ロシアNOW 5月号

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Alamy/Legion Media

2面

日露フォーラム概要 ロシア経済人に聞く シベリア材を日本へ

歴史家の独ソ戦解釈 「夜の魔女」飛行隊 4歳少年の戦時回想

3面

あの声はレビタン シュムシュ島の戦跡

4面

日露 ガス対話の時期

6面

数十年先を見越して 今年の第3回日露フォーラムのエネルギー分科会のテーマとして、ア ジア太平洋地域における液化天然ガス︵LNG︶市場の発展が選ばれ た。天然ガスはアジアにおける最も有望な燃料だ。2013年、同地 域における一次エネルギーの消費全体に占める割合はわずか %だった が、これは欧州の2分の1、米国の3分の1、ロシアのほぼ5分の1に 相当する。︻コンスタンチン・シーモノフ、財政大学第1副学長、国家 エネルギー安全保障基金代表︼

日本は魅力的市場 それゆえ、 日 本はL

日 本は自 国の天 然 資 を取るものではない。

サハリンと北海道のビザなし観光を 極東発展相が支持

ロシア人5人が旭日章を受章

日本政府が公表した 2015 年春の外国人叙勲 受章者 85 人のうち 5 人がロシア人だった。旭 日中綬章を受章したのは全ロシア国立外国文学 図書館のエカチェリーナ・ゲニエワ理事、サン クトペテルブルグ・フィルハーモニー管弦楽団 の芸術監督のユーリ・テミルカノフ氏、モスク ワ国立大学アジア・アフリカ諸国学科の教授で 日本語教科書の執筆者であるリュドミラ・ネチャ エワ氏。【ロシア通信】

「ロシアNOW」    電子版でお勧め

結 ん だが、 その数 字は

ガスプロムは﹁サハリ

秋田日ロ協会が発足

今回発足した秋田日

アジア太 平 洋 地 域に として、 韓 国の経 済 人

案している、と。

制 裁は一時 的 な 現 象

に す ぎ ない。 ガス ビ ジ

ネスは数 十 年 先を見 越

し て 決 定 が 行 わ れ る。

﹁ 首 都 圏 か ら 距 離の

ある 秋 田 にとって、 将

来の地 域 発 展 は 対 岸・

ロシアとの交易にかかっ

長︶ 。

ている ﹂︵ 佐 々 木 理 事

秋田発の対露交流熱

︻吉村慎司︼

周 年の祝 賀を目

考えている。 ︻3面に続く︼

ではないので真に受 けなくてよい、 と

り、国家の正式な立場を反映するもの

は﹁失言﹂であり﹁感情的な発言﹂であ

スヘティナ氏やヤツェニューク氏の発言

歴史家であるニキータ・ペトロフ氏は

人権擁護センター﹁メモリアル﹂の

どうかについて意見を異にしている。

統領が述べたような問題が存在するか

一方で、ロシアの歴 史 家の間では大

ならない﹂と述べた。

来 事 を 改 ざんし 歪 曲 する 試 みにほか

ル・プーチン大統領は﹁あの戦争の出

こ れ らの 発 言 に 対 し て ウ ラ ジー ミ

ヤツェニューク首相の発言だ。

ついて語ったウクライナのアルセニー・

るドイツおよびウクライナへの侵攻﹂に

ナ外相の発言と、戦争中の﹁ソ連によ

たポーランドのグジェゴシュ・スヘティ

のはウクライナ人たちである﹂ と述べ

のは﹁アウシュビッツ収容所を解放した

ロシアで大きな反響を呼び起こした

ハイレベルで行われている。

︵わいきょく︶に反 対 する呼 びかけが

前にして、ロシア国内では歴史の歪曲

大祖国戦争勝利

歪曲か 熱い論議

た 交 流 が 話 題になった ミツの輸 入 販 売を手が 現 地 で は 海 産 物 業 ばかりだ。

ただ経済交流はまだ

係 者との商 談も実 施し これからである。 過 去

年 か ら 4 年 間、

期コンテナ船が運 航し

秋 田はもともと、 秋 たほか、 20 1 2 年に

市が姉妹都市提携を結 ウラジオ路 線 ができた

近年は秋田商工会議

くる官民組織 ﹁秋田県

発 端 は 1 9 8 0 年 環日本海交流推進協議

代 に さ かのぼる。 むつ 会﹂を中心にコンテナ輸

1990 年とまだソ連

人が 日 本 庭 園 を 造ったのは ところだ。

ロ協 会 もロシアと 県 内

最 近では、 東日 本 大 事 業 者との接 点を増や 任する佐々木三知夫理 礼として、 佐竹敬久知 盛り上げる。

京都港区︶の理事も兼 震 災の被 災 地 支 援のお すことで交 流の機 運 を

人日本・ロシア協会︵東

このう ち、 N P O 法 の時代だった。

就任した。

流経験のある約

とのビジネスや文 化 交 クの﹁魚 雷 公 園﹂ 内に 取 り 組 みを 進 めている

協 会 役 員にはロシア み造 園がウラジオスト 送 実 験などさまざまな

ている。

を仕掛ける方針を掲げ

幅広い分野で対岸交流 い地域だ。

はビジネス・ 文 化など シアとのつな が り が 深 所 や 県、 各 市 な どでつ

対 岸にあたり、 同 協 会 締 結 するなど、 極 東ロ

んでロシア沿 海 地 方の 政府も友好交流協定を から運休となった。

秋 田は日 本 海をはさ び、 秋田県と沿海地方 が、 どちらも貨 物 不 足

任した。

貿易促進を視野に

吉和会長を会長職に選 田 市とウラジオスト ク は韓国・釜山港経由で

つみ造 園 土 木の佐 々 木

日本庭園を造成したむ める。

去にウラジオスト クで アへの地 元の理 解 を 深 シェット 港 と を 結 ぶ 定

で設立総会を開き、 過 航 報 告 会 を 開 き、ロシ 秋 田 港 と ロ シ ア の ポ

3 月中旬に秋田市内 た。 近く秋 田 県 内で渡 には

を立ち上げた。

意団体﹁秋田日ロ協会﹂ 者 や貿 易 ビジネスの関

い交 流を促そうと、 任

との経 済を含めた幅 広 た。

ら有 志 が地 元とロシア 工会議所などを訪問し ベリ ア 猫 が 届 く といっ 本荘市︶でロシア産ハチ 題を増やしそうだ。

秋田県の会社経営者 渡 航し、 沿 海 地 方の商 礼として大 統 領からシ 企業組合農藝舎︵由利 が 両 国 間にホット な 話

極東と対岸交流

けている。

あればなおさらだ。 場 向けに約 %の予 約 に、 液 化 された 形でア 日 本は対 露 制 裁に加 ら話し合 う必 要がある 中 国 は 東 シベリ アか 契 約 を 行ったが、 実 際 ジア太 平 洋 地 域の市 場 わった。 韓 国 は 加 わ ら だろう。

ミャンマーからガスパイ ンで最 初のL N G工 場 ら ガスパイ プラインが 場に強い関 心 を 寄せて このこと か ら も、 ガス プラインを 敷 設 したと を始 動させた。 日 本 市 敷 設 されている。 さ ら いる。 の将 来 については 今 か

してお り 中 央 アジアや

ルギー協 力の発 展を望 るものとなっている。 200 億立方㍍程度を り合う用意がある。 んでいる。 L N G 価 格 の 低 下 は 販 売 市 場の多 面 化 産 出可能だ。 まして、 隣では 中 国 消 費が増 えることを意 ウラ ジオスト クにL は、 売 り 手 にとって 普 がLN Gを盛んに輸 入 味する。 NG工場を建設する案 通の戦 略である。 それ ロシアはすでにサハリ も あ り、 サハリン島 か ゆ え、ロシアは日 本 市

日 本は世 界のL N G さらに増える。 ン3﹂の産地で採れるガ は、 新 たにオースト ラ は自 国 政 府を非 難して の約3 分の1 を輸 入し こ う し た こ と か ら、 スに 期 待 している。 ユ リアというL N Gの大 いる。 日 本は制 裁 参 加 ているので、 信 頼 で き ロシアと 日 本のガス 対 ジノ・ キ リ ンスコエや 生 産 国 が 現 れた。ロシ でも経 済 協 力 分 野で新 る ガス生 産 国 とのエネ 話は極 めて将 来 性のあ そ の 他 の 産 地 は 年 間 アは価 格 面で豪 州と張 た な プロジェク ト を 提

ていない。

なっているのだが、日本 ら3 80 億立方㍍のガ の輸出は10 50 万㌧ へ輸出されうる﹁サハリ な かった ものの、 対 露 へはパイプラインが通っ ス輸 入 契 約 をロシアと の %を上回っている。 ン1﹂ のガスもある。 経済協力を怖れている、 80

協会の佐々木理事長

もっと読む jp.rbth.com/longreads/uchuu/

ロシア NOW 第二次世界大戦終戦 70 周年特別プロジェクト

ビザ

事 長 ら 3 人 が 3 月 下 事がプーチン大 統 領に

戦 車 と 自 走 砲 車 約 6000 両 が 1943 年 6 月のクルスクの戦いに参 加した。これは戦車戦としてはい まだに史上最大の戦いである。

安倍晋三首相が 8 月下旬、中央アジアのカザ フスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニ スタン、ウズベキスタンの 5 か国を歴訪し、そ の際、カザフスタンの首都アスタナで開催され る柔道世界選手権(8 月 24 ∼ 30 日)を訪問する とみられるウラジーミル・プーチン大統領と首 脳会談を行うのではないか、との憶測が出てい る。クレムリンはこれについてコメントするのを 「時期尚早」 としている。【タス通信】

旬にウラジオスト クに 秋 田 犬を贈り、 その返 は自 身が代 表を務める

6000 両

第二次世界大戦中に死亡 したソ連人は約 2700 万人 と推定されている。これは 世界最大規模である。

JP.RBTH.COM

JP.RBTH.COM/70

日 本のエネ ル ギ ー バ %。 福 島での 間約1250億立方㍍ N Gの輸 出 国にとって

ランスに占 める ガスの 源を有してお らず、 年 割 合は

の輸 出 分にさほど引 け

サハリンのドックに入 る L N Gタ ン カ ー を カ メ ラ マ ン が 撮 影 = AFP/

事 故 後に原 子 力エネル を 輸 入 している。これ 非常に魅力的な市場と ギ ーの生 産 が 減ったこ は約1500 億立方㍍ 気に増えた。

とで、 ガスの消 費 は一 というロシアから欧州へ East News

他の﹁文学﹂スポットの案内役

館、作家の住居博物館、その

書 店、 図 書 館、 文 学 博 物

コンクールが催される。

ルや子供を対象とした朗読の

新人らを対象としたコンクー

賞 が 授 与 さ れ、 有 名 作 家 や

文学年の枠内で多くの文学

等々。

ベント ﹁公 園にお ける 書 物﹂

賞 の 授 与、 図 書 博 覧 会、 イ

イト、ロシア文学最優秀翻訳

からも催される。 ビブリオナ

連行事がすでに催され、これ

今 年 は、 数 多 くの文 学 関

い﹂と語る。

今年は﹁ロシア文学年﹂ ロシアでは大 統 領 令により 2015年が﹁文学年﹂と宣 言された。 ウラジーミル・ プーチン大 統領は国家文化政策の会議で ﹁ロシアにおいて 良 書 の価 値 がよみがえり、 国 外において ロシアの古典文学や現代作家 に対する関心が高まることは 非常に重要である﹂と述べた。 近 年、ロシアでは本があま り読 まれなくなった。 読 書へ の関心を取り戻すべく、 プー チン大統領は地元の図書や定 期 刊 行 物へのアクセスを高 め るよう知事らに委任した。

となるロシア文 学マップも 主 催者によって作製される。 文 学 年の締 めくくりは 月にサンクトペテルブルクで 催される文学作品の登場人物 たちの仮面舞踏会。文学年の 枠 内で催 された すべてのコン クールの優勝者や賞の受賞者 ︵6面に関連記事︶

2700 万人

1942 年 6 月 末 か ら 約 200 日 間 続 続いたスターリングラード攻防戦。 兵 兵士、民間人 100 万人以上を犠牲 に にした独ソ戦の転換点であった。

ガガーリンが芸術に与えた刺激

70

トルストイ の子孫たち

たちが舞踏会に招かれる。

200 日間 2

4 月 21 日、ロシアのアレクサンドル・ガルシ カ極東発展相はサハリン州と北海道の住民間の 観光目的でのビザなし渡航に関するオレグ・コ ジェミャコ同州知事代行による提案に支持を表 明した。ガルシカ極東発展相は「これはファンタ ジーではなく、十分有効な計画だ」と述べるとと もに、中国とロシアの極東地域が既に同様の経 験を有していることを指摘した。【タス通信】

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2015年(平成27年)5月6日(水曜日)

Santani on deviantart.com

ロシア情報を お届けします

文化 99

11

1961 年 4 月 12 日、ユーリー・ガガー リンが世界初の有人宇宙飛行を成し遂 げた。この象徴的な大事件は芸術の世 界をも一変させた。それ以前にソ連の 画家、建築家、デザイナー、演出家ら が空想や未来派の作品に触発されてい たとすれば、宇宙新時代の到来は新た な刺激を芸術的創造に与えた。

読者の皆様、「ロシアNOW」 へようこそ。   「ロシアNOW」はロシアを紹介する日本語 版で毎日新聞の折り込みです 。2015 年は5 月6日と8月,9月,11 月、12 月の第2木 曜日に発行されます。「ロシアNOW」チー ムの目標はロシア発の興味ある記事をお届け し、ロシア理解の一助になることにあります。  2007 年以来、ロシアで影響力を持つ有力 日刊紙「ロシースカヤ・ガゼータ(ロシア新 聞) 」は世界の主要新聞に折り込まれる付録 を制作してきました。ロシアは現在、政治か ら文化に至るまで変化の過程にあります。  日本語版ウェブサイト jp.rbth.com は多様 なコンテンツが毎日更新されています。ご意 見・ご感想をお待ちしております。

しかし、 問 題は地 方に限っ たことではない。 文 学 年の組 織 委 員 会メンバーの代 表であ るボリス・ クプリヤーノフ氏 は﹁ロシアでは書 店 数が減り 続 けて お り、 書 籍 市 場 の 状 況 は 危 機 的 で あ る。 中 規 模 の欧 州の国 に匹 敵 する 人 口 1500万人の都市に書店は 4 0 0 ∼ 5 0 0 程 度 しかな

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Product of Russia Beyond the Headlines

書籍離れに危機感、外へは文化力発信

1985 年に開始されたペレ ストロイカ。創始者のゴルバ

数字あれこれ

レフ・トルストイ の子孫は 400 人を数 える。多くは文豪の 文化遺産を引き継ぐ 事業に関わっており、 2年に1度は一堂に 会する催しを開いて いる。

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DISTRIBUTED WITH THE MAINICHI SHIMBUN THIS PULL-OUT IS PRODUCED AND PUBLISHED BY ROSSIYSKAYA GAZETA, RUSSIA jp.rbth.com

2015年(平成27年)5月6日(水)

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オピ ニ オン ( 5 面 )

ペレストロイカをどう評価す るか

チョフ・ソ連大統領にとって 果はあったが、ゴルバチョフ 氏の真意が西側に十分に理

解されなかった、と側近だっ

短信 政治

「日露8月首脳会談」の可能性は

20%

は不本意な結末となった。成

日本のエネルギーバランスに 占める天然ガスの割合。   現 在、日本 はロシアから液 化天然ガス(LNG)を輸入してい る。生産量は年間 1000 万㌧で、 2025 年 に 向 け て 年 間 5000 ∼ 6000 万㌧まで増えると予測され ている。

たグラチョフ氏は指摘する。


アフォーラム﹂は今月 日に東京で開催される。この2年

2013年2月、昨年9月に続く第3回﹁日本・ロシ 絶 えが ち だった日 露 首

首相親書を手渡し、 途

大 統 領と会 談して安 倍 れる。

相ほか︶の四つが開催さ させた。 難 しい問 題 を 告 を もとに突っ込 ん だ

ル・ ガルシカ極 東 発 展 流の裾 野の広 さを 感 じ に 携 わっている 人 の 報

このほか 分 科 会 と 平

昨 年はエネルギー 関 交 流の基 礎 がしっかり はずである。 連 や極 東での協 力に高 しているのも 日 露の文 よる会 合 も予 定されて

今 回も各 分 野で実 際 いる。

た、 アスリートや芸 術 摘する声も聞かれた。

い関 心 が示 された。 ま 化 力があるからだと指 行 して日 露の有 識 者に 文化関係者の発言が交

再録・分科会発言集

過去2回の日露フォーラムでは分科

会でさまざまな意見が表明された。そ

の一部を紹介する。

第1回︵ 年2月 日=東京︶ ﹁米   国のシェールガスに興味を示す日本は

本 当にロシアのエネルギーを必 要とし

ているのか﹂ ︵パノフ元駐日大使︶ 。﹁宇

宙ゴミの回収で露日協力が求められて

いる﹂ ︵バトゥーリン宇宙飛行士︶ 。﹁和

が始まる﹂︵千玄室・裏千家前家元︶ 。

の心 を 持って 敬い合 うこと か ら 交 流

の ﹃ものの哀れ﹄ には共通の感覚がある﹂

﹁ロシア語の﹃ノスタルジー﹄と日本語

第2回︵ 年9月9、 日=モスク

︵亀山郁夫・東京外大学長︶ 。

ワ︶ ﹁エネルギー輸出国のロシアと輸   入国の日本との相互協力は不可欠だ﹂

︵ラプヒン元エネルギー相︶ 。﹁液 化 水

素開発は関係発展に役立つ。ロシアの

ハスキーがすてきな20の理由

かかえながらも、 日 露 意 見 交 換が展 開される

間でロシアと西 側の関 係は冷え込みをみせているが、 日 脳の対 話の可 能 性 をつ

日露フォーラム

露交流への関心には根強いものがある。過去2回のフォー ないだ。

ン・ダシコフ・サハリン

井 物 産 執 行 役 員、ロマ

発 言 者・ 藤 原 弘 達 三

ギー・資源開発﹂ ︵主な

分 科 会 は ❶ ﹁エネル

ラムが成果を上げただけに3 回目のフォーラムにも関心 が集まっている。 ︻ロシアNOW編集部︼

交流促進の道を探る エナジー社長ほか︶ 、❷ 添 要一東 京 都 知 事、 川

﹁スポーツ・ 五 輪﹂︵ 舛

、❸ ﹁インフ 森、 ナルイシキン両 ターほか︶

口悠子フィギュアスケー 演 を 行い、ロシア 側 か 倍 晋 三 首 相 の 公 式 訪 ねて、 安定した日露関

関係冷えても高い関心 氏 の講 演 は 安 倍 政 権、 ラ・ 流 通など有 望 ビジ

︵中分毅日建設計 ナルイシキン議 長 は プーチン政 権の日 露 関 ネス﹂

フォーラムは全体会 らは昨 年に続 きセルゲ 露の地ならしをした直 係の必要性を説いた。 合の後、分科会セッショ イ・ ナルイシキン下 院 後のタイミングであり、

ほか︶ 、❹﹁極東・地域

本の対 露 制 裁に対して が うヒントになる だ け ルペンチュク 下 院 議 員

日 露 関 係 再 構 築に強い 昨 年の講 演の冒 頭で日 係への取 り 組 みを う か 副 社 長、 ミハイル・ ス

森 氏の講 演は初 回か 期待を寄せた。

ンに移 る。 オ ー プニン 議長が行う。 グでは日 本 側から森 喜 ウクライナ情 勢 悪 化 失望感を率直に表明し に注目されている。 ︵高橋はるみ北海 森 氏 は 昨 年、 フォー 投資﹂

年の講

秘 めた 日 本・ロシアの 演 は、 モス クワで プー の中で行われた昨 年 9 ながらも、 日 露の協 力 ラム 終 了 後にプーチン 道 知 事、 アレクサンド

朗元首相が﹁可能性を ら3 年連続。 協力﹂ と題して特別講 チン大 統 領と会い、 安 月の講 演でも森 氏は重 関係に自信をみせた。

官僚主義と税制の障壁がある﹂︵三浦

良 三 氏、 川 崎 重 工 ︶ 。﹁ソチ五 輪の経

jp.rbth.com/52009

験を生かし、 両国の懸け橋になって東

jp.rbth.com/52207

京五輪に貢献したい﹂ ︵鈴木明子・フィ

ギュアスケーター︶ 。﹁三島由紀夫、村

上 春 樹、 村 上 龍などから影 響を受 け

く﹂ ︵グルホフスキー氏、作家︶ 。﹁チェ

た。 日 露の文 化 相 互 作 用は今 後 も続

救済に役立てたい﹂ ︵ルミャンツェフ氏、

ルノブイリの経験を福島原発の被害者

小児血液治療専門医︶ 。

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イ   ン   タ   ビ  ュ ー   日 露 フォー ラムを 前にして、ロシア連 邦商工会議所付属露日経済協議会の議長 を務め、ロシア連 邦 大 統 領 付 属 経 済 会 議 のメンバーでロシア最 大 手の製 薬 会 社の一 つである﹁Rファーム﹂の創業者、アレクセ イ・レーピク氏にロシアと日本の経済協力 の将来性について聞いた。

貿易増大に期待

ではありません。 両 国の実 業 界には協

力の継 続や発 展への志 向があり、 相 互

の関心があります。

協力が拡大されるならば、貿易や投   資の増 大にとっての前 提が創り出され

ます。ロシア側にはそうした志 向があ ります。

合がかつてないほど必要なのです。

ロシア経 済には日 本をはじめとする   アジアのパートナーとの協 力および統

先に、あなたは ﹁ルーブル安は日本製   品の対露輸出に影響を与えている﹂と

述べましたが、日本企業はこのメリッ

トを利用しましたか。

そ う だ と 言 え ま す。 日 本 企 業 は   2000年代初めからすでにこの方向へ

の動きを始めています。けれども、生産

のローカリゼーションのプロセスは市場の

規模に直接かかわっています。

ある段階においては、どんな国のどん   な会社にとっても、国外から商品を﹁運

んでくる﹂よりもそれらを地元で生産す

るほうが得になります。

ルーブル安はすでにロシア国内で活動   しているメーカーの輸出意欲を刺激して

jp.rbth.com/52571

第 3 回は 5 月 21 日、東京都港区の六本 木アカデミーヒルズ 49 で開催される。

ルーブル安は好機 2015年の露日協力の分野で最も   有望なものはどのようなプロジェクト だと思いますか。

月に露日経済

露日の経 済 協 力は多くのロシア企 業   にとって優 先 的なものです。 協 力 発 展 のため、 私たちは昨年

は機械製作、農業、輸送、エネルギー、

協議会を再び設けました。同協議会に 資金・人材両面で負担 取 締 役 だった 黒 田 貢・ り 強い支 え が あった た なった﹂と明かす。シベ

金融サービスほかの100 以上の会社 露日 協 力においてはもっぱら原 料 面   の協 力 を 放 棄 す る 傾 向 が 支 配 的 と な

が加入しました。 富山支店に話を持ち込 金 が 出 ていく一方 だっ 好 転 し、 それまでの投 た 末に得 た 成 功 がここ

ジェクト 実 現といった 新 しい協 力 分 野

り、 インフラや都 市 環 境 分 野でのプロ が現れてくるでしょう。 両 国 間の貿 易 高 を 年 間 5 0 0 億 ㌦   に増やすという両 国の指 導 者 らによっ しょう。

て掲げられた課題は近く履行されるで

日本政府からの制裁という状況の中   で露日の経済関係はどのように発展す ると思いますか。 日本も対露制裁を導入しました。成   長のテンポなどは鈍りましょうが、こ れで私たちの協 力がストップしたわけ

サンがロシアやCIS諸国の市場向けば

います。例えば、復活した日本車ダット

ロシア極東のユネスコ世界遺産

10

かりでなく、﹁ルノー・日産﹂のグローバ

モスクワの「日本」 でホッと一息

28

ル販売のためにも生産されることが、正

バイカル湖水位が 40㌢低下

2015

アレクセイ・レーピク氏

日本の霜降り牛がロシアに再び

13

14

式に発表されました。

科学・技術

旅行

2014

露日経済協議会の議長

ビジネス

文化・くらし

第 1 回は 2 月 28 日、東京。ロシアから の約 90 人を含め延べ 1600 人が参加。

先の一つだった三井物産 と ば か り で 当 初 は 資 20 0 0 年 代に状 況が の﹁厳寒期﹂を耐え抜い

jp.rbth.com/jap_rus_forum

が 大 き かった め、 取 引 現 社 長は﹁想 定 外のこ め に 乗 り 越 え ら れ た。 リアを 舞 台にビジネス

第3回は 21 日東京で開催

んだ。 三 井 物 産の東 京 た が、 三 井 物 産 の 粘 資 を 回 収できるよ うに にある。 ︻吉村慎司︼

末にソ連 が消 滅 すると 口座は凍 結 され、 その 後 何 年 も使 うことがで きなくなった。 プロ ジェク ト を 引 き 継 ぐロシア側 組 織 も定 こ の 合 弁 企 業 関 係 まらず、 交 渉 相 手は短 者 との 知 縁 な ど か ら、 期 間 に 4 回 変 わった。 田 島 木 材 がロシア事 創業家の田島洪重社長 新 経 営 体 制 が固 まった

ている。

元駐日ロシア大使 (在任 1996 ∼ 2003 年)

jp.rbth.com/52615

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2013 もっと読む jp.rbth.com/51749

本 社 も 将 来 性 を 認 め、

年は苦 労の

全面協力した。 最 初の

年に法 人 登 年 を 経て﹁ロ は評 価 が高 かった。 業 記を終えて資 本 金を振 シアの富山企業﹂となっ 界では先 駆 けとして大 り込んだ直 後にクーデ

富山の田島木材

ロシ ア はこのとこ ろ た。 株 主 構 成 が変 わっ 陸貿易が日ソ合弁製材 ター 事 件 が起こる。 年

1991 年春に田島 木 材、 三 井 物 産とソ連

筆 頭 株 主はソ連、 後

1万本の牡丹

厳寒に耐えたからこそ

シベリア材を日本に

)

の技 術 管 理の下で建 築

木で仕入れ、 田島木材 TMBが誕生した。

産のアカマツな どを 原 プロム 社の3 社 合 弁で 従 業 員はそのまま働い

工 場 は 地 元シベリア 国 営 イル クーツクレス ても5 0 0 人 近い現 地 工場を設立していた。

系ロシア企業だ。

ら 続いている 珍 しい日

スク市 はソ連 時 代 か ビジネスは順調という。

︵ T M B、 本 社 ス ビル 安が輸 出に有 利に働 き

資する﹁TMバイカル﹂ 不 景 気 だが、 ルー ブル

が三井物産と共同出

る。田島木材︵富山市︶ 業界に販売する。

生産する製材工場があ は三井物産が国内建設 立 から

向 け の 板 材・ 角 材 を 買い取 り、 残 りの半 分 島木材に株を売却。 設 く、当時から﹁ソ連材﹂ た が、

イルクーツク州に日 本 入。 半分を田島木材が 沿って、ロシア 側 が 田 樹 木は丈 夫で反りにく 契 約 先 はソ連 企 業 だっ

バイ カ ル 湖 の 西 側、 三 井 物 産 が 日 本 に 輸 業 民 営 化の政 府 方 針に ベリアの厳 寒 を 耐 えた 年 月 となった。 合 弁の

10

91

当 時ロシア事 業 担 当

制裁でも協力志向変わらず

日露フォーラムは日露間のさまざまな分 野における協力関係の可能性について意 見を交換する場を提供している。

アレクサンドル・パノフ氏

第 2 回は 9 月 9 ∼ 10 日、モスクワ。日 本からの約 140 人を含め 1350 人が参加。 12

フォーラム年表

日露フォーラムは危機による試練に耐えて きました。両国関係の複雑さにもかかわら ず、定期的に開催され、大きな関心を呼び 起こし、両国および両国民が互いに深い関 心を抱きあっていることを証明しています。

13

にはロシア側 だったが、 業を検 討し始 めたのは ︵ 当 時 ︶ がロシア工 場 のは 年6月である。 年 代 後 半のこと。 シ 開設を決断した。ただ

ty Images/Fotobank

島(松江市入江)の牡丹は 喜ばれるだろう、と当時か ら思っていました。2008 年春に貿易促進の部署に 異動して、すぐに牡丹が 頭に浮かびました」  その頃、ウラジオストク 日本センター元所長の浅 井利春さんがロシアから 帰国して県のアドバイザー に就き、相談役になってく れた。多くの難関の末に ロシア進出ができた裏に は人との出会いがあった。  島根県松江市からロシ アに出荷された牡丹(ぼた ん)の総数が1万本を超え た。極東への試験輸出か ら5年余。 昨年はモスク ワの国際見本市で好評を 博した。  牡丹輸出の発案は島根 県庁の福間猛さん。大学 時 代 の モスクワ留 学 で、 誕生日や婦人デーの贈り 物などロシア社会での花 の存在感が印象に残った。  「大きな花をつける大根

23

感想

21

でき あ がった 資 材 を 2014年春、国営企

80

資材に加工する。

93

ビジネス 2 2015年(平成27年)5月6日(水) jp.rbth.com CONTENT PROVIDED BY ROSSIYSKAYA GAZETA, RUSSIA. DISTRIBUTED WITH THE MAINICHI SHIMBUN


ジューコフ氏はこれら 歴 史 的 悲 劇の意 味 づけ われたウクライナ民 族 トロフ氏は、 戦 争に関 の国の市 民の関 心 をソ である、 とは 考 えてい 主 義 者による犯 罪の称 するテーマの過 度の政 揚といった﹁歴史の書き 治 化 はロシアの国 外で

同 氏 はウクライナも 換え﹂がこれまでずっと はなくまさに国 内で見

連 時 代の犯 罪へ集 束 さ ない。 せることは、 追 放 や弾 圧 といったソ連 時 代 の 例に挙 げ、 戦 争 中に行 行 わ れてお り、これが られている、 と 指 摘 し ﹁ロシアではソビエト

社 会の分 裂を促して今 てこう語る。 の悲 惨 な 紛 争の原 因の 一つになった、と述べて 体制の弾圧的本質が暴

ソ連をどう評価

な、 なぜかあれは真 実 ぶことを批 判 する歴 史

東 欧に共 産 主 義をも

が歪められている﹄など 家もいる。

と言い始める﹂

一方、 ジューコフ氏は ば、これは十 分に説 明

果たした役 割からすれ

た らしな が ら、ソ連 が

﹁ 私 に は、 ソ 連 の 歴 史 可 能 だと、ロシア政 府

悲惨な歴史否定せず

を含めて、 戦 争に関 す

︻エカテリーナ・シネ

数は増える一方だった。 思い出す﹂ ﹁ 高 射 砲の連 結 さ れ

﹁ 黒 は 黒 と、 白 は 白

と 呼 ぶべきである。 事

者が﹁歴史の歪曲﹂と呼 考える。

を、ロシア政 府 や 関 係 だ﹂とアンドレエフ氏は

ている隣 国の歴 史 談 話 と、 歴史的真実は別物

ん うつ︶一色 で 描 か れ い。 個 々の解 釈の強 弱

ソ連 時 代 が 陰 鬱︵い 実 を 歪 曲 してはいけな

とは一度もない﹂

スに お 目 にか かったこ

で否 定 するよ うなケー 訴える。

の悲 劇 を 国 家 的 レベル 相 違とは区 別せよ、 と

や193 0 年代の飢餓 いての必 然 的 な 見 解の

アがスター リンの弾 圧 に も と づいた 評 価 につ

い。 少 な く と も、ロシ の歴 史や、 歴 史 的 事 実

いるよ うには 思 われな に反 対 する人は、 独 自

しかしな が ら、これ

るありのままの議 論 が

露 されるといった 場 合

歴史家で国立高等経 ミ ト リー・ アンドレー けている。 同 氏はソ連 時 代に移 済学院付属第二次世界 エフ氏は﹁大 祖 国 戦 争 大戦歴史社会学国際セ のよく知 られた事 実や 住 した 主にロシア語 系

戦争に関する議論

トに戻った。

さな8 平 方 ㍍のアパー 用 されていた。 祝 砲の こを 通るた びに戦 時 を この時 には 既 に、 高

射 砲 は 軍 事 目 的でな た ﹃スチュードベーカー﹄ リシチコワ︼

組 織 的に口を 閉 ざして

の悲惨なページについて に批判的な人は話す。

は ま だ 残っていて、 空

﹁防空壕のあった野原

を割り当てられた。

たが、 その後、 寄 宿 舎

防 空 壕から登 校してい

終 戦 近 くに 入 学 し た。

生 徒 募 集 を 偶 然 知 り、

ラジオで合 唱 学 校の

た﹂

こ と を 誇 り に 思ってい

が、 皆 と一緒 に乗 れた

を 揺 らし た。 怖 かった

音 がと どろ き、 すべて

と 乗った。 祝 砲の発 砲

︵米国製トラック︶に母

妹は「夜の魔女」飛行連隊

一方、 ニ キ ー タ・ ペ 始 まるやいなや、 みん

いる。

ンター 長のオレグ・ ブ 結 果を見 直そうとする 市 民の子 孫たちが﹁非 ドニーツキイ氏は﹁歴 試みが活 発 化した﹂ と 国民﹂という地位にされ ている ラ ト ビ アとエス 史 歪 曲の問 題 はこじつ 述べている。

を現 在の政 治と関 連 づ る﹂と述べている。

けである﹂として、国外 ﹁歴史の記憶﹂基金の トニアを例に挙げ、﹁バ の歴 史 家に歴 史をすり 歴 史 家であるアレクサ ルト 諸 国 当 局 が形 作っ 替 える試みのない点 を ンド ル・ ジューコフ 氏 ている歴 史 観は集 団 的 もそうした声 明の出 現 な 人 権 侵 害と化 してい 指摘している。

ロシアの隣国から し か し、 すべての人 がロシアの歴 史 家 らの そ う し た アプロー チに 賛 同 しているわ けでは ない。 多 くの人 は、 歴 史 的 問 題 はロシアの隣 国 によって その時 々 の 政 治のために利 用され ている、と考えている。

高射砲が祝砲に

われた。  隊員は小さな複葉機「Po-2」 で飛んだ。戦前は練習機だった。 無線通信もなく、速度はわずか 時速 120㌔。爆弾は航空機の 腹部につり下げ、小型爆弾は航 空士が膝に抱え、放り投げた。 夜間 10 回飛行し、エンジン音 を止め、敵に爆弾を落とした。 また、 薬、 弾 薬、 食 料、 郵 便 物などの貨物をパルチザンに運 んだ。 【オリガ・ベレニツカヤ】

モスクワ国 立 大 学の 歴史家で政治学者のド

さな飛行船﹂やモスクワ への接 近 路の高 射 砲 師 団が配備された。 女性 は高射砲の位置標定装 置のメンテナンスを 行 を 受 け 取ることができ い、動く標的を探した。 たからだが、 状 況は厳

年だった。 直 通の帰 路 な どな 開した。 疎 開 先は男の で進み、 その後 前 線に ﹁ 何 か が 違 う と 感 じ 子 ばかりで、 私は9 人 向かう兵士を乗せた列

作 曲 家になった。 カン 教 えてくれた母は高 射 空壕に入った。これはい と覚えている。

車に乗った。 祖 母 は 小 飢 えか ら 救 われたの さな孫を座 席の下に隠

﹁ 避 難 し な が ら 空 襲 ていた。 皆 がお びえな 目だった﹂

タータ﹁レニングラード 砲 兵として上 空を守る つも夜中に起きた。 叙事詩﹂ や児童用オペ た め にモス クワに 残っ

写真家マーティン・ローマーはオランダ、米国、英国シア、 ドイツの元兵士の連作を撮った。それらには短いインタ ビューが付いている。

ガ ラスには、 割 れない た。私は幼かったから、 は、 疎 開 先の家で2 人 し た。 モスクワの近 く れている ト ラックに 乗 く、 軍事作戦が成功す き地のまま。 近 くを路

独ソ戦終結 70 年

この 時、 ソスニ ン 氏 よ うに紙 が 貼 られてい そ れほ ど 怖いとは 思っ の女 性が働き、 配 給 券 まで移 動し、 人であふ り 換 え、 モスクワの小 るた びに祝 砲として使 面 電 車が走り、 私はこ

する。

ラ﹁長靴をはいた猫﹂な た﹂とソスニン氏は回想 の音 を 聞いた。 家の窓 が ら 地 下 壕 に座ってい ソスニン氏の父 親 は

どで知られる。

ナチスドイツの爆 撃

戦前、自分の工房を持っ は4 歳 だった。 避 難 中 た。 どこの家でも そ う ていなかったが﹂

ものを 理 解できていな 球、飛行を阻害する﹁小

学校、輸送航空隊の女性パイ ロットから多くの手紙が届いた。 「 前 線 に自 分 たちを 送ってく れ」 と懇願する内容だった。  ツポレフ ANT-37 爆 撃 機で モスクワ−極東間を無着陸飛 行したソ連の英雄マリーナ・ラ スコバは女子連隊編成を提案 した。この提案はスターリンか ら許 可され、1941 年 秋 に 志 願兵募集が始まる。連隊に下 された最初の命令は、前髪を

過度の政治化が問題

戦争が奪った視力

写真家

当 時 は 戦 争 と い う 機に応 戦 するため、 気

ていた。両親はボリショ の飢 え、 二 段 式 寝 台の だった﹂ た。1941年、 父は 生活を体験した。

イ 劇 場の装 飾 家であっ ある防空壕︵ごう︶での

耳の半分の長さまで残した少 年風ヘアスタイルにカットする ことだった。  1942 年 5 月 27 日、17 ∼ 22 歳の女子 115 人の航空連 隊「夜の魔女」が前線に到着し、 6 月 12 日には最初の出撃が行

第二次世界大戦を生き抜いたすべて の人に苦しみ、愛、憎しみの物語があ り、人それぞれの認識があります。この ような争いが再び起こることのないよう に、戦争を記憶しておかなければなりま せん。ご家族やご友人の戦争の話や写 真がございましたら、アーカイブの作成 にご協力ください。jp@rbth.com に電子 メールをお送りいただき、このプロジェ クトにご参加ください。

今年は第二次世界大 戦が終結してから 年 となる。戦争では多く の人々が戦災で視力を 失った。   写 真 家 マー ティン・ ローマーは失明し た何 人 かにイ ンタビューを 行い、 その表情を写真 に撮った。   その中には敵同士で あった人たちもいるし、 兵士もいた。   ローマーの 作 品 の一 つは 当 時 子 供 だった 女 性で、母に防空壕に急 きたてられている時に 飛び散ったガラスで失 明したという。   ﹁戦争が起こること、 人々が互いに不寛容で あることは、私を失望 させ、悲しませる﹂と 彼は語った。

防空 壕 で 聞 く 空 襲 4歳少年の戦時回想

﹁母はこのような中隊 しかった。 疎 開 先 か ら ∼

の一つに入っていた。 私 モス クワに 戻ったのは 年の

43

マーティン・ローマー(53)

夜 中、 サイレンが 鳴 かった が、 そ れでも 上 と祖 母は

12

感想

﹁ 同 じ 年、 父 の 戦 死 り響き、祖母に ﹁急いで﹂ 空の何かに平 穏が乱さ 月 ごろ、 ウリヤノフス

ス テパン・ ソス ニ ン 前線に召集される。 氏︵ ︶はモスクワ音楽

11

「夜の魔女」とナチスドイツ兵 に、「夜の妖女」とフランス飛 行連隊のパイロットに、「妹」と ソ連兵に呼ばれた飛行中隊が あった。  大祖国戦争(独ソ戦)開戦後、 ソ連政府に飛行クラブ、飛行

戦時の物語プロジェクト

「私が彼らを記録しようと思い 立ったのは、彼らが今なお過去 の中に生きており、それが彼ら の眼前に髣髴(ほうふつ) としてい るからだ。それが万人の歴史で あると、私自身も感じたからにほ かならない」 41

ロシアの大統領は「あの戦争の出来事を改ざん、歪曲(わいきょく)す る試み」およびこの点に関する「無恥で露骨な虚偽」は「地政学的ゲーム で歴史を悪用する」ために「現在のロシアの力と道義的威信を弱めて戦 勝国としてのステータスを奪う試み」にほかならない、と述べた。ロシ アの歴史家たちの間では大統領が述べたような問題が存在するのかに ついて意見が割れている。【アレクセイ・チモフェイチェフ】 70

歴史の歪曲か 見方分かれる 院で 合 唱 指 揮 を 学 び、 公 報 が届いた。 それを とせ か さ れ、一緒 に 防 れていたことをはっきり クにある お ばの家に疎 く、 まずボルガ川を舟

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2015年(平成27年)5月6日(水)

3 特集


あの声はレビタン

仕 立 屋と主 婦の息 子

ラジオ重大ニュース 全ソラジオ 局 アナウ 要 な 事 件 がいくつも 伝 はレビタンを 自 分の主 世 紀 ニュースが 大 祖 国 戦 争 タンの首に クワへやってきた。

ラジー ミル市 か らモス

万 ㍆の懸 ンは俳 優 を 目 指 してウ

ンサ ー、ユー リー・ レ えられた。 その第 1の 要な敵と見なし、レビ として生 まれたレビタ ビ タ ンの 声 で 半 ばにソ連に生 じた 重 ︵独ソ戦︶だ。ヒトラー 賞金を賭けた。 演 劇 大 学には彼にな

く、 宣 戦 布 告 も な く、 放 送 アンテナはドイツ

戦争終結まで、 彼の

我 が を 攻 撃 し ま し た﹂ 軍の爆 撃 目 標になるた 声はモスクワから流れ ︱︱ 全 国にレビタンの め、撤去されたためだ。 ているものだと 誰 もが レビタンがスベルド

年 3 月にレビタン 信じていた。 年 秋 以 後、レビタ はクイビシェフに移され

声が流れた。

ことだ。

年5 月9日、レビ

ば れ、 ファシス ト ド イ

タンは クレム リンに呼

ツ軍に勝 利したことを

伝える最高指揮官の宣 言書を渡された。 時

クレムリンには放 送 局 が あった。

分 にレビタンはファイ

ルの封 印 を 破って読 ん だ。

﹁こちらはモスクワ放

年の戦

送 局 で す! ファシス   トドイツ軍は全 滅しま した﹂ 年から

争の年 月に、 レビタン

はソ連 情 報 局 の 戦 況

コフスキ ー は 革 命 前の伝 統

前線をレンズ越しに

大4500 ㍍上空で

思い出す戦争名画

した。

は長いこと知らず、 後で監督に教えてもらいま

した。 タルコフスキー監 督がそれを使ったこと

あれは、 ポーランドのポズナンの牢獄なんで   す。そこの一つの部屋でこのギロチンを撮影しま

出てくる映像がありますね。

た﹂にも。あなたが撮られた有名な断頭台の

258人が従軍

独ソ戦の全 期 間 を 通 じて、ソ連では

歳のボリス・

事した。 そのう ち現 在、ロシアで生 存

2 5 8 人の戦 場 カメラマンが撮 影に従

しているのはただ一人、

アレクサンドロビッチ・ ソコロフさんの

みである。

イ   ン   タ   ビ  ュ ー

︵独ソ戦の戦場カメラマン︶

1 9 4 1 年に大 祖 国 戦 争が始 まった時、 私

すぐに前線に赴くことができたのですか?

歳でした。 大 学は繰り上 げ卒 業を実 施し

疎開となりました。

は、アルマアタ︵当時はカザフ共和国首都︶に

では、あなたはどこに送られたのですか?     初めはモスクワ郊外の防衛施設に送られ、そ   の後はスタジオに戻りましたが、 そのスタジオ

ことは承知していました。

た。経験豊かなカメラマンが優先的に送られる

た。前線派遣の希望にはいつも﹁ノー﹂の答でし

始めましたが、私はもう卒業実習をしていまし

ニュースを2 0 0 0 0 ボリス・ 件読んだ。    ソコロフ氏

年 代に

当時それは録音され

なかったが、

なってレビタンは、 戦

況 ニュースや 報 告 の一

を受け継いで交響曲を書き、

︻ユリア・ベデロワ︼

リンも人気を得た。

カメラは重かったですか?   装 備 を 含 めると 結 構 な 重 量にな り ま した。   ズームがなかったので、撮るモノの大きさによっ

てレンズを 取 り 換 える 必 要 がありましたか ら

行 われていた。 戦 争

アンドレイ・タルコフスキー監督 の初の長編映画(1962 年) 。戦争を イデオロギーとドラマの次元から心 理学と子供の世界に移した。

ま りが あった た め 不 合

ま も な く、 レビタン

部を、歴史に残すため、

改めて録 音テープに吹

コフィエフの方は正 反 対 だっ

人 気 を 博 した。ソ連 音 楽の

き込む許可を求めた。

た。 彼は開 戦 直 後 から歌 や

若きヒーローたち、アラム・

年 後の

カ ンタ ー タ を 書 いている も

除されたのは

クから伝 えられた。モ でにクイビシェフに置か たという情報が秘密解

ンの声はスベルドロフス た。 ラジオ委 員 会はす ロフス クで 放 送 してい ス クワ 郊 外 のすべての れていたのだ。

戦 時 中、 一時 的 に 批 判、

のの、 成 功 せ ず、 初 演 後 は

たり演奏されなかった。 対 立 がやん だよ うに見 えた

8番があり、 年にモスクワ

けだ。エリートと大衆のジャ

㍍の長 さしかなく、

カセット式テープも持ち運ばねばなりませんで

ね。 カメ ラそのものは3・5 ㌔ く らいでした。

㍉ テー プは

タルコフスキー監督の﹁僕の村は戦場だっ

秒ほどにしかならなかったのです。

した。

はソ連 国 内の深 刻な

軍 用 機の一部 部 品

防 戦では1日 当たり

デルタ合 板で作 られ

ア ル ミ 不 足 に よ り、

レニングラー ド 攻

働者でわずか250

のパンの配 給 量 は 労

た。スターリン自 身

食糧備蓄を脅かすネ

の初 日、ソ連の軍 用

「僕の村は戦場だった」

格 だった。 しかし、 著

の運 命を決める出 来 事

の曲の構想は戦前で、スター

のは 音 楽 だ けでは ない。 さ

レパートリーから外された。 ハチャト ゥリャン、 ヴァノ・ ムラデリ、 ティホン・フレン

まざまなジャンルの間の関係

ところ が、 戦 争 は 音 楽 と

で書 かれ、 初 演 された。 し

ンル、 演 奏 家 と 聴 衆 が 接 近

さらに、ユーリー・シャポー

ニコフらの交 響 曲 とオペラ、 全 体 と して、 独ソ戦の期

組曲﹁1941年﹂はあまり

間 は 音 楽 に豊 か な 実 り を も

にも詩的だと批判された。 謡、 軍 隊マー チ、 歌 謡 曲 な

の曲がちまたのロマンス、 民

たらした。ニコライ・ミャス

ショパン、 スクリャー ビン

にも、似たことが起きた。

ど と ご た ま ぜに なって、 街 の舞 台や前 線で奏でられた。

当局を一時的に和解させるこ

か し、この名 曲の悲 劇 的 な

し、混ざり合ったのである。 功に対して、セルゲイ・プロ

子 か ら 構 成 さ れて

歳の若い女

タマン連 隊は

いた。 ナチスドイツ

第 機に気 づかれないよ

㌘、事務員、被扶養

が材料の品質を確認

した。

者および子 どもはそ

の半分だった。

ズミの大 群を退 治 す

機1200機が破壊

空 中 戦の大 半は最

るため、レニングラー

された が、 そのほと

1 9 4 3 年 1 月、

ら猫が運ばれた。 そ

ん どは離 陸さえ間に

ドにヤロス ラ ブリか

の数はなんと貨 車 4

合わなかった。

数字あれこれ

名 な 俳 優 ワシー リ ー・ カ チャーロフが 選 抜 し たラジオアナウンサー・

地域部のアルチョム・バン が193 4 年1 月に起

グループに入った。

ドゥラ部長は、サハリン州 こった。

を 聞いたスター リンが け た た ま し く 鳴った。 発表が行われます﹂ ﹁お 国 家 ラ ジ オ 委 員 会 議 キエフと ミ ンス クの特 知 らせし ま す! こち   長に電 話し、 今 後、 私 派員からの電話で、ファ らはモスクワ放 送 局で の報 告 はこのアナ ウン シスト ドイツ軍の突 然 す! ソ連 国 民の皆 さ   サーに読 ませるよ うに の 攻 撃 を 伝 えて き た。 ん! 政 府 声 明をお伝   と言った。 レビタンが放 送 局に呼 えしま す。 今 朝 4 時に 年 6 月 の あ る 朝、 ばれた。 ドイツ軍 は、 ソ連に対 時 に 重 要 な 政 府 するいかなる抗 議 もな

大祖国戦争︵独ソ戦︶当時

リンによる粛清の嵐の中での

の音 楽 を 考 える 上で重 要 な

世 界 初 演 は クイ ビシェフ

年夏、レニングラードで。

こと だった。 作 曲 開 始 は

リー・ショタスタコービッチ

弦 楽 団によ り 行 われた。 8

開していたボリショイ劇場管 月 9 日 には 包 囲 下のレニン

︵現サマーラ︶で、 同地に疎

連共産党機関紙 ﹁プラウダ﹂

とそのオペラ﹁ムツェンスク郡

で﹁音楽のかわりに荒唐無稽

ショタスタコー ビッチには

グラードでも演奏された。

年 代 に起

とになる。 独ソ戦 を 代 表 す

大フレスコ画は、 勝利とヒロ

ショタスタコー ビッチの成

ロシア 革 命 後の

る音楽作品といえばショタス

初 演 後、 ソ連では 長 年にわ

イズムという時 代に合わず、

もう一つの﹁戦争交響曲﹂第

タコービッチの交響曲第7番

き たこと が、 再 び 起 き た わ

﹁レニングラード﹂ だが、こ

力が加えられ始めた。

の創 作 にイ デオロギ ー 的 圧

︵ む けい︶ ﹂ と 批 判 され、 彼

のマクベス夫人﹂について、ソ

こ の 年、 作 曲 家 ド ミ ト

区切りが1936年だ。

ラジオ 放 送で彼の声 ラジオ委 員 会の電 話が

対 外 関 係 省 が日 本 側に遺

︻アレクサンドル・レー

家は話している。

る 可 能 性 があると、 専 門

が日本軍の軍曹のものであ

という。 刀 身 か ら、 遺 骨

軍備品や私物もついていた

れ、 鉛 筆、 新 軍 刀 な どの

の入った財布、せっけん入

兵 銃の弾 薬 盒、 小 銭、 鏡

ま た 遺 骨には 三 八 式 歩

定が行われる。

め、 データ照 合 と 身 元 判

には認識票がついていたた

発 見 された う ちの2 人

行われる予定である。

渡 された 後 D N A 鑑 定 が

る という。 日 本 側 に 引 き

に発 見 場 所 が 記 さ れてい

め ら れて お り、 そ れ ぞ れ

に 個 別 の段 ボ ー ル 箱 に 納

と、 日 本 兵の遺 骨 は すで

バンド ゥラ 部 長 に よ る

話した。

骨発見について報告したと

﹁ロシア調査会﹂サハリン

行政機関に渡された。

﹁シュムシュ島の戦い﹂の跡 ロシア連邦国防省軍事・ 歴 史 調 査 団はクリル諸 島 北 端のシュムシュ島︵占 守 島︶で第二次世界大戦中に 死 亡 したソ連 兵 と日 本 兵 の遺骨を発見した。 ロシア連邦国防省軍事・ 歴 史 調 査 団にはボログダ、 カザン、サハリンなどから 来 た 専 門 家 を 含 むロシア 地 理 学 会 お よ び 全ロシア 社会運動 ﹁ロシア調査会﹂ の専 門 家 が 参 加 した。 調 査の責 任 者は国 防 省・ 祖 国防衛時死者記憶永久化 管理局のアンドレイ・タラ ノフ局長。 国防省の説明によると、 柱と日 本 兵の遺 骨

発 見 さ れ たのはソ連 兵 の 遺骨 6 柱。 ソ連 兵の遺 骨 は 軍 葬の礼をもって葬られ、日 本兵の遺骨は在ユジノサハ リンスク日 本 総 領 事 館 を 通 じて日 本 側に引 き 渡 さ れる。 飯盒︵はんごう︶ 、水筒、 ブーツのイニシャルで名 前 が明らかになった3 人のソ

クレム リンの教 会

う、 ベニヤ板の装 飾

兵 た ちは彼 女 た ち

の円 屋 根は敵の戦 闘

と黒い塗 料でカムフ

を﹁夜の魔女﹂ と呼 ん だ。 連 隊 の う ち 雄になった。 前 線で

1 9 4 1 年のナチ

ラージュされた。 スドイツか らの攻 撃

人 はソ連 邦 英 で、 モス クワのクレ

100万人の女性兵

は延べ

万人から

ムリンは8 回 爆 撃さ

のう ち 8 万

士 が 戦 い、 そ 人は将校

両分だった。

30

45

95

45

だった。

15

43

41 れたが、一部 は 爆 発 ずかな 損 害 し

せ ず、 残 り は わ かもたらさな かった。

30

1959 年、グリゴリー・チュフライ 監督の作品。カンヌ国際映画祭で特 別賞を受賞し、米アカデミー賞の脚 本賞にノミネートされた。

21

41

50

もっと読む jp.rbth.com/52753

「誓いの休暇」

「鶴は翔んでゆく」

戦争によるソ連の損害は戦前の価格で2兆 5000 億㍔ (約 4720 億㌦)強にのぼった。  戦争中、ソ連では 1710 市、7 万村、3 万 2000 工場が破壊され、9 万 8000 カ所の集団農場が略 奪された。

41

55

4

ニン︼

独ソ戦 四つの余話

43

41

政権との不協和音

25

21

3

戦争と音楽

1

20

12

戦時中の最も権威ある賞の一つ は「ベルリン占領記念メダル」。ヒト ラー の 第 三 帝 国 や その 組 織 の 首 都の襲撃に関与した人すべてに計 100 万個以上与えられた。ベルリ ン占領記念メダルのほとんどは、大 祖国戦争(独ソ戦)終戦直後に授与 された。だがベルリン攻撃に参加し た兵士や将校の一部は、さまざまな 理由により、この時メダルを手にす ることができなかった。受け取れな かった人すべてに、後にメダルが授 与された。

日ソの兵士の遺骨発見  もっと読む jp.rbth.com/50537

全ソラジオ局アナウンサー、ユーリー・レビタン=ロシア通信

独ソ戦勝利 70 年を期 に、戦時中の様々なジャ ンルのソ連音楽を振り返 る。 60

「雪解け」の時期の 1957 年、ミハ イル・カラトーゾフ監督の作品。カ ンヌ国際映画祭でパルムドール(グラ ンプリ) を獲得した。

もっと読む jp.rbth.com/70

18

連 兵の遺 骨 は 現 地の地 区

1942 年に制定の「大祖国戦争 勲章」はソ連最初の軍事勲章。軍、

20

最も一般的な戦時中の賞としては 「1941 ∼ 45 年 大 祖 国 戦 争 対ドイツ 勝利記念メダル」がある。1945 年 5 月 9 日の戦勝日に制定され、1500 万人以上が受章者に認定された。最 初の対ドイツ勝利記念メダルは最高 級司令官への授与のため、1945 年 6 月 15 日に造幣局からソ連最高会 議幹部会に届けられた。

25

2 2046

23

作曲家悩ます 予備隊、パルチザンの英雄的な 功績に与えられ、1 等級と 2 等級 があった。これは 77 年まで、受 章者の死後も親族が保持すること のできた唯一の勲章だった。それ 以外の勲章は国に返還しなけれ ばならなかった。兵士や指揮官に 適時に授与できるように祖国戦争 勲章の授与権は艦隊から兵団まで の軍事司令部に与えられた。

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特集 4

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ゴルバチョフ氏が発動 チョフか ら 思いが け ず

改 革 されたソ連 がそ の一翼を担うはずだった ジェクト も 欧 州の集 団

防止できた。

世 紀の今 日、 元の 治 家 た ちはいま だに偏

西 側でも東 側でも、 政 見や先入見から解放さ

判 するのは、 その指 導 かる。 冷 戦が地 球 上い 者 た ち が 当 時 彼 を 十 たるところに燃 え上 が 分 助 けてくれな かった る 熱い紛 争 に変 わった

冷 戦 は ︱ ゴルバチョ

政 策 が 世 界に開いたユ 原因だろう。

か らでは ない。 彼の新 のは ま さにこのこと が ニークな機 会を西 側 指

導 者たちが理 性 的に利 フはレイキャビク、マル 用 で き な かった、 とい タ、 米ソの首 都での米 う 点である。 ソ連の民 大 統 領との会 談で最 終 主 主 義への意 欲 を 単に 決 着 をつけたと 信 じて 係に戻りつつある。

国 内のもろさとみなし いたが︱ 現 実の露 米 関 た点であった。

新思考 未完のまま 壮大すぎた理想主義 メ カニ ズム も 信 じてい 今 日 のロシアの雰 囲 ない。

は長いことその本 気 度 に信じていた。 国の指導部は全人類 気は、ペレストロイカの

ペレストロイカと﹁新 を信じかねていた。

本気度を理解されず 政 治 思 考﹂ は類いまれ

ることを拒んでもいる。 化 するものである。 と

ロシアの政 権 が 自 分 りわけ、 現 在が面白く

の意 思で自 分を制 限 す なく未 来が霧に閉 ざさ 対 する幻 想 を 保 ちつづ

ロシア 社 会 に欠 けて

るという 強 者の意 欲に れているときには。

ける、 と期 待 するとし いるのは 歩 んできた 道

ぎ、 そのマゾヒ ズム 的

た ら奇 妙 なことであろ の気 休 め 的 な一時 しの う。

﹁人道的干渉﹂の教訓 な唾 棄とも一切 無 縁な については 言 う ま で も 内省であろう。

新 たな 国 民のアイデ

出 来 事 の 帰 結 と し て、 ンティティーの模索は今

ない。 すべてこ う し た

理想主義のかわりに、 対 する信 頼が欠 如して くペレス トロイ カ 以 前 状況をもたらしている。

西 側のパー ト ナーに ロシアは 今 日、 お そ ら のところ、 次のよ う な

な 現 象となった。 結 果 的 価 値と善 意の示 威に ソ連で支 配 的 だった 雰 不信と警戒感 が大きくて、 予 見され せ、 イデオロギ ー 的 な

はあ まりにもスケール 基 づいて対 立を終わら 囲気の対極にある。

3 月まとめ:米国のロシア研究が活気づく!

微妙な中露連携

地域戦略 関心度に濃淡

ロシアの深層を Russia Direct で

かなり 幅 広 く 取 り 上 げ

ロシア訪 問 はメディアで

中国の王毅外相の先の

はこれまでなかった。

的使命が委ねられること

首 の事 務 局 長 官 に 外 交

例の訪問であり、国家元

周 年 記 念 行 事で

をもっていない。

とって中 国ほどの切 実さ

ア回 帰の問 題はロシアに

るにすぎず、 米国のアジ

地域の周縁に位置してい

ロシアはアジア太 平 洋

語るのは時期尚早だ。

露 中 同 盟の形 成について

一方、 中国はウクライ

ナ危機の早期解決にロシ

アほどの関心を抱いてい

ない。ロシアと中 国は地

域紛争において互いを支

持することにかなり消極

的である。

﹁ 中 国 は ウ クライナの

領土保全と対話によって

クリ ミ ア 問 題 を 解 決 す

るとの呼びかけを尊重し

jp.rbth.com/52701

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ように映している。

会 議 書 記 の発 言 を 鏡 の

のパトルシェフ安 全 保 障

の側にもくみしない﹂ と

トナーシップ﹂の強 化を ている﹂。この李 克 強 首 裏付けるものだ。しかし、 相の声明は﹁ロシアは中 日間の領土問題でどちら

﹁ 包 括 的 な 戦 略 的 パー

一連 の 訪 問 は 両 国 の

ら れ、 露 中 関 係 に 対 す

る期 待 感を膨 らませた。

勝利

この 訪 問 は 大 祖 国 戦 争

の習近平国家主席のモス

クワ 訪 問 準 備 に 向 け た

色合いが濃かった。

中 国の国 家 主 席の側

近、 栗 戦 書・ 中 国 共 産

党 中 央 弁 公 庁 主 任の3

月半ばの訪露にはさほど

関 心 が 払 わ れな かった。

だ が、 中 国 外 交 で は 異

うとする。

たにせよ、 それらが 誰 不 信のうえに何 か揺る

値する。

ペレス トロイ カ は 理 うか。

つつあ るので は な か ろ

このド ラマは、 地 政 学 エピソー ドの役 割 は 計 いう 別の認 識に近 づき

的に終息した。しかし、 歴 史におけるそうした もまた不 可 能であると

ペレス トロイ カ は 劇 かに利用されたにせよ、 ぎないものを 築 くこと

どんな 過 ちが犯 され ぱらプラグマティズムや

た。今、私たちは、もっ

それでも評価に値する

的意味づけを回避しよ 向としても評 価 するに 何をもたらすかを示し

多義的な出来事の客観 よ び 刷 新 や 浄 化への志 に対 する信 念の過 剰が

劇 的 あるいは多 元 的で でなく、 人 間の衝 動 お 想 主 義やより良 きもの

WWW.RUSSIA-DIRECT.ORG/SUBSCRIBE

﹁欧州共通の家﹂のプロ 安 全 保 障 構 築のアイデ エリツィン時代のカオ アも実現されなかった。 スと新興財閥資本主義 これは安 全 保 障 会 議 創

一方、 西 側 も ま た、 古い﹁壁﹂が保たれる

自 身を冷 戦の勝 者にし 新しい壁の出現

出 現 しているのを わ れ

ゴ ル バチョフの 西 側 われは 目の当 たりにし

援助よりも良識を期待

ロシア 社 会 は ゴルバ していたのだが。

の辞任であった。

らずもソ連 崩 壊と自 ら かった。 彼 らに物 資 的 ないものもある。

治の変 革の代 償は心な りにな らないこと が 分 目に見 えるものも 見 え

あった。 自 国と世 界 政 のパー ト ナーた ちも 頼 ている。 そのな かには

上 再 統 合 されたことで

世 界 史 の 流 れ が 事 実 に勝てなかった。

命 後に二つに分 裂 した であると宣 言 する誘 惑 ばかりか、 新 しい壁 が

その帰 結 はロシア 革 て歴 史の唯一の継 承 者

ニシアチブをとった。

冷 戦 終 結に向 けてのイ

わ せ る 意 図 を 捨 てて、 る。

オロギーに全 世 界 を 従 り、 ほっと し た ので あ 劇 もウクライナ内 戦 も

てをやめ、 自 身のイデ 制 的 な 強い翼の下に戻 ラビア紛 争の流 血の悲

る 文 明への異 議 申 し 立 民は、 慣れ親しんだ専 いた な ら ば、 ユー ゴス

ロシアは 自 分 と 異 な の乱 脈に沈み込んだ国 設 を 含 めて実 現 されて

トに加えた。

自 由を自 らの優 先 リス

﹁欧州共通の家﹂西側に理念届かず さ、 作 戦 上のジグザグ を非難された。 つまり、彼の慎重さ、 社 会に成 熟 する 余 裕 前 進させようとする志

を与えた上で無 理なく 向、 強 引に自 分につい て来 させるよりは後 ろ から後 押しするのを好 む 姿 勢である。 多 くの 人には そ れが一貫 性の 欠如、 不決断と受け止 められた。 私 見では、 ペレス ト ロイカの不 朽の成 果 を 挙 げると次のよ うにな る。ロシアは 知 恵の実

敵 味 方 が一様に考 えて のリンゴから、 自 由 選 挙とグラスノスチ ︵情報

ゴルバチョフが 始 め いる。

2 0 0 3 年 下 院 選 挙におけ

今日、 彼が西 欧を批 れる 気 がないこと が 分

贈 られた自 由の試 練に 西欧を批判する真意

政 商 ボ リス・ ベレ ゾフス る二つのリベラル派政党の敗

耐えられなかった。

キ ーとの争い、 連 邦 政 府 庁 北などがあった。 ネムツォフは再び在野に身 を 置 き、 ここで も 踏 み と ど まった。 自分の経験のすべて 変えていく。

を﹁政権外野党﹂創設の力に 理 想 実 現の可 能 性 が狭 ま るにつれて、 彼 の発 言 や 活 動の方法はよりラディカルに なっていった。 リベラルな プ な ど 政 権 外へ移 り 変 わる 過

ロジェクトが集会や街頭デモ 程だった。 そ して、 そのリ ー ダ ー は 聖 堂 と クレム リ ンというロ シアの二つのシンボルへ続 く 橋の真ん中で命を奪われた。 公然と残酷に。 ロシアのリベラリズムはこ か。 そ うでは ない。 3 月 1

の凶弾によって打倒されたの

おも議会に残っていた政治的

日に何 万 人 もの民 衆 が全 国

コと異なり、 ネムツォフはな

なく政権側へ移ったキリエン

はなくプーチンだった。ほど

国の統治者はエリツィンで

選挙で勝利した。

エンコをリーダーとして下院

勢 力 連 合 はセル ゲイ・ キ リ

発 起 人 となった 政 党・ 右 派

れるべきは結果だった。 彼が

め始めた。彼にとって優先さ

フ氏の愛称︶が再び仲間を集

真っ先にボーリャ ︵ネムツォ

力をみなぎらせた。

も、 誰 も くじけ ず 熱 意と活

命 を 絶 た れたとみな されて

練 だった。 私 た ちは 政 治 生

年の政 府 総 辞 職は大 きな 試

履 行︶ 。 その結果としての

ライキ、デフォルト︵債務不

舎 前での炭 鉱 労 働 者のスト

た ペレス トロイ カは 破 ペレストロイカの創 公 開 ︶というかけらを 局で 終 わった、 と 彼の 始 者 はその一貫 性の無 かじり、 言 論・ 報 道の

ボリス・ネムツォフ氏の登 場 はロシア政 界に衝 撃 を 与 えた。こん な 若 くして賢 明 家はソ連にいなかった。

で 大 胆で 実 に魅 力 的 な 政 治 1 9 9 1 年。 彼は駆 け出 しの︵ニジェゴロド州︶知事 で、 私は駆け出しの政治家。 新 参 者 同 士 だったので親 近 感を覚えた。 ネ ムツォフは 移 行 期 のあ らゆる特徴を﹁鏡に映してい 主 主 義の勝 利への夢 想 的 信

た﹂。ソ連流の上官服従、 民 念、コムソモール風の血気。 年に彼 が 私 を 招いた 政 府において彼 は もはや 別 人 だった。魅力や創造のエネル ギーはそのままでも、コムソ モール風の血気にかわって連 邦 的 規 模の改 革 者の責 任 感 が備わっていた。

競争と自由を満喫していた。

で 繰 り 広 げ た ネ ムツォフ追

70

フョードル・   ルキヤノフ氏

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的もしくは社会・経済 り知れない。

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その後、 モス クワ 劇 場 占

ミハイル・マモーノフ氏

ボリス・ネムツォフ氏殺害事件は クレムリンとその反対派双方の国内 政策と外交政策への取り組み方に 新たな不安定さをもたらし、まさに ロシアの政治情勢にとっての究極の ブラックスワン・イベント (黒鳥事象) であった。また、反対派内でも体系 的野党と非体系的野党がある。

グリゴーリイ・アボヤン Grigory Avoyan 写真      アンドレイ・ザイツェフ Andrey Zaitsev          スラワ・ペトラキナ Slava Petrakina 広告      ユーリア・ゴリコワ Julia Golikova

日系の政治家、企業家

必ずしも「ロシア NOW」 または「ロシア新聞」の見解と同一ではありません。

4 月まとめ:ネムツォフ暗殺が招いたブラックスワン

編集兼発行 ユージン・アボフ Eugene Abov 編集デスク アレクサンドラ・バズデンコワ Aleksandra Bazdenkova 電子版編集 ナタリア・ススリナ Natalia Suslina デザイナー   アンドレイ・シマルスキー Andrey Shimarskiy 編成担当 ミラ・ドモガツカヤ Milla Domogatskaya レイアウト イリーナ・パブロワ Irina Pavlova サブ編集者 三瓶良一 ゲスト編集者 町田幸彦  インフォグラフィック アリョナ・レプキナ Alena Replkina

重圧を取り除くばかり ときには極 限に至るま いる ばかりでな く、 敵 のソ連 以 上に周 囲の世 人 々は、 歴 史とくに最

刺漫画などはさまざまな意見、主張を幅広くご紹介するために選ばれたものです。

的 な 面においてばかり

アレクサンドル・ゴルベンコ Aleksander Gorbenko パーベル・ネゴイツァ Pavel Negoitsa ウラジスラフ・フローニン Vladislav Fronin

﹁新思考﹂はあまりに でなく、 平 等で公 平な での現 実 主 義一辺 倒 が 対 的で打 算 的なもの以 界に対して警 戒 感を抱 近の歴史を﹁歴史的楽

本紙に掲載されたオピニオン面の意見や読者からの投書、ゲスト・コラム、風

政治評論家

編集スタッフ

ていないものであった。

メールのあて先は jp@rbth.com です。 お気軽に日本語でメールしてください。

外交・防衛政策会議議長

「ロシア新聞」の Russia Beyond the Headlines 部局はロシアを紹介する折り込 みやセクションを編集し、下記の新聞で配布しています:  毎日新聞(日本) 、Global Times(中国) 、中央日報(韓国) 、エコノミック・タイ 、ザ・ワシントン・ポスト、 ムス(インド) 、ネーション、プーケットガゼッタ(タイ) ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・タイムズ・インターナショナル、ウォール 、デイリー・テレグラフ(英 ストリート・ジャーナル、フォーリン・ポリシー(米国) 国) 、フォリャ・ジ・サンパウロ(ブラジル) 、フィガロ(フランス) 、エル・パイス(ス ペイン) 、ラ・レプブリカ(イタリア) 、ルソワール(ベルギー) 、ハンデルスブラッ ト (ドイツ) 、Tageblatt、Le Jeudi (ルクセンブルグ) 、ジオポリティカ(セル (セルビア) 、ノワ・マケドニア(マケドニア) 、 ビア) 、 Nedeljnik El Observador(ウ (ペルー)、エル・パイス (チ ルグアイ) 、ラナシオン(アルゼンチン)、エル・パイス リ) 、エル・パイス (メキシコ)

グリゴーリイ・アボヤン

観 主 義﹂にうまくはめ

お手紙をお寄せください

人間は、 過去を理想 こも うとしており、 悲

情報提供:レバダ・センター

非難あれど成果あり 悼 デモ行 進は新 たな 希 望 を

「ペレストロイカ」に対する国民の反応 はさまざま。益よりも害をもたらしたと 答える回答者が過半数を占めている。

アンドレイ・グラチョフ氏

拠 事 件 や 元 石 油 大 手ユコス

(ガゼータ・ルー紙)

リベラルを貫いた

イリーナ・ハカマダ氏

ペレストロイカ不評

98

社 長ホドルコフスキー事 件、 抱かせたのだ。

ルーブル上昇は経済に好影響

追悼・ネムツォフ氏

米国におけるロシア研究プログラ ムは、あまりロシアに特化していな いという問題を抱えている。冷戦時 代、ソ連研究が当初の目的だった が、ソ連が崩壊すると、予算は限ら れてしまった。新たな露米対立は起 こっており、ロシアへの関心が今後 高まり続けようとしている。

編集委員会長  社長   編集長

りも基礎レートに近くなって いる。  ルーブルの最高値は近い 将来にくる可能性もある。長 く続くル ーブル 上 昇 はキャ リートレードのメカニズムを 生んだ。投機家は低金利通 貨で資金を借り入れ(中央銀 行からも含む) 、その後収益 性の高いルーブル資産で運 用する。中央銀行は引き締 めを始めたため、市場が急 転する可能性もあると、専門 家は懸念している。  リスクが蓄積し、中央銀行 が為替レートを崩すことなく 市場を展開できるのかと専門 家は心配している。  ルーブル急落を招いたの は内部的要因である。誰もが 対外債務の返済を恐れ、通 貨を買ったが、支払いのピー クが過ぎてみると、影響は致 命的ではなかったことが判明 した。この時、 中央銀行は 需要を弱めるというより、レ ポのメカニズムを発動した。 その結果、ルーブルは 1 月よ

30 年前の 1985 年 3 月 11 日、 ミハイル・ゴルバチョフ氏が、 新しいソ連共産党中央委員会書記長に選ばれた。それはペレ ストロイカ(立て直し)の幕開けだった。当時、近い将来に国 が現代史の激変に見舞われるとは、誰にも予想できなかった。 ロシア通貨ルーブルは昨年 11 ∼ 12 月の暴落 の後、年明けから徐々に持ち直してきている。国 内消費市場には有利になるが、原油価格に依存 するロシアの予算には負の効果にもなり得る。

21

も理 想 主 義 的なもので 別の世 界の建 設につい ある。 自 身の力のほか 外の何 らかの行 動の動 いている。

(ベドモスチ紙)

開始から 30 年 終幕から 24 年

ルーブル上昇

ゴルバチョフ大統領の元報道官

億㍔(約 35 兆 1300 億円)に なった。GDP3.7% の赤字は 予備基金の資金で補われる。  現在のルーブルの持ち直し は国産品の競争力をあまり下 げることなく、経済に多くの 好影響を及ぼす。  まずはルーブル高がインフ レを抑える。また輸入品への 支出が減るため、消費市場 全体も支える。これは需要を 安定させる。最も有利になる のが観光産業と外貨ローンを 組んでいる人だ。  ルーブルが記録的なペー スで上昇している。1㌦ 65㍔ から 1㌦ 50㍔になると、誰に とって一番有利なのか。  政府は 2 ∼ 3 月、ウラル 原油の年間平均価格を 1 バ レ ル 当 たり 50 ㌦( 約 6000 円) 、為替レートを 1㌦ 61.5 ㍔と設定し、 予算を変更し た。歳入は 15 兆 820 億㍔(約 34 兆 8200 億円)から 12 兆 5400 億㍔(約 28 兆 9200 億 円)に減少。一方で、歳出は あまり変 わらず 15 兆 2150

あった た め、 多 くの人 て合 意できる、 と実 際 には、 どん なツールも 機を相 手のう ちに認 め

市場関係者が心配するルーブル上昇の終えん

ペレストロイカ  劇薬だった! 97

ロシアの 論調

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2015年(平成27年)5月6日(水)

5 オピニオン


ロシア文学に燦然︵さんぜん︶と輝くレフ・

トルストイの子孫たち

文化 6 トルストイの家 系はロシア最 大の貴 族の一つ

だった。 現 在、 文 豪の直 系 子 孫 だけでも約

400人を数える。多くは偉大な祖先の啓蒙

︵けいもう︶文化事業を受け継いで、その姓

を名乗っている。︻アレクサンドラ・グゼワ︼

今も関わり続く

るマリヤとアレクサン

長 男セルゲイは父 親

トルストイ自 身には ドラも作 家の助 手そし

13

革命後に多くが移住

人の子 供があり、 そ て代理人であった。

のうち4 人は幼年期も

しくは若 年 期に他 界し の死 後、 ヤ ース ナ ヤ・

は亡 命して世 界 各 地に して保 存 するために尽

ている。 革 命 後、 多 く ポリャーナを 博 物 館と

移り住んだ。 トルスト 力 し、 モスクワのト ル

イの生 前 お よ び 死 後、 ストイ博 物 館の事 業や

家族みんなが作家を助 トルストイ全 集の出 版

け、 事 実 上、 その創 作 に携わった。

トルストイ研 究 家の

妻のソフィヤは﹁戦 パーベル・バシンスキー

に命をささげた。

争と平和﹂ を何度か書 氏によれば、 セルゲイ

き 写 し、 長 女 の タ チ はソ連 にと ど まった 唯

ヤ ー ナは 1 9 1 7 年、 一のト ルス ト イの子 供

生 家の博 物 館ヤースナ だった。彼は、ボリシェ

その息 子のイリヤは

いう。

ヤ・ ポ リャー ナの初 代 ビキに敬 われていたと

真 ん 中と下の娘であ

管理人になった。

ロシアの書 店でよ く 見 かける

古典文学シリーズは﹁出版御三

家﹂であるAST、エクスモ、ア

ズブカの3社によるものだ。

コンセ プトに多 少の差 が あっ

ても、 デザイン上の基 本はいず

れも同じであり、 古典は古典的

に装 丁 されるべき だと考 えられ

ポートレートや作品執筆当時の

ている。 表 紙はしばしば作 者の

絵 画であり、 本の内 容と印 象に

売 れ行 きはこの見 解の正 しさ

ふさわしい。

ProBooks.ru

50

を 裏 付 け ている。

20 世紀初期の ソ連文化は「新し い人間」のための 革 命と実 験 の 場 だった。本書で扱 われているレオニ ドフ の 試 み が 土 地や旧習に縛りつ ける重力から人々 を解放することであったと知るとき、 「建築家」がこの時代に帯びていた 負荷を思わされる。彼の作品は実際 にはほとんど建てられることはなかっ たが、新たな生の創造はマスメディ ア(雑誌)を利用して世界の見方を更 新することで行われていた。  写真によってイメージが現実に直 結する。そうした視覚の舞台で紙上 建築を語る設計者の言葉は希薄だ が、一方でその作品は紙上と建築の 間に未知の身体を宿してゆく。その 後、スターリン体制の確立と共に進 む視覚−言葉−身体の関係の再編成 を、本書は残された写真を読み解く ように明快な言葉で語っている。       安達大輔(一橋大学講師)

によれば、 文芸作品の2013

刊行:2014 年 3 月 本田 晃子 著 東京大学出版会

年のベストセラー上位 でフィッ

「天体建築論 レオニドフとソ 連邦の紙上建築時代」

2年に一度、ヤースナヤ・ポリャーナでトル ストイの子孫たちが参集する。写真は2008 年 =アンドレイ・リゼンコフ撮影

装丁で読者ゲット

話題の本

2015年(平成27年)5月6日(水)

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ロシア出版事情

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次号の発行日 (予定)

作 家の玄 孫 フォーク

13 日 (木)

94

ラ・トルスタヤは自 ら

巻のトルストイ

8月

29

責 任 者 を 務 めたこのプ

トイのすべてをクリック れた

クトの発 起 人の一人 に れは、 買 うこともでき

一つで﹂ というプロジェ 全 集がありません。 そ

代の技 術の助 けを借り

ません。 私たちは、 現

sales@rbth.com

年、 トルストイに関 リウッドで活躍した。 した。 アレクサンド ラ 先の作 品の研 究 者であ 筆した。 れている。 する講 演のために渡 米 年、 当時の文化相 イリヤは﹁アンナ・カ は 年、 米 国へ亡 命し る。 年には家 族を残 レーニナ﹂や﹁復活﹂と た。 作 家の玄 孫であるウ はウラジーミルを博 物 電子版全集を無料で

隔年に生家で再会 書 簡や日 記を含む

なった。

巻のレフ・ ト ルス ト イ て全 集の電 子 版 をつく

90

本紙に広告掲載をご希望の方は 下記のアドレスまで

/roshianow

し、

トルストイの役 を 演 じ

たこともあった。

マリヤは 露 日 戦 争に

参加した六男アンドレ

イと同 様、 革 命 前に死

52

/roshianow

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奮ってご購読を!

90

16

17

レフ・トルスト イと妻ソフィヤ の子孫 去 し た。 七 男 ミ ハ イ

jp@rbth.com

年に亡 命し、 長 妻ソフィヤの子 孫 は 約 卒 業 し、 祖 先 の 領 地 ト ルスト イの子 孫 た ち 全 集 がデジタル化 され ることで、 レフ・ ト ル

をあなたのinboxでご覧ください!

ご意見、ご感想を お聞かせください! 編集長にお便りを

ルは

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古典文学、現代文学のニュースおよび 受賞などロシア文学やロシア人作家につ いての記事は Read Russia(ロシアを読む) の特別セクションでご覧下さい。

20

ヤ ースナ ヤ・ ポ リャー が 初 めて一堂 に 会 す る インター ネットで無 料 ストイの思いをかなえ、

ピアの﹁ロミオとジュリエット﹂、

はエクスモ社だろう。シェークス

ロシアを読む

人の息子。ここでもトルストイはかたくな な態度だった。その次に夢中になったの は音楽の家庭教師。トルストイは丁寧だ が断固たる断りの手紙を書いた。  マリヤは 26 歳になって父の妹の孫ニ コライ・オボレンスキー公爵と恋に落ち た。マリヤを優しく愛し、結婚生活は幸 せになるはずだった。  しかし、マリヤは死産をくり返した。ト ルストイの妻ソフィヤはその原因を娘の 菜食主義であると考えていた。結局、マ リヤは子どもを持つことができなかった。  トルストイの反応は驚くべきものだっ た。もちろん、愛する娘に同情し、なぐ さめていたが、なんとも風変わりなやり 方だった。例えば、何回目かの死産の後、 娘にこう手紙を書いた。  「物質的な意味ではいかに悲しいにせ よ、お前の精神的生活にとって間違いな く助けとなるであろう」  マリヤは 35 歳になった 1906 年、肺 炎で亡くなった。病床から離れなかった トルストイの腕の中で。

年、 ト ルコ、 ユー ゴス 400人に上る。

カルレイ監 督の映 画 ﹁ロミオと

同 社のタチヤーナ・スボーロ

なのだ。 2 0 1 3 年にカルロ・

ワ児 童 文 学 部 長は﹁こういう装

プーシキンの﹁大尉の娘﹂、アレ

トルストイの﹁アンナ・カレー

丁を通じて古典作品が現存する

クサンドル・グリーンの ﹁紅い帆﹂

ニナ﹂にも似たようなケースがあ

ことを示し、 子 供たちの注 意を

ジュリエット﹂の公開後、映画を

年の映 画 化 後、 アズブカ

表 紙に使った版は1 万5 0 0 0

り、

は日本のマンガのスタイルで読者

の特 別シリーズ﹁映 画を見たら

引きたかった﹂と語った。同社は

に提供された。

本を読もう!﹂ で、主演女優キー

め、 シリー ズを 続 ける気はない

こういう 実 験 を5 点のみにとど

部 出 た が、 ス タ ン ダ ー ド 版 は

ラ・ ナイト レイの写 真の表 紙で

12

7000部にすぎなかった。

売り出したところ、 やはり売り

という。 やはり彼 らは大 人の好

もっと読む: jp.rbth.com/52545

みの方を向いている。    ︻タチヤーナ・トロフィモワ︼

ロシア文学はロマ(ジプシー)文化 に負うところが多い。ほとんどの古 典的な作家が書いているからではな い。そういうことなら、世界文学の 大家たちが自作の主人公にもしてい る。ビクトル・ユーゴー「ノートルダ ム・ド・パリ」 、プロスペル・メリメ 「カ ルメン」などは好例だ。  肝心なのは、ロマの気質がロシ ア文学の血肉に入り込んだことだ。 ロシアのヴォーリャ(自由)という意 味はロマの魂を近しいものにした。  ロシアでロマに関する最初の天才 的作品といえば、詩人アレクサンド ル・プーシキンの長詩「ジプシー」だ が、この作品が奇しくも、未来のロ シア文学の倫理的基盤をも置くこと になった。

ロマ気質に通じるロシア文学

おそらく今日、 児童向けの古

電子版でもっと見る

上げに好影響があった。

お問い合わせはこちらで: jp.rbth.com/culture_calendar

古典は古典らしくが基本 典 本のデザインで最 も勇 敢 なの

1887年、ユダヤ人一家の長男としてロ シアに生まれたマルク・シャガール。戦 争の時代を生き抜き、愛と夢の世界を 描いた作品は世界の人々に愛されてい ます。今回は、版画を中心とした作品約 40点を展示販売します。

ラ ビ ア、 フランスで 暮

場所:東急百貨店本店8階美術画廊

今年、パーべル・バシンスキーの新著 「レフの影にレフ」か刊行された。文豪 レフ・トルストイと三男レフを中心とす る子どもたちについて書かれている。こ こでは次女マリヤに焦点をあて、本書の 一部を紹介する。  マリヤ・リボーブナ・トルスタヤ (1871 ∼ 1906 年=写真)は早い時期から、父 親の献身的な裏方となっていた。10 代 で父の新たな考え方を共有し、世捨て、 すなわち上流社会の生活を拒否し、厳 格なベジタリアンになった。  また父の原稿を清書し、秘書役を果 たし、作家の高弟でその著作の出版に 携わっていたウラジーミル・チェルトコ フとの実務においての調整役を果たして いた。ただ、父とチェルトコフの関係に 嫉妬していた。一方で姉のタチヤナは父 とマリヤの関係に嫉妬していた。  マリヤに対してトルストイは感傷的に 接することがあり、マリアにもそういう態 度を許していた。他の子どもたちにはそ んな優しさを見せなかった。  マリヤは父だけでなく、ヤスナヤ・ポ リャーナの農民すべてを助けた。賢く、 複数の外国語に堪能だったマリヤは農民 と一緒に収穫を行い、牛の搾乳を行い、 農家の子どもたちに読み書きを教え、女 性を助け出産の手伝いをした。  マリヤは農民たちにも愛されていた。 世捨て人と言っても地上の喜びをすべて 拒否したわけではなかった。家人や農民 と歌い、踊りの輪に加わった。  だが、タチヤナと同じことがマリヤに も起こっていた。女性らしさを捨てたも のの本質には逆らえなかった。  最初にマリヤが夢中になった青年はト ルストイ一家にも愛されていたが、トル ストイは彼の求婚を拒んだ。優れた助 手である娘を失うことを恐れたからだ。  次に夢中になったのはトルストイの友

子 孫た ちは祖 先の遺 ナにおける不 法な森 林 催 し を 開 い た。 以 後、 ダウンロー ドできる よ 彼の作 品を誰もが読め

5月21日(水)∼27日(水)

裏方で献身的に

400 人 ら し、 モロッコで 死 去 産の管 理 人であり、 祖 伐 採に関 する記 事を執 隔 年で同 じ集 会 が催 さ うになった。

ツジェラルドの ﹁グレート・ギャッ

ツビー﹂がランク入りした。

番 付 作 成 直 前にレオナルド・

ディカプリオ主 演の同 名の映 画

が 公 開 さ れ た が、 最 も 売 れ た

︵ 邦 題 ﹁ 華 麗 な る ギャツビ ー﹂︶

古 典 シリ ー ズ 版。 表 紙 は 画 家

のはやはり伝 統 的 なアズブカの

ウィリ アム・ オ ルペンによ るロ

ンドンの﹁カフェ・ロイヤル﹂の絵

︵1912年︶だった。

時には表紙で冒険するが

[開催期間]

実は古 典 作 品を出している出

「大シャガール展」

版社が﹁冒険してもいいかな﹂と

5月21日(水) ③日本・ロシアフォーラム2015  六本木アカデミーヒルズ  10時∼18時

数字あれこれ

文豪の次女マリヤ 思っている唯一の分野がこの表紙

5月20日(水) ①スタニスラフスキー&ネミロビッチ= ダンチェンコ記念国立モスクワ音楽劇 場バレエ「エスメラルダ」   国立モスクワ音楽劇場管弦楽団   I・ゼレンスキー芸術監督   東京文化会館大ホール ②オープニングセレモニー&パーテ イー  東京文化会館1Fパーティースペース

したまま米 国に根を下 いった 父 親の長 編 を 原 館 の 館 長 に 任 命 し た。 ロシアでは今年が﹁文 ロジェクトについて、こ サイト﹁トルストイ ラジーミルは現 在、 ろした。 、イワン・ブー 作 と する 映 画のエキス 一族﹂の資料によれば、 歳。モスクワ国 立 大 学 彼は2000 年にヤー 学 年 ﹂ と 宣 言 さ れ た。 う語る。 ニンと 親 交 が あ り、ハ パー ト と な り、 レフ・ レ フ・ ト ル ス ト イ と ジャー ナリズム 学 部 を スナ ヤ・ ポ リャー ナで ウラジーミルは﹁トルス ﹁ わ が 家 には 印 刷 さ

ロシア文化フェスティバルのオ ープニング


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