り だ が、 旅
行者、ダーチャ ︵別荘︶
滞 在 者、 学 生、 建 設
労 働 者、 事 務 員 な ど
が、 こ れ を 毎 日 の メ
ニューの一つにあげた。
韓 国 ヤ クル ト 株 式
% が定 期 的
を 食べたこと が あ り、
大 人の
に食べていると回 答し
おいしさが %、 食べ
た。 食べる 理 由では、
エビ味 ・2%
それぞれ %だった。
や す さと 安い価 格 が
またホワイトカラー
の多くが、時間がない
ポーク味 ・4%
ことやコースランチに
2007年にシベリア
﹁ ド シ ラ ク ﹂ は、
いることも判明した。
食を取るようになって
を 理 由 に、 職 場 で 昼
かけるお金がないこと
その他 5・1%
野菜味 4・9%
カニ味 3・9%
分からない 1・2%
新 工 場 を 建 設 し、 翌
のノボシビルスク市に
影 響 は 限 定 的 だとさ
れているが、食品市場
2 0 1 2 年 初 めに も変化の波にさらされ
ロシア人の感 性に響 く
ような内 容に作り直し
取ることはありません。
有 望 な 案 件 を 実 際に一
事 業 と 考 えてい ま す。 当社が日本製品を扱う ています。
大 きな成 果で、 有 望な 品類、タイヤなどです。 件 を 手 がけたいと考 え
とが 確 認できたことが 心とした車 関 連、 化 粧 せるよ うな、 新 しい案
し た。 し か し、 育つこ きいのは、 中 古 車 を 中 ますよ。 世の中を驚か
山 田 氏 ロシア部 門 式です。 緊 張 感が常に ず かしかでき ませんで の 売 り 上 げ シェアで 大 あ り、 やりがいが あ り
農業以外も幅広く手 緒に手 がけて、 事 業 か ら収 益を得るという方 がけていますね
強みです。
ウを 持つ点 が 私 た ちの て、 相 談 だけで料 金を
山 田 氏 当 社はコン 一緒 に 取 り 組 む。ロシ アに人 脈 や 販 売 ノウハ サルタント 会 社 と 違っ
門 家のいる 新 糧 さんと になるのでは
ではありませんが、 専 る。相談だけでもお金
ば、 我 々 は 農 業のプロ て 少 し ず つ 増 え て い
こだわ ら ずに事 業に進 日本企業のロシアへ 出 し ま す。 ソバで言 え の関心も、以前に比べ
ら、これ までの経 験 に
つ市 場 性 が見 込 めるな けました。
す。 新 しくて、 な お か 秋に駐在員事務所を設
山 田 氏 私 た ち が リアを得意としていて、 重 視 するのは新 奇 性で ウラジオスト クには 昨
未経験の事業でも積 ます。 売り込み先の地 極的ですね 域 としては 極 東 やシベ
が 積 もって、 収 穫 が わ しょう。
が異 常 気 象となり、 雪 する 段 階 まで進 めるで 単 純 な 翻 訳 では な く、
残 念ながら刈り入れ期 燥 さ せ て 日 本 に 出 荷 つとって も、 日 本 版 の
題 な く 育 ち ま し た が、 今 年は刈り入れ後、 乾 時には、パンフレット一
手軽で安くおいしい
急激にインフレが進ん 行われた世 論 調 査で、 てい る。︻ ビ ク ト ル・ だ。 格 安 商 品 の 需 要 モスクワっ子 全 員 が一 クジミン︼
ら 脱 却 し たロシ ア は
経 済 が 混 乱 し てい た て、このラーメンは救 時 代 だ。 社 会 主 義 か 世主だったのだ。
ア 市 場 で 定 着 し た ちそ うとみなされた。 増している。インスタ 1990 年代半ばは、 多 くのロシア人にとっ ントラーメンに及ぼす
だろう。 いて、 安いインスタン 冷凍食品というライバ ﹁ ド シラ ク﹂ がロシ トラーメンまでもがご ルが現れ、その勢いを
るのは、 他にペプシ・ し か も、 当 時 は 輸 るほどになった。 コーラやマーズ︵チョコ 入 品 な ら 何 で も ぜい ロシアの食品市場で レート・バー︶ぐらい た く 品 と 考 え ら れて は、 ここ 5 年 で 調 理
一つに数 えられる。こ アの消費者の心をわし にも生 産 拠 点を作り、 のよ う な 知 名 度 を 誇 づかみにした。 1日1 万 食を出 荷 す
メ ン は ロ シ ア の 食 品 は高く、そこそこ質が 年 に は モ ス ク ワ か ら 市 場 で す で に 古 参 の 高ければ、 瞬時にロシ 約200 ㌔のリャザン
会社の ﹁ドシラク﹂ラー
度はインスタント食品
韓国の即席ラーメン
他 に もロシ アの う
ど ん チ ェ ー ン 店﹁ ウ
ド ン ヤ サ ン﹂ が あ る。
2 0 0 7 年にモスクワ
カ ラ ー を 含 む、 さ ま を展開している。
さな ど、 理 由 はいろい
・ 8 %︵ 4 6 8 してこなかった。
ロシアの栄 養 士はイ
高い。
% ン店 相 互の競 争が激 化 高く、サービスはウエー 麺 の 1 号 店 に 1 日 で
このホールディングは、 ば、 開 店に費やした費
ラッキー・ヌードルズ
否 定 的 な 見 方 を する
ンスタントラーメンに ロシアの外 食 ホ ー ル
ターが行う。
5 0 0 人の来 客があれ
専 門 家 は、 丸 亀 製
5 店 舗 あるメンザの ろ考えられる﹂と語る。
ざ ま な 人 々に人 気 が
歳 以 キン、サブウェイ、バー 1 2 0 0 円 ︶ 、 ピ ザ 店 ディングはロシアで展開 理チェーン店 ﹁メンザ﹂ い店 舗 貸 料、 立 地の悪
330円︶だった。
メグ
店内の雰囲気はニューヨー クのチャイナタウンの軽食堂 を思わせる。 メニューはヌー ドル入りスープと蒸かしピロ シキだけ。この店を開いたの は、隣接するレストラン﹁ロ ニ﹂のマレーシア人シェフのマ ムさん。
チキン、エビ、または、ビーフ入 ︵約450 りヌードル150 ルーブル 円︶
実 験 的な位 置 づけでし
たが、 今 年は面 積を倍
きのこ味 %
韓国のインスタント
する外食ホールディング ト ランに行った
丸 亀 製 麺のロシア進
り、 1 回の平 均 利 用 額 系 チェー ン店 で、 全 体 円 ︶ 、 キ オ ス ク な ど の 出 によ り、 外 食 チェー 価格は丸亀製麺よりも
・ 1 % に の ぼ ディーズなどのアメリカ ルーブル= 約1 40 0
﹁ロスインテル﹂のワレ 上のモスクワ市 民 は 全 ガ ー・ キ ン グ、 ウェン が 話す。
リヤ・シリナ副 社 長は 体 の
同じく3 カ月に1 回 1100円︶だった。
額3 7 7 ルーブル︵ 約 ︵ 1 1 2 ル ー ブル = 約 しそうだ。
市場調査会社﹁シノベ は8 7 7 ルーブル︵ 約 の ・8 %。 平 均 利 用 通りの販 売 拠 点は タでも、 日 本 食の人 気
メンザ
ロッテホテルの1階にある 和食レストラン。店内の壁に は、酒瓶や猪口が飾られてい る。 シェフのエンメ イ・ヨシ タカさんによれば、ロシア人 が好むシーザーサラダに特製 の柚子ドレッシングと麺が添 えられる。
ノブ
3年ほど前にオープン。ビ モスクワに4店舗あるレス ジネスランチタイムは平日の トラン。 赤と黒で統一された 時∼ 時。 アメリカ人シェ 内 装、 開 放 式 の 厨 房、 種 フのオシャーさんは米国西海 類の麺をそろえた豊富なメ 岸のNo bu で5年間働いた ニューで際立つ。料理長のフォ 後にモ ス クワへ移った。ロシ ミチョフさんによれば、人気 ア人の口に合うように、太め メニューは麺入りチキンスー の和風うどんを出している。 プと和風醤油ラーメン。
︵約 鍋焼きうどん1500ルーブル 4500円︶ 、柚子風味のシーザーサ ラダ550ルーブル ︵約1650円︶
イービストレー ド社が 成 果
生 産しました。 昨 年は
︵約 味噌ラーメン127ルーブル 400円︶ 、トッピングのウズラの卵 ルーブル ︵約100円︶
roshianow.jp/ startups
︵約 鶏肉うどん1050ルーブル 3150円︶ 、天ぷらうどん850 ルーブル ︵約2550円︶
極東でソバを栽培
40
19
17
15
のロシア事務所が明らかにした。 讃岐うどんの専門店﹁丸亀製麺﹂が2月1日、 ング・ラサール﹂
3 万 ㌶ 規 模 を 狙ってい
にしま す。 5 年 先には
写真は全てアレクセイ・ベリツォフ/ TheVillage 撮影
以 上 訪れた店 舗として こ の ほ か、 カ フェに 欧 米 のファス ト フー ディング﹁ベスタ・ツェ ﹁ ヤ キ ト リ ヤ ﹂、﹁ ギ ン 用は2 年で回 収 するこ 並 んで、 モスクワで人 は証明されている。 1 号 店はモスクワ市 ワ の 店 で は 平 均 価 格 れるという。 ﹁フジコ﹂、 ﹁ベ とが十 分 可 能 だとみて 中 心 部のピャトニツカ が3 5 0 ルーブル︵ 約 日 本 料 理 は、ロシア 気 トップ 3 に 入 る と、 昨 年 9 カ 月 の 間 で、 数 字 が 高 かった の は、 入った 市 民 は ・ 6 % ド 店 が 活 発にロシア市 ントル・インテルナショ ノタキ﹂、 ヤ通り ︵地下鉄トレチャ 1050 円︶に設定さ 料 理やイタリア料 理と 日本食チェーン﹁プラネ 3 カ 月 に 1 回 以 上 す マ ク ド ナ ル ド、 ケ ン で、 平 均 利 用 額 は 場で展 開 する中、これ ナル﹂ は、 う どんやそ ントー﹂なども運営して いる。 コフスカヤ駅近く︶に開 席
店した。 店舗面積は約 200平方㍍で、 ある。 ト リド ールはロシア 国内に5 年間で100 店舗開く計画だが、1 号 店の売り上 げ次 第で は修 正される可 能 性も あるという。 日 本 にある セ ルフ チェーン店では、一人前
サ ー ビ スの 丸 亀 製 麺
∼600円︵100∼
のうどんが平均3 00 2 0 0ルーブル︶で販 売 さ れている。 モス ク
トリドール・モスクワ法 人の池 光 正弘社長は、モスクワを欧州市場進 出の足がかりとして極めて有 望であ るとみな す。 今 年 春にはモスクワに さらに3店舗オープンする。 標 準 的な日 本の店 舗との違いはサ ラダ︵モスクワっ子が好むシーザーサ ラダを含む︶とロールも提供すること だ。 トリドールの古賀むつみ広報部 長は﹁ロシアの消費者に伝統的な日本
ま す。これは 日 本のソ 契 約し、 2 0 0 ㌶ 弱の します。
どんな経緯でしたか 山田康夫部長 食品 商 社の新 糧さんから話
沿 農 地で、 約20 0 ㌧を
︵約9000 万円︶は、
をいた だ きました。 日
した﹂
事 を することにな り ま
機 関の仲 介で一緒 に仕
検 討してお られ、 金 融
環 でロシアでの生 産 を
調 達 ルー ト 多 角 化の一
入 品です。 新 糧 さんは
の大 半は中 国 からの輸
本 で 流 通 しているソバ
試 験 生 産や試 作 品の商 品 化、 市 場 参 入の準 備 などにあてられた。 ディス プ レ アの 生 産 は、 ゼレノグラー ド 特 ㌔にある同 市の飛
別 経 済 区︵モスクワ北 西
び地 ︶で行われる予 定 だ。 初回品販売は今年 サムスンな ど 世 界 的
の春を見込んでいる。
ていて、 農 家 に人 脈 が
菜 種の試 験 栽 培 を やっ
ソバ栽培の経験は 企 業からも共 同 開 発の 松 尾 氏 未 経 験で す。 前 年 までに別 件で 提 案 があるが、 今のと
ころは、 自 社 だ けで進
めて行 き たいと 考 えて いる。
できていました。 また、
ソバは 丈 夫で比 較 的 育
現地農家に人脈築く
10
ソ バ の 生 産 規 模 は ど 海 地 方の複 数の農 家と バ需 要の2 割 強に相 当
ロシア 極 東 地 域でソ ジタルメディア、 環 境、 あるト ラストレード 事 いた。︻吉村慎司︼ バの栽 培を始 めた中 堅 自 動 車などの事 業を国 業部の山田康夫部長と 商 社のイー ビストレー 内 外で展 開して業 績を 松 尾 泰 寛 課 長に、ロシ
年初め 万 6 0 0 0 ㌦︵ 約 1300 万円︶は、 オ フィスの賃 貸 料 と、 人 人 を 超 えた。
件 費になった。 現 在 社 員 数は
:
追加資金の100 万㌦
松尾泰寛課長
ド︵東京都千代田区︶が 伸 ばしている 総 合 商 社 アでの農 業 ビ ジネスの れぐらいですか 注 目 を 集 めている。 デ で あ る。ロシア 部 門 で 可 能 性 な どについて聞
ロシアのディスプレア めのことだ。 物 理 理 論 驚いたのは、 主 催 者 か 続 いてマスコ ミ や ビ ジ 画 像 を 操 作できるマル あ ら ゆ る イノベー ショ 社が、 水の粒 子と空 気 を学んだ同氏は、 既存 ら デモ ンス ト レー ショ ネスマンも 関 心 を 寄せ チタッチ技 術 を 採 用 し ン 大 会 で 入 賞 し た た でスクリーンな しに画 の技術を使ってこのアイ ン用に機 械の試 作 品を た。これで奮 起 した カ た、ディスプレーの次の め、 会 社のメール受 信 となった。投資家、ファ 同 社の運 営 責 任 者ア ン、一般の購 入 希 望 者
トの改 善に積 極 的に取 完成させた。 最 初の試 作 品にはま り組み始めた。
れたことでした﹂
像をつくりだす画 期 的 デアを 実 現 することが 持ってくる よ うに言 わ マニン氏は、 プロジェク 試作品を2011 年に ボックスは パンク 状 態 卒 業 までには 十 分に
な ディス プレー を 完 成 可能だとわかった。 させた。この装置には、
知 り 合いで結 成 した ンド レイ・ メ リニコフ などから次 々とメール
ま った の は
最初の資金が集
中の画 像が操 作できる フォー ラム﹁セ リ ゲル 統領︵当時︶が注目し、 グルー プは 手の動 きで 氏は﹁試作品はロシアの が届いた﹂と語る。
体の動 きに合 わせて空 理 論 を 構 築 し、 青 年 ず、 メ ド ベー ジェフ 大
35
13
11
イ ン タ ビ ュ ー
17
の こ と だ っ た。 こ の
12
光 学システムも内 蔵さ 20 10﹂で登 録した れている。 発 売は今 春 プロジェク ト を 完 成 さ せ た。 ディス プレ ア 社 このアイ デ アが、 発 の最高経営責任者を務
の見通しという。
案 者 のマクシム・ カマ める カマニン氏 は、 当 ﹁フォーラムに招待さ
ニン氏の頭に浮 かん だ 時をこう振り返る。 のは、 アス ト ラハン国
立工科大学の卒業を控 れるとは思っていません えていた20 1 0 年 初 でしたが、 それよ りも
インスタントラーメンの人気の味
ラーメン﹁ドシラク﹂
196 平方㍍
店 舗 ま で 増 え た が、
モスクワのヌードル 専門レストラン。
でオ ー プンし、 3 年で
モスクワにおけるすし 職人の平均賃金。
昨年は作物自体は問
トラストレード事業課長
イト・コムコン﹂のデー 2600円︶だった。
12
︻コメルサント紙・エカテリーナ・ゲラシチェン
26,000 ルーブ ル ( 約 8 万円)
てやすい作物です。
トラストレード事業部長
16
モスクワに1号店を開いた。アジア諸国、アメリ
丸亀製麺モスクワ 1 号店の面積。
松尾泰寛
35
カ、オーストラリアで外食チェーン店を展開する コ、ヤナ・ロジェストベンスカヤ︼
22 店舗以上
ビーフ味 ・3%
20.1%
は、 す でに 四 半 世 紀
トリドール社が向こう 5 年間でロシアに展開 する予定の店舗数。
の間、ロシア市場に出
丸亀製麺モスクワ 1 号店の座席数。
現 在は1 店 舗に縮 小し
75 席
タ・スシ﹂ な どを 展 開 し バ ー や 日 本 食 レ ス タッキ ー・ フ ライ ド チ 4 1 2 ル ー ブ ル︵ 約 まで日 系の外 食ホール ばを 提 供 するアジア料 た。シリナ副社長は﹁高
トリドール社の 2012 年度の利益。 10
20
山田康夫
20
日系外食店が初の進出
100 店舗 19
マックなどに挑む
モスクワにオープン する丸亀製麺 1 号店の 1食分の平均価格。
しつつある。単一のコンセプ トがまれなモスクワで、人気 のある麺処(めんどころ)をい くつかのぞいてみよう。 14
しい﹂と話す。
610 億 7500 万 円 13
50
新しさ追求が重要
人気麺処 安いとは限らず
32
350 ル ー ブ ル (約 1050 円) これまでは民 族 料 理の一 ジャンルにすぎなかった麺類 が、徐々にではあるがモスク ワで日常的なメニューに定着
75
欧州進出の足がかり
25
最近 3 カ月間に一度 でもすし店もしくは和食 レストランを訪れたモ スクワっ子の割合。 スクリーンがないのに空中に画像が見える (写真提供:displair.com)
の麺 を 好 きになってもらえればうれ
「ディスプレア」
数字あれこれ
1. 製品名:「ディスプレア」 2. サイト:Displair.ru , displair.com 3. 製品紹介:ディスプレア はインタラクティブなスクリー ンなしのディスプレイ。空中 にあらゆる画像を表示し、完 全に透過する。この装置には 体の動きに合わせて空中の画 像が操作できる光学システム のマルチタッチが内蔵されて いる。次々に香りが変わる画 像芳香システムもある。 4. 商品アピール:世界初 のマルチタッチ付きインタラク ティブ空中ディスプレイ 5. 会社設立:2010 年 8 月 6 将来の計画:2013 年3 月に世界的な販売開始。半 年に 1 回、新製品を発表予定。 2018 年までに消費市場へ参 入をめざす。
特 集 企 画 は こ ち ら で
40
春にはさらに3店
第1回
製品情報
ロシアで讃岐うどん 宙に浮かぶ画像
2013年(平成25年)2月14日(木) ビジネス 2
ロシア NOW www.roshianow.jp DISTRIBUTED WITH THE MAINICHI SHIMBUN SECTION SPONSORED BY ROSSIYSKAYA GAZETA, RUSSIA
国営会社﹁ロシア郵便﹂は小包を配達するの に数週間、 数カ月かかる。 税関に責任がある 場合もあるが、そもそも﹁ロシア郵便﹂の職員 の給 料は安く、 勤 労 意 欲は高まらない。 慣れ ない現代的な技術を覚えているという状況で、
﹁ま だ、 すべてが失われたわけでは ない﹂︱︱機知に富んだ﹁ロシア郵便﹂ 利 用 者が思いついたスローガンはいろ いろあるが、これがもっとも侮辱的な ものというわけではない。ロシア郵 便 市場の独占会社﹁ロシア郵便﹂は、小
包や郵便物の配達に問題があること で有名なだけではなく、ソ連時代か らの利用者へのサービスの欠如という
﹁伝統﹂を守っているという点でも有 名 だ。 インターネットの時 代になっ ても、ロシアの郵便局では配達遅延
職員の士気高まらず
そこで E M S のホッ
直 前の女 性た ちで、 新 をさらに困難にした。
前に郵 便 局に届いてい 職員の大半は年金生活 でなくても厄 介な状 況 たことがわかった。
この局には 急 行 配 達 しい 技 術 を やっとのこ
の 職 員 がいな かったの とで覚 えている 有 り 様 小包検査の強化
お 正 月は仕 事 休みの
みな数倍に延びる。
シー ズン。 配 達 期 間は
で、 家には届 け られな だ。
職 員 が 1 人 だ け な の 税関でも順番待ち
﹁ロシア郵便﹂の公式
かった の だ。 そ の 上、
外 国 のインタ ー ネッ
とをコンピューターにも ト・ ショップに 商 品 を データによれば、 年 間
で、 小 包 が到 着 したこ
配達遅延に遭う。 英国 下 とのこと だが、 遅 延
打ち込めなかったのだ。 発 注 する人は恒 常 的に で紛失郵便物は1% 以
からのE M S 便が2 カ 郵 便 物が何パーセント
しかし国 際 配 達の遅
そのうえ昨 年
月に
職員の問題は﹁ロシア 月半かかることもある。 になるかの統計はない。
最大の問題は職員
郵便﹂の最重要問題の一
れる不 平のう ち、 半 数 局 のせいという わ けで られる小 型 小 包の検 査
つだ。 市 民 から寄せら 延の原 因 が すべて郵 便 税関当局は、 郵便で送
乱 暴 な 態 度、 不 親 切、 間、ロシアの税 関 にと
郵便局は小包を1 枚
は職員への不満であり、 は ない。 荷 物 が一定 期 を強化した。
の書 類でまとめて提 出
﹁ロシア郵便﹂の広報 小 包は、 順 番 通りでな ずつ手 続 きしな ければ
以 前にはE M S 便の するのではな く、 1 個
専 門 知 識の欠 如などと どまることもある。
室 に よ れ ば、 職 員 の く特 別 扱いで検 査 され な ら な く なった。 この
なっている。 ドバイスしてくれた。
には結果がわかる﹂とア
小包にはサンダルと、 平 均 給 与 は、 月 給 で ていたが、 2 0 1 1 年 ため、 小 包1 個の処 理
夏 用 の品 が 入っていた 3 0 0 ∼ 4 0 0ユーロ からはそれがなくなり、 にかかる時 間 が数 倍に
ころ全く見えていない。
改 善の兆 しは 今のと
が、 も う 夏 も終 わりに ︵ 約 3 万 7 0 0 0 円 ∼ 他の荷 物と同 じよ うに 増えた。
自 分の順 番 を 待つこと
このよ う なロシア 税 そのた め 利 用 者のイ ラ
これでは 有 資 格 者の になった。
。 近い。そこで気休めに、 約5万円︶ 近 くの郵 便 局 に行って
みた。 長い行 列に並 ん 青年は、 郵便事業に就
月
﹁デ ソ連 誕 生 後、スターリ 年に本格的な輸入を始 採 用 されている﹁アビ のほか、﹁ブーラン﹂
田谷区︶だ。2007 クロバット チ ー ム に も ストーク・ヨーロッパ﹂ 製 造 体 制 が 整ったのは
時 代、 研 修 旅 行 先 だっ
年近く過ぎて日本
スに衝撃を受けた。
では 想 像できないセン
戦 車のデザイン。 日 本
れており、 文 字 盤には
行 士 ガガーリンが描か
いう。 ベルトに宇 宙 飛
万 円。 かけた 腕 時 計 だったと
腕 時 計1 本の中心 価 たウラジオスト クで見
つ増えていった。
店 していたことで注 目 を 薄いが、 その歴 史 は 帝 店、 また1 店と少しず 至るきっかけは、 高 校
今のビジネス展 開に
ロシアンウオッチ︵写 雰 囲 気 が 時 計ファンに した経歴を持つ。
日本で静かに浸透
ロシアンウオッチ
追 跡システムによる でみて、 小 包 は ずっと 職 し よ う と は し な い。 関 規 則の変 更は、 そう イラは募るばかりだ。 アレクサンド ラさん と、 モスクワを 出 たと
実は着いていた⋮
低賃金で人手不足 ﹁ロシア郵便﹂はソ連
EMSも例外でない
時 代の国 民へのサ ー ビ はモスクワか らの小 包 表 示 されていたが、 自 ス提 供 システム をいく を待っていた。モスクワ 分が住む都 市には現れ 典 型 は 郵 便 局の行 列、 での配 達日 数は、 E M は、 途 中のどこかで滞
つか 残 している。 その 州にある彼 女の都 市 ま ないま ま。つまり 小 包
時 間 が か か るこ と と、 る。 2 週 間 たっても 届
そして配 達に理 由なく S だと2 日 とされてい 留している様子だった。 かないので心配になり、 ト ラインに電 話 し、 郵 ﹁ロシア郵便﹂は通常 サイトで配 達 状 況を調 便物捜索係に調査願を
職員の失礼な態度だ。
出 し た ら、﹁ 1 カ 月 後
日 本の腕 時 計ファン じわじわと開 拓し、 現 ガガーリンが19 6 1 ドが静かに浸 透を続け 名店を含む全国約
は日本ではなじみが 響き始め、 取扱店は1 の間 で、ロシア ブ ラン 在 は 東 急ハンズな ど 有 年の宇宙飛行時に装着 真︶
アンドロスの安 藤 治
浴びた﹁シュトゥルマン 政時代にさかのぼる。
同 社が輸 入 するブラ ス キ ー﹂、 現 在 E U 圏
ている。 仕 掛 けている に納入している。 のは、ロシア専 門 商 社
のアンドロス︵東京都世 ンド は 5つ。 空 軍のア にも販 路を広 げる﹁ボ 哉社長︵ ︶によれば、 格 帯 は5 万 ∼ 参加者の一人、インターソフト・
アンドロスが 輸 入 を
です﹂︵安藤氏︶ 。
年は不 良 品はほぼゼロ
を 点 検 するが、ここ数
当 社は輸 入 すると全 品
比べても遜色ない品質。
あった。今は﹁日本産と
メー ジを 落とした 時 も
が出 回り、 国 際 的にイ
過 程で一時 的に粗 悪 品
工 場 が 民 営 化 さ れる
に 入って ソ 連 が 消 滅。
その後1 9 90 年 代
くむものだ。
第 2工 場からの流れを
ドも、当時の第1工場、
いう。 前 述の5 ブラン
業 が整 備 されてからと
クワに大 規 模な時 計工
ンの5 カ 年 計 画でモス ユ ー ラシア 社 長 の ウ ラ ジー ミ
﹁DO
的なスグレモノです。 i O S、
技 術 と デ ザインの両 面で 革 新
RA﹂をご紹介したい。 -
日 本の皆 さんに、 携 帯 電 話 に接続できる超小型放射線量計
フォーラムでの狙いは?
アNOW﹂が聞いた。
ル・エーリン工学博士に﹁ロシ
めてから取扱小売 店を アートル﹂や、ユーリー・ ニソフ﹂だ。
探る﹁日露 フォーラム﹂が今 日、 東京で開催されるが、
ロシアと 日 本 の協 力 関 係 を
携帯接続の線量計
の郵 便のほかに、 急 行 べてみた。 配 達サービスであるE MSを提供している。 ロシアでは E M S も 問 題 を 抱 えている。 E 達 状 況をサイトで確か
MSで送る郵便物は配
配達遅延は、かなり頻
12
で会 社を起こした安 藤
氏 は、 モスクワの時 計
メーカーの社 長を訪ね
﹁日 本 総 代 理 店 にな り
その後 5 年 がかりで
たい﹂と直談判した。
輸入を実現。 販売が始
まってか らは日 本の消
費 者 事 情 を 伝 えた り、
品 質 向 上のためのさま
ざまな提 案をしたりし
て、 各社と信頼関係を
日 本の時 計ファン向
結んでいる。
け に 自 社 運 営 のイ ン
代 以 上の男 性が ターネット 通 信 販 売 も
の 販 売 が 中 心 だ。 当
安 藤 氏は、 都 内の高 面は、 卸先の小売店を
︻吉村慎司︼
代半 を目標に掲げている。
ロシア独 特のデザイン、 ば までモスクワで暮 ら
な かった という。 だ が 大学に進学し、
な か 取 り 合っても ら え 校 を 卒 業 後、ロシアの 1 0 0 店に広 げること
アピールしても、 なか
してお らず、 小 売 店に えてきた。
ランドはほとん ど流 通 レクターになる 人 も 増 る商 品 だけに、 店 舗で
計マーケットにロシアブ 固 定 ファンと な り、 コ 手がけるが、 値 段の張
始めた当 初、 日 本の時 主に
30
め られるが、 それでも 繁に起きる。
にはシベリ ア 鉄 道の現 家 が 供 与 し てい ま す。
35
人 手は足りない。 そしてそのツケは利 用 者が の状態が日常的に続いている。
心を示しています。
アンドロイド、WP7、Jav da 、Sy m b ia n な どの
a M E、ブラックベリー、Ba
放射計を兼ねており、モバイル
OSに対応している。線量計と 機 器 に簡 単 に接 続できて、 空 間線量も被ばく量も測れる。 フォーラムへの期待は? フォーラムには、日露関係発 展の先 駆けになってほしい。 両 国 間に難 問 は あるが、 関 係 を 近い将来、 特にハイテクと貿易
リセットできる可 能 性 がある。
がなされると信じたい。
の分 野で、 根 本 的 な 関 係 改 善
タス通信撮影
かぶっている。︻ウラジーミル・エルコビッチ︼
になり、
業への投 資 総 額は
ま ず、 輸 送インフラ か? ㌦となりました。 現在、 国家が約 億 現在、日本は、ヤクー を 創 出 してコンテナ輸 チヤ︵サハ共和国︶やイ 送 を 発 展 させなくては ㌦︵1000億㍔︶を供
億 展させる計画ですか?
26
極東への投資のバラ 年には同 企 極東ではどの部門を発 ンスは最適でしょう 09
ル クーツクの産 地に関 なりません。 そのた め 与し、 その5 倍を投 資
材 を 上 質のパル プにま ん。 それを取り締 まり
くてはなりません。 木 東 も例 外ではありませ
せん。
で加工 する工 場の建 設 克 服 しなくてはなりま も必要です。
10
40
ている。郵便物処理の飛躍的なスピードアップと なっているが、機械操作についていけない職員 もいる=キリール・クジミン撮影 ンター」の第1号がモスクワ州ポドリスク市にある (写真) 。ここでは毎日 300 万の郵便物を処理す る能力があり、人口 2300 万人の地域をカバーし
小包はいつ届くのか
極東発展へ加速
90
28
昔も今も
中 国は何としても極 代 化や第 二バム鉄 道の 外 国の投 資 家は %に 計画や法案作成が進め することが必要です。 東の生 物 資 源を手に入 建設が必要です。 す ぎ ず、 残 りはロシア
﹁ ﹁追い越す﹂計画を準備中 ロシ ア 政 府 は 昨 年、 に行われましたか?
23
ビクトル・イシャエフ氏
30
ロシア連邦極東発展相兼極 東連邦管区大統領全権代表
日本で「DO -RA」紹介したい
もっと読む www.roshianow.jp/13551
33 10
配達遅れ深刻
東 方シフトという 新 た 2 0 0 0 年 代 初 頭 られています。 第 二に、 日 本や中 国 あるいはオフショアで登 れるという 明 確 な 課 題 な 方 向 性 を 打 ち 出 し、 には の連 邦 構 成 主 体 現 在、 極 東 の 経 済 外国のパートナーの があり、 まだ捕 獲され といった 巨 大 な 市 場 が 録 さ れているロシアの 極東発展省が創設され に3500 万㌦︵ 億 活 動は国 内の平 均を上 関心のほどは? ていない 魚 を一定 の 価 近 く に あ り ま す か ら、 投資家です。 極東発展 た。 極東発展相で極東 ㍔︶ が 供 与 されていま 回って い ま す。 他 方、 日 本はガスを必 要と 格 で 買い占めています。 食 糧 基 地 を 柱 の一つに プログラムには その2 連 邦 管 区ロシア大 統 領 したが、 昨 年は 億 ㌦ 極 東は原 料に依 存して してお り、 サハリン石 今 後、 韓 国へ至るガ することができます。 倍の額が必要です。 全 権 代 表のビクト ル・ ︵ 7 0 0 億 ㍔︶ が 当 地 おり、 輸 出の %は化 油 ガス開 発 は、 サハリ スパイ プラインの建 設 極東は土地も豊富 イシャエフ氏はロシアN 方に割 り当てられまし 石燃料です。 ンの液 化 天 然 ガス工 場 が始まります。 北 朝 鮮 で、 極 東 連 邦 管 区はロ ロシアのネガティブ O Wのインタビューで、 た。 半年前に極東発展 こうした現 状は変 え に投 資して %の株 式 を経 由 するので北 朝 鮮 シアの国 土の ・ 1 % なイメージは起業意欲 現 代 化のプラン、 投 資 省 が 創 設 さ れ、 目 下、 な くては な ら ず、 サハ を 所 有 していま す。ロ を 占 め て い ま す 。 土 地 に 水 を差しませんか? は 通 過 料 と し て 約 1 億 家にとっての可能性につ ﹁追いつく﹂ から﹁追い リンのよ うに液 化 天 然 スネフチ︵ロシア最大の ㌦を受け取ります。 を 外 国 人にレンタルす ロシアが 直 面 する 問 いて語った。 ︻エレーナ・ 越す﹂メカニズムへ地域 ガス工 場を建 設して製 国 営 石 油 会 社︶やイン るのではな く、 自 ら 開 題 は 周 知の事 実で、こ シピーロワ︼ を 変 えるための新 たな 品 を日 本 や韓 国へ輸 出 ドと米 国の会 社も株 主 原料や造船のほかに 発して企 業を開 設しな の国の汚 職 まん 延は極
極東への特別の配慮 の必要性を強調されて いますが、それはすで
13
10
品質向上し日本並みに
20
10
郵便局で一番手間のかかる作業は、郵便物 の種類と宛先ごとに分類する作業、いわゆる種 分けだ。これを自動的にこなす「自動種分けセ
36
DISTRIBUTED WITH THE MAINICHI SHIMBUN
www.roshianow.jp SECTION SPONSORED BY ROSSIYSKAYA GAZETA, RUSSIA
ロシア NOW 2013年(平成25年)2月14日(木)
3 総合
極夜のムルマンスク
万7000人と最も多いコラ半島のムルマンスクは﹁真夜中
ロシアには北極圏内の町が ほどある。その北極圏で人口が 30
子のエゴールにバーニャ 夫のワレーリーさんは、 わ けで す。 私 はここで
ム ルマンス クの若 者 呂 に入って き ま す。 息 には5 分と居られない。 ヤへ行 き な さいという
たちが﹁ラブ︵Lov
を 込 めて呼 ぶロボ ゼロ しいとせがまれました う︶のボタンを外して薪 ぜよ そへ行 かな くては
コラ半 島のな だ らか
1を占めている。
コラ半 島のほ ぼ3 分の
少ないロボゼロ地区は、
で最 も大 きく、 人口の
いる。 ム ルマンス ク 州
ドの首 都とみなされて
トナカイた ちがトナ
ト ナ カ イの 毛 皮 と
を ト ナカイ遊 牧 民のも 永 遠に乾 きそ うにない
内する。 時々、 旅行者 立って お り、 さ おには
はコラ半 島 を 徒 歩で案 刺したさおとかかしが
ルの旅 行 を 手 がけ、 夏 は服を干 すための雪に
で そ り やスノーモ ー ビ と 立っている。 周 りに
さ ん は、 冬 はロボ ゼロ ︵ ぼ う お く ︶ が ぽつん
訪 ねて き た ミ ー シャ フェル ト でふいた 茅 屋
風で赤く染まる。
2 人の顔 は、 凍てつく へ移る。
を夫に着せようとする。 引 き払って新 たな 土 地
んは、 自 分 と 同 じもの べてし ま う と、ここを
包 まれたタチヤーナさ カイ ゴケを すっかり 食
イの毛 皮に繭のよ うに
は、ロシアのラップラン が、 時 すでに遅 しでし を 割 り、 暖 かいト ナカ ならないのでしょう﹂
e ︶オーゼロ﹂と親しみ ︵蒸し風呂︶を造ってほ ラシャの 外 套︵ がいと 生 ま れ 育ったのに、 な
天を仰げばオーロラ
戦略的要衝の地でもある。ムルマンスクはロシア帝国に築かれ た最後の都市で、2016 年に創設100 周年を迎える。こ
﹁俺はムルマンスクに の冬、
な 丘 と 果てしないツン
月 3 日 から1 根 を た た くこと も あ れ スト、 デイブ・マルロー 基地セベロモルスクや原
日にかけて太 陽 が ば、 6 月 あ るいは 7 月 は雑誌﹃ハーパース・マ 子 力 潜 水 艦の基 地、 市
ド ラは、 レイ・ ブ ラッ
3昼夜いたよ﹂。北極圏 月 地 方で3 年 間 勤 務 した 昇らない日々が続いた。 に 雪 が 降 ること も 珍 し ガジン﹄にこう記した。 内には 原 子 力 砕 氷 船の
ドベリが﹃火星年代記﹄
も。 ただ、 彼 らの頭 上
る。 場 所もそして人 々
で描いた 風 景を 思 わせ
軍 人 た ちがそんなふ う 一番 明 るい時 間 帯 で も く ない。 午 前 は 冬 で 午 ﹁ 爆 弾 で 壊 さ れ 火 災 で 基地、さらにポリャルヌ は、ミンクのコートをま でなければここに踏みと ありますから﹂
に 話 す。 そ の 訳 は、 こ 薄 闇に包 まれて太 陽 は 後 は 夏のよ う な 5 月 に 崩 れ た 家 屋。ロシア 人 イエ・ゾーリには原発が こでは1 年 が 極 夜 と 白 全く顔を見せない。 ここには 四 季 が あ る とい、 ブーツを履いた乙 どまれない。いつか平和 戦 略 的 に重 要 な 港 湾
極 夜 は、 太 陽 が 沈 ま よ うで ない。 そ れ は メ 女がTシャツに短パンと が訪れるなら真っ先にム を か か え た 要 衝・ ム ル
料 金でト ナカイ乗 りを
ミ ーシャさんは 風 を
とへ連 れて き て は 安 い 下着が掛かっている。
避 けてた ばこに火 をつ
ミ ー シャさ ん はこ う けながら話を続ける。
体験させている。
﹁スウェーデン人がこ
﹁ムルマンスク州には の土 地 を 守っていた 頃
話す。
少 数 民 族のサーミ人を のほ う が よ かったで す
支 援 する プログラム が ね。 今 は 荒 廃 の一途。
あって お 金 や ト ナ カイ ばらばらで闘 うのはし
13 万
夜に分けられるからだ。
夜は半年続き、 家はそ
には真っ赤な空があり、
が宙に舞うほど強い。
りの上に立 ち、 風は犬
い。 彼 ら は そ れに 値 し にとっては 極 夜 や 烈 風、
月 に気 温 歩く姿も見られる。
着 氷 した 斜 面 や 北 方 手
ずにひね も す 宙に漂 う キシコ湾 流 と 北 極 が 近 いう 若 者 と 腕 を 組 んで ルマンスクを訪れてほし マンスク。その市民たち 1942年の夏、ファ たのだから﹂ シス ト に よ る 爆 撃 で 木
そ の 功 績 で ム ルマン 当のある故郷である。
タ チ ヤ ー ナ さ ん は、
野 菜とト ナカイの肉で
地 元 の 人 々 は この 町
ラップランドのス ー プ
造 家 屋 ば か りのこの 町 スクは1 9 8 2 年に祖
ムルマンスクは792回 3年後には﹁英雄都市﹂ て﹁モナモールマンスク
の4 分の3 が焼 失した。 国戦争一級勲章を受け、 を フ ラ ンス 語 を も じっ
を 煮ている。 木の床に
はトナカイの毛 皮が敷
︵ わ が 愛 し の ム ルマン
﹂と呼ぶ。そして、 生 粋のムルマンスクっ スク︶
万 5 0 0 0 の称号を授与された。
かれ、 入 り口のそ ばで
発の爆 弾にさらされた。
の空 襲 で
はストーブが燃 え、 突
が 与 え ら れ てい ま す。 ん どいです。 ト ナ カイ
ボルゴグラード︶に次ぐ う話す。﹁私たちは火薬 で、 極 夜 の魅 力 と 言 え
スターリングラード︵現 子のアンドレイさんはこ た だ 天 を 振 り 仰 ぐ だ け
しかし、 私 た ち カレリ は凍 えないよ うに自 衛
すさまじい爆撃だった。 庫 の 上 にいる よ う な も るオーロラを目にするこ
風が吹 くたびにキイチ た。 6 年 前に溺 れてし ヤ 民 族のコミ 人 はここ のた めにも群 れの大 将 ゴとコ ケモモの 入った まったので⋮﹂。 小 卓の に住 んでいるにも か か が駆けだすとみんなも
ヘッド ライ ト が 雪 に
はほ ぼ 丸一日 電 灯 がと し た が、ここにと ど ま 今は教 員のウラジー ミ
ルさんは﹁うちの学校で
軍 人 が 妻 子 を 連 れ は、コルズノボで育って
もっている。 北 極 圏 の ることにしたのです﹂
夜は空が数 時 間しか明
てロシア 全 土 か らここ ム ルマンス クで 勉 学 を
年 前 にここへ 女 性 教 師た ちが働いて
地 元 の 学 校 の 校 長、 へ集 ま り、 タチヤ ー ナ 終 えて 戻って き た 若い
るくならないのだ。
タチヤ ー ナさんはこ う さ ん も
1963 年にサハリン島のコレンド 湾で極東最大の油田の開発が始まり、コレン ド町の建設も決定された。コレンドは、サハリ ン最北の町で、オヒンスキー地区に位置する。 1967 年に採掘が始まった油田があり、その最 初の2つの油井だけで、ほぼ同地区全体の採 掘量に匹敵した。しかし、1996 年に、サハリ ン北部のネフチェゴルスクでマグニチュード 7・ 6 の地震が発生し町民の移住が決まった。
アメリカのジャーナリ の。 近 くに 北 方 艦 隊 の ともできる。
容 器 がか ちゃか ちゃと 上には黒 髪の男の子 が わ ら ず、 そのプログ ラ 駆 け だし、 眠 りにつく ほほ 笑 んでいる 白 黒の ムに関 わること ができ ま で 走っていま す。 ば
鳴る。
コラ半島の湖と河川 の数。
元は軍のパイロットで
6300 人が漁業に従事 するムルマンスク州の 水揚げ量はロシアの 全漁獲量の 6 分の 1 である。
﹁町へは月に1 度でか 遺影が飾られている。 ません。 自 分 た ちのト らばらだとみんながし 慣 れていないと 戸 外 ナカイを 連 れてカレリ んどいのです﹂
上記掘削坑の地下 12 ㌔地点での気温。
け、 食 料 を 買ってお 風
230 度
行 政 府や小 中 学 校の中 住 居 が与 えられていま
6 分の 1
35
コルズノボに居残る
ソ連崩壊でゴーストタウン
だ が、 イ ンタ ー ネッ
られ、のちにお 役 御 免 殻に思われる。 と なって 打 ち 捨て ら れ くつもある。
た ゴースト タウンがい トでは廃 れた 町にとど まって 近 くのム ルマン その典 型 的 なシナリ スクの快 適 な 住 まいを オは、ソ連 時 代の軍 拡 断った﹁一握りの向こう 競争や国家電化委員会 見 ずたち﹂の消 息が散 した町の緩やかな消 滅
の計 画 実 現の際に誕 生 見される。
連崩壊後、町を維持す 低い気 温 が、コルズノ
という もので あ り、 ソ 埋 も れ た 道 を 照 ら す。 るための財 源も愛 国心 ボの廃 虚、 鼻の折 れた も うせてし まった。 多 その記 念 像、 さびた自 くの 移 住 者 と 異 な り、 動車を冷凍保存し、 そ ゴースト タウンの住 民 れらをソ連 時 代の展 示 には帰るところがない。 品に変 えたかのよ うに
石炭の発見:1810 年
供のほうが地 元の子 供
より多 く、 そのおかげ
で私 た ちは 暮 らしてい
太 陽はなおも地 平 線
けるのです﹂と話す。
か ら 顔 を 見せない。 ま
さに極 夜である。 太 陽
たい光 が、 窓に乏 しい
のようにでっかい月の冷
灯 がともる2 棟の家と
学 校の前のスケー ト 場
に落ちている。
子 供た ちが、 相 手を
雪の山へ倒 し た り 犬 と
路 を た ど る。﹁ 私 た ち
じゃれた りしな が ら 家
た ちが映り、 亜 麻 色の る。 コル ズノ ボには 約 た で す よ。 け れ ど も、 1998年以後、商店 の目の黒いう ちはコル
長崎市、端島(通称「軍艦島」 ) ロシアとノルウェーの国 すると、 突 然、 笑い声
ル ズノ ボについては ほ 暗 闇と静 寂の中で雪 髪の乙 女 がホ イッスル 2 5 0 人が暮 らしてお 別れはいつだって寂しい だけでなく、 格 安の運 ズノボ もな くなりませ とんど知られていない。 の 降 る 音 が 聞 こ え る。 を吹いている。 り、 号 棟と 号 棟は ものです。 私 た ち 夫 婦 賃 でモス クワ ま で 飛 べ ん﹂とタチヤーナさんは
そんな﹁死せる町﹂コ 思われる。
ここもゴーストタウン
ロシアには、 戦 略 的 境から ㌔離れた北極 が弾 ける。 平 屋の小 さ に思 われる近 隣の家 や 語 る。﹁ 連 隊 が 解 体 さ 移り住んだ。 連 隊がコ いま す。 生 徒は、 軍 人 に重要な施設や豊富な 圏 内にあり、 軍の駐 屯 な 建 物 の窓 に 駆 けっこ 町の子 供た ちが小さな れて人 々 が去 りはじめ ル ズノ ボ か ら セ ベロモ が ま だ 残っていて も 学 資 源の産 地の周 辺に造 地の解 体 後はもぬけの をする運 動 着 姿の子 供 スクールバスで通ってく ると、もちろん寂しかっ ルスクへ拠 点 を 移 し た 校のない近 隣の町の子 30
白 夜 よ りはるかに憂 鬱 いせいだ。
段は、コラ湾に港を建造して
ドイツ人やオーストリア人、
18
12
で、ムルマンスクではこ が氷 点 を 上 回 り雨 が屋
きて、 迎 え 酒 を させてか ら
そ して 中 国 人 が、 その鉄 路
道を敷くことだった。 捕虜の
サンクトペテルブルクから鉄 人街のシャンハイ地区。 意外
人 手の主 な 供 給 元 は 中 国 にもムルマンスクに最初に住 自 家 製の酒 を 売 り 賭 場 を 開
んは﹁極夜の魅力は何と言っ
トナカイと生きる
閉鎖:2002 年
12
の極夜の街に照明をあててみた。 ︻ダリヤ・ゴンサレズ︼
昼間も太陽昇らず
ムルマンスクは、ロシアの 北 極への 海 の 玄 関 に あ た る
かった。とはいえ、人手不足
いめい︶期には漁民が足りな
を1年で完成させた。
1 9 2 0 年 代には、 金 曜
き、ロシア魂の粋で豪胆な気
を補うのは簡単だった。 の晩に浮かれ騒いで翌朝には
払われる極地手当を思えば、
厳 しい条 件 下での労 働 に支 闇のとばりも何のそのという
てもルーブル︵現金︶でした。 第一次世界大戦中、ロシア
質と相まって北極圏のケープ
は 連 合 国の貨 物の補 給 を 必
タウンと化した。 員たちが一輪車を押して地元
トロール漁 船に乗って海へ出
の居酒屋を巡っては、泥酔し
わけです﹂と振り返った。
ていた 漁 民 た ち がいた。 船
小 型 漁 船の船 長 オ レグさ
んでいたのは 中 国 人 だった。
漁師と船員の町だ。黎明︵れ
仕事につかせた。
北極圏のケープタウン
写真は全てアントン・パーニン撮影
要としていた。 その唯一の手
ツンドラの町ロボゼロ
創設:1963 年
コラ半島
の太陽の国﹂と呼ばれる。北洋航海、北洋漁業の基地であり、
30
た 教 員 や 仕 上 げ工 を 運 んで
12.262m
一見 生 気 のないよ う ボ イ ラ ー で 暖 め ら れ、 には ク ラスノ ダ ー ルに た飛行場もなくなった。 言い切った。
43
康に気を配っている。タクシー運 転手のビターリーさんは「その代 わり白夜は最高。電気代は全く かかりません。もっとも白夜で節 約した分は極夜で使ってしまい ますがね」 と語った。 極夜は紫外線やビタミンの不 足により眠気や倦怠感に襲われ るという。ムルマンスクの学校 では始業時間が遅らされ、授業 時間も縮められる。幼稚園では 園児にビタミンを与えるなど健
としてコルズノボへ帰還した。演説を行った 第 7 番学校にはガガーリンを記念した小さな 博物館がある。ここでは宇宙航空学愛好家ク ラブに所属する生徒たちがソ連時代の慣例に ならって、外国人も含め来訪者のガイドを務 めている。 コルズノボ近郊の北方艦隊の空軍基地で人 類初の宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンが3 年間軍務に服した。行政府の向かいに立つ ソ連の宇宙開発の英雄たちの胸像と青緑の飛 行機がその一端を物語っている。1965 年の 夏、ガガーリンはすでに名立たる宇宙飛行士
数字あれこれ
閉山:1974 年 現在無人島の端島(0.063 平方㌔ ㍍)は長崎市の所属で、1810 年に石炭が見つ かったことが、この小島の運命を変えた。三菱 が島を買収し、海底からの採炭を始めるのと並 行して、住宅や施設が建てられた。20 世紀半 ばには、人口密度は 1㌶当たり 835 人と世界最 高となり、5300 人が海岸線1. 2㌔の細長い小 島にひしめいていた。しかし、炭鉱は順次閉鎖 され、1974 年に三菱は全島閉山を宣言した。
42
紫外線不足で倦怠感に ガガーリンがいた町
「コラ半島超深度掘削 坑」は世界最深の掘削 坑だ。言い伝えでは、 1㌔掘るごとに国に不 幸が起こるため、「地 獄への道」とも呼ばれ ていたという。
ロシア、サハリン州コレンド町
11
ロボゼロ村の歴史はコラ半島の 先住民サーミ人(旧称ラップランド 人)の歴史と重なる。ここに人々 が住み始めたのは紀元前 5000 ∼ 6000 年にさかのぼる。彼らはヨー ロッパ系の民族では唯一、トナカ イの遊牧を行っている。 ロボゼロ村では3月最後の休日 に「北の祭り」が開催され、6月に は厳冬期の冬服をまとってのレスリ ングなどの競技会が行われる。サー ミ人は、移住してきたコミ人の文 化を取り入れたため、自分たち伝 統の一部は失われてしまった。 ロボゼロの東方にあるグレミーハ町。また の名を「飛ぶ犬の村」 。そこへ行くには水路の みで、しかも好天の時に限られる。冬は吹雪と 時化のため数週間欠航することもある。荒れた 天候の時には犬が宙に舞うほどの強風が吹き、 人も手摺りにつかまって歩くほどである。 コラ半島のロボゼロの集落は 1574 年には 既に存在しており、当時はサーミ語の名称を翻 訳して「湖畔の強者の村」と呼ばれていた。主 たる家畜はトナカイで、ロボゼロ村の紋章にも 描かれている。トナカイの脂っこい肉と暖かい 毛皮なしではここでは生きていけない。
!?
コラ半島先住民はサーミ人 食料・衣類になるトナカイ
地域 4 2013年(平成25年)2月14日(木)
ロシア NOW www.roshianow.jp DISTRIBUTED WITH THE MAINICHI SHIMBUN SECTION SPONSORED BY ROSSIYSKAYA GAZETA, RUSSIA
北アフリカで無敗を誇った
エルアラメインとの比較
歴史学者
迫 撃 砲 2 万 6 0 0 0 以 上、 イツの軍 事・ 政 治・ 経 済 的
マフムト・ガレエフ
戦 車 2 1 0 0 両、 戦 闘 機
リー︶を揺るがし、それぞれ
丁、 戦 闘 機3 5 0 機を使 用 ルコの指導部を落胆させた。
立 を 巻 き 起こし、 日 本 と ト
日 から
スターリングラード攻防戦 は1 9 4 2 年 7 月 ラメインの戦いは同年
月
200昼夜続いたが、エルア 日 間 行 わ れた だ け
倍ほど
観光ブランド
「ロシアの冬」 ギャラリスト、アート空想家
マラート・ゲルマン
ロシアの冬は、 それ自体が﹁観 光ブランド﹂であり、ありとあら ゆるロシアのアイデンティティーを 集約している。
その理 由は第一に、 何と言って
なぜブランドか 、三つの理由 もロシアの冬はスゴイ。私は、ジャ マイ カ、 ゴア、 モル ディブ、 ヨル
寒さ体験こそ刺激的だ
う。世界の観光ビジネスに、魅力
イタリアの遺跡に比肩し得るだろ
要するに、﹁冬のビジネス化﹂を
あふれるニッチ市場が出現する。
覚えれば、そこから恩恵を被るこ
動 的で、いろんな 楽 しみがあり、 分に愛 国 的なブランドでもあり、 製防寒長靴︶はお土産として十分
とができる。ワーレンキ︵フェルト
た 建 築のほか、 最 新 技 術 を 駆 使
いける。 その一方で、 暖 房に優れ
トラーと戦ってくれた。これは十
他の﹁ロシア的な﹂イメージも、こ
第 三 に、 冬 は 健 康 で あ る。 活
れに結びつけることができる。
温下着、コンパクトな暖房機など︶ をもってすれば、 全く不便は感じ
元気はつらつ、 夏は逆で、 けだる
製防寒服も輸出できるだろう。
し た 現 代 的 な 衣 服 繊 維、ロシア
︻ブズグリャド紙抄訳︼
ある可能性が生まれてくる。
﹁ロシアの冬﹂の応用次第で魅力
ロシアのウォツカは、 冬に体 を
まりを転がるのが決まりだ。
風サウナ︶に入った後では、 雪だ
温めてくれるし、バーニャ︵ロシア
く眠たくて、活動的でない。
第二に、ロシアの冬は幻想的な
愛国心をも満足させる
ない。
ちが、 どれほど醜悪なアイデアを
ロシアの冬は、 それ自体で魅力
までに美しい。わが国の建築家た
満点だが、 思い起こせば冬は、ロ
ダンなどで休暇を過ごしたが、ロ
街、山、平原の美しさを損なうこ
ひ ね り 出 そ う と、 雪 に覆 わ れた
ロシアの冬は、トルコの地中海、
ただ、 その歩む道が交わ りに解 釈 される隠 喩という
この永 遠の形 態の暗い王
キ ンは 未 来 を 扱っている。
かすものは同 じ一つのもの、
けれども、 両者を突き動
ジェニ ーツィンは 時 代 と 語 入れた。
学 問の分 野は、 痛みを知 ら
根源的な不動の現実を究め
ることは 永 遠 にない。 ソル 細 部の手 法を様 式 化に取り
シア人とともに、 ナポレオン、ヒ
アレクサンドル・ゲニス
人の作家が名を連
国で、 経 験 豊 富なプラトン
現 代 の 文 学 の プロ セ ス
に お いて、 ソロ ー キ ン は、
ソルジェニーツィンが過去
ふれ、 それを読むのはしん
前者は悲劇の根を探り、 後
ティーノと 同 様、 観 客の心
ツィンにとって﹁偽りなく生
きる﹂ことは当局が隠してき
を 意 味 し、ソロー キンも言
ものを 白 日の下にさらそ う
こっていること を 研 究 する とする。
た。﹁物理の向こう側で﹂起
したが、確かにその通りだっ 葉が私た ちから隠している
ローキンはある時 そう告 白
上 学をつづっていま す﹂。ソ たものを 明 らかにすること
﹁私はたえずロシアの形而
文法﹂を編みだした。
る術として特 別の﹁暴 力の それは﹁真実﹂。ソルジェニー
に迫り、 その潜在 意識を操
ソ ロ ー キ ン は、 タ ラ ン 者は悲劇を予言する。
どいが読まざるをえない。
その作 品は血や痛みにあ を再現したとすれば、ソロー
て、しばしば拒絶する。
登場人物を作者と同一視し の役割を演じている。
を 好 ま ず、 時 に 忌 み 嫌 い、 のソルジェニーツィンと同様
多 くの人 は、 ソロー キン ﹁1960年代派﹂にとって
ける。
作 家なので、 それもうなず
賞にも値する唯一のロシアの させる市民の熱情である。
カー 賞のみな らずノーベル は、つねに氏 を 権 力と論 争
スカンデールを 除 け ば ブッ な 作 家 を 後 押 ししているの
ソローキンはファジーリ・イ 原 形を模 索している。 そん
ル・ソローキンもその一人。 主 義 者ソロー キンは民 族の
ね た。ロシアのウラ ジー ミ
9 カ国
国 際 ブッカー 賞の候 補に ようとする。
作家
ぬ目には見 えない、 本 来の
とはできない。
シアの雪の印象はそれに勝るとも 寒さを嫌う人がいるかもしれな
劣らぬものだった。 いが、現代の数々の防寒技術︵保
時代に耳澄ます現代作家
ソローキンを読みたい
した。
車5 4 0 両、 火 砲 1 2 0 0 の軍 内 部 に激 しい混 乱 と 対
軍 団の兵 員 は8 万 人で、 戦
戦いでは、ドイツ・アフリカ タリア、 ルーマニア、ハンガ
た。一方、エルアラメインの での赤軍勝利は、枢軸国︵イ
スターリングラード攻防戦
状況を悪化させた。
らない。 が、 お そ ら く、 始
ない、 終 わ りの始 ま りで す 2 5 0 0 機 以 上 が 使 用 され
見方を示していた。
まりの終わりであろう﹂との こ れに 続 く ス タ ー リ ン グ
ラード攻 防 戦で、 独 軍が膨
大な人的、物的損害を被り、
大 攻 勢に出る余 力が失われ
たからこそ、﹁始まりの終わ
化したのだ。ここに、ソ連軍
り﹂は﹁終わりの始まり﹂に転
ところが、 西 側の中には、 だ。
日から
∼
ベリ ア、 大 陸 棚、 さ らには
ナタリア・ミハイレンコ
の勝利の意義がある。
次 大 戦の転 機になったと 主 エル ア ラメインの戦 いで は 枢 軸 国 軍 が 兵 員 5 万 5 0 0 0 人、 戦 車 丁を失ったのに対し、スター
3 2 0 両、 火 砲 約 1 0 0 0
軸 国の喪 失 が
リ ング ラ ー ド 攻 防 戦 で は 枢
万87 4 1
万 人 の軍 団 が 壊 滅 し
た。ソ連 軍 も
で、
ス タ ー リ ング ラ ー ド 攻 防
人が死亡した。 戦は、ヨーロッパの主 要な舞 台で起こったが、エルアラメ インの戦いは二次的舞台であ タ ー リ ング ラ ー ド 攻 防 戦 に
る北 アフリカで起こった。ス おけるドイツ軍の敗北は、ド
ガスハイド レー トは 化 石
来的にはロシアもこのガスを
バイカル湖の底にあり、 将
何らかの制限は当然だ 作家イェーワ・ランスカ
エルアラメインの戦いが第二
二つの戦いは全体の流れの
張する見方がある。
中で、 その規 模、 損 害 な ど を含 め総 合 的に判 断しなけ
ロンメル将軍率いるドイツ・ ればならない。そこで二つの ま ず 戦 闘 領 域 を み る と、
戦いを比較してみよう。
は約
スター リングラー ド 攻 防 戦
油 田 地 帯、 さ らには、ソ連
イタリア枢 軸 軍は、 中 東の カフカス地 方の油 田 地 帯 を 万 平 方 ㌔の広 大な領
狙っていた。だが、スターリ ルアラメインの戦いは狭いア 軍 備では、 スター リング
独 軍は兵 力 をこちらに集 中
ングラードの死闘が始まり、 域で繰 り 広 げ られた が、エ
ラ ー ド 郊 外 のさ ま ざ ま な
フリカの海岸で行われた。
合 軍に敗 れ、 北 アフリカか
し た た め、 そこをついた 連 ら駆逐されてしまった︵エル 軍 合 わ せて 兵 員 2 1 0 万
交 戦 で、 ソ 連 軍 と ド イ ツ
し か し、 英 国 のチャー チ
アラメインの戦い︶ 。 人 以 上 が 参 戦 し、 大 砲 や
ロシアのガスハイドレート
メタンハイドレート
日本に新たな資源
ル首相は﹁これは終わりでは
投資会社﹁ベーレス・ キャピタル﹂アナリスト
産出試験開始
るとガスと水に分 解 するメ のエネルギー需 要を1 0 0
ワシーリー・タヌルコフ
独 立 新 聞 に よ れ ば、 日
年 分 まかなえる量のガスが の埋 蔵 量 は 世 界一で、 その
世 界の埋 蔵 量は石 油のそ 燃料全体の %を占め、 巨
タンと水の化合物である。 れを上 回るが、 採 取は深い
大 な ポ テンシャルを 秘 める
本の経 済 産 業 省 は 2 月 1 日、 世 界 初のメタンハイド 海 底で高 圧 力のもとで行わ
大部分は永久凍土地帯やシ
レートガスの海 洋 産 出 試 験 れる。 言わば﹁圧 縮された
眠っているという。
地球深部探査船により、 渥
の開始を発表した。 作業は
雪﹂を海面へ運び上げる際に と み ら れている。 今のとこ 採取することができる。 今 の と こ ろ ガ スハ イ ド
メタンが飛 散 して環 境に悪
ろ、 海 底からの採 取は非 常
美半島南方沖
㌔の水 深
1000 ㍍の海底で行われ
を澄ましているのだから。
り、 ソロー キンは 時 代に耳
昼も夜も吹雪をついて進み、
﹃吹 雪﹄の主 人 公たちは、
ソロー キ ンは、 重 層 的 に 旅のう ちに人 生 を 送ってい
思索し、作品群を構築する。 る。 はらはらする冒 険、 悩
時 代の神 経を探りあて、 そ ましい夢 想、 善 悪や民 衆の
を放置することはない。
と 繰 り 広 げ ら れる 人 生 を。
のう ずきが収 まるまでそれ 本 質についての論 議 が 延 々
初期の作品︵﹃マリーナの け れ ど も、 風 景 はいつまで
この秀作において、ソロー
三十番目の恋﹄や﹃ノルマ﹄な も変わらない。
ど︶では全 体 主 義 的 権 力の
記号論と弾圧の言語学的メ キンは、 もはや偉 大な文 学
カニズムをリサーチしたと を冒瀆︵ぼうとく︶せずに包
すれば、 近年は専制主義的 括 している。 医 師 ガー リン
ユー ト ピアのた めに概 念 上 は、 リベラルな 伝 統に好 意
的 な 者 た ちの総 和 で あ り、
﹃オプリーチニクの日﹄に 医 師としての責 務に忠 実な
の実験から遠ざかった。
おいて そのパラメー タを 示 彼 は、 ラテンアメリ カの疫
し、 かさの大 きなペー ジに 病を予 防 するワクチンを運
ガ ー リンは、 インテ リに
中 国 風の祖 国の悪 夢を刺 繍 んでいる。
︵ししゅう︶ した。
スウィフトやオーウェルの つき もののあ ら ゆる 試 練 を
ように、というよりはストゥ くぐりぬける。我に返ると、
ルガツキー 兄 弟のよ うに既 宗 教 的な歓 喜を味わい、ド
ソロー キ ンを 評 価 するに
起させる薬を買っておく。
知のものを あ ざ 笑い、 幻 想 ストエフスキ ーの長 編 を 想
的なものを考え出す。
歴 史 の世 紀 を 圧 縮 して、
永 遠へ投 影させた現 実を描 は、 氏がその解 釈と様 式 化
とって唯一可 能な形をとり、 文 学 に 通 じる 必 要 が あ る。
いている。 生 命 は、 自 らに にた けているロシアの古 典
果てしなく続く定めにある。 こうした理 由からだけでも
いずれにせよ、 石 油 が尽 き ソロー キンは翻 訳 が困 難 だ
る 怖 ろしい日 までは。 それ が、不可能ではない。国外、
ト リ ア、 日 本 といった 全 体
から先のことは、近著﹃吹雪﹄ とりわ け、 ドイツ、 オ ース
で語られている。
レフ・ ト ルスト イの中 編 主 義 的な過 去の経 験を持つ
﹃ 主 人 と 下 男 ﹄ を 外 堀にし 国における氏の作 品の人 気
E-mail: jp@rbth.ru ホームページ: http://roshianow.jp 電話: +7 (495) 775 3114 ファ クス:+7 (495) 988 9213 住所: 24 Pravdy st., bldg 4, floor 12 Moscow 125 993, Russia Copyright 2012, FGBU «Rossiyskaya Gazeta». All rights reserved.
く 未 来の資 源 と 言 えよ う。
本紙は8面ともロシア政府発行紙「ロシア新聞」により制作、発行されたもの で、文責は「ロシア新聞」が負っています。 本紙の記事は個人的に使用する場合を除き、その転載、転売、譲渡はすべて、 「ロシア新聞」の文書による許可なくしては禁じられています。記事や写真の利 用を希望される方は、下記の連絡先までお申し込み下さい。
レー ト はシェー ル ガスに続
編集兼発行 ユージン・アボフ Eugene Abov 編集デスク アレクサンドラ・バズデンコワ Aleksandra Bazdenkova 編集アシスタント ナタリア・ススリナ Natalia Suslina 電子版編集 セルゲイ・パシェンコ Sergey Pashenko デザイナー アンドレイ・シマルスキー Andrey Shimarskiy 編成担当 ミラ・ドモガツカヤ Milla Domogatskaya レイアウト イリーナ・パブロワ Irina Pavlova サブ編集者 三瓶良一 ゲスト編集者 飯島一孝 インフォグラフィック ガイア・ルッソGaia Russo、 ナタリア・ミハイレンコNatalia Mikhailenko、アントン・パーニン Anton Panin 写真 ダリア・コジレワ Daria Kosyreva 広告 ユーリア・ゴーリコワ Julia Golikova
10
10
年は必
編集スタッフ
て、 ソロー キンは、 文 字 通 がこれを証明している。
アレクサンドル・ゴルベンコ Aleksander Gorbenko パーベル・ネゴイツァ Pavel Negoitsa ウラジスラフ・フローニン Vladislav Fronin
編集委員会長 社長 編集長
を 持つまでにあと
ソルジェニーツィンと対をなす
「ロシア新聞」 の Russia Beyond the Headlines 部局はロシアを紹介する特殊折 り込みやセクションを編集し、下記の新聞で配布しています: 毎日新聞(日本) 、 中国ビジネスニュース(中国) 、 サウス・チャイナ・モーニ ング・ポスト(中国・香港) 、トゥデイ(シンガポール) 、中央日報(韓国) 、エコノミッ ク・タイムス(インド) 、NAVBHARAT TIMES(インド)シドニー・モーニング・ヘラ ルド(オーストラリア) 、ザ・ワシントン・ポスト(アメリカ) 、デイリー・テレグラフ (イギリス) 、ザ・ニューヨーク・タイムス(アメリカ) 、ウォール・ストリート・ジャー ナル(米国) 、ラナシオン(アルゼンチン) 、フォリャ・ジ・サンパウロ(ブラジル) 、 エル・オブザバドール (ウルグアイ) 、フィガロ(フランス) 、南ドイツ新聞(ドイツ) 、 エル・パイス(スペイン) 、ラ・レプッブリカ(イタリア) 、ルソワール(ベルギー) 、ヨー ロピアン・ボイス(ベルギー) 、ドゥーマ(ブルガリア) 、ジオポリティカ(セルビア) 、 ポリティカ(セルビア) 、ELEUTHEROS TYPOS(ギリシャ)
23
17
20
影 響を及 ぼすことから、 極 にコスト がかかり、 競 争 力
のです。必ずしも「ロシアNOW」 または「ロシア新聞」の見解と同一ではありません。
めて困難とされている。
本紙に掲載された「オピニオン」面の意見や読者からの投書、ゲスト・コラム、
メタンハイ ド レー ト は 深
ブズグリャド紙
11
︻ムニェーニア・ルー抄訳︼
漫画による風刺などは、様々な意見、主張を幅広くご紹介するために選ばれたも
要といわれる。
メールのあて先は jp@rbth.ru です。 お気軽に日本語でメールしてください。
75
イズベスチア紙
ロシアの小説家、劇作家、 現代ロシア文学を代表する ポストモダン作家。1955 年 8 月 7 日生まれ、モスクワ州 出身。専門は機械工学士。 ボリショイ劇場で 2005 年 に上演されたオペラ「ローゼ ンタールの子供たち」 (デシャ トニコフ作曲)のための脚本 を書いた。その中にはソ連 時代の政治家たちの言説が 批判的に引用されていた。 【邦訳】 『青い脂』望月哲男・松下隆 志訳、河出書房新社、2012 年;『愛』 亀山郁夫訳、 国 書刊行会、1999 年;『ロマ ン』望月哲男訳、国書刊行会、 1998 年。
お手紙をお寄せ下さい
軍備も損失も膨大 まず孤児の実態調査を 詩人・翻訳者イーゴリ・カラウーロフ
ている。
米国人に対しロシア人孤児との養子縁組を禁じる 「ジーマ・ヤコブレフ」法が今年1月1日に発効し、 論議を呼び起こしている。ジーマ・ヤコブレフは米 国に養子に引き取られて4カ月後に死亡した2歳の ロシア人男児。同法は、米国で採択されたマグニツ キー法への対抗措置として採択され、人権侵害が疑 われるロシア人の入国禁止などを内容としている。
日 本 周 辺の海 域には日 本
ウラジーミル・ソローキン
10
10
47
スターリングラード攻防戦 70
海底にあり、 温度が上昇す
外国人がロシア人児童 を養子に取ることを禁止 した法律に対するロシア 人の賛否
第二次世界大戦で独ソ軍が死闘を繰り広げたスターリングラー ド(現ボルゴグラード)攻防戦の終結から今年2月で 70 周年にな る。大戦の帰結を左右したこの攻防戦を取り上げる。
ジーマ・ヤコブレフ法発効
10
わがロシアはといえば、こ の方面では残念ながら第三 世界である。 下院はつかの間の、しか も怪しげな政治的効果のた めに、本来正しかるべき措置 をゆがめてしまい、猛烈な批 判を浴びせられた。 おそらく最良の解決は、ロ シアの孤児問題の実態を調 査して公開し、実際に事態を 改善しつつ、段階的に外国 人との養子縁組を停止する方 向にもっていくことだろう。 ロシア下院はうっかりバナ ナの皮を踏んで転んだ格好 だ。元々下院は、マグニツ キー法に釣り合うシンボリッ クな対抗措置を求められてい たに過ぎなかった。 ところが、彼らが考えつい た対抗措置は、猛然たる論 議を呼び起こし、無から危機 を生じさせてしまった。 文明国の欧州連合(EU) は孤児と外国人の養子縁組 を推 奨 せ ず、 貧しいアフリ カ諸国は逆にそれに熱心だ。
リーパスで外国人に引き渡 すやり方は問題で、それに 対する憂慮は理解できる。 ロシアは、孤児が外国人 の里親のもとで愛情に包ま れているのか、チェックでき る可能性をもたねばならず、 そのためには、露米間での 2国間協定が必要だ。 従って、 米国人による養 子縁組に何らかの制限が設 けられることはまっとうなこ とである。 既に 2004 年に米国のシカ ゴ・トリビューン紙が、1996 年以来少なくとも 12 人のロ シア人孤児が米国で殺された と報じていた。ロシアの下院 議員がそんなに孤児の行く末 が気にかかるなら、なぜこの 当時に似たような法律を採択 しなかったのだろうか? 確かに、税関の「緑のゲー ト」よろしく、目の前からい なくなってくれれば、それで いいと言わんばかりに、フ
33
大戦の転機に ロシアの 論調
DISTRIBUTED WITH THE MAINICHI SHIMBUN www.roshianow.jp SECTION SPONSORED BY ROSSIYSKAYA GAZETA, RUSSIA
ロシア NOW 2013年(平成25年)2月14日(木)
5 オピニオン
する彼 らの価 値 観は、いくども変 遷を繰り ずは キャリアを 築 きた
産 を 後 回 しにしてま
そうした女性は出
語が使われている。
世 紀 はロシア 国 民 を が ら りと 変 えた。 ﹁ 高 齢 出 産 ﹂ という 用
返した。その背景をたどれば一冊の本が書け い、 と か 出 産 するつも
家族や結婚、 仕事や余暇、 宗教や科学に対
則性を探ってみたい。︻セミョン・クワシャ︼ 教養人に多く見られる。
りがないといった都会の
るが、ここでは新聞を開いて、いくつかの法
出産は先延ばし ﹁ チャイル ド・ フリ ー﹂
ソ連 時 代には 仕 事に
仕事より余暇
彼 女 らに対 する見 方は は広がりつつある。
1 9 1 3 年、 ほ ぼ より寛 容 あるいは無 関
結婚と家族
その数 が増 え出 した
1 億 人の国 民 が すべて 心と言える。 ロシア 正 教 徒 で あった
世 紀 末 ごろ 事実婚などが増え、 母 労 働 崇 拝が存 在してい
は わ ず か 3 7 9 1 件 る。1990年代には、 ギ ー 化 さ れ た も ので、
この国では、 離 婚 件 数 のはソ連 時 代 末 期であ 対 する 姿 勢 はイデオロ だった。 欠勤や常習的な遅刻は
には、 平 均で1 0 0 0 子 家 庭の子 供の数 も増 た。1930年代には、 件中600 件の結婚が えた。 解消されている。
現 在、 1 家 族に平 均 犯罪とみなされていた。
世 紀 半 ばにはシン 1 人ないし2 人の子 供 1960 年代には、 職 世 紀には出 場での労 働に喜 びを 感
❷
❶
❹
❺
❸
黒パン ﹁ボロジンスキー﹂
穀物入り棒パン
懐かしの黒パン
キ ー﹂ パンのレシピは
4 残りのパンをブレンダーで砕き、
それでカツレツに衣をつける。フラ イパンに植物油を引き、両面4分ず つ焼く。その後弱火にし、フライパ ンにふたをし、10 分間焼く。
1 8 3 6 年、 シェレ 香 りは 旧ソ連のどこで
メチェフ伯爵はロシアの も 愛 さ れている し、ロ
偉 大な詩 人、 プーシキ シア 人 は 外 国 でこのパ
1 8 1 2 年にナポレ
ンに次のよ うな 手 紙 を ンを懐かしがる。
書 い た。﹁ 兄 弟 よ、 パ
リの生 活 はひ どい。 食 オン軍 とロシア 軍 が 交
べたい物 が ないし、 黒 戦 し た ボロ ジノ 村 で、
修 道 院の修 道 女 がこの
この文 章 か ら、ロシ パンを最初に作ったとい
パンは入手できない﹂
アの味 に飢 えているこ う説と、1920 年代
と がわかる。 黒 パンと にモス クワで 初 めて 現
ど ち ら に し て も、
は す なわ ち ライ麦 パン れたという説がある。
で、 何 世 紀にもわ たっ となり続けている。
て食 事の基 本また主 食 現 代 の﹁ ボ ロ ジ ン ス
前 世 期 半 ば 頃 ま で、 1 9 3 3 年にモスクワ
さまざまな発 酵工 程に 製 パン・コンビ ナ ー ト
3 ひき肉に卵、塩、コショウを加え、
さらに念入りに混ぜる。カツレツの 形に整える。
ロシアの白パンで最も
ロシアのフォークロア
も統一国家規格に沿って そのた め、 漂 白 し た一 有名なブランドは、ふっ ︵ 民 間 伝 承 ︶ には、 カ
ソ連 時 代 は どの食 品 豊かさの象 徴であった。
よってパン生 地 が 作 ら で承認されたものだ。
れたため、﹁酸っぱいパ
ぎって牛乳に浸す。もう半分は衣用に とっておく。十分浸したら軽くしぼり、 肉といっしょに肉ひき器でひく。
世紀に や慣 用 句 も多いが、 残
り方 をタタール人に教
そ れで も、ロシア 帝
世 紀 初 めにロシアで ンスパンのよ うに 密 度 け だ が、ロシア 人の手 は、 現 在 復 活 し、﹁ 新
白い小 麦 粉 のパンは
していた。
とイースト 菌の他にラ
ロシアの白パンがフラ えてもらったのがきっか 国 時 代 のパンのレシピ
イ麦の麦 芽、 蜂 蜜、コ
茹︵ゆ︶でパンで、穀粉 だ。
である。これは 特 別 な ので 質 も 味 も バラバラ 油や脂 質を加えて代 用 母 な しの 白 パンのつく にはお目にかかれない。
は、﹁ ボロジンスキ ー﹂ や生 地の軟 化 剤を使 う 白パンや小さいパンには ロシアの手 工 業 者 が 酵 念 ながらあまりカラチ
ライ 麦 パンのブランド 者はさまざまな添 加 物 し 甘 み を 加 え、一部の ﹁カラチ﹂だ。
ロシアで最 も 有 名 な いた。 現 代の製 パン業 等 粉の穀 粉 を 使い、 少 く らとした リング形の ラチに関 することわ ざ
ン﹂と呼ばれている。
1 白パンの皮をとる。半分は細かくち
︻セルゲイ・ロガノフ︼
そ れで も 庶 民 にとって がパリパリではないのも ても似つかない物になっ いる。
てしまった。。
牡丹江寄りにあった。
展 示された写 真は山
したわけだ。
山添氏は﹁日本人学
添氏が、1930 年代 者を何よりも驚かせた
末から1940 年代初 のは、 古 儀 式 派の極 め
めにかけて撮 影 した も て高い適 応 力や創 造 力
枚にのぼる。 山 添 氏 は ら、 満 州の厳しい気 候
ので、 その数 は2 3 0 で す。 こ れ が な かった
こ と はで き な かったで
2007 年1 月に 歳 の中で 生 き 抜いていく
で死去した。
山添氏は満州開拓科
驚 くのは、 写 真に収 しょう﹂と書いている。
め ら れたロシア 人の名
前 が、 すべて表 示 され 学研究所の一員だった。
ど被 写 体の正 確な情 報 1 9 3 8 年、ロマノフ
ているこ と だ。 こ れ ほ 研 究 所は満 鉄の出 資で
催 は、 モス クワで 初 め た。
が示された歴 史 展の開 カ村の近 くに設 立され
この村は1 9 4 0 年
旧 満 州にソ連 軍 が侵 村は壊滅したが⋮
てではないだろうか。
攻した1 9 4 5 年 以
降、 世 界 各 地へ亡 命 し 代 半 ば、 ソ 連、 中 国、
た村 民に、 同 郷の人 々 日 本の3 国の戦いの地
き続けた。
していた 写 真の中で生
らい、 それが 記 録 され 本人学者が大切に保管
の名 前 を 思い出 しても となり壊 滅したが、 日
た。
ロシア文 化 研 究 者の
日 本 人 がロシア 人の 中村喜和氏が、山添氏
ロシアの成功例に学ぶ
農 民に関 心 を 示 したの の撮 影した写 真をウラ
は、 何よりも旧 満 州に ジオスト ク博 物 館に提
興 味 が あった か ら だ。 供しなければ、 展示会
を 指 す。ロマノフカ 村 気候条件は厳しかった。 されている。
改革に反対した保守派 こ よ う と し てい た が、 ノフカの日 々﹂ も出 版
が 住 ん でいたロマノフ
古 儀 式 派 とはロシア 部︶のハルビンから東の 者の経 験から学 ぼうと ワ、ロシア新聞抄訳︼
︻ ジャンナ・ワシリエ
は、 旧満州︵中国東北 そこで、ロシア 人 入 植
集 めた展 示 会が、モス
カ村を撮影した写真を ロマノフカ村
シアの古 儀 式 派の人 々 まで開催された。
日 本 人 の生 化 学 者、 クワのマルチメディア・ 正 教の一派で、 世 紀 日 本 人の農 民を同じよ を実 現 することは不 可 山 添 三 郎 氏が戦 前にロ アート美 術 館で1 月 末 のニコン総 主 教の教 会 うにこの土 地 に連 れて 能だった。写真集﹁ロマ
ポターニン慈善基 金の﹁貴重コレク ション・シリーズ﹂
少 し甘みのある味と は特別な祝日のパンで、 そのためだ。
なっている。
リ ア ン ダ ー が 材 料 に 普及するようになった。 が 低 くな く、 パンの皮 でつく ら れ た パンは 似 たな人生﹂を手に入れて
20
グルマザ ーに対 して社 がいる。 会的烙印︵らくいん︶が 産 は 女 性にとって義 務 じ、 余 暇には早く仕 事 感 を 伴 う も の だった。 へ戻 ること を 夢 み な く
彼 女 らは主に﹁自 分 親戚のプレッシャーも強 てはならなかった。 今日、ロシア国民は、
その名はカツレツ
美術館提供
押されていた。 く﹁あなた ? 子供は
代の女 性た ちで、 子 供 まだなの? ﹂ などとせ 仕事よりも休息を好ん でいる。
1200 万人が暮ら ロシア国 家 公 務 員 ア カ デ ミ ー 社 会 学 セ ン すモスクワで昨 年、 正 家族への責任 市 民 社 会 調 査セン タ ー の 調 査 に よ れ ば、 教 のクリスマス 礼 拝へ
国 民の大 部 分︵ %︶ 足を運んだ人は 万人 ターと高 等 経 済 学 院の は、 余 暇 を 家でテレビ だった。この数 字 は 共 調査︵2010年︶によ を 見 たりして過 ごして 産主義、社会主義が公 れば、ロシア国 民のう いる。 自 然のなかで過 式 イ デ オロギ ーで あっ ち、 自 分の家 族に対し ご す とい う 人 は %、 たソ連 時 代の信 者の数 責 任を負 うという人は
14
キリール・ラグツコ撮影
% だったのに対して、
治 に 関 心 を 示 す 人 は、 7 %、 国の状況に責 任
あまり関 心がない。 政 責 任を負 うという人は % は モスクワな ど大 都 市に を負 うという人は5 %
リを細かく刻み、2分ほど炒め、ひ き肉に加え、混ぜ合わせる。
卵 2 個 白パン 1本 にんにく 2∼3片 玉ねぎ 大 1 個 タイム、パセリ 骨のない牛肉または 牛ひき肉 500㌘ 牛乳 500㍉㍑ 植物油 塩
2 玉ねぎ、にんにく、タイム、パセ
材料
作り方
ソ連時代の外食や家 庭料理にもつきもので、 幼児からお年寄りまで がこの衣のついた食べ 物のお世話になる。そ の名はカツレツだ。
中村喜和 ロシア文化 研究者。専門はロシア中 世文学、日露文化交流史。 一橋大学名誉教授。ロシ ア科学アカデミー外国人 会員。 大佛次郎賞受賞。 著書に『聖なるロシアを求 めて――旧教徒のユート ピア伝説』 (平凡社) 、訳書 に『ロシア中世物語集』 (筑 摩書房)などがある。 山添三郎 生化学者 , 満州開拓科学研究所」の 一 員。 1930 年 代 末 に、 満州開拓に役立てるため、 繁栄するロマノフカ村をし ばしば訪れた。
のために﹂ 出 産した のいる 家 族に占 める 割 かされるのであった。
50
楕円形の黒パン「ストリーチヌイ」
ロシア国 民 は 政 治に 自 分の居 住 地の状 況に
旅 行 をしたいという 人 と重なる。 は7%となっている。
ロシア国 民の
正教徒と名乗りつつ
68
自 ら正 教 徒と名 乗って 住む数十万人とみられ にすぎなかった。
カートの裾を下に引っ ぱり、 指 輪とイヤリン グをは ずしてポケット にしまう。 道は、いくら遠回り 通りの多いところを選
になっても、 明るく人 ぶ。
28
ザ ー は は る か に 多 く、 初 産が
ドアの鍵を破ろうと りを全 部つけると、 我
(2011 年の調査)
週 時 間 以 上 働いて で男性は %︶なのに、 いるが、 教会へ通ってい る。 抗 議 運 動、 選 挙、 合は %以下であった。 今 日、 婦 人 科 の 相 今 で は シ ン グ ル マ 談 所 で は 依 然 と し て、 いる人は先 進 諸 国では ロシアでは0・2%にす る正 教 信 者はせいぜい 政党は一握りの者にとっ 歳を過 ぎると 平均9%︵米国は % ぎない。 %にすぎない。 てのゲームである。 10
ロシア新世代の生活観
をかけてきたりドアを
内務省の公式サイト ノック し た 場 合 に は、 したら、 すぐ警察に電 慢しやすくなる﹂ と内
女性が夜遅く帰宅す
女性の自衛策は
番︶ 、 務省は助言する。
自 宅 に一人 で い て、
れない﹂ というような ただ怖い場 合にはどう る場 合は、 上 着の胸の
﹁親 は 今 忙 し くて出 ら
い﹂ と言ってはならない。 呼ぶ。
を子供たちに周知させ ば、﹁ 大 人 は 家 にいな ベランダに出て助 けを
このパンフは3 部 構 る意向だ。 車中での行動❸親がい 見知らぬ人には
す る か。﹁ 家 中 の 明 か ボタンを全 部はめ、ス
︶ 、
旧満州の古儀式派
2人 3人
増える事実婚 離婚率は6割
けなどだ。
強 盗 対 策、 酔っ払いよ 成で❶路上での行動❷
た。内容は、交通規則、
子供たちへ﹂ を発行し 集め、マンガ化した。
ンフレット﹁警 察 より なると思われる規則を によ ると、このパンフ 内 務 省 の 勧 め に よ れ 話 し︵ロシアは
風のマンガを 入 れたパ なり事故を防ぐ助けに
ロシア内 務 省が日 本 は、 特に子 供のために 動から成っている。
マンガで防犯 内務省が子供向けパンフ
マックス・アフデエフ撮影
見 知 ら ぬ 人 が 電 話 フリをすべきだ。
︶ 、 警 察︵
パンフの最 後に消 防
備えあれば 署︵
救急車︵ ︶など、緊 てある。
両親に対しては、 携 帯と職場の電話番号を 書いて家に貼ってお く ︻ニュースサイト﹁レ
日本人学者が撮影保管
98
11
(ヤンデックス検索)
よう勧めている。
山 添 三 郎 が 撮 影した 200 点 以 上 の 写 真 に は 写っている人物の氏名が ほとんど特定されている。 写真集にはロマノフカ村 の生活の回想と古儀式派 (分離派)の歴史に関する 資料が収められている。
27
アロマートヌイ( 「香りのある」 ) パン
02
( 「労働新聞」 の資料) (1970 年の学校世論調査)
83
10
80
トルコ、タイ、イタリア、 エジプト、スペイン
急時の電話番号が書い
03
子供 スライドショーはこちらで www.roshianow.jp/40873
休暇の過ごし先
ンタ・ルー﹂抄訳︼
写真集「ロマノフカ村 の日々」
30
白パン「ナレズノイ」
20
20
10
夢の職業
揺りかごから墓場まで
モスクワで開催された写真展に 出品された山添三郎氏撮影の旧 満州の古儀式派の人々の暮らしぶ り=モスクワのマルチメディア・アート
17
15
20
25
女子 教師 (20%) 医師 (11%) バレリーナ ロシア内務省情報部提供
(1975 年の調査)
取り上げてほしい話題やご意見をお寄せ下さい。 お気軽に日本語でメールして下さい。メールの先は jp@rbth.ru です。
現在 ソ連時代
人の若者たちの自由な生き方は、それ以上の世代 とは違った価値観に基づいているようだ。彼らが未 来のロシアを作っていく。 社会主義・ソ連の崩壊から 22 年。ということはロ シアの 20 代までの若者は 「ソ連を知らない世代」と なる。社会主義を体験したことのない新しいロシア
世代の違い
20
ファイナンシャルアナリ スト ナノテク技術者 プログラミスト マネジャー 医師 営業/広告 ビジネスマン デザイナー 男子 宇宙飛行士 (16%) 医師 (14%) トラック 運 転 手 (12%) 02
ダーチャ、保養所、 ソチ、ゲレンジック 01
マ ン ガ の 作 者 た ち ないときの自 宅での行
子供自らの行動を促す
くらし 6
2013年(平成25年)2月14日(木)
ロシア NOW www.roshianow.jp DISTRIBUTED WITH THE MAINICHI SHIMBUN SECTION SPONSORED BY ROSSIYSKAYA GAZETA, RUSSIA
サンクトペテルブルクは、 壮 麗な宮 殿で世 界に名をはせ、 優 美なファサードは河 岸 通りや大 通りを彩り、 夏は庭 園の緑に埋 もれ、冬は人気のない広場にそびえる。 特に有名なのは、マリー ンスキイ、 ボロンツォフスキー、 冬 宮、 ミハイロフスキーなどの
間 や 鏡に今 もパーベル たに人の通 らない廊 下 レクサンド ル2 世、エ
1 世の亡 霊が姿を見せ で、 ニコライ1 世、 ア ると話している。 亡 霊 が 現 れ る の は カテリー ナ 女 帝、ロマ ミハイロフスキ ー 城 ば ノフ王 朝 最 後の皇 帝ニ か り で な く、 エ ル ミ コライ2 世の亡 霊 を一
やがてそこは工 兵 学 タージュの﹁心臓﹂にあ 度ならず見かけたとい
ル ミ タ ー ジュのた めの 絶えない幽霊伝説
渦巻く宮廷の陰謀 巡 らして難 攻 不 落の城 た。
城である。 しかし、 どれも殺 害や宮 廷 クーデダーといった過 去 を築いた。
日 に す ぎ ず、
自 身の姿を目にしたと
ドル1 世の妹であるア 現 在、 この城 はロシア にも皇 族のお 化 けがす を離れて広 間から退く
例 えば、 ニコライ1 ンナ・パーブロブナへの 美 術 館の所 有 となって んでいるという。
美 術 館の一部の館 員 いう逸 話もよく知 られ 日に 世はインジェニェルヌイ 贈 り物は、 城の銀の柵 いる が、 地 元のガイ ド た ちは、 人 気のない広 は、 薄 暗い倉 庫 や めっ ている。
それでも優美な北の都
城 が1 8 0 1 年 3 月
日の皇 帝 暗 殺の
帝 都の中心 部にあるミハイロフスキー
は1 8 6 1 年の農 奴 解 放 令で解 放 者と
ドル2 世 を 弔 うた めに建 設 された。 彼
﹁血の上の救 世 主 教 会﹂ はアレクサン
友 病をラスプーチンに治 療してもらって
コライ2世夫妻は皇太子アレクセイの血
に建つユスポフの宮 殿で起きた。 皇 帝ニ
は1 9 1 6 年
自 分の寝 室で殺 害され 城の大 理 石の床 を 新エ で作られた。
1801 年3 月
ずか
城 で 暮 ら し た の は わ もうとしなかった。
世 が ミハイロフス キ ー 帝 た ちは そこへ移 り 住 王 妃で皇 帝 アレクサン 時 に は 病 院 と なった。 1 7 6 2、 宮 殿 広 場 ︶ カテリーナ2 世が玉座
し か し、 パー ベル 1 ち捨てられ、 後 継の皇 命 じたほか、 オ ランダ 校となり、 大祖国戦争 たる冬宮︵1757 ∼ う。 死 を 目 前にしたエ
皇 帝の死 後、 城は打 建 材として用いるよ う
ラエフスカヤ︼
の歴 史を秘 めており、 陰 鬱な町とみなされている。︻ソフィヤ・
世
紀のペテルブル ク建 築
時 代﹂ と呼ばれる
イ城は﹁皇 帝の宮 殿の
しくはインジェニェルヌ
ミハイロフス キ ー も
がある。
は、 もっと 多 くの伝 説
通り2号棟︶をめぐって
1 8 0 1、 サドーバヤ
城︵ 1 7 9 7 ∼
ミハイロフス キ ー
こちらも有名な
ミハイロフスキー城
されたという。
き革 命 家の骸 骨が発 見
逃 亡させよ うとした若
の部 屋からは、 彼 女が
夫 人の寝 室の奥の秘 密
例えば、 麗しき公 爵
説がある。
た暮 らしを映し出 す伝
ペテルブルク この北 の都 がつく ら れた 当 初 から、 そこに おり、 まさに彼 らのた
は皇 室や貴 族が住んで
宅、 貴人や名門の宮殿
めに、 皇 帝や大 公の邸 が建てられた。
ユスポフ家の宮殿 裕 福 な一族は、 市 内 に複 数の豪 邸を有して 例 え ば、ロシアのみ
いた。
富 裕 な一族であるユス
ならず世 界でも極 めて ポフ公 爵 家は、 宮 殿の ほか、 屋敷や邸宅、 劇 場を所有していた。 リ チェイ ヌ イ のユス ポフの邸 宅︵18 5 2 号棟︶
∼ 1 8 5 8、リチェイ の歴史を閉じた。 そ れ らの名 称 は、ロ 天 使である大 天 使 ミカ
マノフ家の庇護︵ひご︶
年 か らそこに置 かれた
エルな らびに1 8 2 3
この 城 は パー ベル 1
工兵学校に由来する。 世のスケッチに基づいて 建造され、 皇帝は建物 の周 りに堀 と 厚い壁 を
サンクトペテルブルクを 代表する壮観なエルミター ジュ宮殿。美術館のイメー ジの陰で多くのドラマが演 じ ら れ た = Lori/LegionMedia 撮影
現 場となった。、 見 張 りが殺 害に加 わっ
呼 ばれたが、この農 奴 解 放 は 地 主 貴 族
以来、その強力な影響下にあり、皇后ア
当時、多くの話題を独占したこの事件
たのだ。 暗殺者は﹁皇帝の狂乱とロシア
た。 社 会 不 満は高 まり、 皇 帝 暗 殺 をた
にとっても農民にとっても苦しいものだっ
レクサンドラはこの﹁怪僧﹂と愛人関係に
日、モイカ川 沿い
の運命に対する不安だ﹂と動機を述べた。
くらむ者が現れ、 何 度 も未 遂 事 件を起 対し、 ナポレオンのフランスに接 近して
月
パーベル1世は貿易の得意先・英国と敵
日、 皇 帝が
貌の妻と会わせることを口実にラスプー
あった。ユスポフの回 想 記によると、 美
1 9 2 5 年、 詩 人 セ ル ゲイ・
エセ ーニンは 全 集 を 出 版 しよ う
としていた。ところが、 月 日、
アングレテル・ホテルの部屋で遺
体で発見された。部屋に残されて
僕の友よ、 さよ うなら﹂ だった。
いた 最 後の詩 は、﹁さ よ う な ら、
彼はうつ病にかかっており、 1 カ
月の入 院 後、 自 殺 し たというの
が歴史家や伝記作家の説である。
しかし、近年になって、秘密警察
BransonDecou 撮影
サ ンクト ペテル ブル
クのエル ミ タ ー ジュ美
術館︵1764年設立︶
は、 所 蔵 す る 美 術 品
雇っている。
世紀
を保 護 するために猫を
最 初の猫 は
に導 入 された。 ピョー
トル1世︵1672∼
17 25︶は、 大型の
猫をオランダから持 ち
帰 り、 当 時 木 造 だった
冬 宮 内にすみかを設け
た最初の人物だ。
屋根裏や地階にすむ その後、 ネズミ類を 恐 れた 女 帝エリザベー
タは、 猫の一群 を カ ザ
命 令した。この﹁見 張
ンから取り寄せるよ う
り猫﹂は屋根裏や地階
にすんでいる。
猫 は、エカテリー ナ
︶ 時代に宮殿の守衛
2世︵在位1729∼
確 立 した。 ドイツの公
と し て、 そ の 地 位 を
家から皇 太 子 ピョート
ルに嫁いで き たエカ テ
ちは部屋内の猫︵ロシア
リーナ妃のもと、 猫た
ンブルー︶ と、 ネ ズミ
ちに分けられた。
を捕まえる裏 庭の猫た
エル ミ タ ー ジュ美 術
館の起 源は、 オランダ
点の作 品 をベルリンの
の美 術 家による2 20
代理人を介して収集し
た、エカテリーナ2 世
さかのぼる。
の 私 的 コ レ クションに
猫 た ち は、 ソ ビ エ
戦時には食料に
ト 政 府のも とでも そ
の 任 務 を 全 う し た が、
祖 国 戦 争 中のレニング
1 9 4 1 年 か らの 大
ラード包囲を生き延び
ることはできなかった。
飢 餓に苦しめられた
人 々が猫を食べ尽 くし
て し ま う と、 ド ブ ネ
年 1 月に包
ズミがは びこるよ うに
なった。
囲 が 終 わ る やい な や、
猫 を のせ た 2 台 の ト
ラックが 中 央ロシアか
らレニングラー ドに到
着 し、これを もとに新
猫 軍 団が編 成されるこ
たなド ブネズミ獲りの
とになった。
パスポートも保持
猫の数は 年代後半 に空 前のレベルにまで
去 を 命 じ た。 数 年 後、
たため、 当 局は猫の除
も 侵 入 するよ うになっ
増加。 展示室や廊下に
60
猫の助けなしに美 術 品
の保 存は困 難として除
﹁隠遁︵いんとん︶者﹂
去命令は撤回された。
たちは、 美 術 館の地 階
をネズミた ちの横 暴か
ら守るという困 難な任
務 遂 行にあたり、 資 格
を証 明 する写 真 入りの
パスポー トを 携 行 して
いる。 猫 た ちは、 主に
路 地の野 良 猫によって
構成されている。
厳格な階級制度あり
猫社会には厳格な階
級 制 度 が あ る。 貴 族、
中流階級と下流階級
に分 類され、 館 内の指
匹
定された場 所で活 動し
∼
日は﹁エルミター
抄訳︼
ナ、ラジオ﹁ロシアの声﹂
︻ジュリア・ガリウリ
どが企画されている。
の展 示 やコンテスト な
ジュの猫の日﹂で、多数
月
に 頼っている。 毎 年 3
従 業員たちからの寄 付
生存を市民や美術館の
てい な い。 猫 た ち は、
美術館の予算は、 猫 の世 話 資 金を割り当て
因となっているからだ。
事故が最も頻繁な死
交通標識がある。 交通
は猫の存 在を警 告 する
るからだ。 美 術 館 近くの道 路に
面で、 世 話が難しくな
キャットフードのコスト
を 超 え る こ と は な い。
ている。 猫は
50
ヌイ 大 通 り イ ー ダ・ ユス ポ ワ は、
の主で宮 廷 女 官のジナ 皇 帝 ニコ ライ 1 世 や ナポレオン3 世の寵 愛
︵ ちょう あい ︶ に あ ず かった が、 邸 宅に長 く は 暮 らさ ず、ロシア皇 帝とけんかを するとパ リへと去った。 空 き 家 となった 邸 宅 は し ば し ば 賃 貸 さ れ、 1 9 0 7 年にはそこに ロシア 初 の キャバレ ー も ち ろ ん、 リ チェイ
の一つが開かれもした。 ヌイの宮 殿 を め ぐって は、 館の主 が 営 んでい
語り継がれる暗殺
古 都の 事件簿
帝 政ロシアの 首 都・ 史上初の社会主義革命 審 死など数 々の事 件が 様を事 件の現 場にご案 サ ンクト ペテル ブル ク を 経てきた。 その影で 起きている。そこで﹁ロ 内します。
こした。 1 8 8 1 年3 月
市内を馬車で走っていた時、 最初の爆発
チンを自宅に招き、 青酸カリ入りのナッ ツケーキを食べさせ、銃弾を数十発撃ち
による自殺を装った殺人であると
いう説が現れた。
常駐しネズミ退冶が仕事
もっと読む www.roshianow.jp/38645
エルミタージュの猫軍団
18
チュメニ州ポクロフスコエ村を通る国道に面して、 帝政末期に怪僧といわれたグリゴリー・ラスプーチン の家があった。現在は残っていない。ウラジーミル・ スミルノフさんとマリーナ・スミルノワさん夫婦はラ スプーチンの写真などを収集し、ラスプーチンの両 親が住んでいた家を購入して、1991 年にロシア初と なる私立博物館を開館した。 ラスプーチンには 3 人の子供がいた。子孫を残し たのは娘のマリーナだけ。マリーナは白軍将校の夫 と、ウラジオストクからチェコスロバキア軍団を運ぶ 船で出国したが、夫はまもなく死亡。娘たちを育てる ために亡命先ではサーカスの猛獣使いとして働いた。 曾孫娘のロランス・イオ・ソロビヨワさんは 2005 年、ポクロフスコエ村を訪れ、博物館に本物の写真 と書類を寄贈した。ロランスさんは自分の家系のこと を長い間隠し続け、自身の 60 歳の誕生日に初めて曾 祖父の姓を明かした。
中国の間の壁面には中国 製の青い絹が貼られ、さ まざまな名場面が描かれ ていた。中国の間には信 頼する廷臣が招かれた。
サンクトペテルブルク郊 外の離宮エカテリーナ宮 殿では「青の客間」(写真 左)から「中国の間」 (写真 上)に抜けることができる。
40
︻ダリア・ゴンサレズ︼
のだった。 皇 帝は金 色のたばこ入れで一
ら降り、 犯 人のルサコフに尋 問していた
込んだ。かれは柵を飛び越えて逃げたが、
60
もっと読む www.roshianow.jp/40909
44
ラスプーチンの子孫
28
96
電子版でもっと読む
12
冬宮:火災修復作業は室温 30 度で 17
ネバ川に投げ込まれ溺死したという。
アングレテル・ホテル
もっと読む www.roshianow.jp/38645
写真は Lori/LegionMedia、 Photoxpress 撮影
28
1925年
12
ロシア通信撮影
エカテリーナ宮殿:信頼の証し 「中国の間」
詩人エセーニンの不審死
12
写真を見る www.roshianow.jp/40037
ロシア通信撮影
ユスポフ宮殿
が起こったが、 けがはなかった。 馬 車か
ラスプーチン暗殺事件
18
宝石商で、インペリアル・イースター・エッ グの制作者として知られるカルル・ファベル ジェ (1846 ∼ 1920) 。1900 年、ファベルジェ がサンクトペテルブルク郊外に建てたダー チャには宝石コレクションがあり「小エルミ タージュ」と呼ばれた。消えた宝物の伝説は 1917 年のロシア革命の頃に始まる。 財宝が ありそうな場所は3カ所。まず、現在のラト ビア。ファベルジェの元会計士がここに宝を 隠したという。 第2の可能性はフィンランド 国境沿いのどこか。だが、国境線は何度か 引き直された。3カ所目はダーチャだ。もっ とも、ファベルジェ家の口癖は「一つのかご に卵を全て入れないこと」だった。
1837 年 12 月、 サ ン で復旧作業が行われた。 クトペ テルブ ルクの 冬 壁の乾きを早くするため 宮(現エルミタージュ美 気温が 30 度まで上げら 術館)で火災が発生した。れたが、屋外は氷点下 皇帝ニコライ1世の命令 25 ∼ 30 度だった。
1916年
13
時に、仲間が2個目の爆弾を投下し、こ
血の上の救世主教会
撃を受けたらしい。パーベル1 世は﹁脳
アレクサンドル2世暗殺事件
れが致命傷になった。
1881年
出血で死亡した﹂と発表されたが、これ
ミハイロフスキー城
はロシア皇帝が暗殺された時のお決まり の ﹁病名﹂だった。
1801年
暗い過去 併せ持つ リリヤ・ベーラヤ撮影
12
いた。これは貴族の収入源を直撃するも
パーベル1世暗殺事件
42
はロマノフ朝の栄 華 や 皇 帝の暗 殺、 詩 人の不 シアN O W﹂ 読 者の皆
消えた宝石
DISTRIBUTED WITH THE MAINICHI SHIMBUN www.roshianow.jp SECTION SPONSORED BY ROSSIYSKAYA GAZETA, RUSSIA
ロシア NOW 2013年(平成25年)2月14日(木)
7 旅行
人 2 人の兄 弟のそばに居
てから、 呪 わしい問 題
イ ン タ ビ ュ ー
くる学生の中にも、す
ロシアの歴 史 をしっ キンの ﹃青脂﹄ の翻訳は か り 学 び 直 して ほ し 特 に 高 い 評 価 を 受 け
い。 幸 薄いロシア民 衆 ました。
の傍らで、若い知識人 他 方、 ロ シ ア の 美 がいかに引 き 裂 かれ、 術、 映 画などは最 近、
予 約 をとらなければ、 しい。
ん。ロシア・アバンギャ
日本におけるロシア す。 年 前 と 比 較 し て 驚 くべき 事 態で す。 文学研究のレベルは極
ロシア文学だと思いま なっていますか。
で最も人気の高いのが 学 習 者 の 現 状 は ど う
ルド、ソッツアー トに とうてい入れません。 文 学 を 中 心 に 現 在 対 す る 関 心 は、 総 じ 現 在 私 は、 北 海 道 大 学の望 月 哲 男 教 授、 の ロ シ ア の 状 況 を ど て低下しています。 東 京 大 学 の沼 野 充 義 う感じていますか。 日本におけるロシ お そ ら く 世 界の文 教 授 ら と と も に、 新 学 の 中 で、 今、 日 本 ア 文 学 者、 ロ シ ア 語
弟﹄がテレビドラマ化
読んでみようと思っ
キー、トルストイ︶を
ワシーリー・ グロスマ めて高いと認 識してい
研 究 者 は、 ほ と ん ど
ま す。 し か し、 若 い
大学での職を得ること
ができず、苦境を強い
られています。
大学で、ロシア語を 学 ぶ 学 生 が 少 な いの
が原因です。 グローバ
ル 化の流 れのな かで、
受 験 生の関 心 が ま す
ます英語に向かってお
り、 英 語 以 外 の 言 語
は人気がありません。
とこ ろ が、 年 以 降、 徐 々 に 人 気 回 復
が進んでいることも事
実であり、転機の兆候
がうかがわれます。ロ
と軌 を一にしていると
シア文学ブームの到来
いってよいと思います。
いかにしてロシア語 熱 を 盛 り 上 げるかは
訳︵斉藤鉱一訳︶が出 レベルに託 されていま
ンの ﹃人生と運命﹄ の翻 ほ と ん ど 政 治、 外 交
版 さ れ、 日 本 翻 訳 文 す。 日 露 間 の 領 土 問
リュド ミラ・ ウリツカ ならば、日本人のロシ
ヤ、ウラジーミル・ソ ア 語 熱、 投 資 熱 は 飛
カヤの短編集﹃女が嘘 しょう。︻リュドミラ・
ローキンです。 ウリツ 躍的に拡大することで
お聞かせ下さい!
下記のアドレスまで
編集長にお便りを
sales@rbth.ru
jp@rbth.ru
現 代の読 者は、 日 本
日 本ではこれが 聞 き 人もロシア人も、﹃カラ
た だ、ここで重 要 な 現 実 だと見 誤 らないこ
でに﹃ カラマー ゾフの
番組を企画したディレ
されていますが、この
ドバイスをいただけ
ている若い人へのア
クターも、この小説の
をつくとき﹄ とソロー サラスキナ︼
ご意見、ご感想を
ご希望の方は
自 分の運 命を見 落とし 全く聞いていない。 てしまった。 ド ス トエフス キ ー は とられ、 気 づかれるだ マーゾフの兄弟﹄のフィ ﹃ カ ラマー ゾフの兄 弟 ﹄ ろ う か。 かつて、﹃ カ ナー レに光 を 見いだ そ の 中 で、 このこ と を 大 ラマーゾフの兄弟﹄の作 うと努 め、 続 きがどう 声 で 熱 く 語 って い る。 者の予 見に衝 撃を受け なる だろ うかと 懸 命に 亀山郁夫氏が﹁続編﹂
新 訳によって自 分のた ほか、﹁カラマーゾフの
︵高野史緒著︶が昨 し か し、 現 在 のロシ め に 悲 劇 的 な 世 界 の 妹﹂
ないこと、 望 むことを を恐れないことである。
質をそなえた民 族がい の な の だ か ら。︻ ボ リ
き不抜さがある。
アリョーシャ
ま じい人 気 なので す。 苦しんだかを知ってほ あまり話題になりませ
︵1面から続く︶ 女性でした。 翻訳で難しかった 実は、ロシア料理の こと、苦労したことは 有名レストランもすさ 何ですか。
いかに現代人向けの 読み物とするかという
ことです。これだけ長
るためには、スピード
い小説に目を向けさせ
感 あ ふ れる 翻 訳 が 大 切だと考えました。
私の翻訳者としての モットーは、 映画を見
るような感覚でドスト
ができる翻訳をすると
エフスキーを読むこと
で読み通してもらうた
いうことです。 最後ま
めの工夫をすべて試み ました。
翻訳前と翻訳後で 何か変わったことは ありますか。
﹃ カ ラマー ゾフの兄 弟﹄の翻訳をすること
は、 ロ シ ア 文 学 を 志
極の夢 といってよいで
した ものにとっての究
しょう。 自分なりに全
力を尽くしてその義務
か 独 裁 とい う よ う に。 シア人にあ ま り 似てい れ た よ う な ド ミ ー ト を果たしました。 節度のなさの裏側には、 なくともロシア人 以 上 リ ー も、 み ん な 日 本 東 京 外 国 語 大 学 の ロシア語 学 科に入って
賞したのは象徴的だ。
アの読 者 は、 そ れがよ 扉 を 開いていく だろ う 年、 江戸川乱歩賞を受 の は、 取 り 違 え を し と、 そして会 話の高み
だがアリョーシャは、 く 聞 きとれ ず、 時には か?
な れ、 ⋮⋮ そ れが 終っ めよ!﹂と。
と兄た ちを守る番 人に に、 小 さなことか ら 始
委 ね られている。 父 親 考 える権 利 をもつため 断を下している。
さな 空 間は君の責 任に がいい。 大 き なこと を 的 な 重い病に正 確 な 診 在の日 本の若 者た ちは を推 理した本を出した
整 理 整 頓せよ。 その小 けり、 予 言の夢 を 見る 告の書﹂はロシアの慢性 見いだしたよ うに、 現
﹁ 自 分 の 家 を 見 よ! を 解 決 し、 空 想 に ふ ドストエフスキーの﹁警 た芥川龍之介がそれを 推理している。
永遠性にも新しさ 新しい時 代が来るたびに、ドストエフスキーが新 発 見 される。彼の小説は永遠性と焦眉︵しょうび︶の問題が一 体化された産物なのだ。現在の日本社会が、 ﹃カラマーゾ フの兄弟﹄を訳し直し、読み返し、主人公らを注視した いという要求を感じ取るなら、今日の時代に響き合う﹁カ ラマーゾフ一家﹂の神経をとらえたということだろう。 ︻1面から続く、リュドミラ・サラスキナ︼
家族にも、社会にも、
100 年前に、日本 文 壇の指 導 者 だった 小 教 会 に も、 法 廷 に も、 説家、尾崎紅葉は、日 砦︵とりで︶となる支柱 本 人 とロシア文 学の関 がな く、 すべてが 揺 ら 係について、﹁露西亜文 ぎ、 退 廃 していく。 す 学は血の滴るビフテキ べてのつながりが壊れ、 れわれ日本人は精進料 る 対 象 と な る 人 間 も、
のや うな ものだが、 わ 真 実は真 実でない。 守 理を食っている﹂と語っ 守ってやる 理 由 も ない 末の弟アリョーシャに
た。この意 味でドスト かのようだ。 エフスキ ー は、 ま さ し 委ねられた積 極 的な愛
彼 の 最 後 の 長 編 で の機会は失われた。 ﹁俗
く﹁血の滴る﹂作家だ。
合わせれば、 実に
は、 舞台上と舞台裏を 界に暮 らして、 父 親と よ﹂というゾシマ長老の
そこで人 々の生 活 を 命 令 は 果 た されな かっ
︵!︶が死ぬ。 支 配 しているのは 敵 意 たのだ か ら。 アリョー と不 信である。 家 族か シャは 自 宅 での苦 し み ら 母 性 愛 は 姿 を 消 し、 か らのがれて、 ガ リ ラ 父 親と息 子 らは互いに ヤのカナの婚 礼の夢 を 軽 蔑 し合い、 お 互いを 最 後 ま で 見 た い と 願 ド ス トエフス キ ー は
恐 れている。 愛 と 哀 れ う。 み は あ ま り に 少 な く、
盗むなら百万を 危 険 を 冒 さ ざ る 者、
その無 類の頑 強さゆ る。 お 察 しの通 り、 そ ス・ ア ク ー ニ ンの ブロ
愛 す る な ら 女 王 を、 武骨な粘り腰や雄々し に こ う し た 両 刃 の 性 的 な 登 場 人 物 そ の も
切るならばっさり
高等経済学院で亀山 一つかみ投じたドストエ う ち カ ラマー ゾフ兄 弟 見 境 が な い ド ミ ー ト 哀れむなら哀れめ に見 ら れる 最 もロシア リーが抜きんでている。
詩 的に言 えば﹁不 羈
れない。
彼のお か げで世 界 は 的 な ものとは 何 かの議 確 かにその通 りかもし
郁夫教授と共に講演を フスキー。
した 際、 日 本 人 がこの
インパクト は 善 悪の
小 説に引かれる理 由を すでに1 3 0 年にわた 論を続けている。
聴 衆に問われ、 私は分 り、 ロシアの 民 族 性 の
兄弟﹄を読んだ学生が え に、 一揆 が 起 こ り、 れは日本人である。 グ︵ www.borisakunin. ︶ か ら 少なくありません。 1 8 1 2 年にはボロジ × × × livejournal.com しかし、 ドストエフ さて、 聴 衆の質 問へ 転載・抄訳︼ ス キ ー・ ブ ー ム、 い ノで大 敗 しても 持 ちこ
た。 その後、 私 なりに
からないと正 直に答 え
己の性格に投影
あれこれ考えた。
キー学 会を立 ち上 げ
るべく準 備 を 行ってい
たに日 本ドストエフス たえ、 19 41 年には のお そまきながらの回
草稿には「I.F.」 「学 者」 「殺人者」などの 呼び名で出てくる。 構想では二男イワ ンが殺人者であっ たことを示している。
を結ぶのは、これから るところです。 化賞を受賞しました。 題が、 互いのぎりぎり と考えています。 また、最近の日本で の歩み寄りのなかで解 例 え ば、 1 月 か ら こ れ か ら ロ シ ア 長 話 題 になった 作 家 は、 決 さ れ、 両 国 間 で 平 ﹃ カ ラ マ ー ゾ フ の 兄 編文学︵ドストエフス ボ リス・ ア クーニン、 和 条 約 が 締 結 さ れる
弟﹄ブームが真の実り
イワン
長男のモデル の 一人と目され るのがドミート リー・イリイン スキー。ドスト エフスキーがシ ベリア流刑の体 験を描いた 『死の 家の記録』 に出て くる人物だ。
10
本紙に広告掲載を
奮ってご購読を!
ドミートリー
ドミートリ ー、 イワン、アリョー シャ、それにスメ ルジャコフ( 私 生 児)の父親。作品 は 彼 の 殺 害 をめ ぐって展開する。
や﹃カラマーゾフの兄
× × × 三つの主 柱︵ ド ミ ー
レニングラードを 明 け 人 がこの小 説 を 好 むの
赤軍が潰︵つい︶えても 答に話を戻せば、 日 本
トリーの﹁人 間の幅﹂、
イワンの﹁神の不 在﹂、
奔放﹂。要するに﹁節度 シャンパンを嗜むべから 渡 さ ず、 スター リング は、 カ ラマー ゾフ兄 弟 のな さ﹂ は、ロシア 魂 ず﹂。 ラードを守り抜いた。 を 自 分の兄 弟のよ うに 民 族のこうした属 性 ロ シ ア 性 の 特 徴 は、 見 な しているた めでは
07
次号の 発行日 (予定)
フョードル・ カラマーゾフ
スピード感で翻訳
新版の翻訳者・亀山郁夫氏
Tel. +7(495)7753114
www.roshianow.jp/subscribe
ロシアNOWをフォロー
twitter.com/roshianow
facebook.com/roshianow
ナタリア・ミハイレンコ
もっと読む www.roshianow.jp/ 14129
日本のロシア文学 訳書にはドストエフ 者。 東 京 外 国 語 大 スキーの『カラマー 学学長。専門はロシ ゾフの兄弟』(全5 ア文化・ロシア文学。 冊) 、『罪と罰』 、(全 単著には『 「カラマー 3 冊) 、『悪霊』 (全 3 ゾフの兄弟」続編を 冊) 、 『悪霊 別巻「ス 空想する』『ロシア・ タヴ ロ ー ギン の 告 アヴァンギャル』など。白」異稿』などがある。
3
モスクワ中心部に位置する 1872 年開館の歴史ある科学技術博物館 が改修工事に入る。 改修は日本の有名な若手建築家、 石上純也氏の案に沿って行われる。 5 年後には世界有数の現代的な科 学技術博物館としてその姿を披露す るだろう。 石上氏は 2011 年ベネチア国際 建築展で金獅子賞を受賞した。今 回は石上氏のアイデアがすべて承 認されたわけではない。 一番大 きな問題となったのは屋根の部分 だった。石上氏の設計では薄いプ ラスチック製の透明フィルムが屋根 として使用されるが、専門家はより 耐久性のあるガラス製の屋根を要 求している。 改 修 工 事 完了は 2016 年 末で、 新装開館は 2018 年の年初めにな る。準備期間の 1 年間は博物館設 備の搬入や新しい展示品の収集な ど費やされる。改修されてもなじみ の雰囲気はそのまま維持され、来 館者を魅了するはずだ、と博物館 関係者は自信をのぞかせている。
ますか。
石上氏設計で博物館改修
素 晴 ら し さに 接 し た
電子版でもっと読む
ボリス・アクーニン:「日本ブー ムが対日感情を変えた」
[ワークショップ(演奏体験)] 3月10日(日) 15:10∼16:10 事前申し込みが必要です。 [定員]15名 [対象]小学生以上 (1家族につき1名様限り。見学は自由) [場所]わらべ館いべんとほーる(鳥取県)
の国 際 的に認 め られた
[演奏者] 竹内正実、濱口晶生、塩出真弓、岩間圭美 (マトリョミン演奏集団「Mable」)
涙﹂︶から﹁真のロシア
[曲目] 「ともしび」 「赤いサラファン」 「カチュー シャ」など、おなじみのロシア民謡他
アリョーシャの﹁子供の
ロシア生まれのマトリョーシカが歌う
性﹂ という化 学 式をこ
マトリョミン演奏会& ワークショップ
しらえる。これにフョー
[公演日程] 4月18日(木) 18:30(18:00開場) 4月19日(金) 18:30(18:00開場) [会場] 町田市民ホール
「ロシアの今週のトップニュース」 をあなたのinboxでご覧ください!
「今日の写真」 を お見逃しなく!
カラマーゾフ親子
ブーム結実はこれから
3
︵ そ し てロシ ア 人 も 否 は、 祖 国の歴 史におい ある状 況ではすさまじ ないかと思う。 定しない︶特徴である。 て一度 な らず 国 を 極 端 い憤 怒を、 別の状 況で 理想主義者のア
[制作] 谷口登美子 [芸術監督・振り付け・演出] ビャチェスラフ・ゴルディエフ [演出助手] イリイン・ゲンナジー
汚 れ を一つか み と、 ス
[予定演目] 白鳥の湖 第2幕/ジョコンダ/ラ・バヤデールより パダクション/パガニーニ/パレットの人生/ タンゴ 他
続編は三男が主 人公のはずだった。 作者の宗教観は 「ガ リラヤのカナ」とイ リューシャの 葬 式 場面に集約される。
もっと読む www.roshianow.jp/40887
インタビュー
カラマーゾフの愛憎
1 2 [演奏会]
予見するドストエフスキー ド ル・ カ ラマー ゾフの
2013年第13回 まちだ全国バレエコンクール開催記念
で叫んでいる。
刊行:2012 年 11 月 相沢直樹 著 新曜社
ドストエフスキー 生涯最後の 長編
ロシア 古 来の格 言 集 か ら 極 端へ走 ら せ た。 は熱き感 嘆を呼 び起こ リ ョ ー シ ャ も、 狂 気 にはこんな文句がある。 自 由ならば底 無しの混 すことだ。 じみた 合 理 主 義 者の ﹁ 処 す る な ら 処 せ、 とん、 秩序ならば専制 しかし、 世 界にはロ イワ ンも、 ものにつか
ボリショイ&ロシア国立バレエ ガラコンサート∼日本の若き 仲間たちとともに∼
43
悪 意と憎しみがあまり ﹃ カ ラマー ゾフの兄 弟 ﹄
話題の本
「カラマーゾフの兄 弟」は1880年11月に完 成。作者は出版から4 カ月後に亡くなった。 当初の構想では、 この作品は大長編の 第1部にすぎなかっ た。 続きは20年後という設定 で、 末弟アリョーシャがリーザ との複雑な愛憎に苦しみ、 長 兄ドミートリーはシベリアから 既に戻っているはずだった。 「カラマーゾフの 兄弟」は、文豪レフ・ トルストイが生涯 の最後に読んだ本の一つだ った。
3月10日(日) 14:00∼15:00
人物像が日本人的 メルジャコフ的なものを
カルチャー カレンダー
グルジア生ま れで本名はグ リゴリー・チ ハルチシビ リ。筆名は「悪 人」から。日本文 学研究者で三島由紀夫の翻訳 や『自殺の文学史』などの評論 がある。1998 年より作家活動 を始め、推理小説『エラスト・ ファンドーリンの冒険』シリー ズはベストセラーとなった。 もっと読む www.roshianow.jp/arts/books
引かれる訳は
「ゴンドラの唄」っ て、「命短し恋せよ 乙女」というあれ?け れど、背景はベネチ アのはずで、ロシア とどういう関係があ るの?といぶかる向 きもあろう。 とはいえ、この歌は大正ロマン華 やかなりし頃、ロシアの文豪ツルゲー ネフの小説を新劇の旗手・島村抱 月が舞台化した『その前夜』の劇中歌 だった。やがて黒澤の『生きる』で主 題歌になったことからもわかるとお り、この歌謡は日本の大衆に愛され てきた。セーラームーンはじめアニ メ、コミック、CMでいまなお残響 が鳴りやまない。 本書は比較文化の研究手法を駆 使して、「ゴンドラの唄」の成立事情、 受容史に迫り、大衆レベルでの日欧 文化交流の足跡をたどる。オタクの 王道をも極めた魅惑の書、だまされ たと思って手にお取りあれ。 (電気通信大学准教授・三浦清美)
ボリス・アクーニン氏
文学の神髄 に多い。
甦る 『ゴンドラの唄』
文化 8
2013年(平成25年)2月14日(木)
ロシア NOW www.roshianow.jp DISTRIBUTED WITH THE MAINICHI SHIMBUN SECTION SPONSORED BY ROSSIYSKAYA GAZETA, RUSSIA