2013年(平成25年)8月8日(木)
ロシア NOW
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「懺悔(悪魔の飽食) 」 7月 日、モスクワ音 楽 院 大ホー
ルで日 本の合 唱 団によるコンサー ト
21
30
ロシアで公演
が催され、森村誠一氏の小説﹁悪魔の
作曲は池辺晋一郎氏 てはな らないという 誓 る森村氏が﹁過去を抹 年目の通夜﹂だった。 池 辺 晋一郎 氏が作 曲 消することはできない﹂ 約 分の合 唱の後 半 約である﹂と語った。 合唱組曲﹁懺悔︵悪魔の飽食︶ ﹂ にかか
わった森 村 誠一、 池 辺 晋一郎、 浅 井 敬
壱の3 氏とロシアの作 曲 家 カルガノフ
氏がこの日の思いを語った。
伝える義務が
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8月25日(日) [会場]ゆうぽうとホール [開場]18:00 [開演]18:30 ライモンダ全3幕 [出演]ユーリー・バラ―ノフ、 カリム・アブドウリンら ボリショイ劇場ダンサー出演 [お問い合わせ] ロシアバレエアカデミー TOKYO(090-5759-4524)
ツルゲーネフ没後 130 年・ チャイコフスキー没後 120 年 記念映画祭 「貴族の巣」 「チャイコフスキー」 [日程]9月15日(日) 15:00∼16:50 貴族の巣 17:05∼19:40 チャイコフスキー [会場]浜離宮朝日ホール 小ホール
「ロシア人から心のこ る犠牲者に含まれていた もった温かい歓迎を受け からです。聴衆の反応に て感動しています。海外 とても感動しました」 公演で、ホールがこれほ 「チャイコフスキー・コ ど埋まったのは初めてで ンクールが行われてきた す。このロシア公演は私 このホールで歌えること たちにとって特別な意義 がどれだけ誇らしいか、 がありました。なぜなら、 お伝えするのが難しいほ ロシア人も 731 部隊によ どです」=写真右
トマス・カルガノフ氏 作曲家 浅井敬壱氏=キリール・ ラグツコ撮影
25
第 2 部 は 国 際 創 作 会 議 だ。
現代音楽のプロデュース、デザ
もっと読む www.roshianow.jp/43887
「ザフトラ」 紙提供
ウラジオ国際音楽祭
22
日 2部構成で
ROX︶ ﹂が -
∼
日まで極 東ウ
25
国 際 音 楽 祭 ﹁ウラジオスト
22
ク・ロックス︵V
イン、 動 画 芸 術、 メ ディアに
日 から
8月
クトについて意 見 交 換 するセ
関する講演や、各自のプロジェ
ロシアで 初 の 紹 介 型 フェス
ラジオストク市で開かれる。
会議の議長はロシア、オース
ミナーが開催される。
トラリア、中国、韓国、日本、
国 際 音 楽 会 議になる。 ウラジ
米 国の音 楽 業 界のプロた ちが
ティバルで、 またロシア最大の
化的中心にしようという試 み
ウラ ジオスト クは 東 アジア
務める。
本、 韓 国という環 太 平 洋 地 域
に位 置 する都 市 だ。 中 国、 日
オスト クを環 太 平 洋 地 域の文
だ。
企 画 は3 日 間にわ たるサ
の重 要な3 カ国に隣 接してい
国際創作会議も開催
マーライブ、レクチャー、マス
また、文化的独自性を誇り、
る。
国規模の音楽家や芸術家を輩
ジオスト クを 音 楽の街に変 え
出 している。 国 際 音 楽 祭の開
20
ター・クラス︵教室︶が、ウラ
第 1 部 は 市 内 各 所で3 日
催 地 としてウラジオスト クが
年 以 上にわた りロシアで全
間 開 催 さ れ る 音 楽 祭 だ。 ロ
る。プログラムは2部構成。
シアのム ミ ー・ トロー リのほ
協賛
選ばれた理由がここにある。
クシー・エクスプレス、日本の
、
か、 外 国 か らは 韓 国のギャラ
エゴラッピン、 中 国のP K
ウラジオスト ク市 役 所、 極
ズ、ロステレコム、 現 代 美 術
14
東 連 邦 大 学、 S 7エアライン
館アルトエタジュ、VVOプロ
米国のジュリアン・ケイなどの
音 楽 祭 の最 後 には 市 中 央
アーティストが参加する。
広 場で行 われる ガ ラコンサー
ゼネラル・パートナーは﹁ロ
ジェクト。
シアNOW﹂。
1964 年創立の全ソレコード会社 「メロディア」は 1980 年代末までレ コード生産と販売を一手に引き受け てきた。レコードの流行はすっかり 消えたが、メロディアは今また復活 している。デジタル化の追い風を受 けているからだ。メロディアのアー カイブは際立っており、保有する録 音は数十万点にのぼる。 一方、CD 生産は今や最悪の時代。 ソ連崩壊後、最大手である「ソユー ズ」社の販売は急減している。ダウ ンロードの時代が始まり、 音楽はネッ トに移動した。
ト が 催 され、 地 元 バンドのム
デジタル化で「メロディア」 復活
ミ ー・ トロー リが 新 アルバム
電子版でもっと読む
合唱指揮者
の曲を披露する。
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浅井敬壱氏
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「私やノルシュテイン氏 (映像作家=写真左下) のようにロシアの聴衆に とっては、日本の演奏家 の方に馴染みがあります。 現代日本の作曲家の作品 に接することは、ロシアで は文化的事件です。この 組曲は広汎な聴衆に向け られていて、前衛的な要 素はありませんが、テー マは重いですね。日本人 にとってはなおさらのこと です。日本人は、その暗 部をさらすのを恐れませ んでした。これは、 原作 者および作曲家の、一市 民としての立場からなされ た偉業です」=写真左上 ユーリー・ ノルシュテイン氏
タス通信撮影
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映像作家
9月 12 日 (木)
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過去は抹消できない
したこの合 唱 組 曲は七 と あいさつし た 後、 池 に は 涙 ぐ む 聴 衆 が 多 約250 人の合唱団 つの楽 章 か ら 成 り、 舞 辺氏が指揮台に立った。 かった。 合 唱 者の目 に 員は日 本から手 弁 当で
一言
飽食﹂に基づく合唱組曲﹁懺悔︵悪魔
の飽食︶ ﹂が披露された。第二次世界
大戦中の関東軍73 1 部隊の残虐行
為をテーマにしたものだけに、重苦し
作家
﹁私はかつて、このことはもう忘れるべ
きだと思っていた時もありましたが、 そ
悟 りました。 さもないと、 似 たよ うな
の後、 過去を抹消することはできないと
悲 劇 が将 来 繰 り返 される恐 れがありま
す。このコンサートは過去の過ちを記憶
し、それに学ぶべきだという呼びかけな
のです﹂
﹁戦争というものは、 大地のみならず、
人間の心をも焼き尽くします。だからこ
そ、 戦 争の経 験 者は、 次の世 代 が同 じ
過ちを犯さないように、自分と他人の思
い出を彼らに伝える義務があるのです﹂
﹁公 演の目 的の1つは平 和の歌を、 す
なわ ち人 類 普 遍の価 値に基 づく歌 を 歌
い続けるということです﹂=写真左
森村誠一氏=キリール・ラグツコ撮影
い雰 囲 気 もあったが、 曲 が 進 行 する
やって き ま し た。 人 々
に伝 える 使 命 があるの
です﹂と語った。
コンサー トでは 浅 井
敬 壱 氏の指 揮で他の日
本の曲が披 露されたほ
か、和太鼓演奏集団﹁輪
田鼓︵わだつみ︶ ﹂も登
場し、場内を沸かせた。
コンサ ー ト が 終 わる
と、﹁カチューシャ﹂が原
語で歌 われるというサ
プライズもあった。
公 演 に あ たって は、
通 訳の児 島 宏 子さんの
つ 別 の 側 面もあります。 各国がもたらした犠牲で す。例えば、ロシアは第 二 次 世 界 大 戦で甚 大な 被害を被りましたが、日 本人捕虜が彼らによって 苦しんだことも事実です」 「この私の作品を演奏 する必要がなくなる日が 来ることを夢見ています」 =写真上
森村誠一氏
ル・ラグツコ撮影
台 上のス クリ ー ンにロ ロシアの聴 衆 の心 を も涙 が光った。 池 辺 氏 公 演 に 臨 ん だ。 参 加 シア語の字 幕が映し出 特にひきつけたのは、ロ は後 半の澄んだ曲 調に 者の一人、 馬 原 郁 さん
が起こった。中央は作曲家の池辺晋一郎氏=キリー
依頼を受けた映像作家
イン氏と映 画 監 督のア
のユーリー・ノルシュテ
ロシアバレエアカデミー TOKYOコンサート
レクサ ンド ル・ソクー
[音楽監督] 国立モスクワ音楽院 セルゲ イ・ドレンスキー教授 [講師] 国立モスクワ音楽院 パーベ ル・ネルセシャン教授 国立モスクワ音楽院 アンドレイ・ピ サレフ教授 [監修・通訳] 一柳富美子(ロシア音楽学者、 東京藝術大学講師) [主催] カワイ音楽振興会 [お問い合わせ] カワイ音楽振興会(03-5485-8511)
「この組曲を作曲し始 めた 時、 犠 牲 者、 殺 人 者についての楽章を入れ る、 清澄な曲で締めくく ることを決めました。 終 曲は希望を表すものでは なく、 過ちは二度と繰り 返さないという誓いです」 「戦争について回想す る時は犠牲者のことを語 るのが常ですが、もう一
ロフ氏、 女 優の栗 原 小
ロシアの伝統を受け継ぐ教授たちによる ピアノ・マスタークラス ∼夢に近づく8日間∼
サ ンク ト ペテル ブル
作曲家
巻さんが協力した。
池辺晋一郎氏
[会場]カワイ表参道
クでは国 立 アカデミー
8月10日(土)∼8月17日(土)
合 唱 団のホ ールでコン
小説「悪魔の飽食」が出 版。300 万部売り上げた。
サートが催された。
1981 年
第4,5楽章はロシア の被害者にささげられた。
この合 唱 組 曲 はこれ
7 楽章
まで日本、中国、韓国、
ロシアン・ピアノスクール in 東京 2013
1933 年
2つの合唱団を含め組 森村氏の生年。池辺氏 曲の合唱に参加した人数。 は 1943 年生まれ。
ポー ランドな どでも披
カルチャー カレンダー
250 人
露されてきた。
もっと読む www.roshianow.jp/arts
コンサートが終わると、 「カチューシャ」がロシア 語で歌われ、モスクワ音楽院大ホールに拍手喝采
数字あれこれ
された。 シア人 母 娘の最 期を描 ついて﹁これは希望では は﹁私たちは各 地を巡 組 曲の作 詞 者でもあ いた第 五 楽 章 ﹁三 十 七 なく、 二 度と繰り返し り、 今回はここロシアへ
日本バレエの基盤作りに貢献した ロシアの芸術家たち。ロシア・バレ エ界の第一線で活躍し、日本に本場 の技芸を伝授した最初の人物はモス クワのボリショイ劇場ダンサー、ア レクセイ・ワルラーモフだった。 1960 年に彼はロシア派バレエを 導入するために創立された東京バ レエ学校の初代教師として来日した。 その後、東京バレエ団の指導に訪 れ、20 年近く日本人の数多くの踊り 手を育成した。 ワルラーモフの日本での活動の集 大成は、東京バレエ団のために創作 した「かぐや姫」だった。この作品は 宮廷の舞楽や武芸、民族舞踊など日 本の要素を取り入れつつ、ロシア古 典バレエの形式にまとめた。 東京バレエ団は創立 15 周年記念 公演の中心にこの作品の初演を予定 した。病身のワルラーモフは 87 年 1 月に来日して気迫のこもった指導 を続けた。しかし、初演間近の3月、 病状悪化のため帰国を余儀なくされ た。そして4月4日、彼の逝去が伝 えられた。 4 月 15 日の「かぐや姫」初日。終 幕の舞台にワルラーモフの大きな肖 像写真が下りてきた。出演者と観客 たちは、命を燃やし尽くして日本の バレエ界を育てた舞踊芸術家に深い 感謝と悲しみを込めた黙とうをささ げたのだった。 【村山久美子】
う ちに、 人 間 性の深みと力 強さが合
アレクセイ・ワルラーモフ 日本バレエ育成に情熱注ぐ
唱のうねりとなり聴衆は圧倒された。
︻ナタリア・ススリナ︼
伝説の人
文化 8
森村作品を合唱で
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次号の発行日 (予定)
ケ ー ニヒスベル クと
巨塔の一つとなった。
呼 ばれた カリーニング
偉 大な中 国 人﹂ とニー
﹁ ケ ー ニ ヒ ス ベル クの
ラ ー ド は 1 2 5 5 年、
地方では、古銭や短剣、 健 康や命さえも犠 牲に にケーニヒスベルク︵ド
カリーニングラード 熱︶がしばしば時 間や ら ずに一筆 書 きのよ う
こ う し たパトス︵ 情 ては、 同じ橋を二 度 渡
シア領 内で最 初のケー
ン最 古の大 学であ りロ
を 執 筆 した。 プロイセ
和のために﹂などの著作
哲 学 3 部 作、﹁ 永 遠 平
創 建 さ れ た。 そ の 後、
ポ ー ランド 王 国 を 経 となった。
て、 プロシア 公 領の都
この街 は ナ チス ド イ
ツの一部だった際、ポグ
手を貸し、﹁報復﹂作戦
ロム︵ユダヤ人虐殺︶に
の爆 撃にさらされ、 攻
め入るソ連軍と戦った。
ロシア皇帝の﹁琥珀︵こ
されていると 伝 えられ
はく︶の間﹂が地下に隠
た ケーニヒスベル ク城
の崩落を古都は嘆き悲 しんだ。
モス クワ 川
バルト 海に臨むカリーニングラード 州は、ロシア最 西 端の地。 欧 州の真ん中 寄りにあり、 本 国と陸 続きでない チェが 呼 ん だ 哲 学 者 イ
第 二 次 世 界 大 戦 時 の してまで、 彼 らを 遠い イツ語で﹁王の山﹂、カ ニヒスベル ク大 学︵ 現
ド イツ騎 士 団 によって
マヌエル・ カ ント は プ レゴー リャ河 畔で時 を
哲学者カントの地 過 ごすのを 好 ん だ。こ
境を接している。ソ連︵のちのロシア︶の領土となったのは 比 較 的 最 近の1 9 4 6 年。 それまではプロイセン、 ポー の哲 学 者は
銃、 装飾品や兜︵かぶ 戦 闘へ赴かせ、 新 天 地 リーニングラードの旧 在のI・ カント 名 称 バ
ノボデビチ女子修道院 ノボデビチ女子修道
この飛 び地は、 南はポーランド、 北と東はリトアニアと
ランドおよびドイツの一部であり、 歴 史 的に多 様な文 化
墓地に眠っている。
ニヒスベル ク大 聖 堂の
で送り、カント島のケー
涯 を ケ ーニヒスベル ク
年の全 生
の十字路としての存在感を今も維持している。 ︻ダリア・ゴンサレズ︼
カリーニングラード カントはこの地で﹁純 粋理性批判﹂ ﹁実践理性
と︶ 、ヘルメットや長 持 を開かせ、 芸術作品を 称 ︶の七つの橋 を 通 れ
ルト連邦大学︶で教員、
批判﹂ ﹁判断力批判﹂の
ちなどが深さ数 十 ㍍の 創造させ、 科学の発見 るか、 という 古い数 学
ここには 今、 ド イツ
今も旧称を思う
人、 ギ リシャ人、 アル
人、ロシア人、 リト ア
メニア人、 ポー ランド
暮らしている。
ニア人た ちが寄り添い
ソ連 邦 移 管 後に追 放
された異 邦 人たちはし
彼 らはなじみの場 所の
ばしばこの地を訪れる。
旧 称を思い、 古い街 並
みや古 城を縫 うように そぞろ歩いている。
﹁踊る森﹂と呼ぶ。
クリムスキー(クリミア)橋
発掘を待つ埋蔵物
地 中に埋もれ、 発 掘さ を可 能ならしめた。 カ の問題︵いわゆる﹁ケー
学長を務めた。
﹁この世の二つのもの
そこから、 数 学 者の
が 私の心 を 聖 なるおの
街で出合う名言の碑
れる時を待っている。こ リーニングラードの地 ニヒスベル クの橋の問 本 職でなくとも考 古 学 歴史に彩られてきた。
の 土 地 の 人 は 誰 も が、 は正にパトスが渦 巻 く 題﹂︶ があった。 レオンハルト・オイラー
ー ニ ヒ ス ベ ル ク の橋 ケ はグラフ理 論を編みだ
者や秘宝探検家の天分
頭 上の星 空と私た ちの
のきで満たす。それは、
を備えている。 バルト 海から潮 風が した。この理 論は現 代
地 元の人 々はカリー
見られる。
念 板 は 街のあ ちこちに
トの名 言が刻 まれた記
内 な る 道 徳 律 ﹂。 カ ン
ニングラード州を﹁パト 吹 くカリーニングラー 物理・化学・IT分野 ほ ぼ 3 0 0 年 前、
ド。強風はプレゴーリャ で応用されている。
ソ連 の 歴 史 家 レフ・ 川の水 上で速さを増し
スの地﹂と呼ぶ。 グ ミ リョフ に よ れ ば、 て海 岸 通りを滑り、 港 ある 時 代には 活 動への 湾 ドックの建 物に吹 き
世紀初頭に大学付 属 のケ ー ニ ヒスベル ク 天文台は天文学研究の
自然保護区﹁王の森﹂に るためにここに住むよう
なった。砂州の樹木が大 になった。なにしろ砂は
数百本の松が絡み合っ
量 伐 採された時、﹁王の 歌い、森は踊るしね﹂ 森﹂だけは守られた。
森 林 破 壊 は 砂 漠 化 を て輪をつくり、 松はらせ
動く砂丘をつくった。こ がっていく。こんなおか
も た ら し、 半 島 を 漂 い ん状にねじれて地面に広
続いている。
の自 然 破 壊 は 現 在 で も しな自然現象をここでは
砂としぶきが共鳴
もう一つの不思議な現
150種の鳥の楽園 春のたそがれ時は鳥の
羽 根 の 音 が 波 の 音 を か 象は﹁歌う砂﹂だ。珍し
き 消 す。 数 百 羽 の 鳥 は い 形 を し た 砂 の 粒 子 が
砂 州 の上 で 毎 日 羽 ば た こ す れ る 時 に 普 通 の 砂
く。 1 5 0 種 の鳥 が 北 の音とは違 う音を出 す。
ジー ミ ル さ ん は ほ ほ 笑
国 立 公 園で働 く ウラ
渡る際にここを通る。移 ディーを響かせる。
から南欧や北アフリカに し ぶ き に 共 鳴 し、 メロ 動 期 の数 は 毎 日 数 百 万 羽に及ぶ。
国 立 公 園 の ル ィ バ む。﹁ここに すべてが あ
チイ 村 には、 欧 州 最 古 る。 海、丘、 砂漠、 森、
荒れていない5月から
るのなら、波がそれほど
クルシュー砂州を訪れ
察所﹁フリンギッラ﹂があ 生みだせる静寂﹂
︵1901年︶の鳥類観 ツンド ラ。 自 然 だ け が る。フリンギッラはズア オアトリの学名だ。
クレムリン
現代のモスクワの橋は技術的にユニークであるだけでなく、 建築としても素晴らしく名所になっているものが多い。旅行者 に特に面白いのはパトリアルシー橋(総主教橋) 、ルシコフ橋、 ボロジンスキー橋、プーシキン橋(アンドレーエフスキー橋) 、 クラスノルシスキー橋などの歩道橋だ。
車道と歩道があるつり橋で、モスクワ川に架かり、クリムスキー・バー ルとクリムスカヤ広場を結ぶ。スターリンのモスクワ改造の一環として、 1938 年のメーデーに合わせて開通した。当時は、欧州で五指に入る長 い橋であり、川に架かる部分は 168㍍ある。橋の名はクリムスキー・ブロー ド(クリミアの浅瀬)に由来している。この浅瀬を渡って、クリミア・タター ルがモスクワを襲撃した。
ゴーリキー公園
クレムリンのボロビツキエ門付近のモスクワ川に架かる 橋で、車道と歩道がある。「大石橋」という名にもかかわら ず、鉄筋コンクリートと鋼鉄でできている。17 世紀にこの 場所にモスクワ初の石橋が造られた。その後何度も架け直 されたが、常にモスクワの橋の 顔 だった。20 世紀初め にソ連の建築家たちが現存する橋を架けた。その巨大な 基礎はわずか 35 日間で組み立てられている。
聖ワシーリー聖堂
抑 えがたい志 を もつ多 つける。この川 には
ニン撮影車
世紀に ﹁王の森﹂ に
月の間 が 最 高 だ。 砂 浜
ルィバチイ 村 の住 民、 のネコヤナギがふわふわ
人間的自然
アンナさんはこう 話 す。 の﹁しっぽ﹂を咲かせて迎 ﹁ ﹃ 人 間 的 ﹄ 自 然 を 感 じ えてくれる。
キエフスカヤ駅
バルト海︵写真下︶ 、カ リーニングラードを 走っているローマン車 ︵写真左上︶=マックス・ア ブデエフ撮影、防波堤︵写 真左下︶ =アントン・パー
ここにはバルト海沿岸
www. roshianow.jp/ 41823
どんな橋が面白いか
パトリアルシー橋(総主教橋)
ボロジンスキー橋
市 内 にある 橋 につい
ムソンさんはこう言い添えた。
世紀に一部が
ボリショイ・カーメンヌイ橋(大石橋)
バグラチオン橋
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カリーニングラード 市でカリーニングラー ド発モルスコエ行き の 593 番 バス ( ゼレ ノグラツクで 乗り換 えあり ) に乗り、クル シュー砂州まで行くの が最も簡単。所要時 間は片道 2 時間。
数の人 々が世 界 各 地に 本の橋が架かる。
砂 ぼこりが風に舞 う。 砂紋は大地にきれいな細 数千もの波の束は人々の
い帯 を 浮 か ばせていく。
ドイツの香り残る
プロ グ ラ ム 第 2 弾 で は 年 間
心 臓 の 律 動 を 刻 む かの 刻 々 と 変 化 させ な が ら
ように、もろい砂の線を
字を掲げた﹂と述べた。 移 住 者 には カ リ ーニング
カリーニングラード州
シラカバ林やツンドラ
クルシュー砂州を覆う。
ラード市近郊に仮住宅が用意 された後、 空き住居が探され る。 ウクライナ、 アルメニア、 カ ザフスタン、 タジキスタン からの移民が多いという。
トアニアのクライペダま
のゼレノグラツクからリ で 延 び る 砂 州 は バル ト
求む造船・原発従事者 ブルィチョフ代 行 は 直 面 す
海とクルシュー潟湖を隔 わずかな土地はコケに
てている。 覆 わ れ た 針 葉 樹 や シラ
る 課 題 を 率 直に語 る。﹁ 移 民 手当は6万㍔︵約 万円︶だけ
には財政的支援︵同州の赴任 でなく、心理的支援や語学力
ラ︵凍土地帯︶ 、 沼地に
カバの林、草原、ツンド 今 求 められているのは医 師
変わる。 クルシュー砂州
も必要だと認識している﹂
は
平 方 ㌔ ㍍、 全 長 ン市 郊 外に建 設 中のバルト原
のほかに造 船 従 事 者、 ネーマ
ら3・8㌔㍍ある。
㌔ ㍍、 幅 は 4 0 0 ㍍ か 現 在、 同 州 で は 1 5 0 以
子力発電所での労働者だ。
﹁ カ リーニングラー ド ほ ど 人
があった。 やがてプロイ
の異 教 徒 の聖 な る 木 々
上の民 族が共 存している。 サ
人たちは民族や信仰で判断す
し寄せ、
セン王の猟犬の群れが押
に優しいところはない。ここの
して接してくれる﹂
るのではな く、一人の人 間 と
行き方
記事をお読みになるか、 エクスカーションをご注文ください。
プーシキン河岸通りとフルンゼンスカヤ河岸通りを結ぶ。建造は 1999 年で、 元のアンドレーエフスキー橋の基礎の上に造られた。アンドレーエフスキー橋は 1907 年建造で、当時の建築と技術の記念碑的建造物だ。今の橋の主要なアー チは重さ 1500㌧あり、現在の位置に 3 隻のはしけで 1 時間半かけて運ばれてき た。正式の名はプーシキン橋だが、長年の習慣でアンドレーエフスキー橋と呼 ばれている。
ネスクーチヌイ公園
宿泊先
もっと詳しくお知りになりたい方は、 travel2moscow.comで、
プーシキン (アンドレーエフスキー)橋
フルンゼンスカヤ河岸通り フルンゼン
ロシア全体の面積にカ リーニングラード州が占 める割合。同州の面積は ほぼスロベニアに等しい。
5000 人のより現実的な数
0.1%
務の意識」 であるにすぎない。 大学教科書には四つの古典的な神 の存在証明が載っており、カントは神 の道徳的証明の祖と呼ばれている。 カントが教授、後に学長を務めた ケーニヒスベルク大学(現カント記念 バルト連邦大学)は、プロイセンでも、 ロシアでも最古の大学。カントはここ で、論理学、理論物理学、形而上学、 地理学、数学などを教えた。
世界遺産「クルシュー砂州」
15
カリーニングラードの 年齢 。1255 年にドイ ツ騎士団により築かれ、 1946 年まではケーニヒ スベルクと呼ばれた。
モスクワの六つの橋 人々と歴史が 通り過ぎていった場所
モスクワ国際ビジネスセンター「モスクワ・シティ」の一部をなす橋 で、モスクワ川に架かる歩道橋。ボロジノの会戦で負傷し亡くなった ロシアの名将ピョートル・バグラチオンにちなんで命名された。クラ スノプレスネンスカヤ河岸通りとタラース・シェフチェンコ河岸通り を結ぶ。モスクワ建都 850 周年の 1997 年に開通した。橋は 2 階建 てになっており、下の方にはガラスで覆われた画廊が設けられてい る。2 階には周囲のパノラマを展望できるスペースがある。
純粋理性批判を生んだケーニヒスベルク
森が踊る 砂が歌う
生まれる。
白 衣をまとった黒 髪の男 性 が殺菌された廊下を走る。 カ リーニングラード周産期母子 医 療 センター。 閉 まった 扉の 向こう側には体重500 ㌘以 同センターの副 主 任 医 師サ
下の新生児の保育器が並ぶ。 ムソン・ アサ ト リャンさんは 3 年 前、﹁ 同 胞 移 住 プログラ 連 れてアルメニアからカリー
ム﹂によって、妻と2人の子を ニ ング ラ ー ドへ移 り 住 ん だ。 ﹁私た ちにとってロシアは生
サムソンさんはこう語る。 家であり、みんなソ連 出 身 者 なのです。ここには 自 分の子 供た ちの未 来がある。一時 滞 在 者ではありたくない。 私た
年にかけ
地域からここを選んだ﹂
ちは同 様のプログラムがある 2007 年から
万人の申請者のうち約
てのプログラム 実 施の5 年 間 に、
グラード州に移住した。
1 万8000 人がカリーニン セルゲイ・ブルィチョフ地方 自治体発展相代行は﹁カリー 入 れの 数 はロシアで 第 1 位。
ニングラード州の移 住 者 受け
救世主ハリストス大聖堂
ホテル・ウクライナ
150
モスクワでは街の発展につれて橋が架けられるようになった が、15 世紀初めまでは常設の橋はほとんどなかった。渡河す るには、浅瀬を渡ったり、舟橋の類いを架けたりした。今日、 首都の橋は 450 以上を数え、歴史的または芸術的価値を有す るものは約 50 ある。
聖ハリストス大聖堂の真向かいのモスクワ川にかかる歩道橋。 比較的最近、 2004 年に建造された。2008 年から 2012 年まで 4 年連続してドミートリー・メド ベージェフ大統領(当時)の新年の国民へのメッセージがこの橋で録画された。こ の橋のおかげで、モスクワに新たな習慣「愛の鍵」が根付いた。愛の鍵とは、新 郎新婦が錠前に自分たちの名前と結婚した日付を書いて、しっかり鍵をかけたよ うに固い絆で結ばれたいとの願いを込めて、橋にぶら下げるというもの。この橋 は「愛の鍵」の名所となった。
エストラーダ劇場
この橋は、車道と歩道があり、クレムリンから 2㌔地 点のキエフ駅の向かいに架かっている。造られたのは 1911 ∼ 1912 年で、祖国戦争(ナポレオン戦争)100 年 を機にボロジノの会戦を記念して建造された。以来 2 度架け直されているが、当初のアーチが連なった形の 支柱が現在の橋の基礎になっている。
758 年
移住受け入れに住宅も用意
カントは、ここケーニヒスベルクで 「純粋理性批判」を書き、神の存在 証明に関する三つの哲学的学説を論 破した。カントの死後、神学者たちは 「カントが神を道徳的に証明した」と 語った。カントが「道徳的には、神の 存在を承認しなければならない」と述 べたのを引き合いに出したわけだ。 しかし、カントの定義によれば、宗 教の本質は「神聖なおきてとしての義
80
18
11
66
カリーニングラード州 に住む民族の数。 旧ソ 連圏から 1 万 8000 人以 上の住民が移住した。 12
18
数字あれこれ 30
クルシュー砂州に はペンション、宿舎、 ゲストハウス、 全ラ ンクのホテルがたく さんある。 すべてが ルィバチイ、モルスコ エ、ゼレノグラツクな どの村に位置してい る。宿泊代は1泊 10 ユーロから 200 ユー ロで、ランクやシーズ ンによって異なる。 98
文化の十字路 38
19
18
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ロシア NOW 2013年(平成25年)8月8日(木)
7 地域
時は、 個々の単語を除 け ばロシアの他の住 民 言で話す。
にもわ かるロシア語 方
波瀾万丈
﹁自由な民﹂コサックを 治 共 和 国 首 都 を 含 め 弾圧・規制した。 それ て、 現 代のウ ラル、 シ は当 然、 激しい反 撃を ベ リア、 極 東の多 くの 都市はコサックによって 呼び起こした。 開発された。 1 6 4 8 年 にはコ
帝 政ロシア政 府 はコ サックのデジニョフがア
東方へ進出
拡張に利用した。
至 り、ロシアのア ラス
サックを 積 極 的に領 土 ジア側 か ら アメリ カに
コサックは 現 地 住 民
ウ ラ ル、 シ ベ リ ア、 カ進出につながった。 極 東への 遠 征・ 開 発、 ロシア帝 国 形 成に果 た に対 する 態 度 が 荒っぽ
世紀が絶頂期
し たコサックの役 割 は く、 時 には 残 酷であっ 世 紀 はコサックの 評 価 しす ぎることはな たという事 実も見落と 絶頂期になった。 してはならない。
い。
アタマン︵首領︶マト
しかし、 植 民 地での ベイ・ プラ ー トフのド イルクーツク、ハバロ フス ク、 オ ム ス ク、 ト ロシア人 と 原 住 民の平 ン・コサックは、ロシア ム ス ク、 ヤ ク ー ツ ク、 和 共 存の基 礎 を 作った 軍 と 共 同でナポレオン ブラゴベシチェンスク、 のも正しくコサックだっ 軍を打 ち砕 きパリを占
めた。
ペトロパブロフスク=カ た。 コサックは、 原 住 領し、 世界に豪放無敵 ム チャツキ ー な ど、 今 民殲滅︵せんめつ︶は行 の最 強 騎 士 像を知 らし 日のロシアの州 都 や 自 わなかった。
コ サック は、 ロシ ア 国 内でニコライ1 世の 治 世 に、 蜂 起 を 鎮 圧
師のエドゥアルト・フォン・ 近代化を助ける専門家として
イパチェフ邸の悲劇
皇帝処刑から
年
者に﹁我が皇 帝を異 民 族が 技 術 博 物 館 館 長 だ。これら
常に高位の重職だった。
殺した﹂と言わせるきっかけ の役 職はソ連 政 府 初 期に非
を与えた。
ユロフスキーは宝石商だっ
クド リンは 陸 軍 大 佐の階
︵当時は1㌦約4㍔︶ 。
級 まで昇 格 した。 亡 くなる
前、 当 時のソ連の最 高 指 導
者であるフルシチョフ第1書
記 宛てに、 皇 族 処 刑 につい
ての詳細 な回顧録︵﹁敵の旋
風﹂、未出版︶を残した。皇
時のことを記録している。
﹁一人 がひもを 持って廃 鉱
に入 り、 遺 体 を 廃 坑の水 中
体 はいった ん 廃 鉱 に遺 棄 さ
か ら 引 き あ げ た。︵ 注・ 遺
ているかのようだった。湿地
。皇帝の顔は赤く生き ミハイ ル・ メ ド ベー ジェ れた︶
1980 年代初め、 当時
て外見を変えた﹂
人民委員部 特別全権課第
員会︵KGB︶議長は処刑者
のアンドロポフ国 家 保 安 委
高い役職についた。ソ連内務
1964︶もロシア革命後、 を 掘 り、 遺 体に硫 酸 をかけ
1950 年代末、 年金を
1局の局長補佐を務めた。
邦保安庁に保管されている。
ると、この記 録 は 現 在、 連
好きだったという。一説によ
月4500㍔ 受け取っていた のざん げを 夜 ごと 聴 くのが
皇帝ニコライ2世一家が幽閉さ れ、後に処刑された現場となっ たたエカテリンブルクのイパ チェフ邸 =Press Photo
︻ヤン・シェンクマン︼
史観の変遷を物語る
1613 年のロマノ れ、 殉 教 者 と し て 聖
年に寄せて写真集﹁皇
皇 帝一家についての
フ朝 創 設 か ら 4 0 0 別式も催された。
帝の十字架﹂が出版さ ロシア人の記憶がどう
れた。エカテリンブル 復 活 し、 歴 史 観 が ど
年の
歳 月 を か けて 自 ら 撮
一連の流れを
ク 在 住 の 写 真 家 ア レ う変化していったか。
クセイ・ウラドゥイキ
ン氏の作品。
最 後 の 皇 帝 ニコ ラ 影 し た 2 0 0 枚 の写
イ 2 世 が 銃 殺 さ れ た 真に語らせた。一家の
エカテリンブルクのイ 遺 骸 片 な ど 貴 重 な 写
年
間、同じ外套︵がいとう︶をま
この類いま れな 教 師 は
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︻イリヤ・クロール︼
パチェフ邸は作 者の自 真も含まれている。
宅の近くだった。
空 き 地 と なった 現
場には十字架が立ち、
ギ リシャ哲 学 研 究 者、 出 隆
さ らに 会 堂 が 建 設 さ
学の体系的な講義を行った︵通
は ケーベルに1 年 学 ん だ だ け
校で音楽史やピアノも教えた。 肩を並べた﹂と回想している。
することにした。
1 9 1 4 年に退 官 すると帰 国
勃発の報に接し、ロシア領事の
ところが、 横 浜で世 界 大 戦
ばしばコンサートで演 奏した。 部次郎は﹁先生は、自由なる個
間 を そこで過 ごし た。 母 国で
もとにと ど ま り、 晩 年の9 年
啓蒙︵けいもう︶思想家の阿
﹁神々しきピアニスト﹂と明治 人の教 育 を 主 たる課 題とみな
筆し、 ﹁カタツムリのようにゆっ
その間、論文やエッセーを執
ケーベルは日本について書き、 は社会主義革命が起きた。
析 的 思 考を発 達させる必 要 性
初演にも携わった。
その観 察 や 願 望には西 洋 的
持つ。
も ち ろ ん、 ケ ー ベルの主 な に関 する評 論は今 も説 得 力 を
仕事は哲学の講義であった。
夏 目 漱 石や哲 学 者の西 田 幾
有島武郎は﹁おそらく、明治
人ほどい 愛情や理解にあふれていた。
多 郎のほか、 教 え子には 傑 出 な高慢さがなく、日本への真の
した 人 文 科 学 者 が
た。 例 え ば、 儒 教 学の権 威・
井 上 哲 次 郎、 倫 理 学 者の和 辻 期の日 本でケーベル 先 生 ほ ど
国人はいなかった﹂とつづった。
哲 郎、 翻 訳 家の上 田 敏、 評 論 日 本 文 化 を 深 く感 じていた 外
家の高山樗牛らだ。
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そこへ導いたのである。
本にお ける最 高の哲 学 教 師 を
﹁哲学の道﹂は、 明治期の日
最後の安らぎの地を得た。
た﹂。そして、 雑司ケ谷霊園に
くりと 海 岸 通 りを 散 歩 してい
だ。ケーベルは日本でのオペラ ﹁小品集﹂としてまとめた。 分
オ・ハーン︵小泉八雲︶は呼ん
期のジャーナリスト、ラフカディ していた﹂と感銘した。
この哲 学 者の音 楽 家 は 自 らし
も担 当し、 上 野の東 京 音 楽 学 ラトンやゲーテといった大家と
東 京 外 国 語 学 校でロシア語 だが﹁先生は、私の心の中でプ とい東 京の外に出ることなく、
常の授業は英語で行われた︶ 。
誰が殺めたか
家が幽閉されたイパチェフ邸 実 際 に そ れ は 見つかってい フ・ クド リン︵ 1 8 9 1 ∼
1 9 1 8 年 7 月、 皇 帝 一 の宝石も探そうとしていた。
︵ 1 8 7 8 ∼ 1 9 3 8︶ は たため、 銃 撃した夜は皇 族 メドベージェフ・クドリン
ヤ コ フ・ ユ ロ フ ス キ ー
ユロフスキー
ジェフ・クドリンだ。
のはユロフスキーとメドベー 与したことから、 民 族 主 義 ンド 金 部 門 長、 モスクワの ラジンスキ ー も 録 音 機に当
も う一人 処 刑に関 与 し た
ラジンスキー
なったと 記している。
貴 重 品 をモスクワ・ クレム スキーでなく自 分 が中 心と
人 という 説 があ を殺害したと証言している。 職は、 ウラル県 非 常 事 態 委
ユロフス キ ー が 務 め た 役
銃 撃 隊 を 率 いて、 ユロフ リンの管理者に渡した。
年 が経 過 した 今で 備隊長だった。
ニコライ 2 世一家 が 処 刑 ︵エカテリンブルク市︶の警 る。ユロフスキーはすべての 帝一家 処 刑 に お いてユロフ
95
る。 中 心 的 役 割を果たした ユダヤ人のユロフスキーが関 員会議長、貴金属・貴石フォ
あるいは
たのかわかっていない。8人、 スキ ー 自 身 がニコライ2 世
も、何人がこの事件に関わっ
されて
95
コサックとは自由人 コサックは独立した身分 を失い、ロシア帝国にお ける特別な軍人階級へと 変貌を遂げた。
コ サッ ク と い う 階
11 のコサック軍 団が存在した。
層、宗教的アイデンティ
革命後、コサック根 絶政策の結果、ほと んどのコサック集団 が抹殺・解体された。
ティー︵正教徒︶ははっ
コサックを復活させ る試みや運動が展開 され、一部が復活した。
きりしていたが、 特 別
コサックの身分を定 義する一連の法律が 整備された。
な民族的共通性は皆無
18 世紀
ロシアの国 境を守ったコサック兵はシベリアを
20 世紀 初頭
切り開き、歴代の皇帝︵ツァーリ︶に仕え、ある コサックの管 轄 地 で
1917 年
自由を求めて農奴制 や抑圧から逃れた人々 (コサック)が共同体 を形成した。
1980 年代 後半
だった。 は、 コサック独 自の掟
世紀
14 ∼ 17 世紀 1990 年
時には皇 帝と戦い、 西 欧の子 供たちはその名に おびえた。 ナポレオン軍の元 帥 らは戦いに習 熟 したコサック軍に感嘆した。誇張なしにロシア史 コサックは 仲 間の中
があった。 のユニークな現象と言ってよい革命前のコサック ︵おきて︶ を取り上げる。︻イワン・ニコラエフ︼ を選 出したが、 それは
∼
今日でも、 頭 髪や目 すべてのコサックは 平
ので、それ以外の時は、
戦いに出る時 だけのも
から自分たちの司令官
帝国拡大の先兵 歴 史 文 書でコサック しかし、
コサック同 士で 話 す のツァーリ権力は絶えず
世 をよく見かける。
という 名 前での言 及 が の 黒 いコサックの 子 孫 等だった。 盛んに始 まるのは 紀だ。 封建君主の抑圧、 飢 饉 ︵ き きん ︶ 、 旱 ばつ、 病 気、 古 儀 式 派への迫
し、 1 8 4 8 年にはハ ンガリー 反 乱 軍 か らハ プス ブル ク帝 国 を 救っ た。1878年、 コサッ クとロシア軍はオスマン 帝 国 を 破 り、 ブルガリ アな ど、 バルカン諸 国
ア、セルビア、ルーマニ を解放する。 一方でコサックは、民 衆 運 動の抑 圧 側に加 わった ほ か、 日 露 戦 争 や第一次 世 界 大 戦の前 線で 戦った。 そ して 革 命 直 後の1 9 1 8 年に はコサックの地 で 流 血 の国 内 戦 という ド ラマ が演じられた。
の多くが心から日本を愛し、 第二の故郷だと考えていた。一 部の移民は、スポーツから哲学、舞踊から食品産業までさま ざまな側面で発展に貢献してきた。 亡命ロシア人が日本のた めにどのようなことを成し遂げたのかについて紹介する。
日本に亡命したロシア人 文豪・夏目漱石はこう書き コライ・ ルビンシテインに師 残している。﹁文科大学で一番 事した。 後にドイツで哲 学の 人まで
人格の高い教授は誰だと聞い 教育を受ける。 たら、 百人の学生が だろう﹂。
はフォン・ ケーベルと 答 える ハルトマンは日 本の人 文 科 学 ラファエル・フォン・ケーベ 教え子をベルリン駐在日本大 ルは1848 年、ロシア中部 使に推 薦した。 1 8 9 3 年、 のニジニ・ノブゴロドに生 ま ケ ー ベル は 帝 国 大 学 教 員 に ケーベルは古 代 ギリシャ語
れた。 幼少時より音楽に親し なった。 み、モスクワ音 楽 院でピョー
ト ル・ チャイコフスキ ー やニ とラテン語を教 えつつ西 洋 哲
教え子に漱石、西田、和辻、上田敏ら
「コサック」とはチュルク語で「自由 人、冒険者、放浪者」を意味する。こ の語源から現代の「カザフ」の名称も 派生している。カザフスタン領域の 開拓にも尽力し、かつての首都アル マトイを創設したのもコサックだ。
ラファエル・フォン・ケーベル
カザフスタンのアルマトイを創設 19
19
在日ロシア人の歴史は1854 年に始まる。ロシア系移民
取り上げてほしい話題やご意見をお寄せください。 お気軽に日本語でメールしてください。メールの先は jp@rbth.ru です。
11
明治期に西洋学を伝授
害 な ど か ら 逃 れる た め、人々はルーシ︵ロシ ア︶全土から東ヨーロッ パのステップ国 境 地 帯 に逃亡した。
その足 跡 は ドニエプ
辺境で自治体を形成
月か
万 コサックがパトロールを 行っている。 クラスノダール地 方 中尉。 勤務先の連邦保 と 認 め ら れ、 コサック カチョフ知事は﹁コサッ 安 庁モスクワ国 境 警 備 大佐︵革命前には皇帝 クを 侮ることは国 民 を
︻﹁コメルサ ント・ ブ
す﹂と語っている。
大学体育講座でも格闘 がこの位を有していた︶ 侮 ることということで 術 を 教 えている ネ ナロ の位を有している。 コサックと して 登 録
歳以 ゲラシメンコ︼
年、 待ちました。 されるには、コサックの ラースチ﹂誌、オレグ・
コフさんは、こう語る。 ﹁
写真集「皇帝の十字架」
ル川、 ドン川、 テレク 川、 ボルガ川、 ウラル 川 下 流 地 帯に及ぶ。こ 千 ものコサック自 治 共
れら大 河の沿 岸には何 同 体が形 成され、 常に 近隣国家・種族と戦闘 血 筋 か ら 見てコサッ
2011年
クワのソコ リニ キでコ りになる潜 在 的な正 規 あることが必要となる。 サック式 格 闘の訓 練 が 軍とみなしています﹂。
自 分 を コ サ ッ ク と ら、 モスクワの南 東 行 7 0 0 万 人で、 国 家に ク共同体﹁ユーゴ・ボス ︵総 勢
プ ー チ ン 大 統 領 は、
ある。 ロコフさ ん はモス クワ 人︶
祭のド ミトリー・ ネナ ク軍団は
︵南東︶ ﹂ の 人の トレーナーである司 登 録 さ れているコサッ トーク
窓。壁にはイコン。
5 度の外 気に開かれた み な す ロ シ ア 国 民 は 政管区では、地区コサッ
行われていた。 氷 点 下
10
80
20
状態だった。 クは何者だったのか。コ サックには 東 ス ラ ブ人 であるロシア人のほか、 チュルク系民族やカフカ ス︵コーカサス︶系民族 も加わっていると研究者 らは考えるようだ。
Ge tty Imag es 撮影
18
月のある 晩、 モス クをいざという 時に頼 上のロシア連 邦 市 民で
いざという時の頼り
剣を突き上げ総攻撃に向 かうコサックの騎馬軍団 =
17
体﹁ボストーク︵東︶ ﹂の 2 0 0 5 年にコサック のアレクサ ンド ル・ ト
市の地 区コサック共 同
40
17
❶ナポレオンと同盟関係にあったロシア皇帝 パーベル 1 世はインド遠征にコサックを派遣 したが、皇帝の死去により、この冒険的進軍 は中止された。 ❷コサックは西欧の騎士と異なり、拍車を使
15
国 家 は 今では、 コサッ 理念を共有する
20
つのコサック豆知識
5 11
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用せず、独自の革ムチで馬を走らせた。 ❸コサックの馬の特徴は、その持久力と美し さといわれている。 ❹ペルシャのシャー(国王の称号)は、ロシア を模範として創設した、シャー自身のコサッ ク隊を持ち、ロシア将校がその指導に当たっ た。 ❺ウラルのチェリャビンスク州に、1814 年の パリ襲撃に加わったウラル・コサックを記念し て命名された 「パリ村」 という村がある。 18
90
11
20
歴史 6
2013年(平成25年)8月8日(木)
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帝政ロシア︵ロマノフ朝︶最後の皇帝、ニコ ライ2世︵1868∼1918︶ 。1917 年の 月革命後に幽閉後、 皇后、 子供5人 と共に銃 殺される数 奇な生 涯 だった。 受 難 は死 後も終わらない。 皇 帝の遺 体の認 否は 論が定まらないのは皇 帝に対 する歴 史 的 評
ソ連 時 代から論 争になった。 それ以 上に結 価だ。 新生ロシアでも為政者の思惑が絡み、 ニコライ2世像は揺らぎ続けている。
退 位したことは教 会の
ニコ ライ 2 世 が 自 ら
し か し、 本 国のロシ ニコ ライ 2 世 のイ メージは3 度の顕 著な ア 正 教 会 は 年 代 前 半、 列 聖 に 反 対 し た。 変化を経てきた。
政治的弱者 1990 年代初頭は 掟 に 背 く と み な さ れ、 ペレス トロイ カ 期の視 ピョー トル1 世 が廃 止 点を受け継ぎ、 皇帝の した総 主 教 座の復 活に
ボフ= アブドニンのグ
1 9 7 1 年 に リャ
みならず子供たちや召 ニコライは反 対 したか 使いまで処 刑 されたこ らだ。 とはソ連の粛 清の先 駆
分 裂した社 会を受け
プーチン氏の登場
速やかに統 合されると を認めない者もいる。 の希望は消えた。 半 面、 ニコライは 保 守 派の抵 抗 とロシアの
聖なる権 力の重 要な象 継いだ プーチン大 統 領
徴 と なった。 ロシアの は1期目に﹁ 世紀ロシ
モスクワ散策
ある。ほかの古本屋では高値がついて
値 段は背 表 紙の裏に鉛 筆で書いて
5
雑誌を読んでいる。
ときおり、一人の店 員が退 屈 そうに
ないピンク一色 に塗 ら れた 美 容 室。
小さな美 容 室がある。 客が一人もい
薄 暗い狭い廊 下を進むと窓のない
議な安堵︵あんど︶ を覚える。
国にいて、 吃 音 症の人と出 会い不 思
手に取っていた 本 を 読 んでいた。 外
7
い。この感 覚 が正 しいものかどうか
ても 安 心 する。 彼 は 特 別ではな く、
彼の話 すスピードは 僕にとってと
する。﹁この本とこの本をまとめて買
いるよ うな本が安 値で並んでいたり
うので、ちょっと割引してもらえませ
権力は、 神なき西欧文 アの長い内戦﹂を終わら
んか?﹂ と訊ねると、店主は ﹁じゃ、じゃ
僕は心地よく本の話をしていた。
彼と話しているとき僕は特 別ではな
明が全 世 界にめぐらす せ、﹁白軍﹂と﹁赤軍﹂の
は知 らない。でも、 あの場 所で彼と
古書店と通り雨
陰謀から自国の民衆と 和解を試みた。
美容室の壁の一つに背をかがめない
おくから﹂。電話がかかってきて、少
く会釈し、その小さな穴に潜り込む。
ている。 雑 誌を読んでいる店 員に軽
と入れないような小さな廊下が延び
買え﹂ と言われていた。 学術系の本
6
あ、 ふふ、 二つ、 合わせて7 0 0 ㍔
1
店主は、 ぼくに
し店を離れなければならないという
ソ連 国 歌 を 復 活 させ ると共に、 君 主 制に親 などは数百部単位で出版され、 目に
その店 主のいる古 本 屋 も、ひそひ
でど、どどどう、ですか﹂ と言った。
信 仰 を 守って く れ る、
というわけだ。 したときに購入しないと、 次来た時
分後に来てくれと
その 古 本 屋 の 初 老 の 店 主 は 吃 音
再 び廊 下 を 通って外に出
︵きつおん︶だった。
近 感 を 示 す 作 家 ソル
半分だけ開いた観音開きの入り口の
ジェニ ー ツィンと 交 流
先に本が雑然と積み重なっている。
遺骨鑑定委員会
そと隠れるよ うにあった。 地 下 鉄の
年発足させた
た。 脇には小さな事務室があり、 書
かれたくしゃくしゃの紙が貼られてい
言った。
アルバート 駅を出てから新 アルバー
統 領が
なかった。エリツィン大 を改葬した。
にはもうない。 そのまま永 遠に手に
ら 大 粒の雨 が 降ってきてい
ると、 太 陽の出ている空 か
値 段が記されていない本が棚に紛
ト通りを渡り、小径を入った先に ﹁本﹂
年 代に新 聞 スキー修 道 院に亡 命 先
モスクワにくる前、この街には古
山吹色の看板が出ている。
と誰の目にもつかないよ うな汚れた
た。 彼はたばこに火をつけて、
ニコ ライ 2 世一家 の し、モスクワのダニロフ
本屋があまりないと言われていたが、
﹁あ、雨で、です、ね﹂と言っ
テーマは 今ではロシア国 内の古 本の情 報が
実はそこかしこの日 陰に彼 らは潜ん
は外から持ち込んだ雪が、 橙︵だい
建 物の下 を 通って 中 庭 に入 ると、 は、 空 気の循 環を拒んでいた。 冬に
じを得て、 店のたたずまいと自 分と
4
集まったサイトがあり、 状 況は劇 的
その一角に数段下がった小さな青い入
た。
入らないこともしばしばあった。
に良 くなっている。 だから、 時 間 を
下 室。 場 所を知っていなければ到 底
でいる。 アパートの2 階、 小さな地
り口がある。 ﹁ドアが開かない場合は、 だい︶色にふるえる暖房に溶かされ床
めに持っていくと、彼は﹁あ、こ、こ ちょっと、待っていてく、くください﹂
れですね。た、確かめますので、ちょ、
手に入れられる。 それでも発行部数
かけて探せばどんな本でもどうにか
ここに電話してください﹂と番号が書
れ込んでいて、いくらか確かめるた
といい電 話 をかけた。 しばらく待っ
不 意に個 人 的に知り合ったような感
た ど り 着 け ないが、一度 訪 れると、
紙 上から消 えることが で死んだ白 軍 将 校たち
てそのまま受話器を置いてから﹁ここ
自 体が限 られた本は、インターネッ
の距離感を見失う。
類の束が積み重なっている。
東 入 間︵モ ︻左
ことを 提 案できる。 平 和 条 約 締 結
あまり報われないのが常だが、 次の
本人研究者︶︼
スクワ在 住の日
元在日本ロシア連邦大使
問題の解決の選択肢として提示され
の日ソ共同宣言の第9 条 ﹁領土につ
うことだ。その中には、1956年
た事柄を見直してみてはどうかとい
いて﹂を検討することも含まれる。
この共 同 宣 言 は、 二 国 関 係の要
大統領の任期は6年ある。一方、安
をな す 主 要 な 法 的 文 書 だ。 現 時 点
が終わったことも重 要 だ。 プーチン
定し、﹁毎年首相が交替する﹂ 時期
アレクサンドル・パノフ
しばらくして戻ると、 店主は僕が
9
と堆積した空気を黒く濁していく。
た。軒下で雨がやむのを待っ
2 期目の200 5 年
ロシアの偉人の一人に
トでも見つからず、 結 局は足で探 す
3
てい た ら、 店 主 も 出 て き
遺骨鑑定委員会は5年 れは、よ、450㍔で、どどうですか﹂
年の改 葬で一応 チン体制は﹁ロシアの偉
2
﹁き、きみのために特別にとってお、
しかない。 数年前までロシアの本は﹁迷ったら
厳しくも 悲観するな
8
間活動した。 遺骨の鑑 と言った。
争は オンを作ろうとした。 祭 られるのは 中 世ロ 独裁者スターリン、レー
シアの英雄ネフスキー、
ガ ー リンら。 ニコライ
ニ ン、 宇 宙 飛 行 士 ガ %だった。 ニコライは否 定 的 評
平和条約 露日次官級交渉
8 平 方 ㍍ ほ どの密 閉 さ れた 空 間
定と真贋︵しんがん︶論 以降、強固になったプー
90
終 わったが、 鑑 定 結 果 大さを体現した﹂パンテ
アレクサンドル・モロゾフ
けとみなされた。 ニコライは 何 とな く ループが発 見した遺 骨 メ ランコリックで 政 治 に関しては、 教 会と歴
聖なる権力の象徴
的に弱い人 物というイ 史 家の一部 が疑 問 を 投 メージが定着していた。 げかけた。
聖人への道 スター リンと 当 時の軍
しかし、 年代後半、 人たちの﹁偉業﹂を語る
2世もその一人だ。
テ レビはニコ ライには 番 組 をのべつ幕 な しに 価 が一番 少 ない。 しか
ナタリア・ミハイレンコ
あ ま り 焦 点 を 当 て ず、 放 映 した。ロシア史 は も独 裁 者にみなされて 再び﹁強い権力史﹂に替 いない。
は地味に 1 9 9 4 年、﹁ 真 の ﹁400年﹂
えられた。
何 に よ ら ず 交 渉 とい う も のはユ
倍氏は3年間は首相を務められる。
る﹁魔法の形式﹂は持っていない。平
では、 誰 も 平 和 条 約 問 題 を 解 決 す
条約締結により関心があるか、 従っ
出すことができるものだ。
ニークで意外でさえある解決を生み
こ う し た 両 国 の立 場 を 比 較 す る
議 論を好むが、こういうものに引っ
て﹁譲歩せざるを得ないか﹂といった
今 年 4 月、 プー チン大 統 領 と 安
達するのは非現実的だと結論せざる
倍 首 相はモスクワでの首 脳 会 談で、 と、 双 方に受 け 入 れ 可 能 な 合 意に
プー チン大 統 領 は 愛 国 者 と 考 える 歴 史 矛盾のない﹂ロシア史 的 人 物﹂ を尋ねたアン ﹁
現在に至るまで露日間で平和条約が
人 に 入 ら その新ロシア 史 でニコ
ウラジーミル・ ビソツキーやアイ
いる。 ただ、ロシアでは、 尊 敬さ
い。 西 側ではたくさん撮影されて
伝 記 映 画があって悪いわけはな
られた。
ロシア版を創るという課 題が掲 げ
があり、 制 作 側にはハリウッドの
デューサーや監督に対する影響力
を 考 慮 す れ ば、 政 権 側 には プロ
交 渉の参 加 者に助 言を与 えても、 を上げられるように願ってやまない。
忍耐と粘り強さをもって、 良い成果
和条約締結交渉の参加者たちには、
世は上位
ケー トで、 ニコライ2 を 書 け と 呼 び か け る。
張られてはならない。
を得ない。
だから、 交 渉の見 通しについて悲
観する必要はない。日本の内政が安
スホッケー 選 手ワレリー・ハルラ
日ソ共同宣言をたたき台に
締結されていないのは異常な状況で
交渉に当たってのポイント だが、それほど失望するには当た らない。 その理 由は第一に、これだ
ロシア映 画のニュー ト レンドは
日にはモスクワで外務次官
交渉は長期にわたる緊張したものと
級 交 渉の第1 ラウンドが行われる。 け複雑で鋭い対立をはらんだ問題の
往 年 の著 名 人 た ち を 主 人 公 に し
8月
和条約を結ぶことで合意した。
な形で最終的に問題を解決し﹂、 平
あると認め、﹁両 国に受け入れ可 能
ず、 彼を愛 国 者とした ライ2 世の評 価は定か でない。 今 年 は ロマ ノ フ 朝
のは5%だけだった。
4 0 0 年 で あ る のに
報道によると、 領土問題での双方の
た 伝 記 物 だ。 例 えば、 歌 う 詩 人
この状 況は2 0 1 3 地 味 に 祝 わ れ た。 代 年に一変 する。 世 論 調 わ り に ク レ ム リ ン は
第二に、交渉は専ら非公開の形で
なることを前提にすべきだからだ。 行うべきだということだ。 両国の世
映画評論家
好転した評価
査 機 関 ﹁レバダ・ セン 第 1 次 世 界 大 戦 開 始
立場は根本的に異なっている。
論をいたずらに刺激することを防ぐ
ロシア側は、 クリル諸 島で共 同の
タ ー﹂ によ る と、エリ ︵ 1 9 1 4 年 ︶ か ら
経済活動を確立する可能性について
ツィンとゴルバチョフへ 100 年を大々的に祝 と 3 %。一方、スター 的テーマは﹁啓蒙︵けい
の 肯 定 的 評 価 は 4 % うことを決めた。 軍 事
モフについての映画に続いて﹃ユー
公開された。
リー・ガガーリン。 初の飛行﹄も
のがその理由。 第 三に、 両 国 関 係 を あ ら ゆる 分
話し合うことを提案したが、日本側
野で積極的かつ大規模に発展させて
は 不 同 意 を 表 明 し、 自 らの提 案 を 繰り返した。つまり、﹁歯舞、色丹、
%、 ブレジネフ もう︶された権威主義﹂ リン
国後、択捉の4島は日本に帰属する
れる有名人と国との関係という別
の側面が見え隠れしている。
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政治学者
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10
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アンドレイ・アルハンゲリスキー
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ほとん どのロシア映 画が国 家の
「ロシア新聞」 の Russia Beyond the Headlines 部局はロシアを紹介する特殊折 り込みやセクションを編集し、下記の新聞で配布しています: 毎日新聞(日本) 、Global Times (中国) 、 サウス・チャイナ・モーニング・ポス ト(中国・香港) 、中央日報(韓国) 、シドニー・モーニング・ヘラルド(オーストラリ ア) 、The Age(オーストラリア) 、エコノミック・タイムス(インド) 、NAVBHARAT TIMES(インド) 、ザ・ワシントン・ポスト(アメリカ) 、ザ・ニューヨーク・タイムス(ア メリカ) 、ウォール・ストリート・ジャーナル(米国) 、デイリー・テレグラフ(イギリス) 、 ラナシオン(アルゼンチン) 、フォリャ・ジ・サンパウロ(ブラジル) 、エル・オブザ バドール(ウルグアイ) 、フィガロ(フランス) 、南ドイツ新聞(ドイツ) 、エル・パ イス(スペイン) 、ラ・レプッブリカ(イタリア) 、ルソワール(ベルギー) 、ドゥーマ(ブ ルガリア) 、ジオポリティカ(セルビア) 、ポリティカ(セルビア) 、ELEUTHEROS TYPOS(ギリシャ)、ノワ・マケドニア(マケドニア) 、GulfNews、Al Khaleej(UAE)
財政支援のもとで制作されたこと
のです。必ずしも「ロシアNOW」 または「ロシア新聞」の見解と同一ではありません。
第四に、一部の政治家や政治学者
本紙に掲載された「オピニオン」面の意見や読者からの投書、ゲスト・コラム、
いくための努力が極めて重要だ。
漫画による風刺などは、様々な意見、主張を幅広くご紹介するために選ばれたも
との原則的立場から、妥協可能なの
メールのあて先は jp@rbth.ru です。 お気軽に日本語でメールしてください。
%、 ニ コ ラ イ 2 世 にうまくはまるのだ。
パーベル・タラセンコ (アガニョーク誌)
は、4島の返還の条件と時期のみで
編集スタッフ
10
ネット大手への非難
もっと読む www.roshianow.jp/43971
20
00
1 9 9 6 年 以 降のエ 亡 命 正 教 会 は 1 9 8 1 年にニコライ リツィン政権の第2期、
米国の中央情報局(CIA)元職員、エドワード・ スノーデン氏は米国家安全保障局(NSA)の機 密文書を持ち出し、極秘の情報収集活動を告発 した。機密漏洩などで訴追された同氏は6月 23 日以来、モスクワのシェレメチェボ空港内にいた が、 8月1日にロシアへの一時亡命が認められた。
93
98
スノーデン氏はあらゆる に突き出す権限をもつ一種 人にとってお荷物となり、誰 の警察官だ。どんな手段に にとっても必要でないことに 訴えても、罰すべきものは必 なった(米司法省を除いては) 。ず罰するという考え方は、こ オバマ大統領も法の神聖 の 150 年間変わっていなかっ な理念、すなわち米国の世 たことになる。 界観の基礎を裏切った、とい ロシア政府はスノーデン氏 う深刻な問題も生じた。 を歓迎していないにもかかわ オバマ大統領の心理はク らず、倫理的にも、政治的に エンティン・タランティーノ監 も、法的にも強制送還でき 督の西部劇「ジャンゴ 繋が ないことは明らかだ。それで れざる者」に見出される。 も露米関係はこの事件で終わ 主人公はお尋ね者を生け るわけではないし、事件もい 捕りにするか殺すかして法廷 ずれ過去のものとなるだろう。
90
2 世 を 列 聖 し、ロシア リベラル派は揺 らぎ始 でも彼を聖 人として崇 め、 社会の深刻な分裂 をもたらした。 西 側に
スノーデン氏のロシア入国
30
は、 ど ち らの国 が 国 境 画 定 と 平 和
お手紙をお寄せ下さい
ある﹂とした。
情報提供:全ロシア世論調査センター、レバダ・センター
13
ロマノフ朝400年
君主国と共和国という二つの選択肢が あった場合、君主国を選ぶロシア人は 11% だった。28% のロシア人は君主国が ロシアに誕生することに賛成か、反対では ない、という答えだった。
ロシア映画の新傾向
アレクサンドル・ゴルベンコ Aleksander Gorbenko パーベル・ネゴイツァ Pavel Negoitsa ウラジスラフ・フローニン Vladislav Fronin
編集委員会長 社長 編集長
敬する機運が生じる。
定まらない評価 歓迎しないが送還できず フョードル・ルキヤノフ(ロシア新聞)
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ロシアの 論調
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報機関に情報収集の方法を やめさせることはできまい。 暴露のおかげで、この分 野の大手企業を非難する口 実ができた。これらの企業は 米情報機関に対して、事実上 情報垂れ流しの状態で、米 国の覇権を強化している。 ネット大手への非難はネッ トのローカル化と世界に張り めぐらされた「蜘蛛の糸」の各 国版を作るよう促すだろう。 スノーデン氏の「功績」は国 家の情報機関の秘密活動へ の興味を呼び起こしたことだ ろう。ただし、専門家らは深 刻な影響は予期していない。 別の暴露者、イスラエルの 物理学者のモルデカイ・バヌ ヌ氏を思い出すだけで十分 だ。彼はイスラエルの核兵器 保有をすっぱ抜いたが、自国 の政策に影響を及ぼすことは できなかった。今回も米国情
伝記物が続々
19
「君主国ロシア」どう思う
13
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ロシア NOW 2013年(平成25年)8月8日(木)
5 オピニオン
ロシア史におけるニコライ2世
世論基金が公表した す。ロシア 連 邦 出 版マ す る 興 味 を 失っている 的 で は ないものの、 出 子 供たちに新 刊の良 書 デ ー タと 同 じ 内 容 は、 スコミ 局の報 告 書に挙 のか、 それとも、 現 象 版の量は右 肩 下 がりに を 紹 介 しな が らロシア
げられています﹂
は文 字 情 報の主な媒 体
ではなくなった。 現在、
多 くの 人 がコンピュー
かつて、 ソ連 の 人 々 ターやスマートフォンや
ソ連時代の本の虫たち
には最 もよく本を読む タブレット 端 末の画 面
この ク ラ ブ 型 バスの
他の調 査でも確 認され げ られている調 査 会 社 の本 質 は 別のところに 減 りつつ あ る。 ロシ ア のへき地をめぐる。 ている。ロシア 連 邦 出 ﹁ T N Sロシア﹂ に よ あるのか。この判 断 を 図 書 局 の 統 計 に よ れ ば、 20 12 年、 国内 モットーは、﹁人々が本
歳 以 上のロシ 下すのは結構難しい。
国 民 というイメー ジが で本を読み、 電 子 書 籍
版マスコミ局 定 期 刊 行 れば、 物・図書出版・印刷部 ア 国 民 がメ ディアに接
あった。
さ ら に、 ロシアで は
抱強く予約購読の順番 持っていて も 自 慢 には
連の﹁本の虫﹂たちは辛 代 の よ う に 希 少 本 を
つも 品 不 足 だった。 ソ ルでな くな り、 ソ連 時
はしゃれた 服 と 同 様い 本 がステー タスシンボ
変 な 貴 重 品 だった。 本
ソ連 時 代は書 物が大 オブックを聴いている。
を使い、車中でオーディ
は、 2 0 1 1 年と比べ のではな く、 面 白い良 届ける﹂というものだ。
書を自 ら選んで読 者に
で出 版 された 本の部 数 を 買いに来 るのを 待つ
日 約9 分︶にすぎませ 査 によ れ ば、 逆 に、ロ 工夫をこらす書店
体のわずか1・8%︵1 ンターの今 年 3 月の調
全ロシア世 論 調 査 セ て %減少した。
長 のユー リイ・ プリャ する時間は1日約8 時 冊数は増える 間。 そのう ち読 書は全 氏に聞いた。
傾 向 を 見てとっていま
﹁ 私 た ち も そ う し た ん﹂。 シア国 民は本をよく読 総 じ て、 ロシ ア、 と オンライン販売増加 ロシア人 は 読 書に対 むようになっているとい り わ けモス クワの書 店 また、 読 者に本を届 う。 3 カ月 間に読む本 は 状 況の変 化に柔 軟に ける オンライン販 売の
読書時間1日9分
16
読書環境が多様化 ソ連時代にロシア人といえば﹁読書家﹂のイメージが強かった。 世紀のロシア人たちはどうなのか。ロシアの調査機関 ﹁世論 基金﹂が気がかりな統計を公表した。それによれば、回答者の %は1年間に1冊の本も読んでいないと答えたという。1年 前には﹁読書に興味がない﹂という人は %だった。この現象の 背 景を掘り下 げてみると、 紙 媒 体の不 人 気に加え、 ネット書 籍販売の伸長などがある。ただ、一概に読書離れとは言い切れ ない現在の姿が浮かび上がってくる。 ︻アリーサ・オルロワ︼
㌔ ㌘の ならない。
紙の本 を 読 む 人の割 合 は 減ってい
電 子 書 籍 市 場 の発 展 によって、
うだろう。
少なくとも従 来の質のままではそ
あるという 見 方 を する 人 もいる。
魅力ある図書館に モスクワ が改革に乗り出す モスクワの図 書 館 改 革が第 1 段 の図 書 館が今 秋までに最 新 式 情 報
再 編 しているが、 減ってはいない。
﹁そうでもない。 出 版 社は変 化、
ろうか。
る。 紙の本などもはや不 要なのだ ブラインドが外され、 景 観 も変わ
電子版としては発行されない 学術
時から ば、 若年・中年層も利用できるよ うになる。 改 革 案 作 成 者の一人、 モスクワ 図 書 館 センターのボリス・ クプリ
年 前 は 誰 もが 隣 人の顔 と 名 ﹁ 最 大 限の開 放 性 を 目 指 してい
入り口や階段で会ってもあいさつし
を交わしていた。いまはアパートの
その癒やしの場になるの
ざりしているんだ﹂
がモス クワ 市 内 に4 8 0
ない。 人 々 は 孤 独 に う ん でも返却できる。書 籍販売網は大
特 別な端 末を使って図 書 館の本を
手 出 版 社の利 益にばかり寄 与して
館。 こ れ が 副
もある地 域 図 書
図書館が瀕死︵ひんし︶の状態に
ンクマン︼
︻ ヤ ン・ シ ェ
で あ る。
所 長の持 論
いて、 商 業 文 学 しか紹 介 していな
紙の本はなくならず
を読者に提案 できる﹂
い。一方、 図 書 館は本 当の選 択 肢
借り、最寄りの店や地下鉄駅でいつ
る。 ほ と ん どの蔵 書 を 貸 し 出 す。
前を知っていて、いつも互いに言葉
﹁
孤独にうんざりしている
館以外にないのではないか﹂
について話 し合 える場 所は、 図 書
﹁重 要 な 情 報 を 知 り、 緊 要 な 問 題
ク プリ ヤノフ副 所 長 は 考 える。
書などのジャンルもある﹂
展 示 会 な どのゾーンが設 け られて
童生徒や年金生活者だ。
図書館の主な利用者は現在、 児
いる。
る。館内は 読書、休息、会議、講義、
この改革によって重苦しい窓柵や
装開館する。
センター、 地 域の公 民 館として新
階を終 えよ うとしている。 5 カ所
%
全ロシア世 論 調 査 セ
冊 だったの 市ではた だ 本 を 売ると
本を購 入できる引 換 券 ン タ ー に よ れ ば、 現
古 紙 と 交 換 に デュマの
を 待った り、
平 均 3・ 年 には 4・ いう ところは ま す ま す ライ ン業 者 ﹁ オ ゾン・
ロシア 最 大 手のオン
の冊 数が2 0 1 1 年に 対 応 してはいる。 大 都 利用も増えている。 に 対 して
変 わったのは1 9 9 0 ている 人 はロシア 国 民
%。このう ち
年 間で紙の本 健在かもしれない。
以 上である。 本の虫は
の人の蔵 書は1 0 0 冊
の
を 受 け 取った。 状 況 が 在、 個 人の蔵 書 を 持っ
少なくなった。
この
8割が個人蔵書持つ
年代からだ。
ルー﹂ 社の書 籍 部 門 責
冊に増えている。 ロシアで は 今 のとこ も 独 自のコンセ プト が OWにこう語った。 書店は、クラブ、カフェ、 は 増 え 続 け てい ま す。
あり常連の顧客がいる。 ﹁本のオンライン販売
%、 冊 数 が
クワや サ ンクト ペテル
という 児 童 バス。 夏 に 顧客獲得競争が繰り広
たとえば、 ﹁バンパー﹂ ブルクではなく地方で、
まで現れた。
83
駅からも返却できる % それぞれ増 加しま
終 夜 営 業の店、 さまざ 上 額 が
レ ク チャ ー 室 と 化 し、 2012 年、 弊社の売 まな 専 門 書の店、 さら
30
には、移動プロジェクト した。 主 な 伸 びはモス
27
ヨシフ・ブロツ 語で著述活動をした。 キイという名前を 本書は、現代ロシア詩の巨匠ブ 聞いて、「あぁ , あ ロツキイを多角的に論じた日本で初 の人」と思う日本 めての本格的な研究書である。 人がどれだけいるだろうか。ブロツ ロシア語の超絶的な韻律技法と深 キイは詩人で、ノーベル文学賞を 遠な思想に踏み込みながら、その 受賞した5人のロシア人の一人だ。 作品の全体像をわかりやすい日本語 独ソ戦の傷跡も生々しいレニング で描出している。高度な分析力を豊 ラード(現サンクトペテルブルク)で かな言語表現で提示しているところ 生まれ育ち、徒食者として流刑に処 が本書の魅力である。 せられるなどソ連政府から迫害を受 (電気通信大学准教授・三浦清美) けながらも、独自の作風を築きあげ もっと読む た。32 歳でアメリカにわたり、55 www.roshianow.jp/arts/books 歳で没するまでロシア語と見事な英
54
www.roshianow.jp/ 42843
ろ、 世界と同様、 破局 るいは ネット ワ ー クに メ ンコ 氏 は、ロシア N
=ドミートリー・ツィレンシコフ撮影
刊行:2013 年 3 月 竹内恵子 著 成文社
32
本離れとは言い切れず
紙の本より電子書籍
20
12
現 在 は、 どの書 店 あ 任 者 アレクセイ・ クズ
1394
インターネット、デジタル化の普 及で、書籍や読書習慣をめぐる環境 が変化してきている。写真はサンク トペテルブルク市に新装開店した書 店。電子書籍に顧客が奪われている
『廃墟のテクスト:亡命詩人ヨシフ・ブロツキイと現代』
20
時までの開 館 時 間が延 長されれ
11
ノフ副所長は次のように語った。
20
17
23
話題の本
21
44
文化 4 2013年(平成25年)8月8日(木)
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2 0 0 0 年 代 半 ばまで、ロシアで
ビジネス環境上向く
ビジネスを 展 開できるのは多 国 籍 企
るには、 有 限 責 任 会 社 費 者とは彼 らの言 葉で る﹂ とみな 異口同 音に スさん︵
︶は警 告 す ンド レスさんは 断 言 し
ポ ール、 香 港、 ニュー のパー ト ナーと起 業 す は ど うしよ うない。 消 ろ う か。﹁ た く さ ん あ ギ リシャ人 のアンド レ を あ き ら めていないア ジーランドだ。
﹁ロ シ ア 人 は 確 か に
話さなくては﹂と、リト 答えた。 官僚主義と汚 る。 彼 は2 年 前にモス た。
アニア出 身のイオ ラン 職による 絶 えざるリス クワに八 百 屋 を 開いた
ロシアで 特 に改 善 さ の登録が必要です﹂ れ たのは、 事 業 登 録、
業 だけだと思われた。 汚 職のひどさ と﹁ロシア人気質﹂についてのうわさが
ロシアで ビ ジネ ス を
て店 じ まいし たので損 今、この国で成 功 する
﹁ そ の 地 方 と 業 界 の 失をあまり出さずに済 には、 サ ー ビスの質 と
も﹁調べ﹂ に来る⋮⋮。
ロシアでの 起 業 に 要 母 国 とロシアで旅 行 社 消防局や衛生局が何度 まった。 機 敏に対 応 し に関 心をもっていま す。
るのに丸 1 日 か かった の 種 類 に よ って 異 な
には、 税 務 庁に登 録 す す る 初 期 費 用 は 事 業 を経営している。
どの手続きだ。5 年前
タさんは言 う。 彼 女は ク。 住 居 を 借 り る と、 が、 す ぐにつぶ れてし 投 資とビジネスの発 展
年 人 女 性 ミ シェル・ ボロ する余地がある﹂
﹁私がロシアで起業し からロシア在住のモロッ グナニさんも似 たよ う 合︶ と違って、誰も世界 スバイさん。﹁私の業界 女 はロシア人 女 性 とモ
たのは、 EU︵欧 州 連 コの 建 築 家 マル ア ン・ な意見だ。1 年前、 彼 行列待ちは1時間
ブティック、 モロッコ人の建 築 家 もい
スのパン屋や日本料理屋、イタリアの
ワとサンクトペテルブルクではフラン システムもまあまあ だ 成 長に無 限の可 能 性を パの 市 場 は 飽 和 状 態。 環 境の改 善に取り組ん られ、﹁行列待ち﹂は1 195 万円︶の手持ち
にしていないし、 課 税 シアは ビ ジネス面での クを開いた。﹁ヨーロッ な どによ り、 ビ ジネス 勤務予定が正確に定め ユーロ︵ 約 1 3 0 万 ∼
経済危機の悪影響を口 は 競 争 が 厳 しいが、ロ スクワに小さなブティッ は法改正や行政簡素化 子化され、 関係職員の 1 万 ∼ 1 万 5 0 0 0
マル アンさ ん はこ う 出 す のは 冒 険 だ ﹂。 こ
また、 あ らゆるビジ
入 り する 多くの書 類を集めねば 語 は 必 須 だ。﹁ 他 の 国 20
在 のトップ3 はシンガ も 高 くなる。ロシア人 国の言 葉を知 らなくて
計 画 を 示 している。 現 ならないから。 法 人 税 でも そ う だ け ど、この
でにトップ
大統領は2020 年ま 責 任 会 社 だと、 もっと ネスマンにとってロシア
に少 し 上 昇。 プー チン のは、 他の形 態の有 限
120 位から112位 事 業 主として登 録した ろえる。
ス環 境 ランキングでは 説 明 す る。﹁ 私 が 個 人 う企 業 家たちは口をそ
在 露 5 年のイタリア らゆるアイデアを 実 現 界 銀 行 に よ る ビ ジ ネ
金なしに新 事 業に乗り
る。最近の外国人の起業について報告 税は6%﹂
から。 個人企業の法人 秘めている﹂
ロシアでは ほ と ん ど あ できた。 その結 果、 世 時間以内で済む。
する。 ︻ビトリド・ヤンチス︼
交通、輸送、通信約5%と続く。 ロシアではイノベーション、ハイ
各自治体の試算では、 個人事業
❶登録の手続き 個人事業者になるためには、居住してい る自治体の税務当局に書類を提出する。手 続きが終わった後で、手数料 800㍔(約 2400 円)を払う。証明書を受領し、銀行口 座を開設して終わりだ。有限責任会社の登 録には、1 万㍔(約 3 万円)以上の資本金と 定款が必要だ。個人事業主の登録は、一人 だけのためのものなので、パートナーとビ ジネスを始めるためには有限責任会社を登 録しなければならない。
❸課税 個人事業主の法人税は 6%。有限責任会 社は収入が 4500 万㍔(約 1 億 3500 万円) 以下の場合のみ、優遇税制の対象となり、 6000 万㍔(約 1 億 8000 万円) 以上の場合は、 全額支払わねばならない。有限責任会社は 収入が 6000 万㍔を超えると、優遇税制の 対象から外される。外国人が個人事業主と して登録できるのは、就労許可を得た後で、 ロシア国内で働く権利を有していなければ ならない。
関係機関のホームページ
イ ン タ ビ ュ ー
信 することは お 役に立つので
実績がありますから食材の売
テルや飲 食 店に送 客してきた
り 込 みな どではこれまでの太 ロシアビジネスは長く関 っている専門コンサルタ わ
り、 単 なるコンサルタントで
国 際 会 議や視 察 旅 行のセッ ト は 私 た ちの 専 門 分 野 で あ
いパイプが生かせます。
ントの多い世界ですが、どう
なく人の流 れをつくり出せま
はないかと思います。
て、 3つのエリアの情 報 を 発
海外進出お手伝い
J TB グループが7 月、日
会員制の ﹁ラピタ﹂ 設立 本企業の国外進出をサポート
やって違いを出しますか。
国のJ TB各支店と連携でき
ションという 点でも、 日 本 全
する事業﹁ラピタ﹂を始めた。
するJ T Bコーポレートセー
とロシアだ。この事 業 を 担 当
専 門コンサルタントの方 々 実 態として個 人で活 動され は
ポートが読めたり、 専 門のア
員になると各 地のビジネスリ
中 小 企 業 の海 外 進 出 を 支 援 する会 員 制サービスで、 会
どんなサービスですか。
情報収集から営業、商談、法
私 た ち は 多 くの 専 門 家 と ー ム を 作って 対 応 し ま す。 チ
実態もあったと思います。
ても得 意・ 不 得 意が出てくる
に加 え、 案 件によってど うし
れる手 間や時 間が限 られるの
しょうか。 顧 客 企 業にかけら
この間に担 当 者が何 回も日 露 間 を 往 復 し、ロシアのビジ
で 展 示 商 談 会 を 開いてお り、
20 11 年から毎年モスクワ
も し れ ま せ ん が、 私 た ち は
J T B と 名 が 付 くと 旅 行 会 社 の 印 象 が 強 す ぎ るのか
るのが強みになると思います。
す。会員企業とのコミュニケー 事 業 部 長にサービスの特 徴な
ルス︵東京都新宿区︶の町田忠
ている 方 が 多いのでは ないで
ントが受けられたりします。
務 相 談 までワンストップでの
ネス界との人 脈を拡 大してい 旅行会社グループとしての みはありますか。 強
ブに変わってきたと思います。
扱われ、人々の見方もポジティ
が、 経済面が肯定的に大きく
と を 取 り 上 げ ま せ んでし た
今 までマスコミは北 方 領 土 問 題 以 外にあ まりロシアのこ
問前後でした。
の安 倍 晋 三 首 相のモスクワ訪
最も変化を感じたのは、 今春
2 国 間の雰 囲 気 はここ1、 年で大 き く 変 わ り ま した。 2
日露のビジネス交流は盛り がっていくでしょうか。 上
です。
本 酒の試 飲 会を開いたところ
レストラン関 係 者を集めて日
ま す。 7 月にも、モスクワで
今秋で3回目になります。 セミナーや現地視察も会員 優遇価格で参加できます。7
サービス提供が特徴です。
モスクワをはじめ各 地のホ
コンテンツはこれか ら 充 実 せますが、 まずはまもなく さ らですね。 会費は年間5 万円
発 刊 する会 員 限 定メルマガか
て会員を募り始めました。
ド バイザーによるコンサルタ
月1日に公式サイトを公開し
どを聞いた。︻吉村慎司︼
対 象は東 南 アジア、 ブラジル
旅 行 会 社の 蓄 積 生か す
ここ3 ∼ 4 年ロシア が、 今では手 続きが電 る。﹁ い ず れ に せ よ、 妨 げている ものは 何 だ 特性を知るべきだ﹂と、 んだという。 事 業 再 起 効率が必須条件です﹂
は約 6 割で漸 減 傾 向にある。モスク
る。 旧ソ連C I S 諸 国 出 身 者の割 合
の個 人 事 業 主 がロシアで活 動 してい
年5 月、 約2万5000 人の外国人
非営利団体の許認可な ロシア語は必須 こう 語るのは、
32
絶 えなかった。 税 務 庁によれば、 今
可能性秘めた国 04
外国人が起業する
% 超、 加工 業︵ 繊 維 業、
%、 農 業、 ホテル業、 飲 食 店、
金属製品、電気製品製造など︶約
建 設が
分の1を占めた。次いで、不動産、
あのロシアで
事業を4分類 ミクロと小中大 ロシアはサー ビス産 業 が発 展 す る見 込みは十 分 ある。ロシアの零 テク分野の企業家が不足している。 細 ビジネスはほとん どこの分 野に ﹁ 小 売 り、 物 流、 アフター サ ー ビ 業ロシア﹂ のレイリフ理事は言う。
集 中していて、 比 較 的 少ない資 本 スなどでも企業家が必要だ﹂と﹁実 で大きな収益を上げられる。 ロシアのビジネスはミクロ、小規 類される。利益が6000万㍔︵約 主の収 益はモスクワがほぼあらゆ
模・中規模・大規模の4 通りに分 収益に地域格差 1 億 8 0 0 0 万 円、 1 ㍔ = 約 3 平方㍍以下
円︶以下、または従業員が 人以 る業界で他の地域をしのいでいる。 例えば、店舗面積
プ ラス 消 費 税。 当 面、 会 員 300社をめざします。 ロシアと東南アジア、ブラ ルでは関心を持つ人たちも ジ 異なるのではありませんか。 中小企業向けに実施したア ケー トの結 果にも表 れてい ン 向け始めた企業の多くは、 特
たのですが、 国 外 市 場に目を 定の一国に絞った 情 報 収 集 を したいとは考えていません。
JTB コーポレートセールス 事業部長
下の企 業 がミ クロビジネスに、 利 益が4億㍔︵約 億円︶以下または の飲 食 店の場 合、モスクワでは年 だが、 ヤマロ・ ネ ネツ自 治 管 区で
従業員が100人以下が小規模ビ 収 約3 0 0 万 ㍔︵約90 0 万 円︶ ジネスとなる。 、ベル 国は零細ビジネス︵ミクロと小規 155万㍔︵約465万円︶ 模︶に優遇税制などの保護政策を ゴロド州5万㍔︵約 万円︶にすぎ とっている。 しかし、 銀 行 か ら 融 ない。 資を受け、 官僚主義や汚職などに 求人サイト﹁ザネットワーク﹂は
対 応 するのは、 国 家と結 びついて 稼ぐためロシアを目指す いる 大 企 業に比べるとはるかに難 カ国で2009∼2010
ンケートを分 析して、こう指 摘し
%で、 欧米、 中国 年に実施した6 万6000 件のア
しい。ロシアで零 細 ビジネス従 事 世界 者は人口の約 よりずっと少ない。
た。﹁外 国 人 た ちは 何 よ りも 稼 ぐ
ラピタはこれから海 外に出 うという段 階の中 小 企 業を よ
弊 社で扱 うロシアのビジネ 案 件も増えています。 日 露 ス
のつながりは今 後 ますます発
展が期待できると思います。
「モスクワは全然怖い街じゃありませ ん。治安の面でも私は安心しています。 ロシア人は無愛想で、閉鎖的な感じがし ますが、最初のうちだけです。親しくな ると、その変貌ぶりに驚かされます。も し、ロシア人が『お前は友達だ』と言って くれれば、いつでもオープンマインドで、 援助を惜しみません。もちろん、不愉快 なこともあります。それでも今のところ は、ロシアで働く方がずっと面白いです よ」
た めにロシアを 訪 れ、 かなりの成
オランダ人、ジャーナリスト、作家
町田忠氏
「ロシアのビジネスマンにとっては、 高級時計をして高級車に乗るといった見 てくれが大事なんです。その半面、時間 にはルーズですね。イタリアでは、地位 が高くなるほど、時間に正確になります が、ロシアでは逆です。ある時、私は ビル所有者にリフォームを頼まれました が、彼がいつも遅刻を繰り返すので断り ました。形式主義についていえば、顧 客はどんなプロジェクトでも 500 は下ら ない署名を集めねばなりません」
中小企業を支援 オラフ・クヌス氏
成長が見込まれながら、 まだ
イタリア系アメリカ人、設計事務所 「TGarbo」の所有者
零細ビジネスの内訳
個人企業の違い
3
有限責任会社と
サポートする事業です。 経済
ファブリオ・マルケトリ氏
果 を 上 げている﹂。 リス クよ り 将
役立つ情報
比較的情報の少ない地域とし
感想
50
15
露連邦統計局によれば、 昨年度
情報交換のサイト www.escapeartist.com
30
来 性を買 う外 国 人は少なくないの
ロシア連邦関税庁 www.customs.ru
35
に零 細 ビジネスの分 野で最 多は小
ロシア商工会議所 www.tpprf.ru
15
法律が定義する ロシアで零細ビ 収益面からみた「零 ジネスの従事者の 細ビジネス」の利益 割合。小売業、自 の上限。 動車修理が多い。
︻マリア・シュピゲリ︼
ロシア連邦税務庁 www.nalog.ru
15
10% 4億㍔
112 位 約6割
外国人の事業主2万 5000 人 ロシア貿易センター www.rusimpex.ru
12
10
約 2 万 5000 人 世界銀行による の外国人の個人事 ビジネス環境のラ 業 主 のうち CIS 出 ンキングで、 ロシ 身者の割合。 アは 112 位。
だ。
❷責任 何らかの違反を犯したり、クレームがあっ たりした場合、個人事業主は自分の資産だ けで対応しなければならない。有限責任会 社は資本に含まれている一定の割合しか責 任の対象にならない。
汚職リスクあるが 数字あれこれ
売業と自動車修理業で全体の約3
GettyImages 撮影
モスクワ市税務局 www.r77.nalog.ru
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ロシア NOW
3 ビジネス 2013年(平成25年)8月8日(木)
家電・車でロシアに浸透
韓国ブランドが存在感 近年ロシアの店頭を席巻した韓国ブランド。 ﹁今 やサムスン、 L Gの家 電 製 品 や 電 子 機 器
モスクワの街には韓国 ブランドの広告がどこ で も 見 ら れ る。 写 真 下 = Lor iLeg ion M e dia 撮影
投資会社AFore
が中 間 価 格 帯またはそ ンもスマートフォンなど れより少 し上に位 置 し 携 帯 電 話 部 門でブラン シア製品が下位にある。 うに韓 国 製 品 がロシア
てお り、 中 国 製 品 とロ ドになっている。このよ 韓 国 のコ ウォンの プ 人の生 活のさま ざまな レーヤーな ど高価格帯 場面に登場している。 に属 する製 品は音 楽 プ ドになっており、サムス
ノーベル賞学者交え
生化学 熱く語る
めている。 中 間 価 格 帯
が 発 展 し、 品 質 を 高 自 然 科 学 分 野で最 大の
回 会 議 が 開 か れ た。
学連合︵FEBS︶の第
市 場では中 国メーカー
後7 ∼
年で、ロシア
ター ゲット なのだ。 今
でF E B S 会 議 があっ
1 9 8 4 年にモスクワ
た 会 議 は 2 度 目 で、
ロシ アで のこ う し
2 0 0 4 年、 ウラジー 生 化学者たちは、 将 来
ン﹂ を 高 く 評 価 し た。 を 中 心 と す るロシアの
7 月、 サ ンクト ペテ ﹁ ス ク ラ チョフ の イ オ ミ ル・ ス ク ラ チョフ 氏
の韓 国 ブランドは、 正
国際フォーラムの一つで
ルブルクで、 欧 州 生 化
に中 国 企 業が進もうと ある。
その半 面、 中 国 企 業
レー ヤ ー 部 門でブラン 中価格帯での争い
している 道の先 にある
が韓 国の座 を 奪いかね
た。 その後に生 物 学の革
ない勢いなのだ。
命 的 な 進 展 が 相 次い だ。 研 究 室では哺 乳 類 のクローン化に着 手し、 研 究 者 らは幹 細 胞の移 植 を 習 得 し、 ヒト ゲノ ロシアの科 学 は 過 去
ムを解読した。 年 間、 研 究の最 前 線 か ら 後 れを とった。 窮 状 打 破 は 容 易ではな かったが、近年、ロシア を手に入れた。
の生 物 学 者た ちは成 功 国 際 学 界 はロシ ア
大震災で本社工場失ったが
の 生 物 学 プロジェク ト
会議に出席した著名な科学 者たち =スコルコボ基金提供
学生交換 年
東海大の対露交流 今 年8 月 末に東 海 大 学の教 職 員から なる代表団がモスクワを訪れる。 東海大学とモスクワ大学付属アジア・ アフリカ諸 国 大 学が学 生 交 換に関 する 協定を結んでから今年で 年になる。 今 回の訪 露には、 協 定を更 新し、 露 日 両 国の学 生に対して、 自 分の研 究 対 象である 国で研 究に従 事 するユニー ク な機 会を提 供 するほかに重 要な目 的が ある。モスクワ大 学 物 理 学 部との新 た な協定に調印することだ。
モスクワ大物理学部と新協定 この新 協 定 締 結の話 し合いは、 物 理 学 部 長のニコライ・スイソエフ教 授 が、
ベル賞 受 賞 者 が勢 ぞろ
れる化合物﹁SkQ 1﹂ い し た。 欧 米、 中 国、
の老 化 防 止 薬とみなさ
ルキ ヤノフ氏 は 細 胞 レ
勢で 精 彩 を 放ったのは
会 議 に お いてロシア
参加した。
日 本から3 0 0 0 人が
ベルでの生 き た 微 生 物
イノベーション・センター
生物学者のセルゲイ・
を合成した。
の研 究 を 可 能にする蛍
同 センターは、 幹 細
光たんぱく質の製 造 技 ﹁スコルコボ﹂だった。
胞、バイオメディカルの
術を開発した。
遺伝生物学研究所は
細 胞 関 連 製 品に関 する
ロシアの法 案、 が ん 対
細 胞 核へ薬 剤 を 運 ぶ 分
子 ﹁ナノト ランスポ ー
の講演会を企画した。
ター﹂ をつくり出した。 策の開 発 という テ ーマ
これは、 がん 治 療の効
ウラ ジー ミル・ ゼ リ
計 画 の成 果 について 報
マン教 授 が ヒ ト ゲノム
率を高めるものだ。
会 議は、 外 国 人 研 究
年ノーベル化 学 賞
告した。
者らの新たなプロジェク
トについても知ることの
えた。
できる格 好の機 会 を 与
しかも、 参 加 者には
受 賞 者 アダ・ヨナス氏
は﹁会議に集った学者た
シドニー・ アルトマン、 ちに共 通 したのは学 術
コーンバーグ、 ジャンマ
アダ・ヨナス、ロジャー・
ち受けている﹂と期待を
らしい未 来 が彼 らを待
し くと も、 きっと 素 晴
クルト・ビュートリッヒ、 的 好 奇 心。 道のりは険
リー・レーン、リチャー
工業 ﹁武蔵野フーズ﹂。陸前高
岩 手 県に本 社を 置 く水 産 加
身などをつくり始めた。年内に
試 験 設 置 した。 春 か ら、 切 り
ズの指導に基づく生産ラインを
地元企業と提携し、武蔵野フー
シャフキナ︼
述べた。︻ユーリヤ・メ
田 市にあった 本 社 工 場 を 東 日
く、 鮮 魚 加 工の技 術 は日 露で
よ うに生 魚 を 食べる 習 慣 は な
食 ブームが 続 く 中、 刺 し 身 や
日立建機、新工場稼働へ
ビジネス情報
日 立 建 機 は 今 秋、 ト ベ 州で中型油圧ショベルの リ 生 産 を 始 め る。 こ れ に よ り2009年に失ったロシ ア市場トップ︵ショベル分 野︶の座を取り戻せるかも しれない。この新工場は日 立 建 機 のロ シ ア 最 初 の 会 社 と な る。 稼 働 開 始 は 月の予定である。
www.roshianow.jp/43937
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三菱自が露EV市場進出
三菱自動車工業が、ロシ で電気自動車用の充電 ア ス タ ンド 設 置 な ど イ ンフ ラを整備する。ロシアの販 売総代理店﹁MMC Ru s ﹂の高井直哉社長 とロシ アの電力会社﹁ロスセチ﹂の オレグ・ブダルギン最高経 営責任者が業務提携契約 に署名した。
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アークレイが測定器出荷
医療機器メーカー﹁アー レイ﹂は7月 日、糖尿 ク 病診断のための血糖自己 測定器をロシアで生産し、 初 出 荷 し た。 生 産 は モ ス クワ市北方のドゥブナ市の 経 済 特 区 にあ る 新工 場 で 生 産 さ れ た。 今 後 も 新 し い医 療 機 器 の 生 産 を め ざ して投資する計画だ。
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考えを巡らせる中での、ロシア
以 来 訪 露 を 重 ね、 現 地 調 査
渡 航 回 数は1 年で
回を数え
る。 実際に見て感じるロシアの
はなかった。
てしまう。
どの違いで魚のうまみは失われ
日 本 製の専 用 装 置 を 使いた
先になりそうだ。
ロシ ア 事 業 の きっか け をつ
て 接 点 がで き た。 今、 岩 手で
﹁もし震 災 が起こらなかった
事 業 としては、 結 果 的にう ま
な﹂。武蔵野社長が話す事務室
年に 忘れないためだ。 ︻吉村慎司︼
は消費量が肉よりも少なくなっ
から﹁魚離れ﹂が進行。
るのに加 え、 調 理の手 間 な ど げられている。 あの時のことを
で食 品 市 場 全 体 が 縮 小 してい らけになった旧工場の写真が掲
況にある。 人 口減 少 と 高 齢 化 には、 地 震 と 津 波でが れ き だ
足 元の日 本 市 場 は 厳 しい状
性を考えられる﹂︵武蔵野社長︶ く回り出しているんじゃないか
ビジネスとしてさまざまな可能
日本より高い。 利幅が大きく、 た。 2 年 前 は 大 変 だった が、
店 頭 や レス ト ランでの価 格 は シアと仕事をすることもなかっ
値は日本よりずっと安い。だが、 ら北海道に来ることもなく、ロ
はり 原 産 地 だか ら 魚 介 類の元
国という認識は持っていた。 ﹁や 工場を建設中だ。
ロシアは漁業資源に恵まれた は復興支援の公的資金を得て、
好感触を得た。
魚 料 理などをじっくり観 察し、 後に工 場 を 札 幌に移 して初 め
価 格、 街の飲 食 店で出てくる くった 北 海 道 銀 行 とは、 震 災
港の様子や、市場での魚介類の
会 う だ けでな く、 街に出て漁
だった。ロシアの水 産 関 係 者に 業がスタートするのはもう少し
ストクでのビジネス視察ツアー ばならない。 思い描く形での事
海 道 銀 行 が 開 催 した ウラジオ 携 先 工 場 と条 件 を 詰 めなけれ
訪 れたのは2 0 1 2 年 夏、 北 いところ だ が、 設 備 投 資 は 提
武蔵野社長が初めてロシアを
いたが、ロシアとの直接の取引
るなど国際ビジネスを展開して 冷 凍 も解 凍 も、 温 度 や時 間 な
構 えて冷 凍 品 を 世 界に輸 出 す 解凍技術が未発達であること。
同社は以前にもタイに工場を 水 産 加 工 業の問 題 点 は 冷 凍・
気込む。
チャンスはたくさんある﹂ と意
を持った日 本 企 業が入っていく と パー ト ナ ー 探 し を 続 け た。
るようになる。一歩進んだ技術
きくなり、味の良さも求められ との出会いだった。
鮮魚マーケットは今 後もっと大
武蔵野和三社長は﹁ロシアの てしまった。 外 国 展 開について
人のノー
ド・ロバーツ、 利 根 川
進の各 氏 ら
本 大 震 災で失いな が らも、 北
も、モスクワなど大市場に向け
極東で事業展開
海 道に拠 点 を 移 して事 業 再 建
ロシアでは一般 的には日 本の
た本格出荷を始めたい考えだ。
人。この企 業 が 今 春から、ロシア極東でのビジネ
業 員は約
に取 り 組 んでいる 企 業 だ。 従
スに乗り出した。
鮮 魚 料 理 を 好 むロシア人 は 急
10
はロシアのほぼ全家庭にあると言える﹂とグレ ブ・イワシェンツォフ元駐韓大使は話す。 韓国 車 もロシアでは 売 上 高 3、4 位 を 占 める 人 気 ︻ビクトル・クジミン︼
だ。 韓 国 企 業は今 後、 中 国というライバルと 競うことになる。
た。 その後、 店 頭にサ
さらに上を目指す イメージが一変 ロシアで 韓 国 ブラン ムスンの商 品 が現 れL x のセルゲイ・コフジャ ドに対するイメージは、 G も出てきた。 最 初は コフ氏は﹁韓 国の自 動 昔 か らロシアで人 気 が 韓 国 製 品 に 皆 懐 疑 的 車 は も は やヨ ーロッパ
さんはそう回想する。
高級車市場にも参入へ
年で大 きく変 化 知る実 業 家のセルゲイ 鼓判を押す。
あった わ け で は な く、 だった﹂。当時の状況を 車に劣っていない﹂と太 ここ した。 ﹁ 韓 国 製 と い え ば、 韓 国は高 級 車 市 場に
現在は状況が全く違 参 入しようと努 力して
億 ㌦ が収 めら
ビジネス・ 技 術・ 文 化・スポーツを接 点に日 露 関 係 を 話 し 合った日 露フォー ラム︵毎日新聞とロシースカヤ・ガゼー タ紙が共催︶に出席するために東京を訪 れた今年2月に始まっていた。 モスクワ大 学 物 理 学 部は、 既に、 東 北大学、 豊橋技術科学大学などの日本 の大学との提携の経験を有している。 東 海 大 学との新 協 定は、 研 究 者の交 換 だけでなく、一連のプロジェクトでの 協 力を見 込んでおり、 両 国の科 学の発
09
38
展に寄与すると期待される。
カ レイ といった 水 産 品 の 加 工
増中だ。
ロシアで手がけるのは、サケ、 大 きな 差 が ある。 しかし日 本 だ。 今年に入ってウラジオスト
ロシア生化学・分子生物学者協 会会長、FEBS 組織委員会議長
昔は格安が売りだった。 電子機器も勢い増す
トフォーム﹁オルラン﹂ 予 算に
数字あれこれ
10
科学についてはこちらで
ロシアで国際会議
クとカムチャツカでそれぞれの
11
アレクサンドル・ ガビーボフ氏
活発な宣伝を行 った結
と指摘した。
さ ら に ホ ロ シ ャ ビ と結んだビデオ会 議を れた点を指摘した。 今 後 の 方 針 について オルランの施設から、 セ チン社 長 はロス ネフ
ン 知 事 は 連 邦 特 定 目 行った。 的 プログラム﹁ クリル
︵千島︶ ﹂ の 期 限 を 当 ロス ネフチのセ チン社 チが5 年 間で約1 兆 ㍔ 初 の 2 0 1 5 年 か ら 長 とエクソンモ ー ビル ︵約3兆円︶を東シベリ るよ うプーチン大 統 領 天 然 ガ ス 工 場 建 設 の る 用 意 があることを 明
ロシアと韓国の今年 韓国の貿易額にロシ 第 1 四半期貿易額。 アが占める順位。
www.roshianow.jp/science
一言
果、 ブランドの地 位 を う。 韓 国メーカーは日 いる。 キ アは クオ リス 築いた﹂。国際金融ホー 独 米 の企 業 と 競 争 し、 を、ヒュンダイはエクウ ロシアの高 級 車 市 場
ルディング、フィボ・グ 電 化 製 品 な どの一部の スを売り出した。
中国が追 い 上 げ
ループの上級ア ナリス 部 門ではるかにリード ト、 アナト ー リ・ ボロ ニン氏の指摘だ。 ソ連 時 代 末 期には韓 国 ブランドはあまり評 価 されてお ら ず、一部 し ている。 コ ン ピュー では、 ド イツのメル セ のマニアが知っている程 ター市 場でも韓 国 勢は デ ス ベンツ、 B M W、 度だった。 アウ ディ、 日 本 のレ ク 勢 い を 増 し 、 ソ ニ ー を ロ シアの会 社は、 日 追いやった。 サスが確 固たる地 位を 本、 ドイツ、 アメリ カ ま た 他 の 部 門 で も、 確 立 しているため、 参 などの製品調達を目指 保 証 サ ー ビ ス の パッ 入は容易ではない。 した。 当 時、これらは ビジネス戦 争の第 2 ケ ー ジ 拡 大 な ど で 販 売 憧れのブランドだった。 を伸ばしている。 弾 が 始 ま りつつ あ る。 好きなだけお金を使 韓 国 企 業 はかつての日
建設する計画。
の早 期 化を大 統 領に要 結ぶ5 43 ㌔の鉄道を 2025 年まで延長す のダフィン社 長 が 液 化 ア・ 極 東 発 展に投 資 す プーチン大統領は﹁サ 請した。
セチン社長は﹁サハリ 軍 管 区の大 規 模 演 習を 送発展戦略に盛り込ま 継 輸 送を可 能にするう く くる ものだった。 会 ン1﹂ プロジェクトの収 視 察 するため東 部 軍 管
州のホロシャビン知 事、 この分 野に力 を 注 ぐ必 展 戦 略とロシア鉄 道 輸 で欧 州と日 本を結ぶ中 のサハリン訪 問 を 締 め 連 邦 省 庁 の 幹 部、 、 ロ 要性を強調した。
︻タス通信︼
16
10
﹁ソニーのトリニトロ ン・ テレビや日 立のビ えない国 民 が大 部 分で 本 企 業 の 状 況 に 置 か デオ プレー ヤ ー を 持っ あるロシアでは 依 然 と れ、 中 国のメー カーに
日、 サハ
80
スネフチ、ロシア鉄道、 ホロシャビン知事はサ れている。ハバロフスク え、 試 算では203 0 議 に 先 立 ち、 大 統 領 益 性 の 高 さ を 強 調 し、 区の第247 異種間演 ガ ス プロム、 アエロフ ハリン・ 大 陸 間 横 断 鉄 地 方のセ リヒノ町 とサ 年までに貨 物 輸 送 量が はサハリン大 陸 棚で活 事業開始の2005 年 習場﹁ツゴル﹂を訪れた。 ロートなどの国 営 企 業 道 橋 プロジェクト 実 現 ハリ ン 州 のヌィシ 村 を 3000 万㌧を上回る 動 する海 洋 採 掘 プラッ からこれまでにロシアの
「ロシアでの水産事業は日本企業にとってチャンス」 と語る武蔵野和三社長
11 位 55 億㌦ 2.7%
30
40
40
ている 人 は お 金 持 ち。 して技 術 的 優 位 性より 圧迫されているのだ。 自 分 た ちも持 ちたかっ も製品価格が重要だ。 韓 国 製 品のほとん ど
統 領は7 月
ロシアの プー チ ン大 代表が参加した。
サハリン知事が建設要望
大陸と結ぶ横断橋
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ロシアの貿易額に占 める韓国の割合。
25
共同活動計画︵投資額 らかにした。 ホロシャビ ン 知 事 は に要請した。 同 プ ロ ジェ ク ト は リン訪問中に地域発展 ハリンは世界レベルのエ 会 議 を 終 えた プーチ 地 域 発 展 に 関 す る 150億㌦︶について大 に関 する会 議を開 催し ネルギー 産 業の中 心に 20 25 年までの極 東 将来的にこのプロジェク ン大 統 領は中 部・ 東 部 た。 会 議にはサハリン なった﹂と述べ、今後も ザバイカル社 会 経 済 発 トはシベリア鉄 道 経 由 会 議はプーチン大 統 領 統領に伝えた。
16
「武蔵野フーズ」被災にくじけず
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コンピュータ市場でも韓国 勢は勢いを増し、ソニーを追 いやった。「韓国の成功の秘 訣(ひけつ)はマーケティング に多額の資金を投入し、製品 ラインと顧客サービスの幅を 最大限に拡大すること」 とグレ ブ・イワシェンツォフ元駐韓 大使は説明する。以前は日 本と米国が主なイノベーター だったが、現在は携帯電話 やテレビの技術に韓国の 影 響が垣間見えるという。
「今後のロシアの科学の担 い手は今回の会議参加者の中 に大勢いる若者たちです。彼 らにとって、自分をアピールし、 自身の研究の将来性を評価し、 そうしたレベルでの発表を初 めて経験する機会は、このうえ なく貴重です」
06
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マーケティングを重視
総合 2 2013年(平成25年)8月8日(木)
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も、 最 後の皇帝の歴 史 的 評
ライ2世一家。95 年後の今
ロシアの政治状況によって評
価は固まっていない。ソ連・ 価も否 定 的、 肯 定 的の間で 揺れ動いている。
短信 航空
スホイ・スーパージェット100 新潟空港に初の乗り入れ
ロシア製のスホイ・スーパージェット 100 が 7月 30 日、初めて新潟空港に乗り入れた。日 本乗り入れは関西空港に次いで 2 番目。チャー ター便運航会社のヤクーツク航空に所属する同 機は 8 月 3 ∼ 13 日に、新潟―ハバロフスク間 と新潟―ウラジオストク間で 9 便運航する。同 機は既に 10 機製造され、今年度中には計 26 機が製造される予定である。【タス通信】
ビジネス
モスクワ音楽院で学んだ 3 人の日本人ピア ニストが ラフマニノフの作品だけを集めたコン サート を8月 24 日、東京・神楽坂の The GLEE ホールで開催する。3人は手嶋沙織さん、秋 場敬浩(たかひろ)さん、加瀬茉理枝さん。モス クワでロシア音楽演奏法の薫陶を受けた。 手 嶋さんは「生誕 140 年記念の演奏会をうれしく 思っている」 と語っている。【ロシアの声】
「ロシアNOW」 電子版でお勧め
渋滞に対抗、自転車ブーム
宇宙基地を新たに
文化
交通渋滞で悪名高いモスクワ。公共 交通機関も常に定員オーバー。というこ とで、多くの人が自転車をこぎ出した= 写真。モスクワ市当局もサイクリングを 支援しており、レンタル・ステーション が 30 か所ほど設置された。市内には自 転車レーンも現れ始めた。市の計画で は総延長を 130㌔まで拡充するという。
﹁プロトン﹂ 打ち上げに
アリョーナ・チェンドラー撮影
対 応できる基 地はカザ モスクワのプーシキ フ ス タ ン︵バイコヌール 美術館から珠玉のフ ン 基地︶ にしかない。 ランス絵画が来日中。 一方 で、 カ ザ フス タ 7月6日 土 ( )9月 イ宇宙基地は活動を始 ンからは毎 年の租 借 料 ロシア極 東で中 国 と スタンとの関係だ。 日 ︵月・祝︶ 宇 宙 基 地の敷 地には めた。 横浜美術館 の国 境 近 くに建 設され 1億1500万㌦︵約 9 月 日 土 ( ∼ ) 月 ている ボスト チヌイ 宇 かつて﹁サタナ﹂と﹁トー 1 1 5 億 円 ︶ に加 え、 8日 ︵日︶ 宙 基 地 が 話 題になって ポリ﹂のミサイル師団が ボストチヌイ基地 事 故 や汚 染 があった 場 神戸市立博物館 この施 設は大 統 領 令 合に多 額の罰 金を徴 収 いる。7月2日のロケッ あった。 1996年に ト﹁プロトンM﹂爆発落 解散し、 軍事用から宇 に よって 2 0 0 7 年、 される。ロシアはバイコ
プーシキン美術館展
パナソニックが単独ブランド店展開
で起きているのだ。 その動きは不祥事を起こしたボリショイ劇場に限ら
アム事 業という保 守 的 向 するオ デッサ文 学 博
味する。
コフスキ ー 博 物 館で勤 術 館の閉 鎖 性に風 穴を
の理由はそれぞれだが、 閉鎖的で人事の独自性が濃かった文化施設の分
任 者と全く異なる芸 術 センター﹂のためのロシ と語る人もいる。 一連のトップ交 代は、
ロシャク氏︵ ︶は前 務 し、﹁ モ ス ク ワ 芸 術 開ける効 果をもたらす
野への国の影響力が強まることも予想される。 ︻ヤン・シェンクマン︼
いた。 文 学 者である同 を開催した。 最近は博 ロシアの国 家 と 文 化 界
術 館︶の館 長を務めた ク氏が新 館 長に就 任し 界の代 表 とみな されて ア・ アバンギャル ド 展
半 世 紀 余りプーシキ イリー ナ・ アントノワ た。
閉鎖性打破の効果も
もっと読む
と受け止められている。
多 くのロシア 国 民 は 氏 は 文 学 プロジェク ト 覧センター﹁マネージ﹂ の関 係に一石 を 投 じ た
日、マリーナ・ロシャ これを単なる人 事 異 動 や前 衛 芸 術に関 連した 館長を務めていた。
ン美術館︵A・S・プー 氏︵ ︶が退任し、7月 シキン名称国立造形美
ロシャク 氏 の 起 用 は 美 術 館の問 題としては 社会的反響を呼び起こ した。この分 野にお け
ロシアのシルアノフ財 関 連 施 設への賃 貸 料 支 採 算 が 取 れる プロジェ
務相は7 月末、 ポポフ 払いについて、ドルの為 クトが優 先 されるとい
キン連邦宇宙局︵ロスコ 替レートを見 直したた うことで、 衛 星 測 位シ
宇 宙になると金の勘 定
新 宇 宙 基 地 プロジェ
地域活性化
クトには地 域 活 性 化と
をつくる 過 程で高い技
いう目 的がある。 基 地
能を持つ専 門 家が必 要
だ。 現在、3000人
が建 設に携わっている。
これが1 万5 0 0 0 人
成すれば2 万5000
まで増える予 定 だ。 完
人 がここで働 き、 周 辺
には 万人 規模の都市
も生まれる。
2 年 後にはここか ら
新型ロケット﹁ソユーズ
その3 年 後には国 際 宇
2﹂ が 打 ち 上 げ ら れ、
宙 ステ ー ションに 向 け
て乗 員 が出 発 する。モ
ジュール式ロケット﹁ア
ンガラ﹂ の発射台の準備
も同 時 進 行し
クサンドル・ペ
ている。︻ ア レ
スリャク︼
宇宙開発政策研究所
の管 理 官、 イワン・モ
﹁我 々は欲 張 りす ぎ
﹁ ソ 連 時 代 は、 こ と イセーエフ氏は言う。
スモス︶ 長 官に国 家 計 めだ﹂と説明している。 ステムが良い例だ。
画 ﹁ロシアの宇 宙 開 発
財務省がばっさり
ら。 まずは生産効率を
現 しよ うというのだか
宙 基 地、 ⋮ すべてを実
2つの方向がある。一つ た﹂ と元ソ連宇宙軍司 型 有 人 宇 宙 船、 新 宇
概 して宇 宙 開 発には を し た た めしがな かっ だ。 新 型ロケット、 新
2 0 1 3 ∼ 2 0 2 0﹂ 採算性を重視 減すると伝えた。
の予算を635 億㍔削
年度には当初
1 8 0 0 億 ㍔︵ 約
5400億円︶支出す 省はこれを
今は時代が違う。
か ら一歩 後 退に見 えよ
壮 大 なファンタ ジー
億 ㍔︵約 んど無意味な計画をぶ ギー・ルイセンコ中 将 本を投下すべきだ﹂
る は ず だ っ た。 財 務 は、 経 済 性からはほと 令 官 第1 代 理のゲオル 上げ、 技術・設備に資
年度予算にも大ナタ で大いなる 成 果の幻 想
270億円︶以上削り、 ち上げ、 打ち上げ成功 は嘆く。
年 代 初 め、ロスコスモ う が、ロシアの宇 宙 開
二つ目 は、 国 防 と 経 スは民 営 化され、 欧 米 発が開花するため必須
を作り出すことだ。
イコヌール宇 宙 基 地と 画だけだ。換言すれば、 発足させた。
レイ・キスリャコフ︼
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2面
韓国ブランドが元気 ロシアで存在感 家電・車で浸透
﹁魂は残し 現代化﹂
﹁戦争と平和﹂、﹁アンナ・カレーニナ﹂
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宇宙予算削られる
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無料でトルストイ
プーシキン美 術 館の 術 美 術 館の責 任 者とい 要 な の は 間 違 い な い。 あったら 素敵だなと思
わない。だがアバンギャ なしに新たな交 流は生 終的に、 国家文化発展
トイの作品がワンクリックで読める。名付
などで知られるロシアの文豪レフ・トルス
長に聞いた。
マリ ー ナ・ロシャク 館 う 役 職はイメー ジが合 インター ネット 美 術 館 いま す。この問 題 は 最
を 変 えながら、 アント 化大臣、大統領、首相
モスクワの国 立 トルストイ博 物 館とA B
けて﹁トルストイ全著作をワンクリック﹂。
ロ シ ャ ク 新 館 長 は ルド自 体も最 新の芸 術 まれない。 だが、 形 態 戦 略の責 任 者である文 ﹁私は特にジャン・ユ ノワ氏 が﹃源の遺伝子﹄ が解決すべきでしょう﹂
プーシキン美 術 館を半 というわけでもない。 世紀以上運営したアン
トノワ元 館 長とは異な ベー ル・マル タン氏 が と呼んだ魂を残 すこと
BYY社が伝えた。︵4面に関連記事︶ 品、 宗教・哲学論文、 社会評論、日記・
プーシキン美 術 館の
﹁横流しあり得ない﹂
書簡などが収められている。 電子化が終
のもとでは、 古い美 術
﹁ 来 館 者 に 対 して 開 と現代美術が共存し接 ﹁文化発展の責任は国﹂ 館 長 交 代 は 芸 術 界 に
了 す れば
代の人だ。
る観 点 を 持つ、 別の世 好 きで す。マルタン氏 が重要だ﹂
ロ シ ャ ク 氏 が 新 館 ショックを 与 え た。 お
巻 全 集には彼の文 学 作 放 的 で 親 し み や す く、 触しながら相 互 作 用し
トルストイの
また便 利なことは現 代 ている。 プー シキ ン美 長 に 任 命 さ れる 直 前、 かしな人 々が国の高 価
トのサイト 館 だ。 予 想 外 なことに た新西欧美術館の再建 するという うわさまで
に登録する readingtolstoy.ru
アが募集されている。希望者はプロジェク
る。電子版テキストを校正するボランティ
すでに全 著 作のスキャンが 終 わってい
から任 意のテキスト tolstoy.ru を無料で読み、ダウンロードもできる。 なポイントだ。 美 術 館 員にありがちな、 お 高 くと まった 姿 勢では だ めだ。 美 術 館はすべて の人のためにある﹂
ページ分の作 業 用テキストを与え られる。 ボランティアの作業の後、 プロの
と、 ジュ美 術 館 と プーシキ 長は毅然︵きぜん︶と答
遭 遇 するのを 恐 れる必 をめぐって、エルミター 流 れた。ロシャク新 館 要はない﹂
放棄しているのですから﹂
に賛 成 するでしょう。 彼 自 身、 著 作 権を
﹁トルストイも 無 料で作 品 を 広 めること
42
オンライン化のアイデアは文 豪の玄 孫 フョークラ・トルスタヤさん ︵ ︶ の発案だ。
で ト ルス ト イ 博 物 館 発 展 部 長 を 務 める
編集者が校正する。
家 だ。 ル ネッサンスや 過 激な変 化を起こそう 館 長は印 象 派のコレク 利用して、 価値ある所
﹁予想外を恐れず﹂
ロシャク新館長
の美 術 館にとても重 要 術 館は応 用のきく美 術 19 48 年に閉 鎖され な芸術的財産を横流し
90 ロシャク氏はロシア・ ロシャク氏 は 現 代 的 ン美 術 館の間に論 争 が えた。 アバンギャル ドの専 門 視 点 を 持って い る が、 生 じた。 アントノワ前 ﹁ 誰 か が 国 の 資 産 を ションの一部 を 新 西 欧 蔵品を横流しするなん ﹁ 私 は 展 示 や 美 術 の 美 術 館に所 蔵してはど てばか げていま す。 美
世 紀 絵 画の特 別コレ とはしていない。 クションを 所 蔵 する 学
紹 介に柔 軟でした。 ま う か と 提 案 し た の だ。 術館館長として心配し
パリ・モスクワ展 この展覧会はソ連 に自由の息吹をもたら した。人々はフランス 美術よりもむしろ、マ レービッチ、カンディ ンスキー、シャガール など見たことのないロ シア美術のために足 を運んだ。
もっと読む
2010 年
申し上 げる。 そのよ う ﹁このような美術館が なことは起きません﹂
1981 年
www.roshianow.jp/ uchuu
58
ずは何よりも、 保 管レ ロシャク新 館 長の立 場 ている 人 々 にはっき り 作成など、 現代化が必
モナ・リザ展 ルーブル美術館か ら「モナ・リザ」をソ 連に搬送するために、 特殊な防弾ケースを 制作した。
10
﹁ ︵ カ ザフスタンの︶ バ 済の必 要 性に応 える計 と 共 同 プロジェクト を の条件である。︻アンド
その理 由を財 務 省は
を振るう。
90
20
ピカソ展 この展覧会はソ連 崩壊後のプーシキン 美術館における最初 の大規模企画となり、 3カ月の開催期間に 23 万 6000 人が訪れ た。プーシキン美術 館に行くのが市民の 「エチケット」になっ たのはこの展覧会の 後からだ。
ベルや電 子 カタ ログの はやや慎重だ。
1974 年
ロケットエンジン組立工場=ロシア通信撮影
と みていない。 そ れは 展示を手がけてきた。 る国の影 響 力の強 化を 下 事 故と、ロシアが租 宙ロケットに転 用 され 大 規 模 なボストチヌイ ヌール市にも支 払い義 アバンギャル ド を 志 指摘する意見がある。 借 中のバイコヌール宇 た﹁スタルト﹂が配置さ 宇 宙 基 地 に 指 定 さ れ 務がある。 資 金 問 題は 近 代 化の波 が ミュー ジ それは 同 時に、 アカ 宙 基 地をめぐるカザフ れ、 小さなスボボドヌ た。 有人飛行や重量級 悩みの種だ。
プーシキン美術館も
トップ交代相次ぐ
リンブルクで銃殺されたニコ
ロシアの文化施設に新たな動きが出ている。 館長の世代交代が相次い
モスクワ音楽院の日本人3人 東京でラフマニノフを演奏 90
91
読者の皆様、「ロシアNOW」 へようこそ。 「ロシアNOW」はロシアを紹介する日本語版で、毎日新聞の折り込みです 。1月, 4月,7月,10 月を除く毎月第2木曜日に発行されます。「ロシアNOW」チームの 目標はロシア発の興味ある記事をお届けし、ロシア理解の一助になることにあります。 2007 年以来、ロシア最大の日刊紙ロシースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)は世界の 主要新聞に折り込まれる月刊付録を制作してきました。ロシアは現在、政治から文化 に至るまで変化の過程にあります。日本語版ウェブサイト roshianow.jp は追加の記事 や多様なコンテンツが毎日更新されます。ご意見・ご感想をお待ちしております。
ロシア革命の翌年、エカテ
分 野に及 ん だことを 意 物 館 やモス クワのマヤ デミズムを盾にした美
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最後の皇帝ニコライ2世 定まらない歴史的評価
ず、工 科 博 物 館、ロシア国 立サーカス、ロシア芸 術 研 究 大 学に続いて、
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オピ ニ オン ( 5 面 ) 10
トゥイシレル回顧展 トゥイシレルは社会 主義リアリズムにくみ しなかった。そのた め当局は批判的だっ たが、アントノワ前館 長はソ連最初の大規 模な回顧展を開催し た。
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プーシキン美術館の内装 ︵2階︶=ロシア通信撮影
1966 年
ロシア情報をお届けします
パナソニックはロシアで単独ブランドの小売り を重点的に進めることになった。ベドモスチ紙 が伝えた。パナソニック・ロシアの鈴木茂雄最 高責任者が明らかにしたところによると、パナソ ニック・ブランドの店がロシアの 100 万人都市 で 20 店舗以上開店する予定であるという。シ ベリア中部のノボシビルスク市でも新しい単独 ブランド店がオープンする。ここでは約 450 種 類の製品が販売される。【ガゼータ・ルー】
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コサックとは 「自由人」 東方進出の先兵 6面
現在日本で絵画展が開催中のプーシキン美術館にも及んだ。トップ交代
文化施設
ダリア・ゴンサレズ撮影
7面
4面
ロシア人の読書傾向 電子書籍になびく オンライン販売増 19
半世紀の主な展示
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ロシア NOW 2013年(平成25年)8月8日(木)
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2013年 (平成25年) 8月8日 (木曜日)
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カリーニン グラード
バ ルト海 に 臨 む ロ シア の 飛 び 地 カ リーニングラードは 哲学者カントが生ま れ育った地。ドイツ の香りが残り、多様 な 文 化 の 十 字 路と して知られている。